心霊スポットを探索する際は、所定の手続きを踏み、安全最優先で行動してほしい。

まず、夜間に探索する場合は必ず下見を行うこと。明るい時間にルート、周辺の状況、危険の有無をしっかり確認しておきたい。

次に、携行品を漏れなく準備すること。懐中電灯、歩きやすい靴、虫よけスプレー、除霊スプレー(?)など、怨霊の攻撃を受けても対処できるようにしておきたい。

最後に、「いつ死んでもOK」という心積もりでいてほしい。危険なスポットほど事故や怨霊の呪い攻撃で命を落とす可能性が高い。必ず遺書を書き、自分がこれから行く場所を家族や友人などに伝え、万一に備えてほしい。

今回は宮若市他、5市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.宮若市
   ・馬口の滝
   ・甚内公園
 2.直方市
   ・鷹取山城跡
   ・河川敷公園
 3.みやま市
   ・名木野古墳群
   ・七霊の滝
 4.柳川市
   ・龍宮神社
   ・百八人塚
 5.大牟田市
   ・三池陣屋の眼鏡橋
   ・吉ヶ谷第一堤
 6.三潴郡
   ・蛭池の石祠
   ・木佐木変電所

まとめ

スポンサーリンク

宮若市目次に戻る

馬口の滝

宮若市西部、犬鳴山系”西山”の麓に位置する『馬口(ばこう)の滝』は、知る人ぞ知るキャンプ場こと「馬口キャンプ場」の近くに形成された滝である。

なお、滝の高さは18mほどで、水量も決して多くない。しかし、美しい自然の中で人知れず流れ続けるその姿が噂を呼び、「マイナスイオンの宝庫」と呼ばれるようになったらしい。

馬口の滝およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は「串刺し遺体が放置されていた」「雑木林の奥から悲鳴が聞こえた」など。

宮若市で生まれ育ち、九州各地の遺構や伝承を調査するH氏にお話を伺った。曰わく、「西山の麓には平家一族の末裔たちの集落があったと言い伝えられている。そこの住人たちは働き者ばかりで、宗像郡イチ裕福な村と噂されていた」という。

1828年、北九州地方を襲った巨大台風は数千人の命を奪い、稲や農作物に甚大を被害を与えた。

特に農村部の被害は深刻で、その年の石高は例年の10分の1以下にまで減少。米だけでなく野菜などの農作物も水に浸かり、ほとんで収穫できなかった。

西山の麓に位置する「牧多(まきだ)集落」は、土地の傾斜と水はけのよい段々畑、そして、周囲を覆う木々のおかげで台風および水害とは無縁の土地と言われていた。

牧多集落では、育てやすいサツマイモなどの野菜類栽培に力を入れており、農家の収入は安定していた。さらに、他国との交易で得た品を売る裕福な商家が村の発展に大きく貢献した。

彼らは私財を投じて水路や貯水池などの整備に尽力し、農民たちを全力でバックアップした。結果、集落は他の村とは比べ物にならないほど発展したのである。

一方、他の村および繁華街の住人たちは、巨大台風の影響をモロに受け、半死半生状態だった。稲と農作物はことごとく枯れ、今日食べる食料の確保もままならない。

牧多集落の発展と充実した生活を見た他の村の住人たちは、ただただうらやみ、そして憎んだ。

ある日、ナタや斧で武装した男たち、計30名が牧多集落を襲撃した。彼らは裕福な商家や農民から食料を奪いとり、辱めるつもりだった。

これに対し、牧多集落の住人たちは全く慌てるそぶりを見せなかった。それどころか、食料を分け与えるつもりだったようである。

男たちはプライドを傷つけられ、「施し」ではなく命をよこせと叫び、住人たちに襲いかかった。が、攻撃を仕掛けるべきではなかった。

住人の中に紛れていた屈強な大男たちは、ナタや斧を軽々と打ち払い、恥知らずの男たちをひとり残らず叩き伏せてしまった。

村長および裕福な商家たちは、涼しい顔で大男たちの暴れっぷりを観賞。半殺し状態で捕縛された恥知らずの容疑者たちに死刑を宣告した。

牧多集落の住人たちは、馬口の滝近くに容疑者30名を移送。屈強な大男たちの豪快な殺戮ショーを観賞した。

大男たちは、泣き叫ぶ容疑者の肛門から口に向けて杭を打ち込み、その状態で火刑に処した。そして、焼き上がった肉と内臓を他の容疑者に喰わせたのである。

結局、30名はひとり残らず解体され。遺体は馬口の滝近くの穴に遺棄、野生動物のエサになった。以来、同地では霊の目撃情報が相次ぐようになったという。

まとめ
牧多集落の住人たちは平家一族の末裔と噂されたが、それを証明する手立てはなかった

馬口の滝で処刑された男たちは怨霊になり、同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット馬口の滝
(ばこうのたき)
所在地〒822-0153
福岡県宮若市山口
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約50分
【高速】福岡空港から約50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間
【高速】博多駅から約45分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト宮若ナビ
この投稿をInstagramで見る

福岡県宮若市 馬口の滝 観自在寺裏手にあるよ。滝修行をする場所でもある滝だよ。 煩悩は滝行では消えんと思うよ。 昔からある修験道寺で、昔は周りに沢山の坊があったんだ。 滝の手前の迄、車で行けるけど、おすすめはしないよ。 美しい滝と言われていたけれど、近年の豪雨災害で崩れてしまっているんだ。 でも、とても水が冷たくて綺麗だったよ。 小夏さんは、初めての水遊びだったけれど、楽しそうで良かった。 まさかここまで土石流が流れているとは思わなかったよ。 自然の猛威って凄いね。 ちなみに圏外なので、助けを呼ぶときはふもと迄走った方が早いよ。 #宮若市観光 #馬口の滝#小夏さん#旅犬#ワンコの水遊び#保護犬から#dogtraveling

ラブ柴犬 purin(@purin_no_odekake)がシェアした投稿 -

甚内公園

犬鳴山系”西山”の麓に端を発する一級河川「犬鳴川」周辺では、豪族たちの血で血を洗う領土争いが何度も繰り広げられた、と言い伝えられている。

ここで紹介する『甚内公園』は、犬鳴川の中流域に整備された河川公園である。なお、同公園周辺で合戦が行われたという記録は残っていない。

しかし、陣内公園では昼夜を問わず霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「女性が川から這い出てきた」「広場に首を切り落とされた人間が立っていた」など。

