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コラム:慢性病治療、痛みを”脳”で克服

慢性痛は、中枢神経系の情報処理の変調を含む複雑な症状である。
痛みのイメージ(Getty Images)
現状(2026年2月時点)

慢性痛(Chronic Pain)は世界的な公衆衛生上の重大な課題であり、持続する痛みは個人の生活の質(QOL)や社会・経済的負担に深刻な影響を及ぼしている。最新の疫学調査では、世界人口の約8〜11%が慢性痛を経験していると報告されている。慢性痛は「通常の組織治癒期間を超えて(一般に3〜6カ月以上)持続する痛み」と定義され、神経系の中枢および末梢に関連する複合的なメカニズムが関与する症状群である。これまでの疼痛治療は鎮痛薬や外科的介入、理学療法が中心であったが、多くの患者で満足のいく鎮痛効果が得られていないという現状がある。慢性痛の治療効果は限定的であり、その改善方法の探索が活発化している。

従来は身体的損傷と疼痛の直接的な関係に治療の焦点が置かれていたが、近年の神経科学研究により、慢性痛は脳や脊髄など中枢神経系の機能変調を主要因とする場合が少なくないことが明らかになりつつある。このため、痛みの治療には中枢神経系、特に脳の可塑性(neuroplasticity)を標的としたアプローチが注目されている。


慢性病とは

慢性病(Chronic Disease)は、長期にわたり持続し、進行性・再発性を呈する疾患の総称であり、慢性痛はその代表的な症状である。慢性痛は生理的な痛みが本来の生存機能を超えて長引き、疼痛体験の連鎖が持続する状態であり、国際疾病分類(ICD-11)では慢性痛は複数のカテゴリーに区分されている。

慢性痛は、単に「痛みの持続」と定義されるだけでなく、痛みに伴う心理・感情・社会的要素を含む複合的な体験であると認識されている。この理解は、痛みの生物・心理・社会(Bio-Psycho-Social: BPS)モデルと呼ばれる枠組みに基づき、今日の慢性痛治療の基盤となっている。このモデルでは、痛みは感覚・認知・情動の統合的な経験であると捉えられる。


痛みを“脳”で克服?

痛みを“脳”で克服するとは、単に薬理学的鎮痛を行うのではなく、慢性痛に関与する脳機能の変化や神経可塑性そのものを標的として介入する戦略を指す。近年、慢性痛における脳活動の変調が痛みの維持や増幅に深く関与していることが実証されている。つまり、慢性痛は脳の情報処理ネットワークが不適切な「痛みの学習・記憶」状態にあると考えられ、そこに介入することで痛みを減少させる可能性があるとする研究が進んでいる。

具体例として、Pain Reprocessing Therapy(PRT)の臨床試験では、慢性腰痛患者を対象に脳の「痛みの信号」を脅威として認知する傾向を再学習させる治療が実施され、その結果、約66%の患者で痛みが大幅に軽減したという報告がある。この治療は、脳活動の変化(fMRIでのPain-related領域の活動低下)と関連しており、痛みの主観的体験が脳の評価プロセスの変化によって修正可能であることを示唆している。


なぜ「脳」で痛みが起きるのか

痛みは一般に侵害受容刺激(noxious stimulus)により末梢神経から脊髄を介して脳へ伝えられる。しかし、慢性痛では中枢性感作(Central Sensitization)と呼ばれる現象を通じて、脳や脊髄の痛み処理ネットワークが過敏化し、痛みが持続・増幅される。中枢性感作は痛みシグナルの閾値を下げ、通常は痛みを感じない刺激でも痛みとして認識される状態を意味する。

また、慢性痛患者では、前頭前皮質(PFC)、前帯状皮質(ACC)、島皮質(insula)など、痛みの知覚・情動処理に関与する複数の脳領域で機能変動や構造変化が観察されている。これらの変化は、痛み感覚のみならず、恐怖や不安反応、動機付けや意思決定にも影響を与える。これら脳ネットワークの再編成が、慢性痛の持続・悪化に寄与する。


