目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:ルワンダ共和国(Republic of Rwanda)
首都:キガリ(Kigali)
人口:12,374,397人(2019年推定)
面積:26,338㎢(新潟県の約2倍)
気候:熱帯気候
・国土の大半が海抜1,500m。西部の一部地域のみ海抜1,000m以下。
・乾期は6月~8月。
・雨季は3月~5月と9月~11月。
・年間降雨量は地域によって多少異なるが、おおむね1,000~1,500mmの範囲。
・気温は1年を通して安定している。
・海抜1,500m以上の地域の平均気温:最低15~17℃、最高26~28℃。
・海抜1,000m以下の地域の平均気温:最低17~22℃、最高26~35℃。
・北部の火山国立公園のカリシンビ山の最高点は4,507m。
・観光におすすめの時期は6月~8月。
経済:
・開発途上国
・GDPは100億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と農業。
・主要輸出パートナーはUAE(38%)、ケニア(15%)、スイス(10%)
・主要輸入パートナーは中国(20%)、ウガンダ(11%)、インド(7%)
・主要農作物はコーヒー、お茶、除虫菊、バナナ、豆、ソルガム、ジャガイモなど。
・1994年の紛争ピーク時に発生した大量虐殺でGDPは約40%縮小した。
・1994年以来、GDPは堅実に推移している。(2018年プラス8.6%、2019年プラス10.1%)
・コーヒーとお茶の栽培および輸出が経済と市民の生活を支えている。
・2006年に経済成長期に突入し、以来アフリカで最も急速に成長している国のひとつになった。
・貧困ライン以下の生活を送っている市民は人口の約35%、1994年(70~85%)から大きく改善した。
人種(民族):
・フツ族 91%(2019年世界人口レビュー)
・ツチ族 8%
・ツワ族 1%
言語:
・ルワンダ語93.2%(公用語:2002年推定)
・先住民族の言語6.2%
・フランス語0.1%(公用語)
・英語0.1%(公用語)
・スワヒリ語0.1%
・その他0.1%
・不明0.2%
宗教:
・プロテスタント 49.5%(2012年推定)
・ローマカトリック 43.7%
・イスラム教 2%
・その他 0.9%
・無宗教 2.5%
・不明 1.3%
ルワンダ共和国
政治(目次に戻る
大統領:ポール・カガメ(Paul Kagame)
首相:エドゥアール・ンギレンテ(Édouard Ngirente)
政治体制:共和制
・ベルギーとドイツのシステムを参考にしている。
・国家元首は大統領、任期は7年、再選制限なし。
・元軍事指導者のポール・カガメ大統領は2000年の就任以来、現職を維持している。
・二院制。
・上院は2003年に設立した。議員定数26人、任期は8年。
・下院も2003年に設立した。議員定数80人、任期は5年。
・カガメ大統領は文民政府を構築し、就任以来、国の再生に投資し、犯罪と汚職の撲滅に全力を注いでいる。
法律:ルワンダ共和国の憲法
・裁判制度は2001年に確立された。
・司法の独立を保障している。
・性別、民族、人種、または宗教によるあらゆる差別を禁止している。
・政府は1994年の大量虐殺と第二次コンゴ戦争における民間人数百万人の死に関与したが、説明責任を果たしていない。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・注意情報発令中(2021年4月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年4月時点)
治安:悪い
・近年、国内でテロ事件は発生していない。
・国内でのイスラム過激派組織や反政府勢力の活動は報告されていない。
・近隣諸国と比べると治安は比較的安定している。
・警察と軍の厳しい取り締まりで治安は大きく改善した。
