コラム:日本のイノシシ対策、命を無駄にしない取り組み
イノシシによる被害は単に経済的損失にとどまらず、農村コミュニティの維持や住民の安全、地域の景観・生活環境にも影響を及ぼす総合的課題である。
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1. 現状(2025年11月現在)
令和5年度(2023年度)における全国の野生鳥獣による農作物被害額は約164億円であり、その内イノシシによる被害額は約36億円と報告されている。被害は増減を繰り返すが、近年は都市近郊や遊水地周辺など従来の生息域以外での出没や繁殖、個体数の局所的急増が問題になっている。加えて、捕獲頭数や狩猟者数の推移、猟師の高齢化など現場の担い手不足も顕在化しており、捕獲・管理体制の維持が課題となっている。これらの統計や対策マニュアルは農林水産省や環境省が公開している。
被害の発生形態は、畑の掘り返し(根菜・芋類)、田んぼへの侵入で稲を倒す被害、果樹園やビニールハウスへの侵入など多岐にわたる。都市部では住宅地や公園での出没や夜間の人身被害例もあり、農業経営の継続性や住環境の安全に影響を与えている。特に渡良瀬遊水地周辺などヨシ原が広がる地域での局所的な個体急増がテレビ報道でも取り上げられており、地域によっては営農放棄や離農が進む懸念がある。
2. 環境整備(生息環境管理)
イノシシ対策でまず重要なのは「生息環境の管理」である。イノシシは雑食性で、餌資源の多様性と隠れ場所の豊富さが生息密度を支えるため、ヨシ原・藪・耕作放棄地・森林の縁などの管理が効果的である。環境整備には以下の要素が含まれる。
草刈り・林縁の整理により隠れ場所と移動経路を減らすこと。
里山の段階的な管理(木の伐採・下草刈り)や植生の見直しにより幼獣や母イノシシの繁殖に適した条件を低減すること。
生息地と農地の緩衝帯を整備し、農地に直接つながるような低密度の植生帯を維持しないこと。
農林水産省の鳥獣被害対策マニュアルでも環境整備は基本方針として位置づけられており、侵入前に生息環境を変えることで継続的な被害低減が期待できるとされている。
3. 耕作放棄地の解消と草刈り
耕作放棄地はイノシシの隠れ場や餌場になりやすく、周辺の農地への侵入リスクを高める。対策としては以下が有効である。
地域での耕作放棄地解消支援(若手農家への斡旋、共同農地としての利活用)。
一時的にでも草地管理を行い、背の高い草や藪化を防ぐ。
放棄地を活用した防獣的な作物(イノシシにあまり好まれない作物)や鉄道沿い等での防護帯的植栽。
耕作放棄地の対策は農村の高齢化・人手不足と深く関連しているため、単独の技術対策では限界がある。行政支援と地域の協働で土地の再生や管理を組み合わせる必要がある。
4. 餌となるものを放置しない
イノシシは残飯、果実の落下、飼料の散乱、家畜の餌の放置などにより人里へ誘引される。農地・家庭・観光地での対策としては次の点が重要である。
果樹・果実の落下物を速やかに回収する、落果ネットを使う。
生ゴミや残渣を屋内で保管するか、堆肥化時にイノシシがアクセスできない容器で処理する。
畜産現場では飼料保管の徹底と夜間の餌場管理を行う。
餌資源の管理は短期的にもイノシシの出没頻度を下げる効果があり、地域住民の協力が不可欠である。
5. 侵入防止(防護柵の設置)
農地へのイノシシ侵入を物理的に防ぐ「防護柵」は基本的かつ効果の高い手段である。柵の種類としてはワイヤーメッシュ、金網、木製・電気併用などがある。柵設置のポイントは以下である。
地面との隙間をなくす(掘り返しを許さない)。
柵高さは成獣の立ち上がりや跳躍力を考慮して十分に確保する。
維持管理(補修、点検)を定期的に行う。
研究報告では、適切に設置・管理されたワイヤーメッシュ柵や金網柵は侵入防止効果が高いとされるが、柵の外からの引っかきや支柱の破壊、地形に応じた隙間等により効果が低下する例も報告されている。柵は「設置して終わり」ではなく点検・補修が不可欠である。
6. 電気柵
電気柵は感電による学習効果でイノシシの侵入を抑制する有効手段である。導入にあたっては以下を守る必要がある。
電圧・通電間隔の設計を対象獣に合わせて行う(イノシシは地面を使うためアースの取り方に注意)。
短期的に通電停止や不良接続があると学習効果が薄れるため、常時の点検が重要。
