目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:ハイチ共和国(Republic of Haiti)
首都:ポルトープランス(Port au Prince)
人口:11,439,646人(2018年推定)
面積:27,750㎢(四国の1.5倍)
気候:熱帯気候
・乾期は12月~2月。
・雨季は4月~10月。
・気温は1年を通して安定している。(最低:19~24℃、最高29~32℃)
・年間降雨量は地域によって多少異なるが、おおむね1,200~1,800mm。
・内陸の高地(最高点:2,680m)の年間降水量は1,000mm以下で、乾燥している。
・ハリケーンシーズンは6月~11月。
・強烈なハリケーンが接近する時期は8月~10月。
・観光に適した時期は12月~3月。比較的涼しく過ごしやすい。
経済:
・開発途上国
・GDPは143億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と農業。
・主要輸出パートナーはアメリカ(81%)、ドミニカ(5%)、EU(4%)
・主要輸入パートナーはアメリカ(19%)、中国(19%)、EU(18%)
・主要輸出品は衣類、エッセンシャルオイル、バナナ、ココア、マンゴー、コーヒー、オレンジ。
・自然災害(ハリケーン、地震など)に悩まされている。
・慢性的な貿易赤字に悩まされている。
・貧困ライン以下の生活を送っている市民の割合は人口の約60%。
・アメリカ大陸で最も貧しい国のひとつ。
・観光業はインフラが整備されていないため、ほとんど成長していない。
人種:
・黒人 95%(2019年世界人口レビュー推定)
・その他 5%
言語:
・フランス語(公用語)
・ハイチクレオール語(公用語)
・英語
・その他
宗教:
・ローマカトリック58.7%(2018年指定)
・プロテスタント33.5%
・ブードゥー教2.1%
・その他4.6%
・無宗教1.2%
ハイチ共和国
政治(目次に戻る
大統領:ジョブネル・モイーズ(Jovenel Moïse)
首相:クロード・ジョセフ(Claude Joseph)
政治体制:共和制
・国家元首は大統領、任期は5年、2期連続は不可で1回再選可能。
・二院制。
・上院の議員定数は30人、任期は6年。
・下院の議員定数は119人、任期は4年。
・選挙に参加する有権者は人口の15%ほどで、投票率の低さが問題になっている。
・世界で最も腐敗した国のひとつと考えられている。
・1991年の軍事クーデター以来、経済は低空飛行を続けている。
・民主的な選挙を行っていると信じられているが、集計作業に疑問を投げかける専門家も多い。
法律:ハイチ共和国の憲法
・アメリカとフランスの憲法をモデルにしている。
・司法の独立を保障しているが、大半の市民は公平な裁判にアクセスできない。
・裁判なしで投獄されることが多々ある。
・囚人の人権を保障しているが、拷問、虐待、常軌を逸した取り調べが横行している。
・女性や子供に対する虐待やレイプが常態化しており、取り締まりもほとんど行われていない。
・政府は女性省を創設したが、女性の権利はほとんど改善されていない。
・子供たちは慢性的な飢餓、虐待、過酷な労働に苦しめられている。
・人身売買が横行している。ユニセフによると、1年間で売買される子供の数は2,000~3,000人にのぼるという。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・渡航中止勧告発令中(2021年5月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年5月時点)
治安:悪い
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・イスラムジハード組織や反政府勢力の活動は報告されていない。
・強殺、殺人、強盗、誘拐などの凶悪事件は継続して発生している。
・ギャングや麻薬密売組織が各地で活動している。
