コラム:中国「反スパイ法」、現状と問題点
改正反スパイ法は中国の国家安全確保という大義名分のもと、法的フレームワークを強化しているが、条文の抽象性と執行権限の強さは国内外に重大な不確実性をもたらす。
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中国は2014年に成立した「反スパイ法」を基軸に、国家安全を守る法制度を近年一貫して強化している。とくに2023年7月1日に改正反スパイ法(以降「改正法」)が施行されて以降、スパイ行為の定義が拡大され、捜査・監督の権限が強化されたことにより、国内外の個人・企業の活動へ直接的・間接的な影響が拡大している。国際社会や法曹・企業コンプライアンスの専門家、国際人権団体らは、改正法の文言の曖昧さと運用の恣意性を懸念している。
反スパイ法とは(2023年7月1日改正)
反スパイ法は、国家(中華人民共和国)の安全を脅かす諜報活動を防止・処罰することを目的に2014年に制定された法律である。2023年4月に全国人民代表大会常務委員会で改正案が公表され、同年7月1日に改正法が施行された。改正の中心は「スパイ行為」の範囲拡大と国家安全当局の捜査権限の明確化・拡大、並びに国民や組織に対する情報提供(通報)義務の強化である。法律本文・解説からは、データや技術情報、重要施設に関する情報などが国家安全に関わる情報として広く取り扱われうることが読み取れる。
法律の概要と改正のポイント
改正法の主なポイントを列挙すると次のとおりである。
スパイ行為の定義拡大:従来の「諜報」や「秘密漏洩」だけでなく、国家安全や国家利益に関連すると当局が判断する情報の収集・提供を広く含む規定になっている。具体的活動の列挙(情報収集、資金援助、勧誘、組織化等)の範囲が拡大された。
当局の捜査権限強化:捜査機関(国家安全当局や公安機関)が事業所や電子設備、データの検査・取得を行う権限や、関係者からの事情聴取・出頭命令を行う根拠が明確化・強化された。裁判所の事前許可や独立した手続保障の記述が限定的である点が指摘される。
通報義務の導入:国家機関・組織だけでなく企業や個人に対しても、一定の国家安全に関わる疑いを把握した場合の通報や協力義務が規定され、違反時には行政罰や刑事責任が科されうる枠組みになった。
国外勢力・外国関係者への適用:外国籍者や外国企業が行った行為でも、中国の国家安全に関わると判断されれば適用対象となることを明確にした。これにより在中外国企業や出張者、研究者もリスクに晒される。
(以上は改正法の条文・専門家解説に基づく要約であり、詳細は条文と施行細則の確認が必要である。主要解説や法律翻訳を参照すると法文の具体的な条項が確認できる。)
制定と施行の経緯
反スパイ法の根底にある政策的背景は「総体的国家安全観」である。中国は2010年代以降、国家安全を外交・軍事に限定せず経済、社会、サイバー、科学技術、データ等の広範な領域に拡大する立場を採る。そのため国家安全関連法令群(国家安全法、国家情報法、サイバーセキュリティ法、データセキュリティ法等)と整合させる形で反スパイ法も改定された。改正は、国家の戦略的重要技術や情報を外国勢力やスパイ活動から守るという政府の正当化論に基づいている。専門家は、こうした立法が国家の安全確保と同時に統制強化の手段として機能しているとの見方を示す。
スパイ行為の定義拡大
改正法によって従来の「秘密の不正入手」型に限られない定義が導入された。たとえば「国家の安全や利益に関する情報を収集・提供する行為」「国家安全を損なう可能性のある経済情報や科学技術情報に関わる活動」等が含まれる旨が条文で示される。条文は抽象的・概括的な文言を含み、どの情報が国家安全に該当するかは執行機関の判断に委ねられる余地が大きい。結果として研究者のフィールドワーク、企業の市場調査、国際共同研究や外交的接触が誤認逮捕・捜査の対象になりうるとの懸念が出ている。
「国家の安全や利益」の曖昧さ
法文における「国家の安全」「国家の利益」は明確な定義が付与されておらず、解釈は行政機関や法執行者に委ねられやすい。JETROや法律事務所の分析は、これが企業活動や学術交流に「予見可能性(legal predictability)」を欠く重大なリスクを生むと指摘する。たとえば、「経済安全」や「重要データ」は範囲が広く、どの種の経済情報が国家安全に関わるのか明確でないため、外国企業が運営上の判断を誤る余地がある。
