目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:パキスタン・イスラム共和国(Pakistan)
首都:イスラマバード(Islamabad)
人口:223,500,636人(2021年推定)
面積:796,000㎢(日本の2倍)
気候:熱帯(亜熱帯)気候
・気候は地域によって大きく異なる。
・北部の山岳地帯は1年を通じて寒く、標高7,000m以上の地点は年中氷河におおわれている。
・K2(標高8,611m)の登り口であるスカルドゥの夏場の平均気温は最低が13~16℃、最高は29~32℃。
・スカルドゥの冬場の平均気温は最低がマイナス8~マイナス2℃、最高は3~13℃。
・年間降水量は地域によって大きく異なる。砂漠地帯はおおむね200mm以下。
・山の麓に位置する首都イスラマバードの夏場の平均気温は最低が21~24℃、最高は33~35℃。
・首都イスラマバードの冬場の平均気温は最低が3~8℃、最高は18~25℃。
・アラビア海に面する都市カラチの夏場の平均気温は最低が26~28℃、最高は33~35℃。
・カラチの冬場の平均気温は最低が11~17℃、最高は26~32℃。
・台風の影響を受けやすい国。最盛期は10月~11月。
・観光に最適な時期は地域や目的によって異なる。
経済:
・開発途上国
・GDPは2,630億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と農業。
・主要輸出パートナーはアメリカ(17%)、中国(7%)、イギリス(7%)
・主要輸入パートナーは中国(23%)、UAE(15%)、シンガポール(6%)
・主要輸出品は繊維、食品全般、化学および医薬品、皮革製品、石油など。
・慢性的な貿易赤字と対外債務に悩まされている。
・貧困率は2000年代初頭から大きく改善した。(2002年:64.3% → 2018年:2.3%)
・現在、西側諸国と国際通貨基金(IMF)への債務返済に年間約30億ドルを充てている。
・外国投資を呼び込み財政赤字を削減するために、国営企業の民営化を含む自由経済への移行プロセスを進めている。
人種(民族):
・パンジャブ族 44.7%(2020年推定)
・パシュトゥーン族 15.4%
・シンド族 14.1%
・サライキ族 8.4%
・ムハージル族 9.6%
・バローチ族 3.6%
・その他族 6.3%
言語:
・パンジャブ語 38.78%(2017年国勢調査)
・パシュトゥーン語 18.24%
・シンド語 14.57%
・サライキ語 12.19%
・ウルドゥー語 7.08%
・バローチ語 3.02%
・その他60以上の言語 6.12%
宗教:
・イスラム教 96.47%(国教)(2017年国勢調査)
・ヒンドゥー教 2.14%
・キリスト教 1.27%
・その他 0.11%
パキスタン・イスラム共和国
政治(目次に戻る
大統領:アリフ・アルヴィ(Arif Alvi)
首相:イムラン・カーン(Imran Khan)
政治体制:共和制
・国家元首は大統領、任期は5年、1回再選可能。
・上院の議員定数は100人、任期は6年。
・国民議会(下院)の議員定数は342人、任期は5年。
・大統領はイスラム教徒でなければならない。
・首相は議員投票で任命される。
・カシミール(アザド・カシミール)には独自の憲法(カシミール暫定憲法)、独自の議会政府が存在する。
・アザド・カシミールはパキスタンの厳格な管理下に置かれており、真の主権を行使することはない。
・軍事政権崩壊以来、欧米(西側)の自由民主主義レベルに近づいている。
・イスラム国家の中で唯一、公式に認められた原理力発電所を運用している。
・インドとの困難な関係が改善される見通しは立っていない。
法律:パキスタン・イスラム共和国の憲法
・憲法は基本的人権と司法の独立を保障している。
・信教の自由は著しく妨げられており、宗教差別、宗教暴力、弾圧が社会問題になっている。
・カースト制に基づき、全ての市民が同一の権利を保障されることはない。
・冒とく法はイスラム教の原則に違反した全ての者を死刑または終身刑に処す。
・イスラムジハード組織による人身売買が蔓延している。
・女性の権利は以前に比べると多少改善した。
・女性と女児の70〜90%が何らかの虐待に苦しんでいる。(2009年推定)
・家庭内暴力で死亡する女性は年間約5,000人。当局は家庭内暴力を犯罪と見なしていない。