電気柵は周辺環境や近隣の人・家畜への影響にも配慮し、設置前に説明・合意を得る。
農林水産省のマニュアルや自治体指導資料には電気柵の設置・管理方法、事例がまとめられており、適切な施工が効果に直結することが示されている。
7. 物理的な柵(ワイヤーメッシュ等)
ワイヤーメッシュや金網柵は、電気設備が困難な場所や農業の性質上電気柵が使えない場所で有効である。設置コストは高くなる場合もあるが、維持が適切なら長期的に安定した効果を発揮する。設置時に注意すべき点は支柱の強度、地面の固定方法、周囲への影響(景観や人の通行)である。地域で共同して長い区画を柵で囲うことでコスト分担と管理の継続性を図る例がある。
8. 忌避剤
忌避剤(唐辛子系、香草系、化学合成物等)は短期的な接近抑止に使われることがあるが、持続性や動物の慣れ(慣性)により効果が減衰しやすい。忌避剤は単独よりも他の対策(柵、電気柵、環境整備)と組み合わせて用いることで初期的な効果を得やすい。研究では、忌避剤と物理的障壁の併用が被害軽減に寄与する例が報告されているが、効果の実効性やコスト、環境影響を評価して使用することが求められる。
9. 捕獲
捕獲は「個体群管理」として被害抑制に直結する重要な手段である。捕獲方法は箱罠、落とし穴型、くくりわな、わな猟、銃猟(許可捕獲を含む)など多様であり、対象とする個体の年齢・性別構成、繁殖状況、地域特性に合わせて選定する必要がある。捕獲には技術的なノウハウ、安全管理、法令遵守が不可欠であり、適切な許可・届出、記録管理が求められる。全国の捕獲統計や狩猟免許保有者の推移は環境省が公表しており、捕獲数の速報値や狩猟者の年齢構成などが確認できる。
10. 狩猟・有害捕獲
狩猟制度を通じた個体群管理(狩猟者による管理)と、自治体が実施する有害捕獲は補完関係にある。近年の傾向として狩猟者(猟師)の高齢化が進み、担い手不足が深刻化している。地域によっては猟友会が捕獲を主体的に担う一方、報奨金や補助金だけでは持続的な活動を支えるに足りないため、若手の育成・雇用化や報酬体系の見直しが求められている。テレビ取材などの現場報道でも、現場の多くの担い手が高齢化しており今後の継続性が懸念されている。
11. 捕獲技術の向上と人材育成
捕獲効率と安全性を高めるには、技術研修・資格制度・地域をまたぐノウハウ共有が重要である。具体策は次の通り。
箱罠やわな設置の科学的設計(誘引位置、餌の選定、定期点検)。
捕獲後の衛生管理や処理技術(感染症や食肉加工に関する衛生教育)。
若手の育成プログラムや地域外からの人材確保のための報酬・雇用モデルの構築。
自治体・大学・研究機関が連携した実践的トレーニング(フィールド実習、講習会)。
自治体の管理計画や第三期管理計画等でも捕獲計画の整備と技術向上が明示されており、地域レベルでの教育・支援体制の整備が進められている。
12. 捕獲個体の利用(ジビエ利活用)
捕獲個体をジビエとして有効利用する取り組みは、経済的なインセンティブを生み、捕獲活動の持続化につながる。行政はジビエ利用のための衛生基準や加工施設の整備、流通支援を進めており、給食や外食、小売、加工品(ペットフード等)への展開が進む例がある。令和5年度のジビエ利用実績ではイノシシの利用頭数は数万頭規模で報告されており、利用は増加傾向にある。適切な検査・衛生管理の下で利用を拡大することで「命を無駄にしない」仕組みを地域に組み込むことが可能である。
13. 命を無駄にしない取り組み(倫理・衛生)
捕獲は単なる駆除ではなく、捕獲後の取り扱いに倫理性と衛生が求められる。具体的には次の点を推進する。
捕獲後の迅速な血抜き・解体・検査を行い、食肉として安全に流通させる仕組みの整備。
不要な殺傷を避けるための適切な捕獲方法の選定と研修。
捕獲個体の部位利用や加工・販売を通して地域経済に還元する仕組みづくり。
これにより、単なる「害獣駆除」から地域資源としての循環を目指すアプローチが可能になる。
14. 行政の対応
国(農林水産省、環境省)はマニュアルの整備、被害統計の公表、補助金制度(防護柵設置補助等)、ジビエ利活用支援、捕獲に関する法的枠組みの周知などを行っている。令和6年版の中型獣類被害防止マニュアルなど、最新の手法や手順が文書化され、都道府県や市町村における実行計画づくりを支援している。行政はまた、地域の事情を踏まえた第二種特定鳥獣管理計画等を通じて地域別の対策・目標設定を行っている。
