目次

生い立ち

祖父の崩御・伯父の退位・父の即位

相続人としての歩み

第二次世界大戦

宣誓

結婚

父王の不例・外遊

父ジョージ6世国王の崩御・即位

戴冠式

家族

即位初期

スエズ危機

アフリカの年

経済・外交の行き詰まり

和解と来日

コモンウェルス

在位25周年

バチカンとの関係

フォークランド紛争・南アフリカ問題

グレナダ侵攻

王室の危機

ブレア首相の改革・オーストラリア国民投票

アイルランドとの和解・在位60周年

スコットランド独立問題

ブレグジット

晩年

崩御

国葬

称号および呼称

称号および呼称の変遷

イギリス国内での非公式な称号

イギリス以外の称号
イギリス連邦
英連邦王国

王室属領における称号

競馬との関係
主な所有馬

国民へのビデオメッセージ

逸話

子女

租税回避地での資産運用

2022年12月18日/イギリス、ロンドン、エリザベス女王(Alastair Grant/Pool/AP通信)

人物

1926年4月21日、父方の祖父ジョージ5世(George V)国王治世下のイギリスにおいて、首都ロンドンのメイフェアで、ヨーク公(Duke of York)アルバート王子(後の国王ジョージ6世)とエリザベス(Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon)妃の第1子・長女として誕生。

1936年12月11日、父のアルバート王子が、彼の兄であるエドワード8世(Edward VIII)の退位を受けて、ジョージ6世(George VI)としてイギリス国王に即位すると、エリザベス王女は推定相続人(王位継承順位第1位)となった。また、第二次世界大戦中に英国女子国防軍に属して公務に携わる。

1947年には、フィリップ・マウントバッテン(Prince Philip)と結婚。チャールズ(第1王)、アン(第1王女)、アンドルー(第2王子)、エドワード(第3王子)の4人の子女(3男1女)を出産した。

1952年2月6日、父の国王ジョージ6世が崩御し、1701年王位継承法に基づき、25歳にしてエリザベス2世(Elizabeth II)としてイギリス女王に即位した。なお、夫のフィリップは共同君主・共同統治者ではなく、Prince Consort(王配)の称号も持たない。

1953年6月2日に執り行われた自身の戴冠式は史上初めてテレビ中継された。

1952年2月6日にイギリス女王に即位してイギリス連邦に加盟する独立国家7か国、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、パキスタン、セイロンの女王になる。

連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は1956年から1992年までに独立あるいは共和制移行により少しずつ減少していった。

これらの国々のうち、当時まで君主制が存続していた4か国(英、加、豪、NZL)に加え、ジャマイカ、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスの合計16か国それぞれが、エリザベス2世女王を君主としていた。

クック諸島など、上記の国と自由連合制をとる国や、王室属領もエリザベス2世を元首としていた。また、共和制国家を含むコモンウェルス・オブ・ネイションズ(英連邦)には50か国以上が名を連ね、エリザベス2世はその元首として連帯の象徴である。

2011年のアイルランド共和国への公式訪問やローマ教皇との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会見をこなしただけでなく、イギリスにおける権限委譲(地方分権)やカナダ憲法におけるパトリエーションのように、立憲君主制下での重大な憲法改正を自身の治世で目の当たりにしてきた。

このほか、個人的な出来事としては、4人の子女(3男1女)の出産と結婚、および孫と曾孫の誕生、プリンス・オブ・ウェールズの叙任、そして自身の在位25周年記念式典、在位50周年記念式典、在位60周年記念式典、在位70周年記念式典と、それぞれの祝事を経験した。

2007年4月21日、81歳となり高祖母ヴィクトリア女王(Victoria)を抜いて、イギリス史上最高齢の君主になった。

2015年1月23日にはサウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ(Abdullah bin Abdulaziz Al Saud)が90歳で崩御したことにより、88歳で存命する在位中の君主の中で世界最高齢になった。

2015年9月9日には、在位期間が63年と216日となり、ヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最長在位の君主となった。

2016年4月21日に90歳の誕生日を迎えたが公務への意欲は衰えず、晩年まで積極的に取り組んでいた。

2015年度に常時の住居であるバッキンガム宮殿やウィンザー城などの宮殿や居城で接遇した人数は9万6000人に及ぶ。イギリスでは年度ごとの叙勲者には、女王が一人ひとりに勲章や記章を手渡すことが慣例となっている。

近年では長男のチャールズ王太子(Charles III)や孫の一人であるウィリアム王子(Prince William)もこれを担うようになってはいるが、それでも彼女がこなす公務は年間200件を越えていた。

また、医療や福祉の充実、科学や芸術の振興、教育や歴史的文化財の保護、動物保護や環境保全などの団体の会長や総裁を務めている。

関係する団体は、イギリス本国だけではなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦王国構成国をはじめ世界16か国にまたがり、2016年8月時点で648団体にのぼる。

2016年10月13日にはタイのラーマ9世(Bhumibol Adulyadej)の崩御により、2022年4月21日時点(96歳)、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。

2022年6月13日には在位期間が70年と127日となり、タイのラーマ9世の記録を抜き、世界史上第2位の長期在位君主となった。

2022年9月8日崩御。在位期間は70年7カ月だった。

生い立ち

国王ジョージ5世と王妃メアリー(Mary of Teck)の次男ヨーク公アルバート王子は、妹メアリー王女の結婚式で花嫁介添人を務めたエリザベスと1923年4月26日にウェストミンスター寺院で結婚した。

ヨーク公アルバートは1925年に開催された大英帝国博覧会の総裁を務め、この頃、妃エリザベスの懐妊が判明した。

1926年4月21日、ロンドン市内のメイフェア地区ブルートン・ロード17番地に所在する母方の祖父の家において、ヨーク公夫妻の間に、第一子・長女として生まれる。出産は帝王切開であった。

4月27日、ヨーク公夫妻は母エリザベス妃、祖母メアリー王妃、そして1925年11月に崩御したばかりの曾祖母アレクサンドラ王妃(Alexandra of Denmark)から名を取って「エリザベス・アレクサンドラ・メアリー」と命名した。

家族からはリリベット(Lilibet)の愛称で呼ばれていた。

5月29日にバッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルでヨーク大主教コズモ・ラング(Cosmo Gordon Lang)によって洗礼が施された。

祖父ジョージ5世は、初の内孫であるエリザベスを溺愛し、1929年に自身が大病を患った際も、「彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病気の回復を早めるのに一役買った」と言っていた。

1930年、4歳の時に妹マーガレット(Princess Margaret)が誕生した。ヨーク公爵一家は、ウィンザー城近傍のロイヤル・ロッジで生活した。 当時は、「結婚が保証される上流階級の女子には、教育は不必要」という慣習のある時代であった。しかし祖母メアリー王妃の方針により、姉妹揃って宮廷内で教育を施された。

家庭教師マリオン・クロフォード(Marion Crawford)は当時23歳で、はじめ母エリザベス妃の姉ローズ(Rose Constance Leveson-Gower, Countess Granville)の婚家であるグランヴィル伯爵家に雇われる予定だったが、ヨーク公爵家に変更された。

マリオンはエリザベスの結婚まで17年にわたって仕えた。 マリオンが後に記した伝記によると、「エリザベス王女はこの頃から馬や犬などの動物好きで、規律正しく責任感の強い性格であった」という。

また後に彼女の治世となって最初の首相となるウィンストン・チャーチル(Sir Winston Churchill)も、当時2歳だったエリザベス王女に接して「子供ながら、驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。

出生時における正式な称号は、エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)であり、伯父の王太子エドワード、父のヨーク公アルバートに次いで、第3位の王位継承順位にあった。

エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時はまだ壮年かつ独身だった王太子のエドワードへの王位継承が期待されており、国王の次男の長女である彼女の即位を予想する者はいなかった。しかし、放蕩な長男エドワード王子について、ジョージ5世は次第に次男アルバート王子とその娘エリザベスへの継承に期待するようになった。

1940年10月13日/イギリス、ロンドン、初めてラジオ放送を行う女王(右)とマーガレット王女(AP通信)

祖父の崩御・伯父の退位・父の即位

1936年1月20日、サンドリンガム・ハウスにおいて、祖父ジョージ5世が崩御。

エドワード王子がエドワード8世として即位する。エリザベス王女も妹マーガレット王女と共に正装安置されたジョージ5世の亡骸を見、その際、棺の傍らにいた父やおじ達の中でも、伯父エドワード8世の姿が印象に残ったことをマリオンに話したとされる。

