目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)
首都:スコピエ(Skopje)
人口:2,125,971人(2021年推定)
面積:25,333㎢(長野県の2倍)
気候:大陸性気候
・気候は地域によって大きく異なるが、おおむね夏は暑く、冬は寒い。
・首都スコピエの夏場の平均気温は最低が12~16℃、最高は26~32℃。
・首都スコピエの冬場の平均気温は最低がマイナス2~2℃、最高は5~12℃。
・北西部の山岳地帯(標高約2,500m)の町はとても寒く、冬はアルプスの気温とほぼ同じ。
・南東部の都市ゲヴゲリヤの夏は非常に暑く、ヨーロッパで最も暑い都市の1つと呼ばれている。
・年間降水量は地域によって異なるが、都市部はおおむね500~800mm程度。
・観光に最適な時期な5月~9月。ただし、南東部は非常に暑くなる可能性がある。
経済:
・開発途上国
・GDPは120億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と製造業。
・主要輸出パートナーはドイツ(48%)、ブルガリア(6%)、セルビア(4%)
・主要輸入パートナーはドイツ(12%)、イギリス(20%)、ギリシャ(8%)
・主要輸出品は食料品、タバコ、自動車部品、鉄鋼など。
・コソボ戦争(1999年)は経済に大きな影響を与えたが、以降は2001年を除いてプラス成長を続けている。
・政治危機の間にも平均4%のGDP成長率を維持した。
・若者の高失業率が社会問題になっている。(2019年:39.1%)
・主要農作物はブドウ、小麦、トウモロコシ、ピーマン、ジャガイモ、キャベツ、トマト、リンゴ、スイカなど。
・EUへの加盟を目指している。
人種(民族):
・マケドニア人 64.2%(2002年国勢調査)
・アルバニア人 25.2%
・トルコ人 3.86%
・ロマニ人 2.66%
・セルビア人 1.78%
・ボシュニャク人 0.84%
・アルーマニア人 0.48%
言語:
・マケドニア語 66.49%(2002年国勢調査)
・アルバニア語 25.12%
・トルコ語 3.55%
・ロマニ語 1.9%
・セルビア語 1.22%
・ボスニア語 0.42%
・アルーマニア語 0.35%
・その他 0.95%
宗教:
・正教会 61.6%(2002年国勢調査)
・イスラム教 36.6%
・カトリック 0.4%
・その他 1.4%
北マケドニア
政治(目次に戻る
大統領:ステボ・ペンダロフスキ(Stevo Pendarovski)
首相:ゾラン・ザエフ(Zoran Zaev)
政治体制:共和制
・国家元首は大統領、任期は5年、1回再選可能。
・一院制、議員定数は120人、任期は4年。
・議会における大統領の権限は大きく制限されている。
・議会における女性議員の割合は2019年時点で37.5%。
・民主的な選挙を継続している。
・マケドニア人とアルバニア人は2001年の戦争後、権力共有で合意に達した。
・アルバニア人の多い地域ではアルバニア人がより大きな地方自治権を得るよう憲法を改正した。
法律:北マケドニアの憲法
・基本的人権と司法の独立を保障している。
・1991年の独立後すぐ、民主主義の基本原則を規定した。
・ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴSFR)から分離した直後は、多数の人権侵害が報告されていた。
・2001年の紛争(政府vsアルバニア系武装勢力)時にも多数の人権侵害が報告された。
・EU加盟を目指すにあたり、人権に関する法律を規定し、多くの条約に署名した。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・注意情報発令中(2021年6月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年6月時点)
治安:良くはない
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・イスラムジハード組織や反政府組織の活動は報告されていない。
・アルバニア系武装勢力は2001年の停戦協定以来、活動を控えている。
・アルバニアとコソボとの国境付近には武装勢力の拠点があると考えられているため、近づかない方がよい。
・イスラム国(IS)に参加していたアルバニア系武装勢力の戦闘員が国内に潜伏している可能性がある。
・首都スコピエの治安は比較的安定している。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・流しのタクシーには乗車しない方がよい。
・繁華街ではスリ、引ったくり、置き引きに注意。
