SHARE:

コラム:タイとカンボジア、対立と紛争の歴史

タイとカンボジアの紛争は単純な領土争いではなく、植民地期の地図と条約の技術的問題、1962年ICJ判決の限定的範囲、2008年のユネスコ登録が触媒となったナショナリズムの昂揚、そして両国の内政的要因が複合している。
2025年11月12日/カンボジア、タイ国境近くの集落、カンボジア軍の兵士と市民(AP通信)

2025年12月時点で、タイ王国とカンボジア王国の国境紛争は断続的な軍事衝突の段階から再び激しい武力衝突へと拡大している。2025年7月にかけて両国は複数回にわたる砲撃、ドローンや地雷を伴う事件、民間人避難を伴う大規模な衝突を経験し、数十人の死者と数十万の国内避難民を生んだと報じられている。国際社会(ASEANや欧米諸国)は仲介や停戦呼びかけを行ったが、停戦は脆弱であり、局地戦が繰り返される状況が続いている。2025年末にも散発的な交戦が継続し、文化遺産であるプレアビヒア(Preah Vihear)寺院周辺や周縁地域が実際の砲撃や被害の対象となり、文化財保護と安全保障が同時に損なわれている。

歴史的背景

タイ(旧・シャム)とカンボジアの国境紛争の根底には、カンボジア王国がかつてのクメール帝国の中心であり、両国に散在する古代遺跡が存在するという歴史的事情と、19–20世紀に欧州列強(特にフランス)の介入によって人工的に引かれた国境線の痕跡がある。19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランス保護領インドシナとシャムの交渉・条約により、今日の国境線の基礎が作られたが、現地調査や地図作成のずれ、条文解釈の違いが生じた。これが、特にダンレック山脈(Dangrek / Dangrek Range)に沿った分水界を巡る解釈差として残り、プレアビヒアのような崖上の遺跡周辺で領有のそごを生んだ。学術的分析は、帝国衰退と植民地化、そして戦後の国家再編がナショナリズムと結びついて紛争化したことを指摘している。

植民地時代の国境画定

主要な分岐点は1904年の「フランス—シャム協定(Convention of 1904)」と1907年の「フランス—シャム条約(Treaty of 23 March 1907)」にある。これらの条約は、ダンレック山脈の分水界を国境の基礎とする旨や、調査のための混成委員会(Franco–Siamese Mixed Commission)を設置することを定めた。しかし、混成委員会が作成した地図(いわゆる「Annex I」や1:200,000縮尺図)は、条約文にある分水界線と実際に異なる描画がなされた箇所を含んでおり、プレアビヒア付近はその代表例である。フランス側が作成した地図は当時シャム政府に提示され、後年の国際訴訟で「シャム(タイ)は地図に異議を唱えなかった」と評価される一方で、タイ側は地図作成の法的拘束力や実効支配の観点から反論してきた。こうした植民地期の技術的・手続的な不備が、20世紀後半以降の双方の主張対立を助長した。

プレアビヒア寺院(Preah Vihear)の帰属

プレアビヒア寺院は11〜12世紀に建設されたクメール建築の重要遺構で、崖の上に立地するため眺望と戦略的価値が高い。1959年、カンボジアはこの寺院の領有を巡って国際司法裁判所(ICJ)に訴えを提起した。1962年のICJ判決は、主にフランスが作成して双方に配布した地図(Annex I 地図)と当時の外交的経緯を根拠に、寺院建造物自体はカンボジア領であると認定した。判決はタイに対して寺院に駐留する軍隊の撤退や、占有下で取り去った遺物の返還などを命じた。だが、判決が対象としたのは「寺院建造物」とその直近の位置に焦点を当てたため、その周辺の高地・平地や「プロモントリー(promontory)」の正確な範囲・地表領域については後年まで論争が残った。

1962年の国際司法裁判所(ICJ)判決

ICJは1962年6月15日に「Temple of Preah Vihear(Cambodia v. Thailand)」の判決を下し、寺院はカンボジアの領域にあると結論付けた。裁判所は地図の効力や当時の両国の外交行為(黙認・承認の有無)を重視し、「黙して同意するものと見なされる」という国際法上の原則を適用した点が判決の特徴である。一方で、判決は幅広い周辺地域の帰属問題について包括的に解決したわけではなく、後の解釈や境界線画定作業を残すことになった。これが紛争の火種を完全には消し去らなかった理由である。

