過去に何らかのトラブル、事故、事件が発生した地点や施設を調べたい時、私は必ず現地の自治会旧役員や関係者、生き字引と呼ばれる方にお話を伺う。

また、先祖代々そこで生まれ育った、という方にお会いしたい時は、墓地をチェックする。歴史のある(古い)お墓の持ち主を自治会関係者に伺うと、「あれは〇〇さんのお墓」といった感じで教えてくれることが多い。

墓誌も目印になる。墓石に名を彫るスペースのない一族は、数百年前からそこで生活している可能性が高い。なお、チェックする際は堂々と行動した方がよい。コソコソ行動すると不審者扱いされ、警察のお世話になる可能性もあるので注意しよう。

今回は別府市他、計5市の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.別府市
   ・志高湖
   ・水無の滝
   ・十文字原展望台

 2.由布市
   ・由布新四国八十八ヶ所霊場
   ・湯布院キリシタン墓群
 3.津久見市
   ・青江ダム
   ・大友宗麟の墓
 4.臼杵市
   ・海賊泊
   ・臼塚古墳 
 5.大分市
   ・戸次川古戦場跡
   ・鶴賀城跡
   ・平和市民公園

まとめ

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志高湖

志高湖(しだかこ)』は、温泉の街、別府市を代表する観光スポットのひとつである。標高約600m地点に形成された湖の周囲には、キャンプ場、公園、自然を生かしたアトラクション施設などが整備され、夏休みシーズンは特に混雑するという。

同地周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された主な霊は、「湖の麓に遺体が散乱していた」「串刺し状態の男女がさらされていた」など。人気観光地としての地位を確立した施設になぜ霊が現れるのか?

志高湖およびその周辺の観光地開発が始まったのは50年ほど前。それ以前は、周辺住人のみが散歩などでのみ立ち寄る普通の湖だったという。同地で生まれ育ち、先祖代々受け継がれてきた資料を保管するA氏にお話を伺った。

A氏曰わく、「志高湖の麓には、戦国時代に豊後国を治めた大友氏の管理する処刑場があった。なお、大友氏が改易された後も処刑場は存続し、江戸時代末期に閉鎖されるまで、数百~数千人の罪人を処理したと言い伝えられている。この処刑場では、身の毛もよだつ拷問処刑が執行されていた」という。

大友氏が豊後国の覇者だった時代、同地の処刑場は「最終処分場」的な役割を果たしていたと考えられている。山の麓に位置し人の目もほとんど届かないため、好きなように罪人を処理できたのだろう。

大友氏は薩摩地方の支配者「島津家」に深い怨みを抱いており、全てに置いて薩摩の田舎者たちを上回りたいと考えていた。当時、島津家の拷問処刑は九州中で噂され、「捕縛される可能性があれば、迷わず腹を切れ」と言われるほどだった。

これに対し大友氏は、島津家を超える残虐さで九州一帯を恐怖のどん底に叩き落し、全てを手中に治めたいと考えた。

志高湖の処刑場では、主に「鋸引き」「皮剥ぎ」の刑などが執行されていた。しかし、いずれも島津家で既に採用されているものばかりであり、インパクトに欠ける。大友氏は地獄の苦痛を罪人に与える拷問処刑として、「虫食いの刑」の導入を決めた。

この刑は罪人に数十時間、下手をすると1週間以上苦痛を与えることができた。まず、罪人を生きたまま棺(空気穴あり)に封印する。この時、罪人の身体に食料や糞尿がタップリ塗りつけられていた。

棺には小さな窓が取り付けられており、そこからゴキブリ、飢えたネズミ、その他、様々な虫を投入すれば完成である。

罪人は両手足をガッチリ捕縛されており、荷動きがとれない。そこに大量の虫とネズミをぶちまければどうなるか。棺の中は糞尿と罪人の汗、血肉、臓物で満たされ、大変なことになる。

大友氏は罪人を限界まで生かすべく、彼らの口内にイモ、野菜、水などを無理やり押し込ん。結果、半死半生状態の罪人はなかなか死ぬことができず、3週間近く生き延びた者もいたという。

その後、罪人の死亡が確認されると、棺内で血肉と臓物を喰い成長したゴキブリやネズミたちは、次の棺に移された。虫食いの刑は罪人に地獄の苦痛を長時間与える刑として注目され、九州の豪族たちは競うようにその刑を取り入れたという。

同地の処刑場で処理された罪人たち、生きたまま虫などに喰われ続け、憤死。その後遺体は骨になるまでさらされ、志高湖に遺棄された。

まとめ
志高湖の麓に処刑場があったことを知る者は少ない

生きたまま虫やネズミに喰われた罪人たちは、現世に怨みつらみを残し、憤死した

基本情報
心霊スポット志高湖
(しだかこ)
所在地〒874-0000
大分県別府市大字別府4380
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間15分
【高速】大分空港から約50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】大分駅から約45分
【高速】大分駅から約35分

※クリックでGoogle map起動
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水無の滝

別府市の南部、一級河川「石城川(せきじょうがわ)」の上流に『水無の滝』と呼ばれる高さ5mほどの小さな滝がある。

この滝にまつわるおぞましい伝承は同地のタブーと言われ、後世に語り継ぐ者は少なくなった。さらに周辺集落では過疎化が進み、それを知る者は残りわずかになってしまったという。

同地は人気観光スポットではないものの、一部のバイカー、登山客、釣り人などが休憩場所として利用していた。しかし、昼夜を問わず霊が出没すると噂になり、今では知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めているようだ。

私は大分県の某大学で教授を務めるK氏に連れられ、ある老夫婦を訪ねた。T氏は同地の伝承と関連資料を先祖代々受け継いできた生き字引と呼ばれる方だった。

T氏曰わく、「江戸時代末期に同地で発生した連続殺人事件の舞台が水無の滝だったと言い伝えられている。その事件により、周辺住人が30人以上殺害されたという。なお、犯人の男は捕縛されることなく姿を消した」という。

1836年、九州一帯は酷い飢饉に見舞われ、豊後国でも多くの餓死者を出していた。同地の田畑も稲作に特化していたため、数年前から続く天候不良が影響し、米の収穫量は従来の2割~3割ほどにまで落ち込んだ。

同地の貧困層は飢えに苦しめられた。一方、中流から上流クラスの農家は、一定の蓄えとサツマイモ栽培などで最低限の食料を確保し、何とか生き延びることができた。

貧困地域で生まれ育った「与助」の畑は、3年前から壊滅的な被害を受けていた。結果、両親は一昨年に餓死、大切に育てた長男も昨年亡くなり、妻と二人で草や虫を食べ飢えをしのいでいた。