しかしエドワード8世は、イギリスと対立しつつあった枢軸国、ナチスドイツに親近感があるような態度をとり、離婚経験を有するアメリカ人女性のウォリス・シンプソン(Wallis Simpson)との結婚をほのめかした。

エドワードとウォリスの関係は広く知られるものではなかったが、即位以来、エドワードはウォリスを伴ってヨーク公の元を訪問するようになった。

母エリザベスはマリオンに王女たちを二人から遠ざけるよう指示した。

12月1日、紳士協定が切れ、マスコミが一斉に国王とウォリスの関係を報じて世論が騒然となる中、スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)首相らが彼に退位を迫り、同月11日に退位する。

これにより、エリザベスの父である王位継承順位第1位のヨーク公アルバート王子がジョージ6世としてイギリス新国王に即位した。

マリオンから事情を聞いたエリザベス王女は泣き崩れ、伯父の無責任な決断と行動によって10歳で推定相続人となった。1701年王位継承法により男子優先長子相続制であったこの時点で、もしもエリザベス王女に弟が存在していたならば、その弟が王太子、次期国王となるため、彼女は推定相続人として女王に即位することを逃していた。なお、即位時点でジョージ6世は40歳、エリザベス王妃は36歳であった。

君主の長女に与えられるプリンセス・ロイヤルの称号は保有者である叔母のヘアウッド伯爵夫人メアリー王女(Countess of Harewood)が存命だったため、授けられなかった。

相続人としての歩み

父の即位を受けて、イギリス国王の長女で王位継承権者第1位となったエリザベス王女は国王王妃夫妻となった両親と妹のマーガレット王女と一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、エリザベス王女殿下の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる。

ジョージ6世の戴冠式はもともとエドワード8世のために準備されていた日程通りの1937年5月12日に行われ、エリザベス王女とマーガレット王女は16世紀のアン王妃の墓の上に設えられた特別席から、メアリー王太后や叔母プリンセス・ロイヤルメアリー王女と共に参列した。

1938年にエリザベス王女は初めて舞踏会に出席し、娘の気品を誇りに思うジョージ6世の意向もあって、以降、園遊会をはじめとする公務にも出席するようになった。

1939年4月に13歳となり、中学生と同年代になったエリザベス王女は、次期イギリス女王への帝王学教育の一環として、教育者のヘンリー・マーチン(Sir Henry Marten)からイギリス国制史を学び始めた。

1939年7月22日、国王一家がダートマスの海軍兵学校を視察した際、急遽、接待役を務めた士官候補生がのちにエリザベスの結婚相手となるギリシャおよびデンマーク王子のフィリップであった。

フィリップは翌日の国王の昼食会に招待された候補生の一人となり、さらには王室ヨットに手漕ぎボートで追随し、ジョージ6世から呆れられるほど最後まで見送って、エリザベス王女に強い印象を残した。なお、これ以前にも1934年と1937年の二度にわたり面会している。

1943年8月17日/イギリス、エリザベス女王(AP通信)

第二次世界大戦

1939年9月3日、イギリスがフランスと共にナチスドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発。

1941年12月8、極東において日本との戦争(太平洋戦争)も勃発し、欧州戦線におけるアメリカ合衆国の参戦も加わり、1945年8月15日の日本降伏まで戦闘は継続した。

ヨーロッパ大陸に派兵されたイギリス軍は1940年前半、ナチスのフランス侵攻と北欧侵攻を受けて敗退。英本土もドイツ空軍の空襲にさらされ、首都ロンドンも標的となり、多くの子供がロンドンから疎開した。

国王夫妻の子供であるエリザベスとマーガレット王女姉妹についても、より安全なカナダへと疎開させることが政府から提案されたものの、母エリザベス王妃が「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンを離れません」と述べ、これを拒否した。

結局、両姉妹は1939年のクリスマスまで、スコットランドのバルモラル城で過ごすことになり、その後はノーフォークのサンドリンガム御用邸に戦時住居として移転した。

さらに1940年2月から5月まで、ウィンザーのロイヤル・ロッジに滞在した後、ウィンザー城へ移り住み、以後ナチス空軍による空襲の脅威が減少するまで5年近くを過ごすこととなった。

ウィンザー城滞在時には軍用衣類向けのニット生地を生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンドを支援するために、クリスマスに家族や友人たちを招待して、王室職員の子女たちとともに、パントマイムを上演したこともあった。

1940年10月13日、14歳のエリザベスはBBCのラジオ放送を通じて初めて演説を行い、「私たちの勇敢な陸海空の軍人の助けとなるために、私たちが出来ることはすべて試みていますし、私たちが共有する戦争の危険や悲しみに耐えようと努力しています。私たち一人一人が、終いには万事上手くいくことを確信しています」と述べた。

これ以降、次期王位継承者として少しずつ公務に携わるようになる。

1942年に近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。

1943年、16歳の時、エリザベス王女は初めての単独での公務において、名誉連隊長としてグレナディアガーズを訪問した。以降も各地への訪問および激励を重ねた。

1943年、フィリップと親しく会い文通を交わす間柄となった。

18歳の誕生日を迎えると、法律が改正され、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合に、彼女が5人のカウンセラー・オブ・ステートのうちの1人として行動できるようになった。

さらに、フィリップの従兄にあたるギリシャ国王ゲオルギオス2世(Georgios II)がジョージ6世に二人の結婚を促してくるようになった。

1945年2月にはイギリス陸軍の英国女子国防軍に入隊し、名誉第二准大尉として、女性軍人としてエリザベス・ウインザーの名および230873の認識番号において、軍用車両の整備や弾薬管理などに従事したほか、大型自動車の運転免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った。

それまでの女性王族はイギリス軍などにおいて肩書きが与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるイギリス本土上陸の危機という非常事態を受けて、次期イギリス女王になることがほぼ確定していたエリザベス王女はその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等の軍事訓練を受け、軍隊に従軍する初めてのケースとなった。

エリザベス王女は王族である自身が一般の兵士とほぼ全く同等の待遇をされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、自分の子供たち(3男1女)も宮廷で教育させるより、一般国民の子女たちと同等の学校に通わせることを決意した。

ヨーロッパでの第二次世界大戦終結が確定した1945年5月8日(V-Day)には、ロンドンの街中で戦勝を祝福する一般市民の中に、妹と共に匿名で混じって、真夜中まで勝利の喜びを分かち合った。

1945年5月8日/イギリス、ロンドン、V-Dayを祝うチャーチル首相とジョージ6世(AP通信)

宣誓

1947年4月、両親の国王夫妻に付き添って初めて外遊し、妹のマーガレット王女と一家4人で南アフリカ連邦を訪問した。これは、ヤン・スマッツ(Jan Christiaan Smuts)首相率いる親英的な統一党が選挙で敗北する可能性が出たため、両政府の要望によって計画された。

国王の意には沿わない訪問であったが、国王一家、特にエリザベス王女は各地で歓迎されて、当地の親英感情を高める結果となった。

外遊中、ケープタウンにて21歳の誕生日を迎えた際には、大英帝国全土に向けたラジオ演説の中で、エリザベス王女は次のような誓いを交わした。

「私は私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、あなた方と我々の全てが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、あなた方の前で宣言します」

結婚

1947年7月9日、海軍大尉であるフィリップとの婚約が発表されたが、婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。

二人は共に高祖母がヴィクトリア英女王で、エリザベス王女の高祖父かつフィリップの曽祖父がデンマーク国王クリスチャン9世(Christian Ⅸ)であることから、遠戚関係にあった。

フィリップはギリシャから亡命した現役のイギリス海軍士官であり、資産を所有していなかったこと、外国生まれであることのほか、フィリップの姉がナチスとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していた。特に母エリザベス王妃が、ドイツ系の出自であることに反対し、英国内の高位貴族(又はその長子)と結婚することを望んでいた。

とくに、1937年に海軍兵学校での接待役にフィリップをねじ込んだことが、彼の叔父ルイス・マウントバッテン卿(Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten)であると考えられたことも、国王夫妻には不愉快に受け止められていた。

しかし、南アフリカからの帰国後の7月8日、ジョージ6世はエリザベス王女とフィリップの婚約を認めて勅許を下した。なお、これに先立ち、フィリップはイギリスに帰化した。

帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名であるマウントバッテン(Mountbatten)を姓に選択しフィリップ・マウントバッテンとなった。

またフィリップはギリシャ正教会からイングランド国教会への改宗を行い、さらに形だけとなっていたギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。

