コラム:議論進まぬ選択的夫婦別姓制度、焦点は?
日本における選択的夫婦別姓制度の導入議論は、個人の尊厳やジェンダー平等、労働市場でのキャリア継続といった現代的課題と、戸籍・家族の公共的機能や伝統的価値観との摩擦を調停する政策課題である。
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日本の現行制度では民法第750条により婚姻時に夫婦は同一の氏を称することが求められている(いわゆる「夫婦同姓」制度)。実務面では婚姻届によってどちらか一方の姓に統一する必要があり、戸籍上は同一の氏で記載される。近年は「旧姓(婚姻前の姓)の通称使用」を職場や行政手続で認める制度的対応や運用拡大が進んでいるが、戸籍上の改姓義務自体は残存している。法的に選択的夫婦別姓(婚姻時に同姓か別姓かを選べる制度)は導入されておらず、立法による改正が必要である。現行制度の合憲性について最高裁は過去の大法廷判決で合憲判断を示しており、制度変更は国会の立法判断に委ねられている。
歴史
戦後民法は家制度の解体を経て家族関係の法規を整備してきたが、氏に関する規定は婚姻に伴う氏の変更(同姓義務)を前提として残った。1996年の法制審議会答申で選択的夫婦別姓が提起されて以降、社会状況の変化とともに議論は断続的に続いた。2015年には夫婦同姓を巡る最高裁大法廷判決(民法第750条は合憲)が示され、司法は直接の違憲判断を回避する形で留保的判断を下した。以降、国会での実質的な法改正は実現しておらず、司法はむしろ「国民的議論を通じた立法対応」を促す立場を示している。
議論が進まない経緯
議論が停滞する背景には複数の政治的・社会的要因がある。第1に与野党や党内の意見分裂である。与党・自民党や保守系議員の中には家族の伝統的価値観や戸籍制度の安定を重視する意見が根強く存在する。第2に制度変更による運用上の技術的課題(戸籍法・税制・年金・社会保険、行政システムの改修など)への懸念がある。第3に世論は賛成多数へと変化してきたが、選挙の構図や地域差、当事者の声の可視化不十分さが国会での迅速な立法につながらない事情がある。さらに、最高裁判決後に「司法より立法で」という姿勢が定着したことで、国会が実効的な審議を行わないまま時間が経過しているという構図もある。
選択の自由(個人の権利)
選択的夫婦別姓の議論は基本的に「個人の氏を選ぶ自由」と「家族制度の公共的側面」のバランスに関わる。支持者は、個人が職業や社会生活で築いた氏の継続(キャリア名・社会的識別)を尊重する観点から、婚姻による強制的な改姓を撤廃し「選択」を保障すべきだと主張する。企業界や弁護士会、学術団体などからも「選択肢の拡大」は個人の自由や男女共同参画の観点で必要だという提言・決議が相次いでいる。たとえば経済界(経団連)は女性のキャリア継続やDEI(多様性推進)の観点から制度改正を政府に提言しており、日弁連も導入を求める決議を出している。こうした専門機関の立場は、単なる理念論にとどまらず、企業運営や行政手続の効率性という実務上の観点からも制度変更を支持する根拠になっている。
家族の一体感が失われる?(懸念の論点)
反対派の主張では、夫婦同姓が家族の一体感や戸籍上の連続性を担保するという考え方が強調される。具体的には、同姓によって親子関係や家族の所属意識が明確になり、社会的な混乱を避けられるという論点である。最高裁も2015年判決において、家族の一体性といった点を考慮して合憲判断を述べた側面がある。しかし、世論調査を見ると別姓が家族の絆を損なうとの懸念は年々低下しており、「別姓だから家族の一体感が損なわれる」と答える割合は減少傾向にあるとのデータがある。社会構造や働き方の変化、ネット上の識別の重要性の高まりが影響しており、家族の一体感は氏の一致だけで規定されるものではないという認識が広まりつつある。
子供の姓(子の姓をどうするか)
選択的夫婦別姓を導入する場合、子供の氏の取り扱いは重要な実務論点になる。典型的には(A)婚姻時に夫婦がどちらの姓を戸籍上の姓にするか選ぶ運用を維持し、子の姓はその戸籍上の姓を引き継ぐ方式、(B)夫婦別姓を選択した場合でも子の姓は親の協議により決定可能とする方式、(C)親が別姓でいるとき子の姓を柔軟に選べるようにする、といった選択肢が検討される。いずれの方式でも現行戸籍法との整合性、住民票や教育・医療・福祉の各種手続での運用整備が必要である。世論や実務上の混乱を避けるために、子の姓は明確なルールと手続を国会で定めるべきだというのが専門家の意見である。
社会的な混乱の懸念(実務面)
反対側が指摘する実務的懸念点は多岐に渡る。戸籍の管理システム改変、税・年金の記録の紐付け、金融機関や保険、学校・医療機関の情報連携、行政IDやマイナンバー運用との整合、法務・登記手続の改修などである。こうしたコストや移行期間中のトラブルを懸念して、導入に慎重な議論が行われてきた。一方で、通称使用の拡大や企業側の実務対応の蓄積により「別姓運用」のノウハウが増えていること、IT化でデータの識別子を氏以外に依存できることが実務的障壁を低減する根拠として挙げられている。経済界や弁護士会は、技術的・行政的課題は段階的措置やシステム改修で解決可能であると主張している。
選択的夫婦別姓制度で分断が拡大?(社会的影響)
