ボスニア・ヘルツェゴビナ/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)

首都:サラエボ(Sarajevo)

人口:3,835,586人(2021年推定)

面積:51,129㎢(北海道の0.6倍)

気候:地中海性気候
・海岸線は非常に短く、長さは約7kmほど。その他の地域からアドリア海までの距離はわずか数kmだが、海岸は全てクロアチアの領土。
・年間降水量は地域によって多少異なるが、おおむね1,000~1,500mm。
・アドリア海に近い南部モスタルの夏場の平均気温は最低が16~19℃、最高は28~31℃。
・南部モスタルの冬場の平均気温は最低が2~7℃、最高は8~15℃。
・首都サラエボの夏場の平均気温は最低が11~13℃、最高は23~26℃。

・首都サラエボの冬場の平均気温は最低がマイナス4~2℃、最高は3~10℃。
・最高峰はモンテネグロとの国境に位置するマグリック山脈で標高2,386m。
・観光に最適な時期は6月~9月。
・夏場でも朝方はかなり涼しいため、観光の際は防寒対策をお忘れなく。

経済:
・開発途上国
GDPは194億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と製造業。
・主要輸出パートナーはドイツ(14%)、イタリア(12%)、クロアチア(11%)
・主要輸入パートナーはクロアチア(15%)、セルビア(14%)、ドイツ(10%)

・主要輸出品は電化製品、チャイルドシート、加工木材、アルミニウム、家具など。

・若者の高失業率が社会問題になっている。(2019年:33.8%)
・1995年に終結したボスニア戦争は経済とインフラに深刻な影響を与えた。
・首都サラエボのサービス業(特に観光業)は強力で、国の経済を支えている。
・1995年~2020年の間の観光産業の成長率は世界トップクラス。
・北部プリイェドルの近くにあるサニチャニ湖は、南ヨーロッパ最大の商業養殖湖のひとつ。

人種(民族)
・ボシュニャク人 50.1%(2013年国勢調査)
・セルビア人 30.8% 
・クロアチア人 15.4%
・その他 2.7%
・不明 1.0%

言語:
・ボスニア語 52.86%(2013年国勢調査)
・セルビア語 30.76% 
・クロアチア語 14.6%
・その他 1.57%
・不明 0.21%

宗教:
・イスラム教 50.7%(2013年国勢調査)
・東方正教会 30.7%
・カトリック 15.2%
・その他 1.2%
・無宗教 0.7%
・興味がない 0.3%
・不明 0.9%
・未回答 0.2%

ボスニア・ヘルツェゴビナ

政治(目次に戻る

上級代表:ヴァレンティン・インツコ(Željko Komšić)
議長:ジェリコ・コムシッチ(Valentin Inzko)

政治体制:議院内閣制
・連合を形成するスルプスカ共和国には独自の政府と大統領がいる。
・国家元首は上級代表。
・上級代表はEU諸国の政治家が務める。

・民族院(上院)の議員定数は15人、任期は2年。
・衆議院(下院)の議員定数は42人、任期は4年。
・大統領に相当する議長は、4年の任期内で8か月ごとに3人のメンバー(ボスニア人、セルビア人、クロアチア人)で交代しながら務める。
・ボスニア・ヘルツェゴビナの有権者はボスニア人とクロアチア人議員を選出し、スルプスカ共和国の有権者はセルビア人議員を選出する。
・主要政党は人種によって異なるが、リベラル派が圧倒的に強い。

法律:ボスニア・ヘルツェゴビナの憲法
・基本的人権と司法の独立を保障している。
・ボスニア戦争終結時に締結されたデイトン平和協定の影響でとてもややこしい憲法が完成した。 
・2020年の時点で、約97,000
人がボスニア戦争の国内避難民に指定されている。
・ボスニア戦争中に国外避難民になったボスニア人の約58%はまだ帰国できていない。
・同性愛者同士の性行為は合法だが、同性結婚は認められていない。
・トランスジェンダーは法的に性別を変更することを許可されている。

渡航情報(目次に戻る

渡航情報:
外務省ホームページ
・注意情報発令中(2021年7月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年7月時点)

治安:悪い
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・反政府勢力やイスラムジハード組織の活動は報告されていない。
・スルプスカ共和国との国境の一部地域には地雷が残っているため、注意が必要。
・銃火器が市場に大量に流通しており、誰が武装しているか分からない。
・流しのタクシーには乗車しないこと。無許可タクシーは特に危険。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・地元でスラム街と呼ばれている地域には近づかないこと。
・犯罪発生率は年々減少しているが、それでも年間の殺人事件数は100件を超えている。
・首都サラエボの治安は比較的安定しているが油断は禁物。
・強盗、スリ、引ったくり、置き引きに注意。
・ギャングの抗争や何かしらの抗議デモが確認された時は外出を控える。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/モスタル