・現地の最新情報をチェックし、スラム街と呼ばれている地域には近づかないこと。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は10社以上。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は30局以上。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は30局以上。
・報道と言論の自由を保障している。
・国内のジャーナリストは低賃金、劣悪な雇用保障と労働条件、雇用主からの編集圧力にさらされている。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は70~75%。
・検閲はない。
【国営メディア/設立年】
・マケドニアラジオテレビ 1944年
【民間メディア】
・アルサット
・Kanal5
・Sitel TV
・アルファTV
・その他多数
軍隊(目次に戻る
2021年軍事力ランキング:133位
・軍人数:20,500人(推定)
即戦力 8,000人
予備兵 5,000人
準軍組織 7,500人
・陸軍と空軍を保有。
・国防予算:1.1億ドル(推定)
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1700年代
・1700年代:現在の北マケドニアを含む旧ユーゴスラビアはオスマン帝国の支配下に置かれ、ルメリ・エヤレットと呼ばれていた。
・ルメリ・エヤレットはオスマン帝国の行政改革によって細分化され、19世紀までにアルバニア中央部と北マケドニア西部地域で主に構成された。
1800年代
・1867年:ルメリ・エヤレットが廃止され、マケドニアを含む加盟国はオスマントルコの支配下に置かれたうえで独自の自治政府を形成した。
・1877年4月:露土戦争勃発。(ロシア連合vsオスマン帝国)
・1878年3月:露土戦争終結。サンステファノ条約に基づき、バルカンショックの事実上の独立が公式に承認され、その後ブルガリア王国が再建された。現在の北マケドニアはブルガリア王国の一部になった。
・マケドニアを含む近隣諸国はオスマン帝国の統治時代に多くのトルコ人移民を受け入れたと伝えられている。
1900年~第一次世界大戦
・1903年8月3日:反政府勢力はオスマン帝国のマナストゥルビラエトにあるクルシェヴォの町(現在の北マケドニア)を占領し、革命政府を樹立したうえで、「クルシェヴォ共和国」の設立を宣下したが。
・1903年8月13日:クルシェヴォ共和国は解散した。
・1912年10月:第一次バルカン戦争勃発。(バルカン同盟vsオスマン帝国)
・1913年5月:第一次バルカン戦争終結。ヨーロッパにおけるオスマン帝国の支配は終了し、オスマン帝国側のマケドニアはセルビア、ブルガリア、ギリシャに分割された。なお、現在の北マケドニアはセルビアに組み込まれた。
・1913年5月30日:ロンドン条約締結。これにより、オスマン帝国が支配していたバルカン半島の領土は、バルカン諸国に正式に割譲された。
・1913年6月:第二次バルカン戦争勃発。(ブルガリアvsセルビア・ギリシャ連合軍)
・1913年8月:第二次バルカン戦争終結。ブカレスト条約に基づき、ロンドン条約は修正された。
・1913年9月:ブルガリアはオスマン帝国と別の国境条約(コンスタンティノープル条約)に署名した。
・1914年7月:第一次世界大戦勃発。セルビアに組み込まれたマケドニア地域はブルガリアに占領された。
・1918年11月:第一次世界大戦終結。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・1919年:マケドニアはセルビアの領土に組み込まれた。この後、セルビア王国、クロアチア王国、スロベネア王国が設立された。
・1920年代:マケドニアのスラブ人はセルビア人と見なされ、セルビア南部の方言を話したと伝えられている。その後、ブルガリア語、ギリシャ語、ルーマニア語の学校は閉鎖され、司祭と教師は全てブルガリアとセルビア人で形成され、その他の人種は国外に追放された。
・1929年:マケドニアを含むセルビア、クロアチア、スロベネアは「ユーゴスラビア王国」を形成した。この時、スコピエがマケドニア地域の首都に指定された。
・1930年代のセルビア化政策に反対するブルガリアのマケドニア革命機構(IMRO)の反政府勢力は親ブルガリア勢力と衝突した。
・1939年9月:第二次世界大戦勃発。
・1941年:マケドニアの旧ヴァルタル州は、ファシストイタリアの支援を受けるアルバニアとナチスの支援を受けるブルガリアに占領された。
・アルバニアとブルガリアはマケドニアの住民を迫害し、追放された一部の住民はヨシップ・ブロズ・ティトの共産主義レジスタンス運動に参加した。しかし、大半のマケドニア住民はブルガリア軍の侵攻を好意的に受け止め、ブルガリアは地元住民の40~60%を徴兵することに成功した。
