コラム:ヨーロッパのクマ対策、「共存」という長期的な目標
欧州におけるクマ対策は、単なる「野生動物問題」ではなく、地域の生計、安全、文化、政治が複合的に絡む社会課題である。
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現状(2025年11月現在)
ヨーロッパにおけるヒグマ(Ursus arctos)の個体数は、地域により増加・安定・分断という多様な状況が混在している。EU域内の生息数については地域差が大きいが、近年の総体的評価では(欧州ロシアを含めた)約2万頭規模の回復傾向が確認されている一方、EU内では1万5千〜1万6千頭程度と評価され、特にカルパティア山脈地域が個体数の中心をなしている。再導入や保護政策により回復した地域(ピレネー、アルプス、ディナリック山脈など)では、個体数増加にともなう家畜被害や人間との摩擦が顕著になっている。これに加え、種の保存と人間社会の安全・生計をどう両立させるかが、地方自治体・国レベル・EUレベルでの主要な政策課題になっている。
欧州のクマ対策(総括)
欧州のクマ対策は大きく「保全(保護)」「被害防止(非致死的対策)」「補償制度」「個体管理(駆除・移送など)」「社会的合意形成(教育・説明責任)」の五本柱で構成される。欧州法の下ではヒグマは原則として高い保護を受け、EUハビタット指令(Habitats Directive)により野生個体の捕獲・殺処分・輸送には厳格な条件が課されるが、同指令の第16条は「代替措置がなく、種の保存に悪影響を与えない」場合に限って例外(指令上の逸脱)を認めるため、地域の緊急対応や「被害を防ぐための致死的措置」が法的に議論される余地がある。実務的には、自治体レベルでの電気柵・夜間囲い・番犬(パトゥ)導入、酪農の管理(放牧時間・群れの再編)、補償金支給、場合によっては問題個体の捕獲・移送・安楽死が実施されている。
主な対策アプローチ
欧州で採られている主なアプローチは以下の通りである。
予防重視の非致死的措置:電気柵、夜間の家畜囲い、堅牢な納屋や倉庫、蜂箱の防護など物理的防御を強化する方法。これらは被害発生率を大幅に下げうる実証的手法として普及している。
保護犬(パトゥ)と番人の配備:放牧地における羊や山羊の保護に専用の番犬を導入し、飼育者の監督体制を強化する取り組み。フランスのピレネー等では国家予算による犬の育成・訓練や牧人の雇用支援が行われている。
補償と経済支援:被害に対する迅速な補償金支払いや、予防設備導入の補助金が用意されている国・地域が増えている。ピレネーでは州(国)レベルで数百万ユーロ規模の予算が割かれている事例がある。
個体ベースの管理:常習的に人を追いかけたり攻撃性を示す「問題個体」については捕獲して移送または安楽死を検討する。これには科学的なリスク評価と法的手続きが必要である。2023–2024年にかけてアルプスで起きた問題個体の処遇を巡る論争は、個体管理の難しさを示している。
被害軽減のための予防策と共存策
被害軽減策は「被害をそもそも起こさせない」ことに重点を置くべきであり、具体的には次のような施策が効果的である。
堅牢な電気柵の設置:家畜、特に羊や蜂箱を守るための電気柵は国際的に有効と評価されている。適切な設置と定期点検が重要で、設置補助金と技術支援が被害削減に直結する。
夜間囲い(night pen)と餌付けの禁止:家畜の放牧時間管理や夜間の強固な囲いは襲撃頻度を下げる。人為的な餌や廃棄物(キャンプ場のゴミなど)はクマの行動を変化させ、人的接触を増やすため厳格管理が必要である。
牧畜管理の改編:少人数の放牧ではなく群れのまとまりを作る、監視の強化や見回りを行うことで事故リスクを下げる。フランスでは牧人の雇用支援で監視体制を強化している。
地域住民・観光客への教育:山歩きやキャンプ文化のある地域では、ゴミ管理、犬の扱い方、クマと遭遇した際の行動などの周知が不可欠で、長期的には「共存文化」の醸成が必要である。
物理的防御
物理的防御は最も直接的な被害低減手段であり、以下が代表的な例である。
電気柵:蜂箱や野外飼場周辺に設けることで侵入を防ぐ。恒常的な電源、定期整備、ゲート部分の強化が要件になる。
専用柵・堅牢な納屋:仔羊や牛の夜間収容場所の強化は夜間襲撃を防ぐ実効性が高い。欧州の補助プログラムではこれらの整備費を一部負担する例がある。
蜂箱防護(高床式・柵):養蜂はクマ被害の主要な損失源であり、蜂箱を高床式で設置するか周囲を柵で囲む対応が取られる。
