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コラム:物忘れ・認知症予防、記憶物質の重要性

認知症の予防には、神経伝達物質やBDNFといった「記憶物質」を理解し、それらを保護・活性化する生活習慣(食事・運動・睡眠)が重要である。
認知症のイメージ(Getty Images)
現状(2026年2月時点)

日本を含む先進諸国では高齢化の進行とともに認知症が深刻な社会課題となっている。例えば日本国内では、2025年のデータで65歳以上の認知症患者数は約700万人に達し、その60〜70%がアルツハイマー型認知症であると推定されている。これは今後も増加が見込まれ、社会保障や介護負担の増大を引き起こすことが懸念されている。アルツハイマー型認知症は、発症の20年以上前から脳内でアミロイドβ(Aβ)と呼ばれる異常タンパク質が蓄積し始め、その後シナプス機能障害や神経細胞死を誘発する病理が進行することが示唆されている。こうした認知症の進行の制御と予防策の確立が急務となっている。

認知症の臨床治療は、現状では病気そのものを根本的に治療するものではなく、進行を緩やかにする薬物療法や非薬物療法が中心となっている。薬物療法としては、アセチルコリンエステラーゼ阻害剤やNMDA受容体拮抗薬などが症状の進行を抑制するために用いられているが、病態そのものの根本的な改善は達成されていない。


脳内の神経伝達物質(記憶物質)とは

神経伝達物質とは、神経細胞間のシナプスで信号を伝える低分子化学物質であり、学習・記憶といった高次脳機能に密接に関与する。神経伝達物質のバランスや濃度の維持は、認知機能の正常な維持にとって不可欠であり、異常は認知症などの神経変性疾患と関連する可能性がある。


記憶の鍵を握る「アセチルコリン」

アセチルコリンは中枢神経系に存在する代表的な神経伝達物質であり、学習や記憶、情動制御に重要な役割を果たす。特に海馬や大脳皮質におけるアセチルコリンのシグナル伝達は長期記憶形成や情報処理に寄与し、シナプス可塑性(長期増強など)と深く結びついている。その細胞内シグナル機構は複雑だが、ムスカリン受容体M1Rを介したPKC活性化といった経路が記憶形成の制御に関与すると報告されている。

認知症との関係

アルツハイマー型認知症患者の脳では、前脳基底部からのアセチルコリン神経の減少が観察され、これが初期の記憶障害と相関するという知見がある。神経伝達物質としてのアセチルコリンが低下することで、情報伝達効率が低下し、記憶形成・想起が困難になる可能性が示されている。こうした知見は、アセチルコリン量を増加させる薬剤(例えばアセチルコリンエステラーゼ阻害剤)が症状を緩和する基盤となっている。


脳の栄養源「BDNF(脳由来神経栄養因子)」

脳由来神経栄養因子(Brain-Derived Neurotrophic Factor、BDNF)は、神経細胞の成長、維持、シナプス可塑性に寄与する神経栄養因子の一種であり、記憶形成と深く関連している。BDNFは海馬のシナプス可塑性を促進し、CREBと呼ばれる転写因子経路を介したシナプス関連タンパク質の発現を制御するなど、神経ネットワークの強化に寄与する。

降齢とともにBDNFレベルが低下することは記憶障害と関連し、BDNF機能の低下は加齢性記憶低下や認知症リスク増加と関連するとの研究結果も得られている。


記憶物質の保護

神経伝達物質やBDNFの維持・保護は、認知機能低下予防の鍵となる。体内ではこれらの物質が生合成・分解・受容体シグナル伝達というダイナミックな平衡を維持しており、加齢やストレス、生活習慣病などがそのバランスを崩すと認知機能が低下する可能性がある。


脳を「ゴミ」から守る仕組み

脳には老廃物や異常タンパク質を除去する仕組みがあり、その代表がグリア細胞や脳脊髄液を介したクリアランス機構である。特に睡眠中には脳脊髄液流が活性化し、アミロイドβなどの老廃物が除去されやすくなる。これは「グリンパティックシステム」と呼ばれる脳内のクリーニングシステムとして注目されている。睡眠不足はこうした老廃物除去効率を低下させ、認知症リスクを高める可能性が指摘されている。


記憶物質を活性化させる予防策

食事:アセチルコリンの原料を摂る

アセチルコリンの合成にはコリンが必要であり、これはレシチンなどの食品に豊富に含まれる。コリンは神経伝達物質アセチルコリンの前駆体であり、適切な摂取は脳内アセチルコリン量の維持に寄与する可能性がある。また、DHAやEPAなどのオメガ3脂肪酸は神経細胞膜の構造を保護し、シナプス機能を維持する役割が報告されている。長鎖オメガ3脂肪酸は神経細胞の炎症を抑制し、神経伝達効率にも寄与する可能性が議論されている。