・スラム街やギャングの拠点になっているため、近づかないこと。
・流しのタクシーには乗車しない。
・強盗、窃盗、スリ、置き引きに注意。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・ギャング間の抗争が発生していると伝えられているエリア周辺には近づかない。
・夜は出歩かない方がよい。
・盛り場や売春エリアには近づかない方がよい。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は3社活動していると信じられている。
・国営テレビ局は2社。
・民間テレビ局は20局ほど活動している。
・民間ラジオ局は違法なものを含めると300局以上あると伝えられている。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に批判的なジャーナリストは拷問や虐待に直面する。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネットの普及率は10~15%。
・民間メディアの経営状況は極めて厳しく、技術者やジャーナリストはほぼ無給で働いている。
・違法な取材を試みるジャーナリストが多々おり、ひどい者は傭兵になることもある。
・検閲はないと信じられている。
・識字率の低さがメディアの成長を大きく妨げている。
【国営メディア/設立年】
・ハイチテレビ 1960年
・Télévision Nationaled' Haïti(TNH) 1979年
【民間メディア】
・Tele Caraibes
・NagoTV
・Tele Superstar
・その他
軍隊(目次に戻る
2021年軍事力ランキング:ー位
・軍人数:0人(推定)
即戦力 0人
予備兵 0人
準軍組織 14,000人
・軍隊は1995年に解散した。
・国内と国境の警備にはハイチ国家警察があたっている。
・国防予算:2億ドル(推定)
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代、現在のハイチ共和国はフランスの植民地下に置かれていた。
・1711年、フランス語が公用語に指定される。
・1749年、フランスの自治政府は首都の名をポルトープランスに変更したうえで、西海岸に新たな町を建設した。
・1751年11月、ポルトープランスを震源とするM8.0の巨大地震が発生。死傷者数は不明。
・1767年、ハイチの貿易は順調に成長し、フランス自治政府は砂糖、藍、綿花などで大きな利益を上げた。
・1770年、首都を都市カパイシアンからポルトーフランスに正式に移転。
・1770年6月、ポルトープランスでM7.5の巨大地震が発生し、200人以上が死亡した。また、地震後の飢餓と疫病の流行で少なくとも3万人が死亡したと伝えられている。
・1780年代、ハイチはヨーロッパで消費される砂糖の約40%とコーヒーの60%を生産した。
・1780年代後半、ハイチに輸出された奴隷は大西洋奴隷貿易の約3分の1に達した。国内の農園に輸出されたアフリカの奴隷は約80万人ほどと推定されている。
・1789年、フランス革命の影響がハイチに広がり、各地で独立を求める暴動が発生した。
・1791年8月、フランスからの独立を求める暴動は戦争に発展し、アフリカ系ハイチ人で構成される革命軍はフランス自治政府に宣戦布告した。(ハイチ革命)
・1791年9月、反政府勢力と革命軍は南部の奴隷約13,000人を開放し、フランスの農園を焼き払ったうえで、主要都市のレオガンを占領した。
・1792年、フランス立法議会の委員は反政府勢力と同盟を結ぼうとしたが、革命軍はこの要求を拒否し、戦争を続けると宣言した。
・1793年8月、革命軍は北部州の全奴隷の解放と自由を宣言した。
・1793年10月、革命軍はハイチ全土の奴隷の解放と自由を宣言した。
・1794年2月4日、フランスは全ての植民地の法律から奴隷制を削除した。