近年の紛争(2008年以降)

2008年以降、プレアビヒア周辺を含む国境地帯では繰り返し武力衝突が発生した。大きな転機は2008年のユネスコ世界遺産登録であり、カンボジア単独申請による登録決定がタイ国内の強い反発を招いた。その後2008年から2011年にかけて散発的な銃撃戦や砲撃、地雷被害、民家への着弾、そして軍人・民間人の死傷者が発生した(一般に「2008–2011年カンボジア・タイ国境危機」と呼称される)。各年次の衝突の激しさは変動したが、2011年にはICJへの追加的な手続(解釈の申請と暫定措置申請)に発展し、国際司法の判断が再び求められた。学術面では、この時期の衝突は単なる地図上の争いでなく、国内政治の動揺やナショナリズムの高揚、地方の経済的利害(森林資源や観光収入)などが複合的に作用したと分析されている。

2008年の世界遺産登録と衝突

2008年7月、ユネスコはプレアビヒア寺院を世界遺産リストに登録した。この決定は公式文書上は「顕著な普遍的価値」を認める文化遺産の登録であるが、地図の提示や登録範囲の扱いが政治問題化し、タイ国内のナショナリストや野党勢力が政府を攻撃する口実となった。タイ側の一部は「カンボジアによる領土の拡張」と受け止め、強い抗議とデモが起こった。これが地域における軍事的緊張の高まりに直結し、2008年秋には既に武力衝突が起きている。ユネスコはその後、2011年に現地調査団を派遣し、文化財保護の観点からの勧告や冷静な対応を求めたが、軍事的衝突の抑止には限界があった。

2011年の大規模衝突とICJへの再提起

2011年4月~5月にかけては、最も激しい衝突の一つが発生し、双方の軍・民間人に多数の死傷者を出した。タイ軍がクラスター爆弾に類する弾薬(DPICM)を使用したとする非難や、砲撃による寺院・周辺遺跡への被害報告がなされた。2011年4月28日、カンボジアは1962年判決の解釈を求める「解釈申請(request for interpretation)」および暫定措置をICJに再度申し立てた。ICJは2011年7月18日に暫定措置を示し、両国に軍隊の撤収や現状を悪化させる行為の差し控えなどを指示した。だが現場での緊張は続き、地方レベルの衝突は収まらなかった。

2013年の再判決(ICJの解釈判決)

2013年11月11日、ICJは2011年の解釈申請に関する判決を下し、1962年判決の解釈として「プロモントリー(突出部)」をどの範囲まで含むかを明確化するとともに、寺院を含む突端部はカンボジアの領域に属するとの結論を再確認した。裁判所は、1962年判決によってプロモントリー全体がカンボジアに帰属する旨が認められると判断し、タイに対して係争地域から軍隊を撤去するよう命じた。2013年判決は法理的にはカンボジア側の勝訴的内容を強化したが、現地での地上支配や即時の軍隊撤退がなされないことから、政治的・実効的な解決には依然として距離があった。

問題点
  1. 法的判決と現地実態の乖離:ICJの1962年・2013年判決はいずれも寺院やその一部の帰属を明確化したが、国境全線の実地画定や周辺の高低差を含む領域の管理は残されたままである。判決が地図や歴史的行為に依拠する一方、現地での部隊配備や資源利用の実効支配は国際判決だけでは直ちに変わらない。

  2. 地図・測量資料の不整合:1904年・1907年の条約や混成委員会が作製した地図と条文の記述(分水界基準)に差異があり、どの地図を法的に優先するかが争点となる。双方が異なる地図や縮尺を根拠に主張を展開しやすい構造が残っている。

  3. ナショナリズムと政治的利用:プレアビヒアは文化的・歴史的象徴であるため、政治勢力が国内政治や選挙、反対派攻撃の道具として活用する傾向がある。2008年以降の衝突局面では、タイ側のナショナリスト運動や政局の変動が衝突の激化に寄与したとする研究がある。