・名誉殺人は起訴されることになっているが、警察や検察はしばしば無視する。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・退避勧告発令中(2021年7月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年7月時点)
治安:かなり悪い
・自爆テロや大量殺人などの凶悪事件が頻繁に発生している。
・反政府武装勢力やイスラムジハード組織が活発に活動している。
・アフガニスタンとの国境付近はイスラム国やタリバン関連のジハード軍が複数潜伏しており、極めて危険。
・インドとの国境付近ではパキスタン軍とインド軍が頻繁に衝突しており、極めて危険。
・首都イスラマバードの治安は比較的安定している。
・高級腕時計や貴金属類は身につけないこと。
・流しのタクシーには乗車しない。無許可のタクシーは特に危険。
・銃火器が市場に大量に流通しており、誰が武装しているか分からない。
・治安当局の目につく行動は避けること。
・レストラン、映画館、大学はテロの標的になる可能性が高いため、利用は控えた方がよい。
・シーア派のモスクや施設はテロの標的になる可能性が高いため、近づかない。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は300社以上。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は30局以上。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は100局以上。
・憲法は報道と言論の自由を保障しているが、政府および軍隊に批判的なジャーナリストは暗殺、拷問、弾圧に直面する。
・ジャーナリストに最も厳しい国のひとつであり、2001年9月以来少なくとも61人が殺害された。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は50~60%。
・検閲は厳しい。
・冒とく法に違反した西側諸国のウェブサイト(YouTubeなど)は閲覧することはできない。
・2016年に発足したパキスタン電子メディア規制当局はインドの全てのメディアコンテンツの閲覧を禁止した。
【国営メディア/設立年】
・パキスタンテレビネットワーク 1964年
【民間メディア】
・ARYデジタルネットワーク
・ジオTVネットワーク
・シンドTVネットワーク
・Hum TVネットワーク
・その他
軍隊(目次に戻る
2021年軍事力ランキング:10位
・軍人数:1,704,000人(推定)
即戦力 654,000人
予備兵 550,000人
準軍組織 500,000人
・陸海空軍を保有。
・国防予算:123億ドル(推定)
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代:現在のパキスタンを含む西アジアおよび中東地域の一部では、様々な王朝が領土争いを繰り広げていた。
・1701年:カルホロ王朝が現在のパキスタンのシンドを含む周辺地域の統治を確立した。
・1739年:ペルシャ帝国が現在のアフガニスタン北部、カシミール北部、アッサムとバングラデシュの高地、デカン高原、南インドなどを支配したムガル帝国に侵攻。
・1751年:ドゥッラーニー帝国がパキスタンを含む周辺地域の一部を併合。
・1759年:マラーター帝国がアフガニスタンのドゥッラーニー帝国およびインド亜大陸の北西部(現在のパキスタン)を占領した。
・1782年:パキスタンのバローチ族がハラニの戦いでカルホラ族の支配者ミアン・アブドゥル・ナビを打倒した。
1800年代
・1830年代:シク教徒がパキスタンを含む西アジアで勢力を拡大。
・1843年:ミアニの戦いでイギリス軍がタルプール帝国を破り、シンドを含む周辺地域を併合した。
・1849年3月:イギリス軍がシク教徒を破り、パンジャブ帝国を併合。
・1857年11月:イギリス軍が現在のパキスタンとインドを含む周辺地域を全て併合した。
1900年~第一次世界大戦
・1906年:インドのイスラム教分離主義、イスラム教徒連盟が誕生。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・1940年:イスラム教徒連盟は、インドのイスラム教徒のための独立国家を形成すると公に示唆した。
