コラム:「流行語大賞」が馬鹿らしいと批判される理由
流行語大賞が「馬鹿らしい」と批判されるのは、単なる感情的反発ではなく、具体的な構造的問題に基づいている。
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流行語大賞とは
「新語・流行語大賞」(以下「流行語大賞」)は、自由国民社が発行する用語集『現代用語の基礎知識』の公的行事として1984年に始まった年度行事で、毎年「年間大賞」や「トップテン」などを選出して発表する慣例である。長年にわたり社会の話題や世相を象徴する指標としてメディアでも取り上げられてきたが、近年は「本当に流行した言葉か」「選考の公正さや基準は明瞭か」といった批判が強まっている。運営は自由国民社が中心で、近年は協賛企業(例:ユーキャンや保険会社など)が名称や運営面で関与してきた歴史がある。
選考プロセス(概要と公表されている手順)
公表されている情報によると、流行語大賞の選考はまず「候補語」リストを作ることから始まる。候補語の収集は、メディアでの露出や世間的な注目度、書籍・報道の言及などを踏まえて行われ、最終的に「候補30語」程度に絞り込まれて発表される。その後、選考委員会が候補から大賞やトップテンを決定する形式が一般的である。選考委員会は学者、言語研究者、メディア関係者、時には企業関係者などで構成されるが、具体的な採点基準や重みづけ、各委員の投票結果などは公開されていない。つまり、プロセスの「入口」(候補抽出)と「最終決定」は公になっている一方で、内部の判断ロジックや採点プロセスの可視化は限定的である。
候補語の選出(実務と問題点)
候補語は編集部や関係者が世相を反映すると判断したワードを挙げる形で作られる。候補発表時点で「テレビ・新聞などで頻繁に見聞きされた言葉」だけでなく、ある特定のドラマやネットミームに由来する語、政治的発言、広告やキャンペーン語など多様なタイプが混在することが多い。近年はSNS発祥のスラングや若年層のネットミームが候補に上がる一方で、候補の中に「実際の市井で耳にしない言葉」や「限定的なコミュニティでのみ使用された語」が混じる例も少なくない。こうした選出方法は「流行」という語の定義(全世代的な使用頻度か、特定層の強い拡散か、あるいは社会的影響力か)を曖昧にしたまま候補を作るため、後の批判を呼びやすい。
選考委員会による審査(透明性と説明責任)
選考委員会は外部の有識者で構成されるが、委員の選定基準や各委員の背景、討議の経緯、得票数の分布といった情報は詳細に公表されないことが多い。結果として、なぜある語が大賞に選ばれたのか、選考で何が重視されたのかが外部からは分かりにくい状態になっている。学術的な言語変化の指標や大規模な言語使用データ(SNSの発話頻度、検索トレンド、放送回数の定量データなど)を用いて客観化する選考手法が導入されれば説明可能性は上がるが、現状は編集部と委員の裁量が大きい。これが「恣意的」だという印象を外部に与え、批判の温床になっている。
発表と授賞式(報道の構図)
発表は年末の恒例行事としてメディアで大きく取り上げられる。授賞式や発表直後はテレビやネットで多くの反応が出るため「話題化」には成功しやすいが、一方で「メディア露出そのものが流行語の価値を左右する」構図を生む。つまり、選出→報道→反発というサイクルが繰り返され、発表がむしろ議論のきっかけになることが常態化している。スポンサーや放送側の都合、話題性重視の編集方針が結果に影響を与えるとの見方が根強い。
批判の主な理由(総論)
流行語大賞が「馬鹿らしい」と批判される主な理由は複数あり、相互に関連している。代表的なものを列挙すると次のとおりである。
「本当に流行した言葉ではない」という疑念(市民生活で聞かない語の受賞)
選考基準やプロセスの不透明さ(恣意性の疑い)