制度変更が社会的対立を深めるかについては議論が分かれる。賛成派は「選択」を認めることで当事者の尊重と多様性が進み、社会の分断を減らすと論じる。一方、反対派は「制度が家族観を揺るがすことで価値観対立が可視化され、地域や世代間の摩擦を生む可能性がある」と警告する。ただし、最近の世論調査では賛成が優勢であり、政治的リーダーシップと丁寧な周知、移行措置があれば制度導入による対立激化を最小化できるとの見方が多い。社会の分断拡大を防ぐには、合意形成のプロセスと影響緩和策(移行期間、周知、事務整備)が鍵になる。
国際社会との乖離・潮流
国際的には、婚姻時に同姓を強制する国は極めて少数派であり、多くの国は婚姻後の姓を選べる制度や別姓を認める制度を導入している。国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)は長年にわたり日本に対して夫婦同姓の見直しと選択的夫婦別姓の導入を勧告してきた。国際的な人権基準やジェンダー平等の潮流から見ると、日本は他の先進国と比べて家族法制の面で見直しが遅れていると指摘される。こうした国際的圧力は国内の政策議論にも影響を与えており、国内の法曹界・市民団体・企業も国際基準を根拠に改正を訴えている。
法改正の必要性(論点整理)
法改正の必要性をどう位置づけるかは立場により異なるが、主要な論点は次の通りである。(1)個人の尊厳と自由の観点から改正が必要か、(2)婚姻制度や戸籍制度の公共的機能(身分関係の明確化)をどう維持するか、(3)実務上のコストと事務負担をどう軽減するか、(4)子の福祉や教育・保育での不利益をどう防ぐか。多数の専門機関は「選択的夫婦別姓の導入は個人の権利保護と国際的要請の観点からも必要であり、運用面の懸念は立法と移行措置で解決できる」との立場を示している。経済界は女性の就業継続や国際競争力の観点から法改正を促している。
政府の対応
政府はこれまで法改正について断続的に検討を行ってきたが、明確な改正案の国会提出には至っていない。法務省や内閣府が世論調査や実務上の調査を実施しているほか、各種有識者会議や答申を参考にしつつ、制度設計の検討が続いている。行政側は「通称使用の拡大」やマイナンバー等の活用で当面の混乱を抑えると同時に、立法措置は社会的合意の形成を前提とするとの姿勢を示すことが多い。世論調査では賛成が高まっており、政界の力学次第では法案提出の機運が高まる可能性があるが、執行部の政治判断や与党内調整が鍵になる。
課題(具体的・実務的・政治的)
制度導入にあたっての主要課題は以下の通りである。
戸籍法・民法改正の条文設計(婚姻時の選択ルール、子の氏の決定ルール、届出様式など)。
行政システム改修(戸籍システム、住民基本台帳、税・年金などのデータ連携)。
企業・金融機関・医療機関等における手続整備と周知(氏の扱いの統一、検索・証明書類の設計)。
教育・保育・学校現場での氏の表記や記録の取り扱い。
地域差や世代差に応じた理解促進と反対意見への説明(文化的な不安解消)。
国会での合意形成(法改正のための政治力学)。
これらはいずれも解決可能な課題だが、費用負担や期間、関係機関間の調整が必要であるため、段階的な実施計画や移行期間の設定が重要である。
今後の展望
世論の動向と専門機関の声を踏まえると、選択的夫婦別姓への支持は増加傾向であり、民間(経団連・日弁連等)や地方議会からの要請も相次いでいる。これに対し与党内の保守的抵抗や実務的課題が依然として障壁となっているが、次のようなシナリオが考えられる。
段階的導入シナリオ:まず通称使用の法的地位を更に整備し、その後戸籍・民法の改正を段階的に行う方式。システム移行の負担を分散できる利点がある。
一括改正シナリオ:明確な立法案を国会に提出し、比較的短期間で選択制を導入する方式。政治的決断が必要。
実質運用による慣行変化:法改正が遅れる一方で、企業や自治体が独自に通称使用や手続簡素化を進め、実質的に別姓運用が広がるケース。だが法的安定性の面で限界がある。
いずれのシナリオでも、政党間の合意形成、移行期間とコスト負担の明確化、周到な周知・教育が成功の鍵である。国際的な潮流や人権基準も追い風になっており、法改正の実現可能性は過去より高まっている。
まとめ
日本における選択的夫婦別姓制度の導入議論は、個人の尊厳やジェンダー平等、労働市場でのキャリア継続といった現代的課題と、戸籍・家族の公共的機能や伝統的価値観との摩擦を調停する政策課題である。世論や経済界・専門家の支持は強まっている一方、政治的合意形成と実務的整備が進まないことが導入の停滞を生んでいる。法改正をめぐる次の焦点は、国会が具体的な改正案を提示して実務的懸念を如何に解消しながら国民の理解を得るかである。通称使用の法的整備、段階的移行措置、子の氏に関する明確なルール化など、トータルでの制度設計と丁寧な政治プロセスがあれば、導入は現実味を増す。国際的勧告や経済界の提言を踏まえ、日本の家族法制は近い将来に変化の局面を迎える可能性が高い。
参考・出典
法務省:選択的夫婦別氏制度に関する説明(制度の現状と調査)。
最高裁判所関連(2015年大法廷判決の解説・判例解説)。
NHK・主要メディアの世論調査(選択的夫婦別姓に関する賛否比率の推移)。
経団連「選択肢のある社会の実現を目指して」(2024年6月18日、提言)。
日本弁護士連合会・決議(2024年選択的夫婦別姓導入を求める決議)。
国連・女性差別撤廃委員会(CEDAW)等による日本への勧告・総括所見。