宮若市原田地区で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継いだF氏曰わく、「犬鳴川沿いには開けた土地が多く、数千名規模の軍がぶつかる大規模な合戦に向いていた。しかし、江戸時代以降は田畑や集落が整備され、戦国時代以前の記録はほとんど忘れ去られてしまった」という。

1783年、東北地方から西日本全域に広まった大飢饉は、筑前国でも猛威を振るった。福岡藩藩主の黒田氏は税を免除するなどの対応をとったが、宗像郡(宮若市含む)だけで数百から一千名近くが餓死したと言い伝えられている。

1784年、犬鳴川中流域にあった「筒浦(つづうら)村」の住人たちは、前年の大飢饉を何とか乗り切った。しかし、働き盛りの男たちが餓死し、田植えや村の復興作業は苦労の連続だったという。

厳しい状況にあった村を救ったのは若い女性たちだった。老人や子供たちでは務まらない力仕事に従事し、志半ばで亡くなった男たちのために働いたのである。

F氏の伝承資料には、「女たちは馬車馬のように働き、休む間もなく子供や家族の食事を作った。男顔負けの活躍は、住人たちに希望を与えた」と書かれていた。

ある日、筒浦村イチの働き者と言われた「クメ」という若い女性が行方不明になり、後日、犬鳴川の河川敷で遺体となって発見された。

クメは衣服を身に着けておらず、全身あざだらけだった。さらに乳房と女性器が切り取られており、見るに堪えない姿だったという。

さらに、遺体発見場所近くにあった古戦場跡の慰霊碑が粉々に破壊され、そこにクメのものと思われる内臓がぶちまけられていた。

住人たちは、河川敷にクメの墓と数百年前の合戦で死亡した兵士たちの碑を建立した。

事件から数日後、今度は若い女性が3名同時に行方をくらまし、先日建立したクメの墓の近くで遺体が発見された。

3名はやはり衣服を身に着けておらず、身体の損傷状況もクメと全く同じだった、そして、苦悶の表情を浮かべ、眼球が左右逆を向き、口は人間とは思えないほど酷くねじ曲がっていた。

先日発生したクメの事件は、役所に滞りなく報告していた。しかし、「大飢饉の後処理」の影響で調査は先送りになり、実施されるか否かも分からない。住人たちは絶望した。が、事件は思いもよらぬ形で終結する。

3名の遺体が発見された翌日、河川敷に建立した古戦場跡の碑の周囲で、20名分の遺体が発見された。

男たちの遺体は、一定間隔で配置された杭に突き刺さり、いずれも首をキレイに切り取られていた。そして頭は、碑の周囲に等間隔で置かれていたという。

住人たちは男たちの額に刻み込まれた「卍(まんじ)」マークと、その死に様に衝撃を受けた。

男たちの表情は、寸分たがわず同じだった。全員両目が左右逆を向き、口のねじれ具合も全く同じだったのである。住人たちは恐怖のあまり糞尿を垂れ流し、歯が砕けるほどアゴをガクガクさせたという。

まとめ
クメ他3名を殺したと思われる男たち、計20名の身元は判明せず

クメの墓と古戦場跡の碑は、甚内公園整備中に撤去されてしまった、と思われる

基本情報
心霊スポット甚内公園
(じんないこうえん)
所在地〒822-0112
福岡県宮若市原田1087
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】福岡空港から約55分
【高速】福岡空港から約45分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間5分
【高速】博多駅から約40分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト宮若市観光協会 公式ホームページ
画像はイメージです

直方市目次に戻る

鷹取山城跡

鷹取山城(たかとりやまじょう)跡』は、直方(のおがた)市東部、鷹取山の山頂付近に築城された山城の遺構である。

これは日本史上屈指の高所に築造された山城であり、地形を活かした曲輪と崖に囲まれた鉄壁の守りが最大の特徴だったと言い伝えられている。

1615年、鷹取山城は一国一城令により破却。その後、紆余曲折を経て、同地は怨霊の住処になったと信じられてきた。これまでに目撃された霊は、「赤子を抱いた女性が立っていた」「林道に生首が並べられていた」など。

私は某国立大学で准教授を務めるY氏に連れられ、同地の伝承を研究するT氏にお会いした。T氏曰わく、「鷹取山には、筑前国(福岡県)の隠れキリシタン関連遺構が残されている。彼らは厳しい弾圧および取り締まりから逃れるべく鷹取山の洞窟に身を潜めていたが、捕縛、処刑された」という。

1613年の禁教令発出に伴い、福岡藩藩主の黒田氏は、キリシタンへの取り締まりを強化した。なお、黒田氏自身もキリスト教を信仰するキリシタン大名だったが、徳川幕府への忠誠を誓い、棄教(ききょう)している。

福岡藩初代藩主の「黒田長政」は、「関ヶ原の戦い」で最も大きな功績を挙げた大名のひとりであり、52万石超の筑前国を与えられるほど徳川家康に信頼されていた。

1620年、黒田氏は幕府への忠誠の証として、隠れキリシタン狩りに心血を注いだ。T氏の伝承資料によると、長政は「元キリシタン大名に厳しい取り締まりはできない」と噂されたことに怒り、日本一過酷な弾圧を行うと誓ったらしい。

結果、筑前国の隠れキリシタンたちは、藩主、仏教および神道信者から追われることになった。

長政は、隠れキリシタンの居場所などを示す情報提供者に金一封。捕縛につながる超有力情報を提供すれば、その者とその者が暮らす村の税を20年免除すると発表。町や村は大騒ぎになった。

福岡藩には隠れキリシタンの関連情報が大量に集まった。黒田氏は、鷹取山の洞窟に100名超の信者が集まっている、という情報に注目した。

数か月後、長政の指示を受けた「加納氏」は、鷹取山から数キロ離れた集落跡に陣を張り、キリシタンたちの隠れ家と言われる洞窟の調査を開始した。

加納氏の兵は、隠れキリシタンの村と噂された集落も合わせて調査した。結果、通報通り100名超が集落と鷹取山を頻繁に行き来していることが分かったという。

加納氏は長政に指示された通り、ひとり残らず隠れキリシタンを捕縛。祈りの場になっていた洞窟も発見した。

長政は隠れキリシタンたちが棄教すると認め、「キリスト教関連書物にツバおよび小便をかけることができれば許せ」と加納氏に指示していた。

捕縛した隠れキリシタンの約半数が棄教を受け入れ、書物を汚した。しかし、加納氏は彼らが棄教した後も秘かに祈っていることを見逃さなかった。

加納氏は捕縛した100名をひとり残らず斬首し、身体を洞穴内に遺棄。首は鷹取山山頂への林道や麓の集落近くにさらし、「キリスト教を捨てねば、同じ目に合う」と領民に圧力をかけた。