11月11日、ジョージ6世はガーター勲章を長女のエリザベス王女に授与し、王女としては近代史上初の受章となった。将来の女王であるエリザベス王女の方が、王室に婿入りするフィリップよりも先にガーター勲章を受章するよう配慮がなされた。

フィリップには結婚の前日、英国各地の由緒ある地名を冠したエディンバラ公爵、メリオネス伯爵とグリニッジ男爵の称号が授けられ、ガーター勲章が授与された。

11月20日、ウェストミンスター寺院にてフィリップと婚礼を挙げた。エリザベスは即位までの間、エディンバラ公爵夫人が儀礼称号となった。

夫妻は世界中から2500個もの結婚祝い品を受け取った。

第一次世界大戦後、ジョージ5世が王族女性の婚礼を華やかに行い国民と一体感を演出したことに倣い、エリザベス王女の花嫁衣装は戦後の世相を鑑み、全て配給品の絹で制作されることとなった。

戦後初の一大慶事であり、全国から配給券が贈られてきたが、配給権の譲渡が違法であることもあり、全て礼状を添えて送り返した。

エリザベス王女お気に入りのデザイナー、ノーマン・ハートネル(Norman Hartnell)が制作したドレスの意匠には、ヨーク家を象徴する白薔薇の刺繍が用いられた。

戦後のイギリスにあっては、フィリップとドイツとの関係は受け入れ難く、ドイツの王侯家に嫁いだ姉たちは婚礼に招待されなかった。また、ウィンザー公(国王エドワード8世)も招待されなかった。

結婚に際し、エリザベス王女の歳費はそれまでの5倍となる3万ポンドに増額され、自らの宮廷を持つこととなった。

エリザベス王女とフィリップは結婚後の数ヶ月間を当時イギリス領だった地中海のマルタで過ごした。

1948年11月14日に第一子・長男チャールズ王子を出産、1950年8月15日には第二子・長女となるアン王女が誕生した。

父王の不例・外遊

即位以来、吃音や第二次世界大戦に直面し、ストレスの多かった父ジョージ6世の体調不良が、戦後顕著となっていった。

1948年5月、エリザベス王女は父王の名代として、初めて夫妻でフランスの首都パリを公式訪問し、「リリベットはパリを征服した」とまで言われるほどの大成功を収めた。

1951年、ジョージ6世の肺癌が発覚し、極秘裏に手術が行われた。同年10月には父王の名代としてカナダ及び米国を訪問し、ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)大統領を魅了した。

10月25日の総選挙により、クレメント・アトリー(Clement Attlee)労働党政権は退陣、保守党が政権を奪還してチャーチルが首相に復帰した。

1952年1月31日、ジョージ6世は名代として英領ケニア植民地経由でオセアニアに向かうエリザベス夫妻をヒースロー空港で見送った。

前例のない異例の見送りだったが、エリザベス王女にとって父との今生の別れとなった。

父ジョージ6世国王の崩御・即位

1952年2月6日未明、ジョージ6世崩御。

1701年王位継承法に基づいてエリザベス王女が王位を継承し、女王に即位した。

ジョージ6世崩御の知らせは、ラジオニュースを聞いた秘書官マーティン・チャータリス(Martin Charteris)が知り、チャータリスの機転で、フィリップ付秘書官マイケル・パーカー(Michael Parker)を介して、フィリップがエリザベスを庭に連れだして伝えた。

チャータリスが即位する王名を尋ねると、女王は「もちろんエリザベスです」と答えた。

エリザベスは、「エリザベス2世女王陛下(Her Majesty the Queen Elizabeth II)」となり、同名の母エリザベス王妃は「エリザベス王太后陛下(Her Majesty Queen Elizabeth The Queen Mother)」となった。

女王は2月7日にはヒースロー空港に戻り、翌8日に即位後初の枢密顧問会議を招集、即位を宣言した。

戴冠式

1953年6月2日、世界各国の元首級の賓客らを招待してウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、イギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新メディアである白黒テレビにより中継され、英国におけるテレビ普及に大きな影響を与えた。

ただし、塗油の秘儀だけは放送されなかった。

ドレスは結婚式の時と同じくハートネルのデザインにより、薔薇(イングランド)、シッスル(スコットランド)、シャムロック(アイルランド)、リーキ(ウェールズ)の連合王国に加え、メープル(カナダ)やゴールデンワトル(オーストラリア)の英連邦各国の国花が金銀で刺繍された。

戴冠式には日本の皇室からも昭和天皇の名代として皇太子明仁親王が参列した。

イギリスには16世紀のエリザベス1世女王、19世紀のヴィクトリア女王に象徴される、「女王の時代は栄える」というジンクスがあり、チャーチルもヴィクトリア時代を回顧して高揚した気持ちになっていたようだ。

1953年6月2日/イギリス、ロンドンのバッキンガム宮殿で行われた戴冠式、女王とフィリップ王子(AP通信)

家族

即位後、フィリップは連合王国王子(Prince of the United Kingdom)の称号を与えられたが、いわゆる「王配」であるPrince Consortの称号はついに与えられなかった。

2017年8月3日を最後に公務を引退するまで、結婚以来60年間エリザベスを支え続けたが、ヴィクトリア女王の夫アルバート王配と異なり、フィリップには政治介入する意思はなかった。

1960年2月19日、第三子・次男アンドルー王子を出産。1964年3月10日、第四子(末子)・三男エドワード王子を出産。

しかし、即位前に誕生したチャールズ王子とアン王女を含め、多忙なエリザベス2世とフィリップ夫妻は親として向き合うことができず、これが1990年代に噴出した子女たちの不倫・離婚・再婚スキャンダルの遠因になったとみられる。

1969年6月21日、女王一家を題材にしたBBCドキュメンタリー「ロイヤル・ファミリー」が放送されると、再放送も併せ英国民の75%が視聴した。この放送に合わせて長男チャールズ王子のウェールズ大公叙任式が7月1日に行われた。

この放送によって、国民は王室に親しみを抱いたものの、「王室のプライバシーには触れない」という報道機関との暗黙の了解が崩壊するきっかけにもなった。

1977年11月15日、アン王女に初孫となる長男ピーター・フィリップス(Peter Mark Andrew Phillips)が誕生して祖母となり、2010年12月29日にはそのピーターに初曾孫にあたる長女サバンナ・フィリップス(Savannah Aenn kathleen Phillips)が誕生し、曾祖母となった。

即位初期

戴冠式を終えた女王は1953年11月から1954年5月に帰国するまで、半年かけてコモンウェルスを巡幸し、即位後の顔見世とともに、各国の紐帯の象徴としての役割を果たそうとした。

帰国後の1954年に満80歳となったチャーチルは、翌春の引退を決意し、女王は公爵位を授けようとしたがチャーチルはこれを固辞した。

かねてから問題視されていたのが、王妹マーガレット王女の結婚問題だった。マーガレットは、父ジョージ6世の侍従武官ピーター・W・タウンゼント(Peter Wooldridge Townsend)大佐と恋仲で、エリザベス女王自身も妹に同情しタウンゼントにも親しみを感じていたが、「王冠を賭けた恋」事件の記憶も残っており慎重に検討されていた。

しかし1953年の戴冠式直後に大衆紙にスクープされ、さらに1955年には王室婚姻法により25歳まで君主の許可なく結婚できなかったマーガレット王女が、25歳を迎えたことで問題が再燃した結果、アンソニー・イーデン(Anthony Eden)内閣は、王女から王位継承権と王族の特権を剥奪することを決定し、マーガレットは同年10月30日に結婚を断念すると表明した。

スエズ危機

1956年7月、エジプトのナセル(Gamal Abdel Nasser)大統領はスエズ運河の国有化を宣言し、同地を長年にわたって支配してきた英仏両国はイスラエルと共に派兵を行った。

エリザベス女王は個人的には派兵に反対だったが、立憲君主制における立場をわきまえ、最終決定をイーデン首相に委ねたとされる。

エジプトの降伏を目前に米国とソビエト連邦の両国を含む国際世論の激しい批判を受け、国連緊急総会により停戦が議決(総会決議997)され、11月6日に英仏が、8日にイスラエルが停戦に従った。

その結果、英国はスエズでの権益を喪失しただけでなく、米国の欧州に対する優位性が明確になり、英国の威信は大きく傷つくこととなった。

敗戦の責任を受け、1957年1月8日と9日にイーデンは退任の意向を女王に表明し、その際女王はイーデンから次期首相に関する意見を徴したとされる。

悪化した英米関係の回復のため、女王はジェームズタウン入植350年記念として、1957年10月17日に訪米してドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領と友好関係をアピールすると、女王帰国と入れ違いにハロルド・マクミラン(Harold Macmillan)首相が訪米した。

