コラム:クマを「根絶」したらどうなる?人身被害への対応
日本からクマを「根絶」することは一見して被害を消す単純な解決策のように見えるかもしれないが、実際には生態系機能の破壊、文化的喪失、倫理的・国際的問題、そして莫大な社会コストという大きな代償を伴う。
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日本に生息する主なクマはヒグマ(エゾヒグマ、主に北海道)とツキノワグマ(本州・四国に分布)である。近年の調査では、ヒグマとツキノワグマを合わせた推定個体数は数万頭規模にあるとされ、特にヒグマは近年分布域が拡大・個体数が増加しているという推計が示されている。令和2年度の推定ではヒグマ単独で中央値約1万1700頭とされ、過去30年でおよそ2倍になったとの報告がある。
同時に、クマの出没件数や人身被害は増加傾向にあり、直近の年次で人身被害(負傷・死亡を含む)の発生件数は過去最多水準に達している。令和5年度のデータでは、人身被害の発生件数が198件(218人、うち死亡6人)など、年によっては秋〜冬期にかけて被害が集中する傾向が観察されている。
また、被害軽減のための許可捕獲(捕殺を含む)も多数行われており、年間で数千頭規模の捕獲が報告されている。近年の速報値をまとめた表では、都道府県別に許可捕獲数が示され、合計で数千から一万弱のレンジで年度変動があることが示されている。
歴史
日本列島におけるクマと人間の関係は極めて古く、縄文時代の遺跡からはクマの骨やクマを模した遺物が出土している。北の地域、特にアイヌ文化圏ではヒグマは神格化され、重要な儀礼の対象であった。一方、近代化・開拓期、特に北海道の開拓が進んだ時代にはクマとの衝突が深刻となり、1915年の三毛別(さんけべつ)羆事件のように多数の死傷者を出した歴史的事件もある(死亡7名・負傷3名)。この事件は都市化以前の人間集落と大型捕食者の衝突がいかに致命的になり得るかを示す代表的事例である。
昭和〜高度経済成長期には森林伐採や土地利用の大変化、狩猟圧等によりクマの生息域や個体数は大きく変動した。戦後の一時期は個体数減少した地域もあるが、近年は里山放棄や農山村の過疎化、森林の成熟化などにより再び分布が拡大する地域も出てきている。
近年の人的被害(データと地域事例)
全国ベースの統計で見ると、近年はクマによる出没・人身被害ともに増加傾向で、特に東北地方(秋田・岩手・青森など)や北海道、北陸、山形・福島といった豪雪寒冷地の山間部で被害が集中する傾向が強い。2019年〜2023年頃を含む近年では、秋(9〜11月)にかけて被害が増えるのが通例で、堅果類(ブナ・ミズナラ・コナラ等)の不作年には山の餌が不足し、里へ降りてくる個体が増えるため被害が顕在化しやすい。令和5年度は秋の凶作の影響で全国の人身被害が過去最多ペースになった。
地域別の実例を挙げると、
北海道:ヒグマの住宅地侵入やゴミ置き場周辺への出没が都市近郊でも頻発し、札幌近郊や道南の市街地で住民が目撃・通報する事例が増えている。これにより夜間の外出制限や学校行事の変更が発生する地域もある。
東北(秋田・山形・岩手):高齢化が進む農村で山菜採りや果樹管理中に遭遇・襲撃されるケースが多発しており、死亡事故に至る例も散見される。令和期に入って特に秋田県の被害件数が突出した年がある。
中部・北陸:農地被害(田畑や果樹園の荒らし)と住宅近接での痕跡発見が続く。特に果樹産地では経済的打撃が大きい。
経緯(被害増加の要因)
被害増加は複合要因による。主要因は次のとおりである。
餌資源の変動:ドングリやブナ果実の不作(結実量の年変動)により山中の餌が不足すると、クマは里に下りて農産物やゴミに依存するようになる。近年の気候変動は結実パターンに影響し、特定年に大規模な凶作をもたらすことがある。
人里の環境変化:里山放棄や過疎化で人が手入れしなくなった耕作放棄地や荒廃林がクマの生息に好適な環境となり、結果的に人間の生活域との境界が曖昧になっている。
保全と管理の乖離:一方で捕獲や個体数管理の体制が自治体ごとに異なり、科学的なモニタリングや予防対策が十分でない例もある。年間の許可捕獲数は数千頭にのぼるが、これが効果的に被害削減につながっているかは地域で差がある。
「根絶」した場合の主要な問題点(生態学的・社会的・倫理的影響)
クマを日本から「根絶」するという仮定を立てた場合に生じる影響は多面的である。ここでは代表的な問題点を列挙する。
森林生態系の機能喪失
クマは果実を食べて種子を遠隔散布する重要な種子散布者であり、森林の更新や植生の空間構造に寄与している。ツキノワグマがサクラやサルナシなどの種子を散布することに関する研究は複数報告されており、クマがいなくなると種子散布ネットワークが弱まり、長期的には森林構成の変化や生物多様性の低下につながる可能性がある。特に標高移動や気候変動に対する植物群落の応答にも影響を与える。生態系全体の連鎖影響(トロフィックカスケード)