以来、鷹取山および鷹取山城跡、そして洞窟付近では、信教の自由を奪われ憤死したキリシタンの怨霊が出ると噂になった。なお、洞窟は林道から大きく離れた崖の近くにあり、内部には風化しかけた100名超の遺骨が残されている。

まとめ
鷹取山城跡は周辺には、隠れキリシタン関連の遺構が残されている

信教の自由を奪われ斬首された者たちは、怨霊になり同地周辺を彷徨っている

基本情報
心霊スポット鷹取山城跡
(たかとりやまじょうあと)
所在地〒822-0005
福岡県直方市大字永満寺
種別戦争
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間25分
【高速】福岡空港から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト直方市観光物産振興協会 公式ホームページ
画像はイメージです

河川敷公園

一級河川「遠賀川(おんががわ)」と「彦山川(ひこさんがわ)」の分岐点付近に整備された『河川敷公園』は、直方市民の憩いの場になっている。

同園内には数万本のチューリップや桜が植えられ、誰が見ても文句なし(?)の素晴らしいスポットとして人気を集めており、「チューリップの楽園」と呼ばれるようになった。

直方市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継ぐY氏は、河川敷公園にチューリップが植えられた理由を教えてくれた。曰わく、「園内を”愛”で包み込み、死者に”許しを請う”ため」だという。

1836年、西日本全土に広がった大飢饉は、筑前国でも深刻な被害をもたらした。

遠賀川と彦山川の分岐点周辺には繁華街が形成され、数千から数万人が生活していたと言い伝えられている。その中の集落のひとつ、「桝苗(ますなえ)村」は、約50年前に発生した飢饉で住人の半数近くが餓死する、という苦い記憶を持っていた。

以来、枡苗村では「米だけでなく野菜類の生産を行う」ことが定着し、特に栽培しやすいサツマイモやジャガイモの生産量を一気に増やした。

大飢饉の影響は遠賀川の周辺流域に達し、餓死する者が続出した。この惨状を見た役人たちは出来得る限りの食料を融通したが、焼け石に水だったようである。

枡苗村の住人たちは、前回の失敗から野菜などの農作物を漬物等にしたうえで大量に保存。万一の事態に備え準備を進めていたおかげで、米がなくなっても何とか生活を成り立たせることができた。

この噂を聞いた他の集落や繁華街の住人たちは、枡苗集落を襲撃。そこに保管されていた漬物等の食料を根こそぎ奪うと同時に、住人たちをひとり残らず袋叩きにした。

数日後、枡苗村の住人計93名は、暴行の傷と飢えにより全員死亡。襲撃に参加した一部の者は、自分の行いを恥じ、役人に通報すべきと考えた。

しかし、繁華街を牛耳るリーダー格の男は、「食料を独り占めする者が悪い」と壊滅した枡苗村を嘲笑。さらに、「襲撃したことを役人に通報すれば、大切な家族や知人を失う」と仲間たちにも圧力をかけた。

数日後、遠賀川流域の飢饉はますます悪化し、餓死者の数は危機的なレベルに達した。

リーダー格の男は、壊滅した枡苗村の敷地内に遺体を集積。内臓をむしりとり、佃煮にした。「人間の内臓の佃煮」は戦国時代に島津家が採用した料理のひとつであり、飢えを防ぐための緊急措置と考えられていた。

男たちは数百名分の遺体を解体し、内臓の佃煮、塩漬けなどを販売することで大儲けした。なお、内臓を除く遺体のパーツは、枡苗村の敷地内に遺棄し続けたという。

数か月後、遠賀川と彦山川の分岐点付近に積み上がった遺体の山は、この世のものとは思えないレベルの腐乱臭を放ち、繁華街全体を汚染した。

リーダー格の男たちは、2,000体超の遺体を解体した罪に問われ、ひとり残らず斬首された。

その後、内臓の佃煮などで何とか飢えをしのいだ遠賀川流域の生存者たちは、恐ろしい現実に直面する。

藩主の黒田氏は枡苗村の住人を叩き伏せ、餓死者を放置した罰として、生存者たちに分岐点の遺体をひとつ残らず埋葬するよう命じた

遠賀川と彦山川の分岐点、現在の河川敷公園付近の伝承は後世に伝わった。そして、チューリップを植えることで「悪い記憶を少しでも和らげ」、この花の花言葉である「許しを請う」たのである。

まとめ
河川敷公園内には、2,000人以上の遺体が埋葬されている

同園で目撃された霊は、「血まみれの男が立っていた」「遠賀川から人間が這い出てきた」など

基本情報
心霊スポット河川敷公園
(かせんじきこうえん)
所在地〒822-0017
福岡県直方市殿町
種別事故戦争怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間5分
【高速】福岡空港から約55分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間15分
【高速】博多駅から約55分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト直方市 公式ホームページ

みやま市目次に戻る

名木野古墳群

みやま市の北東部、瀬高町(せたかまち)のとある一角は、「呪われた土地」と噂されてきた。しかし、その伝承を知る者はほとんどおらず、呪いに関連する事件の記憶もほぼ風化してしまったという。

ここで紹介する『名木野(なぎの)古墳群』は、呪われた土地の中心部に位置する旧石器時代の古墳群である。なお、同地が呪われた理由を記す資料は残されておらず、伝承も途絶えている。唯一、それを思い起こさせる形跡は、同古墳群を囲い込むように5つの神社と5つの寺院が建立されていることぐらいだろう。

九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏にお話を伺った。曰わく、「名木野古墳群は何らかの理由で呪われた土地(遺構)と呼ばれるようになったが、その理由・伝承は途絶えてしまった。江戸時代末期に発生した事件があまりに凄惨だったため、周辺住人たちは後世に語り継ぐべきでない、と考えたのだろう」という。