与助の妻は近隣の農家に助けを求めた。しかし、人を助ける余裕のある者はほとんどおらず、門前払いされるばかりだった。

妻は田畑を耕す夫に少しでもまともな食事を提供したいと考え、村で一番裕福な庄屋を訪ねた。

田垣氏はやせ細った与助の妻を叩き伏せ、ボロボロの着物をむしりとったうえで、酷く辱めた。村一番の美人と言われた与助の妻を慰みものにしたのである。

その日の晩、自宅に戻った与助は、自殺した妻の遺体と対面した。遺書には田垣氏に辱められたこと、夫の助けになれなかったことなどが記されていたという。

与助は妻の肉と臓器を喰い尽くし、庄屋とその関係者を皆殺しにすべく行動を開始した。彼は村の地理を知り尽くしており、最適かつ最短ルートを移動したのち、対象の住居を一軒ずつ襲撃した。

短刀と斧で武装した与助は、関係者をひとり残らず切り刻み、首だけを水無の滝近くに運んだ。襲撃は丸1日続き、異変に気付いた住人が役人に通報するも、手遅れだった。

役人たちは血の跡を頼りに水無の滝へたどり着いた。

滝の麓に並べられた庄屋や関係者の頭(頭蓋骨)は、いずれも真っ二つに叩き割られており、辺りに脳漿がぶちまけられていたという。

その後、役人と住人による大規模な山狩りが実施されたものの、与助の消息は不明。事件は闇に葬られた。

まとめ
水無の滝およびその周辺集落は、大量殺人事件の舞台

住人たちは与助が鬼になったと噂し、水無の滝周辺に近づく者はいなくなった

基本情報
心霊スポット水無の滝
(みずなしのたき)
所在地〒879-5551
大分県別府市大字内成
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間15分
【高速】大分空港から約1時間

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②アクセス
【一般道】大分駅から約30分
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十文字原展望台

別府市北部、「猫(ねこ)が岩山」の麓に「十文字原(じゅうもんじばる)」とよばれる高原がある。ここでは、禁教令(1613年)によって行き場を失った隠れキリシタンたちが処刑されたと言い伝えられており、十字架にちなんで名づけられたそうだ。

ここで紹介する『十文字原展望台』は、別府市内と別府湾を一望できる展望台として人気を集めている。特に夜景は美しく、天候が良ければ満天の星空も楽しめるという。

隠れキリシタンが処刑された土地に造られた施設は、霊のたまり場と噂されるようになった。これまでに目撃された霊は、「黒焦げ遺体が山積みになっていた」「生首を持った男が立っていた」など。

自身も敬虔なカトリック信者だというY氏に同地の伝承を伺った。曰わく、「十文字原およびその周辺に逃げ込んだキリシタンたちは、周辺住人に拒絶されてしまった。その後、豊後国内で狩りを行っていた幕府連合軍は、同地で集団を捕縛。改宗の意思を一切確認せず、ひとり残らず拷問処刑に処した」という。

1639年、江戸幕府は豊後国内の元キリシタン大名たちがキリスト教への圧力を意図的に弱めていると考え、同国内に幕府直轄軍を送り込んでいた。

これを受け、同地周辺を治めていた府内藩は、直轄軍と共に隠れキリシタン狩りを開始。この時、藩主の日根野氏は、最悪の事態(お家取り壊し)だけは絶対に避けると心に決めていた。

狩りを始めてから約1か月後、町の外れの高台エリアから「隠れキリシタンと思われる集団を目撃した」という問い合わせが入り、日根野氏の部隊と幕府直轄軍は現地へ向かった。

両軍の部隊は合わせて約1,000名程度。同地の高台エリアは広大かつ雑木が生い茂っていたため、何者かが潜んでいたとしても、包囲すること不可能だった。

直轄軍は日根野氏に対し、「結果を出さねば、将軍にありのままの事実を報告する。府内藩は藩ぐるみでキリシタンたちを保護し、将軍の意向を無視した。お家取り壊しは避けられないだろう」と強烈な圧力をかけた。

日根野氏は関係者を集め、同地に潜伏する隠れキリシタンへ文を送った。それには、「今すぐ投降すれば、罪には問わない。ただし、今後は人里離れた山間部の村で生活してもらうことになるだろう」と書かれていた。

この文を見たキリシタンたちは投降を決意。女性、子供、赤子の体力は限界を超えていたため、彼らは生き残ることのできる最善の道を選んだ。

日根野氏と直轄軍はリーダー格の男を丁重に受け入れ、食事をタップリ提供した。男はキリシタンたちの隠れ家の位置を説明し、両軍と高台の隠れ家へ向かった。

高台の外れに集まっていた数十名のキリシタンたちは、ひとり残らず捕縛された。日根野氏は文に書いた約束を全て無視し、結果を出したのである

直轄軍は隠れキリシタンに対し、皮剥ぎ火刑を採用。老若男女、子供、赤子、全員がひとり残らず全身の皮を切り取られ、あぶり殺しにした。

同地の近くに住む住人たちは、男女の泣き叫ぶ声を何度も聞き、処刑された者たちが怨霊になったと恐れた。以来、同地では霊の目撃情報が相次ぎ、あちこちに墓標や慰霊碑が建立された。

しかし、それらも時間と共に風化してしまい、今では跡形も残っていない。

まとめ
十文字原展望台には、厳しい弾圧から逃れたキリシタンたちが潜伏していた

日根野氏は幕府直轄軍の強烈な圧力に屈し、卑怯な手でキリシタンたちを追い詰めた

基本情報
心霊スポット十文字原展望台
(じゅうもんじばるてんぼうだい)
所在地〒874-0004
大分県別府市大字野田字池ノツル1200
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】大分空港から約55分
【高速】大分空港から約40分

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②アクセス
【一般道】大分駅から約45分
【高速】大分駅から約35分

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由布新四国八十八ヶ所霊場

新日本百名山のひとつに数えられる活火山「由布岳」には、様々な伝承が残っている。なお、この火山が最後に噴火したのは2,000年ほど前(推定)。地下のマグマがもたらす温泉は、日本を代表する温泉郷のひとつ、「湯布院(由布院)温泉」にとって欠かすことのできない資源になった。

由布岳の麓に位置する『由布新四国八十八カ所霊場』は、「四国八十八カ所」の分霊場として明治時代に整備された。これは、88カ所の仏教寺院の名を冠した仏像をポイントごとに設置、そのひとつひとつを巡礼しながら仏教の真理に近づくことを目的としている。

