コラム:戦時下のウクライナで大統領選「不可能に近い」
現状では法的・実務的・安全保障的制約が重く、戦時下のウクライナで全国的かつ公正な大統領選挙を速やかに行うことは難しい。
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現状(2025年12月時点)
ロシアによる2022年2月の全面侵攻以降、ウクライナは継続して「非常時(戦時)・非常規模の軍事衝突」に直面している。ウクライナでは2019年選挙以来、全国レベルの通常選挙が行われておらず、政府は戦時下における統治と防衛を優先している。ウクライナ政府側の法と実務は、戦時体制(武装紛争下における法的枠組み)に照らして選挙の実施を制約していると解されている。さらに、ロシアがウクライナ領域のかなりの面積を実効支配している状況や、数百万単位の国外難民・避難民の存在、現役兵士・動員部隊の巨大な人数など、選挙を物理的に成立させるための条件が著しく損なわれている点が見逃せない。これらの現状は、法的制約と安全保障・物流の両面で選挙実施に大きなハードルを残している。
「戦時戒厳(martial law)下での選挙実施は法律で禁止」 — 法的枠組み
ウクライナの法体系は憲法および「武時(戦時)法(Law on the legal regime of martial law)」や選挙法(Electoral Code)に拠っている。特に同法の規定(解釈の広い合意)では、戦時(武時)法発令中は大統領選挙・議会選挙・地方選挙・国民投票を実施できないと明文化または立法の運用解釈上禁止されているとの見解が多数派である。学界・政策シンクタンクやウクライナ安全保障当局も、武時法の下では選挙手続きが停止される旨を明言している(法律文言および運用的慣行の双方)。具体的には、同法(Article 19)や選挙法(Article 20に相当する規定)が選挙手続きの停止や憲法改正の禁止を規定しており、これが実務上の根拠になっている。したがって法的には、武時法が有効な限り通常の大統領選挙は行えないという結論が導かれる。
(補足)憲法上は、たとえば議会の任期が戦時に満了した場合にその任期を延長する規定など、権力の連続性を確保する条項が存在する。これは戦時に統治の空白を避ける意図で設けられており、その精神は大統領職についても実務上の延長・正統性承認へとつながっている。
戦時下での選挙実施に関する検証(総論)
法的禁止だけでなく、実務面・安全保障面から次の主要問題群がある。以下、個別に検証する。
1) 法的制約(詳細)
直接的禁止:戦時法と選挙法の規定により、戦時法発令中に新たな全国選挙(大統領・議会)を実施することは制度的にブロックされる(法律の文言と法解釈)。このため、選挙を行うにはまず戦時法を解除するか、法律を改正して戦時法下でも選挙を可能にする特別法を制定する必要がある。しかし、憲法改正自体も戦時法下では制限されるため、単純な手続きでは実現しにくい。
手続き的要求:選挙を呼びかける主体(議会や中央選挙管理委員会:CEC)は、戦時法の終了ないしは法改正がなければ選挙手続きを再開できない。欧州の選挙監視・法制度の勧告(ヴェネツィア委員会等)も、戦時の合法性と自由選挙の要件を満たすことを求め、戦時下での“形式的”選挙は自由で公正という基準を満たしにくいと指摘している。
2) セキュリティとロジスティクスの課題
占領地域の存在:ロシアがウクライナの相当な地域(報道時点で約19〜20%前後)を実効支配しており、そこではウクライナ側の選挙管理が事実上不可能である。占領地の有無は「全国的」選挙の完全性を直接損なう。
避難民・国外難民の規模:UNHCR等の集計では、国外に避難したウクライナ人が数百万(報道時点で約5〜6百万人規模)、国内の内部避難民(IDP)も数百万規模に上る。これらの大量移動民への投票参加を確保するには、出入国先各国との協調、在外投票所の大幅増設、移動投票の手配、データベースの整備など膨大な事務負担が生じる。移民登録や身分証の喪失、散発的な住所不確定・分散は投票権行使を著しく困難にする。