名木野古墳群は知る人ぞ知る心霊スポットと呼ばれている。これまでに目撃された霊は、「敷地内に生首が転がっていた」「男性の悲鳴が聞こえた」など。

1844年、名木野古墳群は呪われた土地と呼ばれ、そこに巣くう怨霊を抑え込むべく、周囲に5つの神社と5つの寺院を建立。それらで結界を形成したと言い伝えられていた

しかし、有ろう事か、古墳群を拠点にする賊集団が突如現れ、周辺住人に害を及ぼし始めたのである。

賊集団は30名ほどで構成され、頭領と思われる屈強な大男は「跖(せき)」と名乗った。

跖は主に筑後国内で活動。見回り中の役人を何度も襲撃し、殺害した者の頭部を役所に投げ込んだ。さらに、裕福な商人、地主なども標的になり、ひと月で50名以上が殺害されることもあった。

これに対し藩主の立花氏は、藩兵を1,000名以上投入、追跡したものの、結果は出ずじまいだったという。

ある日、名木野古墳群近くを通った集落の住人が怪しげな男女の集団を目撃し、役所に届け出た。

立花氏の家臣、跖の追跡を一任されていた「浅生田(あそうだ)氏」は現地に藩兵数十名を送り込み、隠密調査を開始した。しかし、送り込んだ兵は一人も戻らなかった。

浅生田氏の兵が行方不明になってから数日後、同地の住人が「宮地嶽(みやじだけ)神社」の境内でバラバラに切り刻まれた男たちの遺体を発見した。

役人による検分の結果、遺体は名木野古墳群および男女の集団を調査していた浅生田氏の藩兵と判明。これを受け、立花氏は増員部隊を現地に送り込んだ。

増援は浅生田氏の部隊に合流。名木野古墳群を包囲した。

部隊の半数にあたり500名は、古墳群を包囲しつつジワジワと前進。藩兵たちは火縄銃と刀で完全武装していたため、跖の敗北は確実と思われた。

S氏がある老夫婦から譲り受けた伝承資料によると、「名木野古墳群に到達した藩兵たちは、この世のものとは思えない悲鳴を上げ、周辺集落の住人を震え上がらせた」という。

悲鳴を聞いた残りの待機兵と浅生田氏は、恐る恐る古墳群に近づいた。すると、敷地内におびただしい数の生首が討ち捨てられており、跖の姿はどこにもなかった。

発見された500個の生首は先発隊のものと確認され、浅生田氏は軍の完全撤退および本国への帰還を指示。その後も跖の捜索は難航を極め、500名が切り殺された事件は闇に葬られた。

まとめ
名木野古墳群は知る人ぞ知る心霊スポット。呪われた土地と呼ばれていたが、その理由を知る者は恐らくいない

立花氏の藩兵、500名超を殺した容疑者は特定されず、事件は闇に葬られた

基本情報
心霊スポット名木野古墳群
(なぎのこふんぐん)
所在地〒835-0002
福岡県みやま市瀬高町小田
種別事故
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間45分
【高速】福岡空港から約50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間55分
【高速】博多駅から約55分

※クリックでGoogle map起動
関連サイトぶらぶらみやま
画像はイメージです

七霊の滝

壇ノ浦の戦い(1185年)」で「源頼朝」率いる武士連合軍に敗れた平家一族は、山口県壇ノ浦周辺から九州の各地に分散逃亡したと言い伝えられている。

平家落ち人伝説は壇ノ浦から遠く離れた南薩摩や奄美地方でも語り継がれており、特に北九州地方、福岡県と大分県には関連遺構が数多く残されている。

ここで紹介する『七霊(ひちろう)の滝』は、福岡県を代表する平家落ち人伝説の舞台のひとつである。伝承によると、「七人の女官が滝つぼに身を投げ」、気の毒に思った者がそう名付けたそうだ。

みやま市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継いだH氏曰わく、「一級河川待居川(まついがわ)沿いで生活していたある一家は、平家の血を受け継いでいると噂され、壮絶な最期を遂げたと言い伝えられている。なお、この一家の死後、付近にあった滝は”亡霊”の滝と呼ばれるようになった」という。

七霊の滝は、一級河川「待居川」の上流域に形成された高さ数メートルの小さな滝である。

1783年、西日本全土に広がった致命的な大飢饉は、筑前国でも猛威を振るった。

待居川の上流域沿いで農業を営んでいた「久兵衛」は、農民とは思えない体躯の持ち主として知られ、かつ、働き者であった。

久兵衛は妻と6人の子供を養うべく馬車馬のように働いた。さらに、同地の藩主、有馬氏が奨励したサツマイモやジャガイモなどの野菜作りを積極的に採用し、食べるものに困ったことはほとんどなかった。

米の収穫に成功すれば、大きな収益を得られる。しかし、九兵衛は万一の事態を想定し、米より野菜作りに力を入れたのである。

同地では半年近く雨が降らず、稲はことごとく枯れた。一方、他の地域では大雨による大水害が発生していたため、人々は「なぜここだけ雨が降らないのか」と困惑し、連日神社や祠(ほこら)にお供え物をしたという。

久兵衛の田畑でも稲は全滅した。しかし、比較的乾燥に強いサツマイモやジャガイモは何とか実った。この間、九兵衛は寝る間も惜しんで待居川の水を汲み、作物に与えていたのである。

待居川流域の村では餓死する者が続出し、酷い有様だった。一方、馬車馬のように働いた九兵衛は、十分過ぎる量の野菜を確保することに成功した。

九兵衛の働きぶりと一家の生活は周辺の村や繁華街に広まり、常人離れした体躯と腕力、そして先見の明に嫉妬する者が現れ始めた。

一家の幸せそうな姿に怒りを覚えた一部の住人は、「久兵衛は平家一族の末裔。源氏の血を引く徳川幕府と、それに従う我々に恨みを抱いている。一家は待居川の水を大量に汲み出し、飢饉の拡大を狙っている」という無茶苦茶な噂を流した。