また、英国の威信低下を前に、イラン国王パフラヴィー(Mohammad Rezā Shāh Pahlavi)はソ連がエジプトに接近する中で、反共産主義陣営の一角としての存在感を高めるようになった。

スエズ危機でもイランはイギリスを一貫して支持しており、英外務省はパフラヴィー国王を国賓として招くことを企図した。

1959年5月の訪英の際、国王はガーター勲章を強く希望していたが、ついに授与されず、代わりに王立空軍の大将位を授与された。

エリザベス2世は1961年3月、ヨーロッパ君主として史上初めてイランを答礼訪問した。

以降、パフラヴィーは傲慢になり、女王との関係は悪化した。

1970年、イラン建国2500年祭典へのエリザベス2世の出席を強く望んだが、女王にその意思は無く、しかし英国の影響下にあったペルシャ湾岸諸国が相次いで独立した背景もあり、英外務省との妥協として、夫フィリップと長女アン王女を名代として派遣した。

この後、この豪華な式典も遠因となって、パフラヴィーはイラン革命により王座を追われた。

アフリカの年

「アフリカの年」と呼ばれた1960年、アフリカ諸国の多くが英仏等の宗主国から独立した。

1957年に独立したガーナは、女王を君主に戴く英連邦王国の一員であったが、1960年に独立した。1961年にクワメ・エンクルマ(Francis Nwia Kofia Nkrumah)大統領によるデモの弾圧に端を発し、政情及び治安は不安定だった。

米国もガーナに出資しようとしていたが、エンクルマは共産主義に傾きつつあった。そのような中、エリザベス2世女王は11月にガーナ訪問を成功させ、マクミラン首相を感嘆させた。

1963年に独立したウガンダは、1971年に陸軍のイディ・アミン(Idi Amin Dada)がクーデターにより権力を掌握した。英国のエドワード・ヒース(Sir Edward Richard George Heath)政権はアミン政権を承認し、同年7月には訪英し女王からも歓待を受けたが、午餐会の席上でタンザニアへの侵攻意思を漏らした。

女王はヒューム外相と旧知のタンザニア大統領ジュリウス・ニエレレ(Julius Kambarage Nyerere)にこの件を伝えた。アミン大統領はこの後、1972年にアジア人追放事件を起こし、コモンウェルス首脳会議も欠席するようになる等、禍根を残した。

経済・外交の行き詰まり

プロヒューモ事件により、1963年にハロルド・マクミラン首相が退任。

後任は女王の旧知の仲であるアレック・ダグラスヒューム(Alexander Douglas-Home)だったが短命に終わる。

1964年に労働党が政権を奪還し、ハロルド・ウィルソン(Harold Wilson)が首相に就任した。しかし、1960年代における英国の国際競争力の低下は明らかであり、外交面では1960年に欧州経済共同体(EEC)への参加を拒まれ、1967年にはEECへの参加を再び拒絶された。

これは自国の農産物輸出を不安視するオーストラリアやニュージーランドの強い反対があったためである。

経済面では1967年にポンド切り下げるに至った。また、ベトナム戦争への参加要請を拒否したことから、英米関係は再び悪化した。

このような中、ウィルソン首相は1968年、スエズ以東から軍を3年以内に撤退させることを表明し、大英帝国は名実ともに終わろうとしていた。

女王はウィルソン首相の決断を理解し、撤退後の1972年から東南アジア諸国を歴訪。親善と理解の促進に務めた。

和解と来日

第二次世界大戦の敵国だったイタリアとは、1958年5月に女王の招きでジョヴァンニ・グロンキ(Giovanni Gronchi)大統領が訪英、1961年に女王がローマを答礼訪問して関係が回復した。

ドイツ連邦共和国(西独)からは1958年10月にテオドール・ホイス(Theodor Heuss)大統領が訪英したものの、英国民感情への配慮から答礼訪問は1965年となった。

日本とは女王の従妹であるアレクサンドラ王女が訪日し、日本側は王女を国賓待遇で歓待した。これを機に日英の親善外交が活発化し、秩父宮妃勢津子の訪英による女王への大勲位菊花章頸飾・同大綬章の贈呈、マーガレット王女の訪日が行われた。

英国経済が低迷する中、高度経済成長期にある日本との交流を深める必要性もあった。

1971年5月、昭和天皇・香淳皇后夫妻の訪英を含むヨーロッパ訪問に先立ち、ガーター騎士団の一員でありながら大戦中にその資格を剥奪された昭和天皇の旗(菊花紋章旗)が再び掲揚され、同年10月の訪英時に天皇はガーター勲章を、女王は大勲位菊花大綬章をそれぞれ佩用して和解を強く印象付けた。

1975年、旧交戦国最後の訪問地として一度のみ、フィリップ王配と夫妻で訪日している(5.7~12)。

5月7日夜に昭和天皇主催の皇居での宮中晩餐会に出席し、8日にはNHKを訪問。大河ドラマ「元禄太平記」の収録を見学した。9日には都心でパレードをして東京都民の歓迎に応えた。女王はこの後、京都御所や伊勢神宮を訪問し、12日に帰国。

日本訪問の際、エリザべス2世は昭和天皇から立憲君主のあり方について教示を受け、強い印象を受けたとされる。

コモンウェルス

イギリスは広大な植民地を有していたが、米国の様な独立を避けるため、徐々に自治権を与えて自治領としていった。

英帝国は英連邦となり、1931年12月11日のウェストミンスター憲章により英連邦体形に法的根拠が与えられ、各地域は実質的な独立国として、英国王に忠誠を誓う同君連合のように結びついた。

1947年8月15日にインドとパキスタンが独立しながらも、コモンウェルスへの残留を希望し、認められたため、イギリス連邦から同君連合の要件は排除され「Commonwealth of Nations」となった。

1949年4月26日のロンドン宣言により、イギリスの国王(女王)はコモンウェルスの元首であるが共同の価値観で結びつく平等な連合体の象徴に変容した。

エリザベス2世女王の即位後も独立を果たす国々があり、女王を国家元首とする国々の総称である「英連邦王国」と君主制・共和制を問わず加盟できる「英連邦」に区別される。

女王自身は各国に平等に接し、また祖母メアリ王妃ゆかりのマールバラ・ハウス(Marlborough House)を英連邦事務局として貸与している。

コモンウェルスの首脳が集まる会議は19世紀末以来ロンドンで度々開かれてきたが、英国のスエズ以東撤退後はコモンウェルス首脳会議(CHOGM)として各国の輪番となった。

1971年、その第1回であるシンガポール会議には、EC加盟に執念を燃やすエドワード・ヒース首相の強い反対により、女王が折れ欠席した。

1973年に英国はEC加盟を果たし、女王は各国へのお礼として、同年にはオランダ王国、ルクセンブルク大公国、そして西独の三組の国賓をロンドンで歓待した。また、5月には夫君エディンバラ公だけでなくチャールズ王太子も同伴し訪仏。かつてのエドワード8世であるウィンザー公夫妻を訪問した。

伯父エドワードはエリザベス2世の訪問から10日後に逝去した。

ヒースや世論の関心がヨーロッパに集まった1973年、女王は恒例のクリスマスメッセージで、コモンウェルスとの紐帯の重要性を強調した。

在位25周年

1977年に在位25周年を迎えると、女王は国内およびコモンウェルス各地を巡幸した。

6月6日に全国でかがり火がたかれ、6月7日に記念礼拝が行われた。また、一連の式典に先立ち5月に行われた女王演説では権限移譲を求める世論を念頭に、連合王国が一体であることを明確に呼びかけた。

しかし1979年8月27日、アイルランド共和軍暫定派にルイス・マウントバッテン卿が暗殺された。

マウントバッテン卿は王室への影響力を持とうとして女王やエリザベス王太后との関係が悪化していた。

一方、チャールズ王太子の祖父代わりであった面もあり、暗殺事件に際してチャールズは人目をはばからず涙を流した。

落胆するチャールズはマウントバッテン卿の件で意気投合したダイアナと短い交際期間の後、1981年2月に婚約を発表。女王もかつて侍従だったスペンサー伯爵の令嬢であり、不満はなかった。

二人は同年7月29日にセント・ポール大聖堂で婚礼を挙げた。

バチカンとの関係

1980年10月17日、バチカン市国を公式訪問、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(Giovanni Paolo II)と会談し、「1982年に計画しているイギリス訪問を歓迎する」と伝えた。