由布岳の麓になぜ四国八十八カ所の分霊所を作ろうと思ったのか。私は大分県の某大学で教授を務めるK氏と共に、由布市湯布院町の伝承を受け継いだF氏のご自宅に向かった。

F氏曰わく、「戦国時代、由布岳の麓で繰り広げられた大友氏と豪族連合軍による合戦(由布岳の戦い)は、血で血を洗う過酷な戦いになったと言い伝えられている。なお、戦いは大友氏の圧勝に終わり、豪族たちは2,000名近い兵士を失った」という。

由布岳周辺の地形を知り尽くしていた大友氏は、3,000名の大隊で豪族連合軍5,000名を迎え撃った。この時、何も考えずに正面からぶつかっていれば、戦いは豪族たちの圧勝に終わっただろう。

大友軍は雨の降りしきる中、由布岳の麓の狭いエリアに陣取っていた。なお、隊は2班に分け、別動隊400名は峻険な崖の上部で落石攻撃を仕掛けるべく身を潜めていた。

これに対し豪族連合軍は、数の力で敵を圧倒すべく、大友軍の正面に陣取った。

大友軍は打って出るのではなく、豪族たちの攻撃を正面から受けるべく待機。戦場は幅20mほどの狭いエリアに限定するつもりだった。理由は、敵の部隊を狭い通路に引き込み、長く伸ばせば圧勝できると踏んだためである。

豪族連合軍も馬鹿ではなかった。敵の狙いは重々承知しており、無謀な戦いを仕掛けるつもりは毛頭なかった。

膠着状態をうち破ったのは、大友軍に寝返った豪族連合軍の家臣団だった。約1,000名が一斉に動き出したことで、戦場は一気に慌ただしくなった。

大友軍は予定通り寝返った者たちを受け入れ、豪族たちの陣地に向かって大声で歌を歌った。これを聞いた豪族連合軍は激高、由布岳およびその周辺は怒号に包まれた。

豪族連合軍は怒りに身を任せ狭い通路へ突撃。隊は細長く伸びきった。これを見た大友軍別動隊400名は、峻険な崖の上部から落石攻撃を開始。丸太なども一緒に転がし、長く伸びきった隊の横っ腹を貫いた。

強烈な先制攻撃を受けた豪族たちは、別動隊に狙いを定めた。しかし、相手は崖の上部に陣取っており、弓矢、落石、丸太の波状攻撃を受ける羽目になった。

大友軍本隊は、統制を失った敵部隊を細い通路で迎え撃ち、見事に粉砕。豪族連合軍は何もできぬまま2,000名の兵を失い、撤退した。なお、大友軍の死者数は100名にも満たなかったという。

由布岳の麓は死体で溢れ返った。大友軍は敵兵の首をひとり残らず切り取り、身体は動物たちのエサにした。

以来、同地周辺では討ち取られた豪族兵士たちの霊が出没すると噂になった。合戦から約300年後、仏像88体および死者を祀る慰霊碑が由布岳の麓に建立され、現在に至る。

まとめ
由布新四国八十八カ所霊場は霊のホットスポット。88体の仏像と慰霊碑で合戦の死者を供養するも、いまだに霊の目撃情報が後を絶たない

同地周辺で目撃された霊は、「槍を持った兵士に追いかけられた」「雑木林の中から男の悲鳴が聞こえた」など

基本情報
心霊スポット由布新四国八十八カ所霊場
(ゆふしんしこくはちじゅうはっかしょれいじょう)
所在地〒879-5102
大分県由布市湯布院町川上
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間15分
【高速】大分空港から約55分

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②アクセス
【一般道】大分駅から約55分
【高速】大分駅から約45分

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湯布院キリシタン墓群

湯布院キリシタン墓群』は由布市の北部、住宅街から少し外れた林の手前に残された歴史遺産である。あくまで墓地なので、観光を楽しみたい方にはおすすめできないものの、豊後国とキリスト教の歴史を肌で感じたい方は、ぜひチェックしてほしい。

ただし、同地では霊の目撃情報が相次いでいるため、足を運ぶ場合は心づもりが必要である。これまでに目撃された霊は、「墓の前に血だらけの男が立っていた」「人魂を見た」など。

同地で生まれ育ち、豊後国とキリシタンの歴史を研究する歴史家のH氏にお会いした。H氏曰わく、「江戸時代に同地を治めた府内藩は、幕府の方針に従いキリスト教を取り締まった。しかし、キリシタン大名の大友氏と深い関りを持つ藩主の松平氏は、取り締まりを行いつつも、キリスト教に一定の理解を示していた」という。

1732年、天候不良の影響で豊後国の稲はことごとく枯れ、人々は飢えた。府内藩の領内でも、餓死者が道端に放置されるなど、酷い有様だったという。

同地の中で、唯一作物の収穫に成功した「川上集落」の住人たちは、信仰する宗教を偽る隠れキリシタンだった。彼らはサツマイモ栽培に力を入れ、収穫したそれを保存食にするなどして飢えに備えていた。

川上集落の住人たちは、飢えに苦しむ人々を助けた。近くの村まで貴重なサツマイモを運び、分け与えたのである。

また、住人たちは道端や住居に放置されていた遺体を全て埋葬、供養した。キリスト教の教義に従い、苦しむ者や亡くなった者を誰一人見捨ず、自分の食料や水すら平気で分け与えた。

川上集落の噂は瞬く間に広まり、彼らのことを知らない者はいない、とまで言われるようになった。また、府内藩にも噂は届き、松平氏は「同胞たちを守るために行動する素晴らしい者たち」とほめたたえた。

1732年秋、とある集落で農家として働く「佐吉」は、川上集落の住人に助けてもらったひとりだった。

佐吉は命の恩人たちにお礼を言うべく、川上集落を訪ねた。その際、村内の墓地に設置された十字架の存在に気付いた。佐吉は彼らが隠れキリシタンだと悟った。しかし、そのことは一切口外しなかった。

数日後、府内藩の兵士数十名が佐吉の集落に入り、「川上集落は隠れキリシタンの拠点になっている」と告げた。これを聞いた佐吉は仰天し、命の恩人たちを守るための行動に出た。