住人たちはこの噂を信じた。空腹は限界を超え、まともにものを考える余裕などなかったのだろう。

数日後、久兵衛は村長に呼び出され、「サツマイモやジャガイモの作付け方法を住人たちに指導してほしい」と依頼を受けた。

その日の夕方、久兵衛は自宅前に並べられた妻と6人の子供の生首、そして、家族を処刑した男たちと対峙した。

久兵衛は手ごろな石を使い、ナタや斧で武装した男たちの頭を叩き割った。

1人vs40人の殺し合いは熾烈を極めた。しかし、最後は村の男たちが数で勝り、久兵衛を血だるまにした。

久兵衛は両腕を切り落とされても諦めず、リーダー格の男の首に噛みつき、頸動脈を食いちぎった。が、反撃もそこまでだった。最後は全身をナタ、斧、刀で突かれ、死んだ。

以来、九兵衛の血で真っ赤に染まった滝は「亡霊の滝」と呼ばれるようになり、それではあまりに演技が悪いということで、何者かによって「七霊の滝」と名を改めたという。

まとめ
七霊の滝はかつて”亡霊の滝”と呼ばれ、怨霊になった久兵衛とその家族が出没すると噂されていた

九兵衛は大切な家族を言いがかりで殺され、怨霊になった

基本情報
心霊スポット七霊の滝
(ひちろうのたき)
所在地〒835-0114
福岡県みやま市山川町甲田1089
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間50分
【高速】福岡空港から約55分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約2時間
【高速】博多駅から約1時間

※クリックでGoogle map起動
関連サイト福岡県観光連盟 公式ホームページ

柳川市目次に戻る

龍宮神社

川下りで有名な柳川市の中央部を流れる一級河川「塩塚川(しおつかがわ)」下流域には奇怪な伝承が残っており、河川敷およびその周辺では霊が出没すると噂になっている。

同河川が蛇行している地点に建立された『龍宮神社』は、奇怪な伝承の中心地と言い伝えられており、霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「顔のない人間に追いかけられた」「遺体が山積みになっていた」など。

私は、柳川市の某所で除霊を行うことになった友人のシャーマン(鹿児島県出身)のサポートとして、龍宮神社のある大和町に乗り込んだ。

同地出身のT氏曰わく、「200年ほど前、塩塚川は巨大台風による豪雨で氾濫を起こし、数百人が溺死したと言い伝えられている。氾濫箇所は河川が何度も蛇行している地点、濁流にのみ込まれた者たちは、なぜか龍宮神社の狭い敷地に流れ着いた」という。

T氏の資料には、溺死した住人の8割以上が龍宮神社の敷地およびその周辺に流れ着き、謎の疫病の震源地(発生源)になったと書かれていた。

1828年、筑後国に巨大台風が上陸、大雨をもたらし、各地で河川の増水や氾濫が相次いだ。

塩塚川の下流域で生活していた者たちは、川幅が広く水量の少ない同河川で洪水が発生するなど夢にも思っていなかったようである。

塩塚川の下流域付近では、雨より風が強かった。しかし、上流から中流域付近では長時間まとまった雨が降り、水量は見る見るうちに増加した。

氾濫は河川が大きく蛇行している数カ所で同時多発的に発生した。濁流は町や村を飲み込み、逃げ遅れた者たちを押し流した。

数日後、内陸の高台に避難していた生存者たちは、変わり果てた町を見て愕然とした。崩壊した住居だけでなく、上流域から流れてきたと思われる材木や動物の遺体などが散乱しており、まさに惨憺(さんたん)たる状態だった。

下流域の生存者たちは、かつて村があった地点から放たれる異様な雰囲気と悪臭に気づいた。

村の住人たちから龍宮神社と呼ばれていた社の狭い敷地の中に、恐ろしい数の水死体が積み上げられていた。そして、真夏の暑さが災いし、それらは猛烈な勢いで腐り始めていたのである。

そこに水死体が集まった理由は不明。くぼ地になっているわけでもなく、濁流は塩塚川沿い全てを押し流していた。しかし、溺死した者の8割以上、約300人分の遺体が狭い範囲に積み重なっていたのである。

体内に水を貯め込んだ300人分の水死体は、真夏の直射日光と高温で蒸し焼き状態になり、一斉に腐り始めた。住人たちは限られた人数でそれを処理せねばならず、また、通路は崩壊した住居や上流域から流れてきた瓦礫などで塞がれており、活動は一向に進まなかった。

数日後、腐乱した遺体に触れた住人のひとりが謎の疫病を発症。周辺の村や繁華街でも似たような病が流行し、さらに数百人が死亡した。

その後、龍宮神社に集まった水死体がどのように処理されたかは不明である。T氏の資料によると、洪水以降、同社では1年に1回必ず除霊を行うようになったという。そして、その伝承は現在も秘かに受け継がれている。

まとめ
龍宮神社に水死体が集まった理由および、謎の疫病の正体は不明である

洪水以降、住人たちは龍宮神社を恐れるようになり、霊の噂が流れ始めた

基本情報
心霊スポット龍宮神社
(りゅうぐうじんじゃ)
所在地〒839-0251
福岡県柳川市大和町明野
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間40分
【高速】福岡空港から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間50分
【高速】博多駅から約1時間10分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト柳川市観光協会 公式ホームページ
画像はイメージです

百八人塚

柳川市大和町の住宅街の片隅に『百八人塚』という史跡がある。これはその名の通り、108人の遺体を供養した塚(墓)で、戦国時代末期頃に建立されたと言い伝えられている。

ここで供養されたのは、柳川城城主の蒲池(かまち)氏という豪族と、その家族や家臣たちである。

百八人塚およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃されて霊は、「塚の周りに生首が並べられていた」「建立された地蔵が涙を流していた」など。

九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏曰わく、「百八人塚は向かいにある宗樹寺(そうじゅじ)と周辺住人から大切にされていた。掃除はもちろん、冬になると地蔵は蓑(みの)を着込み、しっかり防寒対策まで行うなど、村の大切な守り神として祀られていた」という。

1779年、筑後国柳川藩を治めていた立花氏は、領内の集落や墓地を破壊する不届きな輩たちに頭を悩ませていた。

不届き者たちの噂は、塩塚地区の「中上(なかがみ)村」にも伝わっていた。ここには、鎌倉時代以前に整備された墓所や、村の守り神と呼ばれる百八人塚があったため、墓荒らしの噂は住人の不安の種だった。