家畜の保護
家畜保護は被害の主戦場であり、多層的対策が必要である。
牧畜犬(パトゥ/番犬)導入:訓練された番犬はクマの近づきを防ぎ、過去の研究や現地報告で被害低減効果が示されている。ただし、犬の訓練や維持にコストがかかり、社会的合意と資金支援が必要である。
夜間の監視・見回り:人の目があることでクマの接近を抑制できる。地方自治体が牧人を雇用するプログラムも実施されている。
飼養方法の見直し:放牧時期や放牧場所の選定、分散飼育ではなく集約飼育への転換など運用面の改革も検討される。
生息環境の管理
生息環境管理は長期的にクマと人の軋轢を調整する柱である。
餌資源の自然回復と人為的餌付けの禁止:人間由来のゴミ・残飯がクマを人里に引き寄せるため、ゴミ管理や餌付け規制が重要である。観光地やキャンプ地でのゴミボックスの改善は短期的に有効である。
生態回廊の確保:個体群の遺伝的多様性維持や若オスの移動を可能にするため、生息域をつなぐコリドー整備が推奨される。これにより局所的な過密や局地的被害の集中が緩和される可能性がある。
補償制度
被害を受けた住民・農家に対する補償は、社会的信頼と受容性を高めるため不可欠である。
迅速な損害認定と支払い:被害認定が遅れると現場の不満が増幅するため、現場検証体制と即時支払いの仕組みが重要である。フランスのピレネーでは2024年に数百万ユーロ規模の補償金を支出し、被害件数と補償対象を明確化して支払いを行っている。
予防措置補助:単に損害を埋めるだけでなく、電気柵や番犬導入の費用補助を行い、長期的に被害を減らすための投資を促す事例が増えている。
教育・啓発活動
共存を実現するためには地域社会の理解と行動変容が鍵である。
住民・観光客向けの情報発信:クマの生態、遭遇時の対応、ゴミ管理の重要性などを体系的に伝える取り組みが行われている。学校教育における自然教育や地域ワークショップも有効である。
ステークホルダー参加型モニタリング:市民を巻き込んだモニタリングは、データの共有と透明性を高め、政策の正当性を支える。クロアチア・スロベニアの越境モニタリングはその一例である。
個体数管理と駆除(致死的措置)
致死的措置は最後の手段とされるが、例外的に適用されるケースが存在する。
法的枠組み:EUハビタット指令の下では致死的措置や捕獲には厳格条件があり、地域当局は「他の代替手段がない」「当該措置が種の保存に悪影響を及ぼさない」ことを示す必要がある。これにより駆除の正当化が難しくなっている一方、住民の安全を確保する必要性から地方自治体が独自判断を求められる場面もある。
実務例:イタリアのトレンティーノ州では問題個体に関する駆除・捕獲を巡る条例が成立し、年数頭規模の致死許可が論争を呼んだ。2023–2024年の一連の事件(M90やJJ4を巡る事例)は、個体ベースの措置が社会的に非常に敏感なテーマであることを示した。
駆除枠の設定・拡大
一部の国・自治体では駆除(狩猟的な個体数調整)枠を設ける議論や実施が見られるが、科学的根拠と政治的判断が衝突することが多い。
科学と政治の緊張:生態学者は個体数管理は科学的に設計されるべきだと主張するが、地方政治では被害や不安への即時的な政治対応として駆除枠の設定が求められる。スロベニアや一部のバルカン地域では個体数上限や狩猟枠の議論が続いており、過剰な駆除は長期的な種保存に反すると警告されている。
迅速な対応
被害発生時のスピード感ある対応は、地域住民の安心感に直結する。
現場の即時対応体制:被害報告の受理、現地調査、応急措置(柵の補修や家畜の避難)を速やかに行うことが重要である。遅延は不信感を拡大させ、過激な要求(直ちに駆除を)を増幅させる。トレンティーノでの迅速な致死決定を巡る論争は、手続きの透明性と速やかさの両立が政策上の難所であることを示す。
EUの規制
EUレベルではハビタット指令が中心となり、保護と例外手続きに関する法的枠組みを提供している。
ハビタット指令の適用:ヒグマは指令の保護対象であり、商業的取引や野生個体の処分に対する一般的禁止がある。第16条による例外(逸脱)は認められるが、科学的根拠と代替手段の検討が要求される。欧州委員会は加盟国に対し、例外措置の適切性・必要性を厳しくチェックしている。
横断的支援:EUは越境モニタリングや技術支援、資金(農業交付金や地域開発資金)を通じて各国の共存施策を支援している。
複雑な対立構造