軍人の投票:前線に従事する兵士・動員部隊の人数は大規模であり、実際に最前線や動員中の兵士に対して適切に投票するためには「現地投票」や「移動投票」「郵便投票」等の法整備・運用が必要となる。だが、戦場環境では投票事務の安全・秘密性・検証可能性を担保することが難しく、投票用紙の輸送・集計におけるリスクも高い。さらに動員対象の男性の国外移動制限などが加わり、手続き的に多くの例外処理を必要とする。
インフラ破壊と攻撃リスク:選挙管理委員会の事務所や投票所、通信インフラが標的になるリスク、選挙当日の大規模なミサイル・ドローン攻撃や破壊活動の可能性、投票所に対する安全確保(装甲車・軍の配備等)は、自由な投票環境を阻害する。また、選挙情報の伝播を巡って敵対的な情報作戦やサイバー攻撃が加わる危険性も高い。
3) 安全性の確保(現実的要件)
選挙を実施するためには次の条件が現実的に満たされる必要がある:
戦時法の解除またはそれに代わる法改正(合法性の担保)。
前線・占領地以外での安定した治安確保(全国規模の「安全ゾーン」確保ではなく、少なくとも投票所・地域の安全確保)。
避難民・在外有権者の登録と投票手段の整備(在外投票所、郵便投票、移動投票、デジタル認証等)。
兵士の投票制度の実務化(秘密投票・安全な集計を担保する方法)。
国際的監視団の受け入れと透明性の確保(OSCE/ODIHR等の観察)。
これらを短期で整備することは非常に困難であり、現実には数か月〜半年以上の準備期間を要するという専門家の見解がある。
4) 領土の占領(ロシアが国土の約5分の1を占領)
占領地域の存在は「全国的選挙の正当性」に直接的な影響を及ぼす。占領下住民が投じる投票をウクライナ当局が監督できないうえ、ロシア側の占領当局が強制的な投票・選挙操作(住民の強制移住・ロシア国籍付与・代理投票等)を行う可能性がある。いわゆる“二重支配”が残る状態で投票結果を「全国的意思表示」として有効に認めることは、国際的にも法的にも難しい。占領地域の扱いが選挙正当性論の核心問題である。
5) 避難民への対応(在外有権者とIDP)
在外投票:在外投票の実効性を保障するには、受入諸国との調整、投票所設置、在外有権者名簿の確認・更新、郵送手続きの整備等が必要である。EU各国には数百万のウクライナ避難民が分散しているが、その居住地が流動的である点が実務上の大問題である。UNHCR・IOMの統計やEUの支援計画を参照すると、在外投票のためのコストと期間は膨大である。
国内のIDP:国内避難民に対しては、住民票・選挙登録の移行や臨時投票所の設置、移動投票の確保などが必要である。大量のIDPは投票のアクセス格差を生み、特定地域への偏在が発生すれば選挙の代表性が歪む懸念がある。
6) 兵士の投票(軍人の参加)
兵士の投票は民主的要件(秘密投票、自由な選択、投票の検証可能性)を満たすことが特に難しい。最前線や戦闘中の部隊に対しては安全面での制約が強く、外部監視団の立ち入りも困難である。よって兵士の有効な投票参加を実現するには軍内部の独立した投票管理と国際的観察の代替手段(電子投票や厳格なチェーン・オブ・カストディ:票の保全制度)が必要だが、これらは短期実装が難しい。
政治的・世論の動向
国内世論
戦時下での選挙実施についてウクライナ国内の意見は分かれている。戦争継続中に選挙を行うことに対しては「正当性を示す」または「民主的合意を示す」利点を挙げる向きがある一方で、安全保障と公正性担保の観点から「まずは戦争の収束(または安定化)を待つべきだ」とする声が強い。世論調査では、戦時下での選挙実施に慎重あるいは反対する回答が多い傾向が示されている(戦争による被害・避難の影響が強いほど選挙実施反対が増える)。
政治家・指導者の意向(ゼレンスキー大統領)