当局の権限強化
改正法は情報アクセス権や施設立ち入り、通信・ネットワークの切断、電子データの押収など、当局の技術的・実務的手段を明文化する方向にある。解説では、国家安全当局に対する文書提出命令や、企業の協力義務に関する明示的条項が注目される。これにより、企業の内部データ、従業員の通信、顧客データなどが捜査対象となり得るため、データ保護やプライバシーの観点から大きな懸念が生じる。
通報義務
改正法は個人や組織に対して「国家安全に関する疑わしい事実を当局に通報する義務」を課す規定を含む場合があると解釈される。実務解説は、企業が従業員の行為や取引先の活動を監視・報告するインセンティブを強化する点を指摘する。通報義務は企業コンプライアンスの負担を増加させるだけでなく、社内告発が治安当局の捜査につながることで社員の権利保護が不十分になる恐れがある。
外国企業・個人への影響
改正法は在中外国企業や出張者、研究者、国際機関関係者に対して広範な影響を及ぼす。法の適用対象に国籍を限定する文言はないため、外国人も中国国内での活動により捜査対象となりうる。実例として、記者や研究者、駐在員が「国家の利益を損なう」とされた事件が国際報道で取り上げられている。具体的には中国国内での外国企業従業員の拘束や容疑者としての起訴例が報じられており、日系企業の駐在員が捜査・起訴された事例もある。これらは改正法を背景にした捜査強化の一環と理解されている。
恣意的な法執行のリスク
法文の抽象性と当局権限の強化は、恣意的または政治的な動機による適用の危険性をはらむ。人権団体や一部の学者は、反スパイ法が表現の自由や学術の自由、報道の自由を制約する方向で運用され得ると批判している。国際的には「国家安全」を理由にした恣意的拘束・起訴の報告が繰り返されており、自由な国際交流の萎縮を招く恐れがある。
調査活動への制限
国際共同研究やデータ収集を伴う学術活動、非営利団体の活動も、情報収集行為として監視・制限される可能性がある。特に生物・AI・宇宙・深海・極地などの「重点領域」は国家が特に注視しており、その関連分野の研究者や技術者はリスクにさらされやすい。JETROの分析でも、こうした分野における研究交流や投資が「安全」の名の下に制限される事例が増えていると整理されている。
邦人の拘束事例も
近年、日本企業の社員や日本人研究者が中国当局に拘束・起訴された事例がある。たとえば製薬企業の在中日本人社員がスパイ容疑で起訴され、日本政府や企業は中国当局への早期対応と邦人保護に注力している。これらの事案は反スパイ法改正の後に増えたという専門家の指摘もあるが、個々の事例の法的根拠や手続はケースバイケースである。国際報道は拘束事例を外交問題として報じ、企業側も身柄の安全確保と法的支援を求めている。
主な矛盾点
改正法と中国が掲げる「経済開放・発展」政策との間に矛盾が存在する。政府は一方で外資誘致・ハイテク投資を進める一方、他方で国家安全の名で情報アクセスや研究交流を制限する可能性を高める法制度を整える。企業や研究機関は投資・協力の自由と安全リスクの間でジレンマに陥る。法律の目的(安全確保)と結果としての経済活動抑制との乖離が批判される。
「国家の安全」定義の曖昧さと恣意的な運用リスク
「国家の安全」概念の幅広さは政策上の強みである一方、法的な透明性と予見可能性を損なう。条例や実務細則によって補足される可能性はあるが、初期段階では運用者の裁量が大きく、政治的な優先事項の変動や外交状況によって適用対象が変わり得る。人権団体や国際法学者は、恣意的運用を防ぐための独立監督や司法審査の強化を要求している。
「経済開放・発展」という目標との乖離
中国政府は公式には「発展と安全保障は二者択一ではない」と表明しているが(政府の立場として、経済発展と安全強化は並列的に実現可能だとする主張)、実務レベルでは外国投資家や国際研究パートナーの間で不確実性が増大し、結果的に投資や技術交流の抑制が生じる。多国籍企業は中国市場の重要性を認める一方、法的リスクに基づく事業転換やデータのローカライゼーション、サプライチェーンの再編を検討している。これは短期的には国家安全の確保に資すると政府が主張しても、中長期的にはイノベーションの受容と経済成長にブレーキをかける可能性がある。
現実は
