コラム:あごの筋肉、鍛えてる?全身の健康に影響
あごの筋肉(咀嚼筋)は、消化の初期工程、唾液分泌、嚥下の安全性、表情・顔貌の維持、姿勢・肩首の負担軽減、さらには一部の認知機能(注意や短期的な集中)に影響を与える重要な筋群である。
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日本は超高齢社会を迎え、口腔機能の低下が高齢者の健康に直結する課題として注目されている。厚生労働省や関連研究では、口腔機能低下症や咀嚼力の低下が中高年から増加し、高齢期以前から機能低下が始まる事例が少なくないと報告されている。口腔機能低下は栄養摂取、嚥下・誤嚥のリスク、生活の質(QOL)低下に結びつくため、公的保健指導や地域の口腔保健プログラムが強化されている。医歯学系の臨床ガイドラインや学会からは、顎関節症(TMD)や咀嚼筋の不調に対する診断・治療の指針が整備されつつあり、若年〜中年層における顎関節症の有病率や女性に多い傾向などが報告されている。これらの疫学的・臨床的な知見は、咀嚼筋を含む口腔周囲筋の健康が全身の健康維持に重要であることを示している。
あごの筋肉(咀嚼筋)の役目(解剖学的概要)
咀嚼筋は主に以下の4つで構成される。咬筋(こうきん)、側頭筋(そくとうきん)、内側翼突筋(ないそくよくとつきん)、外側翼突筋(がいそくよくとつきん)。これらは下顎骨を上下・左右・前後に動かし、食物の咀嚼、口の開閉、顎の安定を担う主要な筋群である。さらに、舌や口唇周囲の筋(口輪筋、舌筋群)、咽頭・喉頭周囲筋などと協働して嚥下や発音にも寄与する。咀嚼筋は速筋・遅筋の混合型で、持続的な力(噛みしめ)と反復的な動き(噛む)両方に対応する性質を持つ。これらの基本構造は臨床の解剖学資料でも詳細に整理されている。
咀嚼筋が重要な理由(概観)
咀嚼筋は単に食べ物を砕くだけでなく、次のような多面的な役割を持つため重要である。
食物の機械的処理(粉砕・すり潰し)により、消化の初期工程を助ける。
咀嚼によって唾液分泌が増加し、消化酵素や抗菌成分が供給される。
嚥下の誘発と安全性を高め、誤嚥や誤嚥性肺炎のリスクを低減する。
咀嚼運動は顔面の骨・筋に負荷を与えるため、顔貌や表情の維持に寄与する。
咀嚼による感覚入力は脳へ伝わり、注意や記憶、認知機能へ良好な影響を与える可能性がある。
顎の位置や咀嚼筋の緊張は頭頸部の姿勢に影響し、頸部・肩部の負担や頭痛に関連する。
これらの多面的効果により、咀嚼筋は口腔のみならず全身機能の維持にとって重要な要素である。
咀嚼と消化機能のサポート(消化の促進)
咀嚼により食物は唾液と混ざり、咀嚼で小さくされた食塊(ボーラス)は胃への移行や消化酵素の作用を受けやすくなる。咀嚼能力が低いとボーラスの性状が変わり、胃排出や炭水化物の消化(唾液アミラーゼによる前消化)に影響を及ぼす研究が報告されている。具体的には、噛む回数や咀嚼効率が低いと消化が遅延したり、栄養吸収が変化する可能性が示唆されている。成人の食事時における咀嚼の質は、消化管全体の負担を軽減する意味で重要である。
唾液の分泌と口腔内環境の維持
咀嚼は唾液分泌を増加させる強力な刺激であり、唾液は消化酵素(唾液アミラーゼ)、免疫成分(IgA、リゾチーム等)、潤滑成分を含むため、口腔内の消化と感染予防に重要である。咀嚼による唾液分泌の増加は嚥下を促進し、誤嚥リスクを低下させることが示されている。高齢者や口腔乾燥がある人では唾液分泌低下が問題となるため、咀嚼刺激(例えばガム)や味刺激が唾液分泌増加に使われることがある。唾液量・質の改善は口腔衛生にも寄与し、誤嚥性肺炎の予防にも役立つ可能性がある。
全身の姿勢とバランスの維持、姿勢のコントロール
咀嚼筋と顎の位置は頭部の重心や頸椎のアライメントに影響する。咀嚼筋の非対称な緊張や慢性的な硬直は顎位の偏位を生み、頸部の筋群に代償負担を与える。その結果、肩こりや首の痛み、さらには姿勢の崩れにつながることがある。顎関節や咀嚼筋を整えることは、首・肩の筋緊張の軽減や姿勢改善に寄与する可能性があり、全身のバランス維持に関わる。臨床でも顎関節症治療や咬合調整で頸肩部症状が改善する例が報告されている。
