コラム:ロシアがウクライナ東部の併合にこだわる理由
ロシア政府がウクライナ東部の併合にこだわる理由は単一的なものではなく、多層的な戦略・歴史・イデオロギー・経済の要素が複合的に絡み合っている。
.jpg)
現状(2026年2月時点)
ロシア・ウクライナ戦争は、2022年2月のロシアによる全面侵攻から4年が経過し、長期化の様相を呈している。ロシアはウクライナ東部のドンバス地域(主にドネツク州・ルハンシク州)を実効支配下に置き、これら地域を「ロシア領」と一方的に宣言した上で完全支配を目指す姿勢を明確にしている。2025年末にはプーチン大統領が「軍事あるいはその他の手段でドンバスとノヴォロシアを解放する」との意向を改めて表明したことが報じられている。また、米露首脳会談においてもドンバスの完全掌握やウクライナのNATO加盟放棄などを求める姿勢が見られ、交渉の核心課題となっている。
ロシア・ウクライナ戦争とは
ロシア・ウクライナ戦争は2014年のクリミア併合と同年春以降のドンバス紛争に端を発し、2022年2月24日のロシアによる全面侵攻で戦争へと発展した。ウクライナ国内の親欧米・親ロシアの政治的対立、政権交代が引き金となり、ロシアはクリミア併合後に親ロシア派勢力を支援し、ドネツク人民共和国(DPR)やルハンシク人民共和国(LPR)が自称独立を宣言した。ロシアは2022年2月に両「共和国」を国家として承認し、侵攻後にこれら地域を含む複数州(ドネツク、ルハンシク、ザポリージャ、ヘルソン)を併合したと宣言したが、国際社会は違法と非難している。
戦争の展開
戦線はドンバス地方を中心に激しい消耗戦となっており、ウクライナ軍は国際的な軍事支援を受けて防衛・反攻を続け、ロシア軍は徐々に戦線を押し進める消耗戦型の戦闘が続いている。両者の損耗は大規模であり、停戦協議は断続的に行われつつも平和合意には至っていない。
ロシア政府がウクライナ東部の併合に執着する理由
ロシアがドンバス併合に固執する背景には多角的な要因が絡んでいる。以下ではこれを戦略的・軍事的要因、NATO拡大への対抗、クリミア戦略、交渉上の優位性、経済的利権、歴史・イデオロギー的要因に分解して分析する。
戦略的・軍事的な要因
地政学的優位の確保
ドンバス地域はウクライナ東部に位置し、ロシア本土とウクライナ南部・中西部を結ぶ戦略的要衝にある。この地域を掌握することで、ロシアはウクライナ全土に対する軍事的圧力を強化できるだけでなく、ウクライナ軍の主要な防衛線を突破し、内陸部へと進撃する足掛かりを確保する。専門家はこの地域の戦略的価値を、アクセスルートや制圧しがいのある要地として指摘している。
防御線の深度化
一国の防衛戦略において「深い防御線」を持つことは重要である。ロシアにとって、ウクライナ境界の一部を実効支配下に置くことは、将来の軍事衝突時に敵の攻撃を遠方で食い止める緩衝地帯(バッファー)を形成するという意味を持ち、これが併合執着の一因となっている。
NATO拡大への対抗(緩衝地帯形成)
冷戦終結後、NATOは東欧・バルト三国などを中心に東方へ拡大し、1990年代以降ロシアはこれを安全保障上の重大な脅威と認識してきた。ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアの国境線がNATO軍と直接隣接することになり、防衛上の緩衝地帯が失われるとの怖れがある。戦略論的には、ロシアは潜在的なNATO加盟国を軍事的・政治的影響圏の外に置くことを通じて、勢力圏を維持しようとしている。
クリミアへの「陸の回廊」の確保
ロシアは2014年にクリミアを併合した後、この黒海の戦略的要衝を維持・強化する必要があると考えてきた。クリミアを本土と陸上で結ぶ「陸の回廊」(戦略回廊)は、補給線の確保や軍事力の迅速展開に不可欠と見なされる。2022年初期の戦闘では、クリミアとドンバス地域を結ぶルートの確保がロシア軍戦略の一部となっていたとの報道もある。
交渉の「切り札」としての併合要求
ロシアは交渉の場で有利な立場を得るため、領土割譲を条件に含めることがある。例えば、2025年の米露首脳会談では、ロシアがウクライナのNATO加盟放棄やドンバス全域の割譲を和平条件として提案したとの報道がある(ロシア側はこれを優位な交渉カードと見ている)。このような条件提示は、戦後秩序交渉における「切り札」として機能することを意図している。