佐吉は府内藩より先に川上集落を目指し、走った。そして、彼らに「間もなく取り締まりが始まるので、キリスト教に関連するものを全て隠さねばならない」と警告した。

住人たちは佐吉の申し出通りに行動し、キリスト教を連想させるものはひとつ残らず埋められた。

府内藩の兵士たちは、佐吉を含む川上集落の住人十数名を尋問、踏み絵が準備された。

佐吉は府内藩の兵士に対し、「私は彼らにキリスト教を伝えようとした。しかし、彼らは私の教えに従わず、仏教徒として飢えている人々を助けた」と言い捨て、短刀を抜いた。

佐吉の急襲は見事に成功した。兵士三人が喉を突かれ絶命、その勢いのまま、住人たちに切りかかった。しかし、府内藩の兵士たちはすぐに態勢を立て直し反撃した。

佐吉は全身をめった刺しにされながらも川上集落の住人ひとりに軽傷を負わせた。しかし、とどめの一撃を受け、死んだ。

府内藩の兵士たちは川上集落の住人を開放し、キリスト教の教義を広めようとした伝道師、佐吉の首を切った。その首は同地の繁華街に三日三晩さらされたのち、遺棄されたという。

川上集落の住人たちは、村内の墓地(湯布院キリシタン墓群)の中央部に佐吉の墓を建立し、恩人の死を悼んだ。

まとめ
湯布院キリシタン墓群は、戦国時代末期から江戸時代初期頃に建立されたと言い伝えられている

佐吉は命の恩人たちを助けるために隠れキリシタンと偽り、殺された

基本情報
心霊スポット湯布院キリシタン墓群
(ゆふいんきりしたんぼぐん)
所在地〒879-5102
大分県由布市湯布院町川上
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】大分空港から約1時間15分
【高速】大分空港から約55分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】大分駅から約15分
【高速】大分駅から約50分

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青江ダム

津久見市と臼杵(うすき)市の境に位置する「姫岳(ひめだけ)」は、「姫岳の合戦(1435年)」の舞台として有名である。その山の麓に端を発する二級河川「青江川」の上流域付近で特に激しい戦いが繰り広げられたそうだ。

ここで紹介する『青江ダム』は青江川の上流域に建設された治水ダムである。ダムと同時に整備された公園は津久見市を代表する花見スポットのひとつであり、「桜まつり」が開催される3月下旬頃は特に混雑するという。

私は同市川内地区で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継いだご夫婦を訪ねた。S氏曰わく、「青江川の上中流域で発生した出来事は同地のタブーと呼ばれ、人々の記憶から消えた。しかし、ある事件がトリガーとなり、伝承は復活。人々は決して逃れることのできない悪夢と呼び、タブーを受け入れるようになった」という。

1587年、豊臣秀吉による九州平定が行われていた頃、臼杵藩の領民たちは原因不明の疫病に悩まされていた。なお、S氏に資料に書かれている症例はペスト(黒死病)を連想させるが、詳細は不明である。

謎の疫病は豊後国の一部地域でのみ確認され、臼杵藩の状態は特に深刻だった。青江川上中流域の集落で感染が広まり、藩主の木下氏は付近一帯に近づくことを禁じた。

感染していないと思われる者も、集落から出ることは一切許されなかった。疫病は患者に触れただけで感染すると噂され、前日まで体調の良かった若者や子供でも突然発症し、重症化するケースがあったためである。

封鎖を開始してから数か月後、青江川の下流域におびただしい数の水死体が流れ着き、大騒ぎになった。

水死体は腐り、いずれも身体が黒く変色していたという。役人たちは疫病で死んだ者たちと断定し、青江川上中流域の調査を開始した。

各集落の調査を担当した少人数の部隊は決死隊と呼ばれた。彼らは疫病で死んだ者たちの様相、遺体の処理方法、感染状況などをチェックした。

調査の結果、上流域の集落で死んだ者たちが青江川に遺棄されていたことが判明。木下氏は生存者3名を斬首刑に処した

その後、疫病は上中流域の集落を完全に飲み込んだ。住人たちはひとり残らず死に、住居と遺体は全て焼却処理されたという。

跡形もなく燃やし尽くされた集落およびその周辺に立ち入ることは禁止され、疫病はようやく収束した。

1734年、豊後国の領民たちは、一昨年に同地を襲った飢饉からようやく立ち直りつつあった。この時、臼杵藩の領内では不穏な噂が流れていた。

数日前、青江川の下流域に男女の水死体が流れ着いた。第一発見者によると、男女の身体はいずれも真っ黒だったという。

木下氏の不安は的中した。下流域で発見された男女の水死体は、150年ほど前に発生した謎の疫病患者と酷似していたのである。

木下氏の部隊は、青江川上中流域を調査した。しかし、かつて同地にあった集落は跡形もなく消え去り、木々に覆われていた。

数日後、またしても下流域に全身真っ黒の水死体が流れ着いた。そして、それに触れた住人が疫病に感染、木下氏は感染者を出した集落の封鎖を決めた。

その後、下流域の集落は壊滅。S氏の資料には、「上中流域と同じように、全てを跡形もなく燃やし尽くした」と書かれていた。なお、流れ着いた水死体の身元は分からずじまいだったという。

まとめ
青江川上中流域の集落は戦国時代、下流域は江戸時代中期に壊滅した

1734年に流れ着いた水死体の身元は不明。突然疫病が発生した理由も分からずじまいだった

基本情報
心霊スポット青江ダム
(あおえだむ)
所在地〒879-2461
大分県津久見市大字上青江
種別事故
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】大分空港から約2時間15分
【高速】大分空港から約1時間20分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】大分駅から約1時間
【高速】大分駅から約45分

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大友宗麟の墓

戦国時代に豊後国を治めた「大友宗麟(おおともそうりん)」は、全国一有名なキリシタン大名と言っても過言ではない。なお、関ヶ原合戦で西軍に加担し、六条河原で斬首された「小西行長」や織田信長の孫にあたる「織田秀信」もキリシタン大名である。

大友宗麟がキリスト教を伝えたことで、豊後国内のキリシタンは激増。その後、大友家は改易され、同国は複数の大名家によって分割統治されることになった。

津久見市中央部、宗麟公園の敷地内に『大友宗麟の墓』がある。これはその名の通り、豊後国を治めた大友宗麟の墓であり、大分県のキリスト教信者の聖地と呼ばれている。

宗麟の墓および公園内では霊の目撃情報が相次いでいる。私は同県の某大学で教授を務めるK氏に連れられ、ある御仁の自宅を訪ねた。

E氏は毎週必ずミサに参加する敬虔なキリスト教信者であり、宗麟の墓の掃除も欠かさず行っているという。E氏曰わく、「宗麟公の墓が同地に移されたのは江戸時代中期頃。キリスト教形式の墓は1977年に建立された。ここに墓を移した理由は、同地に古くから伝わる伝承が深く関わっている。が、それを知る者は非常に少ない」とのこと。

