ウズベキスタン共和国の国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦
  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:ウズベキスタン共和国(Republic of Uzbekistan)

首都:タシュケント(Tashkent)

人口:30,023,709人(2020年推定)

面積:447,400㎢(日本の1.2倍)

気候:大陸性気候
・夏は暑く、冬は涼しい。
・夏季の最高気温は40℃近くまで上昇
・冬季の平均気温はー2℃。場所によってはー40℃まで低下する。
・年間降水量は100~200mm、大地は乾燥している。
・ソビエト連邦時代の環境対策がずさんだったため、一部地域の環境汚染が深刻。
・内陸の海、アラル海の縮小に伴い、化学農薬と塩分濃度が高まっている。

経済:
・開発途上国
・農業と製造業がGDPの半分を占める。
GDPは約579億ドル(2019年)
・綿花の一大生産地。
・世界最大規模の金鉱山を保有している。
金の埋蔵量は世界のTOP5に入る
・銀、鉱物、ガス、石油の鉱床も豊富。
・天然資源の輸出が国の成長を大きく支えている。
・ソビエト連邦崩壊(独立)直後は厳しい国家運営を強いられた。
・独立国家共同体(CIS)加盟国。
・1995年以降はプラス成長に転換。1998年~2003年の経済成長率は年率4%。
・2003年以降の経済成長率は年率7~8%台を維持。
・公式の失業率は1%未満。ただし、非正規雇用者が多く、農業分野では全体の3割を占める。
・教育体制は確立されており、識字能力も高い。
・欧米、日本への留学希望者が多い。
水質、大気、土壌汚染に悩まされている(ソビエト連邦時代の負の遺産)
・人口の約半分が水質汚染の深刻な地域で生活している。
・綿花栽培の影響などでアラル海の砂漠化が進み、深刻な水不足と環境汚染に悩まされている。
・大気は工業地帯からの排ガス、自動車、農薬の散布などによりひどく汚染されている。
・土壌はソビエト連邦時代の産業廃棄物(劇薬、化学兵器など)の影響でボロボロ。
・中央アジアで最も人口の多い国。(地域のほぼ半分を占めている)
・人口の約35%(推定)が14歳未満。

人種:
・ウズベク人80%(1996年推定)
・ロシア人6%
・タジク人5%
・カザフ人3%
・カラカルパク人3%
・タタール人2%
・その他1%

言語:
・ウズベク語 74%(公用語/2013年推定)
・ロシア語 14%
・タジク語 4%
・その他 8%

宗教:
・イスラム教 88%
・キリスト教(東方正教会)9%
・その他 3%

ウズベキスタン共和国

政治(目次に戻る

大統領:シャヴカト・ミロモノヴィッチ・ミルズィヤエフ(Shavkat Miromonovich Mirziyoyev)
首相:アブドゥッラー・アリポフ(Abdullah Alipov)

政治体制:共和制、大統領制
・行政権は政府と首相によって行使される。
・国民議会(Oliy Majlis)は上院と立法院の二院制。
・参政権は18歳以上。
・大統領の任期は5年だったが、1995年の国民投票で7年に延期された。
・初代大統領のイスラム・カリモフの在任期間は25年。

法律:ウズベキスタンの憲法
・司法は最高裁判所、憲法裁判所、高等経済裁判所で構成される。
・憲法は行政命令や法律に取って代わられる場合が多々ある。
裁判所(司法)は行政機関の管理下に置かれている

ウズベキスタン共和国/首都タシュケントのモスク

渡航情報(目次に戻る

渡航情報:
外務省ホームページ
・一部地域の渡航中止勧告が出ている。(2020年10月時点)

治安:普通
・アフガニスタンとの国境付近の警備が強化されている。
・タジキスタンおよびキルギスとの国境付近は危険。
イスラム過激派組織、ターリバーンの行動地域あり
・国境付近の地雷設置箇所は立ち入り禁止。