  4. 軍事化と地雷・未爆発弾(UXO):断続的な交戦は地雷や未爆弾の散乱を招き、住民生活や人道支援、復興・観光に深刻な長期影響を与える。国際的な地雷処理機関や非政府組織が除去活動を行っているが、継続的な安全確保が不可欠である。

未画定の国境線

両国の国境線は全線で厳密に画定されているわけではない。特にダンレック山脈に沿った分水界の取り扱いや、測量縮尺・地図注記の違いから境界が曖昧な区間が残る。これらの未画定区間は森林資源、道路建設、観光ルートの管理権と結びつきやすく、地方行政レベルと国防レベル双方の利害を複雑化させる。条約に基づく正式な立会いによる再測量と共同画定作業が政治的合意をもって進まない限り、断続的緊張は解消されにくい。

ナショナリズムの衝突

プレアビヒアは国家的「象徴性」を持つ聖地であるため、領有問題は単純な領土問題を超えて「国家の尊厳」「歴史の回復」といった高い情緒的価値を帯びる。2008年以降の事例は、国内の政治的弱体化や保守勢力・民族主義者の台頭が国境問題に火をつける典型例である。学術研究は、ナショナリズムがいったん刺激されると妥協を困難にし、外交交渉を国内向け政治パフォーマンスに変質させる危険を指摘している。

内政事情の複雑化

タイとカンボジアそれぞれの国内政治事情が国境問題の扱い方を左右してきた。タイでは政権交代や軍部と民政勢力の対立、ポピュリズム的政治運動が国境問題を利用する動機を生み、カンボジアでは一党支配体制の下で指導部がナショナリズムを強調して支持基盤を維持する手段として遺産問題を用いることがある。加えて外部勢力(中国や西側諸国)の軍事・経済的関与が安全保障上の均衡を変え得る点も留意する必要がある。こうした内外の政治的圧力が両国の落とし所を困難にしている。

世界遺産登録を巡る対立

世界遺産登録は文化財保護の国際的枠組みであるが、現地の領有・境界問題と絡むと政治的摩擦を引き起こす。プレアビヒアの2008年登録はカンボジアにとって国際的承認である一方、登録過程や添付地図の扱いがタイ国内の政治的反発を誘発した。国際機関(ユネスコ)は文化財保護の立場から関与・調査を行うが、主権問題そのものを決定する権限はなく、文化保護と領域主張の軋轢が継続している。ユネスコは2011年に現地調査を行い、遺跡保護の観点から冷静な行動を求めた事実があるが、それでも現場の軍事的緊張を止めるには至らなかった。

専門家データ・研究による分析

複数の学術研究や政策報告は、この紛争を「低強度境界衝突(low-intensity border conflict)」や「植民地地図の遺産(colonial map legacy)」と定義している。例えば、Pavin Chachavalpongpunらの研究はタイ国内の政治運動とナショナリズムが紛争を激化させる機序を示しており、他の分析は1904–1907年の混成委員会地図の技術的欠陥が法的論争の根拠であると論じている。地雷・UXOに関する人道的データ(ノルウェー人民支援やGICHDの報告)は、境界紛争地帯での地雷被害と除去作業の重要性を示しており、除去未了地域の住民安全性指標や経済的損失評価が行われている。これらのデータは、軍事的解決ではなく包括的な境界画定・地域復興・遺跡保護・地域住民支援を含む多面的対応の必要性を示唆している。

今後の展望
  1. 法的解決と現地実務の分離を埋める努力:ICJ判決は法的権威を持つが、現地での実効的な軍撤収や共同管理、共同観光ルートの確保など「実務的」取り決めが不可欠である。再度の合同調査、第三国の中立的観察団(ASEAN、国連、ユネスコなど)の恒常的配備、あるいは暫定的な共同管理協定が考えられる。

  2. 非軍事化と遺跡保護の優先:文化遺産保護を最優先する合意を作り、寺院および周辺の発掘・保存・観光インフラ整備を共同で進めることで、地域住民の経済的インセンティブを生み、軍事的緊張を緩和する道がある。ユネスコとの技術協力や第三国援助を活用すべきである。