頭痛・肩こりの軽減
咀嚼筋の過緊張(例えば噛みしめや歯ぎしり)は筋・筋膜性の痛みや頭痛、顎関節周辺の疼痛を引き起こす。TMD(顎関節症)関連の疼痛は顔面・頭部・頸部へ放散しやすく、慢性頭痛や肩こりと関連することがある。したがって、咀嚼筋の緊張を緩和し適切に使うことは、これらの症状の緩和につながる。顎関節症ガイドラインでは心理社会的因子や筋緊張の管理も重要視している。
脳機能の活性化 — 集中力・記憶力の向上
近年、咀嚼と認知機能の関連を示す研究が増えている。ガム咀嚼が注意(選択的注意)や作業記憶、短期的な集中力に一時的な好影響を与えるとする研究報告があり、咀嚼による感覚入力が脳の覚醒・血流・神経活動を高める可能性が示唆されている。ただし、効果の持続性や個人差、課題依存性が大きく、認知機能全般の改善を保証するものではない。したがって、咀嚼は短期的な注意や作業効率向上の補助として有用だが、長期的な認知改善についてはさらなる研究が必要である。
顔の構造と表情の維持(顔貌の形成、表情筋との連携)
咀嚼筋は顔面骨に付着しており、筋肉の張力は下顎骨の位置や顔の輪郭に影響する。咀嚼筋が萎縮すると下顎部の支持が弱まり、顔のたるみや輪郭の変化が生じやすくなる。逆に過度な力み(咬筋肥大)ではエラ張りが顕著になり、審美的な問題となる。咀嚼筋と表情筋は連携して働き、表情のダイナミクスにも関与するため、筋力のバランスを保つことが自然な表情維持にとって重要である。
発音と嚥下(飲み込み)機能
咀嚼筋群の動きは、舌・口蓋・咽頭の協調運動と密接に関連し、正確な発音や安全な嚥下に必要である。咀嚼筋の弱化や協調性の喪失は、嚥下障害(嚥下遅延・誤嚥)や話し方の不鮮明化につながるため、言語聴覚士(ST)や歯科医療によるリハビリテーションが重要となる。高齢者の嚥下機能維持は栄養摂取だけでなく誤嚥性肺炎予防にも直接つながる。
食生活でのアプローチ(日常的なトレーニング)
咀嚼筋の維持・強化は日常生活での食行動を通じて可能である。以下は具体的な実践方法である。
意識してよく噛む:一口の咀嚼回数を増やす(目安として20〜30回など、食材や個人差に応じて調整する)。
歯ごたえのある食材を選ぶ:野菜(にんじん、根菜)、全粒穀物、噛みごたえのある魚・肉などを適度に取り入れる。
「ながら食べ」を避ける:テレビやスマホを見ながらの早食いを避け、咀嚼に集中することで咀嚼回数が自然に増える。
ガムを噛む:無糖ガムは唾液分泌を促し、短時間の注意力向上に使える。ただし、咬合や顎関節に問題がある場合は注意する。
これらは日常で簡単に取り入れられる方法であり、継続的に行うことで咀嚼筋機能の維持に寄与する。唾液分泌や嚥下への効果は学術的にも示されているため、高齢者ケアやリハビリでも活用される。
あご周りのエクササイズ(口腔周囲筋トレーニング)
以下に、臨床や自宅で行える代表的なエクササイズを示す。いずれも無理のない範囲で、痛みや顎関節の異常を感じたら中止して専門家に相談すること。
下あごスライド運動(上下・左右の協調)
口を軽く閉じる(歯を強く噛みしめない)。
下顎をゆっくり前方に滑らせ、3〜5秒維持する。
元に戻し、同じように左右に滑らせる。
これを10回程度繰り返す。
目的:顎の可動域と顎関節周囲の筋の協調性を高める。
側頭筋トレーニング(噛みしめ運動)
タオルなどを折りたたんで口に挟み、軽く噛む(過度に力を入れない)。
5〜10秒保持してリラックス。
これを5〜10回繰り返す。
目的:側頭筋・咬筋の等尺性トレーニング。強すぎる負荷は筋膜痛を招くので注意する。
舌のトレーニング(舌骨筋群トレーニング)
舌を口蓋にしっかり押し付けるように上に押し上げ、5秒保持する。
前方に突き出して戻す運動を繰り返す。
各動作を10回程度行う。
目的:舌の筋力と協調性を高め、嚥下の補助を行う。
ガム・食材を使った反復咀嚼
無糖ガムを一定時間(例:15〜20分)咀嚼することで咀嚼筋の持久力を鍛え、唾液分泌を促す。
歯ごたえのある食材で意識的に咀嚼回数を増やす。
これらは言語聴覚士、歯科衛生士、歯科医師が指導する場合のメニューと整合しやすい。個人の顎関節状態や歯列により適切な運動量は異なるため、現状に不安があれば専門家へ相談することが望ましい。