大型雑食獣であるクマの消失は、他の種(フンを介した微生物や昆虫、クマの狩猟対象・競合種)のポピュレーションバランスを変化させ、結果として森林の植生や草食動物の挙動、捕食関係全体に連鎖的な影響を及ぼす。研究者はクマを「傘(アンブレラ)種」として保全価値を語ることがあり、クマの保全が周囲の生物群集保全に寄与するとの指摘がある。文化的・地域社会への損失
クマは民俗や祭礼、地域文化に深く関わってきた。根絶は単なる生物学的喪失に留まらず、人々の文化財や伝承を絶つことにもつながる。クマを題材とした地域の観光資源や教育資源も失われる。倫理・国際的信用の問題
意図的な根絶政策は国際的な生物多様性条約や倫理観と衝突する可能性が高く、国際的な批判や自然保護に関する信頼低下を招く恐れがある。管理・社会コストの集中化
根絶を目指して大規模な捕殺・駆除を行えば短期的に費用・労力は莫大になる。さらに捕殺後の生態系回復措置や代替策(害獣管理、植生保全など)の費用が必要となり、結果的には社会全体のコストが増大する。
課題(現実的な対策が直面する困難)
現実的に被害を抑えつつ共生を図るためには以下の課題がある。
科学的データの不足:個体群動態、移動経路、繁殖成功率、餌資源の年次変動と被害発生の因果関係など、詳細な科学データの蓄積と解析が不十分な地域があり、政策決定の根拠が脆弱なことがある。
地域間の調整:クマは広域移動する可能性があるため、都道府県間で連携した管理計画が必要であるが、自治体ごとの事情や財政力の差で対応にムラが出る。
住民の安全確保と生活維持の両立:高齢化した山村では日常的に山林に入る作業が不可欠であり、同時に遭遇リスクも高い。安全対策(柵、警報システム、教育)を継続的に実施するための資金と人手確保が課題である。
共生への道(実務的対策の提示)
クマを根絶するのではなく、被害を減らしつつ共生を目指す現実的な方策を具体的に挙げる。
予防的生息域管理
里山再生や農地周辺の防護柵・電気柵の設置、ゴミ管理の徹底によってクマの里入りを防ぐ。自治体と住民が協力して「餌になるもの」を人里に残さない仕組み作りが必要である。科学的モニタリングと個体管理
GPS首輪による行動解析やカメラトラップ、市民通報データの統合によって出没予測モデルを構築し、危険個体を早期に特定して非致死的な追い払い・移送・場合によっては許可捕獲で管理する。許可捕獲は地域の実情に基づいた限定的・科学的な実施が重要である。被害地域の社会政策連動
高齢化地域では、収穫時期や山作業時の見守り制度、クラウド型通報ネットワーク、地元ボランティアや猟友会との協定による迅速対応体制を構築する。補助金や国の交付金で電気柵設置や被害補償を支援する施策も有効である。教育・啓発とツーリズムの活用
クマとの正しい接し方を住民・観光客に周知し、同時にクマ観察(安全管理されたレンジャー同行ツアー等)を地域振興に結びつけることでクマの存在価値を経済的に還元する例もある。ただし観光化は誤った餌付け等の問題を生むため慎重な運営が必要である。
今後の展望(政策的・研究的提言)
クマを完全に根絶する選択は、短期的に人的被害を減らす可能性がある一方で、長期的な生態系サービスの喪失、文化資源の消失、国際的信用の低下、そして倫理問題を引き起こすため、現実的には推奨されない。今後は以下の方向で戦略を組むべきである。
長期的・全国的ビジョンの策定:国—都道府県—市町村レベルで目標(被害低減率、保全区域設定、モニタリング基準等)を共有し、財源配分と評価指標を明確にする。
研究基盤の強化:種子散布や個体群動態、気候変動との相互作用に関する学際的研究を深化させ、エビデンスに基づく管理を実施する。特に標高移動や餌資源の年次変動に対する長期データが重要である。
地域主導の共生モデルの普及:成功事例(電気柵+コミュニティ監視、早期追跡システム、補償制度の整備など)を棚卸して他地域へ展開するためのノウハウ集を整備する。
総括
日本からクマを「根絶」することは一見して被害を消す単純な解決策のように見えるかもしれないが、実際には生態系機能の破壊、文化的喪失、倫理的・国際的問題、そして莫大な社会コストという大きな代償を伴う。一方で現状のまま放置すれば人身被害や地域社会の不安は増大するため、「根絶」でも「放置」でもない中道の解が必要である。短期的には危険個体の管理と被害対策を徹底し、長期的には生態系サービスを回復・維持するための科学的管理と地域連携を進めることが、日本における現実的かつ持続可能な選択肢である。