南スーダン共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

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国名:南スーダン共和国(South Sudan)

首都:ジュバ(Juba)

人口:10,561,244人(2021年推定)

面積:619,745㎢(日本の1.6倍)

気候:サバナ気候
・雨季は5月~11月。
・乾期は12月~4月。
1年を通して暑い
・ウガンダとの国境のイマトン山脈(標高3,187m)周辺は寒い。
・年間降水量はほとんどの地域で800~1,500mm。
・南西部に森林(湿地)エリアがある。
・首都ジュバおよび周辺地域の気温は1年を通して高い。(最低:20~24℃、最高:31~40℃)
・野生動物保護エリアにはライオン、チーター、アフリカゾウ、キリンなどの野生動物が多数生息している。

経済:
・開発途上国
GDPは50ドル(2019年推定)
世界で最も石油に依存している国のひとつ
・石油収入が政府予算の98%以上を占めている。
・世界で最も開発されていない国のひとつ。
・電気および水道を利用できる地域は限られている。
・インフラはほとんど整備されておらず、舗装された道路は10,000kmほどしかない。
・主要産業は農業と牧畜業。
・国内の食糧の大半を輸入品で賄っており、輸送コストの上昇とインフレの影響で深刻な食糧不足に悩まされている。
・人口の20~30%が食糧援助を必要としている。

人種(民族):
・ディンカ族 35.8%(2013年推定)
・ヌエル族 15.6%
・ルオ族
・シルック族
・トポサ人
・その他多数
・80以上の民族グループが確認されている。

言語:
・英語(公用語)
・アラビア語(公用語)
・60以上の先住民族言語
・使われなくなった言語が多数存在する

宗教:
・キリスト教 60.4%(2010年推定)
・部族の宗教 32.9%
・イスラム教 6.2%
・その他 0.4%

南スーダン共和国

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大統領:サルバ・キール・マヤルディ(Salva Kiir Mayardit)

政治体制:共和制
・国家元首は大統領。任期は5年。
・二院制。
・国務院(参議院)の定数は50人。
・暫定国民議会(衆議院)の定数は170人。
・反政府勢力および一部の野党勢力がクーデターを狙っている。
・周辺国との国境問題が解決する見通しは立っていない。

法律:南スーダン共和国の暫定憲法
・司法の独立を一応保障している。
・警察の取り締まりの行き届かないエリアでは私刑(処刑)が横行している。
・犯罪者は生きたまま焼かれる可能性あり。
・同性愛は犯罪。
・児童婚率は50%以上。
・女性の権利を一切保障していない。
・部族間の紛争に巻き込まれた女性および少女はレイプされる。
・部族間の差別、暴力、拷問、レイプ、殺人、大量虐殺が横行している。
・人権団体によると、各地で大量虐殺が行われているという。

Getty Images/南スーダン共和国、サルバ・キール・マヤルディ大統領

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渡航情報:
外務省ホームページ
・避難勧告発令中(2021年2月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年2月時点)

治安:極めて危険
・反政府勢力の活動が各地で報告されている。
・2011年の独立当時に比べると治安は安定した。
・テロや銃撃戦に巻き込まれる可能性あり。
・外国人専門の武装強盗組織が存在する。
・部族間の衝突が各地で報告されている。
・貴金属類を身に着けて行動しないこと。
・難民エリアでは食料をめぐる暴動や殺人が頻発している。
・軍や警察当局の厳しい取り締まりに注意。
・一般人も銃やナイフなどの武器を持ち歩いている。

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は数社あると伝えられている。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局はなし。
・ラジオ局は30局以上。
・報道と言論の自由を一切保障していない。
・政府に批判的なジャーナリストは嫌がらせを受ける。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネットの普及率は極めて低い。
・検閲はない。
・テレビの復旧率は15~20%。(推定)

【国営メディア/設立年】
・南スーダンテレビ 2010年

【民間メディア】
・ー

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2021年軍事力ランキング:110位

・軍人数:200,000人(推定)
  即戦力 200,000人
  予備兵 0人
  準軍組織 0人

・陸軍を保有。

・国防予算:0.8億ドル(推定)

南スーダン共和国/陸軍

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1700年代

・1700年代、現在の南スーダン共和国および周辺国の支配者は、数百から数千の部族コミュニティの酋長たちだった。

・最大派閥のディンカ族が最も大きなエリアを支配したと伝えられている。

・部族間の争いはナイル川の流域一帯を支配したシルック族を中心に展開された。

・シルック族は他の部族と同盟関係を結び、領土を少しずつ広げていった。

・ヨーロッパ人の探検家はアフリカ大陸の内陸部を目指していたが、南スーダン周辺に到達することはできなかった。

1800年代

・1821年、オスマン・エジプト連合軍がスーダン北部地域に侵攻。攻撃を受けたセンナール族は土地を明け渡した。

・オスマン・エジプト連合軍は現在のスーダンおよび周辺地域を支配したのち、南エリアに移動を開始した。

・1830年、オスマン・エジプト軍がナイル川流域一帯に侵攻。部族の酋長たちは土地を明け渡した。

・オスマン・エジプト軍は土地を管理する砦などを各地に設置しようとしたが、数万の兵士を原因不明の感染症や疫病で失い、撤退を余儀なくされた。結果、部族は土地を取り戻すことができた。