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は少なくとも8社あると伝えられている。
・主要国営テレビ局は3社。
・民間テレビ局は200局以上。
・主要国営ラジオ局は4社。
・民間ラジオ局は200局以上。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に批判的なジャーナリストは稀に嫌がらせを受ける。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は80~85%。
・検閲はない。
・テレビ局とラジオ局は飽和状態。

【国営メディア/設立年】
・BHRT 1945年
・RTVFBiH 2001年
・RTRS 1992年

【民間メディア】
・NovaBH
・HayatTV
・アルジャジーラバルカンス
・その他多数

軍隊(目次に戻る

2021年軍事力ランキング:121位

・軍人数:10,500人(推定)
  即戦力 10,500人
  予備兵 0人
  準軍組織 0人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:2億ドル(推定)

ボスニア・ヘルツェゴビナ/国内避難民

歴史(目次に戻る

1700年代

・1700年代、現在のボスニア・ヘルツェゴビナを含む周辺地域はオスマン帝国の支配下に置かれていた。

・ボスニア・ヘルツェゴビナの人口構成はオスマン帝国の影響を強く受けた。ネイティブのスラブ語を話すイスラム教徒のコミュニティが出現し、最終的には最大のイスラム民族コミュニティになった。

1800年代

・1830年代:オスマン帝国の統治に反対する反乱が各地で発生した。

・1875年:不作とオスマン帝国への敵意がヘルツェゴビナ反乱を引き起こし、農民は武器を手に取った。紛争は全国に広がり、いくつかのバルカン諸国と大国が関与し、その後、オスマン帝国は最終的にオーストリア・ハンガリー帝国を通じてボスニア・ヘルツェゴビナの行政を譲り渡すことになった。

・1878年:オーストリア・ハンガリー帝国はベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴビナの占領と管理を許可された。

・ボスニア人はオーストリア・ハンガリー帝国に併合されることに合意したが、緊張は残り、一部のボスニア人が国外に大量避難した。しかし、治安はすぐに安定し、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを「モデル植民地」にすべく、多くの社会および行政改革に着手した。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/子供たち

1900年~第一次世界大戦

・1903年5月:セルビアでクーデターが発生。結果、セルビア王国を統治していたオブレノビッチ王朝は消滅した。

・1908年10月:オーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合。

・1909年3月:国際社会はにオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ併合を批判したが、ロシアの暫定政府とセルビアは併合を受け入れることを余儀なくされた。

・1910年:ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフは、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の憲法を施行した。これにより、以前の法律は緩和され、ボスニア議会と新政府が発足した。

・1914年6月28日:ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人学生ガヴリロ・プリンチプが、サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の大公フランツ・フェルディナンドを暗殺する。

・オーストリア・ハンガリー帝国は、反セルビア人抑圧政策において重要な役割を果たしたシュッツコルプと呼ばれる補助民兵組織を設立した。

・主にイスラム教徒で構成されるシュッツコルプは、セルビア人反政府勢力を追い詰める任務を担い、特にセルビア人が住む東部地域の弾圧に力を入れた。その後、オーストリア・ハンガリー当局の手続きにより、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人約5,500人が逮捕され、460人が処刑され、推定700~2,200人が刑務所で死亡した。また、約5,200のセルビア人家族がボスニア・ヘルツェゴビナから追放された。

・1914年7月:第一次世界大戦勃発。

・1918年11月:第一次世界大戦戦終結。オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土はセルビア王国、クロアチア王国、スロベネス王国の一部になった。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1918年12月1日:ベオグラードでユーゴスラビア王国(セルビア王国、クロアチア王国、スロベネス王国)の設立が宣言される。

・1939年9月:第二次世界大戦勃発。

・1941年4月:ナチスドイツがユーゴスラビアに侵攻。

・1941年:ボスニア・ヘルツェゴビナはナチス派のクロアチア政府に併合され、何千ものセルビア人、ユダヤ人、ジプシーが強制収容所で処刑された。

・ボスニア・ヘルツェゴビナに住むセルビア人の約6人に1人が虐殺の犠牲者であり、ほぼすべてのセルビア人家族が戦争で何かしらの被害を受けた。この経験は、クロアチアとボスニアのセルビア人の記憶に大きな影響を与えたと伝えられている。記録によると、第二次世界大戦中にボスニア・ヘルツェゴビナの領土で死亡したセルビア人は20万人以上、人口の16.9%に達した。

・1943年11月:ユーゴスラビアの反ファシスト評議会は、ユーゴスラビア王国内にボスニア・ヘルツェゴビナを共和国として再建した。

1945年4月6日:ボスニア・ヘルツェゴビナのパルチザンはナチス勢力を打倒した。

・1945年9月:第二次世界大戦終結。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/ボスニア戦争

終戦~現在

・1945年11月29日:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴSFR)が新国家の設立を宣言。ボスニア・ヘルツェゴビナも連邦の一部になった。

