コラム:インドのカースト制後、根強い差別意識
インドのカースト制度は単なる歴史的遺物ではなく、現代社会の経済・政治・文化の諸相に深く絡んでいる構造的問題である。
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インドにおけるカースト制度は、法的には制度的な「廃止」や差別の禁止がなされているにもかかわらず、社会構造や生活実態に深く残存している社会的階層化の仕組みである。近年においても、教育、就労、土地所有、婚姻、公共サービスの利用などでカーストが影響を与え、特にダリット(不可触民)や指定カースト(Scheduled Castes、SC)、指定部族(Scheduled Tribes、ST)、社会教育的に後れている階級(Other Backward Classes、OBC)といった指定されたマイノリティ集団は経済的・社会的に不利な状況にある。2011年の国勢調査では、SCが人口の約17%、STが約9%とされ、これらの集団が大きな割合を占める。これらの数字は政策決定や予約(クオータ)制度の基礎となっている。
歴史と概念
カースト(ヴァルナ/ジャーティ)は古代からの身分規定に端を発する概念が多様化・複雑化してできあがった社会制度である。古典的なヴァルナの分類(バラモン=司祭、クシャトリヤ=戦士、ヴァイシャ=商人、シュードラ=労働者)と、実際に日常生活で機能するジャーティ(世襲的な職業集団)が混在している。中世から近世、さらに英国植民地時代には役所手続きや統治のために「カースト」を写し取る形で固定化・官制度化され、その結果、地域差や言語差を越えて細分化されたジャーティのリストが作られていった。植民地統治はカーストの「分類」を制度的に残し、独立後の政策(保護や優遇措置)もまたカーストカテゴリを行政上重要なものとして温存した。宗教的・儀礼的な「浄・不浄」の観念は社会的接触規範(食事の共有、居住、結婚)に深く関与し、これが差別や排除の根拠となった。
実態(生活面・経済面・教育面)
経済・社会指標で見ると、低カーストや被差別部門は貧困率、識字率、栄養状態、基礎的サービスアクセスなどで不利な傾向が顕著である。各種研究や国際機関の報告は、カーストに基づく差別が就労機会の排除、賃金差、職務分離(特定職業への集中)を生み、世代間にわたる貧困の再生産を助長していると指摘する。学校や大学、医療施設、村落の井戸や寺院などの公共空間での接触排除や暴力・嫌がらせの報告が続いている。国際社会も「カーストに基づく差別」を重大な人権課題と位置付け、国連の特別報告者やユネスコなどが問題を繰り返し取り上げている。ユネスコや国連人権理事会は、いまだ根強く残る差別の存在とその人権侵害性を強調する。
インド憲法で廃止を宣言(法制度)
インド憲法は「不可触性(Untouchability)」の廃止を明確に規定している。具体的には憲法第17条が「不可触性は廃止され、そのいかなる形の実践も禁じられる」と定め、不可触性の施行による不利益を科すことを法的に禁止している。さらに、独立後の各種立法(例:Act 1955/不可触行為禁止法、その後の修正や拡充)や予約(教育・公職での割当)制度により、被差別集団の社会的向上を図る政策が導入された。憲法上の明確な禁止と、是正措置(アファーマティブ・アクション)が同時に存在する点が特徴である。
結婚や職業などに対する影響
婚姻については伝統的に同一ジャーティ内での結婚が基本とされ、カースト横断の結婚(異カースト婚)は社会的制裁や家族間の紛争、時に暴力を招く要因である。統計的には全国レベルでの異カースト婚の比率は比較的低いが、都市化や教育の普及により都市部や若年層で増加傾向が観察される。研究によれば、調査時点での異カースト婚は地域差が大きく、州や都市・農村でばらつきがある。職業面では、歴史的に特定のジャーティが特定の職務に固着してきた結果、職業の世襲化が起こり、現代でも特定の仕事(掃除、皮なめし、遺体処理など)に従事するグループに差別が集中することが多い。これが社会的汚名やリスクの高い労働への固定化を招いている。
