目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:コソボ共和国(Republic of Kosovo)
首都:プリシュティナ(Pristina)
人口:1,847,708人(2013年推定)
面積:10,887㎢(東京都の5倍)
気候:大陸性気候
・年間平均気温は9~11℃。
・最も暖かい月は7月、平均気温は20~23℃。
・最も寒い月は1月、平均気温はマイナス2~0℃。
・年間降雨量は600~800mm、乾燥している地域が多い。
・低地の年間降雪日数は25~30日。
・高地の年間降雪日数は100日以上。
・気候は地域によって大きく異なるため、服装に注意。
経済:
・開発途上国
・旧ユーゴスラビアで最も貧しい州だった。
・GDPは80億ドル(2019年推定)
・2008年の独立以来、経済は緩やかに成長し続けている。
・ヨーロッパで最も貧しい国のひとつ。
・人口の約45%が貧困ライン以下の生活を送っている。(推定)
・人口の約17%が極めて貧しい生活を強いられている。(推定)
・主要産業はサービス。
・EU非加盟国。
・失業率は約25%。独立時から5%ほど改善した。
人種:
・アルバニア人 92.9%(2011年国勢調査)
・セルビア人 1.5%
・ボシュニャク人 1.6%
・トルコ人 1.1%
・その他
言語:
・アルバニア語 94.5%(公用語:2011年国勢調査)
・ボスニア語 1.7%
・セルビア語 1.6%(公用語)
・トルコ語 1.1%
・ロマ語 0.3%
・その他 0.7%
宗教:
・イスラム 教95.6%
・キリスト 教3.7%
・無宗教 0.6%
・その他 0.1%
コソボ共和国
政治(目次に戻る
大統領:ヴィヨサ・オスマニ(Vjosa Osmani)
首相:アブドゥッラー・ホティ(Avdullah Hoti)
政治体制:共和制
・国家元首は大統領。
・一院制。(定数:120人、任期:4年)
・複数政党制。
・議会の単独過半数獲得は極めて難しい。
・首相、副首相は議会選挙で決める。
法律:コソボ共和国の憲法
・2008年に制定された。
・司法の独立を保障している。
・裁判所は「最高、控訴、下位」の3種。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・一部地域に渡航中止情報発令中(2021年1月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年1月時点)
治安:普通
・2008年の独立以降も北部地域の民族対立は続いている。
・近年、国内でテロ事件は発生していない。
・北部地域以外の治安は比較的安定している。
・繁華街での引ったくりや置き引きに注意。
・コソボ紛争関連の地雷が設置されているエリアには近づかないこと。
・一部地域にイスラム国(IS)の戦闘員が潜伏していると伝えられている。
・流しのタクシーには乗車しない方がよい。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は数十社。
・国営テレビ局は1局。
・民間テレビ局は21局。
・ラジオ局は92局。
・検閲は禁じられている。
・報道と言論の自由を保障している。
・新聞の1日あたりの販売部数は25,000~35,000部。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は84%。(推定)
【国営メディア/設立年】
・RTK 1945年
【民間メディア】
・RTV21
・クランコソバ
・コハビジョン
・トリブナチャンネル
・その他
軍隊(目次に戻る
2020年軍事力ランキング:ー位
・軍人数:4,000人(推定)
即戦力 4,000人
予備兵 0人
・陸軍を保有(コソボ治安軍)
・国防予算:ー億ドル
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代、現在のコソボ共和国および周辺国はオスマン帝国の支配下に置かれていた。
・コソボはセルビア公国(現在のセルビアおよび周辺地域)の州のひとつに過ぎなかった。
・1766年、オスマン帝国はセルビアのペーヤ総主教区を廃止し、キリスト教徒の地位を剥奪した。