継続することの重要性、やり過ぎ注意
筋肉は使わなければ萎縮し、過度に使えば疲労や炎症を起こす。咀嚼筋も同様で、日常的な軽度〜中等度の負荷を継続的に与えることが理想である。一方で、以下の点に注意する。
過度な噛みしめ(ブラキシズム)や長時間のガム咀嚼は咬筋肥大や顎関節への負担、歯の磨耗を招く可能性がある。
顎関節に異音(クリック)、痛み、開口制限がある場合は自己流の運動を行わず、歯科医や口腔顔面痛専門家に評価を受ける。
慢性的な筋痛や頭痛を伴う場合は心理社会的因子(ストレス)や睡眠(ブラキシズム)など多面的要因を検討する必要がある。
適切な頻度・負荷で継続することが、咀嚼筋改善の鍵である。
専門家データとエビデンスの要点(抜粋)
厚生労働省の口腔保健関連資料は、口腔機能低下が中年以降に増加し、高齢者のQOLや誤嚥リスクに影響することを示している。公衆衛生の観点から早期介入が重要である。
顎関節症(TMD)に関する専門的なガイドラインは、20代から40代で有病率が高く、女性に多い傾向があること、心理社会的因子と筋緊張の関与が示唆されると報告している。治療は多面的アプローチが推奨される。
ガム咀嚼などの咀嚼刺激は一時的に注意力や作業効率を向上させる研究報告があるが、効果の持続や個人差が大きいため万能とは言えない。短期的な覚醒や集中支援には有用である。
咀嚼能力と消化過程の関係を示す研究では、咀嚼の質がボーラス形成や胃排出、デンプンの消化に影響を与える可能性が示されている。したがって咀嚼は消化効率にも貢献する。
咀嚼は唾液分泌を増加させ、唾液は消化と免疫に関与する。咀嚼刺激(食材や味、ガムなど)は唾液反応を誘発することで口腔内環境改善に寄与する。
今後の展望(研究・臨床・社会的取り組み)
研究面:咀嚼と長期的な認知機能低下予防(認知症リスク低減)の関連を明確にするための縦断的研究や、咀嚼筋トレーニングの最適プロトコル(頻度・強度・期間)の確立が期待される。個別化医療の視点から年齢別・疾患別の介入研究が重要になる。
臨床応用:高齢者ケアやリハビリテーション分野で、咀嚼筋・舌・嚥下訓練を統合した包括的プログラムが広がる見込みである。地域保健での早期スクリーニング(口腔機能評価)と連携した実践が重要である。
公衆衛生・教育:学校や地域での「よく噛む」習慣の啓発、偏った食生活の改善、食育を通じた咀嚼力の育成が長期的に口腔機能低下を防ぐ可能性がある。高齢化に伴い口腔ケアと栄養支援の統合的施策が強化されるだろう。
デジタル・技術活用:咀嚼回数や咀嚼パターンを計測するウェアラブル機器やアプリを活用したテレリハビリや遠隔モニタリングの普及が予想される。これにより個々の咀嚼習慣を可視化し、効果的な介入を行える可能性がある。
まとめ(要点整理)
あごの筋肉(咀嚼筋)は、消化の初期工程、唾液分泌、嚥下の安全性、表情・顔貌の維持、姿勢・肩首の負担軽減、さらには一部の認知機能(注意や短期的な集中)に影響を与える重要な筋群である。
日本では口腔機能低下が中高年から増え、高齢者の誤嚥予防や栄養維持のために口腔ケアや咀嚼機能の維持が公衆衛生上の課題となっている。
日常的な「よく噛む」習慣、歯ごたえのある食材選び、適切なエクササイズ(下あごスライド、側頭筋トレーニング、舌の運動など)は咀嚼筋を守り、機能向上に役立つ。ただし、顎関節に異常がある場合は専門家の診断を受けることが重要である。
研究は進んでいるが、咀嚼と認知の長期的関係や最適なトレーニング法についてはさらなるエビデンスが必要である。公衆衛生的な取り組みと臨床の連携により、個人の生活の質と健康寿命の延伸に寄与する可能性が高い。
参考(抜粋)
厚生労働省:「歯科口腔保健の推進に向けた取組等について」などの口腔保健資料。
顎関節症治療の指針(2024案)等、専門学会のガイドライン。
ガム咀嚼と注意・認知に関するレビュー/研究(日本心理学会誌ほか)。
咀嚼能力と消化に関する研究(2010〜2023年の臨床研究)。
Mastication and salivary flow に関する基礎研究など。