・1851年、ヨーロッパの商人や宣教師がアフリカ大陸の内陸部への移動を開始。

・ヨーロッパの商人は内陸部で象牙を乱獲したが、それを販売するビジネスはほとんど成功しなかった。当時、象牙の需要はそこまで高くなかったと伝えられている。

・宣教師たちは内陸部に事務所を設置し、キリスト教を広めようとしたが、部族は教えに興味を示さなかった。

・1850年代、南部の港湾エリアを管理した部族は、エジプト、アメリカ、ヨーロッパ人などとの交易を確立した。

・各国の商人は象牙の輸入に投資した。結果、象牙の需要は少しずつ高まり、1900年代の象牙ブームにつながった。

・1860年代、港湾エリアを支配した酋長は奴隷軍で町の治安を維持した。

・1860年代後半、オスマン・エジプト王国は現在の南スーダンの南部エリアに新たな州を設立しようと考えた。

・1869年、オスマン・エジプト王国はイギリスの探検家、サミュエル・ベイカーの部隊を南スーダンの南部エリアに派遣した。しかし、部隊は厳しい自然環境に打ちのめされ、新たな州の設立と砦の設置を諦めた。

・1899年、イギリスが現在の南スーダンとスーダン共和国の統治を宣言。北部地域を支配したオスマン・エジプト王国は撤退した。

Getty Images/南スーダン共和国、牛

1900年~第一次世界大戦

・南スーダンは第一次世界大戦に関与していない。

・1900年代初頭、アフリカ大陸のほぼ全土を支配した欧州諸国が国境交渉を開始。

・イギリス政府は現在の南スーダンとスーダン共和国をひとつの国として管理した。

・統一スーダンは2つの州(北部と南部)に分割され、それぞれの統治者が政治を行った。

・北部州は英語とアラビア語を公用語にした。一方、南部州は英語以外の部族の言語(ディンカ語、ヌエル語など)も公用語として認めた。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・南スーダンは第二次世界大戦に関与していない。

・イギリス政府は統一スーダン北部州のインフラ開発に力を入れた。

・南部州の政治的取り決めは部族の意見が大きく反映された。イギリス人は南部州の広大かつ厳しい自然環境に適応できず、統治も原則部族の酋長に任せた。

・1943年、イギリス政府が北部州を統治する自治政府の設立準備を開始。6つの地域を統治する北スーダン諮問委員会を設立した。

・イギリス政府は統一スーダンを北と南に分割したいと考えていた。

終戦~現在

・1946年、イギリス政府が統一スーダンを維持すると公表。

・1947年6月、ジュバ会議。イギリス政府は南部州の代表者に「北と南の自治政府をひとつにまとめる」ことを伝えた。

・1948年、イギリスが統一スーダン立法会議を設立、代表者はイギリス政府が指名した。なお、南部州の部族の関係者はひとりも指名されなかった

・南部州の部族(現在の南スーダン)はイギリスに裏切られたと感じ、不満を募らせた。

・1953年、統一スーダンの政府機関の設置がほぼ完了した。イギリスは国を統治する高官、その他関係者約800人に地位を与えたが、南部州から選ばれた者はわずか4人だった

・未開拓の南部州の政治構造は北部州ほど組織化されておらず、南部州の政治団体は統一スーダンの確立を決定した様々な会議や会談に出席することを許されなかった。

・1955年8月18日、第一次スーダン内戦勃発。(スーダン&イギリスvs南部州の革命軍)

・1964年10月20日、南スーダン問題に関するセミナーを行っていたハルツーム大学に治安部隊が押し入り、関係者を拘束した。治安部隊の強硬に北部地域の市民は猛反発し、全国的な抗議とゼネストに発展した。

・スーダン政府は第一次スーダン内戦中に発生した軍事クーデターで機能不全に陥った。

・1971年、南スーダン解放運動(SSLM)誕生。

・1972年3月27日、第一次スーダン内戦終結、アディスアベバ協定に基づき、「南部スーダン自治区」が誕生した。

<第一次スーダン内戦>
両軍参加者:8万~10万人(推定)
両軍負傷者:数万人(推定)
両軍死亡者:2万~3万人(推定)
民間人死亡者:50万~100万人(推定)
避難民数:数十万人(推定)

・1983年6月5日、スーダン政府が南スーダン自治区の廃止を決定。

・1983年6月5日、南スーダン自治区の自治権を守る「南スーダン人民解放軍(SPLA)」および、「南スーダン人民防衛軍(SSPDF)」誕生。

・1983年6月5日、第二次スーダン内戦勃発。(スーダン連合軍vsSPLA連合軍)

・1985年、スーダンで軍事クーデターが発生。

・1989年、スーダンで軍事クーデターが発生。

・1991年11月、SPLAの戦闘部隊と反政府組織が南スーダンのボル地区の民間人を手当たり次第に処刑した。一連の攻撃で少なくとも2,000人が処刑され、その後の混乱で25,000人(推定)が餓死した。