住人たちは自警団を結成し、不届き者たちの攻撃に備えた。

数日後、数百人が眠る広大な墓地を見回った住人たちは、百八人塚の様子がおかしいことに気づいた。

駆け付けると、数百年前から大切に守ってきた地蔵が足元から破壊され、風雨をしのぐ祠(ほこら)もバラバラになっていた。

住人たちは非道な行いに意気消沈し、老人の中には体調を崩し寝込んでしまう者もいたほどだった。村長は柳川藩に墓荒らしが現れたことを報告、自警団の見回り回数を増やした。

宗樹寺の僧侶たちは、住人および同地で供養された蒲池一族のために破壊された地蔵を復元。住職はわずかしかないお金で材木などの資材を購入し、祠の復元を開始した。

祠の復元が完了する直前、住人から「村内に不審な集団が侵入した」という情報がもたらされ、宗樹寺は寺と百八人塚に見回りを配置した。

不審な集団は、盗賊のような姿をした若い男たちで構成され、刀や斧で武装していた。

僧侶たちは武装した30名ほどの集団に囲まれ、ひとり残らず叩き伏せられてしまった。そして、復元した地蔵と復旧間近の祠が破壊される様子を見せつけられたのである。

翌日、百八人塚は地獄の様相を呈していた。塚を守ろうとした僧侶たちはひとり残らず斬首され、復元した地蔵と祠は跡形もなく打ち砕かれていた。

この惨状を見た住人たちは、クワやナタなどをかき集め、決死の覚悟で犯人を追いかけた。しかし、犯人を捕まえることはできず、住人たちは絶望のどん底に叩き落とされた。

1週間後、百八人塚跡の早朝清掃を行っていた老夫婦がとんでもないものを発見した。

そこにあったのは、キレイに復元された地蔵と祠だった。そして塚の東、荒れ地の中に男たちの串刺し遺体がさらされていたのである。

男たちは、長さ20mほどの巨大な杭を肛門から口に向けて打ち込まれ、地面に突き立てられていた。その数何と35本、35体の串刺し遺体が地上20m地点で朝日に照らされる様子を見た住人たちは「鬼の仕業」と恐れ、遺体が跡形もなく朽ち果てるまで、杭には一切近づかなかったという。

まとめ
百八人塚は一度粉々に破壊され、その後、何者かによって復元されたと言い伝えられている

僧侶を殺した若い男たちと、串刺しになった男たちが同一人物か否かは不明

基本情報
心霊スポット百八人塚
(ひゃくはちにんづか)
所在地〒839-0243
福岡県柳川市大和町塩塚
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間40分
【高速】福岡空港から約1時間

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間50分
【高速】博多駅から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト柳川市 公式ホームページ
画像はイメージです

大牟田市目次に戻る

三池陣屋の眼鏡橋

大牟田市は、福岡県最南端、熊本県との県境に位置し、ユネスコ世界文化遺産に登録された「三井三池炭鉱」で有名な街である。

ここで紹介する『三池陣屋(みいけじんや)の眼鏡橋』は、世界に誇る文化遺産とまではいかないものの、100年以上の歴史を誇る石橋として現在も市民に愛されている。架橋されたのは1852年。補修と補強工事を繰り返し、普通に車両も通行できるというから驚きである。

同眼鏡橋およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「河川内に遺体が浮かんでいた」「橋の中央部に血だらけの女性が立っていた」など。

大牟田市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継ぐF氏にお話を伺った。F氏は、「眼鏡橋が架橋された堂面川(どうめんがわ)は、200年以上前の大災害に関連する事故以来、霊の住処になったと言い伝えられている。結果、そこに架橋された眼鏡橋上でも霊が目撃されるようになった」と述べた。

1792年、島原半島の中央部に位置する雲仙普賢岳で大規模な噴火およびそれに伴う山体崩壊が発生した。

島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」と呼ばれる破局的な山体崩壊により、数億立方メートルの土砂が普賢岳の東、有明海方向に向かって流れ込み、数千~数万人が犠牲になった。さらに、有明海を挟んで対岸に位置する肥後および筑後国南部でも甚大な被害が発生した。

筑後国南部を治めていた柳川藩藩主の立花氏は、肥後国で被災した領民たちの受け入れおよび自国民の支援に追われ、目が回るほど忙しかった。

有明海に流れ込んだ土砂の影響で、肥後国および筑後国の沿岸地域には10m以上の大津波が押し寄せ、町を洗い流した。結果、数千人が溺死、生き延びた者たちも住居や家族を失い、途方に暮れていた。

筑後国の沿岸部から5kmほど内陸に位置する「新町集落」では、村内を通過する堂面川が大津波によるバックウォーターで氾濫を起こし、大騒ぎになった。

幸い、直接大津波の影響を受けることはなく、死者も出なかった。しかし、堂面側に流れ込んだ有明海の水は、同地にとてつもないものを残していったのである。

F氏の伝承資料によると、堂面川には大津波で犠牲になった者たちの遺体が流れ込み、強烈なバックウォーター現象で内陸部に押し流されたという。

堂免川は河口が広く、島原半島のほぼ対岸に位置したため、遺体が流れ込みやすかったのだろう。さらに、上流に2kmほど進むと川幅が一気に狭くなり、内陸部に押し流された遺体が堆積した。

新免集落近くの河川内には、身元不明の水死体が500体ほど流れ込み、水の流れは完全に寸断されてしまった。

大津波発生から1か月後、壊滅的な被害を受けた沿岸部地域の復興は少しずつ進んでいた。

一方、内陸部の復興は後回しにされ、新町集落近くの堂面川に堆積した水死体も半数以上が放置されていた。結果、それらは腐り果て、川の水を侵したのである。

当時、堂面川の水は周辺地域の大切な生活用水だった。水死体が堆積した地点から河口までの間で生活する人々は、腐った水を摂取し、疫病を発症。数百名が死亡した。

新免集落の住人たちは、腐りきった遺体の猛烈な悪臭に恐れをなし、他の地域に転居する者が続出した。

それ以来、堂面川およびその周辺、そして、大津波から60年後に完成したとされる三池陣屋の眼鏡橋では霊が目撃されるようになった。なお、眼鏡橋の架橋工事中に発生した計5件の死亡事故は、水死体の呪いと噂されている。