経済的・資源的な利権
ドンバス地方は旧ソビエト時代からの重工業地帯であり、資源やインフラが集中してきた地域である。ウクライナ独立以降、経済的荒廃が進んだとはいえ、鉱山や農地、工業施設など経済資源の価値は無視できない。また、黒海沿岸の港を通じた輸送路やインフラ統合は、ロシアにとって経済的利益の追求と結びつく。こうした資源・経済的要因は、併合への執着の一角を成している可能性がある。
歴史的・イデオロギー的な正当化
「ノヴォロシア(新ロシア)」構想
ロシアの一部指導者やナショナリストの間では、「ノヴォロシア(新ロシア)」という概念が掲げられ、帝政ロシア時代に支配した南ウクライナ地域の再建を目指す思想がある。この構想は歴史的領域主義と結び付き、ウクライナとロシアは「一つの民族」とみなすようなプロパガンダとも絡んでいる。プーチン政権はこの語を使って「解放」を正当化するレトリックとして引用することがある。
ロシア系住民の「保護」
公式発言や国営メディアでは、ドンバス地域のロシア語話者・ロシア系住民に対する「保護」が併合正当化の根拠として多用される。これが事実・誇張どちらであれ、ロシア国内向けには「一つの国民」というアイデンティティ的訴求が強調され、戦争支持を維持するためのプロパガンダの一部として機能している。
今後の展望
ドンバス地域の帰属を巡る争点は、戦争終結後の和平交渉でも核心となる可能性が高い。ロシアが領有権主張を堅持する限り、ウクライナ側は国土の一体性を譲らない姿勢を維持するだろう。国際社会は領土問題を含む交渉の枠組みを模索しており、NATOやEUの役割、停戦監視・平和維持の仕組みの構築、被害地域の復興支援など多層的な対応が求められる。和平合意が成立するとすれば、両者の安全保障と政治的要求のギャップをどう埋めるかが焦点となる。
まとめ
ロシア政府がウクライナ東部の併合にこだわる理由は単一的なものではなく、多層的な戦略・歴史・イデオロギー・経済の要素が複合的に絡み合っている。具体的には、軍事的優位と地政学的緩衝地帯の確保、NATO拡大への対抗、クリミアとの統合的戦略、外交交渉における優位性確保、経済的資源の利権、そして歴史的領域主義・住民保護の正当化という側面がある。これらは国際秩序の再編、欧州安全保障の再定義という広範な構造変化の中で、戦後も長期的に影響を及ぼす可能性が高い。
参考・引用リスト
プーチン大統領がドンバス掌握の意向を表明(CNN日本版、2025年12月)
Reuters:プーチンの和平条件に関する報道(2025年8月)
山添博史「NIDSコメンタリー:ロシア・ウクライナ戦況メモ」(防衛省防衛研究所) 2024-2025 複数号
松里公孝「露ウ戦争におけるロシアの目的」(J-STAGE)
下斗米伸夫「大国間競争時代のロシア」(JIIA)
NATO拡大とウクライナ侵攻に関する比較研究(Agha, 2025)
追記:併合宣言4州の現状
ロシアは2022年9月、ドネツク州、ルハンシク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の併合を一方的に宣言した。しかし国際法上、これら地域は依然としてウクライナ領と認識されており、実効支配と法的帰属の乖離が続いている。
ドネツク州
ドネツク州は戦争の中心的戦場であり、最も激しい軍事衝突が継続している地域の一つである。ロシアは州の大部分を支配しているものの、完全制圧には至っていない。都市部・産業拠点は著しい破壊を受け、人口流出、経済機能の停止が顕著である。
この地域は象徴的価値が高く、ロシア国内政治・軍事プロパガンダの中核を成している。
ルハンシク州
ルハンシク州は比較的早期にロシアの実効支配が確立された地域である。軍事的にはロシア側の統制が安定しているが、経済的停滞、社会インフラの劣化が深刻である。
戦闘による被害はドネツク州ほどではないが、長期的には人口減少・社会機能低下が顕著となっている。
ザポリージャ州
ザポリージャ州では、州都ザポリージャ市を含む北部はウクライナ側、南部はロシア側という分断状態が続いている。特にザポリージャ原子力発電所を巡る軍事的緊張は、国際社会の安全保障上の重大懸念事項となっている。
この地域は軍事戦略上のみならず、エネルギー政策・地政学的影響力の観点からも重要性が高い。
ヘルソン州