・市民の多くがキリスト教からイスラム教に改宗した。
・アルバニア人はイスラム教を受け、オスマン帝国の地方政府内における地位を確立した。
1800年代
・1876年6月、セルビア・オスマン戦争勃発。(セルビアvsオスマン帝国)
・1878年3月、セルビア・オスマン戦争終結、双方は停戦に合意した。
<セルビア・オスマン戦争>
両軍参戦者:20万~25万人(推定)
両軍負傷者:数万人(推定)
両軍死亡者:2,000~2,500人(推定)
・1878年7月、ベルリン会議。セルビア公国はオスマン帝国からの独立を認められた。
・オスマン帝国から独立したセルビア、モンテネグロ、ブルガリアに定住しているアルバニア人は困難な状況に直面した。
・セルビアはアルバニア人を国内から追放しようとした。
・アルバニア人はベルリン会議の決定を修正するために、プリズレン連盟を設立した。
・プリズレン連盟はオスマン帝国、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア内で軍事行動を開始し、領土内におけるアルバニア人の地位を確立しようとした。
1900年~第一次世界大戦
・1900年、プリズレン連盟はオスマン軍の攻撃に屈し、解散した。
・1902年、セルビア当局がプリズレン連盟の主要人物を暗殺。
・1912年、セルビアなどで生活するアルバニア人が差別的な治安維持軍の活動とオスマン帝国に抗議した。(アルバニアの反乱)
・1912年10月8日、第一次バルカン戦争勃発。(オスマン帝国、欧州諸国、欧州反乱軍の戦い)
・1912年11月28日、「アルバニア公国」がオスマン帝国からの独立を宣言。
・1913年5月30日、ロンドン条約締結、第一次バルカン戦争終結。
<第一次バルカン戦争>
参加者:300万~350万人(推定)
負傷者:50万~70万人(推定)
死亡者:30万~50万人(推定)
・第一次バルカン戦争後、現在のコソボは4つに分割された。
・1913年6月、第二次バルカン戦争勃発。(ブルガリア帝国vsセルビア他連合軍)
・1913年8月、第二次バルカン戦争終結、セルビア他連合軍の勝利。
<第二次バルカン戦争>
参加者:150万~170万人(推定)
負傷者:10万人以上(推定)
死亡者:10万~12万人(推定)
・セルビアはコソボの支配権を確立し、そこで生活するアルバニア人を虐殺した。この時代、コソボの市民の大半はアルバニア人で、セルビア人の支配は歓迎されなかった。
・アルバニア人は、コソボとアルバニアの統一のためにセルビア軍と戦った。
・1914年7月、第一次世界大戦勃発。(イギリス連合軍vsドイツ中央同盟国)
・1915~1916年、コソボはブルガリアとハンガリー帝国(中央同盟軍)に占領された。
・1918年、連合軍はコソボの領土から中央同盟国を追い出した。
・1918年11月11日、第一次世界大戦終結。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・1918年12月1日、セルビアは、「セルビア王国、クロアチア王国、スロベニア王国」に分割された。
・1918年12月1日、セルビア王国、クロアチア王国、スロベニア王国を統一する「ユーゴスラビア王国」設立。
・コソボの4つの州のうち3つはセルビア、残り1つはモンテネグロの一部に組み込まれた。
・1922年4月26日、コソボは新しい行政システムの導入に伴い、3つの郡に再編された。
・コソボで生活していたアルバニア人はセルビア人の暴力に直面し、移住を余儀なくされた。
・1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。
・1941年、ナチスドイツ連合軍がユーゴスラビア王国に侵攻。
・コソボの大部分を支配したファシストイタリアは領土をアルバニアに編入し、残りはナチスドイツとブルガリア王国の支配下に置かれた。(ユーゴスラビア王国滅亡)
・ファシストイタリアは、セルビアやコソボのセルビア人を粛正し、アルバニア人をサポートした。
・1945年9月、第二次世界大戦終結。
<第二次世界大戦:コソボ(セルビア)>
参加者:数万~数十万人(推定)
負傷者:数万~数十万人(推定)
死亡者:数万~数十万人(推定)
終戦~現在