イギリスの元首にしてイギリス国教会の最高権威がローマ教皇を公式訪問したのは1534年にヘンリー8世(Henry VIII)がイギリス国教会を作って以来初めてであり、これが1982年5月28日のヨハネ・パウロ2世のイギリス訪問とローマ・カトリックとイギリス国教会との和解への布石となる。

フォークランド紛争・南アフリカ問題

スエズ以東からの撤退以後、南米大陸沖のフォークランド諸島の防衛は英国に取って負担となり、1979年に就任したマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)首相下でリース案まで検討されていた。

アルゼンチンのレオポルド・ガルチェリ(Leopoldo Fortunato Galtieri Castelli)大統領は1982年3月にフォークランド諸島侵攻を開始した。

サッチャー首相は毅然とした態度を取り、女王はこれを支持するとともに第二王子のヨーク公アンドルー王子がヘリコプター操縦手として出征した。

6月14日、英国の勝利で紛争は終結し、また同月21日にはチャールズ王太子夫妻に長男ウィリアム王子が誕生。英国は慶事に沸いた。

しかし、サッチャー首相は南アフリカのアパルトヘイト問題を通じ、経済制裁やコモンウェルスとしてのあり方について女王と意見を異にしていた。

1986年7月、女王と首相の確執について報じられたことに端を発し、経済制裁に消極的な首相及び政策への批判から、エディンバラでの1986年コモンウェルスゲームズにはボイコットが相次ぐ事態となった。

女王は国内のみならず国際社会でも公平な立場にあるはずが、アパルトヘイト廃止やネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)の釈放を巡っては、カナダのブライアン・マルルーニー(Martin Brian Mulroney)首相や豪ボブ・ホーク(Bob Hawke)首相の活動を通じて、ECによる南アフリカへの経済制裁を容認させようとしていたとされる。

1990年にマンデラは釈放され、アフリカ民族会議の議長に就任した。1991年に開催されたCHOGMにはオブザーバーとしてマンデラも参加することとなっていたが、誤って晩餐会の式場にも来た所、女王が参加を認め和やかな歓談が行われた。

マンデラは1994年に同国大統領に就任、南アフリカ共和国はコモンウェルスに復帰した。

グレナダ侵攻

フォークランド紛争終結目前の1982年6月、G7ヴェルサイユ・サミットの帰路にロナルド・レーガン(Ronald Reagan)米大統領が訪英した際、ウィンザー城で女王と大統領が乗馬する様子が大々的に報じられ、英米両国の結束を示すかのようであった。

女王は1983年2月にレーガンの地盤である米カリフォルニア州を含む米西海岸を答礼訪問した。

ところが、1983年10月13日、英連邦王国のひとつでエリザベス2世自身が国家元首のグレナダでクーデター勃発に端を発し、10月25日に米国が介入するに至った。

米国はイギリスにも、そして元首である女王にも連絡なしに介入した。

サッチャー首相は米軍介入に反対の立場だったが、結局は米国を支持せざるを得ず、女王とともに屈辱を味わうこととなった。

王室の危機

1980年代以降、宮廷内部の職員・元職員が大衆紙(タブロイド紙・ゴシップ誌)に王室のプライバシー情報を売り渡す「小切手ジャーナリズム」が横行するようになっていた。

こうした中、長男の妃ダイアナや次男アンドルー王子夫妻のスキャンダルが次々と報じられていった。

1992年は長女アン王女の離婚と再婚、次男アンドルー王子夫妻の別居、暴露本「ダイアナ妃の真実」の出版、結婚記念日に起きたウィンザー城の火災やポンド危機など、女王に取って公私ともに不運続きだったため、ロンドン市長主催の晩餐会で「アナス・ホリビリス(ひどい年)」と発言した。

この発言後の12月、チャールズ王太子とダイアナ妃が別居を決めてしまう。

王太子は暴露本への反論として、テレビ出演や伝記出版を許可してプライバシーを放棄。ダイアナ妃はこれに反撃し、王太子や王室への事前調整のないままBBCのインタビューに応じ、自身を被害者としつつ「家庭の内情」を明かし、国民の支持を高めてしまった。

女王はこのインタビューを悲しみをもって受け止め、離婚を勧告するに至った。

結局、王太子夫妻は1996年6月、ダイアナに有利な条件で離婚合意が公表され、同年8月28日に離婚が確定した。

この離婚騒動は合意に基づく多額の慰謝料、未来の国王の母であるダイアナの公式行事出席、二人の王子の養育権等の問題、さらには双方の再婚問題など、離婚後においても王室に深刻な悪影響を及ぼすと考えられた。

同年8月の世論調査では21世紀の英王室存続について「消滅する」が43%、「存続する」が33%と、消滅派が1992年からわずか4年で6倍に急上昇する危機的な事態となった。

このような状況にあっても女王自身は「国家元首」と「民族の長」の役割を完全に果たしていることから、糾弾の対象とはならなかった。

女王の危機意識は強く、王族と秘書らによる王室改革のための委員会を設立した。

ところが、1997年8月31日、ダイアナ元王太子妃がフランスのパリで交通事故により36歳で死去。女王が沈黙を続け、王室も半旗を掲げなかった結果、王室の冷ややかな対応が批判を浴びることとなった。

同年9月5日にテレビ放送を通じて哀悼のメッセージを送り、長男チャールズ王太子との離婚騒動以降、英王室から敬遠されていたダイアナ元王太子妃の名誉回復を行い、王室の信頼回復に努めた。

また同年6月30日、香港返還式典が行われ、チャールズ王太子が女王の名代として香港へ赴く際に使用したのを最後に、王室ヨットブリタニア(HMY Britannia)号が退役し、12月の退役式典でエリザベス2世は人前で涙を流した。

自身の在位半世紀を迎えた2002年には妹マーガレットの薨去、3月30日の母エリザベス王太后の崩御と、同一年に肉親との死別が2回も続いた。

ダイアナのみが慈善活動を行っていたという国民の認識は誤りであり、チャールズ王太子が海軍の退職金を基に創設した王太子財団はその活動を2003年に広報したところ、大きな反響を受け、王室構成員の長年にわたる様々な慈善・福祉活動が広く知られるようになった。

こうした甲斐あって、チャールズは長年の恋人であったカミラ(Queen Consort Camilla)と再婚を果たした。また、王室の歳費についても、王室の収入が一度国家予算に組み込まれていたことから、税金で養っているという誤解が生じていた。

2011年に王室歳費法が成立し、王室予算の独立性・透明性・健全性の向上が図られた。

1987年8月4日/イギリス、ロンドン、エリザベス女王とダイアナ妃(Martin Cleaver/AP通信)

ブレア首相の改革・オーストラリア国民投票

王室が大きな危機と変革の時を迎えた1997年。20世紀で最も若い首相として労働党のトニー・ブレア(Sir Tony Blair)が就任した。

ブレアの急進的な改革は女王に大きな衝撃を与えた。

ブレアはサッチャー時代に推進された中央集権体制を覆し、再び権限移譲を推進した。1997年9月にスコットランド及びウェールズで立法権の付与と議会の設置が決定。

1998年4月のベルファスト合意により、北アイルランド問題の解決へ大きく前進するとともに、北アイルランドにも立法権付与と議会設置が行われることになった。

1999年には貴族院改革として、世襲貴族の議席を全廃する案を提示した。最終的には、世襲貴族が92議席に大幅に限定され、1958年の一代貴族法による一代貴族たちの比率が上昇することとなった。

20世紀を通じ段階的に自治権や主権を拡大し、また白豪主義廃止以降はアジア系移民が増加してきたオーストラリアでは2000年シドニーオリンピックを控えた1999年11月に共和制導入を問う国民投票が行われたものの、否決された。

ただし、これは複数の共和制の案の悪いものであったためで、世論調査からも共和制移行そのものが否定されたわけではなかった。

女王は2000年3月にAUSを訪問し、国民投票の結果を尊重するとして女王としての責務を果たすことを表明した。この後、女王は十数回にわたり、AUSを訪問することとなる。

2001年9月11日、米同時多発テロ事件を機に、米国は対テロ戦争(アフガニスタン・イラク戦争)へ進み、ブレア政権もこれに追従した。ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領は2002年1月の一般教書演説でイラクを「悪の枢軸」と名指しし、イラクが大量破壊兵器を保有していることを2003年3月20日開戦の根拠に掲げていたにもかかわらず、兵器はついに発見されなかった。