まとめ
三池陣屋の眼鏡橋で目撃される霊は、堂面川に流れ込んだ水死体のもの、と噂されている

堂面川に流れこんだ水死体はカラスや野生動物のエサになった。そして、数年後に発生した大雨が骨をキレイに洗い流した、と言い伝えられている

基本情報
心霊スポット三池陣屋の眼鏡橋
(みいけじんやのめがねばし)
所在地〒837-0923
福岡県大牟田市大字新町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】福岡空港から約2時間
【高速】福岡空港から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約2時間15分
【高速】博多駅から約1時間10分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト大牟田市観光協会 公式ホームページ

吉ヶ谷第一堤

大牟田市の北東部に『吉ヶ谷第一堤(よしがだにだいいちつつみ)』と呼ばれる人造ため池がある。これは周辺地域の田畑に水を供給する目的で築造され、今でも農家の生産活動に貢献している。

この人造ため池では霊の目撃情報が相次いでおり、かなりおぞましい噂も流れている。これまでに目撃された霊は、「池から女性が這い出てきた」「若い女性が池に引きずり込まれた」など。

私は九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏に連れられ、同地の伝承を受け継ぐ老夫婦にお会いした。

H氏は、「吉ヶ谷第一堤は、ある女性が非業の死を遂げたことで呪われた池と呼ばれるようになった。そして、その事件は非常に惨く、同地の住人たちは後世に語り継ぐべきでないと考え、忘れ去られた。しかし、住人たちが事件を忘れても、そこにいる霊は消えない」と述べた。

1799年、吉ヶ谷第一堤の南に「止々呂(とどろ)集落」という小さな村があった。

そこで生まれ育った14歳の「カヨ」は、同地周辺、さらに南エリアの繁華街でも噂になるほどの美少女だった。

カヨは繁華街イチ裕福な庄屋の「多々野(たたの)氏」の目に留まり、女中として仕えることになった。

多々野氏は既婚者だったが、カヨの若さと美しさの虜になり、妻のことを煩わしく思うようになった。

妻の「ウメ」と他の女中たちは、カヨが裕福な庄屋をたぶらかし、資産の独り占めを狙っていると考えた。そして、この判断は正しかった。

カヨは若さと美貌で多々野氏をたぶらかし、邪魔者はひとり残らず排除するつもりだった。ただし、14歳の少女をコントロールしていたのは、彼女の母だった。

カヨの母と多々野氏は幼馴染兼許嫁(いいなずけ)だった。しかし、多々野氏はウメの両親の財力に惚れ込み、許嫁を捨てたのである。

多々野氏は罠に喰いついた。カヨの若い身体を貪り、金だけのために結婚したウメを裏切ったのである。

数か月後、カヨは狙い通り妊娠し、ウメの怒りを買う。彼女の両親は筑後国藩主、立花氏と血縁関係にあり、下手に告げ口されればただでは済まない可能性があった。

カヨの母は、金で雇った力自慢の浪人にウメの捕縛を指示。酷く辱め、首を切り落とさせた

浪人は切り落としたウメの首を両親の屋敷に投げ込み、撤退。通報を受け駆け付けた役人たちは、夫の多々野氏を捕縛した。

多々野氏は不倫相手を妊娠させたとは白状。これを受け、役人たちはカヨの捕縛も試みた。しかし、屋敷内に妊婦の姿はなく、女中たちの遺体が転がっていた。

カヨの母は、娘を吉ヶ谷第一堤に呼び出し、大きく膨らんだ腹を掻き切った。

母は、許嫁の子供を妊娠したカヨの嬉しそうな表情に怒り、実の娘を殺したのである。そして、その腹から子供をむしりとり、池に遺棄した。

訳も分からぬまま絶命したカヨは、池の麓に打ち捨てられ、誰にも発見されることなく朽ち果てたと言い伝えられている。

まとめ
14歳のカヨは、吉ヶ谷第一堤で実の母に腹を掻き切られ、憤死した

その後、カヨの母は止々呂集落で普通に生活した。一方の多々野氏は、不倫および女中を死に追いやった罪で斬首された

基本情報
心霊スポット吉ヶ谷第一堤
(よしがだにだいいちつつみ)
所在地〒837-0902
福岡県大牟田市大字上内
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】福岡空港から約2時間
【高速】福岡空港から約1時間

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約2時間5分
【高速】博多駅から約1時間5分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト大牟田市 公式ホームページ
画像はイメージです

三潴郡目次に戻る

蛭池の石祠

三潴(みずま)郡大木町は「クリーク」の町と呼ばれている。なお、クリークとは人造用水路のことであり、繁華街の池や川の水をエリア内に循環させる役目を担っている。

大木町はクリークと共に成長してきたと言っても過言ではない。その面積は町全体の14%を占め、至る所に水が供給されている。

同町の中東部、クリークと広大な田畑の一角に、『蛭池の石祠(ひるいけのせきし)』と呼ばれる不思議な歴史遺構がある。これはその名の通り、蛭池という地域に造られた石の「祠(ほこら)」であり、信仰の象徴として大切に守られてきたという。

この石祠およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「遺体が山積みにされていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。

三潴郡で生まれ育ち、現在は福岡市博多区で生活するY氏にお話を伺った。曰わく、「三潴郡には隠れキリシタンが多数潜伏していたと考えられており、それに関連する遺構が数多く残されている。蛭池の石祠もそのひとつであり、同地で死んだ男たちを祀るために建立された」という。

関ヶ原の戦いおよび大坂夏の陣で徳川家康に味方し素晴らしい活躍を見せた「有馬氏」は、三潴郡を含む筑後国南部エリアを治める大名になった。

有馬氏は領民から慕われる良君だった。さらに、敬虔な仏教徒である一方、キリスト教にも一定の理解を示し、禁教令(1613年)や島原の乱以降に激化したキリシタンへの弾圧はかなり控えめだったと言い伝えられている。

結果、同地のキリシタンは生き永らえ、コミュニティを形成することに成功したのである。

1700年、蛭池地区のクリークがまだ手掘りの小さな水路だった頃、隠れキリシタンに関連するとんでもない事件が発生した。

同地でクリーク掘削を行っていた「市右衛門」は、隠れキリシタンのコミュニティで生活する信者のひとりだった。彼は常人離れした筋骨隆々のたくましい身体で仕事を黙々とこなし、周辺の集落からも慕われていた。