・1794年6月、フランスの入植者たちはイギリス軍の力を借りて革命軍と戦ったが、戦況はほぼ互角だったと伝えられている。
・1794年10月、フランス・イギリス連合軍は主要都市レオガンを取り戻した。
・1798年、イギリス軍は革命軍の激しい抵抗に屈し、ハイチから撤退した。この時、ハイチの独立を支持するアメリカ軍がイギリス軍に襲いかかり、輸送船団を打ち砕いた。
1800年代
・1803年11月、革命軍はヴェルティエールの戦いでフランス軍を圧倒し、独立を事実上成功させた。
・1804年1月1日、「ハイチ帝国」がフランスからの独立を宣言。革命軍を率いたジャン=ジャック・デサリンは「生命の皇帝」の称号を得た。
・1804年2月、ジャック1世は国内の白人男性、女性、子供を処刑するよう軍に命じた。一連の虐殺は4月まで続き、3,000~5,000人の白人が処刑されたと伝えられている。
・ジャック1世は労働者に賃金を提供する新しい農園システムを採用したが、大多数のハイチ人はシステムに組み込まれず、王朝の強引なやり方に憤慨した。
・1806年10月17日、反政府勢力との戦闘を指揮していたジャック1世が暗殺される。暗殺の詳細は明らかにされていない。
・1806年11月、ジャック1世の暗殺に関わったとされる2人の首謀者が政権を2つに分割し、北部は「ハイチ王国」、南部は「ハイチ共和国」と名乗った。
・1809年、東部イスパニューラ島を支配していたフランス軍はフアン・サンチェス・ラミレス率いる反乱軍に敗北し、島の支配権をスペインに明け渡した。
・1821年11月30日、スペイン領ハイチが独立を宣言。
・1821年12月、スペイン領ハイチに侵攻したハイチ共和国はスペイン軍を国外に追放し、「統一ハイチ共和国」の設立を宣言した。
・1825年7月、フランスのシャルル10世はハイチを再征服を目指し、艦隊を派遣した。
・1826年4月17日、フランスはハイチ政府との取引に応じて主権を放棄し、ハイチの独立が正式に認められた。
・1830年代、6,000人以上のアフリカ系アメリカ人がハイチに移住した。
・1833年、イギリスがハイチの独立を承認。
・1844年2月、東部イスパニューラ島の国民党ドミニカ軍が島を占領。島のハイチ軍は国民党ドミニカ軍に屈し、島の権利を明け渡した。
・1844年3月、ハイチ軍はイスパニューラ島の奪取を試みたが、国民党ドミニカ軍に打ちのめされ、兵士数百人が死亡した。
・1846年、イスパニューラ島のハイチ勢力が反乱を起こし、国民党ドミニカ軍を国外に追放し、統一ハイチ共和国の復活を宣言した。
・1849年3月、ハイチ軍は隣国ドミニカのラスマタス駐屯地に攻撃を仕掛け、占領した。
・1849年4月、ハイチ軍はドミニカの都市アスアに兵士18,000人を派遣し、ドミニカ軍を打ち負かした。しかし、首都ポルトープランスで侵略に反対する暴動が発生し、軍はドミニカ侵略の中止を宣言した。
・1855年、ハイチ軍は再びドミニカに侵攻したが、イギリスとフランスの仲介による停戦協定に合意させられた。
・1856年、ドミニカ共和国が独立を宣言。
・1858年12月、ハイチ共和国のファーブル・ジェフラール将軍がハイチ王国に侵攻。王国軍を打ち負かし、ドミニカを除く全土を支配した。
・1859年1月、ハイチ王国の皇帝が王位を放棄。ジェフラール将軍が統一ハイチ共和国の大統領に就任した。
・1860年、ジェフラール大統領はローマカトリックの取り扱いに関するバチカンとの協議に合意し、ハイチにローマカトリックの機関を設置した。
・1862年、アメリカがハイチの独立を承認。
・1867年、軍事クーデター発生。ジェフラール大統領は国外に追放され、シルヴァン・サルナーブ将軍が大統領に就任した。
・1870年1月15日、サルナーブ大統領は軍事クーデターを主導した国家反逆罪に問われ、処刑された。
・1870年3月19日、議会はニサージュ・サゲットを大統領に指名した。
・1874年、議会がミシェル・ドミングを大統領に指名。サゲット大統領は政権交代に応じ、引退した。
・ドミング大統領は民主的な憲法を公布し、ハイチの発展と平和に大きく貢献した。