独仏等の欧州各国が米国を批判し対米関係が悪化する中、唯一英国のみが米国を支持した。 世界中から批判を受けたブッシュ大統領は、ブレア首相の要請により、2003年11月に米大統領として第二次世界大戦後初の国賓として英国を訪問することとなった。

エリザベス2世は即位後3回、国賓として訪米しており、戦後の英米関係が対等ではないことを象徴していた。ブッシュ大統領の訪英は成功し、翌年の大統領選挙で再選を果たすと、2007年に訪米した女王を出迎えた。

2010年7月6日、エリザベス2世は国連総会で53年ぶり2回目の演説を行い、国際外交の生き証人として尊敬を集めた。

アイルランドとの和解・在位60周年

2011年4月29日、孫で王位継承順位第2位のウィリアム王子が学生時代から交際していたキャサリン・ミドルトン(Duchess of Cambridge)と結婚した。

キャサリンは資産家令嬢であったが、女王はその人柄と、何より長年交際していたことから、子供たちのように結婚生活が破綻することはないだろうと安心していた。

女王は結婚に先立ち、ウィリアムをアイルランド近衛連隊長に任命し、二人の婚礼で、ウィリアムは女王の命によりアイルランド近衛連隊の制服を着用した。同日、女王はウィリアムをケンブリッジ公爵に叙爵した。

同年5月17日、1911年の祖父ジョージ5世による訪問以来、ちょうど100年ぶりにイギリスの君主としてアイルランド共和国を公式訪問。

1911年当時はイギリスの植民地であったため、独立後としては初の訪問である。

1998年のベルファスト合意後の国民投票により、アイルランド共和国の北アイルランド領有放棄等が行われ、北アイルランド問題は一応の解決を見ていた。

そこで女王は祖父ジョージ5世の訪愛100周年を記念して、同地を訪問することで両国の和解と友好を図ることとなった。

ダブリン城での晩餐会、女王はシャムロックの意匠のドレスとアイルランドの象徴である竪琴(アイルランドの国章)のブローチを新たに制作して着用し、さらに身に付けたティアラは祖母メアリ王妃が結婚する際、1893年に少女たちからの募金で献上された「グレート・ブリテンとアイルランドの少女たちのティアラ(Girls of Great Britain and Ireland Tiara)」だった。

2012年には在位60周年記念式典に向けた巡幸を行い、6月に北アイルランドも訪問した。

そして、マウントバッテン卿暗殺を指示したとされる元アイルランド共和軍暫定派で北アイルランド副首相のマーティン・マクギネス(Martin McGuinness)と握手を交わし、和解を象徴づけた。

この年の巡幸はチャールズ王太子夫妻やケンブリッジ公夫妻をはじめとする王室構成員総出で世界中のコモンウェルスを訪問した。

5月18日の午餐会にはヨーロッパのみならず日本の第125代天皇(明仁上皇)等を含むアジア、アフリカ、世界中の王候が集った。

6月にはビッグ・ベンの時計塔が在位60周年を記念し「エリザベス・タワー」に改称された。7月には2012年ロンドンオリンピックが開催され、007シリーズに因んだ演出で臨場した女王が開会宣言を行った。

スコットランド独立問題

2013年4月、1歳年長のサッチャー元首相が逝去し、女王はその準国葬に参列した。女王が臣下の葬儀に参列するのはチャーチル元首相の国葬以来であった。

同年には戴冠式から60周年を記念し、ジョージ4世・ステート・ダイアデム(George IV State Diadem)を身に付け王宮内で微笑む写真とスコットランドの原野でシッスル勲章のローブを着用した険しい表情の写真が公表された。

後者の写真が撮影された背景にはスコットランド独立運動の高まりがあった。

2011年、スコットランドの独立を掲げるスコットランド国民党(SNP)が議会選で過半数を獲得、翌2012年のエディンバラ合意に基づき、2014年9月に独立を問う住民投票が行われた。

ケンブリッジ公夫妻は大学時代をスコットランドで過ごしていたため、当地では英王室は高い人気を誇っており、さらに女王は、エディンバラ合意の前にウィリアム王子をシッスル勲爵士に叙していた。

王室人気により住民投票は否決されたが、可決されたとしても、エリザベス2世が引き続きスコットランド女王を兼ねる可能性があった。

ブレグジット

2015年5月の総選挙、キャメロン(David Cameron)首相はEU加盟継続の是非を問うことを公約に掲げ、勝利する。

2016年6月23日、イギリスのEU離脱是非を問う国民投票が行われた結果、僅差で離脱派が勝利した。

キャメロン首相は辞任し、英国二人目の女性首相であるテリーザ・メイ(Theresa May)が就任。

メイ政権下の交渉の結果、2017年3月29日に2年以内の離脱が決まると、政府は王族たちに親善外交の協力を求めた。

女王は曾孫世代まで総動員し、欧州各国を訪問した。特に、北アイルランドとアイルランド共和国の国境管理で問題が生じると予想されていた北アイルランドへは、世界中の注目を集めた結婚後まもないサセックス公ヘンリー王子とメーガン妃を遣わした。

さらに、地中海の要衝ジブラルタルを巡っては、スペイン王国と英王室で度々問題が発生していた。

女王即位直後の巡幸最後の立ち寄り先がジブラルタルであり、チャールズ王太子とダイアナの新婚旅行先であることが発覚するや、スペインのフアン・カルロス1世(Juan Carlos I)夫妻は結婚式への出席を取りやめている。

ジブラルタルは英国全体の離脱投票結果と大きく異なり、EU残留派が実に96%を占めていた

女王は3年前の2014年に即位したスペイン国王フェリペ6世(Felipe VI)夫妻の初訪英が2017年7月に行われた際、フェリペ6世にガーター勲章を授与した。

2018年10月、2013年に即位したオランダのアレクサンダー国王(Willem-Alexander)夫妻の初訪英でも、ガーター勲章を授与している。

通常、初訪英時にはロイヤル・ヴィクトリア勲章の贈呈が慣例であり、これらの破格の贈り物には、見返りを期待する外交的意味が込められていたとされる。

2020年1月31日、英国はEUから正式に離脱した。

2011年6月16日/イギリス、ロンドン、エリザベス女王とフィリップ王子(Alastair Grant/AP通信)

晩年

2016年に90歳を迎え、高齢のため公務の一部を徐々に第一王子のチャールズ王太子に引き継ぐようになってからも、精力的に公務を行っていた。

2017年8月2日に96歳となった夫のフィリップが単独公務から引退したが、女王は引退せず、崩御まで公務を継続していた。

同年11月20日に成婚70周年を迎えた。

2021年4月9日、王配のエディンバラ公フィリップが薨去。結婚生活74年での死別となった。

2022年2月6日、イギリスの歴代君主として初めて在位70年を迎え、同年6月2日から5日に亘って祝賀行事(プラチナ・ジュビリー)が催された。6月2日と3日は祝日とされ、4連休となった。

最大の見せ場であるパレードは欠席したが、宮殿のバルコニーに他のロイヤルファミリーとともに姿を見せた。また3日に催されたセントポール大聖堂でのミサも欠席した。4日にはエプソム・ダウンズで競馬観戦したのち、宮殿にてBBC主催のコンサートであるプラチナ・パーティーに出席した。これはバッキンガム宮殿から生中継された。

また、サンドリンガムハウスの庭園も一般向けに開かれ、祝典の一環としてBBCのパブリックビューイングも開催された。6月5日のビッグ・ジュビリー・ランチをもって連休は幕を閉じた。

在位70周年を記念してくまのパディントンとエリザベス女王がお茶をするコミカルな短編動画が制作・公開された。

同年夏も毎年恒例となっているバルモラル城に滞在し、その間に首相がボリス・ジョンソン(Boris Johnson)からリズ・トラス(Liz Truss)に交代することとなったが、通常であればバッキンガム宮殿にて手続きを行うところを移動が困難のため9月6日に両人がバルモラル城を訪れ、辞表提出と首相任命式を執り行った。

崩御

2022年9月8日、英王室は女王の健康が懸念される状態となり、医師団の監督下に置かれると発表したが、同日17時30分頃、バルモラル城において崩御した。96歳。

女王の健康状態は高齢になってから常に注意されてきたが、2021年4月に夫であるエディンバラ公フィリップが薨去して以降、特に悪化していたとみられる。

同年10月からは公務の際に杖を使い始め、10月20日から21日にかけて検査入院をしたことで北アイルランドへの訪問、グラスゴーでのCOP26への出席および2021年の戦没者追悼記念式典への出席は健康上理由からキャンセルされた。