痛みの増幅

中枢性感作の過程では、末梢および中枢の神経可塑性が変容し、痛み信号の処理が強化される。この増幅には、脊髄レベルでの抑制性介在ニューロン機能の低下や、痛み関連脳領域間の結合性変化が関与する。慢性痛患者では、痛み記憶や不快な感覚の学習が固定化しやすく、さらなる痛みの増幅につながる。


恐怖の回路

慢性痛では、恐怖回避(Fear-Avoidance)モデルが重要な役割を果たすとされる。痛みを恐れる認知が強化されると、動作回避や不活動が促進され、身体的機能低下や痛みの慢性化につながる悪循環が発生する。このプロセスは脳の情動ネットワークと密接に関連し、前頭前皮質や扁桃体を介した情動評価と連動する。これらの構造は、痛み刺激だけでなく、痛みの予測や恐怖反応に関与するため、慢性痛における行動・感情面の治療標的となる。


脳を再学習させる主な克服方法

慢性痛の脳を標的とした治療は多岐にわたる。以下に代表的な方法を示す。


認知行動療法(CBT)

認知行動療法(Cognitive Behavioral Therapy: CBT)は慢性痛患者に広く用いられる心理社会的介入法であり、痛みそのものではなく、痛みへの認知や行動パターンを再構成することを目的とする。CBTは痛み関連の否定的思考、破局的思考、不適応な対処行動を修正することでQOL向上や痛みの主観的軽減に寄与する。また、CBTは慢性痛に併存するストレスや不安、抑うつへの対応も含むとされる。

複数のシステマティックレビューでは、CBTが慢性非がん性痛において痛みの頻度や身体機能障害の改善と関連することが報告されている。


運動療法

運動療法は筋力強化や柔軟性を改善するのみならず、脳内報酬系や情動制御ネットワークを活性化し、恐怖回避行動を減少させる作用があるとされる。運動は慢性痛患者において痛み関連の感情反応を緩和し、痛みに関連する思考パターンを変化させる可能性がある。また、運動は神経可塑性を促進し、痛み処理ネットワークの再編成を助けるとする神経科学的エビデンスも存在する。


薬物療法(脳への作用)

薬物療法では、従来の鎮痛薬に加えて、中枢神経系に作用する抗うつ薬や抗痙攣薬が慢性痛に対して用いられることがある。これらの薬剤は脳内の神経伝達物質のバランスを調整し、痛み処理の評価・情動ネットワークに影響を及ぼすとされる。例えば、脳内のセロトニンやノルアドレナリンの調節は疼痛抑制系に影響する可能性がある。一部の基礎研究では、これら薬剤が脳活動を変化させる証拠も示されている。


脳リハビリテーション

リハビリテーションは、疼痛関連ネットワークを再調整することを目的とし、ニューロフィードバック、経頭蓋電気刺激(tDCS)、痛み再処理療法(PRT)などの技術的介入を含む。これらのアプローチは、脳の機能的可塑性を利用し、痛みの評価プロセスを再学習させることを目指す。例えば、tDCSは痛み処理に関与する皮質領域の活動を調整し、疼痛感受性を減少させる試みとして研究が進められている。


治療のゴール

慢性痛治療におけるゴールは、単に痛みを消失させることではない。痛みの生活障害や心理的困難を軽減し、患者が日常生活を管理できる能力を取り戻すことが中心的な目的である。具体的には、痛みに対する破局的思考の減少、自己効力感の向上、運動や社会活動への再参加、精神的苦痛の軽減などが治療の主要アウトカムとなる。これらは慢性痛の生物・心理・社会的側面を統合的に改善するものである。


今後の展望

慢性痛治療における脳標的療法の研究は急速に進展している。機能的・構造的神経イメージングや脳活動のバイオマーカーの開発は、個々の痛み体験に基づいた個別化治療の発展につながる可能性がある。また、PBM(Pain Brain Modulation)のような新規脳刺激技術、AIを用いた慢性痛予測モデル、インターネット支援型CBTなどのデジタル治療法が臨床実装に向けて進展している。これらの進展は、痛みの主観的体験を科学的に評価・介入する新しい枠組みとして期待される。