1638年、「島原の乱」に勝利した幕府連合軍は、各地に分散逃亡したキリシタンたちを厳しく取り締まっていた。この時、第三代将軍、徳川家光は、豊後国の元キリシタン大名たちが意図的に弾圧の手を緩めると考え、連合軍に取り締まりの主導権を与えた。

連合軍および豊後国の大名による弾圧、拷問、処刑が各地で横行し、隠れキリシタンたちは改宗するか死ぬかの選択に迫られていた。

1638年冬、「臼杵藩のエリア内に百名規模の隠れキリシタンが潜伏している」という情報がもたらされた。連合軍は情報を頼りに調査を開始。結果、戦国時代のキリシタン大名、大友宗麟の旧屋敷跡周辺でアジトを発見した。

連合軍および臼杵藩の兵士たちは、木々に覆われた大友宗麟の旧屋敷跡周辺を封鎖。隠れキリシタンたちに投降を促した。

投降した隠れキリシタン百数十名は、武器を一切持たず、戦う気もなかった。しかし、連合軍の兵士たちは邪教、という理由だけで男女を激しく殴りつけ、顔面にツバを吐きかけた。

臼杵藩の兵士を指揮していた植田氏は、捕縛されたキリシタンに改宗を命じ、一同はこれを受け入れた。しかし、連合軍はこれをうわべだけの改宗と判断、女子供や赤子を含む百数十名全員を見せしめに処刑しろ、と指示した。

臼杵藩は石高数万、江戸幕府の指示を無視すれば、一瞬で叩き潰されることは目に見えていた。藩主の木下氏は連合軍の指示に従い、「穴吊りの刑」の執行を決めた。

この刑は苦痛を伴う拷問処刑と恐れられていた。対象者は深さ1m~2mほどの穴の上で逆さまに吊るされる。この時、腹部の臓器が心臓を圧迫しないように、胸元、腹部、手、足などをロープでガッチリ固縛した。

長時間逆さまになると、脳に血が溜まり、死ぬ。連合軍は苦痛を長引かせるべく、対象者の耳内およびこめかみ付近に穴をあけ、脳内にたまった地が排出されるようにした。

吊るされた者たちは、ゆっくり血液を失い、苦しいとうめきながら死んだ。拷問処刑は1週間ほど続き、最初に死んだ者の血肉は、まだ生きている者たちの近くに遺棄され、多くの者が強烈な腐乱臭で正気を失った

百数十名の隠れキリシタンはひとり残らず処刑。遺体はバラバラに砕かれたのち、津久見湾にばら撒かれた。

以来、キリシタンの処刑を行った大友宗麟の旧屋敷跡周辺(墓および宗麟公園)には霊が出没すると噂になった。そして現代、大友宗麟の墓は、信仰の自由を奪われ憤死した百数十名も同時に祀るべく、建立されたという。

まとめ
宗麟公園内には墓が2つある。ひとつは江戸時代、もうひとつは1977年に建立

百数十名が処刑された直後から霊の目撃情報が相次いでいた。その後、死者を供養すべく、キリスト教仕様の大友宗麟の墓が建立された

基本情報
心霊スポット大友宗麟の墓
(おおともそうりんのはか)
所在地〒879-2421
大分県津久見市大字津久見4173
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
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【高速】大分駅から約45分

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海賊泊

臼杵(うすき)市の最東部、臼杵湾に面した入り江の一角に『海賊泊(かいぞくどまり)』と呼ばれる不思議なスポットがある。

この名の由来は、豊後国を統治した大友氏の水軍船が停泊していたため、と言い伝えられている。なお、海賊泊と呼ばれるようになった時期は定かではない。

臼杵市泊ケ内(とまりがうち)地区で生まれ育ち、祖先は海賊と豪語するH氏に同地の伝承を伺った。H氏曰わく、「江戸時代、大友水軍として活躍した勇猛果敢な武将たちは、合戦という仕事を失い、陸で生活していた。しかし、彼らは海上での生活を望み、大名家から離反。海賊として生きる道を選んだ」という。

1756年、臼杵藩藩主として同地を治めた稲葉氏は、海上交易の安全を脅かす海賊たちの暴挙に困り果てていた。何度も対決を試みたが、敵は周辺海域の特性を知り尽くしており、近づくことすらできなかったのである。

一方、海賊たちは大友水軍時代から継承する航海術を駆使し、臼杵湾だけでなく津久見湾や別府湾にも侵出、漁船や交易船を襲撃し、死者が出ることも珍しくなかった。

H氏の伝承資料によると、海賊たちは現在の海賊泊周辺をアジトにしていたらしい。さらに、交易船から奪い取った品を処理(売買)するルートもしっかり構築されており、港周辺は活気に溢れていたという。

稲葉氏は海賊泊を取り締まることができなかった。裕福な庄屋や商人たちが町を取り仕切り、臼杵藩に莫大な税を納めていたためである。さらに、同地の遊郭は役人たちの貴重な遊び場として重宝された。

周辺集落の住人たちは、「臼杵藩と海賊は裏でつながっている」「略奪行為に目をつぶっている」と噂さするようになった。

稲葉氏は焦った。臼杵藩と海賊はつながっている、という噂が他藩に広まり、江戸幕府を巻き込んだ大騒動に発展したのである。

江戸幕府は臼杵藩の言い分を聞き、一定の理解を示したうえで、「海賊たちを殲滅せよ。できなければ領地は全て没収する」と圧力をかけた。

稲葉氏の窮状を見た家臣のひとりは、ある男に相談を持ち掛けた。家臣は「海賊をひとり残らず打ち滅ぼし、汚名を返上してほしい」と依頼。男は何かしらの報酬を条件にこの依頼を受けた。

数日後、海賊泊に停泊した海賊たちが何者かに襲撃を受けた。目撃者によると、屈強な海の男たちはひとり残らずバラバラに切り刻まれたという。

さらに、町を取り仕切っていた裕福な庄屋や商たちも襲撃を受けた。海賊を仕留めた集団は、ありとあらゆるものをコナゴナに破壊したのである。

臼杵藩は、周辺集落の住人から通報を受け、海賊泊に駆け付けた。すると、町は跡形もなく消え去り、焼け焦げた材木と百名超の焼死体だけが残されていたという。

役人たちは、海賊泊の北に停泊する木造船を発見。乗り込むと、目をくりぬかれ、耳と鼻を削ぎ落された男たちの生首、計50個がキレイに並べられていた。

臼杵藩は江戸幕府に海賊をひとり残らず打ち滅ぼしたと報告。領地没収という最悪の事態は回避された。

その後、海賊泊への立ち入りは禁じられ、「臼杵藩に代わって手を下した者たち」の噂は同地の伝承として語り継がれることになった。

まとめ
海賊泊周辺にあったと言い伝えられている町は、正体不明の集団によって消し去られた

臼杵藩は海賊の暴挙を封じ込めるべく、非公式集団に暗殺を依頼した、と言い伝えられている

基本情報
心霊スポット海賊泊
(かいぞくどまり)
所在地〒875-0031
大分県臼杵市大字深江
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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画像はイメージです