・1944年8月:マケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)は「マケドニア社会主義共和国(マケドニアSR)」の設立を宣言した。
・1945年9月:第二次世界大戦終結。
終戦~現在
・1945年:マケドニアSRを含む6つの共和国からなる「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴスラビアSFR)」が誕生した。
・1946年、ユーゴスラビアSFRは連邦内における「マケドニア人民共和国」に自治権を与えた。この時、ギリシャ政府はマケドニアの大部分を形成したギリシャ・マケドニア地域に対する領土を主張し、ユーゴスラビアSFRの政策に懸念を抱いていた。
・1980年代:ユーゴスラビアSFR内でナショナリズムが台頭する。
・1991年:マケドニアでユーゴスラビアSFRからの独立の是非を問う国民投票が行われ、賛成多数で可決された。この時ギリシャは、隣国マケドニア地域と同じ名前になるとして国民投票の結果に強く反対し、マケドニアの国際的な認知度は低迷した。
・1991年9月8日:「マケドニア共和国」がユーゴスラビアSFRから独立した。
・1991年11月17日:新憲法公布。
・1992年4月:マケドニアのアルバニア人分離主義者がイリリダ共和国の独立を一方的に宣言したが、マケドニア政府はこれを認めず、小規模な衝突が発生した。
・1992年11月:マケドニア政府は自称イリリダ共和国の分離主義者を武力で鎮圧し、アルバニア人4人が死亡し、36人が負傷した。
・1993年:マケドニア共和国は国名を「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」に変更し、国連に加盟した。
・1994年2月:ギリシャがマケドニアとの貿易を制限する。
・1995年:ギリシャがマケドニアの独立を公式に認め、貿易の制限を解除した。
・1997年:憲法裁判所と議会がアルバニアの国旗の使用を禁止する。この決定に国内のアルバニア人コミュニティは激怒し、各地で抗議運動を開催した。
・1998年2月:コソボ戦争勃発。(コソボNATO連合軍vsユーゴスラビア連邦共和国)マケドニアは戦争に直接参加していないが、アルバニア人難民の流入に直面した。
・1999年3月:北大西洋条約機構(NATO)はコソボ国内におけるアルバニア人の扱いをめぐり、ユーゴスラビアに対する空爆作戦を開始した。コソボ内におけるセルビア人とアルバニア人の大量虐殺は、近隣諸国への難民流入に発展した。
・1999年6月:コソボ戦争終結。ユーゴスラビアは平和協定(クマノヴォ条約)を受け入れ、マケドニアに避難したアルバニア人難民は祖国に帰還した。
<コソボ戦争>
・両軍参加者:10万~15万人
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:4,000~5,000人
・民間人死亡者:13,000~15,000人
・コソボのアルバニア人約9,000人とセルビア人約2,500人が殺害された。
・1999年:自称イリリダ共和国でアルバニア準軍組織が創設されたが、マケドニア政府はこれを違憲と見なした。
・2001年1月22日:アルバニア民族解放軍の元兵士などで構成される反政府勢力が反乱を引き起こす。反政府勢力は政府に、憲法を改正しアルバニア人の特定の権利を回復するよう要求した。
・2001年5月:当時の主要政党は、アルバニアの少数派の不満に対処することを約束したうえで、国民統一連立政権を形成し、リュブチョ・ゲオルギエフスキを首相に指名した。
・2001年6月:反政府勢力(アルバニア民族解放軍)は首都スコピエの議会を包囲し、新連立政権による少数派アルバニア人に対する「情け」に激しく腹を立てた。
2001年8月:政府と反政府勢力は、NATO軍に武器を引き渡すという反政府勢力の誓約と引き換えに、オフリド合意(和平協定)に署名した。オフリド合意は市民国家としてのマケドニアの枠組みを形成し、アルバニア民族解放軍とマケドニアの治安部隊との間の武力紛争を終結させた。
<オフリド合意の要点>
・敵対行為の停止。
・アルバニア民族解放軍の武装集団の縮小と政府への権限委譲。
・アルバニア人の政治的および文化的権利の見直し。
・現在、人口の約25%が使用するアルバニア語のみが、この基準の下で公用語に指定されている。
・2001年11月12日:議会は、オフリド合意に盛り込まれた改革を含む新憲法を承認した。これによりアルバニア語は公用語として認識され、アルバニア人は警察を含む公共部門の仕事に従事することを初めて許可された。
・2002年:自称イリリダ共和国で軍隊(反政府勢力)が創設される。伝えられるところによると、部隊は約200人で構成されており、リーダーはアルバニアの王子を意味するレカ・ゾグを宣言したという。