まとめ

慢性痛は、中枢神経系の情報処理の変調を含む複雑な症状である。従来の身体中心アプローチから、“脳”の機能変化を標的とした治療へのシフトが進んでいる。認知行動療法、運動療法、薬物療法、脳リハビリテーションはそれぞれ脳の可塑性に働きかけ、痛み関連ネットワークの再学習を促す。治療の主眼は痛み自体の消失ではなく、痛みの体験と生活機能の改善にある。今後は神経イメージングやAI、デジタル療法の発展により、慢性痛治療の精密性と効果が一層高まることが期待される。


参考・引用リスト

  1. Cognitive Behavioral Therapy for Chronic Pain — Pain Management Education at UCSF; CDC, NIH recommendations on CBT efficacy.

  2. 慢性疼痛患者の行動変容とリハビリ効果の維持を目的とした認知行動療法プログラム — Japanese research project on CBT for chronic pain.

  3. Retraining the brain to treat chronic pain — NIH research on Pain Reprocessing Therapy.

  4. Neuroplasticity in chronic pain: insights into diagnosis and treatment — Review on neuroplastic changes in chronic pain.

  5. 慢性疼痛の認知行動療法—最近の知見を中心に — Recent insights on CBT in chronic pain.

  6. 慢性疼痛とは — Demographic data on chronic pain prevalence and classification.

  7. 慢性疼痛の脳内メカニズム — Functional brain changes in chronic pain.

  8. 痛みのBPSモデルと評価方法 — Bio-Psycho-Social model of pain.

  9. 慢性疼痛診療 ガイドライン — Central sensitization in chronic pain.

  10. 運動療法と脳機能 — Exercise effects on pain-related neural circuits.

  11. 慢性疼痛に対する脳ネットワーク刺激戦略 — Research on brain stimulation to enhance CBT efficacy.


追記:痛みがあってもQOLが向上するという逆説

慢性痛治療において最も重要な認識転換の一つは、「痛みの消失がQOL改善の前提ではない」という点にある。多くの慢性痛患者は「痛みがなくなってから行動する」「痛みがゼロにならなければ生活は戻らない」という条件付きの行動様式をとる。しかし、脳科学および臨床心理学の知見は、この前提が必ずしも正しくないことを示している。

慢性痛では、痛みの強度(pain intensity)と生活障害度(pain interference)は必ずしも比例しない。すなわち、同程度の痛みが存在していても、ある人は日常生活を維持し、別の人は著しく制限されるという現象が一貫して観察されている。この差を生む主因は、脳内での痛みの「意味づけ」と「注意配分」にある。

QOL向上は、痛みが完全に消失する前から生じうる。むしろ、QOLが先に改善することで、その後に痛みが低下するという順序が、慢性痛ではしばしば成立する。この逆説的プロセスこそが、「脳を介した慢性痛克服」の核心である。


「痛み中心の生活」から「生活中心の痛み」への転換

慢性痛状態では、脳は痛みを生活の中心的脅威として処理する。これは注意資源が恒常的に痛みに割り当てられ、感覚入力・思考・感情・行動の多くが痛みを基準に組織化されている状態を意味する。

この段階では以下の特徴が見られる。

  • 痛みの有無を常にモニタリングする

  • 軽微な身体感覚も痛みとして解釈されやすい

  • 痛みの将来予測(悪化予測)が頻発する

  • 行動選択が「痛み回避」を最優先とする

これに対し、治療的介入が進むと、徐々に「生活中心の痛み」という状態へ移行する。これは、痛みは存在していても、それが行動や意思決定の中心から外れていく状態である。

重要なのは、痛みを無視することでも、否定することでもない点である。むしろ、痛みを「多数ある身体情報の一つ」として再位置づけするプロセスである。


脳が痛みに執着する理由

脳が痛みに執着する背景には、生存に有利な学習機構が存在する。痛みは本来、危険回避のために強い注意と記憶を伴う信号として設計されている。そのため、一度「危険」と学習された感覚は、以下の脳内回路を通じて強化される。

