コラム:耳のトリセツ、「音を聞く」ためだけのものではない
聴力は単に音を聞く機能にとどまらず、認知機能、社会的関係、精神的・身体的健康に広範な影響を与える重要な感覚である。
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日本の現状(2025年12月時点)
日本は世界有数の超高齢社会を迎えており、65歳以上の高齢者人口比率は30%台半ばに達している状況である。人口構造の加齢に伴い加齢性難聴(presbycusis)の患者数、聴覚機能低下を訴える高齢者が増加している傾向が公衆衛生研究で示されている。65–69歳では男性43.7%、女性27.7%が聴力低下を経験するとの報告があるなど、日本の高齢者の聴覚障害は社会的に高い頻度で存在することが示されている。
しかしながら、聴力低下があっても補聴器の装用率は高いとは言えない。日本の高齢者における補聴器使用率は全体でおよそ10%程度に留まり、重度の聴力低下者でも使用率は上がるものの約32%程度にとどまるデータが示されている。
近年では、聴力低下と認知機能の低下、精神的健康、社会的孤立の関連が複数の疫学的研究により明確化されつつあることから、単に「聴力が低下している」という事象に対する社会的対応が急務となっていると位置付けられている。
聴力とは
聴力とは、外耳・中耳・内耳(蝸牛)・聴神経・聴覚中枢までの連続的なプロセスを通じて、空気振動を電気信号に変換し、脳で音として知覚する機能である。蝸牛内に存在する有毛細胞が音波に応じて振動し、それを電気信号に変換する役割を担っているが、この有毛細胞は一度損傷すると再生しない。したがって、聴力低下の予防と早期介入が重要である。
聴力は単に「音が聞こえる」量的側面だけでなく、「音を識別・理解する」質的側面も含まれる。そして高次の聴覚処理は脳の注意・記憶・言語機能と密接に結びついている。
単に「音を聞く」ためだけのものではない
聴力は日常生活において音や声を把握するだけにとどまらない。会話理解、周囲環境の認識(交通音・警告音・人声など)、社会的交流の維持に不可欠であり、注意・記憶・言語処理といった高次脳機能とも関係する。
たとえば、雑音環境下での音声理解は外耳からの音波伝達だけでなく脳による信号選別が重要で、聴力低下はその処理負荷を増大させることが認知機能研究で示されている。
聴力の重要性(総論)
聴力は以下のような多岐にわたる健康・社会的機能と関連している。
認知症リスクの低減
複数の疫学研究で、聴力低下が認知症の予防可能な最大のリスク因子の一つとされている。慶應義塾大学の研究グループは、平均聴力閾値が38.75dBHLを超えると認知機能低下のリスクが高まることを示しており、早期の補聴器介入の意義を示している。
また、日本国内外の長期追跡研究でも、補聴器装用は中等度の難聴者において認知機能低下リスクを抑制する関連が報告されている。
これらの知見は、ランセット国際委員会(Lancet Commission)をはじめとした国際的な認知症予防研究でも裏付けられており、難聴対策を認知症予防戦略の一部とする考えが支持されている。
社会的つながりと精神保健
聴力低下はコミュニケーション障害を引き起こし、社会的孤立や疎外感を増大させる可能性がある。この孤立はうつ症状、自尊心低下、心理的ストレス増大に寄与する。日本では、聴力と社会参加の関連を分析した高齢者研究において、聴覚障害者は社会的活動の頻度が低くなりがちであることが確認されている。
海外の研究では、聴覚障害と孤独感が身体的障害の増加と関連するとの証拠もあり、孤立対策としての聴力ケアの重要性が示唆されている。
身体の安全確保
周囲の危険音(交通音、警報、注意喚起音)を適切に把握する能力は安全な日常行動に不可欠である。聴力低下は交通事故リスクの増大や生活上の危険察知遅延を引き起こし、特に高齢者の転倒・事故リスクに関連することが報告されている。また、日常生活での交流や外出意欲の低下が身体的不活動につながる例も指摘されている。