・西部コンゴ民主共和国との国境付近では小規模な武力衝突が続いている。
・ルワンダ紛争と第二次コンゴ戦争の後遺症はほとんど残っていないが、一部治安の悪い地域があるため、渡航の際は現地の最新状況を必ずチェックしたい。
・強盗、スリ、引ったくり、置き引きに注意。
・流しのタクシーには乗車しない。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は40社ほどあると伝えられている。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は13局。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は33局。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に批判的なジャーナリストは逮捕もしくは脅迫に直面する。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネット普及率は30~35%。
・検閲は厳しい。
【国営メディア/設立年】
・ルワンダテレビ 1980年
【民間メディア】
・TVルワンダ
・Tele10
・その他
軍隊(目次に戻る
2021年軍事力ランキング:ー位
・軍人数:33,000人(推定)
即戦力 33,000人
予備兵 0人
準軍組織 0人
・陸軍を保有。
・国防予算:9,000万ドル(推定)
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代、現在のルワンダ共和国と周辺地域は主にフツ族とツチ族のコミュニティが支配していた。
・コミュニティのサイズは大小さまざまで、現在のルワンダの南東部を支配していた一族は特に強力だったと伝えられている。
・1700年代以前のルワンダの歴史や出来事はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。
1800年代
・1800年代、ルワンダは以前に比べると中央集権化され、大きなコミュニティの長は地域の住民を統治した。その後、コミュニティはキブ湖の湖岸に到達したと伝えられている。なお、統治は軍事的なものではなく、農業技術、社会組織、および生活地域の拡大に関する平和的なものだった。
・1820年代、侵入者を防ぐための部隊が国境付近に設置された。
・1830年代、フツ族とツチ族の経済的不均衡が大きくなり、フツ族は統治者としてツチ族を支配した。
・国境で活動した部隊は、ルワンダの各地から集められたフツ族とツチ族で形勢されていた。部隊は地域の儀式と言語の統一を促し、先住民族のムワミ(王様)に従う大衆を団結させた。フツ族とツチ族の関係はこの時点ではまだ平和的だったと伝えられている。
・1884年、西アフリカの植民地支配を確立するベルリン会議が開催される。しかし、ヨーロッパの強国とアメリカは、ルワンダと五大湖地域の国境と体制には介入しなかった。
・1890年、ブリュッセルで欧州会議が開催され、ルワンダと五大湖地域は分割されることが決まった。これによる、ルワンダとブルンジは、ウガンダに対する全ての主張を放棄させられたうえで、ドイツの支配下に置かれた。ただし、これらの地域の国境は1900年まで確立せず、各地で領土を侵犯する行為が連日確認されたと伝えられている。
・1894年、ルワンダのツタリンドワ王子はルワブギリ4世から領土を引き継いだが、自治政府の議会はドイツの支配で骨抜きにされ、その後に発生した反乱で殺害された。
・1897年、ドイツの植民地主義者と宣教師がルワンダでの活動を強化し、コミュニティは分裂した。その後、一部の派閥はドイツとキリスト教の教えを支持し、新たな自治政府(先住民族の王国)を形成した。記録によると、ルワンダはブルンジよりドイツに抵抗しなかったという。
・ドイツ人は極めてアクセスしにくいルワンダの支配に消極的で、現地の支配者に統治を一任していたが、自治政府の近代化と中央集権化は奨励しなかった。
