コラム:日本の医療制度は「持続不可能」、対策は?
日本の医療制度は長い歴史で高い医療水準と普及を達成したが、人口構造の変化と財政的制約が同時に進行する現在、従来のやり方のままでは持続可能性が損なわれるリスクが高い。
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日本の医療制度は「皆保険(国民皆保険)」を基盤とし、所得に応じた公費負担と一部負担金(原則3割負担など)で医療サービスを提供する仕組みである。近年は医療費の累積的増加、高齢化に伴う医療需要の拡大、地域間格差や医師・看護師など医療人材の偏在、病院中心の医療提供体制による非効率性が顕在化している。令和4年度の国民医療費は総額約46兆7千億円、1人当たり約37万3千円と推計されている。これは巨額の社会的資源を医療に割いていることを示す一方で、保険財政・現場の人的負担・税と保険料の負担増という課題を生む要因になっている。
また、OECDなどの国際比較では日本の医療支出はGDP比で高い水準にあり、OECDの国別ノートによると、日本の医療支出はGDP比で約11.5%前後、1人当たり支出もOECD平均に近い水準である一方、医師数は1000人当たり約2.5〜2.6人とOECD平均より少なく、病床数は1000人当たり12床前後と非常に多いという特徴がある。これらの構造は「多くの病床を抱え入院中心の医療提供になりやすい」「医師が相対的に不足し一人当たりの業務負担が大きくなる」といった課題につながっている。
歴史:皆保険成立から現在までの主要な流れ
日本が本格的に社会保障としての医療保険制度を整備したのは戦後の時期である。戦後の復興期から1960年代にかけて職域ごとの保険・共済が発展し、1961年に国民皆保険制度がほぼ実現した。以後、医療サービスの普及・高度化が進展し、がんや心血管疾患などの治療水準が向上したため平均寿命は大きく延びた。医療技術の進歩や高額医療の普及は国民の健康水準向上に寄与した一方で、医療費の増大という構造的課題を生んだ。
1990年代以降、少子高齢化の進行、医療費の伸び、社会保障費全体の増加に対する財政的圧力が強まり、診療報酬制度や保険制度、医療費抑制のための制度改革が繰り返された。2000年代には地域医療の再編、総合診療や在宅医療の充実、病床機能の分化(急性期・回復期・慢性期)といった方針が示されたが、現場の実態や制度設計の遅れにより十分な効果を上げられていない側面がある。
経緯:制度変化と政策対応の流れ
制度的には、診療報酬(医療機関への支払い基準)を通じた費用配分の調整、入院・外来の機能分化奨励、地域包括ケアシステムの構築、在宅医療・介護連携の推進、そして医師・看護師の働き方改革(長時間労働是正)や医療提供体制の効率化が主要な政策テーマになってきた。特に2010年代以降は地域包括ケア(高齢者を地域で支える体制)や医療と介護の連携強化が政策的に重視された。
しかし、政策の実現には資金と人材の両方が必要であり、結果として「診療報酬引下げ圧力」と「現場の人材確保・待遇改善ニーズ」が相反する構図が生じる。さらに、病院側の経営は公的・私的を問わず厳しさを増しており、特に地方の中小病院は入院患者数減少や人手不足で経営難に陥るケースが増えている。これにより地域医療の崩壊リスクが高まっている。
人口減少と高齢化:医療需要の構造的変化
日本は世界でも早いペースで高齢化と人口減少が進行している。令和5年(2023年)時点で総人口は約1億2435万人、高齢者(65歳以上)は約3623万人で高齢化率は約29.1%に達している。高齢者人口の割合と絶対数の増加は慢性疾患や多疾患併存(ポリファーマシー)、長期的な介護医療ニーズを拡大させ、医療費・介護費の増加圧力を強める。高齢化は医療資源の需要を「量的にも質的にも」変化させるため、従来の病院中心の供給体制では対応が難しい局面が生じている。
人口減少そのものも問題である。労働人口が減少することで医療現場の人的供給(医師、看護師、介護職、医療事務など)を確保することが難しくなる。加えて高齢化に伴う医療費膨張は、高齢人口を支える現役世代の負担増(保険料・税負担)をもたらすため、世代間の負担配分が社会的な課題になる。
社会保険料の増加と保険財政の課題