・1992年後半、スーダン軍がSPLAの占領地に侵攻。一連の戦闘で民間人を含む数千~数万人が死亡した。

・スーダン軍はSSPDFの兵士と民間人を容赦なく処刑した。

・SSPDFの兵士はスーダン軍だけでなく、内戦に反対する他の組織も粛正した。

・1995年、エリトリア、エチオピア、ウガンダがSPLAへの軍事支援を強化し、内戦は一段と激しくなった。

・1997年3月9日、SPLAがサンダーボルト作戦を決行。SPLAは大勝利を収め、西部および中央エリアの大部分を支配した。

<サンダーボルト作戦>
両軍参加者:数万人(推定)
両軍負傷者:数千人(推定)
両軍死亡者:数千人(推定)
民間人死亡者:不明
避難民数:数十万人(推定)

・1998年、エチオピアとエリトリアが紛争状態に突入。両国はSPLAへの軍事支援を弱めた。その後、ウガンダもコンゴ内戦の影響でSPLAへの支援を弱めた。

・2003年~2004年、スーダン政府と南部革命軍の間で和平交渉が複数回行われた。期間中、各地で小競り合いが続いたものの、大規模な戦闘に発展することはなかった。

・2005年1月9日、第二次スーダン内戦終結。包括和平合意と東部スーダン和平協定調印。

<第一次スーダン内戦>
両軍参加者:数十万人(推定)
両軍負傷者:数十万人(推定)
両軍死亡者:数十万人(推定)
民間人死亡者:100万~250万人(推定)
避難民数:数百万人(推定)

・2011年1月9日~15日、独立国民投票。有効票の98.83%が独立に賛成した。

・2011年7月9日、「南スーダン共和国」がスーダン共和国からの独立を宣言。

・2011年7月13日、国連に加盟。

・2011年7月28日、アフリカ連合に加盟。

・2012年3月、スーダン空軍が南スーダンのユニティ州(両国の国境近く)を空爆。スーダン政府は同州の石油施設の権利を南スーダン政府から奪った。

・2012年9月、ユニティ州の市民は領土と石油の権利をスーダン政府に明け渡した。これを受け、スーダン政府は南スーダンの石油を国際市場に戻すことを認めた。

・2013年4月、南スーダンが石油の輸出を再開。石油はスーダン共和国のパイプラインを通って施設に輸送された。

・2011年~2013年、各地で民族間の紛争が発生し、何十もの村が焼き払われた。また、女性と少女はレイプされ、数千人が拷問を受けたのち、処刑された。一連の大量虐殺による負傷者および死者数は不明。

・2013年12月15日、南スーダン内戦勃発。(南スーダン連合軍vs国連平和維持軍vs野党反政府勢力連合)

・2014年1月、最初の停戦合意に至る。しかし、反政府勢力が分裂した影響などにより、現地の兵士たちは戦闘を続け、停戦合意は即破綻した。

・2015年8月、和平協定調印。

・2015年10月、南スーダンを支援したウガンダ政府が撤退を表明。

・2016年7月、内戦再開、和平協定は破綻した。政府軍と野党反政府軍は市街地で銃撃戦を開始し、民間人数百~数千人が死亡、数万人がウガンダに避難した。

・2016年11月、コブラ派の南スーダン民主運動が政府に宣戦布告。

・2016年~2017年、内戦はピークに達し、民間人数万人が戦死もしくは処刑された

・2018年3月、平和協定調印。

・2018年7月、国連安全保障理事会が南スーダンへの武器輸出禁止を決定。

・2018年~2020年、平和協定調印後も各地で小競り合いが続き、民間人数千~数万人が死亡し、数万~数十万人が国外に逃亡した。

・2020年2月22日、南スーダン内戦終結、統一政府が結成された。また、3つの特別行政区域が誕生し、各地に治安維持部隊が配備された。

<南スーダン内戦>
参加者:数十万人(推定)
負傷者:不明
死亡者:不明
民間人死亡者:35万~40万人(推定)
避難民数:数百万人(推定)
少年兵数:15,000~20,000人(推定)

・2020年8月、トンジ地区で武力衝突が発生し、2日間で100人以上が死亡した。

Getty Images/南スーダン共和国、内戦

文化(目次に戻る

・民族の伝統文化を大切にしている。

各民族の文化の詳細は謎に包まれている

・西側の文化の影響をほとんど受けていない。

・主食はトウモロコシとソルガム。主菜は山芋、ジャガイモ、豆類、肉(山羊、羊、鶏肉)。

スポーツ(目次に戻る

・近年、サッカーの人気が急速に高まっている。

・南スーダン生まれのルオル・デンはNBA選手。シカゴブルズやレイカーズでプレーした。

・オリンピックに出場したことはない。

・国内オリンピック委員会の発足を目指している。

その他(目次に戻る

世界で最も開発されていない国のひとつ

・戦後の内戦(第一次、第二次スーダン内戦、南スーダン内戦)における民間人の死亡者数は500万~800万人と推定されている。

Getty Images/南スーダン共和国、少年と牛
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