タイ・カンボジア国境で乱闘、数十人負傷、緊張高まる
タイとカンボジアの間で緊張が高まる「国境係争地」の問題は歴史的経緯、民族感情、そして政治的思惑が複雑に絡み合っている。
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タイの治安部隊が17日、隣国カンボジアの国境係争地でカンボジア人抗議者と衝突した。
カンボジア当局によると、この衝突は数時間にわたって続き、市民28人が負傷したという。タイ当局もデモ隊と乱闘になったことを認めた。死者は報告されていない。
タイの治安部隊は非致死性武器を使用。民間人とみられるカンボジア人たちは石やビンなどを投げつけた。
タイ軍の報道官は声明で、「カンボジアの暴徒がタイ領内に侵入、作戦を妨害し、公的財産を破壊した」と説明した。
また報道官は、「カンボジア人が起こしたこの事件は挑発行為であり、停戦合意の意図的な違反と見なしている」と強調した。
両国は7月、国境沿いで5日間に渡って衝突。空爆・砲撃の応酬となり、30人以上が死亡、26万人以上が避難を余儀なくされた。
両国はその後、マレーシアなどの仲介で無条件の停戦で合意。7月29日に発効した。
タイの治安部隊はゴム弾と催涙ガスを使って暴徒を追い払ったと伝えられている。この過程で暴徒に殴られるなどして、兵士5人が負傷した。
タイとカンボジアの間で緊張が高まる「国境係争地」の問題は歴史的経緯、民族感情、そして政治的思惑が複雑に絡み合っている。特に象徴的なのが、カンボジア北部プレアビヒア寺院(Preah Vihear Temple)周辺の領有権をめぐる対立である。この寺院は11世紀にクメール王朝によって建立されたヒンズー教の聖地であり、文化的にも歴史的にも大きな価値を持つ。寺院自体はカンボジア領内に位置すると国際司法裁判所(ICJ)が1962年に判断したが、その周辺の丘陵地や出入り口にあたる土地については明確な画定がなされず、両国の国境線の解釈をめぐって緊張が続いてきた。
歴史的背景として、フランス植民地時代の地図作成が大きな要因となっている。19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランスがカンボジアを保護国として支配していた際に作成した地図は、プレアビヒア寺院をカンボジア側に含めていた。しかしタイ(当時のシャム王国)は、地理的に寺院が断崖上にありタイ側からしか容易にアクセスできないことを根拠に、自国の領有を主張し続けてきた。そのためICJ判決後も不満が残り、国境画定の曖昧さが係争の火種となった。
2008年に寺院がユネスコの世界遺産に登録されると、状況はさらに悪化した。カンボジア政府は登録を外交的勝利と位置づけ、領有権の正当性を強調した。一方、タイ国内では民族主義的な世論が高まり、当時の政権に対して「国益を売り渡した」とする批判が噴出した。タイの政治混乱と重なり、反政府デモや軍の強硬姿勢が国境地帯の緊張を加速させた。2008年から2011年にかけて、両国軍の衝突が断続的に発生し、数十人の死者と数万人規模の避難民を出す事態に発展した。
ICJは2013年に再び判断を下し、寺院周辺の一部土地もカンボジアの主権下にあると確認した。しかし判決は境界線を厳密に画定するものではなく、依然として曖昧さが残ったため、実務的な国境管理をめぐる摩擦が続いている。さらに両国の軍は国境地帯に駐留を続けており、小規模な挑発や衝突のリスクは完全には払拭されていない。
緊張を高める要因は、単なる領土問題にとどまらない。タイとカンボジアは共に国内政治が不安定であり、ナショナリズムを利用して政権支持を固める動きがしばしば見られる。例えば、タイでは軍部や保守勢力がカンボジアとの対立を煽ることで国内の求心力を高めようとする傾向があり、カンボジアでもフン・セン政権が長期政権維持の正当性を国境問題を通じて訴える場面があった。このように、国境係争地は両国の内政とも密接に結びつき、緊張を容易に再燃させる装置となっている。
経済的要因も無視できない。プレアビヒア寺院は観光資源としての価値が高く、入場料や周辺の観光開発は大きな収益を生む可能性を秘めている。また、国境地帯には森林資源や鉱物資源も存在し、非合法的な伐採や採掘をめぐって軍や地元権益集団が関与していると指摘される。これらの利害関係も、国境の曖昧さが解消されない理由のひとつになっている。
国際社会もこの問題に関心を寄せており、ASEANは地域の安定を維持するために仲介を試みた。しかしASEANは加盟国間の不干渉原則が強いため、積極的な介入は難しく、停戦監視や対話の場を設ける程度にとどまっている。結局、最終的な解決は両国間の政治的妥協に依存しており、国際的な圧力だけでは限界がある。
近年、タイとカンボジアは経済協力や労働移民の受け入れなどで相互依存関係を深めつつあるが、国境問題は依然として両国関係の「弱点」となっている。特にナショナリズムが高揚する局面では、過去の対立が再び前面化しやすく、軍事的緊張に直結する危険性を孕んでいる。したがって、この問題は単なる歴史的遺産ではなく、現在進行形の地域安全保障上の課題と言える。
タイとカンボジアの国境係争地をめぐる緊張が高まる理由は①植民地期以来の国境線の曖昧さ、②世界遺産登録による国際的注目とナショナリズムの高揚、③両国の内政利用、④観光・資源をめぐる経済的利害、⑤地域機構による調停の限界といった要素が重なり合っているからである。両国の指導者が政治的利益のために対立を煽れば、国境地帯の住民がその代償を払うことになり、平和的解決が一層困難になる。今後もこの問題は、両国の内政状況と国際関係に応じて、緊張と緩和を繰り返す可能性が高い。