・1898年、ドイツはルワンダの現物税を現金税システムに変更し、収益性の高い農作物から税金を徴収することを決めた。現物税の廃止はルワンダの経済に大きな変化をもたらした。
1900年~第一次世界大戦
・ルワンダは第一次世界大戦に関与していない。
・1900年代、ツチ族はルワンダの人口の15〜16%を占め、その多くは貧しい農民だったが、一部の優秀な者たちが支配階級のエリート層の大部分を支配した。一方、人口の大多数を占めるフツ族は支配階級を少数派のツチ族に奪われ、憎しみを募らせていた。
・1900年、パリ条約締結。これにより、ルワンダの国境と五大湖周辺の国境が確立した。
・1905年~1907年、ドイツは東アフリカで発生したマジマジ反乱の対応に追われ、ルワンダの政治にほとんど介入しなかった。
・1910年5月、ブリュッセルの欧州条約により、タンガニーカ湖、ルワンダ、ウガンダ、コンゴおよびドイツ東アフリカ領の国境が書き換えられた。
・1911年、ドイツは自治政府を事実上支配したツチ族に対するフツ族の攻撃を認めず、反乱を何度も叩きのめした。
・1916年、国際連盟の委任統治に基づき、ルワンダとコンゴはベルギーの支配下に置かれた。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・ルワンダは第二次世界大戦に関与していない。
・1923年~1925年、ベルギー政府はルワンダ西部の小さな独立王国に対する軍事作戦を強化し、反抗的な先住民族を打倒した。
・1920年代後半、ベルギー政府はルワンダを統治するツチ族の体制を強化しつつ、教育と農業制度を少しずつ改革した。ベルギーは自給自足で生活する農民の生活を向上させるために、キャッサバ、トウモロコシ、そしてジャガイモを導入した。
・1928年~1929年、ルワンダの一部地域および現在のコンゴの農作物は水不足の影響でことごとく枯れ、大飢饉を引き起こした。伝えられるところによると、この飢饉で当時のルワンダの人口の10~15%が餓死したという。なお、ベルギー政府はキャッサバとジャガイモの栽培に成功した地域から被災地に食糧を移送した。
・1930年代、ベルギーはルワンダにコーヒー、農園での組織化された栽培、そして強制労働システムを導入し、支配層のツチ族と協力してフツ族の労働者階級を奴隷のように働かせた。
・ベルギーの統治は少数派のツチ族と多数派のフツ族の民族的分裂を促進した。
・1931年、ベルギーはルワンダの民族を公式に分類し、民族識別カードシステムを導入した。
・1935年、身分証にツチ族、フツ族、トワ族を明記する項目が追加された。ただし、一部の優秀かつ裕福なフツ族はツチ族に分類され、労働者層ではなく支配者層として政治や行政に関わることができた。
・1936年、ルワンダの主要な教育機関を統治するローマカトリック教会はもツチ族とフツ族の識別を認め、大多数の貧しいフツ族は奴隷に近い生活を余儀なくされた。
・1943年~1944年、現在のルワンダ、ブルンジおよびコンゴの農作物の多くは第二次世界大戦の物資として海外に輸出され、深刻な食糧危機を引き起こした。これを受け、ルワンダの自治政府と現地の宣教師たちは最も深刻な被害を受けたブジュンブラ(ブルンジの都市)に食料を供給した。一連の飢饉でブジュンブラの人口の20~35%が餓死したと伝えられている。また、食糧危機はルワンダにも大きな影響を与え、数十万人が隣国のコンゴやウガンダに移住した。
終戦~現在
・終戦後、ルワンダは国連の信託領土してベルギーの管理下に置かれた。
・1940年代後半、ツチ族のルダヒグワ王はベルギーが導入した民族の識別制度を廃止し、牛と土地を再分配した。
・1950年代、ベルギーの民族識別制度は廃止後も継続され、大多数のツチ族および一部のフツ族は国内の利益を独占するようになった。これを受け、カトリック教会はツチ族による大多数の貧しいフツ族に対する虐待に反対し始め、平等を推進するようになった。