・1946年:ユーゴSFRが新憲法を施行。これにより、ボスニア・ヘルツェゴビナは公式に連邦の州のひとつになった。

・1950年代~1960年代:ボスニア・ヘルツェゴビナの政治はユーゴスラビアとは明らかに異なり、民族主義に傾倒した。

・1970年代:民族主義を推進するリーダーシップとユーゴスラビアの外交団に仕えるボスニア人の一部に支えられ、強力な政治エリートが誕生した。ドズマル・ビジェディックやブランコ・ミクリックなどはボスニア・ヘルツェゴビナの主権の強化と保護を目指した。

・1984年2月:ユーゴSFRのボスニア・ヘルツェゴビナがサラエボ冬季五輪を主催。

・1991年初頭:ユーゴSFRで進行中の社会主義崩壊について協議するために、6つのユーゴスラビア共和国の指導者と2つの自治区指導者が集まった。セルビア人指導部はユーゴSFRの解決案を支持したが、クロアチアとスロベニア指導部は各国の主権の確立を支持した。ボスニアの指導者アリヤ・イゼトベゴビッチは2月にユーゴSFRとの連合結成を提案し、スロベニアとクロアチアは残りの4つの共和国との関係を維持することになった。

・1991年6月25日:スロベニアとクロアチアがユーゴSFRから独立。

・1991年8月:欧州経済共同体(EC)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの戦争回避を目指す会議を主催した。

・1991年9月25日:国連安全保障理事会は決議713を可決し、旧ユーゴスラビア領土すべてに武器禁輸制裁を科した。この禁輸措置はボスニア戦争の開始時にボスニア・ヘルツェゴビナに大きな影響を与えた。一方、セルビア軍はJNAの兵器と装備を継承し、クロアチア軍は禁輸措置に違反して武器を入手した。

・1990年11月:ボスニア・ヘルツェゴビナ全土で複数政党制の議会選挙が行われた。結果、3つの民族政党による連立連立が共産党から政権を奪取した。

・1991年10月24日:ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナ議会を設立した。

・1991年11月18日:ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア民主党(HDZ)は、「ヘルツェグ・ボスニアのクロアチア共同体」の設立を宣言した。

・1992年1月9日:ボスニア・ヘルツェゴビナの領土の一部に「セルビア共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ」が誕生。その後、同国は国名をスルプスカ共和国に変更した。

・1992年2月29日と3月1日:ボスニア・ヘルツェゴビナの独立の是非を問う国民投票が行われ、セルビア人の大多数はボイコットした。

・1992年3月3日:ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴSFRから独立。

・ボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言後、スルプスカ共和国の民兵が各地に動員された。この時ボスニア・ヘルツェゴビナ軍に十分な装備はなく、戦争への準備はできていなかった。

・1992年4月6日:ボスニア戦争勃発。(ボスニア・クロアチアvsスルプスカ共和国)

・ボスニア戦争は3つの派閥で主に構成された。
1.ボスニア・ヘルツェゴビナに忠誠を誓うボシュニャク人組織。
2.ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア共和国に忠誠を誓うクロアチア人組織。
3.スルプスカ共和国とユーゴSFRに忠誠を誓うセルビア人組織。

・1992年6月:難民と国内避難民の数は260万人に達した。

・1992年8月12日:「セルビア共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ」が国名をスルプスカ共和国に正式に変更。

・1992年10月18日:クロアチア・ボスニア戦争勃発。(クロアチア人組織vsボシュニャク人組織)

・1993年2月22日:国連安全保障理事会は「国際人道法に違反した責任者を起訴するために国際法廷を設立する」決議808を可決した。

・1993年3月31日:国連安全保障理事会は決議816を発動し、加盟国にボスニア・ヘルツェゴビナ上空を飛行禁止区域に定めるよう命じた。

・1993年4月12日:北大西洋条約機構(NATO)は飛行禁止区域を設定するための作戦を開始した。

・1993年5月25日:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)は、国連安全保障理事会決議827によって正式に承認された。

・1994年2月23日:クロアチア・ボスニア戦争終結。

・1994年3月18日:クロアチア・ボスニア戦争の統治者がワシントン合意に署名。この合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が設立され、セルビア人に対する統合作戦が始まり、軍事バランスは劇的に変化し、ボスニア戦争は終結に向かった。

・1995年7月11日~7月22日:ボシュニャク人の男性と少年8,300人以上が処刑される。(スレブレニツァ虐殺)

・1995年11月21日:戦争統治者がデイトン合意に署名。

・1995年12月14日:ボスニア戦争終結。デイトン合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナは二つの共和国に分割された。戦争当事者は平和と、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を単一の主権国家とすることに合意した。