  3. 境界画定プロセスの透明化と技術的再測量:当時の図面と現代の測量技術(GPS、衛星画像)を用いて、双方が合意できる形で境界を再確認する共同プロジェクトを実施することが長期安定には必須である。条約上の地図の法的位置づけを踏まえつつ、現実の地形・人間活動に適合した境界線を描く必要がある。

  4. 国内政治とナショナリズムの緩和:国内政治で国境問題が政争の道具化する限り持続的な合意は難しい。両国の指導者や市民社会、学界が相互理解を促進し、教育や共同研究、文化交流によりセンシティビティを下げる努力が求められる。専門家は、紛争管理には外交・司法・社会レベルの統合的アプローチが有効だと指摘している。

  5. 人道支援と地雷除去:衝突が続く限り民間被害は続くため、地雷除去、被災民支援、医療・教育の復旧が優先課題である。国際援助機関や非政府組織との連携で、被害軽減と早期復興の枠組みを作る必要がある。

まとめ

タイとカンボジアの紛争は単純な領土争いではなく、植民地期の地図と条約の技術的問題、1962年ICJ判決の限定的範囲、2008年のユネスコ登録が触媒となったナショナリズムの昂揚、そして両国の内政的要因が複合している。法的な勝敗が明確でも、現地での実効支配と住民の安全を伴う持続的解決には「法+技術+政治+社会」の複合的処方が必要である。短期的には停戦の履行と民間被害の軽減、中長期的には共同管理と境界の技術的クリアランスを両国と国際社会が協力して実行することが最も現実的な道である。


参考(抜粋)

  • International Court of Justice, Judgment of 15 June 1962, Temple of Preah Vihear (Cambodia v. Thailand).

  • International Court of Justice, Summary of Order of 18 July 2011 (Provisional Measures) / Judgment of 11 November 2013 (Interpretation).

  • UNESCO World Heritage Centre, Decision and listing documents for the Temple of Preah Vihear (2008); UNESCO mission statements (2011).

  • 報道:Reuters、The Guardian 等の2025年の事案報道(2025年の衝突と人道的影響について)。

  • 学術分析:Pavin Chachavalpongpun 等によるナショナリズムと政治の影響の分析、ResearchGate 上の事例分析。

  • 地雷除去・人道的影響:GICHD/NGO のボーダー地域除去レポート。


1) 1904年・1907年条約(国境画定関係) — 原文出典と重要抜粋

出典(原文・公式翻刻)

  • 1904年協定(Convention between France and Siam, 13 February 1904 / protocol 29 June 1904):米国国務省史料室や各国公文書館で公開されている。英文の掲載(史料解説): Office of the Historian(米・FRUS系のアーカイブ)。

  • 1907年条約(Franco–Siamese Treaty, 23 March 1907)およびその付属地図(Annex I):フランス外務省記録や各種法令集、国際条約データベースに収録。条文と当該付属図(Annex I)が紛争解釈の中心資料となる。公的転載の一例(WHO/WorldLII等に翻刻)や英語訳の二次資料が利用可能。

(重要抜粋)1904年協定の趣旨(要旨・抜粋)
(原文は英仏語で存在するが、ここでは関連箇所を要約・抜粋して示す)

  • 協定はフランス領インドシナとシャム(Siam)との間で国境に関する原則を確認することを目的とし、紛争地域の現地調査と地図作成・確認を行う手続を定めている(現地の境界線は「分水界(watershed)」等の自然地形を基準とする旨の規定が含まれる)。

(重要抜粋)1907年条約の趣旨(要旨・抜粋)

  • 1907年条約は、両当事国が1904年協議を踏まえ、ダンレック山脈付近を含む一連の地域について更に詳細な地図(Annex I 等)を作成・配布して実効的な境界を確認した旨を述べる。条約の実務では、フランスが作成した地図(Annex I)を双方に提示・配布し、以降その地図が事実上の境界参照資料として使われた点が後年のICJ係争で重要視された。特にICJは「Annex I によって示された線は当時の外交的やりとりにおいてシャム側に提示されており、シャムが異議を申さなかった」と評価した文脈がある(ただしタイ側は地図の法的拘束力や実効支配に関して異議を唱える余地を主張してきた)。