・1879年、リシウス・サロモンが大統領に就任。この年、フランスへの債務の返済がようやく完了した。
・1867年に公布された新憲法は、ハイチの経済と国民の生活を改善した。また、政府は市民の信仰を回復させ、首都ポルトープランス近郊の砂糖とラム酒産業は大きく発展した。これらの取り組みにより、ハイチはラテンアメリカ諸国の経済成長のモデルになった。
1900年~第一次世界大戦
・ハイチは第一次世界大戦に関与していない。
・1911年、北部の山岳エリアで活動していた革命軍が政府軍を打倒し、新政権の発足を宣言した。
・1911年、アメリカはハイチ国内で勢力を拡大していたドイツ人コミュニティに懸念を抱いていた。この時、国内で活動していた200人ほどのドイツ人はハイチの国際商取引の約80%を支配し、首都ポルトープランスの埠頭、電車、クル=ド=サック平原の鉄道、その他の公益事業を運営していた。
・1911年~1912年、米国務省は、国立ハイチ銀行の支配権を獲得するために、ニューヨーク国立都市銀行によって結成された投資家グループを支援した。
・1915年、ヴィルブルン・ギヨーム・サムが軍事独裁政権の樹立を宣言。
・1915年7月27日、ギヨーム・サム大統領はポルトープランスに収容されていた前大統領を含む政治犯167人を処刑するよう命じた。
・1915年7月28日、軍事独裁政権に反対する市民ゲリラ団体が政府軍に襲いかかり、ギヨーム・サム大統領はフランス大使館に逃亡したうえで亡命すると宣言した。しかし、ゲリラ団体は大使館を破壊し、ギヨーム・サム大統領を公開処刑した。
・1915年7月28日、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は、ハイチの混乱がドイツの侵略を引き起こす可能性があると主張し、米軍に首都ポルトープランスを占領するよう命じた。
・1915年7月28日、米軍が首都ポルトープランスを占領。これにより、ハイチ共和国はアメリカの支配下に置かれることになった。
・1915年8月、アメリカ政府はハイチ議会を解散させ、全国民を米軍の管理下に置くと宣言した。その後、ウィルソン政権の海軍次官、フランクリン・D・ルーズベルトらによって起草された新憲法が公布され、ハイチの法律の最も重要な要素のひとつである土地の外国人所有の禁止が廃止された。
・米軍の指揮下に置かれた新しいハイチ議会は新憲法を拒否し、独自の憲法を起草したが、アメリカはこれを却下した。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・ハイチは第二次世界大戦に関与していない。
・1919年、ハイチ議会が起草した憲法の是非を問う国民投票が行われ、人口の約5%が投票し、憲法公布が決まった。アメリカ議会は国民投票の結果を支持したが、「国民の大多数は憲法を理解しておらず、無知は国家を衰退させる」と皮肉めいた声明を発表した。
・1919年10月、シャルルマーニュ・ペラルテ率いる革命軍が米軍に宣戦布告。侵略者を海に追い込み、ハイチを開放すると宣言した。(カコ・インティファーダ)
・1919年10月、革命軍は首都ポルトープランスに攻撃を仕掛けたが、米軍の猛攻に圧倒され、あっさり追い返された。その後、現地の言葉を使いこなす米軍の将校2人と米海兵隊員が革命軍に潜入し、リーダーのペラルテの暗殺に成功した。
・1921年、米国上院は一連のインティファーダでハイチ人2,250人が殺害されたと報告し、その後死亡者数を3,250人に訂正した。ハイチの専門家は、米軍に殺害された革命軍関係者と市民は15,000人を超えると考えている。
・1922年、アメリカは弁護士のルイ・ボルノを大統領に任命し、国を統治するよう命じた。
・ボルノ政権は、経済の拡大を監督し、1,600 kmを超える道路を建設し、自動電話交換システムを確立し、港湾施設を近代化し、市民に公衆衛生サービスを提供した。
・1929年12月、世界恐慌はハイチの経済システムを破壊し、多くの市民が職を失い路頭に迷った。