15. 自治体の対応
多くの自治体は地域特性に応じた対策を打ち、補助金や設置支援、捕獲のための協力金、猟友会との連携窓口を設けている。耕作放棄地対策や草刈り支援、集落ぐるみの防護柵共同設置など、現場で実効性のある取り組みが行われている一方で、財政制約や担い手不足で十分に進まない地域もある。自治体の第二種管理計画や事例集はローカル対策の参考になる。
16. 地域住民と猟友会
地域住民と猟友会(地元の猟師)との協力は実効的な捕獲活動や被害対応に欠かせない。猟友会は捕獲の技術と地域知見を持つ一方、住民は被害情報や現地での管理を担う。情報共有の仕組み(被害の地図化、目撃情報の共有、罠の適正配置)や安全確保のルール作り、若者の参加を促す仕組みが重要である。地域理解を得るために捕獲の目的・方法・法的根拠の周知を丁寧に行う必要がある。
17. 複数の対策を組み合わせることで効果を高める
単一の対策だけでは長期的に被害を抑えられないことが多い。環境整備、防護柵・電気柵の併用、餌管理、捕獲・狩猟、忌避剤の時限的利用、ジビエ利活用によるインセンティブ設計、地域ぐるみの管理計画といった複合的な取組みを組み合わせることで、相互に補完し合い効果を最大化できる。農林水産省のマニュアルでも「環境整備」「侵入防止」「捕獲」の三本柱で対策を進めることが示されている。
18. 今後の展望と提言
今後の課題と展望は以下のとおりである。
担い手確保と技能継承:猟師の高齢化対策として、若手育成や雇用型の捕獲隊創設、地域外人材の受入れ支援が必要である。捕獲は安全管理や衛生管理を伴う専門性の高い業務であり、体系的な訓練プログラムと報酬体系を整備することが急務である。
データに基づく管理(モニタリングと評価):個体群動態、捕獲頭数、被害発生地点、繁殖状況などのデータを自治体間で共有し、定量的目標に基づく管理(Adaptive Management)を導入する。環境省・農水省の公開データを活用して地域特性に即したPDCAサイクルを回すべきである。
技術革新の導入:センサーネットワーク(出没検知カメラ+AI)、リモート監視、罠の自動通知システム、電気柵の遠隔管理などICTを活用した効率化が期待される。これにより人手不足を補うとともに、迅速な対応が可能になる。
地域資源としての利活用:ジビエの品質向上、販路開拓、加工・流通支援を通じて捕獲を持続可能な地域産業へと結びつける。衛生基準や検査体制を確保し、安全な供給網を作ることで、捕獲活動への参加インセンティブを高める。
社会的合意と協働:市民理解の促進、被害情報の透明化、畜産・果樹・観光等利害調整を行う合意形成プロセスが必要である。強引な処置は反発を生むため、説明責任と参加型の意思決定が重要である。
19. 具体的な実践例
地域共同でのワイヤーメッシュ柵の長期維持管理と費用分担による侵入抑止。
箱罠+定期巡回体制による繁殖期前の若齢個体捕獲による抑制。
果樹園での落果回収と落果ネット併用による餌資源管理。
大学・研究機関と自治体の連携による捕獲技術研修とデータ共有。
捕獲個体を学校給食や地域レストラン向けに加工し販売するジビエ事業の育成。
20. 結び — 包括的・持続的な対策の必要性
イノシシによる被害は単に経済的損失にとどまらず、農村コミュニティの維持や住民の安全、地域の景観・生活環境にも影響を及ぼす総合的課題である。現場では防護柵や捕獲、ジビエ利活用など多様な対策が既に行われているが、担い手の高齢化や耕作放棄地の増加、都市近郊での個体密度上昇といった構造的要因が解決されなければ根本的な解消は難しい。したがって、行政の支援、地域の主体的取り組み、技術とデータの活用、命を無駄にしないジビエ利活用を一体化して進めることが、持続可能な解決への鍵となる。
参考(主な公的資料・報道等)
農林水産省「全国の野生鳥獣による農作物被害状況」(令和5年度まとめ)。
農林水産省「野生鳥獣による被害防止マニュアル(中型獣類編)」(最新版マニュアル)。
環境省「捕獲数及び被害等の状況等」データページ(狩猟者数・捕獲数等)。
テレビ東京『ガイアの夜明け』取材(2025年9月放送)— 北関東のイノシシ大量繁殖と現場の課題を報道。
防護柵に関する研究報告・技術資料(ワイヤーメッシュ等の効果に関する報告)。