臼塚古墳

江渡時代、九州地方を襲った災害の中で最も深刻な被害を出したと言い伝えられているものが、飢饉である。作物は水がないと育たない。数十年~数百年に一度発生する記録的な干ばつは、人々を殺した。

一方、大雨がもたらす被害も深刻だった。水が足りなければ川から水路を敷けばよい。しかし、田畑を水没させるほどの雨は防ぎようがない。九州地方の人々は、干ばつより大雨による作物への被害を恐れていた。

ここで紹介する『臼塚(うすづか)古墳』は、約200年前の大飢饉に伴う事件以来、霊が出没すると噂されるようになったと言われている。私は大分県の某大学で教授を務めるK氏と共に、臼杵(うすき)市大字稲田地区を訪ねた。

同地で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継ぐM氏曰わく、「1836年に発生した飢饉は、豊後国の財政に深刻な影響を与えた。前年の米の収穫量が例年の3割にも満たなかったため、ダメージが大きかったと考えられている。同地区および周辺でも深刻な食糧不足が発生し、領民は飢えた」という。

1836年、臼杵藩の石高は例年の20分の1以下にまで減少、飢え死にする領民は後を絶たず、行き倒れた者の遺体が道端に放置されていた。食料に困らなかったのは、遺体をあさるカラス、野犬、猫ぐらいだった。

臼塚古墳の周りには小さな集落が点在していた。住人たちは草や虫を食べ、何とか生き延びていた。が、記録的な干ばつの影響で雑草は枯れ、川まで干上がる始末だった。

限界を超えた住人たちは、米や作物を隠し持つ裕福な庄屋たちに襲いかかった。蔵を破壊し尽くし、奪える物は全て奪い尽くした。しかし、住人数百名を満足させることはできず、食料は底をついた。

腹を満たしたいと考えた男たちは、遺体の肉を喰らった。しかし、強烈は腐乱臭と噛み切れないほど固い肉は土より不味く、食えたものではなかった。

男たちは腐っていない人肉を探した。しかし、道端に転がっている遺体は軒並み腐り果て、酷い匂いを放っている。男たちは柔い肌と肉を持つ赤子と女に狙いを定めた

赤子は栄養失調でほぼ死に絶えていた。一方、女性、特に若い女はしぶとく生き延びていた。男たちは若い女をひとり残らず捕縛、酷く辱めたうえで殺した。その肉を喰うと、腐った遺体より数段美味に感じられた。

若い女の肉は美味い」という噂が広まり、臼塚古墳周辺の集落でもこぞって人肉を喰い争うようになった。結果、若い女は姿を消し、男と年老いた老婆だけが残された。

数日後、男たちは遠くの村まで遠征し、若い女、少年少女、赤子を誘拐。臼杵古墳の丘の上に移送した。

男たちは若い女と少年少女を犯し、殺した。この時、古墳の周りには新鮮な肉を求める住人たちが集まり、大変な騒ぎだったという。

誘拐された者たちはひとり残らず解体された。その後、住人たちは肉、内臓、脳、血液、全てを喰らい尽くし、古墳の周辺には骨だけが残った。

数時間後、人肉を喰らった住人の大半が、猛烈な腹痛に襲われた。肉を半生状態で喰ったことが原因と思われる。住人たちは下痢と嘔吐を繰り返し、腸と胃の中にあるもの全てを排出した。

結局、集落の住人の8割以上が餓死。生き残った者たちは、人肉を食べたことで神の怒りに触れたと考えた。

生き残った住人たちは、疫病で死亡した者の遺体と周辺に散らばっていた人骨を臼塚古墳に埋葬。死者たちを供養すべく、臼塚神社を建立した。しかし、死亡した百数十名の魂を沈めることはできず、今でも頻繁に霊が目撃されている。

まとめ
臼塚古墳で発生した人肉騒動の結果、丘の上に臼塚神社が建立された、と言い伝えられている

同地で目撃される霊、「血だらけの女性が立っていた」「女性の悲鳴が聞こえた」など

基本情報
心霊スポット臼塚古墳
(うすづかこふん)
所在地〒875-0082
大分県臼杵市大字稲田
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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戸次川古戦場跡

戸次川(へつぎがわ)の戦い(1587年)」とは、九州平定を目指す天下人「豊臣秀吉」が初めて島津家と激突した大合戦である。

織田信長に代わって本州を統一した秀吉は、圧倒的な兵力と武力によって一滴の血も流すことなく九州を脅し取ろうと考えたが、島津家はこれを良しとしなかった。

大分市、一級河川「大野川」の堤防近くに『戸次川古戦場跡』はある。ここはその名の通り、先に述べた合戦の舞台であり、両軍合わせて4,000人以上が討死した場所として知られている。

同地で生まれ育ち、有力は豪商の血を継ぐ資産家のT氏という御仁にお話を伺った。曰わく、「戸次川の戦いは半日も立たぬ間に終結した。豊臣連合軍を粉砕した島津家は、敵兵の首を3,000以上切り取り、辺りは遺体と血で埋め尽くされた。その後、秀吉への見せしめとして島津家久は世にも恐ろしい拷問処刑を行った」という。

戸次川の戦いは、終始島津家有利で展開。豊後国の大友軍などによって構成された連合軍は、完膚なきまでに叩きのめされた。なお、島津家の戦力は15,000人、これに対し豊臣家、前田家、毛利家などの主力部隊が参戦しなかった連合軍は、6,000人ほどだったと言い伝えられる。

合戦を制した「島津家久」は、豊臣家の横暴な振る舞いに怒りを爆発させていた。島津家は鎌倉幕府の創始者である名門「源氏」の血を継ぐ名家であり、成り上がり者に従うつもりは毛頭なかったのである。

家久は、連合軍の捕虜百名余りを公開で処刑することにした。T氏の資料によると、周辺集落に御触れが出され、住人たちは薩摩の鬼と噂された島津家の荒ぶる姿をこぞって見学したという。