・2003年3月:NATOがマケドニアの平和維持任務をEUに引き継ぐ。
・2004年2月26日:ボリス・トライコフスキー大統領が政府専用機の墜落事故で死亡した。機体はボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル近郊で墜落した。
・2004年3月:EU加盟申請書を提出。
・2004年4月:大統領選挙。ブランコ・ツルヴェンコフスキ首相が勝利した。
・2004年8月:議会は2001年のオフリド合意に基づき、地方自治体の国境を大きく見直したうえで、特定の地域のアルバニア人により多くの権限を与える法案を可決した。アルバニア人は法案を歓迎したが、保守的な一部のマケドニア人は抗議活動を展開して法案に反対した。
・2005年12月:EUがマケドニアの加盟に向けた手続きを加速させる。
・2006年7月:総選挙。中道右派のVMRO-DPMNE党(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党)のリーダー、ニコラ・グルエフスキー議員は、アルバニア人民主党および3つの小規模政党で形成される連立政権を結成した。
・2008年4月:ギリシャはマケドニアの国名に対する異議申し立てをめぐり、マケドニアのNATO加盟を阻止した。
・2008年10月:マケドニアがコソボを国家として公式に承認。国内のセルビア人は猛反発し、各地で抗議活動を展開した。
・2009年12月:EUはマケドニアのシェンゲン圏内におけるビザなし旅行を許可した。
・2011年12月:オランダの国際司法裁判所は、ギリシャとマケドニアの国名に関連する争いについて、「ギリシャの2008年の対応(NATOへの加盟を阻止)は誤りだった」と裁定した。
・2013年4月:EUはマケドニアの加盟に向けた報告の中で、マケドニアの情勢は緊張しているが、全ての分野で大きな成長を遂げたと述べた。また、EU加盟に向け、ブルガリアおよびギリシャとの関係改善に向けた努力を継続するようマケドニア政府に求め。
・2014年9月18日:数十人のアルバニア人が首都スコピエに集まり、イリリダ共和国の独立を再び宣言した。自称大統領のネフザット・ハリリによると、自称イリリダ共和国の憲法はアメリカ合衆国憲法に基づいているという。マケドニア政府は独立宣言を却下した。
・2015年5月:クマノヴォ北部の町で武装勢力と警察が衝突。警察官8人と武装勢力の構成員14人が死亡した。政府は近隣のコソボから来た「アルバニア人テロリスト」が事件を引き起こしたと主張した。
・2016年12月:議会選挙。単独過半数を獲得した政党はおらず、連立交渉も行き詰まった。
・2017年5月:社会民主党のゾラン・ザエフ議員がアルバニア民族党との連立を達成。約5か月続いた議会の行き詰まりを打開した。
・2018年6月:マケドニアとギリシャがプレスパ合意に署名。
・2019年2月:マケドニアとギリシャの議会がプレスパ合意の批准を承認。これにより、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国は国名を「北マケドニア」に変更された。
・2020年3月:NATO加盟国による批准プロセスが完了し、北マケドニアはNATOに加盟した。これを受け、EUの指導者たちは北マケドニアの加盟に向けた交渉を開始すると発表した。
・2020年11月17日:ブルガリアは北マケドニアのEU加盟に向けた交渉枠組みの開始を拒否し、加盟交渉の開始は阻止された。
文化(目次に戻る
・ユーゴスラビアとキリスト教の影響を強く受けている。
・芸術、建築、詩、音楽の文化遺産が数多く残されている。
・アメリカとEU所要国の文化を積極的に取り入れているが、マケドニア人とアルバニア人の文化もしっかり保護している。
・フォークミュージックはマケドニアの文化を説明するうえで欠かせない要素のひとつであり、毎年各地でフォークフェスティバルが開催されている。
・料理は主に地中海と中東の良いところをとっているが、イタリア料理、ドイツ料理、東ヨーロッパ料理の影響も受けている。
・主食とパンと米。主菜は肉全般、地元でとれる野菜、乳製品など。
・地元のアルコール(主にワインとラキヤ)を愛飲している。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはサッカー、ハンドボール、バスケットボール。
・オフリド湖で毎年水泳マラソン(30km)が開催されている。
・オリンピックでのメダル獲得数は1個。(銅:1個)
・1920年のアントワープ大会でオリンピックデビューした。(ユーゴスラビア時代)
その他(目次に戻る
・隣国ブルガリアとのわだかまりはまだ完全に解消されていない。
・EU加盟手続き中。