運動:BDNFを増やす唯一の手段

有酸素運動はBDNFレベルを上昇させ、記憶や学習能力の維持・改善を促進する唯一の実証的に強い介入手段である。中等強度の有酸素運動(ジョギング、サイクリング、水泳など)は海馬でのBDNF発現を高め、認知機能を保護・向上させることが示されている。継続的な運動習慣は脳の神経可塑性を促進し、認知症予防に寄与する。

睡眠:脳のクリーニング

睡眠は脳の老廃物除去を促進し、アミロイドβやタウタンパク質などの蓄積を防ぐ作用があるとされている。良質の睡眠を確保することは、認知機能維持にとって重要な生活習慣である。睡眠不足は認知処理効率低下だけでなく、老廃物除去機構の低下を通じて認知症リスクを高める可能性がある。


「物忘れ」か「認知症」か

物忘れは加齢にともなって一般的に生じる現象であるが、日常生活に支障を来すほどの記憶障害は認知症の可能性を示唆する。軽度認知障害(MCI)は認知症への前段階とされ、専門医による評価・検査が推奨される。正確な鑑別には詳細な認知機能検査および場合によっては脳画像検査やバイオマーカー評価が必要である。


今後の展望

認知症研究は病態解明と介入策の開発が進展している。BDNFシグナルの活性化、アミロイドβ除去を促す新規治療法、ナノテクノロジーによる老廃物クリアランス改善法など、多様なアプローチが探求されている。加齢とともに神経可塑性低下に対抗する介入は、高齢社会における脳の健康寿命延伸にとって重要性が増している。


まとめ

認知症の予防には、神経伝達物質やBDNFといった「記憶物質」を理解し、それらを保護・活性化する生活習慣(食事・運動・睡眠)が重要である。アセチルコリンやBDNFの動態を支える生活要因に着目した介入は、認知機能維持および意思決定主体のQOL(生活の質)を向上させる可能性を有する。今後の研究により、より効果的な予防・治療法が臨床へと橋渡しされることが期待される。


参考・引用リスト

  • Xue et al., Brain-Derived Neurotrophic Factor: role in synaptic plasticity and memory, PMC…(BDNFの機能とシナプス可塑性について)
  • Yamada KY., BDNF/TrkB signaling in synaptic plasticity, J Pharmacol Sci…(BDNFと記憶形成)
  • Mizoguchi Y. et al., BDNF低下と記憶障害, Sci Rep…(BDNF低下と加齢性記憶低下)
  • Numakawa T. et al., The Role of BDNF in AD pathology, MDPI Molecules…(BDNFとアルツハイマー)
  • 国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)アセチルコリンシグナル伝達研究成果(アセチルコリンの記憶制御機構)
  • 産業技術総合研究所プレスリリース(アミロイドβの病理と治療開発動向)
  • 各種認知症予防・概説サイト(認知症予防と治療薬の歴史・概要)
  • BDNF一般解説(栄養因子としてのBDNFと認知機能)

追記:「ヒントがあれば思い出せる」状態とは何か

日常生活において「名前がすぐに出てこないが、ヒントを与えられると思い出せる」という現象は、多くの高齢者や中年期以降の人々が経験する。この状態は、神経科学的には記憶の消失ではなく、検索(リトリーバル)の一時的障害であると解釈されている。

記憶は大きく「記銘(encoding)」「保持(storage)」「想起(retrieval)」の三段階から構成される。「ヒントがあれば思い出せる」状態では、記銘と保持は比較的保たれている一方で、想起過程における神経回路の活性化が不十分な状態にある。これは主に、海馬と前頭前野を結ぶ神経ネットワークの機能低下、あるいはアセチルコリンなどの神経伝達物質の一時的不足によって説明される。

重要なのは、この状態は加齢による生理的変化の範囲内であることが多く、認知症とは異なる点である。アルツハイマー型認知症では、ヒントを与えても想起が困難であり、記憶痕跡そのものが損なわれているケースが多い。一方、「ヒントがあれば思い出せる」状態は、記憶回路がまだ機能的に保たれている証左とも言える。

この段階で適切な生活介入を行い、記憶物質の分泌やシナプス可塑性を高めることは、認知機能低下の進行を抑制するうえで極めて重要である。


記憶物質の分泌を促す生活習慣の重要性

神経伝達物質やBDNFは、薬物によってのみ制御されるものではなく、日常の生活習慣によって大きく左右される内因性物質である。特に以下の三要素は相互に作用し、記憶物質の分泌と維持に強い影響を与える。