原文・逐語訳の入手先(推奨)

  • 1904年協定(史料): Office of the Historian(U.S. Department of State)等。

  • 1907年条約(原語フランス語、翻訳版含む): WorldLII / 国際条約アーカイブ / 各国外務省公開文書(PDF等)。Annex I の地図はICJの事件資料にも添付されている。

注記(実務的意味)

  • 1904/1907年文書の法的評価においては「条約本文(text)」「付図(Annex I 等)」「両国の当時の外交行為(外交通牒・黙認の有無)」が連動して問題となる。ICJは1962年判断などで“地図が双方に与えられた・提示された事実”を重視した(黙認の法理を採用)。


2) ICJ判決(1962年・2013年) — 主要法理と判旨のポイント要約

出典(原文・公的要旨)

  • ICJ公式:1962年判決(Judgment of 15 June 1962, Temple of Preah Vihear (Cambodia v. Thailand))および 2013年判決(Judgment of 11 November 2013, Request for Interpretation of the Judgment of 15 June 1962)。ICJ公式ページの全文(判決文・要旨・地図付属資料)を参照。

1962年判決(要旨・主要法理)

事案の焦点:プレアビヒア寺院(Temple of Preah Vihear)の領有権を巡るカンボジア対タイの訴訟。
ICJの主要判断(ポイント)

  1. 「地図(Annex I)の効力」重視:ICJは、フランスが作成して双方に渡した地図(Annex I)に基づき、寺院建造物自体はカンボジア領域にあると判断した。裁判所は、当事国が当時の地図を黙認していた事実を重視し、「黙認=承認(acquiescence)」の法理を適用した。

  2. 判決の射程の限定:ICJは寺院建造物(the temple building)およびその直近の位置に関して帰属を確定したが、広い周辺地帯(promontory の全域や遠方の高地)について全面的に画定したわけではない。言い換えれば、1962年判決は「寺院およびその建造物がどちらの主権下にあるか」を中心に判断したに留まる側面がある。

  3. 外交行為の評価:判決は当時の外交的振舞(政府間で地図が提示されたこと、抗議の有無等)を重視する国際法的アプローチをとり、書面地図と国家行為の関係を法的根拠として組み立てた。

法理的意義:地図という事実証拠と当時の国家行為(黙認)の組合せが境界画定の決定的根拠になり得ることを示した。だが同時に、判決の限定的適用範囲(建造物周辺の広域帰属を明確にしていない)により、後年の解釈問題を残した。

2013年判決(Request for Interpretation, 要旨・主要法理)

事案の焦点:カンボジアが1962年判決の「解釈」をICJに求めた(2011年の武力衝突を受け、1962年判決の範囲について明確化を要請)。
ICJの主要判断(ポイント)

  1. 1962年判決の解釈:ICJは1962年判決を読み直し、「promontory(突出部)」の帰属範囲を1962年の判決は突出部全体をカンボジアに帰属させる趣旨を含んでいると解釈した。これにより、寺院そのものだけでなく、周辺の突出部の全域がカンボジア領に属するとの法的解釈を示した。

  2. 暫定措置(2011年のOrder)との関係:2011年にICJは暫定措置を示し「当事国は争いを悪化させないこと」「軍隊の撤収等」を命じた。2013年判決は解釈問題に最終判断を与えるもので、1962年判決の範囲を狭く解する主張(=寺院のみ)を退ける形となった。

  3. 実効支配の問題は裁判管轄外ではないが複雑:ICJは法的解釈でカンボジア側主張を支持する判断をしたが、裁判所の法的結論と現地での実効支配(部隊配置・占有状態)を直ちに消滅させるわけではないと述べる文脈が判決全体にある(つまり「法的帰属」と「現場での実効コントロール」は別問題である)。

法理的意義:1962年判決の限界(寺院中心の判断)をICJ自身が解釈的に拡張し、突出部全域がカンボジア領であるとの見解を明示したことで、以降の国際法的根拠はカンボジア側に有利になった。ただし、その実効化(現場レベルでの軍撤収・共同管理等)は政治的・軍事的合意が必要である点も強調された。


