コラム:有事のドル買いと「ドル離れ」が両立、イラン紛争後の為替相場
イラン攻撃後の為替市場が示した最大の特徴は、ドルへの依存とドルへの警戒が同時に存在していることである。
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現状(2026年3月時点)
2026年3月時点の為替市場は、地政学リスクによるドル高圧力と、長期的なドル離れ圧力が同時に存在する極めて特異な状態にある。通常であれば安全資産としてドルが買われる局面では、ドルの信認はむしろ強化されるはずであるが、今回の局面では短期と長期で市場の評価が分裂している。
とりわけ2026年2月末の米国・イスラエルによるイラン攻撃以降、為替市場は典型的な「有事のドル買い」を示した一方で、中央銀行や機関投資家の行動を見るとドル依存を減らす動きも同時進行している。この二重構造が現在の為替市場の最大の特徴である。
ドルは依然として世界最大の準備通貨であるが、そのシェアは2001年の約72%から2025年には約57%まで低下しており、基軸通貨としての絶対的地位は長期的に緩やかに低下している。にもかかわらず、有事ではドルが買われるという現象が繰り返されている点が、本稿の検証対象である。
米イスラエル・イラン紛争後の混乱(26年2月末~)
2026年2月28日、米国とイスラエルはイランの軍事・核関連施設に対する大規模攻撃を実施し、中東情勢は急激に緊張した。市場では原油価格が急騰し、エネルギー供給不安とインフレ懸念が同時に拡大した。
為替市場では攻撃直後にドルが全面高となり、主要通貨の多くに対してドルが上昇した。スイスフランや金といった伝統的な安全資産よりもドルが優位となったことから、市場参加者が依然としてドルを第一の流動性資産として認識していることが確認された。
しかし同時に、原油高によるインフレ圧力と財政拡張への懸念から、ドル高は長続きしない可能性も指摘された。戦争が長期化すれば、米国の財政・金利・インフレに対する不信が高まり、ドル売り圧力へ転じる可能性があると分析されている。
現象の定義:なぜ矛盾が両立するのか
本現象は、通貨の役割が「流動性資産」と「価値保存資産」に分離していることにより説明できる。ドルは依然として世界最大の決済・資金調達・金融市場の基盤であるため、短期の危機では最も使いやすい資産として買われる。
一方で長期的には、制裁・財政赤字・インフレ・政治不信などにより、価値保存手段としての信認は徐々に低下している。このため短期ではドル買い、長期ではドル離れという一見矛盾した動きが同時に発生する。
この構造は近年の国際金融研究でも指摘されており、地政学対立の激化により決済ネットワークが分断されると、各国は代替システムを構築しながらも既存システムに依存せざるを得ない過渡期が生じるとされる。
有事のドル買い(短期・流動性)
有事のドル買いとは、戦争・金融危機・パンデミックなどの際にドルが上昇する現象を指す。これはドルが最も流動性が高く、世界中で即座に決済に使えるためである。
世界の外貨準備の過半は依然としてドル建てであり、国際債券・貿易決済・金融取引の中心もドルである。このため市場参加者は危機時に最も確実に換金できる資産としてドルを選択する。
2026年のイラン攻撃後も同様の動きが確認され、短期間ではドルが主要通貨に対して上昇し、典型的なリスクオフ相場となった。これはドルの信認が維持されているというより、代替が存在しないことを示している。
ドル離れ(長期・安全性)
一方で長期的にはドル離れが進んでいる。中央銀行の外貨準備に占めるドルの割合は緩やかに低下しており、ユーロ、円、人民元、金への分散が進んでいる。
この動きは単なる通貨分散ではなく、政治リスク回避としての意味を持つ。特にロシア制裁以降、ドル資産が凍結される可能性が現実化したため、多くの国がドル依存を減らす戦略を取っている。
このため市場では「短期ではドル買い、長期ではドル離れ」という二層構造が形成されている。これは基軸通貨の終焉ではなく、覇権通貨の機能分裂と解釈される。
イラン攻撃後の為替相場:2026年3月時点の検証
イラン攻撃後の1週間ではドルがほぼ全面高となり、スイスフランや金に対しても上昇した。この動きは典型的な有事のドル買いである。
しかし攻撃後の数日間でドルは乱高下し、戦争長期化の懸念が強まるとドル高が修正される場面も見られた。これはインフレと財政負担がドルの弱材料として意識されたためである。
つまり市場は短期ではドルを買い、長期ではドルを疑うという行動を同時に取っている。これが今回の最大の特徴である。
「有事のドル買い」の再燃
2020年代後半に入りドル離れ論が強まっていたが、今回の紛争で有事のドル買いが再確認された。これはドルの金融市場の厚みが依然として圧倒的であるためである。