第一に、規則正しい生活リズムである。概日リズムが乱れると、神経伝達物質の合成酵素やBDNF遺伝子の発現リズムが乱れ、記憶形成効率が低下することが知られている。

第二に、慢性的ストレスの管理である。過剰なストレスはコルチゾール分泌を亢進させ、海馬神経細胞の萎縮やBDNF低下を引き起こす。これは記憶検索障害や集中力低下の原因となる。

第三に、社会的交流や知的刺激である。会話、読書、新しい技能の習得などは、アセチルコリン神経系を活性化し、神経ネットワークの使用頻度を高めることで、シナプスの維持に寄与する。

これらの生活要素は単独で機能するのではなく、相互補完的に記憶物質の分泌環境を整える基盤となる。


脳に良い献立設計の基本原則

脳に良い食事とは、単一のスーパーフードを摂取することではなく、神経伝達物質の原料、細胞膜の構成要素、抗炎症因子をバランスよく組み合わせた献立である。

アセチルコリン合成を支える食材の組み合わせ

アセチルコリンは「コリン」と「アセチルCoA」から合成される。コリンを多く含む食材としては、卵黄、大豆製品、レバー、魚卵などが挙げられる。これらに加え、エネルギー代謝を支えるビタミンB群(特にB1、B6、B12)を含む食材を組み合わせることが重要である。

例えば、

  • 主菜:卵と豆腐を用いた料理

  • 副菜:ほうれん草やブロッコリー

  • 主食:玄米や雑穀米

といった構成は、アセチルコリン合成と神経エネルギー代謝の両面を支える。

DHA・EPAと抗炎症栄養素の統合

DHA・EPAは神経細胞膜の流動性を高め、シナプス伝達効率を維持する。これに加え、ポリフェノールやビタミンC・Eを含む野菜や果物を組み合わせることで、神経炎症や酸化ストレスを抑制する効果が期待される。

具体的には、

  • 青魚(サバ、イワシ、サンマ)

  • オリーブオイル

  • ベリー類、緑黄色野菜

を組み合わせた献立は、地中海食パターンとして認知症リスク低下との関連が指摘されている。


BDNFを最も効率よく増やす運動メニューの分析

有酸素運動がBDNFに与える影響

数多くの研究により、BDNFを内因的に増加させる最も確実な方法は有酸素運動であることが示されている。特に中等度からやや高強度の運動は、海馬におけるBDNF遺伝子発現を顕著に高める。

重要なのは「きつすぎず、楽すぎない」運動強度である。最大心拍数の60〜75%程度が、BDNF分泌に最も適したゾーンとされる。

最適な運動メニュー構成

効率的にBDNFを増やすためには、以下のような構成が望ましい。

  1. 頻度:週3〜5回

  2. 時間:1回30〜45分

  3. 内容:

    • ウォーキング(やや息が弾む速度)

    • 軽いジョギング

    • サイクリング

    • 水泳

特に注目されているのが、インターバル型有酸素運動である。一定時間やや強度を上げ、その後回復期を設けることで、BDNF分泌が持続的に高まることが報告されている。

筋力トレーニングとの併用効果

近年では、有酸素運動に加えて軽度の筋力トレーニングを併用することで、BDNFとインスリン様成長因子(IGF-1)の相乗効果が得られる可能性が示唆されている。IGF-1は血液脳関門を通過し、BDNFシグナルを増強する補助因子として働く。


追記まとめ

「ヒントがあれば思い出せる」状態は、認知症ではなく、記憶検索効率の一時的低下である可能性が高い。この段階で、記憶物質であるアセチルコリンやBDNFを支える生活習慣を整えることは、脳の可塑性を保ち、認知機能低下の進行を遅らせる上で極めて重要である。

適切な食事設計、継続的な有酸素運動、良質な睡眠と社会的交流は、薬物介入に先立つ「脳の基礎体力」を高める手段であり、今後の認知症予防戦略の中核を成す要素である。


参考・引用リスト(追記分)

  • Kandel ER et al., Principles of Neural Science, McGraw-Hill
  • Erickson KI et al., Exercise training increases size of hippocampus and improves memory, PNAS
  • Cotman CW & Berchtold NC, Exercise: a behavioral intervention to enhance brain health and plasticity, Trends in Neurosciences
  • Gomez-Pinilla F., Brain foods: the effects of nutrients on brain function, Nat Rev Neurosci
  • 日本神経学会編『認知症診療ガイドライン』
  • 厚生労働省『認知症施策推進大綱』
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