これに対し、連合軍に組した大友氏は捕虜の解放を求め、「九州を秀吉に差し出さねば、大名家はことごとく討ち取られ、領民たちは行き場を失う」と説得した。

戦う前から負けを認める弱腰な態度に家久は愕然とし、「百姓上がりの秀吉には死んでも屈しない」という意思表示として、予定通り公開処刑を行うことに決めた。

大野川沿いに高さ3mほどの木造門柱、計30基が設置された。捕虜たちは全裸状態で両手足を固縛、逆さまに吊るし上げられた。

合図が出ると、島津家の兵士たちは刃こぼれした巨大なノコギリを捕虜の股に押し当て、勢いよく引いた。「鋸(のこ)引きの刑」は戦国時代を代表する処刑方法であり、脳天まで真っ二つに切り裂く様は「地獄」と表現されていた。

捕虜たちの絶叫を聞いた豊後国の住人たちは、「島津家を怒らせてはいけない」と震え上がった。なお、一番早く脳天まで真っ二つに切り裂いた兵士には、溢れんばかりの酒が振舞われたという。

公開処刑が終わると、家久は真っ二つにした遺体および3,000以上の生首を大友氏の屋敷や城の近くに遺棄するよう指示。兵士たちはボールを投げるように生首を投てきした。

戸次川古戦場跡で目撃される霊は、「遺体が山積みにされていた」「槍を持った鎧武者に追いかけられた」など。なお、この合戦以降、島津家は九州に上陸した豊臣家および本部隊に連戦連敗し、秀吉の軍門に降った。

まとめ
戸次川古戦場跡周辺では4,000人以上が戦死、鋸引きの刑によって百名余りが真っ二つに切り裂かれた

地獄の拷問処刑で憤死した兵士たちは、怨みつらみを募らせ、怨霊になった

基本情報
心霊スポット戸次川古戦場跡
(へつぎがわこせんじょうあと)
所在地〒879-7761
大分県大分市大字中戸次
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
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戸次川古戦場跡 大分県大分市中戸次 戸次川の戦いは、豊臣秀吉による 九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親 父子、仙石秀久、十河存保の四国連合軍と大友義統の豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。 前回、大友宗麟が九州六ヶ国を 支配していたというpostをしましたが、 この戸次川の戦いはその後のお話しです(*^^*) 日向国延岡(自分の地元宮崎県延岡市)を 支配したあと大友宗麟は さらに南下し、島津勢が居る高城(宮崎県児湯郡木城町)を包囲しますが大敗し壊滅状態になります‼ 勢力を拡大した島津勢はついに 九州統一するほどの勢いで大友氏の本領の豊後国(大分県)まで進攻してきます‼ そこで起きた「戸次川の戦い」! 案内板だけしか残っていない古戦場跡を 見てきました(^_^)/ -1578年(天正6)高城川合戦(耳川合戦)に おいて大友氏は島津氏に大敗し、有力家臣の多くを失った。以後島津氏が優位に立つ事となり、豊後に侵攻する構えを見せるようになった。 1586年(天正14)独力で島津氏に抵抗出来ない大友宗麟は大坂へ上り、豊臣秀吉に救援を願い出ると、これを知った島津氏は、豊臣氏来援の前に大友氏を討つ事を決め、島津義久・家久は日向路、島津義弘は肥後路から豊後に侵攻を開始した。 島津氏は城主利光宗魚が肥前への遠征の為不在であった鶴賀城を激しく攻め立てるが、城兵は良く持ち堪えていた。やがて豊臣秀吉が後詰として派遣した長宗我部元親・信親父子率いる土佐勢3千・十河存保率いる讃岐勢2千・目付の仙石秀久 率いる淡路勢1千からなる四国勢、そして大友義統が来援し、鏡城に着陣した。ここで秀久は元親らの慎重論を一蹴し、鶴賀城救援を決定し、大野川の渡河を開始した。 これに島津勢は鶴賀城城下へ引き付けた敵を主力で引き受け、山間を迂回する右翼、そして大野川左岸を迂回する左翼で包囲する作戦を取る。激しい争いの末、主将の秀久は敗戦と分かると早々に離脱し、義統も宇佐の妙見城まで敗走、長宗我部・十河勢のみが奮戦する形となった。存保は討死し、また元親と分断された信親も島津勢に討ち取られ、元親はかろうじて沖浜から船に乗り、日振島まで逃れた。 更に島津氏は宗麟が拠る臼杵城を攻めているが、1587年(天正15)3月、豊臣秀吉の九州征伐の報を知ると豊後から撤退、そして根白坂での対陣で豊臣氏に屈する事となった- #戸次川の戦い #戸次河原合戦 #戸次川古戦場跡 #豊臣秀吉 #豊臣軍 #四国連合軍 #仙石秀久 #長宗我部元親 #長宗我部信親 #十河存保 #大友義統 #島津家久 #島津軍 #豊後国 #鏡城 #鶴賀城 #九州平定 #九州征伐

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鶴賀城跡

鶴賀城跡』は、先に述べた「戸次川(へつぎがわ)古戦場跡」から南に1kmほど下った地点に位置する。城主は、戦国時代に豊後国を支配した大友氏の家臣、「利光宗魚(としみつそうぎょ)」。正確な築城年と破却年は分かっていない。

この城は、大友氏の本陣と関所を結ぶ街道の中間地点に位置し、侵入者を迎え撃つ重要拠点だった。戸次川の戦いの約半年ほど前、利光宗魚は九州征服を狙う島津家と対峙していた。

私は大分県出身の某大学教授、K氏を引き連れ、同地で活躍した有力豪商の血を継ぐT氏に再度お会いした。T氏は九州地方の歴史を研究し、同地の貴重な伝承資料を多数保管している。

鶴賀城跡は大分県を代表する心霊スポットのひとつである。感じやすい方(変な意味ではない)であれば、跡地付近に近づくだけで不穏な何かを察知できるはず。

また、同地では昼夜を問わず霊が出没する。ただし、夜になると猪、鹿、猿などに襲撃される可能性が高く、また足元も悪いため、立ち入りは明るい時間に済ませた方がよい

これまでに目撃された霊は、「両手に生首を持った鎧武者が立っていた」「雑木林の奥から男の悲鳴が聞こえた」など。

1586年、島津家は豊後国の大友氏を撃ち滅ぼすべく、砦や城を破壊しながら本拠地を目指していた。

これに対し、大友氏の家臣、利光宗魚は、鶴賀城での籠城作戦を展開。島津家久率いる二万の大軍勢をわずか三千の兵で迎え撃った。

鶴賀城は雑木林、狭い林道、そして急峻な崖を効果的に組み合わせた難攻不落の城だった。築城以来、正門に達した敵兵はひとりもおらず、林道には数千の屍が打ち捨てられていると噂されたほどである。