米国債市場は世界最大の安全資産市場であり、大量資金を瞬時に受け入れることができる。この規模の市場を持つ通貨は他に存在しない。
そのためドル離れが進んでも、有事ではドルが買われる構造は当面変わらないと考えられる。
金(ゴールド)とドルの同時高
今回の特徴として、金とドルが同時に買われる局面が見られた。これは流動性資産としてのドルと、価値保存資産としての金が役割分担していることを示す。
金はインフレと政治不信に強く、ドルは流動性に強い。このため長期不安が強まるほど金が上昇し、短期不安が強まるほどドルが上昇する。
この二重高は、通貨秩序の過渡期に特有の現象である。
米国債の「安全神話」の揺らぎ
近年は米国債も無条件の安全資産とは見られなくなっている。財政赤字の拡大、政治対立、インフレなどが原因である。
それでも危機時には米国債が買われるため、安全神話は崩れていないが、無条件ではなくなっている。
この状態がドル離れとドル買いの同時発生を生んでいる。
「ドル離れ」を加速させる3つの要因
第一は財政赤字である。米国の債務増加はドルの長期信認を低下させる。
第二は制裁の多用である。金融制裁はドルを武器として使う行為であり、各国に回避行動を促す。
第三は地政学分断である。世界がブロック化すると通貨も分断される。
通貨の兵器化(Weaponization)への警戒
ドルは決済網と金融制裁を通じて政治的に利用されてきた。このため各国はドル依存をリスクと認識している。
研究では、制裁リスクが高まるほど代替決済ネットワークの構築が進むことが示されている。
これはドルの長期的弱体化要因である。
BRICS+による決済システムの構築
BRICS諸国はドル以外の決済手段を拡大している。人民元建て取引、CBDC、地域決済網などである。
完全な代替には至っていないが、ドル依存を減らす効果はある。
この動きは長期的に為替市場の構造を変える。
エネルギー市場の変容(ペトロドルの終焉)
かつて原油はほぼドル建てだったが、現在は一部で人民元や自国通貨決済が増えている。
エネルギー取引の通貨多様化はドルの基盤を弱める。
ただし依然としてドルの割合が大きく、急激な変化ではない。
為替相場への体系的影響分析
超短期(有事直後):有事のドル買い
流動性確保のためドルが買われる。
中期(紛争継続中):インフレ懸念の波及
原油高 → インフレ → 金利上昇 → ドル不安定。
長期(構造的変化):ドル離れの加速
制裁・財政・分断により準備通貨の多極化。
「他に代わる決済手段がない」という消極的な選択
ドルが買われる最大の理由は信頼ではなく代替不在である。
ユーロは政治統合が不十分、人民元は資本規制がある。
そのためドルが選ばれている。
今後の展望
短期では有事のドル買いは続く。
中期ではドルの変動は激しくなる。
長期では多極通貨体制へ移行する可能性が高い。
まとめ
有事のドル買いとドル離れは矛盾ではなく、時間軸の違いによる現象である。
短期では流動性としてドルが必要。
長期では価値保存として分散が進む。
2026年のイラン攻撃後の為替相場は、この二重構造が最も明確に現れた例である。
参考・引用
- Reuters
- MUFG Global Market Outlook
- マネックス証券レポート
- JBpress 為替分析
- Federal Reserve International Role of Dollar
- IMF COFER data
- Academic papers on financial fragmentation
- Geopolitical finance research
- Reuters reserve currency reports
- 為替市場専門家コメント
- Goldman Sachs / JP Morgan 市場見通し
- その他公開金融レポート
追記:「ドル依存のリスク」を世界が再認識
2020年代以降、国際金融秩序において最も大きな認識変化の一つは、ドルに依存すること自体がリスクであるという認識が広がったことである。従来はドルは安全資産であり、ドルを持つことがリスク回避と考えられていたが、現在ではドルを保有することが政治リスクを伴う可能性があると見られている。
この認識が決定的に強まった契機は、ロシアに対する金融制裁である。外貨準備の凍結、決済網からの排除、資産差し押さえなどが実際に行われたことで、ドル資産は絶対的に安全ではないことが明確になった。
この経験は新興国だけでなく、中東、アジア、アフリカの多くの国に影響を与えた。特に資源輸出国や政治的中立を志向する国ほど、ドル依存を減らす必要性を強く認識するようになった。
2026年のイラン攻撃後、この認識はさらに強まった。中東情勢の不安定化により、米国と対立する可能性がある国は、ドル資産が制裁対象となるリスクを再評価することになった。