・1959年11月、ルワンダ革命勃発。ツチ族の過激派がフツ族の副酋長のひとり、ドミニク・ムボニュムトワを攻撃したことを受け、ツチ族に対する爆発的な暴動が発生した。
・1959年12月、ツチ族の政治家は権力を安定させ、フツ族とベルギー人を打倒しようとしたが、ベルギーのガイ・ロジエスト大佐とフツ族の同盟軍がこれを阻止した。
・1960年初頭、政権を掌握したロジエスト大佐とフツ族の酋長たちは全国のツチ族の酋長をフツ族に置き換え、反抗的なツチ族の市民をことごとく処刑した。
・1960年6月、ベルギー政府はツチ族への虐殺が続いているにもかかわらず議会選挙を行った。その後、フツ族は選挙でツチ族を圧倒し、ルワンダ革命の終結を宣言した。
・1962年7月1日、「ルワンダ王国」が独立を宣言。
・1962年9月18日、国連に加盟。
・1962年9月25日、立憲君主制か共和制かを選択する国民投票が実施され、賛成多数で共和制に移行することが決まった。これを受け、ルワンダ王国は「ルワンダ共和国」に国名を変更し、ドミニク・ムボニュムトワが初代大統領、グレゴワール・カイバンダが初代首相に就任した。
・1963年、ブルンジ国内に潜伏していたツチ族のゲリラ部隊がルワンダに侵入し、フツ族の市民14,000人(推定)を殺害した。一連の虐殺でルワンダとブルンジの関係は急速に悪化し、ルワンダ政府は政治からツチ族を追放し一党体制を確立した。
・1964年、ツチ族に対する弾圧と虐殺が激化し、数十万人が国外に逃亡した。
・1973年7月5日、軍事クーデター発生。ジュベナール・ハビャリマナ少将がカイバンダ政権を打倒し、大統領に就任した。
・1973年7月6日、ハビャリマナ大統領は憲法を廃止し、国会を解散し、すべての政治活動を禁止すると宣言した。
・1973年8月、ハビャリマナ大統領はツチ族の弾圧を促進したクオータ制度を廃止した。
・1974年、ツチ族の代表者たちは教育、医療、政治への参加を求め抗議活動を展開したが、フツ族とハビャリマナ大統領は要求を却下し、弾圧を再開した。
・1975年、ハビャリマナ大統領は平和、団結、国家開発を促進することを目標とした開発国民革命運動(MRND)を結成した。
・1978年12月、MRND以外の政党の組織を禁止する国民投票が行われ、賛成多数で可決された。
・1979年、大統領選挙。立候補を許可されたのはハビャリマナ大統領だけだった。
・1983年、大統領選挙。立候補を許可されたのはハビャリマナ大統領だけだった。
・1988年、大統領選挙。立候補を許可されたのはハビャリマナ大統領だけだった。
・1988年後半、ブルンジの北部でツチ族の虐殺が激化し、ブルンジ軍は反抗的なフツ族の市民約20,000人を報復として処刑した。一連の虐殺と報復で何万人ものフツ族がタンザニアとコンゴに亡命を余儀なくされた。
・1990年1月、ルワンダ内戦勃発。ツチ族のリーダーが率いるルワンダの反政府勢力、ルワンダ愛国戦線(RRF)は隣国ウガンダの基地からルワンダに侵入し、政府軍に宣戦布告した。
・RRFはハビャリマナ大統領に平和的に譲歩を迫ると考えられていたが、フツ族はツチ族の侵攻を軍事クーデターと見なし、民族間の緊張はかつてないほどレベルまで高まった。
・政府軍はRRFとの戦闘に関わっていないツチ族の市民の虐殺を開始した。
・1993年8月、政府とRRFがアルーシャ協定(停戦協定)に合意。
・1993年10月、ブルンジの大統領がツチ族に暗殺され内戦が勃発し、その影響は国境を越えてルワンダに波及した。結果、フツ族とツチ族の緊張は再び高まり、各地で散発的な戦闘が発生したため、国連はルワンダ支援ミッション(UNAMIR)と呼ばれる平和維持軍を現地に派遣した。
・1994年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリヤミラ大統領を乗せた飛行機が首都キガリの空港を離陸した直後に撃墜され、両首脳は死亡した。
・1994年4月7日、ルワンダの暫定政府と民兵グループがツチ族に宣戦布告し、虐殺を開始した。
