コラム:日本における生活保護の実態、現状と課題
日本の生活保護制度は、法的には「最低限度の生活」を保障する重要な公的制度であるが、現実には捕捉率の低さ、申請障壁、スティグマ、福祉人材不足、基準設定を巡る政治的論争など複合的な課題を抱えている。
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現状(2025年11月時点)
最新の公表統計(厚生労働省 被保護者調査・令和5年度確定値)によると、令和5年度の被保護実人員は2,020,576人で、被保護実世帯数は1,650,478世帯となっている。被保護実人員は前年度比でわずかに減少した一方、世帯数は微増し、保護の申請件数は20,949件で前年から増加している。こうした数値は、個人ベースでは横ばい〜やや減少する傾向があるが、世帯単位や申請動向では増減が混在していることを示す。統計・推移の詳細は厚労省の被保護者調査に掲載されている。
生活保護制度とは
生活保護制度は、憲法第25条が掲げる「健康で文化的な最低限度の生活」を具体化する公的扶助制度であり、生活扶助・住宅扶助・医療扶助など複数の扶助から成る。原則として、資産・能力・親族扶養の可能性などを総合考慮したうえで、それらを活用しても最低限度の生活が維持できない場合に支給される「最後のセーフティネット(補完性の原理)」である。行政は申請の受付及び審査を担い、支給決定は個別の事情に基づいて行う。制度設計上は無差別平等が原則だが、現場運用や世論の影響で実効性に乏しい面が指摘されている。制度の目的と基本原理に関する議論は、学術・行政資料に詳述されている。
受給の現状(制度運用と実務)
受給者には高齢者世帯、傷病・障害者世帯、母子世帯などが含まれる。被保護世帯の中で高齢者世帯の比率は高く、自治体別や年次でのばらつきはあるが高齢化が著しい。この傾向は、高齢化社会の進行と年金・貯蓄だけでは暮らせない高齢単身世帯の増加と連動している。福祉事務所の窓口対応やケースワークの実態は自治体間で差が大きく、面談や書類手続き、扶養照会の運用などが受給開始に影響を与える。実務面では「申請の門前払い(いわゆる水際作戦)」や過度な書類要求、担当者の認識不足などが問題として繰り返し指摘されている。
受給者数と世帯数(推移と特徴)
上に述べた通り令和6年度の被保護実人員は約202万人、実世帯は約165万世帯である。個人数はここ数年でやや減少傾向が見られる一方、世帯数は停滞〜微増であり、これは単身高齢者の世帯化や世帯分離(同居していた家族が減る等)に起因する構造変化を反映している。地域差は大きく、都市部・地方で受給率や世帯構成に差がある。厚労省の月次・年次統計で自治体別、年齢別、世帯類型別の内訳を参照できる。
高齢者世帯の増加
被保護世帯における高齢者世帯の比率は高く、自治体資料や国の白書でも高齢層の割合が目立つことが報告されている。人口の高齢化、非正規年金や年金水準の低下、貯蓄の取り崩しによる生活困窮化、単身高齢者の増加が背景にある。高齢受給者は医療扶助や介護の必要性を伴うことも多く、受給後の生活再建や自立支援だけでなく、医療・介護・住宅の連携が求められる。内閣府や厚労省の高齢社会関連白書・統計がこれを裏付けている。
申請件数の増加(申請動向)
直近では申請件数が増加している年度がある一方、月次では増減がある。令和5年度の申請件数は20,949件で前年より増加している。申請段階での躊躇や門前払いが依然存在するため、申請数だけで実際の困窮者数を測るには限界がある。申請の増加は景気動向、雇用不安、物価上昇(生活コストの増大)などの外生要因と連動する。
課題と問題点(概観)
生活保護制度が抱える主要な課題は以下の通りである(詳細は後節で個別に扱う)。
低い「捕捉率(take-up rate)」:制度対象となるはずの困窮世帯に対し実際の受給が非常に低い。研究者らの推計では10〜20%台、ある研究では13%前後とされ、厚労省の推計もこれに近い数値レンジを示す。捕捉率の低さは多くの最低保障未満の生活を放置している点で深刻である。
申請への障壁(窓口対応=水際作戦等):不当な申請排除や過度な事務手続き、扶養照会の運用などにより申請権が侵害されるケースがある。過去の北九州市事件など重大事案の教訓がある。
スティグマと自己申告の遠慮:生活保護受給に対する社会的烙印(スティグマ)や「恥」の意識が強く、申請をためらわせる要因になっている。研究でもスティグマが捕捉率低下の重要因であると指摘されている。