ゼレンスキー大統領自身は複雑な立場にある。報道によると、戦時法が続く限り法的制約があるため通常選挙は難しいと認識しつつも、「安全が保障され、国際的支援があれば60〜90日で選挙を準備できる」と発言した。これは政治的メッセージとして「選挙を行う意思はあるが、安全と合法性の条件を満たす必要がある」という趣旨であり、国際社会の協力を前提にした表明である。
(補足:国内議会は大枠で現政権の防衛方針を支持しており、議会内の多数派が「戦後の選挙実施」志向であるため、即時の法改正や武時法解除の方向に動く見込みは限定的である。議会の結束は戦時における治安維持と統治の安定を優先している。)
外交的圧力(トランプ政権の影響)
米国の政治的圧力は2025年以降に変化が見られる。特にトランプ政権の登場に伴って米国側から「ウクライナでの早期選挙実施」の要求や圧力が存在するとの報道がある。トランプ側はしばしば選挙実施を求める一方、ウクライナ側は安全保障上の条件と国際協調の重要性を強調している。外部大国の圧力はウクライナの政策決定に影響を与えるが、最終的な決定は国内の法制度と安全保障上の現実に依存する。
正統性(ロシアの主張と国際的視点)
ロシアは占領地での“選挙”や“住民投票”を通じて正統性を主張しているが、国際社会の主要なプレイヤー(EU、米国、NATO諸国、人権監視機関)はこれらを広く「強制下の不正な手続き」として非承認の立場を取っている。仮にウクライナが占領地を除く地域だけで選挙を行っても、占領地住民の代表性をどう扱うかが国際的正当性の争点になる。したがって「選挙が行われた」としても、その結果を全面的に国際社会が受け入れるかどうかはケースバイケースである。
専門家データとエビデンスの提示
占領面積:報道系の戦況分析によると、ロシアが実効支配する領域はウクライナ全土の約19〜20%前後であるとの推定がある。これは占領地域の扱いという意味で選挙正当性に重大な影響を及ぼす。
避難民・IDPの規模:UNHCR等のデータでは、国外避難民が数百万(5〜6百万規模)、国内のIDPも数百万に上るとの集計が示されている。投票アクセスの確保は大規模な行政能力を要求する。
戦闘配置中の兵員数:前線で直接活動している兵士の数については変動が大きいが、分析・政府資料では「前線に関与する実戦部隊は数十万から30万程度を超える規模」であるとの見解がある。これだけの人数を投票参加させるための実務は極めて困難である。
法的根拠:Article 19(戦時法)や選挙法の該当条項は、戦時法下での選挙の停止・憲法改正の制限を示しており、多くの法学者・国際シンクタンクはこれを根拠に「選挙は武時法解除後に行うべき」と結論している。
リスク評価(選挙を短期に実施した場合のリスク)
法的正当性喪失リスク:戦時法下での強行実施は国内外から違法・不正と批判され、政権の正統性に傷がつく可能性がある。
安全リスク:投票所や有権者が攻撃されるリスク。投票当日に大規模攻撃が行われれば投票中止・混乱が生じる。
代表性欠如:占領地住民や避難民・在外難民が適切に参加できなければ、選挙結果は国民全体の意思を反映しない懸念がある。
不正・操作リスク:不安定な状況下での票の集約・保全が弱く、不正操作や後日の争訟を招く可能性が高い。
代替案・段階的アプローチ
もしウクライナが民主的正当性と安全を担保しながら政治的な更新を図る必要がある場合、以下のような段階的アプローチが現実的である:
部分的な政治プロセスの活性化:全面選挙ではなく、議会内の討議や超党派協議、国民対話プロセスを通じて主要政策・非常措置の合法化(期限付き)を行う。国民合意を作り上げることで、選挙を延期していることへの説明責任を果たす。
段階的に在外有権者とIDPの投票環境を整備:在外投票所の数を段階的に増やし、国・国際機関の支援で登録プロジェクトを展開する。これにより、解除後に比較的迅速に大規模投票が可能となる準備を整える。