島津軍は崖をかわしつつ、林道と雑木林を猪の如く突き進んだ。しかし、利光軍は周辺の地形を知り尽くしており、いつものように落とし穴、落石攻撃などで敵兵を効果的かつ効率的に迎え撃った。

半月後、島津家は少なくとも二千の兵を失い、士気も大きく低下していた。一方、利光軍の兵士たちは、連日連夜の快勝で士気は高揚。山のように運び込んだ兵糧が功を奏し、あと1年は余裕で戦えるほどだった。

島津家は諦めずに猪突猛進攻撃を仕掛け続けた。しかし、鶴賀城の圧倒的な守りを突き崩すことはできず、開戦から1カ月で死者は4,000人に達した

利光軍は敵が弱気になったところを見逃さず、城外でも戦いを仕掛けた。しかし、籠城戦を止めたことで島津家は息を吹き返した。

宗魚は合戦の最中に流れ弾を受け、死亡。家臣はその死を隠し最期まで奮闘したものの、その多くが討死した。

数か月後、主を失いながらも鶴賀城に立てこもった家臣と兵士たちは、大野川沿いの合戦(戸次川の戦い)で大友氏を含む連合軍が島津家に大敗したことを知り、降伏した。

利光軍の兵士二千名は、鶴賀城周辺に打ち捨てられた島津家兵士の遺体搬出を命ぜられた。

遺体搬出を終えた利光軍に対し、島津家久は一切恩赦を与えず、半数は処刑。もう半数は豊後国内の牢獄へ放り込んだ。

処刑は鶴賀城内で行われた。島津家の兵士たちは対象者の両手両足を固縛、城内に放置したうえで火を放った。

鶴賀城と一緒に燃え尽きた約一千名の魂は、今も同地周辺を彷徨っているのかもしれない。

まとめ
鶴賀城で繰り広げられた籠城戦の死者は、両軍合わせて五千名以上

利光軍の兵士たちは主を失った後も奮闘したが、最期は鶴賀城と共に燃え尽きた

基本情報
心霊スポット鶴賀城跡
(つるがじょうあと)
所在地〒879-7764
大分県大分市大字上戸次
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
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平和市民公園

大分市の繁華街、一級河川「裏川」沿いに整備された『平和市民公園』は、多目的広場や集会所などを含む総合公園として1990年にオープンした。

同園では霊の目撃情報が相次いでおり、大分県を代表する心霊スポットのひとつと噂されるようになった。これまでに目撃された霊は、「裏川から女性が這い出てきた」「園内の通路に遺体が並べられていた」など。

同園は1990年まで「裏川公園」と呼ばれ、霊が出没すると噂になっていた。しかし、園および周辺の大規模改修に伴い、平和市民公園という「明るく前向きな名称」に変更された。

同地の伝承に詳しいA氏曰わく、「江戸時代末期に裏川の河川敷で発生した殺人事件を知る者は少ない。当時の住人たちは事件を町のタブーと考え、後世に語り継ごうとしなかった。しかし、殺された者たちの魂を放置した結果、裏川の河川敷周辺は霊のたまり場になった」という。

1830年頃、裏川河川敷近くの萩原地区は、豊後国一の働き者たちが集まる村と噂になっていた。庄屋は栄え、商店の経営者、農家、漁師、みな生真面目に働き、散財もせず、税を滞納する者はひとりもいなかったという。

1835年、豊後国を襲った飢饉は府内藩にも深刻な影響を与えていた。米の収穫量は例年の3割にも満たず、さらに深刻な水不足が落ち打ちとなり、領民たちは飢えた。

萩原地区の住人たちは、万が一の事態に備えて米や作物をタップリ蓄えていた。しかし、これを公にすれば、飢えている者たちの標的にされてしまう。村のリーダー格だった庄屋は住人たちに対し、「食料の蓄えがあることは口外せず、いつも通りの質素な生活を心がけること」と御触れを出した。

隠し事がバレるのは世の常である。府内藩内の餓死者が数百名に達した頃、クワや竹やりで武装した男たちが萩原地区集落を襲撃。倉庫に隠していた米や作物は全て奪われ、村のリーダー格だった庄屋は富を独り占めした罪で突き殺された。

萩原地区を襲撃した集団は十数名から百名以上に膨れ上がり、住人たちはひとり残らず捕縛された。

襲撃を主導した男たちは、裏川の河川敷に住人たちを移送。子供と赤子を除く男女を叩きのめした。その後、リンチはエスカレートし私刑に発展した

この時、両親の命を案じた子供が、ロザリオを持って許しを請うた。しかし、キリスト教は幕府の命により禁教として扱われている。男たちは、「隠れキリシタンに制裁を加える」という名目で私刑を開始した。

住人たちはひとりずつ柱にくくりつけられ、ゆっくり炙(あぶ)られた。炎の勢いをあえて弱くし、ジワジワと焼き殺したのである。まず、子供と赤子が刑に処された

目の前で子供を焼き殺された両親たちは、怒りに震え、憤怒の炎を燃え上がらせていた。ある母親は、怒りのあまり額の血管が切れ、耳と鼻から血をまき散らし絶命、眼球は眼底から飛び出し、人間とは思えないほど口がねじ曲がっていたという。

男たちは怒りに身を任せ、萩原地区の住人をひとり残らず焼き殺し、遺体は河原に放置、野生動物のエサにした。

以来、裏川の河原周辺には殺された住人の霊が現れると噂になった、さらに、怒りの力だけで自死した母親は大怨霊になったと言われ、「その姿にそっくりな女が裏川から這い出てきた」という通報が何十件も寄せられたという。

まとめ
平和市民公園は霊のホットスポット。名称を変えても、同地で死んだ者を供養することはできない

萩原地区の住人たちが本当に隠れキリシタンだったか否かは不明である

基本情報
心霊スポット平和市民公園
(へいわしみんこうえん)
所在地〒870-0100
大分県大分市萩原緑町1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
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【高速】大分空港から約1時間5分

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②アクセス
【一般道】大分駅から約10分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト大分市 公式ホームページ

まとめ

今回は別府市他、計5市の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

今年の夏はコロナウイルスと暑さから身を守ることに注力したい

今回紹介した心霊スポットを散策する際は、除霊グッズ、お供え用の花、線香などをお忘れなく。なお、真昼間は熱中症になる危険性が高いため、体調最優先で行動してほしい。最後までお読みいただきありがとうございました。

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