ヘルソン州は戦局変動の象徴的地域である。州都ヘルソン市は一時ロシア支配下に置かれた後、ウクライナ軍が奪還した。一方、ドニプロ川東岸地域ではロシア支配が継続している。
この地域はクリミアへの補給路・水資源管理の観点で戦略的価値が高い。
4州における「ロシア化」政策
ロシアは軍事支配のみならず、統治構造・社会制度・文化基盤の再編を進めている。これがいわゆる「ロシア化」政策である。
教育制度の変容
カリキュラムの転換
ロシア支配地域では教育課程がロシア標準へ統合されている。
・ロシア史中心の歴史教育
・ウクライナ史・民族教育の縮小または削除
・ロシア語教育の義務化
歴史教育においては「ウクライナ国家の人工性」「ロシアとの一体性」などが強調される傾向が見られる。
教科書・教材の差し替え
ウクライナの教科書は排除され、ロシア連邦教育基準に基づく教材へ全面的に移行している。
これは単なる制度変更ではなく、アイデンティティ再編政策の一環と位置付けられる。
行政制度の統合
ロシア法体系への編入
行政機構はロシア式官僚制度へ移行している。
・ロシア式地方行政モデルの導入
・ロシア連邦省庁との直接接続
・ロシアの行政コードの適用
ウクライナの地方自治制度は実質的に解体されている。
パスポート政策
住民へのロシア旅券発給は象徴的政策である。
・ロシア国籍取得の促進
・社会保障・雇用との連動
・行政サービス利用条件化
国籍政策は統治正当性構築の中核的手段として機能している。
司法・法制度の変容
ロシア司法制度の導入
裁判所・検察制度はロシア法体系へ再編されている。
・ロシア刑法・民法の適用
・ロシア型裁判制度の採用
・治安機関の拡張的権限付与
これにより、ウクライナ法秩序との連続性は断絶されている。
治安統制の強化
司法制度の再構築と並行し、治安政策が強化されている。
・反ロシア活動の厳罰化
・検閲・情報統制
・政治的忠誠監視
司法制度は安全保障装置としての側面を強めている。
経済・社会制度の統合
通貨・金融統合
・ロシアルーブルの流通拡大
・ロシア銀行制度への接続
・税制・年金制度の変更
経済統合は不可逆的統治構造構築を目的とする。
メディア・文化政策
・ロシア国営メディアの導入
・ウクライナ系メディア排除
・象徴・記念日・公共空間の再編
文化領域における統制は、社会心理的支配を狙う。
「ロシア化」政策の戦略的意味
これら政策は単なる占領行政ではない。
領土主権の既成事実化
将来交渉への制度的固定化
住民アイデンティティの再構築
国際社会への政治的メッセージ
つまり、軍事占領を政治統合へ転換する長期戦略と解釈できる。
米国主導のウクライナ和平交渉の行方
交渉構造の特徴
米国が関与する和平交渉には以下の構造的困難がある。
・領土問題の非妥協性
・安全保障保証の相違
・国内政治制約
・戦場優位性の変動
特に領土帰属問題は最大の障害である。
ロシアの基本姿勢
ロシアは概ね以下の要求を維持している。
・併合地域の承認
・ウクライナの中立化
・NATO非加盟保証
・制裁緩和
領土問題での譲歩余地は極めて限定的である。
ウクライナの基本姿勢
ウクライナ側は原則として、
・領土一体性の回復
・主権の完全維持
・安全保障保証の強化
を譲らない立場を取っている。
米国の戦略的ジレンマ
米国は以下のバランスを迫られている。
・戦争長期化回避
・ロシア抑止維持
・同盟国結束管理
・国際秩序の規範維持
過度な譲歩は規範的敗北、過度な強硬姿勢は消耗戦固定化を招く。
現実的シナリオ
専門家の間では複数シナリオが想定される。
① 凍結型停戦
領土問題を棚上げし軍事衝突停止を優先。
② 条件付き和平
安全保障保証と引き換えの限定的政治妥協。
③ 長期対立固定化
朝鮮半島型・冷戦的構造への移行。
長期的展望
併合地域問題は単なる領土紛争ではない。
・欧州安全保障秩序の再編
・勢力圏政治の復活
・国際法秩序への挑戦
・国家アイデンティティの衝突
これら広域的構造変化の象徴である。
総括
ロシアが併合を宣言した4州は、
軍事占領 → 制度統合 → 社会変容 → 政治既成事実化
という段階的プロセスに置かれている。
教育・行政・司法制度の再編は、単なる統治効率化ではなく、主権転換戦略の核心である。和平交渉においても、これら制度的既成事実は重大な交渉変数となる。
結果として、問題は単純な戦争終結では解決しない。
戦後秩序・安全保障・国家主権の再定義という歴史的課題へ接続している。