クマ問題は単なる生物学的課題に留まらず、地域経済、文化、政治、感情が入り混じる複雑な対立構造を形成している。
農村住民 vs 保護団体:農村の牧畜者は被害と生活不安を重視し、動物保護団体は個体の命と生態系保全を重視するため対立が生まれやすい。これに地方選挙やメディアが介入すると政治化が進む。
短期的安全 vs 長期的共存:人命や生業の保護を短期的に強く求める住民と、長期的な生態系回復や種の保存を重視する政策層との目標のずれが紛争を生む。
駆除への反発
致死的措置や個体移送を巡る決定は国内外で強い反発を招くことがある。
市民・動物保護団体の抗議:トレンティーノでの駆除決定は国内外の動物保護グループの強い反発を招き、EUレベルでの監視や法的質問につながった。これにより地方当局の決定プロセスや代替手段の検証が公的議論にさらされる。
地域住民の不安
被害だけでなく「不安」自体が社会コストを生む。
観光・生活の質への影響:クマ出没のニュースが広がると観光客の行動変容や地域イメージの悪化が懸念される。夜間の不安、子供の安全への懸念など、自治体は心理的支援と情報提供も求められる。
人とクマの「共存」という長期的な目標
最も望ましいゴールは「人間社会とクマが持続的に共存する社会」を構築することである。これは単なる被害対策ではなく、教育、インセンティブ設計、地域経済の再編、法整備、そして科学的なモニタリングを長期的に組み合わせることを意味する。具体的には、被害を恐れないだけの予防力を地域が持ち、同時にクマにとって必要な生息場と移動経路を確保することが求められる。
「被害防止」という緊急の課題
一方で、即時的に解決すべき問題は被害の抑止である。被害が続けば住民の不満は高まり、政治圧力によって拙速な致死措置が採られる危険があるため、迅速かつ効果的な予防策と補償は不可欠である。現場での短期的対策(電気柵、夜間囲い、緊急補償)と、同時に長期的共存へのロードマップを示すことが政治的安定に資する。
今後の展望
今後の欧州のクマ対策は以下の方向に進む可能性が高い。
科学に基づく地域管理の強化:遺伝学的解析や移動解析に基づく個体群管理、越境モニタリングの拡充により、より精密な方策設計が進む。
被害予防への投資拡大:電気柵や番犬、飼育方法の近代化といった予防策に対する公的支援が増える見込みである。フランスのピレネーのように予算を投入して被害管理を支えるモデルが他地域に波及する可能性がある。
制度的調整と透明性の向上:駆除や例外措置の適用については、科学的評価と住民参加を含む透明なプロセスがますます求められる。欧州委員会や欧州議会の関与は継続する見込みである。
社会的合意形成の重要性:教育・啓発、被害者支援、補償、公的説明責任の強化といった非技術的措置が地域の受容性を高める鍵になる。
まとめ
欧州におけるクマ対策は、単なる「野生動物問題」ではなく、地域の生計、安全、文化、政治が複合的に絡む社会課題である。したがって、政策は次の原則を軸に設計すべきである。
予防最優先:非致死的な防護措置と補助・補償制度に先行投資することが最も費用対効果が高く、社会的対立の激化を防ぐ。
科学と透明性:個体群管理や逸脱措置は科学的根拠を明確にし、手続きの透明性を担保すること。EUハビタット指令の下での適法性確認を怠らないこと。
地域参加と教育:住民・牧畜者・観光業者を政策設計に巻き込み、長期的に共存文化を育むこと。
越境協力:クマは境界を越えるため国際的・越境的な協調が不可欠であり、モニタリングとベストプラクティスの共有が必要である。
これらを組み合わせることで、短期的な被害抑止と長期的な共存という二重の課題に取り組むことが可能である。欧州各地の現場ではすでに多様な施策が試行されており、成功例と失敗例の双方から学びつつ、地域ごとの状況に即した柔軟な政策設計を行うことが今後の鍵になる。
主要参考・出典
- 欧州委員会(ハビタット指令に関する回答・解説)。
Rewilding Europe(欧州のヒグマ回復に関する総括)。
Dinaric/FACE等による「欧州におけるブラウンベアの現状」レポート(個体数・地域分布)。
Le Monde / RFI / AFP 等メディアのピレネー地域報道(出生数・補償額等の具体データ)。
The Guardian / AP / Reuters のトレンティーノ(イタリア)事例報道(問題個体と駆除論争)。
欧州環境局・越境モニタリングに関するEU発表(クロアチア・スロベニアの協力事例)。