改正法施行後、地方レベルや国家安全機関による取り締まりや調査が実施され、外国企業のデータアクセス要請や従業員への取材、研究者の接触などが監視対象となる事例が報告されている。国際報道は、特に外交関係が緊張している国の市民やジャーナリスト、企業関係者がターゲットになりやすいと指摘している。司法過程の透明性が低く、弁護側のアクセスや証拠開示の制約が訴えられている事例もある。
国際的な慣行との認識の違い
各国は自国の国家安全を守るための法制度を持つが、中国の改正法はその適用範囲や手続面で他国と比較して行政権限が強く、司法チェックが相対的に弱いとの批判がある。欧米の法制度では、捜査やデータアクセスに裁判所の事前許可や透明な手続を求める例が多いが、中国法は国家安全の優先を強調するため、比較的迅速かつ広範な行政措置を容認する傾向がある。この認識の差は外交紛争や経済摩擦の一因となっている。
問題点(総括)
法的曖昧性:スパイの定義や「国家の安全」の範囲が広く、解釈の余地が大きい。
予見可能性の欠如:在中外国人・企業が何が違法か予見することが難しい点で投資・交流を阻害する。
権限集中:行政当局のデータアクセスや取調べ権限が強く、司法による十分なチェックが働きにくい構造になりやすい。
人権・表現の自由への影響:研究者、報道機関、NPOなどの自由な活動が萎縮する懸念がある。
外交・経済リスク:外国政府との関係悪化や外国投資の縮小、サプライチェーンの見直しといった経済的影響を生む。
専門家・メディアの見解(データ参照)
複数の法律事務所や国際機関の分析は共通して次を指摘している。改正法は法文上、スパイ行為の定義を広げ、国家安全の名のもとで国境を越えた情報アクセスや企業協力を義務付ける点が問題だとする意見がある。法律事務所の解説や政府系シンクタンクの報告は、企業に対しリスク評価、データローカライゼーション、従業員の研修強化、緊急時の対応フロー構築を求める。国際人権団体は、一連の国家安全法制が表現の自由や市民権を縮小していると批判している。
今後の展望
運用面の蓋然性:当面は国家安全機関による運用強化が継続し、事案ごとに適用範囲が試される局面が続く可能性が高い。国際情勢や外交関係が法適用の強度に影響するだろう。
法的整備と実務細則の整備:中央政府や各省庁が実務細則やガイドラインを出すことで一定の手続的明確化が図られる可能性があるが、その内容次第では実効性が限定的になる懸念もある。
国際的反応と企業対応:外国政府や多国籍企業は引き続き対応策(リスク評価、社内体制強化、データ分離、法的支援体制整備)を進める。場合によってはサプライチェーンや投資戦略の再構成が進む。
外交的影響:拘束事案や起訴が相次げば外交摩擦は深まり、人質外交的な側面が懸念される。相互主義の観点から各国も自国民の安全確保を強化する必要がある。
まとめ
改正反スパイ法は中国の国家安全確保という大義名分のもと、法的フレームワークを強化しているが、条文の抽象性と執行権限の強さは国内外に重大な不確実性をもたらす。日本を含む外国企業・研究機関は次の点を実行する必要がある。法的リスク評価の継続、データ管理体制の整備、在中人員の安全教育と緊急時対応体制の確立、現地弁護士との連携強化である。国際社会は法の透明性・手続保障の確保を求め続ける必要がある。短期的には安全優先の政策が継続する可能性が高く、中長期的には経済開放と安全保障のバランスをどう取るかが中国自身の課題となる。
参考・出典(本文で参照した主要資料)
Counter-Espionage Law of the P.R.C. (2023 ed.) — ChinaLawTranslate(法文翻訳と要約)。
Hogan Lovells: “China amends the Anti-Espionage Law” 解説(2023)。
TWObirds: “What You Need to Know about China's Counter-Espionage Law”(企業向け解説)。
JETRO「最近の中国国家安全関連法令等 の概要と留意点」報告(国家安全法制の全体像と企業への影響)。
CISTEC:改正反スパイ法に関する補足資料(日本語解説)。
Amnesty International / 人権関連報告(中国における人権状況と国家安全法制の影響)。
Reuters / AP等の報道(在中外国人の拘束・起訴事例)。