このため、短期ではドルが買われる一方で、長期ではドルを減らすという行動が合理的となる。この二重行動が現在の為替市場の構造的特徴である。
非ドル圏の決済システム(BRICS Pay等)の普及率が為替相場の新たな決定要因に
従来の為替相場は、主に金利差、経常収支、資本移動によって決定されてきた。しかし現在では、どの決済ネットワークを使うかという制度的要因が為替の重要な決定要因になりつつある。
BRICS諸国はドル依存を減らすために独自の決済網を構築している。代表例がBRICS Pay構想であり、域内取引をドルを介さずに決済する仕組みである。
このような決済システムの普及率が上昇すると、ドル需要は構造的に減少する。為替市場におけるドル需要は単なる投資需要ではなく、決済需要によって支えられているためである。
特にエネルギー取引、軍事取引、大規模インフラ取引などがドル以外で行われる割合が増えると、ドルの長期的価値に影響を与える。
2026年時点では、非ドル決済の比率はまだ限定的であるが、増加の方向は明確である。このため市場では、非ドル決済の普及速度そのものが為替相場の新しい指標として意識され始めている。
また重要なのは、非ドル決済の拡大はドル崩壊ではなく、ドル支配の希薄化として進行する点である。つまりドルは残るが、独占ではなくなるという変化である。
この構造変化は短期の為替よりも、長期の通貨体制に大きな影響を与える。
「ドルの代替」としての金(ゴールド)の役割
ドル離れが進む局面で最も顕著に買われている資産は金である。これは金が国家に依存しない資産であり、制裁の影響を受けにくいためである。
中央銀行の金保有は近年急増しており、特に新興国の購入が目立つ。これはドル資産の代替として金を位置付けていることを示している。
金は通貨ではないが、信用を必要としない価値保存手段である。このため通貨秩序が不安定になるほど需要が増える。
2026年のイラン攻撃後も、ドルと同時に金が上昇する局面が見られた。これは短期の流動性としてドル、長期の安全性として金が選ばれていることを意味する。
この同時高は、通貨秩序の過渡期に特有の現象である。単一の安全資産が存在しないため、市場は複数の資産に分散する。
また金は決済には不向きであるが、準備資産としては極めて強い。したがって金はドルの代替ではなく、ドル依存を減らすための補完資産として機能している。
近年の中央銀行行動を見ると、ドルを減らし金を増やすという傾向が明確であり、この流れは地政学対立が続く限り継続する可能性が高い。
このため今後の為替市場では、ドル指数だけでなく金価格の動きも同時に見なければ通貨の信認を判断できなくなる。
為替相場の新しい決定構造
現在の為替市場は従来の金利主導型から、制度主導型へ移行しつつある。どの通貨が使われるかは、金融政策だけでなく、政治関係と決済ネットワークによって決まる。
ドル依存のリスク認識、非ドル決済の拡大、金の保有増加という三つの要素は相互に連動している。これらが同時に進行することで、ドルの長期的シェアは徐々に低下する。
しかし同時に、短期ではドルの流動性優位が維持されるため、有事のドル買いは消えない。このため為替市場は今後も二重構造を維持すると考えられる。
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短期=ドル優位
長期=分散化
という構図が固定化する可能性が高い。
追記まとめ
イラン攻撃後の為替市場が示した最大の特徴は、ドルへの依存とドルへの警戒が同時に存在していることである。
世界はドルを使い続けながら、ドルに依存しない仕組みを作ろうとしている。この矛盾した行動こそが現在の通貨秩序の本質である。
非ドル決済の普及率、中央銀行の金保有、制裁リスクの評価といった要素は、今後の為替相場を決める新しい変数となる。
したがって今後の為替分析では、金利差だけでなく
決済ネットワーク
政治同盟
制裁リスク
準備資産構成
を同時に見る必要がある。
現在の為替市場は、単なる市場ではなく、国際秩序の変化そのものを反映している。
参考・引用(追記)
- IMF COFER
- World Gold Council
- Federal Reserve Dollar Report
- BRICS financial cooperation papers
- Reuters currency system reports
- BIS international settlement reports
- JP Morgan geopolitics outlook
- Goldman Sachs currency strategy
- 各国中央銀行統計
- 国際決済銀行レポート