・大量虐殺はキガリからルワンダ全土に急速に広がり、前例のない速さでツチ族の市民50万~80万人が処刑された。
・1994年5月、地方政府の役人はフツ族の市民にツチ族をひとり残らず処刑するよう推奨し、大量虐殺を加速させた。ツチ族に対する暴力を擁護するヘイトスピーチは全国のラジオで放送されたため、RPFと同盟国はこれに強く反発したが、大量虐殺は収まらなかった。
・1994年7月初め、ポール・カガメ率いるRRFの部隊はキガリに侵攻し、その後国の大部分を制圧した。
・1994年7月18日、ルワンダ内戦終結。RRFが勝利し、ツチ族に対する一連の大量虐殺は終結した。なお、一連の大量虐殺から逃れるために、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、ザイールに推定200万人が避難した。
<ルワンダ内戦>
・両軍参加者:60,000~65,000人(推定)
・両軍負傷者:10,000~15,000人(推定)
・両軍死亡者:7,500人(推定)
・民間人死亡者:50万~80万人(推定)
・国外避難民:200万人(推定)
・1994年8月、ポール・カガメは国民統一政府を結成し、国防兼副大統領に就任した。
・1996年10月、RRFはザイールに逃亡したフツ・インテラハムウェ軍(ルワンダ虐殺を主導)からルワンダを守るために、ザイールに侵攻した。
・1996年10月24日、第一次コンゴ戦争勃発。(ザイール連合軍vsコンゴ・ルワンダ連合軍)
・1997年5月16日、第一次コンゴ戦争終結。コンゴ・ルワンダ連合軍が勝利し、ザイールはコンゴ民主共和国に国名を変更した。
<第一次コンゴ戦争>
・両軍参加者:10万~15万人(推定)
・両軍負傷者:数万人(推定)
・両軍死亡者:15,000~18,000人(推定)
・民間人死亡者:30万~80万人(推定)
・国外避難民:20万~30万人(推定)
・1997年10月、コンゴ民主共和国東部で大規模な難民運動が展開され、60万人以上がルワンダに帰還することを許可された。
・1998年8月2日、第二次コンゴ戦争勃発。(コンゴ民主共和国vsルワンダ・ウガンダRRF民兵軍)
・2000年、ポール・カガメが大統領に就任。
・2002年、ルワンダRRF民兵軍はコンゴから撤退した。しかし、一部のルワンダ反政府勢力は、コンゴ北東部とキブ地域で活動を継続した。
・2003年7月18日、第二次コンゴ戦争終結、ルワンダ軍はコンゴから撤退した。
<第二次コンゴ戦争>
・両軍参加者:10万~12万人(推定)
・両軍負傷者:数千人(推定)
・両軍死亡者:6,000~8,000人(推定)
・民間人死亡者:35万(推定)
・戦争関連死:270万~540万人(推定)
・2009年、イギリス連邦と東アフリカ共同体に加盟。
文化(目次に戻る
・先住民族の文化を維持している。
・ルワンダの料理は、自給自足農業で受け継いできた農作物に基づいている。
・主食は米とウガリ(トウモロコシと水で作る)。主菜は鶏肉、魚介類、山羊肉、バナナ、オオバコ、豆類、サツマイモ、キャッサバ。
・先住民族の文化は文書化されておらず、分からないことが多い。
・1994年の大量虐殺に関連する映画や文学作品が多数制作された。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはサッカー、バレーボール、バスケットボール、クリケット、陸上競技、自転車競技、パラスポーツ全般。
・スポーツは紛争の和解を達成する重要手段と見なされており、多くの団体や組織が和解を促進するために様々なスポーツイベントや大会に参加している。
・オリンピックでメダルを獲得したことはない。
・冬季オリンピックに出場したことはない。
・2004年のアテネパラリンピックで陸上競技に出場したジャン・ド・デュー・ンクンダベラが銅メダルを獲得した。
その他(目次に戻る
・ルワンダ内戦と虐殺の混乱から立ち直ることに成功したが、政府は説明責任を果たしていない。