2022年6月、自身のプラチナ・ジュビリーの礼拝を欠席した。BBCニュースによると、記念式典の初日の女王公式誕生日を祝う軍事パレードの最中に女王が立った際、「違和感を感じた」と述べたという。

記念式典の間は主にバッキンガム宮殿のバルコニーに留まり、感謝の記念式典も欠席した。

2022年3月29日にウェストミンスター寺院で行われたエディンバラ公フィリップの追悼式典には出席することができたが、同月のコモンウェルスデーの式典や4月の王室洗足式の式典には出席できなかった。

2022年5月、59年ぶりにイギリス議会開会式を欠席。欠席したことにより、プリンス・オブ・ウェールズとケンブリッジ公がカウンセラー・オブ・ステートとして議会の開会を宣言した。

法定推定相続人であるプリンス・オブ・ウェールズは女王の晩年に向けてより多くの公的な責任を負い、議会開会式で女王の代理を務めた。

崩御する2日前の2022年9月6日、ジョンソン首相の辞任を受理し、後任のトラスをバルモラル城で首相に任命した。首相の解任と任命は通常バッキンガム宮殿で行われる。

2022年9月7日、女王は枢密院のオンライン会議に出席し、トラス内閣の閣僚が就任の宣誓をする予定であったが、医師団から休養を取るように勧告され、会合は延期された。

2022年9月8日現地時間12時30分頃、バッキンガム宮殿はバルモラル城で女王が医療監視下にあることを発表した。

王室は声明で次のよう述べた。「今朝のさらなる評価の後、女王の医師団は女王の健康を懸念しており、女王が医療監視下に置かれることを推奨しています。女王はバルモラルに留まっています」

女王の子供とその配偶者、ウィリアム王子とヘンリー王子が女王の元に到着た。報道によると、ウィリアム王子とヘンリー王子は女王の最期を認めれなかった。

2022年9月8日現地時間14時00分頃、BBCニュースは通常放送を中断し、女王の状態を継続的に報道した。状態に関する特別レポートはITV、チャンネル4、チャンネル5などのその他の主要なイギリスの放送局でも報道された。

2022年9月8日現地時間15時00分、BBC特派員が正式発表前に女王が崩御したとツイート。その後、このツイートを撤回した。

2022年9月8日現地時間16時30分、トラス首相が女王が崩御したと連絡を受ける。

2022年9月8日現地時間18時30分、イギリス王室の公式Twitterアカウントが女王の崩御を発表。「女王は本日の午後、バルモラルで安らかに息を引き取りました。国王と王妃は今晩バルモラルに留まり、明日ロンドンに戻る予定です」

BBCはこのツイートの直後、女王の崩御を伝えた。

2022年4月28日/イギリス、ロンドンのウィンザー城、エリザベス女王(Dominic Lipinski/Pool/AP通信)

国葬

王室の発表によると、国葬は2022年9月19日の現地時間午前11時より、ロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われる予定。

称号および呼称

エリザベス2世はイギリスを含む16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を所有している。

イギリスにおける正式称号は次の通り。
▽Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith. (神の恩寵によるグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国ならびにその他のレルムおよび領域の女王、コモンウェルスの長、信仰の擁護者たるエリザベス2世陛下)

 「信仰の擁護者」はマルティン・ルター(Martin Luther)に反対したヘンリー8世に対し、ローマ教皇レオ10世(Leo X)から授与された称号である。

1534年の国王至上法によりイングランド国教会首長の称号となった。レルム(Realms)には君主国という意味があるが、ここでは英連邦王国を指す。

領域は王室属領および海外領土を指す。またコモンウェルス(Commonwealth)には複数の意味があるが、ここではイギリス連邦を指す。

称号および呼称の変遷

1926年4月21日~1936年12月11日
▽エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)

1936年12月11日~1947年11月20日
▽エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth)

1947年11月20日~1952年2月6日
▽エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)

1952年2月6日~1953年5月28日
▽女王陛下(Her Majesty The Queen)
▽神の恩寵によるグレートブリテン、アイルランドおよびイギリス海外自治領の女王、信仰の擁護者(By the Grace of God, of Great Britain, Ireland and the British Dominions beyond the Seas Queen, Defender of the Faith)

1953年5月28日~2022年9月8日
▽女王陛下(Her Majesty The Queen)
▽神の恩寵によるグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国およびその他のレルムと領土の女王、コモンウェルスの長、信仰の擁護者(By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith)

イギリス国内での非公式な称号

イギリスの君主は王冠と統合された爵位の潜在的な保持者である。

現在でもランカスター公領を相続し、イギリスの内閣にはランカスター公領大臣が存在する。このため関連する行事等でランカスター公という呼称が用いられることがある。

イギリス以外の称号

イギリス連邦

イギリス連邦においては独自の君主を有する国や共和国もあるが、エリザベス2世はコモンウェルスの長とされている。この称号は元首としての意味は持たないが、統合の象徴となっている。

英連邦王国

エリザベス2世はイギリス連邦に加盟する諸国のうち、彼女を元首とする国の元首であり、国王となる。

正式称号はイギリスにおける正式称号と国名が異なる程度であるが、「信仰の擁護者」についてはカナダとニュージーランドのみが採用している。

英連邦王国を構成する国はそれぞれ独自の意見を持っている主権国家であり、ときにはそれらの国が政治・経済問題で対立することもある。

エリザベス2世はこの場合対立する2つの君主であるという立場になる。ただし、いずれの国も立憲君主制国家であり、当該国の国法に定められた当該国の政治的手続きに従う必要があるため、エリザベス2世自身の政治的判断が求められることはない。

実際にイギリス以外の国の元首として公務に携わることもある。その国に滞在している場合は本人が直接行動する場合が多いが、直接本人が行動できない場合は代理人を通じて行動することもある。

公務中の地位については、カナダの公務の場合はカナダ女王、オーストラリアの公務の場合はオーストラリア女王、パプアニューギニアの公務の場合はパプアニューギニア女王というように、対象国に合わせて変化する。

このような女王の公務のあり方の実例として、過去の近代オリンピックの開会宣言を挙げることができる。近代オリンピックの開会宣言はオリンピック憲章によって「開催国の国家元首がこれを行う」と定められている。

エリザベス2世を国家元首とするイギリス連邦諸国の中ではカナダとオーストラリアとイギリスで計6回オリンピックが開催されている。このうち女王の名において行われた開会宣言は3回、本人が直接開会宣言を行ったのは2回、女王の王配フィリップが女王の名代(代理人)として開会を宣言したのが1回。それぞれイギリス女王、カナダ女王、オーストラリア女王の称号が用いられている。

その他の大会は事実上の国家元首である「総督」が開会を宣言している。

また名目上はイギリス軍、カナダ軍、ニュージーランド軍の最高司令官であり、英連邦諸国における複数の軍隊の名誉連隊長位を所持する。

1972年11月20日/イギリス、ロンドンのバッキンガム宮殿で撮影された家族写真(AP通信)

属領における称号

イギリスの王室属領はイギリス諸島内にあるがイギリス政府の統治権下にはなく、イギリスの君主が保持する別の主権によって統治されている。

マン島においては「マン島領主たる女王(Queen, Lord of Man)」 と呼ばれている。

チャンネル諸島では「ノルマンディー公たる女王(Duke of Normandy, Our Queen)」となる。

競馬との関係

近代競馬発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。

エリザベス2世も競馬の熱心なパトロンだが、ギャンブラーではない。

イギリス史上初めて、スポーツ団体に勅許を与えてジョッキークラブの決定に法的基盤を付与したのはエリザベス2世である。

この結果、200年以上にわたって先例でしかなかったジョッキークラブの裁定には法的な根拠が認められることになり、権威と権限が大幅に強化されることになった。

また、ニューマーケットに英国国立牧場を移したのもエリザベス2世である。

エリザベス2世は馬主・生産者として大きな成功を収めている。両親の名を冠したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの優勝馬オリオールのほか、4頭のクラシック競走優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる。

1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主はエリザベス2世のみ。

所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服は紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったものを使用している。

1973年9月、日本の田中角栄首相がイギリスを訪れ、エリザベス女王と会った際、角栄に「日本の人たちがイギリスのいい種馬(プリンスリーギフト系・ネヴァーセイダイ系など)をみんな買っていってしまいます。どうするつもりなのでしょう」と苦言を呈している。