問題点(構造的・具体的被害)
カースト制度に起因する主な問題点は以下の通りである。
経済的不平等と機会の不均衡:教育・雇用・土地へのアクセスの差が所得格差と結びつく。
社会的排除と暴力:公共施設からの排除、差別発言、対立やリンチ、性的暴力など具体的な人権侵害が報告される。
政治的操作:選挙や制度設計がカースト動員に依拠し、短期的なポピュリズムや分断が深化する場合がある。
法の実効性の欠如:違法行為や差別が発覚しても、実際の捜査・起訴・有罪判決に至らない事例が多く、被害救済が不十分である。これらの問題は国家と社会が並走して取り組むべき長期課題を示している。国際人権団体もこの点を懸念している。
根強い差別意識(文化的側面)
宗教的・儀礼的価値観に結びついた「浄・不浄」の論理は、単に制度的ルール以上に人々の日常的な認知と行動に浸透している。食事や居住の分離、挨拶や会話の扱いなどの微視的な行動が差別を再生産する。こうした態度は、人々の心的構造に根を下ろしているため、法的禁止だけでは即座に解消しない。教育や文化変容、世代交代、経済活動による接触拡大などが必要であるが、宗教団体や地域の慣行が抵抗勢力となることもある。
都市部の変化(都市化、経済開放、移民)
都市化、労働市場の多様化、教育機会の拡大、移民労働などにより伝統的なカースト規制は多くの場面で弱まっている。都市では匿名性と市場の効率性が個人のカースト的役割を希薄化させ、異カースト婚や就労の流動性が高まるケースがある。しかし都市部でも差別が完全に消えるわけではなく、低所得層が居住するスラムなどではカースト的分離が残る。さらに、都市の高度スキル職では教育背景やネットワークが重要となり、そこでも古いカースト的コネクションが非公式に作用することがある。学術研究は、都市化が差別を一様に弱めるわけではなく、地域・職種・教育レベルによって結果が分かれるとする。
政治との関係
インドの民主主義政治はカースト構造と不可分である。選挙動員はしばしばカースト集団単位で行われ、カーストを軸とした政治連合や党派の再編が起きる。被差別集団の票を固定化するための「予約」政策(政治・教育・公務での割当)は、政治の場での代表性をある程度確保する一方、政治的カースティフィケーション(カースト化)を強める側面もある。地方政治(パタン・パンチャーヤト)レベルでは、カースト圧力が行政人事や資源配分に直接影響する。近年は、カーストを巡る政策(例えばOBCの範囲拡大や内部再分類)を巡って州政府と中央政府が対立する事例も多い。政治家は選挙局面でカースト・エンジンを活用し、社会政策は選挙戦略と結びつきやすい。
政府の対応(法的・政策的措置)
独立以降のインド政府は、憲法上の禁止と並行して被差別集団への積極的差別是正措置(予約制度、奨学金、経済支援、専用の開発プログラム)を導入してきた。司法も度々差別事件や制度的な不平等に介入してきた。また、国家人権委員会や州レベルの機関、不可触行為に関する特別法などが存在する。国際的なプレッシャーや報告に対応して、インド政府は近年、より精密なデータ収集(カーストに関する実態把握)に踏み切る方針を示しており、長年実施されてこなかった包括的なカースト国勢調査の実施が報道されるなど、政策基盤の整備が進んでいる。特に2024〜2025年にかけて、中央政府が次回国勢調査でより広範なカーストデータの収集を行う方針を表明したことは、予約制度や資源配分をめぐる議論に直結している。
国際機関や各国データの見解