政治的な偏りや思想の反映(特定案件が選ばれた年の反発)
話題性・影響力への過度の偏重(流行=話題化と採る短絡)
「流行語を決める」こと自体への根本的な違和感(言語の自然な変化を人為的に格付けすることの不自然さ)
メディア報道の扱いに対する不満(スポンサーや視聴率の都合が混入しているという見方)
これらの批判は単発ではなく、各年の具体的事例(2016年の「保育園落ちた日本死ね」など)や近年の受賞語(例:特定ドラマの略称)が濃淡をもって繰り返し話題になることで強化されている。
「本当に流行した言葉ではない」という意見(事例と調査データ)
最も分かりやすい批判の一つは「受賞語なのに日常で聞かない」「聞いたことがない」という声である。例えば近年(例年)の大賞やトップテンについて、若年層や一般市民の認知度を調べると「知らない・納得できない」とする割合が高く出るケースがある。2024年の例では、年間大賞に選ばれた語に対して大学生調査で約8割が「納得できない」と答えたという報道がある。このような調査結果は「受賞語」と「実際に広く使われている語」の乖離を数値で示しており、受賞の正当性を問う材料になっている。
選考基準やプロセスへの疑問(透明化の欠如)
「流行」の定義は曖昧であり、候補抽出や最終選考で何を「評価」したのかが明確でないことが批判の焦点になる。媒体露出の回数か、検索数か、ツイート量か、社会的議論を喚起した度合いか──どの指標を採用するかで結果は大きく変わる。にもかかわらず現在の公表資料では、どの指標にどの程度の重みを与えたかは示されない。外部から見れば「編集部と委員の直感で決まっているように見える」ため、納得性を欠く。客観化のためには、SNSデータや放送ログ、検索トレンドなどの定量データを公開して説明責任を果たすべきだという主張がある。
政治的な偏り・特定の思想の反映(論争性の高い語選出)
選出された語が政治的主張や社会運動と結びついている場合、受賞を巡って政治的な論争が生じる。代表的な過去例として、2016年の「保育園落ちた日本死ね!!!」の受賞は、待機児童問題への強い批判を象徴する一方で「過激表現を賞賛するのか」という反発も呼んだ。こうした政治・社会運動に直結する語の受賞は、「中立性を保つべき行事が特定の社会的立場を評価している」との批判を招く。選考委員会の構成や選考方針が政治的なバイアスを内包しているのではないか、という疑念が出るのは自然である。
話題性や社会的影響力への偏重(短期的トレンドの賞賛)
メディアの都合上、単に「話題になったこと」や「その年に検索数が急増した語」が優先されやすい。だが「話題になった=流行した」と短絡的に捉えると、一時的なバズやキャンペーン語が高く評価され、長期的に社会で定着した表現が見落とされる危険がある。言語変化は継続的であり、短期の話題量だけで価値判断することは誤りだと指摘される。特にSNS時代はバズの寿命が極端に短く、バズ指標のみを重視すると年末の賞は「バズを褒める儀式」になりがちだ。
そもそも「流行語」を「決める」ことへの違和感(言語の自然性と価値判断)
言語はコミュニティ内で自然発生的に変化し広がるものであり、外部がランキングや賞で「価値」を付けること自体に違和感を覚える人は少なくない。特定の表現を「代表」として選ぶことで、それまで目立たなかったコミュニティの言語表現が切り取られ、かつてない形で注目され消費される。これが「言葉の商業化」や「文化的盗用」に繋がる危険性も指摘されている。言語文化を外部評価で順位付けすることが文化的に適切か、という根本的な問いがある。
メディア報道への不満(スポンサー・視聴率との関係)
流行語大賞の発表は放送や記事で大きく取り上げられるが、その報道の仕方に不満を持つ層がいる。具体的には「スポンサーの顔色をうかがった編集」「視聴率を狙った演出」「センセーショナルな切り口で議論を煽る報道姿勢」などが批判される。運営と協賛企業、放送局の商業的利害が混ざると、選考の独立性が疑われる。過去には協賛企業名が冠されるなどの変化もあり、こうした商業化が批判に結びついている。