日常で行うべき聴覚ケア
聴力を維持・健康管理するためには、日常生活における行動が重要である。以下の点が専門家によって推奨されている。
「8030運動」の推進
「8030(はちまるさんまる)運動」とは、「80歳で30dB(デシベル)の聴力を保とう」という国民啓発活動活動を指す。80歳でも自立した聴力を保つという考え方が推奨されている。聴覚健康をライフコース全般にわたり意識する取り組みが求められる。
聴力は若年期から中年期にかけての環境要因(騒音曝露、生活習慣)によってその後の老年期の状態が左右されるため、予防的アプローチが重要である。
音量管理
音楽再生機器やヘッドホン利用時には、長時間・高音量の聞きすぎを避ける必要がある。WHOはポータブルオーディオ装置の音量・使用時間に関する指針を示しているが、個々の曝露レベルを低減することが不可欠である。
騒音性難聴のリスクは職業性のみならず、レジャー活動・都市生活環境でも存在するため、日常的な音量管理が必要である。
耳の休息
長時間連続で音刺激にさらされないようにすることが、内部有毛細胞の疲労回復・損傷予防に寄与する可能性がある。静音環境で過ごす時間を意識的に設けることが勧められる。
耳掃除の頻度を下げる
外耳道に過度な刺激を与える耳掃除は、耳垢塞栓や皮膚刺激の原因となる可能性があるため、頻度を抑えることが推奨される。適切なクリーニングは専門医の指導を受けるべきである。
健康習慣を通じた予防
生活習慣病の管理
高血圧、糖尿病、動脈硬化などの生活習慣病は内耳への血流障害を通じて聴力低下の一因となる可能性がある。これらを適切に管理することが、聴力保持に寄与する可能性が示唆されている。
禁煙と適度な運動
喫煙は血行障害や慢性炎症を通じて聴力リスクを増加させる。禁煙、および適度な運動習慣の維持は内耳環境の健康維持に有益であると考えられている。
早期発見と対処
定期的な検診
40歳以上を対象とした定期健康診断には聴力検査が含まれる場合があるが、自己申告や主観的評価では早期の聴力低下を見逃す可能性がある。年1回程度のオーディオメトリー(聴力検査)による定量的評価の習慣化が望ましい。
早期に聴力低下を把握することで、生活環境の見直しや専門的介入のタイミングを逃さずに対応できる。
補聴器の活用
補聴器は聴力低下による機能低下を補い、認知機能や社会的交流を維持するための重要なツールである。日本では補聴器装用率は低いが、適切な評価を受け、個々の聴力損失に合わせた補聴器選定と調整が重要である。
補聴器の効果は単純な音量増幅ではなく、騒音環境での言語理解向上や脳の聴覚負荷軽減にも寄与することから、専門的な評価に基づいた導入が推奨される。
今後の展望
今後の聴力ケアにおいて重要なのは、予防から早期発見、介入、さらには社会的支援環境の整備までを含むライフコース全体での統合的アプローチである。加齢社会における聴覚健康は高齢者のみならず、中年期からの対策が重要であり、健康政策として位置づける必要がある。
技術進歩としては、AIを活用したインテリジェント補聴器、個々の環境に最適化された補助デバイス、周囲環境ノイズの適応処理などが研究段階で進展している。これらの技術は聴力低下者のみならず、一般生活者にとっても聴覚ストレスを軽減する可能性がある(例:深層学習を活用したノイズキャンセリング技術など)。
また、社会的包摂を促進する政策、聴覚障害者の教育・雇用支援、アクセシビリティ(字幕・手話通訳・補助学習支援)の充実等が必要である。
まとめ
聴力は単に音を聞く機能にとどまらず、認知機能、社会的関係、精神的・身体的健康に広範な影響を与える重要な感覚である。加齢による聴力低下は日本の超高齢社会において公衆衛生上の重要課題であり、早期発見、日常的ケア、生活習慣の改善、補聴器の適切な導入など包括的な対策が求められる。また、聴力健康は一生を通じた課題であり、若年期からの予防的取組が将来の健康維持に寄与する。
追記:聴力に負担をかける生活環境