3) 年表:2008–2011年(事件別、被害者数・避難者数・軍事行動)および2025年主要事案年表

注意:紛争中の被害者数・避難者数は報道機関・政府発表・国際機関 (IDMC/UN/ICRC 等) により差がある。以下は代表的な出来事と、主要出典に基づく報告数値(出典別の幅)を示す。


A. 2008年(世界遺産登録と初期の衝突)

  • 2008年7月:ユネスコがプレアビヒア寺院を世界遺産(文化遺産)に登録(カンボジア単独申請として採択)。登録決定文書には「登録対象は寺院建造物そのものに限定され、広い突出部全体を含まない」との注記がある(UNESCOの決議文)。この登録がタイ国内の強い反発とナショナリズム的動員を誘発。

  • 2008年10月前後:登録後まもなく、寺院周辺で小規模~中規模の軍事的衝突(砲撃・銃撃)発生。被害報告は散発的で、数名の負傷・小規模な家屋被害など。主要報道が一斉に関心を持ったのはこの時期から。

参考被害・避難数(2008年):公式集計は年次としては小規模(数十〜数百規模の避難・負傷)とされる。出典ごとに差があるが、2008年はまだ大規模流民化には至っていない。


B. 2009–2010年(断続的衝突)

  • 2009–2010年:寺院周辺や国境の「灰色地帯」で断続的な小規模衝突が継続。2010年1月末 / 2010年4月などに散発的な銃撃・砲撃が報告され、双方ともに死傷者が出た(いずれも数人~十数人規模)。

参考被害(2009–2010):局所的死傷者(兵士・民間人合わせては年次で数~十数名)。精確な年別合計は出典により変動。


C. 2011年(激化 — 2月・4月・5月の大規模衝突)

(この年が最も国際的注目を浴びたピークの一つ)

  • 2011年2月4–8日(Phu Makua / Phum Srol 周辺):2月4日に大規模接触が発生、数日にわたり砲撃・小銃戦・機関銃・迫撃砲などが使用された。両国の発表と独立系報道で数値の差はあるが、数名から十数名規模の死傷者、数千〜一万数千人の避難(地域によっては約5,000~15,000人避難の報告)があった。ICJへはカンボジアが2011年4月28日に「解釈申請(Request for Interpretation)」を提出(後の暫定措置要請)。国際社会・ASEANは懸念を表明。

    • 被害報告の例(出典別差):一部カンボジア政府は「20人超のタイ軍犠牲」等の大きな数値を主張した局面があったが、独立系報道(Reuters 等)や第三者の確認ではより低い一致値(兵士数~十数名、民間人数名)に収斂することが多い。複数報道を総合すると双方の兵士合わせて数十名程度の死者・多数負傷というレンジが妥当である。

  • 2011年4月下旬(24–28日)および5月1日以降の激闘:4月下旬から5月初めにかけて戦闘が再燃。砲撃は寺院や周辺集落に及び、死者(軍・民間人含む)は数十名規模、負傷者は数十〜百にのぼる報告が相次いだ。4月26–28日にかけては寺院周辺で激しい砲撃が続き、国際的懸念が高まった。

    • ICJへの動き:2011年4月28日、カンボジアは1962年判決の解釈を求めてICJに申請(同時に暫定措置を要請)。ICJは2011年7月18日に暫定措置を示し「当事国は現状を悪化させる行為を控えるべき」等を命じた。

  • 避難者数(2011のピーク):国連系や人道支援報告では、2011年の諸日の局所的避難者は数万規模(例:2月や4月の局面で5,000~15,000、あるいは合算で数万)と報告されている。国別・日別のカウントは流動的であり、IDMC/Refworldは「2011年に約50,000人が短期的に避難した」とする年次評価を出している。

  • 概算死傷(2008–2011期間通算の目安):複数報道の集計では、兵士死者は双方合わせて数十名(2008–2011の全期間でおおむね30~40名程度という集計例がある)、民間人死傷も数名~十数名程度という報告が主流。ただし出典による差があるため、単一の確定値は示しにくい(後述の出典一覧参照)。


主要出典(2008–2011関連)

  • Reuters(各年の現地報道、兵力・避難者の現場数字)— 例:2011年2月/4月の戦闘報道。
  • ICJ公式(2011年の暫定措置、2013年解釈請求に関する書面) — 判決手続・法的文書。