福祉人材の不足:福祉事務所や相談支援の人員・専門性不足がケースワークの質と対応時間を圧迫し、適切な支援や追跡が困難になっている。国の白書や専門調査で医療・福祉分野の人手不足が問題視されている。
制度運用と財政・政治圧力:給付水準や基準設定を巡る政治的対立や、行政の厳格運用が制度の本来目的と乖離することがある。最近の最高裁判決は基準変更の手続・根拠の適正性を巡る重大問題を提示している(後述)。
低い捕捉率(詳述)
「捕捉率」は、本来制度の対象となるべき世帯のうち、実際に保護を受けている割合を意味する。日本の捕捉率は研究者による推計で概ね10〜30%の幅で示され、代表的な推計は15〜20%台や13%付近を示すものがある。これはドイツやイギリスなど他国の社会扶助制度に比べて著しく低い水準である。捕捉率が低い理由として、(1)スティグマによる申請忌避、(2)行政による申請阻止(いわゆる水際作戦)、(3)制度の補完性と資産・扶養の厳格な評価、(4)制度周知不足、(5)申請支援体制の未整備、等が複合的に作用していると考えられている。捕捉率の向上は、最低生活保障を実効化するための喫緊の課題である。
申請への障壁:水際作戦と運用問題
「水際作戦」は申請受付を抑制する自治体の実務的対応を指す通俗語であり、過去に門司餓死事件など深刻な人権問題を引き起こした事例がある。最近でも窓口での追い返し、過度な書類要求、扶養照会の運用の恣意性などが報告されており、支援団体や人権団体、メディアが問題提起を続けている。法的には申請権は保障されており、不当に申請を妨げる行為は違法と評価されることがある。行政側も運用改善や通知の発出を行ってきたが、現場での差は残る。
スティグマと遠慮(社会的影響)
受給者や潜在的受給対象者は「他人からの目」や「自尊心の低下」を強く恐れ、申請をためらうことが多い。学術研究はスティグマが制度利用の行動抑制に与える影響を定量・定性の両面から示しており、経済学的モデルでもスティグマが捕捉率の低さを説明する重要因子として扱われる。社会的烙印は政策コミュニケーションやメディア報道、政治発言によって増幅されるため、制度周知や受給者尊重の姿勢が必要である。
貧困の連鎖(世代間・生活史の問題)
生活保護の必要に至る背景は多様で、雇用の長期不安定化、疾病・障害、介護負担、単親化、住宅問題などが複合する。子どもの貧困や教育機会の喪失は世代間の貧困の連鎖を生む恐れがあり、子ども世帯に対する教育扶助や自立支援が不十分だと貧困構造が固定化する。貧困の連鎖を断ち切るには、生活保護の単なる給付だけでなく、就労支援、教育支援、保育・医療・住宅の包括的連携が重要である。学術・政策研究はこの点を繰り返し指摘している。
福祉人材の不足(影響と課題)
福祉・医療分野の就業者数は増加傾向にある一方で、生活保護を支える現場(福祉事務所のケースワーカー、生活相談員、社会福祉士など)では慢性的な人手不足、専門性不足、離職率の高さが問題になっている。これにより、申請窓口や事後フォローの対応が脆弱になり、適切な審査やきめ細かな支援が行えないことがある。国の白書や調査報告は人材確保の困難を報告しており、待遇改善や研修充実、業務負荷軽減が必要だとされる。
制度の役割(セーフティネットとしての意義)
生活保護は、所得再分配と社会的セーフティネットの最終段階として、極度の貧困に陥った人々の最低限度の生活を保障する重要な制度である。所得保障の最終防波堤としての役割を果たすだけでなく、医療や住宅の確保を通じて社会的排除を防ぐ機能を持つ。制度が適切に機能することは社会全体の安定や公共の健康にも寄与するため、単なる財政負担の問題に還元して論じるべきではない。制度の存在は社会的連帯の表れである。
生活保護費の基準額引き下げに関する最高裁判決(2025年6月27日)
2025年6月27日、最高裁は、2013年〜2015年に実施された生活扶助基準の大幅引き下げ(平均で約6.5%など)をめぐる訴訟について、厚生労働大臣による引下げ処分が生活保護法に違反すると判断し、処分の取消しを命じる判断を示した(全国で複数の地方裁判所・高等裁判所での判断を踏まえる最高裁判断)。最高裁は、基準引下げの根拠となった「デフレ調整」等の方法や手続に過誤があり、専門的知見との整合性を欠くなどとして、違法性を認定した。判決は生活保護の基準設定プロセスと行政の裁量行使に関する重要な司法判断であり、判決後も国の対応(遡及補償や謝罪、制度修正の速やかな実行)を巡る議論が続いている。厚労省・原告団・支援団体・メディアが相次いで報道・声明を出している。
