心霊スポットを探索する際は、万一の事態に備えて、必要最低限の装備(お供え物、線香、お花など)を準備しておいた方が良い。
霊が直接殴りかかってくることはないと思う。ただし、彼らのテリトリーに入ったことで体調を崩したり、不幸に見舞われることは十分あり得る。私も数回経験したことがあり、その都度友人のシャーマンに除霊をお願いしている。
身に覚えのない罪を着せられ死んだ者、身の毛もよだつ拷問を受け地獄の苦しみの果てに死んだ者、すなわち、現世に怨みつらみを残して憤死した者は、怨霊になる。怨霊になった者は成仏するまで現世を彷徨い続け、テリトリーに入った不特定多数を襲うのである。
今回は山鹿市他3市1郡の最恐心霊スポット12カ所(PART4)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.山鹿市
・豊前街道
・岩隈山の切り通し
・山鹿城跡
2.玉名郡
・大堤池
・吉次峠
3.玉名市
・高瀬船着場跡
・仁王ヶ滝
4.荒尾市
・賀庭寺古塔群
・岩本橋
5.熊本市
・池辺寺跡
・一の坂
・ナルシストの丘
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豊前街道
『豊前(ぶぜん)街道』は、熊本市から山鹿市を通り、そこからさらに北上、大分県の西部から福岡県(旧豊前国)までを結ぶ全長数百キロの街道である。現在も一部エリアでは旧道として利用可能であり、山鹿市の繁華街には古き良き時代の面影を残す住居や商店などが軒を連ねている。
豊前街道に霊が出る、という噂が広まり始めたのは江戸時代中頃からだと同地の歴史に詳しいT氏は語る。ただし、街道のあちこちで目撃されたわけではなく、山鹿市の中西部、「菊池川」沿いの一部エリアに限られているようだ。
T氏曰わく、「江戸時代初頭、菊池川沿いに住んでいたある商人とその家族は、キリスト教を信仰する熱心なキリシタンとして知られていた。当時、キリスト教は異教と言われていたものの、厳しい弾圧はまだ行われていなかった。しかし、島原の乱が発生してことで、潮目が変わった」という。
徳川幕府連合軍と「天草四郎」率いるキリシタンと農民たちの戦いは肥後国にも当然波及し、大変な騒ぎをもたらした。その後、連合軍の攻撃で壊滅したキリシタンの一部が九州各地に逃亡したため、狩りが行われたことは周知の事実である。
菊池川沿いに住んでいた商人は、農民や武士よりはるかに裕福な生活を送っており、一部の町民たちに疎ましく思われていた。ある日、肥後国藩主、細川家の家臣および兵士100名ほどが同地に入り、隠れキリシタンの情報を提供した者に金一封を授ける、という御触れを出した。
キリスト教を邪教と信じていた町民の一部は、商人が隠れキリシタンであることを家臣の兵士に暴露した。さらに、先日、「同地に逃れた賊軍の一部を匿い、食料を与えたうえで逃亡の手助けまでしていた」という虚偽報告を行った。
これを聞いた家臣は怒り狂い、商人宅を急襲。さらに、家族、親族、知人、友人とその家族、総勢100名ほどを捕縛した。
商家の主人はキリシタンであることを認め、「今すぐ改宗するから、私以外は全員助けてほしい」と懇願した。しかしこの時、九州各地で同じような事案が発生し、キリシタンの心の中からキリストを取り払うことはできない、と大名の中で噂になっていた。
捕縛された約100名は市中を引きずり回され、住民たちから罵声と中傷を浴びた。ひどい者は自分の糞尿を女子供の顔に擦りつけ、大喜びしたという。
細川家は主犯の商人を幽閉、家族や親族たちは処刑せよ、と指示を出した。事件発生から2週間後、商人とその関係者たちは菊池川沿いの河原に移送され、百叩きの刑に処された。体力のない老人と子供は、5分も持たずに死んだ。女たちは全裸状態で全身を激しく打たれ、屈辱と恥辱にまみれて死んだと言われている。
幽閉されることが決まっていた商人は、これらの処刑を最初から最後まで鑑賞するよう指示されていた。家族や知人などを目の前で惨殺された商人は、己の怒りだけで脳を溶かし、自死した。T氏の持つ伝承資料には、「商人は両手両足を拘束され、猿ぐつわを噛まされた状態にも関わず、怒りと怨みつらみを極限まで募らせ、目、鼻、耳から脳漿を噴出したのち、死んだ。その死に様はあまりに凄まじく、人々は鬼の形相、この世の地獄を見た顔と噂した」と書かれていた。
