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メキシコ麻薬戦争の現状と課題、40万人死亡、12万人失踪 25年

メキシコはシリアやアフガンなどの紛争地を除いて、世界で最も危険な国のひとつであり、麻薬戦争の犠牲者は35万~40万人、それに巻き込まれて行方不明になった人は12万人以上と推定されている。
2018年6月22日/メキシコ軍の兵士(Getty Images)

メキシコ麻薬戦争は2006年以降本格化した政府と麻薬カルテルとの武力衝突を中心とする複合的な紛争である。

その背景には、米国への違法薬物需要、国家機関の腐敗、社会的格差、治安機構の脆弱性など多くの要因が絡み合っている。表面的には麻薬取引の抑止を目的とした治安対策であるが、実際には組織犯罪、国家権力、国際経済、地域社会が複雑に結びついた構造的問題である。


1. 歴史的背景

メキシコは地理的に南米の麻薬生産地と北米市場をつなぐ「中継地点」として重要な役割を担ってきた。1970年代からコロンビアのコカインが米国に流入するルートとしてメキシコが利用され、同時に国内でも大麻やヘロインの生産が広がった。

当時から警察や軍、政治家の一部はカルテルと結びつき、取り締まりと共犯関係が同居する状況が形成されていた。

1990年代、コロンビアのメデジン・カルテルやカリ・カルテルが弱体化すると、メキシコのカルテルが米国市場への主要な供給者となった。

フアレス・カルテル、シナロア・カルテル、湾岸カルテルなどが台頭し、国内での勢力争いが激化。政府はこれを抑えきれず、腐敗や暴力が社会に浸透していった。


2. カルデロン政権による「麻薬戦争」の開始

2006年、カルデロン(Felipe Calderon)大統領は治安悪化を背景に、軍を動員した大規模な対カルテル作戦を開始した。これが「麻薬戦争」と呼ばれる軍事介入の始まりである。

カルデロン氏は「国家の存立を脅かす犯罪組織を粉砕する」と宣言し、各州に数万人規模の兵士を派遣した。

しかし、結果は政府の想定通りには進まなかった。カルテルは軍の介入によって壊滅するどころか、むしろ分裂・細分化し、各派閥が血で血を洗う抗争を展開するようになった。

カルテル同士の抗争に加え、治安部隊や市民も巻き込まれ、死者は急増した。国連や人権団体の報告によれば、2006年から2020年までに麻薬戦争関連の死者は30万人を超え、行方不明者は10万人規模に達しているとされる。


3. 主なカルテルとその特徴

メキシコの麻薬組織は単なる密輸業者ではなく、軍事力・情報網・経済力を持つ「準国家的存在」となっている。

  • シナロア・カルテル
    「エル・チャポ」ことホアキン・グスマンが率いた最大勢力で、国際的な密輸ネットワークを誇る。組織力と買収力で存続してきた。

  • ロス・セタス
    元特殊部隊出身者が母体で、極端な暴力と見せしめ戦術で知られる。誘拐・恐喝など多角的に犯罪を展開。

  • ハリスコ新世代カルテル(CJNG)
    2010年代以降急成長し、現在はシナロアと並ぶ二大勢力。軍事力と最新兵器を駆使する。

  • 湾岸カルテル、フアレス・カルテル、ティフアナ・カルテル
    1990年代に隆盛したが、現在は分裂や弱体化が進む。

これらの組織は、麻薬だけでなく、人身売買、石油の盗取、武器取引、マネーロンダリングなど幅広い活動に関与している。


4. 社会への影響

麻薬戦争の最大の犠牲者は一般市民である。

銃撃戦や爆破事件による直接の被害に加え、カルテルによる脅迫や徴収、女性や移民に対する暴力が日常化している。

多くの地域では「国家よりカルテルの方が統治している」とさえ言われ、住民は沈黙を強いられる。地方自治体の首長や警察が暗殺される例も後を絶たない。

さらに、麻薬戦争は社会経済にも深刻な打撃を与えている。観光業や投資が萎縮し、農村部では貧困にあえぐ若者がカルテルにリクルートされる悪循環が続いている。

教育や医療といった公共サービスは後回しにされ、国家の機能不全が顕在化している。


5. 国際的要因

麻薬戦争は国内問題にとどまらず、国際的要素が大きく関わっている。

最大の要因は米国市場の需要であり、コカイン、大麻、ヘロイン、メタンフェタミンなどが米国に流れ込んでいる。加えて米国からの銃器流入もカルテルの武装化を助長している。

メキシコ政府は米国に対し銃規制強化を求めてきたが、十分な成果は得られていない。

一方で、米国は「メキシコを通じた麻薬流入阻止」を国家安全保障上の課題と位置づけ、軍事支援や情報提供を行ってきた。

2008年には「メリダ・イニシアティブ」と呼ばれる安全保障協力枠組みが始まり、メキシコに数十億ドル規模の支援が行われた。

しかし、この支援は軍事偏重で、貧困削減や社会改革といった根本対策には十分ではなかった。


6. 政権交代と戦略の変化

カルデロン政権以降、メキシコの歴代政権はそれぞれ麻薬対策を模索してきた。

ニエト政権は治安政策を「カルテル壊滅」から「暴力削減」にシフトしようとしたが、実効性は乏しかった。

2018年に就任したオブラドール大統領は「抱擁を、銃弾ではなく」というスローガンを掲げ、貧困対策や社会プログラムを重視する方針を打ち出した。

しかし、現実には暴力は収まらず、2020年代に入っても年間3万件規模の殺人事件が報告されている。


7. 現状と課題

現在のメキシコは麻薬戦争開始から15年以上が経過しても安定には至っていない。むしろカルテルは分散・進化し、ドローン爆弾や暗号化通信など最新技術を駆使している。

国家は軍への依存を強める一方で、司法や警察の改革は遅れている。人権侵害や強制失踪といった副作用も深刻であり、治安部隊自身が犯罪に関与する事例も続いている。


8. 結論

メキシコの麻薬戦争は単なる治安問題ではなく、国家制度の脆弱さ、経済格差、国際的需要供給構造が絡み合う複合的な危機である。

軍事的対応のみでは暴力を抑止できず、むしろ分裂と流血を拡大させてきた。根本的な解決には司法制度の強化、腐敗撲滅、若者への教育と雇用機会の提供、地域社会の再生、そして米国との協調的な需要抑制と銃規制が不可欠である。

麻薬戦争は「勝利」や「終結」という形で解決できるものではない。

現実的な目標は暴力の縮小と市民生活の安定にあり、そのためには長期的かつ包括的な国家戦略が求められる。

メキシコ社会が真に平和を取り戻すには、軍事作戦ではなく、制度改革と社会的包摂に基づくアプローチが不可欠である。

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