  • 扁桃体による脅威評価

  • 海馬による文脈記憶(場所・動作・状況)

  • 前帯状皮質による情動的苦痛の付与

  • 前頭前皮質による予測と警戒

慢性痛では、これらの回路が「実際の組織損傷が解消された後も」持続的に作動する。その結果、痛みは感覚というよりも「警報システムの誤作動」として存在する。

脳が痛みに執着するのは、痛みが危険だと信じ続けているからであり、この信念構造そのものが治療対象となる。


注意の再配分と神経資源の再編成

脳は有限の注意資源を持つシステムである。慢性痛状態では、その資源の多くが痛みの監視と評価に割かれている。しかし、認知行動療法、運動療法、価値志向行動(Value-based action)などの介入を通じて、注意の配分が徐々に変化する。

このプロセスは以下の段階をたどる。

  1. 痛みが存在しても、安全であるという知識的理解が形成される

  2. 痛みへの自動的注意反応が弱まる

  3. 注意が活動・対人関係・目的意識へ再配分される

  4. 痛みの知覚頻度そのものが低下する

神経学的には、痛み関連ネットワーク(salience network)と、実行制御・報酬ネットワークとの相対的バランスが変化すると考えられている。痛みが「最重要情報」ではなくなることで、脳内の優先順位が書き換えられる。


行動回復が脳を書き換えるプロセス

慢性痛治療において、「行動の回復」は単なる結果ではなく、原因としての役割を果たす。すなわち、行動が変わることで脳が変化する。

活動再開により、脳は以下の新しい学習を得る。

  • 動いても致命的な損傷は起きない

  • 痛みがあっても状況は制御可能である

  • 痛みは常に悪化するわけではない

これらの経験的学習は、言語的説明よりも強力に脳回路を書き換える。特に、恐怖回路(扁桃体)と前頭前皮質の関係性が変化し、トップダウン制御が回復することで、痛みへの過剰反応が抑制される。


QOL向上が痛みを低下させる理由

QOLが向上すると、痛みのレベル自体が低下していく現象は、多数の臨床研究で確認されている。この背景には、複数の相互作用的要因が存在する。

第一に、情動状態の改善がある。不安や抑うつは痛み感受性を高めることが知られており、心理的安定は痛み処理の過剰化を抑制する。

第二に、報酬系の再活性化である。意味のある活動や社会的つながりはドーパミン系を活性化し、痛み信号の相対的重要度を低下させる。

第三に、痛み予測誤差の蓄積である。「痛み=危険」という予測が外れ続けることで、脳はそのモデルを更新し、痛み信号への警戒レベルを下げる。


「痛みが下がる」のではなく「下げる必要がなくなる」

慢性痛の回復過程において特徴的なのは、患者自身が「いつから痛みが軽くなったのかわからない」と語る点である。これは、痛みが直接的な治療対象から外れ、生活の背景へと後退した結果である。

この段階では、

  • 痛みの測定頻度が減少する

  • 痛みを話題にする時間が減る

  • 痛みの変動に一喜一憂しなくなる

という変化が生じる。脳は「痛みを管理すべき問題」として扱う必要がなくなり、その結果として痛みの主観的強度も低下する。


追記まとめ

慢性痛における回復プロセスは、「痛みを消してから生きる」のではなく、「生き方を取り戻すことで痛みが変化する」という方向性を持つ。脳が痛みに執着しなくなるとは、痛みが無意味になることではなく、脅威としての地位を失うことを意味する。

QOLの向上、行動の回復、注意の再配分は相互に強化し合い、その結果として脳の痛み処理ネットワークは再学習される。この連鎖的変化こそが、「痛みを脳で克服する」という概念の実体である。

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