<ボスニア戦争>
・両軍参加者:25万~30万人(推定)
・両軍負傷者:15万~20万人(推定)
・両軍死亡者:40,000~45,000人(推定)
・民間人死亡者:10万~11万人(推定)

・1995年12月14日:スウェーデンのカール・ビルトが初代上級代表に就任。

・1996年:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)がオランダハーグでの活動を開始。

・1997年6月:スペインのカルロス・ウェステンドルプが上級代表に就任。

・1999年8月:オーストリアのヴォルフガング・ペトリッチが上級代表に就任。

・2000年:議会選挙。穏健党はクロアチア人勢力で優位に立つが、セルビア人勢力では民族主義政党が勝利した。結果、セルビア人の民族主義政党は、穏健なムラデン・イヴァニック首相率いる連立政権に加わることを余儀なくされた。

・2001年8月:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)は、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人、ラディスラヴ・クルスティッチがスレブレニツァ虐殺で主導的な役割を果たしたと裁定した。判事はクルスティッチに懲役46年を言い渡した。

・2002年5月:イギリスのパディ・アッシュダウンが上級代表に就任。

・2002年10月:議会選挙。民族主義政党が勝利し、議長、議会、地方議会の権力を取り戻した。

・2004年12月:北大西洋条約機構(NATO)はボスニア・ヘルツェゴビナの平和維持任務をEU主導の部隊に引き渡した。

・2006年2月:ドイツのクリスチャン・シュワルツ・シリングが上級代表に就任。

・2006年12月:ボスニア・ヘルツェゴビナはNATOの平和のためのパートナーシップに準加盟国として参加した。

・2007年2月:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)は1995年のスレブレニツァ虐殺は「大量虐殺だった」と裁定し、セルビア人に直接の責任を負わせた。

・2007年7月:スロバキアのミロスラヴ・ライチャクが上級代表に就任。

・2008年7月:ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人指導者ラドヴァン・カラジッチは13年近い逃亡生活の末、ベオグラードで逮捕された。

・2009年3月:オーストリアのヴァレンティン・インツコが上級代表に就任。

・2011年5月:セルビア当局は、戦争犯罪者のひとりであるボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍司令官ラトコ・ムラディッチを逮捕した。

・2011年12月:ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒、クロアチア人、セルビア人の政治指導者たちは、新しい中央政府の設立で合意に達し、2010年の総選挙以来約14か月続いた行き詰まりを打開した。

・2013年5月:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)は元ボスニア・ヘルツェゴビナの指導者6人に対し、1990年代のバルカン戦争における戦争犯罪と人道に対する罪で有罪判決を言い渡した。

・2014年5月:豪雨に伴う大規模な洪水が発生。推定50万人が避難し、人口の約4分の1がきれいな飲料水にアクセスできなくなった。

・2015年3月:EUとボスニア・ヘルツェゴビナが安定化連合協定に署名。

・2016年:EU加盟申請を提出。

・2016年3月24日:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)はセルビア人指導者ラドヴァン・カラジッチに対し、大量虐殺、戦争犯罪、および人道に対する罪で懲役40年の実刑判決を言い渡した。

・2017年11月:旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)はセルビア人軍司令官ラトコ・ムラディッチに対し、ボスニア戦争中の大量虐殺と人道に対する罪で終身刑を言い渡した。

・2018年10月:ベテランのナショナリスト、ミロラド・ドディクがセルビア人議長席を獲得。

・次の上級代表はドイツのクリスチャン・シュミットが務める予定。

文化(目次に戻る

ボスニア人とセルビア人とクロアチア人の文化が複雑に混ざり合っている。

・西洋と東洋の文化をバランスよく取り入れている印象を受ける。

・文学遺産に恵まれている。有名な作家はノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチなど。

・1995年から始まったサラエボ映画祭は、南東ヨーロッパで最大かつ最も影響力のある映画祭。

・ボスニア料理はトルコ料理、ギリシャ料理、旧オスマン料理や地中海料理の影響を受けている。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/市場

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー、バスケットボール、陸上競技、ボクシング、ラグビー、アイスホッケーなど。

・1984年にサラエボ冬季五輪を主催した。(ユーゴスラビア時代)

・オリンピックでメダルを獲得したことはない。

・欧州で五輪メダルを獲得していない唯一の国。

・ユーゴスラビア時代には多くのメダリストを排出した。

・ボスニア・ヘルツェゴビナ国立シッティングバレーボールチームは、国を代表するチームのひとつ。これまでに2つのパラリンピック金メダル(2004年と2012年)と複数の世界およびヨーロッパのシッティングバレーボール大会でタイトルを獲得した。

その他(目次に戻る

・ボスニア戦争とそこに至るまでの経緯は非常にややこしい。

・EU加盟手続き中。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/首都サラエボ
アフィリエイト広告
スポンサーリンク