日本における生活環境は聴力にさまざまな負担を与える要因を含んでおり、その多くは現代社会の生活様式や都市化、職業環境、娯楽文化などと関連している。以下では、これらの主要な負担要因について整理する。
1. 騒音環境と都市生活
日本は人口密度が高く、都市部では常時高い環境騒音にさらされる生活が一般的である。交通機関(電車、自動車、バスなど)の騒音、工事現場・建設音、都市の人混みのざわめきなどが日常的な騒音源であり、これらは長時間曝露されることで耳への累積負担となる可能性がある。騒音による内耳への損傷は「騒音性難聴」として医学的に認められており、慢性的な高レベルの騒音曝露は聴力低下リスクを高める。
特に日本の都市部では電車駅近辺、繁華街、工業地帯、夜間交通が活発なエリアなどで持続的な騒音が発生している。こうした環境は一過性ではなく日常的に長時間曝露されることが多く、聴力低下だけでなくストレス、睡眠障害など他の健康問題とも関連する。
2. ポータブルオーディオ機器と若年からの高音量リスニング
スマートフォンや音楽プレーヤー等を使用したポータブルオーディオ機器は、現代日本の若者から高齢者まで広く利用されている。長時間の高音量リスニングは内耳に過大な音刺激を与え、騒音性難聴のリスクを高めるとWHOなどの国際機関は警告している。
とくに若年層における「いつもイヤホンで長時間音楽を聞く」習慣は、早期から内耳の感覚細胞に負担をかける可能性が指摘されており、若年期の聴覚保護意識の向上が求められている。
3. 職業性騒音曝露
日本の労働環境では、工場、建設現場、運送業などで高い騒音レベルに曝される現場労働者が存在する。労働安全衛生法は騒音管理基準を設けているものの、持続的な高騒音作業条件に従事する労働者は内耳損傷リスクが高く、職業性難聴予防の徹底が必須である。
また、職場における騒音管理は技術的改善だけでなく、個人への保護具(耳栓・防音イヤーマフ)の適切な装用、定期的な聴力検査と教育が不可欠である。
4. 生活習慣病
日本では高血圧、糖尿病、脂質異常症といった生活習慣病の有病率が高く、これらは内耳の血流障害や神経障害を通じて聴覚機能に負担を与える可能性がある。生活習慣病は内耳の微小循環を阻害し、内耳の有毛細胞や聴覚神経に慢性的なストレスを与える要因として研究されている。
喫煙や過度の飲酒はこれらの疾患のリスクを増加させるだけでなく、内耳への悪影響を強めることが示唆されており、生活習慣全般の見直しが重要である。
5. ストレスと睡眠不足
日本社会では長時間労働、ストレス負荷の高い生活が一般的な背景にあり、慢性的なストレスや睡眠不足が自律神経機能に影響を与える。内耳は自律神経系と関連しており、ストレス関連ホルモンや血行不良が内耳環境を悪化させ、聴力低下を間接的に促進する可能性が指摘されている。
6. 医療体制と補聴機器普及の課題
日本では補聴器が健康保険適用外であり、費用面の負担が普及の障壁となっている現状がある。補聴器装用率が低いことは、聴力低下を放置する要因となり、認知機能低下や社会的孤立といった二次的な健康リスクを増幅させる可能性がある。
医療機関での聴力評価や補聴器適合検査を受ける文化が必ずしも定着しておらず、自己判断による対応が先行するケースが多い。制度的支援や啓発活動の強化が求められている。
7. 高齢化社会による累積負担
日本の高齢化に伴い、長年にわたる騒音曝露、生活習慣病、ストレス負荷などが累積して聴覚機能への影響を与える世代が増えている。これらの負担は単独ではなく複合的に作用し、高齢期の聴覚機能低下を加速させる可能性がある。
結語
日本の生活環境には聴力に負担を与える要因が多様かつ複合的に存在している。騒音環境、ポータブルオーディオ、職業性リスク、生活習慣病、医療制度の課題などが互いに関連しながら聴覚健康に影響を及ぼしている。これらを克服するためには、政策的支援、生活習慣改善、個々の予防行動、社会的理解と支援が不可欠である。聴力健康は個人のQOL(生活の質)に直結する重要な要素であるため、社会全体で取り組むべき課題として認識される必要がある。