終戦~現在
・1947年8月14日:イギリスがインドの分割に合意。これによりパキスタン(東パキスタンと西パキスタン)がイギリスから独立。インドのパンジャブ州の分割に伴い発生した暴動では、民間人20万から200万人が死亡したと考えられている。
・1947年10月22日:インド・パキスタン戦争勃発。(インドvsパキスタン)
・1948年:パキスタンの創設者であるムハンマド・アリ・ジンナが死去。
・1949年1月5日:インド・パキスタン戦争終結。両国は国連安全保障理事会決議47に基づき、停戦に合意した。パキスタンはカシミールの約3分の1 (アザドカシミールとギルギットバルチスタン)を、インドは残り(カシミールバレー、ジャンムー、ラダック)を支配した。
<インド・パキスタン戦争>
・両軍参加者:20万~30万人(推定)
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:1万~2万人(推定)
・民間人犠牲者:不明
・1951年:パキスタンのリヤーカト・アリ・カーン首相が暗殺される。
・1956年:憲法改正。パキスタンはイスラム共和国であることを公式に宣言した。
・1958年10月:イスカンダル・ミルザ大統領はパキスタン軍に出動を命じ、陸軍幕僚長アユブ・ハーン将軍を最高司令官に任命した。その後、ミルザ大統領は非常事態を宣言し、戒厳令を発動し、憲法を一時停止し、東パキスタンの社会主義政府と西パキスタンの議会政府の両方を解散させた。
・アユーブ・ハーン将軍は全国で強い力を持っており、危機感を感じたミルザ大統領はハーン将軍を解任しようとした。しかし、ハーン将軍はミルザ大統領をロンドンに追放し、陸軍元帥兼大統領に就任した。
・1965年8月:インド・パキスタン戦争勃発。(インドvs軍事パキスタン)
・1965年9月23日:インド・パキスタン戦争終結。国連安全保障理事会決議211に基づき、両国は停戦に合意した。戦闘によるカシミールの領土変更はなし。
<インド・パキスタン戦争>
・両軍参加者:90万~100万人(推定)
・両軍負傷者:数十万人
・両軍死亡者:2万~5万人(推定)
・民間人犠牲者:不明
・1969年:アユーブ・ハーン将軍大統領が辞任し、ヤヒヤー・ハーン将軍が権力を引き継ぐ。
・1970年:総選挙。313議席のうち、アワミ連盟は東パキスタンで167議席を獲得したが西パキスタンでは1議席も獲得できず、パキスタン人民党(PPP)は西パキスタンで88議席を獲得したが東パキスタンでは1議席も獲得できなかった。アワミ連盟は議席の過半数を獲得したが、PPPは権力の譲渡を拒否した。
・1971年3月26日:バングラデシュ解放戦争勃発。(バングラデシュ暫定政府・インド連合軍vs軍事パキスタン)
・1971年12月3日:インド・パキスタン戦争勃発。(インドvs軍事パキスタン)
・1971年12月16日:バングラデシュ解放戦争終結。バングラデシュ・インド連合軍の勝利。バングラデシュ人民共和国は東パキスタンから独立した。
・1971年12月16日:インド・パキスタン戦争終結。インドの勝利。インド軍はパキスタン東部の一部を占領した。
<バングラデシュ解放戦争>
・両軍参加者:150万~170万人(推定)
・両軍負傷者:数十万人
・両軍死亡者:3万~5万人(推定)
・民間人犠牲者:30万~300万人(推定)
・1972年:インドはシムラー和平協定の基づき、パキスタンから奪った領土を返還した。
・1973年:パキスタン人民党(PPP)のズルフィカール・アリ・ブットが首相に就任。
・1977年:総選挙。野党はPPPの不正投票を告発し、大規模な暴動が勃発。
・1977年7月5日:軍事政権に対する軍事クーデターが発生。ムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍が政権を奪取した。
・1978年:ジア=ウル=ハク将軍が元帥大統領に就任し、イスラム法制度の到来を宣言した。
・1979年4月4日:PPPのズルフィカール・アリ・ブット元首相が絞首刑に処される。
・1980年:アメリカはソビエトのアフガニスタン介入を受け、軍事パキスタンへの軍事援助を約束した。
・1985年:ジア=ウル=ハク元帥大統領はアメリカのロナルド・レーガン大統領の圧力に屈し、戒厳令と政党の禁止を解除した。