日本の医療保険は被保険者と事業主が保険料を負担し、公費(税)も一定割合で負担する仕組みである。少子高齢化と医療費の増大により、保険料率や公費負担の見直し圧力が強まっている。厚生年金や健康保険の料率は過去に段階的に引き上げられた経緯があり、近年は高齢者給付の増加が保険財政に与える影響を注視する必要がある。たとえば厚生年金の保険料率は一定の水準で固定されている部分もあるが、医療保険料や介護保険料は年度ごとの運営と負担調整を通じて見直される。保険料の上昇は被保険者、特に現役世代の可処分所得を圧迫し、消費や経済成長にマイナスの影響を与える可能性がある。
具体的に社会保険料負担が増えるとどうなるか。労働市場や家計に対する影響は複合的である。企業側の人件費負担増は賃金抑制や雇用調整につながる可能性があり、個人の可処分所得低下は医療以外の消費削減を招く。結果として、税収や保険料基盤の縮小を通じて財政の悪循環を招く恐れがあるため、制度設計における長期的視点が必要だ。
問題点の詳細:供給側・需要側・制度設計の三つの観点
以下に主要な問題点を詳細に整理する。
医療人材の偏在と不足
都市部と地方で医師・専門職の偏在が顕著である。都市部に専門医が集中し、地方・過疎地域では外来や救急、産科、小児科などが維持できない病院や診療所が増えている。加えて女性医師や若手医師の働き方の変化で、従来の長時間労働に依存した人員計画が破綻しつつある。OECD比で見ると医師数は相対的に少ないが、看護師数は多いという特徴がある。
病床過剰と非効率な入院中心医療
日本は病床数が多い(1000人当たり約12床)ため、回復期や慢性期の長期入院が発生しやすい。入院に頼る医療提供は医療費を押し上げる要因になり、在宅・地域でのケア移行が遅れている。急性期機能の強化と慢性期・在宅の適正化の両立が求められる。
財政持続性と負担の世代間不均衡
高齢化が進む中で医療・介護費が増加すると、現役世代の負担が増える。医療保険や介護保険の給付と負担ルールは将来世代への負担転嫁をどのように回避するかという点で脆弱性を抱えている。保険料や税で無限に穴埋めできない以上、給付水準・負担の見直しが避けられないが、政治的には難しい選択となる。
地域間格差とアクセスの問題
医療機関の統廃合や専門医の都市集中により、地方での高度医療や救急医療の確保が難しくなっている。交通手段の乏しい地域では救急搬送時間の延長や受け入れ先不足が発生しやすい。
医療の質と安全、IT化遅延
電子的健康記録(EHR)やデータ連携による効率化は世界的な潮流だが、日本では病院間のデータ連携や標準化が不十分なケースが多い。これにより重複検査や薬の重複処方などが発生し、費用増と安全性リスクが重なる。
実例とデータで見る課題の現場
国民医療費の推移:令和4年度の国民医療費は約46兆6967億円、人口一人当たり約37万3700円という推計が示されている。高齢者ほど医療費が高くなる傾向があり、医療費総額の増加は高齢化と医療単価(技術進歩や薬剤費)に起因している。
高齢化率の上昇:令和5年(2023年)時点で65歳以上が人口の29.1%を占め、絶対数でも約3623万人と過去最高を更新している。高齢化は医療・介護の需要増を直線的に押し上げるため、医療制度の構造的な負荷となる。
医師・病床統計:OECDのデータや国内統計を見ると、医師数は人口1000人当たり約2.5〜2.6人でOECD平均より少ないのに対し、病床数は1000人当たり12床前後と非常に多い。こうした「少ない医師で多数の病床を回す」構図は現場の負担を増加させる。
対策:現行政策と提案されている主要施策
既に実施または議論されている対策を整理する。
地域包括ケアの強化
高齢者が住み慣れた地域で生活を続けられるよう、医療・介護・介護予防・生活支援を一体的に提供する地域包括ケアシステムを推進する。病院中心から在宅・地域中心へのパラダイムシフトを図ることが狙いである。ただし地域ごとの人的・資源的制約により実装の差が生じている。
医師の養成・再配置と働き方改革
医師数不足に対応するため医学部定員の見直しや専門研修制度の改革、女性医師や地方医療を支援するキャリアパス整備が議論されている。また、長時間労働の是正やタスクシフティング(看護師・医療事務・薬剤師との業務分担)により診療体制を持続可能にすることが求められる。
医療の効率化とIT導入