ある日、市右衛門は男たちに辱めれている若い女性を発見、救助した。男たちは刀や短刀で武装しており、情事の邪魔をされたことに憤慨、攻撃を仕掛けてきた。しかし、市右衛門はこれを軽々とねじ伏せたのである。

市右衛門は男たちを叩き伏せ、女性の救出に成功した。が、これは隠れキリシタンのコミュニティに攻撃を仕掛ける罠だった。

女性は市右衛門を誘い、男女の仲になった。そして、彼の集落に忍び込み、キリスト教関連の証拠を物色し始めたのである。

夜、女性は市右衛門のロザリオを奪い、コミュニティ内の教会に火を放った。そして、自分の集落の男たちに「隠れキリシタンの存在を確認した」と報告した。

男たちは同地の隠れキリシタンを殲滅すべく、ナタや斧などで武装。市右衛門を裏切った女性と共に、コミュニティを急襲した。

市右衛門は女性の裏切りにショックを受けたが、命より大切な形見のロザリオおよび信仰の象徴である教会を破壊されたことへの怒りは、女性への愛をはるかに凌駕した。

市右衛門は男たちをひとり残らず叩き伏せ、素手で頭蓋骨をかち割った

その後、美人局(ハニートラップ)を仕掛けた女は、地獄すら生ぬるいと思えるほどの苦痛を味わった。

市右衛門は女の性器を引き裂き、腕をねじ込み、体内の臓器を全てむしり取った。女は地獄の痛みと恐怖の影響で髪が白髪になり、糞尿と内臓をぶちまけ、死んだという。

市右衛門は31名の遺体を埋蔵、丁重に供養し、石造りの祠を建立した。以来、それは蛭池の石祠と呼ばれ、同地の隠れキリシタンを守った象徴として崇められるようになった。

まとめ
蛭池の石祠は、隠れキリシタンに攻撃を仕掛け殺された男女計31名の墓である

市右衛門の殺人は表沙汰にならず、コミュニティは繁栄を続けた

基本情報
心霊スポット蛭池の石祠
(ひるいけのせきし)
所在地〒830-0411
福岡県三潴郡大木町大字蛭池
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間20分
【高速】福岡空港から約55分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間

※クリックでGoogle map起動
関連サイト大木町 公式ホームページ
画像はイメージです

佐木変電所

木佐木(きさき)変電所』は、沖縄県を除く九州の各都市に電力を供給している「九州電力送配電㈱」の22kv変電所である。

同変電所周辺および周囲を取り囲むクリークでは霊の目撃情報が相次いでおり、恐らく変電所構内も同じ状況になっていると思われる。これまでに目撃された霊は、「変電所のフェンスに生首が並べられていた」「串刺しにされた遺体が放置されていた」など。

九州の某大学で教授を務め、歴史家としても活動するS氏は、「木佐木変電所およびその周辺は恐らく霊の巣窟になっている。なお、九州電力送配電が同地のルーツを知っていたか否かは分からない。いずれにせよ、拷問処刑場跡地に何か施設を造る時は、それなりの供養と対策が必要である」と述べた。

S氏の伝承資料によると、激しい領土争いを繰り広げていた豪族が同地に処刑場を整備。見せしめとして敵兵を公開処刑したのが全ての始まり、と言い伝えられている。

江戸時代に入っても拷問処刑場は継続使用された。同地一帯を治めた久留米藩藩主の有馬氏は、犯罪者を厳しく罰することが新たな犯罪の抑止につながると考えたのである。

有馬氏は良君として知られ、日本中で厳しい弾圧を受けたキリシタンにも同情するほど慈悲深い男だった。しかし、犯罪者には厳罰を与え、「いかなる理由があろうと人殺しは処刑。目には目を、歯には歯を」を徹底した。

有馬氏は幕府に許可を得たうえで、藩独自の処刑および拷問方法を確立した。

S氏の伝承資料によると、最も重い罪は親殺し。次が殺人および放火だったという。

拷問および処刑は必ず公開で行われた。そして最も人気を集めた刑が親殺しにのみ与えられる極刑、「鋸(のこ)引き石焼の刑」だった。

この極刑を見た領民は、「有馬氏を怒らせてはいけない」「いかなる理由があろうと、親だけは絶対に殺してはいけない」と心に誓ったという。

まず、逆さまに吊るし上げられた罪人は、”切れ味抜群のノコギリ”で股から腸付近まで切り裂かれる。なお、従来の鋸引きの刑は、切れ味の悪いノコギリで股から脳天まで真っ二つに切り裂く。切れ味の悪いノコギリが地獄の痛みを増幅させると考えられていたのだ。

しかし、有馬氏が採用した鋸引き石焼の刑は違う。執行人は腸付近まで罪人を一気に切り裂く。この時、大半の罪人は失神するが、次の工程で必ず目を覚ましたという。

次の工程は3人がかりで執行された。たき火の中で長時間熱し、超高温になった直径10cm、重さ20kgほどの石を途中まで切り裂いた罪人の腹の中に押し込むのである

罪人の腹に押し込まれた石は、自重と熱の力でじわじわと体内にめり込み、臓器を焼きつぶし、そして地獄の苦痛を与えた。

その後、同じように熱せられた石が2個追加投入され、罪人は心臓を焼きつぶされるまで人間とは思えない叫び声を上げ続けた、と言われている。

地獄の苦痛を受けた罪人は、執行人と見物客を怨み、憤死した。S氏の資料によると、同拷問処刑場で鋸引き石焼の刑に処された罪人は250名超にのぼるという。

まとめ
木佐木変電所は、戦国および江戸時代の拷問処刑場跡地に建設された

鋸引き石焼の刑に処された罪人250名超は、地獄の苦痛を味わい、憤死。怨霊になった

基本情報
心霊スポット木佐木変電所
(きさきへんでんしょ)
所在地〒830-0412
福岡県三潴郡大木町大字侍島660-1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】福岡空港から約1時間20分
【高速】福岡空港から約55分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】博多駅から約1時間35分
【高速】博多駅から約1時間

※クリックでGoogle map起動
関連サイト九州電力 公式ホームページ
画像はイメージです

まとめ

今回は宮若市他、5市1郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

福岡県内には世にも恐ろしい心霊スポットが数えきれないほど存在する。興味のある方は現地に足を運び、霊の存在を肌で感じてほしい。最後までお読みいただきありがとうございました。

スポンサーリンク