国連人権理事会や国連の特別報告者はカースト差別を国際人権案件として注視している。人権団体や国連報告は、カースト差別が教育・保健・就労・司法アクセスに影響していることを指摘し、差別的慣行の撤廃と被害者保護の強化を勧告している。世界銀行等の経済研究機関は、カーストが人的資本形成や金融包摂、労働市場の効率性にマイナス影響を与える点を分析している。世界銀行は金融包摂や雇用創出が社会的分断の緩和に寄与する可能性を示唆している。国際NGOの報告は、法整備だけでなく社会的変革(教育、公衆衛生、経済機会の拡大)を通じた包括的アプローチを推奨している。
具体的事例と統計的示唆
・国勢調査(2011)に基づくと、SCが人口割合で約17%、STが約9%と報告されている。これらの数字は地方や州によって大きく変動する。
・異カースト婚の割合は全国平均で過去数十年で増加傾向にあるが、州別・都市農村別で大きな差があり、一部の州では比較的高い異カースト婚率が観察される。研究では全国での異カースト婚は一桁台(例:約5〜10%)との推計が示されているが、データ定義と調査時期により推定値が変わる。
・国際機関や人権団体は、インドにおけるダリットや他被差別集団に対する暴力・差別の報告を継続的に把握しており、司法と行政の対応が不十分な場合があると指摘している。
根強い差別意識の原因(多面的分析)
差別意識が根強い理由は複数ある。第一に宗教的・儀礼的正当化がある。第二に相互に強化される経済的利害(上位カーストの特権維持)や土地・資源の支配がある。第三に政治的動員構造がカースト差別を制度的に温存する場合がある。第四に教育の質やアクセスが不十分な地域では偏見が世代を超えて伝播する。第五に司法や警察など行政府が差別事件に適切に介入できない実務上のギャップが存在する。これらが複合して差別意識を固定化している。
都市と農村の差(再掲と具体性)
都市では市場経済や匿名性が機会を生み出し、教育や専門職がカーストの拘束を緩める場合がある。しかし、賃金労働や非正規雇用に追いやられる若年低技能労働者層ではカースト的区分が残る。農村では依然として土地所有や村落の社会的秩序がカーストにより色濃く決まることが多く、村落共同体内の不平等は直接的に生活条件に結びつく。
政策課題と政府対応の限界
政策的課題としては、(1)予約制度の適切なターゲティングと再設計、(2)データ不足(包括的カースト統計の欠如が政策評価を難しくしてきた点)、(3)司法・警察の制度改革と被害者保護、(4)教育・職業訓練の質向上とアクセス確保、(5)差別的慣行の社会文化的改変が挙げられる。政府は法律・政策を整備してきたが、実効性を高めるには地方行政の強化と市民社会の協働が必要である。最近、包括的カーストデータ収集の動きが強まり、政策立案の基礎情報が充実する可能性があるが、それが実際の平等改善に結び付くかは別問題である。
将来の展望(短期的・中長期的)
短期的には、データの整備や司法手続きの強化、被差別集団への直接的な経済支援やスキル供与が重要である。中長期的には、教育の普及・質向上、女性の社会参加促進、都市化に伴う職業流動性の拡大、メディアや文化事業によるステレオタイプ解体が期待される。国際的には、国連や世界銀行などの支援・勧告が国内改革を後押しする可能性がある。だが、政治的利害や既得権構造が改革を遅らせるリスクも残る。重要なのは、法的禁止だけで満足せず、経済的包摂と文化的変容を同時に推し進める総合的アプローチである。
まとめ
インドのカースト制度は単なる歴史的遺物ではなく、現代社会の経済・政治・文化の諸相に深く絡んでいる構造的問題である。憲法上は不可触性が廃止され、是正措置が取られてきたが、実務的には差別と排除が残存する。都市化や教育、経済開放が変化をもたらしている一方、保守的慣行や政治的計算が不平等を再生産する要因となっている。国際機関や研究は、包括的なデータと経済的包摂、制度の実効化が改善に不可欠であると指摘している。今後の鍵は、正確な実態把握、司法と行政の実効性強化、教育と雇用政策を通じた世代を跨ぐ格差の解消、そして文化的偏見の緩和を結びつける取り組みである。