電子カルテ・データ連携・遠隔医療(オンライン診療)・AI支援ツールの活用は、診療の効率化と医療資源の最適配分に寄与する可能性がある。コロナウイルスの経験からオンライン診療の活用は進んだが、法整備・診療報酬の整備・医療倫理・プライバシー対策が重要である。
診療報酬による誘導
診療報酬を通じて医療提供の質や機能分化を誘導する政策は従来からの手段であり、急性期や在宅ケア、予防医療への評価を見直すことで行動を促すことができる。ただし、診療報酬改定は現場に直接的な影響を与え、短期的な混乱を招く可能性もある。
予防・健康寿命延伸への投資
医療費抑制のためには疾病予防(一次予防)や重症化予防(二次予防)、健康寿命の延伸が鍵である。生活習慣病対策、がん検診の普及、ワクチン接種の推進などがコスト効果の高い施策として位置付けられる。
制度的・法制度的な論点
給付の見直しと負担の公平性
公的医療保険の給付水準、自己負担割合、保険外併用療養のルールなどをどう設計するかは政治的難問である。高額療養費制度の維持や高額薬剤の支払い負担の調整など、個別の給付見直しは社会的合意が必要である。
地方分権と財源配分
地域医療の担い手や資源配分の最適化には国と地方の財政連携が重要であり、地方自治体の財政力や人口規模の違いを踏まえた再配分メカニズムの設計が求められる。
保険制度の一体化と複雑さの解消
現行制度は職域別保険や後期高齢者医療制度など複数の仕組みが混在しており、制度の複雑さが行政コストや受給者の理解の障壁となっている。制度簡素化や共通給付の見直しも長期的な課題である。
今後の展望:シナリオ別の可能性
今後の展望は政策選択と社会の合意形成次第で大きく変わる。いくつかのシナリオを示す。
想定A(改革・効率化が進むシナリオ)
在宅医療と地域包括ケアが定着し、ITとタスクシフティングによる生産性向上で医療の供給効率が改善する。予防医療の強化で重症化が抑制され、医療費の成長率が緩やかになる。医師養成や地域配置の改善により地方医療の崩壊が回避される。
想定B(現状維持で負担増が続くシナリオ)
大きな制度転換が実現せず、少子高齢化による医療費増が続く。結果として保険料・税負担の増加、医療現場の疲弊、地域医療の断片化が進む。治療水準の地域差や受診抑制(自己負担やサービス限界による受診控え)が発生する。
想定C(財政的制約により給付削減が行われるシナリオ)
医療費の自然増に対して財源確保が困難になり、給付範囲の縮小や自己負担割合の引上げが行われる。医療アクセスや格差が拡大し、社会問題化する可能性がある。
現実的にはこれらの中間で政策的微調整が行われるだろうが、いずれのシナリオでも「人的資源の確保」「地域間の格差是正」「予防と在宅ケアの強化」「持続可能な財政設計」が鍵となる。
実務的な提言(政策・現場の両面から)
医療人材の長期戦略を明確化する
医師・看護師・介護職を含む医療人的資源について、養成数、地域配置、役割分担(タスクシフティング)、女性や非正規の就労環境改善を組み合わせた中長期戦略を策定する。
病床再編と在宅移行を加速する
病院機能の明確化(急性期集中、回復期・慢性期・在宅の分化)を進め、診療報酬や補助金で在宅・地域ケアへの移行を促す。患者・家族支援や地域資源の強化も不可欠である。
IT・データ基盤の整備と利活用促進
電子カルテの相互運用性、患者データの安全な共有基盤、遠隔医療の普及、AIによる業務支援を進めることで医療の効率化と質向上を両立させる。標準化・プライバシー保護の法整備を並行して進める。
予防医療と保健医療の強化
地域レベルでの健康投資(生活習慣病対策、検診・ワクチンの普及、保健指導)を強化する。健康寿命の延伸は医療費抑制に直結するため、費用対効果の高い介入に注力する。
財政制度改革と透明性の確保
医療費と社会保障の見通しを長期的に示し、給付と負担の透明性を高める。必要ならば段階的な見直し案を用意し、世代間の負担公平性を説明しつつ合意形成を図る。
まとめ:持続可能な医療のために必要な視点
日本の医療制度は長い歴史で高い医療水準と普及を達成したが、人口構造の変化と財政的制約が同時に進行する現在、従来のやり方のままでは持続可能性が損なわれるリスクが高い。単に給付を削るか負担を増やすかの二者択一ではなく、医療提供体制の再編(病床と人の再配分)、予防と在宅ケアの強化、ITによる効率化、人材政策の一体的実行が必要である。また、そうした変化は地域差や個人の負担感を生む可能性があるため、政策決定には透明な情報公開と国民的合意形成が不可欠である。