マスメディア(目次に戻る

・新聞、雑誌業界は国営企業に支配されている。
・国営テレビ局は4社。
・ラジオは国営企業に支配されている。
・インターネットの検閲は非常に厳しい
・メディアに対する取り締まりは非常に厳しい。
・報道の自由という概念は存在しない。
・ジャーナリストへの弾圧、贈収賄が恒常化している。
批判的な記事を書いたジャーナリストは投獄される
・2006年制定のメディア法により、海外の報道機関の活動が著しく制限された。

【国営メディア/設立年】
・ウズベキスタン国営通信社 -年
・その他

【民間メディア】
・国営のみ

【国内での活動を許可されているメディア(抜粋)】
・ロイター通信(イギリス)
・AP通信(フランス)
・アナドル通信社(トルコ)
・インテルファクス通信(ロシア)

ウズベキスタン共和国/サマルカンドの駅

軍隊(目次に戻る

2020年軍事力ランキング:52位

・軍人数:50,000人(推定)
  即戦力 50,000人
  予備兵 0人

・陸軍と空軍を保有。主力は陸軍。

・国防予算:9.75億ドル

歴史(目次に戻る

1700年代

・ウズベク人は現在のウズベキスタンの領土を含む中央アジアの制服を16世紀初頭に終えた。

・18世紀初頭、カザフの遊牧民とモンゴル人がウズベキスタンへの襲撃を続け、広範囲にわたる被害と混乱を引き起こした。

・18世紀初頭から中期にかけて、ウズベク人は奪われた領土の奪還に多くの時間を費やした。

ロシアの商人が中央アジアに進出、現地民との貿易関係を構築する

・ロシアから持ち込まれた奴隷がウズベキスタンなどで売買され、奴隷市場は大きな利益を上げた。

・新王朝誕生後、中央アジアは回復期(成長期)に入った。

・新王朝による中央集権国家は、ロシアとイギリスの注目を浴びる。

・ロシアとイギリスは中央アジアの権力集中、軍事力の強化を防ぐべく、ウズベキスタンを含む地域一帯の領土を奪い合う(グレートゲーム)ことになる。

・一方、中央アジアの勢力はグレートゲームに巻き込まれたことに気づかず、征服戦争を続けた。

1800年代

・19世紀、中央アジアに対するイギリスの影響力の増大に端を発し、ロシア帝国が動きを活発化させる。

・ロシア市民は同胞がウズベキスタンなどで売買されていることに憤慨した。(貿易を持ちかけたのはロシア帝国)