問題点(整理)
定義の曖昧さ:流行=誰のための流行か(全国民/若年層/ネットコミュニティ)を定義していない。
透明性の欠如:選考基準や具体的データが不開示であり、説明責任を果たしていない。
短期バズの評価:短期的に話題になった語が過大評価される傾向がある。
政治的・商業的影響:政治的に論争的な語やスポンサー関連の関与が疑念を生む。
世代ギャップ:若年層と中高年層の「流行語認識」のズレが大きく、受賞が両者に受け入れられない事例がある。
データに基づく指摘(専門機関・メディアの示す数値)
近年の報道や調査で示されたデータは批判の根拠として有効である。例えば、2024年の受賞語に対し大学生400人調査で約80%が「納得できない」と答えたという報道は、若年層の認知と選考結果の乖離を示す具体例である。また、メディア分析記事は「SNSや検索トレンドと受賞結果の食い違い」を取り上げ、実際にGoogleトレンド等の短期データと受賞語の一致率が低い年が存在することを指摘している。これらは「選考プロセスに定量データが十分反映されていない」ことの裏付けになる。
反論と擁護の論点(公平な検討)
一方で、流行語大賞を支持する立場からは次のような反論もある。
流行語大賞は「世相を表す記号」的役割を果たす文化行事であり、厳密な学術的定義を求めるのは趣旨と異なる。
選考は有識者が行っており、短期のノイズを超えた社会的意味合いを判断している可能性がある。
発表自体が議論や議題化を促す点で社会的な価値がある、という見方。
これらの擁護は部分的に妥当であるが、透明性や説明性の問題に対する具体的回答やデータ提示が乏しいと説得力を欠く。つまり、擁護側が言う「有識者の総合判断」自体を可視化する努力があれば、批判の多くは和らぐはずである。
今後の展望(改善案と実装可能性)
流行語大賞が納得感を取り戻すには複数の現実的改善方向が考えられる。主なものを列挙する。
選考基準の明文化と公開:流行の定義、評価指標(放送回数、検索トレンド、SNS言及量、世論調査の認知率、社会的影響の度合いなど)を明記し、各指標の重みづけを公開する。
データ駆動型の初期候補抽出:客観的メトリクス(検索量増加率、ツイート数、テレビ露出ログ)を用いて候補語プールを自動抽出し、その上で有識者判断を加えるハイブリッド方式を採る。
選考過程の可視化:委員名簿の公開(兼任の利益相反の有無チェック)、投票結果の集計公開、討議要旨のサマリー公開などで説明責任を担保する。
世代別・分野別のサブアワード導入:全国民向けの「大賞」とは別に、Z世代向け、ネット発語向け、政治社会語向けなど複数カテゴリを設け、分野ごとの評価軸で表彰することで世代間ギャップを緩和する。
市民投票の活用:最終候補から一般投票(ただし操作防止の仕組みを導入)を導入し、社会的合意形成を一部取り入れる。
これらは実務的に実現可能であり、既存の報道・調査を基にした数値データと組み合わせることで、選考の説得力を高められる。
まとめ
流行語大賞が「馬鹿らしい」と批判されるのは、単なる感情的反発ではなく、具体的な構造的問題に基づいている。候補や受賞語と実際の「流行」の乖離、選考基準やプロセスの不透明性、政治的あるいは商業的バイアスの疑念、短期的話題性への偏重、さらには「言葉を決める」ことそのものへの哲学的違和感が複合的に作用している。メディアや運営側がこれらの問題を真摯に受け止め、透明性と客観データを取り入れた改善を行えば、行事としての社会的信頼は回復しうる。逆に現状のまま「伝統だから」「慣例だから」と放置すれば、発表のたびに批判と炎上が繰り返され、行事の文化的意味が薄れていくだけである。