・1986年:絞首刑に処されたズルフィカール・アリ・ブット元首相の娘ベナジル・ブットが亡命先から帰国し、PPPの選挙活動を主導。
・1988年8月17日:ジア=ウル=ハク元帥大統領、米国大使、およびパキスタン軍のトップが飛行機事故で死亡。
・1988年11月:総選挙。ベナジル・ブット率いるパキスタン人民党(PPP)が勝利。初の女性首相が誕生した。
・1990年:ベナジル・ブット首相が汚職の罪で弾劾された。
・1991年:保守党のナワズ・シャリフ首相が経済自由化プログラムを開始。
・1991年:憲法改正。シャリーア(イスラム法)の原則が憲法に正式に組み込まれた。
・1992年:政府は、ウルドゥー語を話すモハジルクアミ運動の支持者による暴力を厳しく取り締まった。
・1993年:シャリフ首相が軍の圧力を受け辞任。その後実施された総選挙でベナジル・ブット元首相が政権に返り咲いた。
・1996年:ファルーク・アフマド・ハーン・レガリ大統領は汚職疑惑で告発されたブット政権を解任した。
・1997年:総選挙。イスラム教徒連盟が勝利し、ナワズ・シャリフ元首相が首相に復帰した。
・1998年:パキスタン政府はインドの核実験に反発し、独自の核実験を実施。
・1999年4月:ベナジル・ブット元首相と夫が汚職罪で実刑判決を受ける。この時、ブット元首相は国外にいた。
・1999年5月3日:カルギル紛争勃発。(インドvsパキスタン)
・1999年7月26日:カルギル紛争終結。インドはカルギル地区をパキスタンから取り戻した。
<カルギル紛争>
・両軍参加者:35,000人(推定)
・両軍負傷者:数千人
・両軍死亡者:4,000~5,000人(推定)
・1999年10月12日:軍事クーデター発生。パルヴェーズ・ムシャラフ将軍が権力を掌握した。
・2000年4月:シャリフ元首相は秘密裁判で終身刑を言い渡されたが、アメリカのビル・クリントン大統領とサウジアラビアのファハド王の圧力に助けられ、サウジアラビアに亡命した。
・2001年6月:パルヴェーズ・ムシャラフ将軍が大統領に就任。
・2001年9月:ムシャラフ大統領は、テロとの戦いでアメリカを支援すると宣言し、アフガニスタンのタリバンとアルカイダへの攻撃に参加した。これを受け、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は1998年のパキスタン核実験後に科したいくつかの制裁を解除した。
・2002年1月:ムシャラフ大統領は2つの過激派グループ(ラシュカレ=トイバとジャイシュ=エ=ムハンマド)の活動を禁止し、ジハード主義を抑制する措置を講じた。
・2002年4月:ムシャラフ大統領は物議を醸す国民投票でさらに5年間の任期を力強く勝ち取った。
・2003年11月:カシミール停戦を宣言。インドも続いた。
・2003年12月:パキスタンとインドは2004年初頭から直接航空便を再開し、互いの領空を飛行することに合意した。
・2004年2月:核科学者のアブドゥル・カディール・カーンはリビア、イラン、そして北朝鮮に核兵器に関する情報を漏らしたことを認めた。
・2004年4月:議会は軍主導の国家安全保障会議の創設を承認し、軍隊の役割を制度化した。
・2004年6月:パキスタンがアフガニスタン国境近くの部族地域でアルカイダおよびその支持者に対する最初の軍事攻撃を開始。アメリカもこの地域のアルカイダの指導者に対するドローン攻撃を開始した。
・2005年4月:パキスタンが管理するカシミールのムザファラバードとインドが管理するカシミールのスリナガルの間で約60年ぶりにバスが運行される。
・2005年8月:初の核対応巡航ミサイル試験を実施。
・2005年10月8日:パキスタンが管理するカシミールでM7.6の地震が発生。7万人以上が死亡。
・2007年2月:パキスタンとインドは偶発的な核戦争のリスクを減らすことを目的とした協定に署名した。
・2007年3月:ムシャラフ大統領が最高裁判所のイフティカル・モハメッド・チャウドリー裁判長を停職させ、全国規模の抗議が発生した。
・2007年7月:治安部隊は1週間にわたる交渉の末、首都イスラマバードのレッドモスク複合施設を占領したジハードゲリラ軍を打倒した。
・2007年7月:最高裁判所はイフティカル・モハメッド・チャウドリー裁判長の職務復帰を全会一致で承認した。