・1946年、共産主義ユーゴスラビアがコソボをセルビアの自治区に認める。ただし、共産党指導部は避難民の帰国を許可しなかった。
・ユーゴスラビアの共産党指導部は、ファシストの支援を受けたアルバニア人に厳しい規則や制限を課した。
・1956年、指導部はコソボのアルバニア人指導者を見せしめ裁判にかけ、長期刑を言い渡した。
・1963年、共産主義ユーゴスラビアがコソボをセルビアの自治州に認める。
・1974年、共産主義ユーゴスラビアはコソボに自治権を与え、独自の行政、議会、司法を持つことを許可した。
・コソボ内におけるアルバニア人のナショナリズムの高まりに伴い、セルビア人との衝突が各地で発生した。
・1981年3月、共産主義に反対するアルバニア人たちが大規模な抗議活動を起こす。これに対しユーゴスラビアの共産党指導部は非常事態を宣言したうえでコソボに領土防衛軍を派遣し、抗議活動を力でねじ伏せた。
・共産党指導部はアルバニア人に与えた権利をすべて取り消し、粛正した。
・1980年代、コソボ国内の民族間対立は悪化し続けた。
・1989年、セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領は、コソボに与えられた自治権を大幅に減らし、国内の人口の大多数を占めるアルバニア人に対する抑圧を開始した。
・1990年7月、コソボのアルバニア人が「コソボ共和国」の独立を宣言。しかし、セルビア人はこれに反対した。
・1992年5月、大統領選挙。アルバニア人だけが投票し、イブラヒム・ルゴバが初代大統領に選出された。
・1990年代半ば、アルバニア人のゲリラグループ、コソボ解放軍(KLA)がユーゴスラビア軍とセルビア警察に対する攻撃を開始。
・1998年2月、コソボ紛争勃発。(KLAvsセルビア、モンテネグロ)
・1998年末、セルビアとユーゴスラビアは国際的な圧力に直面し、停戦に合意せざるを得なかった。
・1998年12月、停戦は維持されず、紛争の混乱はラチャクの虐殺(KLAの隊員45人が殺害された)で最高潮に達した。
・1999年3月、北大西洋条約機構(NATO)がセルビア軍に対する空爆を開始。コソボの支援に乗り出した。(国連安全保障理事会は空爆を認めず)
・紛争中にコソボから避難もしくは強制的に追い出されたアルバニア人は100万人以上と伝えられている。
・1999年6月10日、コソボ紛争終結。クマノヴォ条約が締結された。
<コソボ紛争>
参加者:10万~15万人(推定)
負傷者:数万人(推定)
死亡者:約14,000人
・1999年6月10日、国連安全保障理事会は、コソボを国連管理下に置き、NATO主導のコソボ軍(KFOR)を設立することを認めた。(決議1244)
・クマノヴォ条約により、セルビア軍はコソボから完全撤退した。また、アルバニア人難民は帰国を許可された。
・コソボ国内のセルビア人とその他の非アルバニア人の半数以上が国外追放された。
・2001年11月、欧州安全保障協力機構(OSCE)監視の下で、最初の議会選挙が行われた。(暫定自治政府設立)
・2008年2月17日、「コソボ共和国」が独立を宣言。セルビアを除くすべての近隣諸国が独立を認めた。
・2013年4月19日、ブリュッセル協定締結。コソボとセルビアの関係は正常化された。
・2020年末の時点で113の国連加盟国家がコソボの独立を認めている。(セルビア、中国、ロシアは認めず)
文化(目次に戻る
・アルバニアとセルビアの文化が混ざり合っている。
・西側の先進国の文化を積極的に取り入れている。
・料理はセルビアで提供されるものとほぼ同じ。
・ビールが大好き。
・ブラックユーモアを好む。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはサッカー、バスケットボール、バレーボール、ハンドボール、ラグビー。
・2016年のリオ大会でオリンピックデビューした。(それ以前はセルビア、ユーゴスラビア代表として出場)
・個人スポーツ(柔道、レスリング、ボクシングなど)で一定の結果を残してきた。
その他(目次に戻る
・2008年の独立以降も北部地域の民族対立(アルバニア人とセルビア人)は続いている。
・コソボ共和国とセルビアの関係は2013年のブリュッセル協定で正常化された。しかし、セルビアはコソボの独立をいまだに認めていない。