菊池川沿いの豊前街道で目撃される霊は、「河原に遺体が転がっていた」「血だらけの女性が襲いかかってきた」など。
<まとめ>
◎豊前街道と菊池川の接するエリアでは、霊の目撃情報が相次いでいる。
◎商人の家族は虚偽報告によって処刑されたことで怨霊化した、と思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 豊前街道 (ぶぜんかいどう) |
所在地 | 〒861-0501 熊本県山鹿市山鹿1776 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約50分 【高速】熊本空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 山鹿温泉観光協会 公式ホームページ |
岩隈山の切り通し
山鹿市菊鹿町(きくかまち)の山中に「岩隈城(いわくまじょう)」と呼ばれる幻の城があったことを知る者は少ない。なお、福岡県京都(みやこ)郡に同名の城があったことはよく知られているが、それとは全く別物である。
ここで紹介する『岩隈山の切り通し』は、岩隈城の南側に位置する両サイドを断崖に囲まれた街道の通称である。人の手によって切り開かれたものではなく、はるか昔の地殻変動によって形成されたと考えられており、同エリアの主要街道として重宝されていたようだ。
岩隈城城主、「豊田氏」は猛将と恐れられ、自分の領土を狙う者はひとり残らずコマ切れにすることで知られていた。結果、領民たちは狂人と恐れられた城主のもとで安定した生活を送ることができた。
しかし、安定した生活は室町時代後期に破綻し、戦国時代に入ると戦が頻発した。これまで好き勝手にやってきた豊田氏を怨む豪族たちが次から次へと岩隈城に攻め込み、同地周辺では、連日連夜男たちの叫び声が響き渡ったという。
当時、岩隈城正門へのルートは1本しかなく、岩隈山の切り通しを必ず通過しなければならなかった。なお、その他のルートは林と10mを超える断崖絶壁に覆われており、人間の力で通過することは不可能と言われていた。
敵軍はこの街道を通過することができなかった。理由は、岩隈氏の待ち伏せが強烈過ぎたためである。断崖の上部に弓部隊を配置し、油をタップリ含ませた火炎弾と同時攻撃を仕掛けると、狭い街道上は炎に包まれ、数百名の敵部隊はひとり残らず焼け死んだ。街道上に油をぶちまけておくことで、キルゾーンが形成され、通過は不可能と恐れられたのである。
街道がキルゾーンとして機能した理由は、通路の狭さと長さにある。敵兵は狭い通路を慎重に進む。すると前方で大爆発が起き、進路を阻まれる。それに続き、通路の入り口付近でも爆発が発生。炎の中に閉じ込められた敵兵は断崖上空から弓で射られた。さらに、油や火薬代わりになる松、松ぼっくりなどが大量に投下されると、炎は爆炎に代わり、あらゆるものを焼き尽くした。
岩隈城は難攻不落の城と恐れられた。しかし、城への通路が一本しかなかったため、籠城戦は苦手だった。それに気づいたのは、南薩摩の大大名、鬼島津こと「島津義弘」だった。
義弘は肥後国平定に当たり、兵士の士気を高めるべく、岩国城を最初に落とすと決めていた。同地の伝承を代々受け継いできたF氏曰わく、「島津家は岩隈氏の兵糧部隊を打ちのめし、米などの食料を奪取。その足で岩隈氏に宣戦布告したのち、岩隈山の切り通し近くに陣をはった。それから約3週間、島津義弘は兵士たちに酒や米をタップリ振る舞い、連日連夜宴会を開いた」という。
岩隈氏は領内の砦や施設に兵糧を何度も依頼したが、刺客は島津家にことごとく捕縛、斬られた。その後、岩隈城の危機を察した家臣が兵を率いて島津家と対峙するも、腹を満たした兵士たちは義弘の指揮下で鬼のような強さを見せ、救援部隊は木っ端みじんに粉砕された。
籠城戦開始から2か月後、岩隈氏は降参を申し出たが、義弘はこれを無視。機は熟したとばかりに1,000人の兵士を一気に前進させ、ひとりの死者を出すこともなく岩隈城を奪取。中にいた藩主、家臣、兵士はひとり残らず焼き払われ、城ごと燃え尽きたと言われている。