・2007年10月:ベナジル・ブット元首相が亡命先から帰国。南部の港湾都市カラチで帰国を祝うパレードが開催されたが、ジハード軍の自爆テロが発生し、数十人が死亡した。
・2007年11月:大統領選挙。ムシャラフ大統領が勝利を主張したが、最高裁判所は異議を申し立てた。これに激怒したムシャラフ大統領は国家緊急事態を宣言し、イフティカル・モハメッド・チャウドリー裁判長を解任し、親しい友人を後任に指名した。
・2007年11月:ナワズ・シャリフ元首相が亡命先から帰国。
・2007年12月27日:ラワルピンディの政治集会中にベナジル・ブット元首相が暗殺された。
・2008年2月:総選挙。パキスタン人民党(PPP)が勝利。PPPはイスラム教徒連盟と連立を組み、新政権を発足させた。
・2008年8月:ムシャラフ大統領は連立政権の弾劾裁判に合意し、辞任した。
・2008年9月:議会はパキスタン人民党(PPP)のアースィフ・アリー・ザルダーリーを大統領に選出した。
・2008年11月:政府は債務危機の克服に向け、国際通貨基金(IMF)から数十億ドルを借り入れた。
・2008年12月:インド政府は11月に発生したムンバイでのテロにパキスタンのジハード軍が関与したとして非難し、パキスタン政府に行動を起こすよう要求した。パキスタン政府はテロへの関与を否定したうえで、インドの捜査に協力すると約束した。
・2009年3月:数日間の抗議活動後、議会はムシャラフ前大統領によって解任されたイフティカル・モハメッド・チャウドリー裁判長およびその他の裁判官の復職を認めた。
・2009年8月:パキスタン・タリバンの指導者、バイトゥッラー・マフスードが南ワジリスタンでアメリカのドローン攻撃を受け死亡。ハキー・ムッラー・メフスッドが新指導者に就任した。
・2009年8月:ペシャーワルの都市でジハード軍の自爆テロが発生。少なくとも120人が死亡した。
・2010年4月:議会は広範囲にわたる憲法改正案を承認した。これにより、大統領の主要な権限は首相に移譲された。
・2010年8月:全国各地で大規模な洪水が発生し、1,600人以上が死亡した。被害を受けた住民は2,000万人以上と推定されている。国民は政府の後手後手の対応を厳しく非難した。
・2011年1月:冒とく法の改革を目指す活動が各地で実施され、2人の著名な政治家であるパンジャブ州知事のサルマン・タシールとシャバズ・バッティ大臣がジハード軍に暗殺された。
・2011年5月:アルカイダの創設者であるウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン北部のアボッタバードでアメリカの特殊部隊に殺害された。
・2011年12月:政府はウサーマ・ビン・ラーディン殺害後、軍高官が軍事クーデター決行に向けアメリカの援助を求めたとするメモがリークしたことで圧力に直面した。
・2012年1月:軍のスキャンダルをめぐる政府と軍の緊張が高まる中、ユースフ・ラザ・ギラーニ首相は軍の指導者を厳しく批判し、国防長官を解任した。これを受け、陸軍幕僚長のペルベス・カヤニ将軍は予期できない事態が発生すると警告した。
・2012年5月:米国上院委員会は、ウサーマ・ビン・ラーディンの発見を支援したパキスタンの医師シャキル・アフリディの投獄をめぐり、パキスタンへの援助を削減した。
・2012年6月:最高裁判所はギラーニ首相がザルダリ大統領の汚職に対する上訴を拒否したことを受け、首相の資格を剥奪した。議会は水力大臣のラージャ・パルヴェイズ・アシュラフを後任に指名した。
・2012年7月::アメリカは11月にパキスタン軍の兵士を殺害したことを謝罪し、パキスタンはアフガニスタンへのNATO物資供給ルートを再開することに合意した。
・2012年9月:イスラム教の聖職者が冒とくのために一時的に拘留されたキリスト教徒の少女に焼け付くコーランを押しつけた疑いで逮捕された。少女に対する暴力は国際的な非難に発展したが、裁判所は11月に起訴を取り下げた。
・2012年10月:武装勢力パキスタン・タリバン運動が、世俗主義を助長しているとして14歳の人権運動家マララ・ユスフザイに重傷を負わせた。この銃撃事件はパキスタン全土で怒りを引き起こし、各地で抗議活動が発生した。
・2012年11月:タリバンの戦闘員がラワルピンディのシーア派イスラム教徒の行列で自爆。少なくとも23人が死亡した。
・2013年6月:総選挙。ナワーズ・シャリフのパキスタンムスリムリーグが勝利した。