ロシア帝国は中央アジアの綿花市場を手中に収めたいと考えた

・1850年代、ロシア帝国が中央アジアに軍隊を派遣し始める。

・中央アジアの人口密集地、タシュケント(1865年)、ブハラ(1867年)、サマルカンド(1868年)がロシア帝国に征服される。

・1868年、ブハラはロシア帝国と条約を結び、併合。

・1876年、現在のウズベキスタン東部にあったコーカンド・ハン国がロシア帝国に併合。

・中央アジアの大半がロシア帝国の支配下に置かれた。

・1860年代、ロシア帝国の侵略からイスラム中央アジア文化を保護しようとする知識人たちの運動、ジャディード運動が始まる。

・ジャディード運動は年を追うごとに発展、ロシア帝国崩壊まで続くことになった。

・併合後もウズベク人の生活はほとんど変化しなかった。ロシア帝国は綿花の生産増を指示したが、先住民の生活にはほとんど干渉しなかったと伝えられている。

・ロシアの統治時代に中産階級が発展。一部の農民は綿花栽培で大きな利益を上げ、ウズベキスタンに社会的および経済的変化をもたらした。

・1890年代、ロシア帝国に対する反乱が数回発生、いずれも鎮圧された。

・ロシア帝国はウズベク人のさらなる反乱を警戒し、内政への干渉を強める。

1900年~第一次世界大戦

・ロシア帝国は中央アジアを完全に支配していた。

・1900年代初頭、ジャディード運動が政治的抵抗運動に発展する。

・ウズベキスタンはロシア帝国の内政干渉を受けつつも、ある程度の自治権を確保した。しかし、最終的には皇帝ニコライ2世に屈し、自治権を全て明け渡す。

・1900年代初頭、中央アジアの気候と利用可能な土地の多さに魅了された多くのロシア人が移住を始める

・1904年、日露戦争勃発。

・1905年、ロシア帝国はアジアの端に位置する小さな島国(大日本帝国)に敗れ、中央アジアの人々に衝撃を与える。

・1916年夏、ウズベキスタン東部の入植地でウズベク人の第一次世界大戦への徴兵免除を取り消すロシア帝国の法令に対する暴力的なデモが発生。

・ロシア帝国は暴力的なデモを武力で抑え込み、闘争はウズベキスタンからキルギスタン、カザフの領土に広まった。

・1917年2月、ロシア帝国の首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起きた革命が中央アジアに波及、ウズベキスタンの内政を支配した皇帝政権は打倒された。

・1917年、ロシア帝国崩壊。翌年、ウズベキスタンを含む中央アジアを支配した皇帝ニコライ2世が処刑される。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1920年代、ソビエト社会主義共和国に抵抗するジャディード運動は内戦に発展する。

・第一次世界大戦終結後、1916年に始まったバスマチ蜂起が激化する。

・ソビエトの支配確立に抵抗するゲリラたちは、中央アジアの一部地域で激しい戦闘を繰り広げた。

・ソビエトの内戦が終結し、中央アジアの共産主義者および自治政府は指導者レーニンの新経済政策(NEP)に従うことを決め、バスマチ蜂起は崩壊した。

1924年、現在のウズベキスタンとタジキスタンを含む行政地区、ウズベクソビエト社会主義共和国(ウズベクSSR)が誕生

・ウズベク人の指導者たちは共産党と緊密に連携し、この地域の伝統的な習慣や社会を変えるための政策を実行した。

・1920年代後半、ウズベクSSRのウズベク人とタジク人は、ソビエトの思想によって分断された。

・1920年代後半から1930年代初頭、ウズベク共産党首のコジャエフは農業集団化政策(集産主義)実行と同時に、ウズベク人の政治への介入を促した。

・ソビエトの指導者スターリンは、非ロシア共和国(SSR)の改革派国家指導者の動きを察知、ウズベク共産党首コジャエフを含むグループ関係者を粛正した

・スターリンはナショナリストを次々に粛正、ウズベクSSR政府はモスクワに忠実な人間で構成された。

・ソビエトはウズベクSSRに綿花生産の強化を指示、工場の発展に力を入れた。

・第二次世界大戦中、欧州ロシアから多くの工場とそこで働く労働者がウズベクSSRを含む中央アジアに避難した。

・ウズベクSSRに移住した人々はロシア人、ヨーロッパ人、クリミアタタール人、チェチェン人、韓国人など。ソビエトはロシア人を除く移民を欧州ロシアの破壊的要素と見なし、追放した。

終戦~現在

・1953年、スターリン死去。

・ソビエトの党首になったフルシチョフ首相は、全体主義的な統制の緩和を進め、ウズベクSSRから追放されたナショナリストの一部に恩赦を与えた。

・1950年代後半、多くのウズベク人がウズベクSSR共産党に加わり、政府の要職に就き始めた。しかし、ソビエトの政策を指示しない者、ウズベク人のアイデンティティを放棄できなかった者は主導的役割から除外された。

・ウズベク人が政府の主導的な立場につき、ウズベクの民族や文化を守る非公式のグループが複数誕生した。

・ウズベクSSRの初代書記長、シャラフ・ラシドフは、ウズベク人の力を高め、ソビエトへの従属性を弱める努力を開始、自治権を取り戻すために戦った

・ラシドフ書記長はソビエトの指導者、ブレジネフの忠実な同盟国であることをアピールし、モスクワの中央政府高官に賄賂を贈り続けた。結果、自治権を取り戻す戦いは賄賂の陰に隠れた。

・1980年、ソビエトは弱体化したウズベクSSRに対する中央支配を取り戻すべく、行動を開始する。

・1986年、ウズベクSSRの指導部のほぼ全員が綿花生産量改ざんに関わったと告発される。その後、ソビエトの検察官による汚職裁判が始まり、ウズベクSSRの指導部は粛正された。