兵士の投票のための特別手続き:秘密投票と検証可能なチェーンを確保するため、独立した第三者(国際監視)と協力した限定的な投票パイロットを実装する。技術的には厳格な手順が必要であり、安全保障上の保証も併せて求められる。
国際的保証と段階解除の合意:主要同盟国・国際機関と協調して、武時法解除に伴う安全支援(停戦監視・一時的安全地帯確保等)と財政的・技術的支援を得る。選挙は「国内的な決定」だが、国際的な関与が正当性確保に資する。
今後の展望(複数シナリオ)
短期での選挙実施(6か月以内)を強行するシナリオ:法的・実務的な制約を切り崩すための特別立法や政治判断が伴うが、正当性の国際的承認は限定的になる可能性が高い。占領地・避難民・軍人の参加の問題が残るため、国内外からの争点になる。
中期的(半年〜数年)に戦時法解除→選挙実施のシナリオ:もっとも整序されたシナリオ。戦時法解除後、在外投票やIDP対応、軍人投票の手続きを整備し、国際監視を得て選挙を実施する。法的正当性・国際承認ともに高くなる可能性がある。
長期的に戦争継続→暫定的統治体制が維持されるシナリオ:戦況が長期化すれば、現行体制の正統性承認(議会の支持、国際社会の事実上の承認)が続き、選挙は戦後に先送りされる。政治的摩擦(野党・海外勢力からの圧力)や国際的な外交圧力は残る。
結論(総合判断)
法的に見て:ウクライナの現行法体系(武時法・選挙法・憲法の運用解釈)に照らすと、戦時法が継続している限り通常の大統領選挙は行えない。法改正や戦時法解除なしに選挙を実施することは法的リスクを伴う。
安全保障・実務面で見て:占領地の存在、大量の避難民・IDP、前線で戦う大量の兵員、インフラ破壊、攻撃リスク等を勘案すると、短期的に全国レベルで公正かつ包摂的な選挙を実施することは現実的ではない。代替的な段階的措置(在外投票整備、兵士投票の仕組み作り、国際的保証)は先行して行う必要がある。
政治的次元:国外(特にロシアと米国)からの早期選挙要求や圧力は存在するが、ウクライナ国内の法的・安全保障的現実と噛み合わない場合、強行は政治的コストを伴う。ゼレンスキー大統領は「条件付きで選挙準備可能」と表明しているが、その条件は安全と法的正当性の確保である。
提言(政策的含意)
戦時法解除の条件を満たすための安全保障ロードマップを国際的パートナーと共同で作成する。停戦または限定的安全保障措置(監視)を含むこと。
在外・移動投票システムの大規模整備を開始し、選挙実施が可能になった際に短期間で展開できる態勢を作る。UNHCRやIOM、EUと協力することが必要。
兵士の投票に関する透明で検証可能なプロトコルを国際的機関とともに設計し、試験的実施を行う。
国内合意形成プロセス(超党派協議・市民社会参加)を通じて、選挙延期の正当性とロードマップを国民に説明する。これにより国内的な正統性を高めることが可能である。
最後に(要約)
現状では法的・実務的・安全保障的制約が重く、戦時下のウクライナで全国的かつ公正な大統領選挙を速やかに行うことは難しい。
可能性を高めるには、戦時法の解除(または合法的な法改正)、占領地域問題の扱い、在外避難民と兵士の投票制度の整備、国際的な安全保障支援と監視の確保が不可欠である。
外交的圧力が存在するが、最終的な判断はウクライナ国内の法的不備、国民の安全・参加条件、国際的承認の可否に基づくべきである。
参考・出典
ウクライナにおける戦時法下での選挙禁止や選挙法の該当条項に関する解説(法・シンクタンク):Verfassungsblog, Razumkov, Law text。
ゼレンスキー大統領の「60–90日で選挙準備可能」との発言、及び米国(トランプ政権)からの圧力に関する報道(AP, Reuters等)。
ロシアの占領面積(約19〜20%)に関する戦況分析(Reuters, Al Jazeera等)。
在外難民・国内避難民の規模(UNHCRなどの統計)。
前線で活動する兵力や軍事的負荷に関する政府系・分析機関の報告(UK gov note, IISS等)。