・1930年、米軍が撤退任務を開始。
・1930年、初の民主的な大統領選挙が行われ、ステニオ・ビンセントが大統領に就任した。
・1934年8月1日、米軍の撤退が完了。これにより、ハイチ共和国はアメリカから独立した。
・1935年、大統領の権力を強化する新憲法の是非を問う国民投票が行われ、賛成多数で承認された。結果、ビンセント大統領は立法と司法を自由に再編できる権利と、21人の上院議員のうち10人を任命できる権限を獲得した。
・1937年、ドミニカの独裁者、ラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリーナはイスパニューラ島全土の支配を目論み、軍事政権に反対する島民をひとり残さず処刑するよう命じた。
・1937年12月、ドミニカの独裁者と通じるハイチ軍の将校が軍事クーデターを決行するも失敗に終わり、ビンセント大統領は軍隊を解散させた。
・1941年、3期目を目指していたビンセント大統領はアメリカのルーズベルト政権に配慮し、権力をエリ・レスコーに譲った。
終戦~現在
・1946年1月、レスコー大統領が社会主義者のジャーナリストを投獄。これに反対する公務員や教師らがストライキと抗議を開始し、首都ポルトープランスは大混乱に陥った。
・1946年1月11日、軍の幹部3人が軍事クーデターを宣言。レスコー大統領は辞任に追いやられた。
・1946年5月、軍の幹部3人は議会議員を選出し、8月に民主的な大統領選挙を行うと発表した。
・1946年8月、大統領選挙。決選投票の末、穏健派の民間人議員、デュマルセ・エスティメが勝利した。
・エスティメ大統領は反エリート主義者であり、市民の福祉に重点を置き、学校制度を拡大し、地方の協同組合の設立を奨励し、公務員の給与を引き上げ、公共部門の中流階級と下層階級の黒人の代表を増やした。
・1950年5月、軍事クーデター発生。エスティメ大統領はアメリカに亡命し、ポール・マグロワール将軍が暫定大統領に就任した。
・1950年6月、マグロワール暫定大統領は最初の直接選挙(21歳以上のすべての男性が投票を許可された)を1950年10月8日に行うと発表し、軍事政権を解散させ、大統領候補に立候補した。
・1950年10月8日、大統領選挙。マグロワール将軍が勝利した。
・1950年代、マグロワール政権の崩壊から新たな選挙が行われるまでの間、ハイツの経済と生活は混沌とし、期間中、3人が暫定大統領に就任した。
・1957年、大統領選挙。フランソワ・デュバリエが勝利した。
・1958年、軍事クーデターが発生するも、デュバリエ政権はこれを打ち負かした。
・デュバリエ大統領は独裁体制を確立したうえで、政敵に対する暴力とブードゥー教の信仰を強制し、市民に恐怖を植え付けた。
・1960年代、デュバリエ大統領直轄の準軍事組織、国家安全保障ボランティア(VSN)は、ブードゥー教の怪物と恐れられ、殺人、殴打、脅迫を推進した。記録によると、推定3万人のハイチ人がVSNに殺害されたという。
・1971年4月、デュバリエ大統領死す。これを受け、19歳のジャン=クロードデュバリエが新大統領に就任した。
・クロードデュバリエ大統領は前政権の独裁的な法律や規則の一部を廃止し、諸外国の経済支援を受けることに成功した。
・1980年代初頭、ハイチ全員でエイズが蔓延し、政府に対する不満が急速に高まった。
・1983年、ハイチを訪れた教皇ヨハネパウロ2世が政権を非難し、反政府勢力の反乱が始まった。
・1986年2月、軍はクロードデュバリエ大統領を辞任させ、亡命を許可した。
・1987年、新憲法公布。二院制、直接投票による大統領の選出、首相、内閣、大臣、および最高裁判所判事の任命などが規定された。
・1987年11月、アメリカのカーター政権は大統領選挙に関連する軍の虐殺(選挙活動に参加した300人が射殺された)を受け、選挙結果を却下した。
・1988年、大統領選挙。レスリー・マニガット教授が大統領に就任したが、3か月後、軍に追放された。なお、選挙の投票率は約4%だった。