・一連の粛正を受け、ウズベク人はソビエトに恨みを抱き、ナショナリズムの強化につながった。

・1991年8月、ゴルバチョフ政府に対するクーデターが発生。当初、ウズベクSSRはクーデターに反対したが、最高会議はこれを指示し、8月31日に「ウズベキスタン共和国」の独立を宣言した。

・1991年12月、独立を決める一般投票は賛成多数で可決、イスラム・カリモフが初代大統領に選ばれた。

・1991年12月21日、ウズベキスタン共和国を含む8つの旧ソビエト共和国の指導者がアルマアタ議定書に署名。ウズベキスタン共和国は独立国家共同体(CIS)に加盟した

・1999年2月、首都タシュケントでカリモフ大統領を狙った自動車爆弾テロが発生。

・2004年3月、都市ブハラ中央部のテロリストの拠点と思われる施設で爆発が発生、10人が死亡。その直後に別の地点で警察が襲撃を受け、同様の攻撃が続いた。さらに自爆テロなどが各地で発生し、数十人が負傷したと伝えられている。

・2004年7月30日、アルカイダに関連するテロリストが首都タシュケントのイスラエルとアメリカ大使館を爆破し、3人が死亡。数人が負傷した。

・2005年5月13日、地元のビジネスマン23人の投獄に対する抗議運動が発生。これに対しウズベキスタン軍は抗議者に銃弾を撃ち込み、数百人を殺害した。(アンディジャン事件)

・2007年12月、カリモフ大統領が再選を果たす。なお、欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際選挙監視団は選挙の不正を厳しく指摘したが、結果は覆らなかった。

・2016年、カリモフ大統領死去。シャヴカト・ミロモノヴィッチ・ミルズィヤエフが不正選挙で大統領に就任した。

文化(目次に戻る

・開発途上国の中では識字率が高い(15歳以上の98%)。

・深刻な教育予算不足に直面しており、現場で働く教師(公務員)の待遇改善が喫緊の課題。

・1年で一番盛り上がる祝日は、3月21日の「ナヴルズの祝日」。各地でホリデーコンサートやイベントが開催される。

・ウズベキスタン料理の主菜は麺とパン。肉は羊肉が一般的。

・代表的な飲み物は緑茶。紅茶の人気も高い。

・緑茶を扱うカフェが人気。

スリムが人口の大多数を占めているため、アルコールは西欧ほど普及していない

・ウズベキスタンのワインは海外で高く評価されている。

・国内のワイナリーで製造されたワインの主な取引相手は、ロシアや中央アジア諸国。

ウズベキスタン共和国/フラットパン

スポーツ(目次に戻る

・一番人気はサッカー。

・2010年にウズベキスタンリーグ(サッカー)が誕生。

・レスリング、バスケットボール、ボクシング、柔道に力を入れている。

・ソビエト連邦時代の人気スポーツ(アイスホッケー、ラグビー、ハンドボール)も盛ん。

・夏季および冬季オリンピックの出場実績はそれぞれ6回。

金メダリスト第一号は、リナ・チェリャゾワ選手(1994リレハンメル、フリースタイル・スキー)。

ルスラン・チャガエフ選手はアジア人初のボクシング世界ヘビー級王者(WBA)

【有名スポーツ選手】
・リナ・チェリャゾワ(Lina Cheryazova)初のオリンピックメダリスト
・ルスラン・チャガエフ(Ruslan Chagaev)アジア人初のヘビー級王者
・マクシム・シャツスキー(Maksim Shatskikh)サッカー
・アルトゥール・タイマゾフ(Artur Taymazov)レスリング

その他(目次に戻る

・初代大統領のイスラム・カリモフは世界中から独裁者と非難された。しかし、独立後の比較的安定した経済成長を支持する国民も多い。

・天然資源に恵まれた国。

綿花栽培の影響などでアラル海の砂漠化が進み、壊滅的なレベルの環境汚染が進んでいる

ウズベキスタン共和国/首都タシュケントの市場
アフィリエイト広告
スポンサーリンク