生活保護に批判が集まる理由(社会的文脈)
生活保護は、税負担や不正受給問題、自己責任論をめぐる政治的・世論的批判の対象になりやすい。報道や政治家の発言で不正受給が強調されると、制度全体に対する不信感や「受給者への冷たい目」が広がる。これが窓口対応の厳格化やスティグマの増幅につながり、本来援助すべき人々が申請を避ける悪循環が生じる。批判の背景には、社会保障財源への懸念、働き手への負担感、そして制度をめぐる認知・誤解がある。公正な制度運用と透明なデータ提示、誤解を解く説明責任が不可欠である。
問題点(総括)
現状の問題点を総括すると以下のとおりである。まず、制度の到達(捕捉率)が低く、本来救うべき多くの困窮者が保護の網から漏れている。次に、現場運用における人権侵害的な対応(申請妨害・水際作戦等)や担当者の資質・人数不足がある。加えて、スティグマや社会的偏見が申請自体を抑制し、貧困の連鎖を断ち切る支援が不十分である。さらに、給付水準の政治的操作や不透明な基準設定は司法からも問題視されており、制度への信頼回復が求められている。これらは相互に影響し合い、単独の施策では解消が難しい複合的課題である。
今後の展望
以下は論点と政策的方向性である。
捕捉率改善のための積極的施策:制度対象の推計と実際の受給状況を定期的に精緻化し、潜在的対象者に対するアウトリーチや申請支援(同行支援、ワンストップ窓口)を強化する必要がある。学術研究の示唆通り、情報不足やスティグマの是正が重要である。
窓口運用の厳格化・監視と職員教育:不当な申請排除は違法であるとの法的指針を徹底し、窓口での録音・記録や第三者による監査、苦情処理制度の強化を行うべきである。職員研修を充実させ、倫理と人権に関する教育を義務化する必要がある。
スティグマ除去のための広報と社会教育:メディア指針や政治的表現の適正化、受給者の尊厳を守る表現指針を設けるとともに、学校や地域での貧困理解促進を進める。研究成果を踏まえた啓発キャンペーンが有効である。
福祉人材の確保と業務改善:待遇改善、キャリアパス整備、業務量軽減(事務のデジタル化等)を進め、現場の専門性・定着率を高める。これにより相談支援の質が向上し、早期介入が可能になる。
司法判断への対応と制度信頼回復:最高裁判決(2025年6月27日)を受け、基準設定プロセスの透明化、独立した専門委員会による検証、遡及補償のあり方の検討を行う必要がある。行政は法的判断を踏まえた速やかな説明責任を果たし、信頼回復に努めるべきである。
貧困の連鎖に対する包括対策:教育、雇用、住宅、医療を結ぶ縦断的な政策で、子どもや若年層の機会損失を防ぐ施策を強化する。生活保護は最後のセーフティネットだが、予防的・早期介入的な施策と連携することが必要である。
まとめ
日本の生活保護制度は、法的には「最低限度の生活」を保障する重要な公的制度であるが、現実には捕捉率の低さ、申請障壁、スティグマ、福祉人材不足、基準設定を巡る政治的論争など複合的な課題を抱えている。2025年6月の最高裁判決は基準設定の適正性の問題を明確にした点で制度改革の機運を高める契機になっているが、判決後の行政対応や実効的な被害回復・再発防止策の実行が問われている。今後は、現場運用の改善、捕捉率向上を目的とした実務的支援、スティグマ解消に向けた社会的対話、そして福祉人材の確保という三つ巴の取組を同時並行で進めることが必要である。これにより、生活保護制度はその本来の目的――誰もが尊厳を保って生きられる最低限度の生活の保障――をより実効的に果たすことができる。
主要参考・出典(本文で引用した代表資料)
厚生労働省「生活保護の被保護者調査(令和5年度確定値)」報道発表(令和7年3月14日)。被保護実人員・実世帯数・申請件数等の年度統計。
最高裁判所関連報道・解説(2025年6月27日判決)および原告・支援団体の声明。生活保護基準引下げ処分の違法性を認める判断。
法曹・人権団体、ジャーナリズムによる現場報告(「水際作戦」事例等)および学術研究(スティグマ、捕捉率の推計)。
研究者・統計資料(捕捉率に関する推計、生活保護と低所得世帯の推計など)。
厚生労働省・白書等による福祉人材や高齢者の関連資料。