しかし、馬主でもあった角栄はかつて女王の所有馬であり、日本へ輸出されたゲイタイムが2頭の日本ダービー馬を排出したことを話し、「ぜひ日本へいらしてください。東京競馬場を案内します」と言ったら大笑いとなった。

イギリスにおける牡馬・牝馬のクラシック競走のうち、ダービーステークスのみ所有馬の優勝がない。

2011年には所有馬のカールトンハウスが1番人気となり、85歳にして初のダービー制覇なるかと競馬界を超えて広くイギリス社会の注目を集めた。

女王自身もエプソム競馬場でレースを天覧したが、落鉄のアクシデントなどもあり3着に終わった。

2013年6月、英王室が主催するロイヤルアスコット開催において、所有馬のエスティメイトがゴールドカップに優勝し、馬主として36年ぶりにGIを制覇するとともに「自分自身に優勝トロフィーを授与」した。

ロイヤルアスコット開催時には毎年宮殿から馬車でアスコット競馬場へ向かうのが慣例である。

ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者はエリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。

イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、米国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、香港の「クイーンエリザベス2世カップ」など、エリザベス2世の名を冠したレースが世界各地で今も開催されている。

主な所有馬

▽オリオール(Aureole):ジョージ6世が生産し、1954年キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、コロネーションカップなどを制す。種牡馬としても1960年、1961年にイギリスの首位種牡馬となる。

▽カロッツァ(Carrozza):1957年オークス優勝。馬主としてクラシック競走初優勝。

▽アルメリア(Almeria):1957年ヨークシャーオークスなどを制す。

▽アバーヴサスピション(Above Suspicion):1959年セントジェームズパレスステークス優勝。

▽ポールモール(Pall Mall):1958年2000ギニー優勝。

▽キャニスベイ(Canisbay):1965年エクリプスステークス優勝。

▽ホープフルヴェンチャー(Hopefull Venture):1968年サンクルー大賞などを制す。オリオールの子。

▽ハイクレア(Highclere):1974年1000ギニー、ディアヌ賞(フランスオークス)優勝。日本ではディープインパクトの曽祖母として知られる。

▽ハイトオブファッション(Height of Fashion):ハイクレアの子。1981~1982年に3つの重賞を制す。ナシュワン、ネイエフなどの母。

▽ダンファームライン(Dunfermline):1977年オークス、セントレジャーステークス優勝。

▽ポートフォリオ(Portfolio)::ディープインパクト産駒。女王がハイクレアの牝系に連なる日本のディープインパクトの産駒を望み、所有馬を日本へ送って交配させた。

国民へのビデオメッセージ

祖父ジョージ5世から代々の国王がBBCラジオで放送していたクリスマスメッセージを1957年に初めてBBCテレビで生放送した。現在はBBCが事前録画し、毎年12月25日のクリスマスにBBCワールドニュースなどで、英連邦王国国外にもテレビ放送されている。

2018年12月25日朝に放送されたクリスマスメッセージのビデオでは、「私たちを分断するものより、結び付ける者のほうがたくさんある」「違う考え方を持つ人同士が互いを尊重することが大事だ」と強調した。これは当時、テリーザ・メイ政権がEUと合意したブレグジット協定を巡ってイギリス議会が紛糾していた際、国家元首として女王は政治問題については中立の立場を保っているものの、イギリスが直面する国家にとって重要な課題を意識したとされた。

また、「長寿は人を賢くすると信じる文化もあります。私もそう思いたい」と話し、イエス・キリストの誕生に触れ、「この知恵には、人生におけるやっかいな矛盾を認めることも入るかもしれません。例えば、人間には善意を求める大きな気持ちと悪意を持つ能力があります」と述べた。

さらに女王は4月に行われたイギリス連邦首脳会談に触れ、連邦の力は「愛の絆とより良い平和な世界で暮らしたいという共通の願いにあります」と話した。

そして「どれほど深刻な違いがあっても、相手を尊重し、同じ人間として接することは常に、より良い理解への有効な一歩です」と話し、「何年もの間、さまざまな変化を見てきましたが、私にとって信仰と家族と友情は、ただ不変のよりどころというだけでなく、個人的な安らぎと安心の源でした」とキリスト教への信仰心を強調した。

2019年のクリスマスメッセージのビデオでは、背景にヘンリー王子夫妻の写真が無いことが注目され、「国民や王子夫妻に対して何らかのメッセージを送っているのではないか」との憶測を呼んだ。

2020年の年明け、王子夫妻の王室離脱が発表された。

その他、エリザベス2世のイレギュラーなテレビ放送によるビデオメッセージは、1回目が1991年の湾岸戦争勃発に際して、2回目が1997年のダイアナ元王太子妃の死に際して、3回目が2002年の母エリザベス王太后の死に際して、4回目が2012年の自身の即位60周年に際してがある。

2020年4月6日、新型コロナウイルスの感染拡大局面にて、国民に慰撫と激励のメッセージを送るとともに、最前線で立ち向かう医療従事者たちに謝意を示した。

クリスマス以外にビデオメッセージを送ることは稀であり、即位後5回目の出来事であった。第二次世界大戦中に自身が初のラジオスピーチを行ったことにも触れ、メッセージの最後は当時の国民的歌謡曲、ヴェラ・リンの「We will meet again」を引用して、「より良い日は巡ってくる。また会いましょう」と締めくくった。

2018年6月26日/イギリス、ロンドンのバッキンガム宮殿、エリザベス女王とヘンリー王子夫妻(John Stillwell/Pool/AP通信)

逸話

▽2002年の即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からベントレー・ステートリムジンが公用車として進呈された。

▽愛犬家であり、少女時代に先代国王の父ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼っている。その他にレトリーバーも飼っている。国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。2012年のロンドンオリンピックの開会式のために制作された「幸福と栄光を」という短編映画でジェームズ・ボンドと共演したが、このときも愛犬たちが出演している。

▽クイーン・エリザベスというバラが即位の年である1952年に登場した。在位50年の記念の年である2002年にはジュビリー・セレブレーション、在位60年の記念の年である2012年にはロイヤル・ジュビリーというバラが贈られている。

▽1953年6月2日のウェストミンスター寺院の戴冠式に参列するため日本の皇室から昭和天皇の名代として訪英していた皇太子明仁親王を、6月6日のエプソム競馬場でのダービー観戦に誘った。

▽エリザベス2世の戴冠式に合わせてローズマリーヒュームがチキンのカレーマヨネーズ和えであるコロネーションチキンを考案した。

▽1958年を最後に、女王主催のバッキンガム宮殿舞踏会(デビュタント)が行われなくなった。そのかわりに、夏のガーデンパーティーが行われている。

▽1975年5月7日~12日に夫妻で日本を訪問した際、都内の駐日英国大使館で黒柳徹子と面会した。

▽2012年ロンドンオリンピックの開会式には住居であるバッキンガム宮殿からジェームズ・ボンドの警護を受け、ヘリコプターでオリンピックスタジアム上空まで移動し、ユニオンジャックのパラシュートで地上に降下し、貴賓席に姿を表す、という「サプライズ演出」がなされた。

▽2016年5月11日、園遊会において習近平 国家主席の訪英に際し、中国外交使節団の振る舞いが大変無礼であったと発言、さらにルーシー・ドーシー警視長に「運が悪かったですね」と労いの言葉を掛け、駐中国イギリス特命全権大使に対しても中国側の対応が「酷く失礼でした」と述べていたことがBBCの取材で明らかとなり、女王の異例の発言として注目を集めた。

エリザベス2世は普段の食事は自ら節制していたが、チョコレート好きで、特にチョコレートクッキーはあるだけ食べてしまうので、サービスする人間は注意していた。

▽1982年7月9日、酔った男が宮殿に侵入し、女王の寝室に入った。女王は電話で助けを求めたが、誤作動と見なされ、警備は来なかった。その後、なんとか席を外すことに成功し、女王は助けを求め、男は逮捕された。男は前日にも宮殿に侵入していたことが判明した。

子女

▽チャールズ3世(Charles III)

▽プリンセス・ロイヤル・アン(Anne)

▽ヨーク公爵アンドルー王子(Prince Andrew)

▽ウェセックス伯爵エドワード王子(Prince Edward)

租税回避地での資産運用

2017年11月6日、エリザベス2世の個人資産のうち約15億円がタックス・ヘイヴン(租税回避地)で運用されていたことが明らかになった。

2002年11月7日/イギリス、ロンドン、エリザベス女王(Jeremy Selwyn/Pool/AP通信)
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