・2014年6月:カラチ国際空港でテロ攻撃が発生し、数十人が死亡した。パキスタン・タリバンと戦っているウズベキスタンのジハードゲリラ軍は、タリバンが攻撃に関与したと主張した。この攻撃でパキスタンとタリバンの和平交渉は崩壊し、パキスタン軍は北西部のイスラム教徒の隠れ家への空爆を開始した。
・2014年10月:パキスタンの人権運動家であるマララ・ユサフザイがノーベル平和賞を受賞。
・2014年12月:タリバンはペシャワールの学校を襲撃し、生徒を含む約150人を殺害した。
・2015年4月:インドは2008年のムンバイテロ攻撃の首謀者と疑われているザキウル・レーマン・ラクヴィの仮釈放を認めたパキスタンの裁判所に抗議した。
・2015年4月:パキスタンの人権活動家、サビーン・マフムードが南部のカラチで射殺された。
・2015年4月:中国とパキスタンはインフラストラクチャーの強化を目的として数十億ドル規模の協定に署名した。
・2015年6月:パキスタンの裁判所は、ノーベル賞受賞者のマララ・ユサフザイに対する銃撃で起訴されたタリバンの戦闘員に無罪を言い渡したことを認めた。
・2016年1月20日:ジハード軍がバチャカーン大学を襲撃、20人を殺害した。
・2016年3月16日:ジハード軍がペシャワールで公務員を乗せたバスを爆破、15人が死亡した。
・2016年3月27日:ジハード軍がラホールで自爆テロ、75人が死亡した。
・2016年9月16日:ジハード軍がシーア派のモスクを爆破、36人が死亡した。
・2016年10月24日:ジハード軍がペシャワールでバスを爆破、62人が死亡した。
・2016年11月12日:ジハード軍がフズダルで自爆テロ、47人が死亡した。
・2016年11月:カマル・ジャビド・バジュワ将軍が陸軍幕僚長に就任。
・2017年2月:イスラム国がシンド州のスーフィー神社で自爆テロを決行、約90人を殺害した。これを受け、政府はアフガニスタンとの国境を閉鎖した。
・2017年8月:ナワーズ・シャリフ首相は汚職容疑で最高裁判所に弾劾され、辞任した。その後、シャリフ元首相は汚職罪で有罪判決を受け、懲役10年の実刑判決を受けた。
・2018年8月:総選挙。パキスタン正義運動(PTI)が勝利し、元国際クリケットスターのイムラン・カーンが汚職と王朝政治を終わらせることを誓約して首相に就任した。
・2018年11月:冒とくの罪で収監されていたキリスト教徒の女性、アジア・ビビが刑務所から解放され、イスラム教徒による激しい抗議を引き起こした。
・2019年2月:パキスタンに拠点を置くジャイシュ・エ・モハマドのジハードゲリラ軍がインドのカシミールの治安部隊を急襲。大規模な衝突に発展した。
・2019年2月27日:パキスタン空軍がインド空軍の戦闘機を2機撃墜。インド空軍のアビナンダン・バルタマン中佐を拘束した。
文化(目次に戻る
・インドの文化、イスラム教、60を超える先住民族の文化が複雑に絡み合っており、一言で説明することはできない。
・詩人を尊敬する風潮が根付いており、多くの国民が著名な民族詩人の作品を敬愛している。
・パキスタンの料理は主に中東、中央アジア、アフガニスタン、インド料理の影響を受けている。
・世界で最もお茶を消費する国のひとつ。チャイ(甘く煮出したミルクティー)はパキスタンで最も有名な料理(飲料)のひとつ。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはクリケット、フィールドホッケー、ポロ、スカッシュ、サッカー、バドミントン、登山など。
・ほぼ全ての地区にクリケットチームがある。
・オリンピックでのメダル獲得数は11個。(金:4個、銀:3個、銅:4個)
・2010年のバンクーバー大会で冬季五輪デビューを果たした。
・1992年のバルセロナ五輪以来、メダルを獲得していない。
【有名スポーツ選手】
・サミナ・バイグ(Samina Baig)女性登山家。七大陸最高峰を全て制した初めてのイスラム教徒。
・イムラン・カーン首相(Imran Khan)クリケット選手。1992年のクリケットW杯で優勝。世界のクリケット界で史上最高のオールラウンダーの1人と見なされている。
その他(目次に戻る
・カシミールをめぐるインドとの対立が解消する見通しは立っていない。ただし、大規模な紛争は2003年11月のカシミール停戦協定以来、発生していない。
・軍事クーデターと数多くの戦争を経て、ようやく民主主義に移行した。