  • 国連系・IDMC(避難者評価) — 2011年の短期避難者数推計等。


D. 2025年(近時の再燃 — 主な事件と被害:速報・継続事案)

:2025年の出来事は継続的に報道が更新されており、数字は速報値→後日修正される可能性がある。ここでは主要報道(Reuters、AP、Guardian、Al Jazeera 等)を基に代表的出来事を時系列で示す。

  • 2025年上半期〜夏(再燃・大規模化の段階):2025年7月の段階で短期間に激化した衝突があり、数十名〜数十人単位の死者(兵士・民間人含む)と、数十万規模の避難者(報道によっては約300,000人が一時避難とする報告もある)が発生したとする報道がある。事態は一旦外部仲介(米による調停等)で停戦を図る動きがあったが脆弱であった。

  • 2025年秋・冬(再び武力衝突継続):12月時点の複数報道(Reuters / Guardian / AP / Al Jazeera)は、再度の砲撃・ドローン使用・地雷設置疑惑などを伴う衝突を伝えている。直近の複数報道によれば数十名の死者・負傷者(例:Guardianは12月9日時点で少なくとも10名死亡、AP / Reuters は類似の数値あるいはやや上乗せの数値を伝えている)、避難者は数十万規模(例:150,000〜300,000のレンジが報道に見られる)とされる。

  • 軍事行動の特徴(2025)

    • 砲撃(長距離火砲)の頻用。

    • 小型ドローンによる偵察・爆撃の疑い(報道により詳細は異なる)。

    • 地雷埋設・非正規地雷被害の報告。

    • 文化財(プレアビヒアおよび近隣遺跡)の破壊報告・損傷が断続的に伝えられている。

参考出典(2025):Reuters、The Guardian、AP、Al Jazeera の複数記事(12月時点の現況報道)。各社が被害者数・避難者数を速報ベースで報じているが、数は流動的で後続報告で修正され得る。


4) 解説(出典差異・数字の扱いについての注意)
  1. 報道の乖離:軍事衝突における死傷者数・避難者数は、当事国の軍・政府発表、国際機関(UN/IDMC等)・独立報道(Reuters, AP, Guardian等)で差が出る。特に紛争当事者は自身側に有利・敵側を大きく見せる数字を発表することがあるため、複数出典を突き合わせてレンジ(幅)で提示するのが実務的である。上の年表では出典に基づく代表的なレンジを示した。

  2. ICJ文書の法的優先性:1962年・2013年のICJ判断は国際法上重要な法的根拠となる。ただしICJの判決が「現場の軍撤収」を即座に実行させる強制力を持つわけではなく、政治的・軍事的合意や現地での手続き(共同再測量、地上でのガードライン設定等)が必要となる点に留意すべきである。

  3. 1904/1907年資料の重要性:ICJは当該条約(1907年の地図含む)が当時の外交上どのように扱われたかを重視した。したがって原文(条約本文)とAnnex I の地図は一次資料として極めて重要である。上で挙げた公的アーカイブ(ICJ 書類・各国史料)からの取得が推奨される。


5) 出典(代表的・参照用)

  • International Court of Justice (ICJ), Judgment of 15 June 1962, Temple of Preah Vihear (Cambodia v. Thailand) — ICJ公式。

  • International Court of Justice (ICJ), Judgment of 11 November 2013 (Request for Interpretation of the Judgment of 15 June 1962) — ICJ公式。

  • UNESCO World Heritage Centre, Decision on inscription (2008) — Temple of Preah Vihear listing decision (32COM 8B.102).

  • Office of the Historian / FRUS / 国務省史料室 — Convention between France and Siam, 13 February 1904(原文掲載アーカイブ)。

  • WorldLII / 公文書アーカイブ — Franco–Siamese Treaty of 23 March 1907(原文や翻刻が参照可能)。

  • Reuters / AP / The Guardian / Al Jazeera — 2025年の現地報道(衝突・避難・死傷者に関する速報)。

  • IDMC / Refworld — 2011年の避難者評価など人道面報告。
この記事が気に入ったら
フォローしよう
最新情報をお届けします