・1990年12月、大統領選挙。ローマカトリックの司祭、ジャン・ベルトラン・アリスティドが勝利した。
・1991年9月、軍事クーデター発生、アリスティド大統領は亡命を余儀なくされ、ラウル・セドラ将軍が大統領に就任した。
・1991年~1994年、セドラ政権は反抗的な野党勢力や市民を3,000~5,000人殺害したと伝えられている。
・1993年2月16日、フェリーネプチューンが沈没し、乗客約700人が死亡した。
・1995年6月、ハイチ総選挙に出馬したアリスティド元大統領の政党が大勝利を収めた。これにより、アリスティド元大統領は大統領に復帰した。
・カナダの警察は、マネーロンダリングの罪でアリスティド大統領の警備責任者であり、最も信頼できる友人の1人であるオリエルジャンを逮捕した。オリエンジャルは悪名高い国際的な麻薬密売人であり、アリスティド大統領の娘の名付け親だった。
・2004年1月、アリスティド政権に反対する抗議が首都ポルトープランスで激化し、数人の死者を出した。
・2004年2月29日、反乱組織の一団が首都ポルトープランスで大規模な抗議を決行。アリスティド大統領は国外に逃亡した。
・2004年6月1日、ブラジルの主導する平和維持ミッションがハイチに派遣された。参加国はアルゼンチン、チリ、ヨルダン、モロッコ、ネパール、ペルー、フィリピン、スペイン、スリランカ、ウルグアイ。兵力は約7,000人。
・2005年10月、ブラジルはハイチの情勢は悪化していると主張し、関係諸国により多くの軍隊を派遣するよう要請した。
・2006年2月、大統領選挙。貧しい人々から強い支持を得たルネ・プレヴァルが勝利した。
・2010年1月12日、M7.0の地震が発生し、首都ポルトープランスを含む各都市は壊滅的な被害を受けた。死亡者数は30万人以上と推定されているが、正確な数は不明。
・地震により、推定100万人が住居を失い、数十万人が飢餓に直面し、町は荒廃し、大統領官邸を含むほとんどの建物が崩壊した。政府は莫大な数の死者の埋葬に追われ、遺体は身元不明のまま埋められ、記録もほとんど取られていなかったため、遺族は故人を特定することができなかった。さらに、町の荒廃は感染症などの二次災害を引き起こし、壊疽、栄養失調などで推定数千人の生存者が死亡した。
・2016年、大統領選挙。ジョブネル・モイーズが勝利した。
・2021年2月、モイーズ大統領は大統領の連続任期の禁止を廃止する国民投票の実施を要求し、大規模な抗議活動を引き起こした。抗議者たちはモイーズ大統領の任期は2021年2月7日に終了したと主張し、辞任を求めている。しかし、モイーズ大統領は1年任期を延長すると主張した。
・2021年7月7日:ジョブネル・モイーズ大統領が暗殺される。
文化(目次に戻る
・フランス、アフリカ、キリスト教の影響を強く受けている。
・アメリカの文化はあまり浸透していない。
・最も有名な歴史遺産は、1982年に世界遺産に登録されたサンスーシ宮殿とシタデルラフェリエール。
・カーニバル文化が浸透している。
・ハイチ料理はフランス料理とカリブ海料理をミックスしたようなものが多い。
・主食は米とパン。主菜はジャガイモ、トウモロコシ、肉全般、豆、オオバコ、魚介類全般、チーズなど。
・トロピカルフルーツ(パイナップル、ココナッツ、マンゴーなど)を使った料理や飲み物が多い。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツはサッカー、バスケットボール、陸上競技、ボクシング。
・国内で活動する数百のサッカーチームが地元の大会で競い合っている。
・国内にプロスポーツリーグはない。
・国内唯一の多目的スタジアム、スタッド・シルヴィオ・ケイターは観客を約3万人収容できる。
・オリンピックでの獲得メダル数は2個(銀:1個、銅:1個)
・最後に五輪でメダルを獲得したのは、1928年のアムステルダム大会。
・冬季オリンピックに出場したことはない。
その他(目次に戻る
・アメリカ大陸で最も貧しい国のひとつ。
・2010年のハイチ地震で甚大な被害を受けた。