岩隈山の切り通しは観光地として人気を集める一方、夜になると霊が出没すると噂になっている。F氏の伝承資料によると、この街道で死んだ者の数は数千人にのぼり、死者を供養するために断崖下部を削り、墓や供養碑が設置されたという。
<まとめ>
◎岩隈山の切り通しは、難攻不落を誇った岩隈城のキルゾーンだった。
◎待ち伏せ攻撃によって命を落とした者たちを供養すべく墓や碑が建立されたものの、霊はいまだに出没するという。
基本情報 | |
心霊スポット | 岩隈山の切り通し (いわくまやまのきりとおし) |
所在地 | 〒861-0426 熊本県山鹿市菊鹿町木野 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約55分 【高速】熊本駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 山鹿観光なび |
岩隈山の切り通し。
— 田舎のもぐら@ 🚴ソロライド🚴♀️ (@Inakanomogura) April 19, 2020
結構迫力がある。#岩隈山切り通し pic.twitter.com/KkNeMJznIu
山鹿城跡
山鹿市最大の観光スポット兼歓楽街として人気を集める「山鹿温泉」の南に「山鹿城(やまがじょう)」と呼ばれる菊池一族の丘城があったことは、意外と知られていない。戦国時代に破却されたと言い伝えられている丘城の跡地は『山鹿城跡』と呼ばれ、そのエリアには「清滝神社」「光専寺」、そして民家が建設された。現在の姿を見ると、そこに城があったとは到底思えないはずだ。
山鹿城にはある因縁があり、その影響で霊が出没するようになったと言い伝えられている。そして、同地に移り住んできた住人たちはその事実をほとんど知らない。私は熊本県の歴史を研究するA氏(某大学教授)と共に、山鹿城の伝承に精通するG氏という老夫婦宅を訪ねた。
G氏曰わく、「山鹿城主の山鹿氏は、島津家の侵攻に屈し、城を明け渡した。そして、豊臣秀吉の命を受け、破却されたと信じられていた。しかし、それは大きな間違いだ。あの小さな丘城は、堀を埋め立て、その周りに目隠しとして住居などを建てたのち、江戸幕府が施行した一国一城令後も生き延びた」という。
一国一城令の無視は、徳川幕府への反逆を意味する。しかし、山鹿城は天守を取り除き、大方の施設を解体、堀も埋め立てていたため、外から見て城と判断できる要素はほとんどなかった。城としての機能をほぼ失っていたことから、肥後国藩主、細川氏も屋敷として扱い、”事実上”破却したと上方に報告していたという。
1638年、天草地方で発生した島原の乱が終結し、肥後国でも隠れキリシタン狩りが行われていた。この時、同地には100名程度のキリシタンが潜伏しており、キリスト教を信仰する豪族に匿われていたという。
豪族は旧山鹿城の使用許可を与えられていたため、そこにキリシタンたちを隠し、混乱が収まったのち、肥後国の集落や町に分散逃亡させるつもりでいた。しかし、ボロボロの男女が館に入るところを町の住人たちはしっかり目撃しており、役人に通報。豪族の不審な動きは藩主の耳に届いた。
細川氏は江戸徳川幕府にこの事実を知られれば大変なことになると頭を抱え、家臣団に調査を指示。もし、本当に隠れキリシタンが潜伏していれば、旧山鹿城を含め、証拠になりそうなものを跡形もなく消し去れ、と命じた。
3日後、旧山鹿城は細川氏の家臣率いる2,000の兵士に取り囲まれた。そして、一斉に火矢が放たれ、旧山鹿城だけでなく、その近くに建てられた住居、施設なども全て燃やし尽くされたという。この際、炎に巻かれ飛び出してきた者たちは、ひとり残らず銃もしくは矢で射られた。
周辺住人たちを巻き込んだ大火は、辺りを焦土に変え、旧山鹿城は跡形もなく消え去った。しかし、唯一、高さ15mほどのムクノキだけは黒焦げになりながらも生き永らえたという。前日までの雨で表面が湿っており、燃え尽きなかったものと推察される。
大火で犠牲になった者の数は不明。その後、旧山鹿城跡地に清滝神社が建立され、死者を祀った。以降、霊の目撃情報が相次ぎ、現在に至る。なお、黒焦げになったムクノキは驚異的な勢いで回復。その根元で焼死した者たちの魂を吸い取り、30m超の巨木に成長したと言い伝えられている。
<まとめ>
◎城としての機能を失った旧山鹿城は、屋敷として利用されていた。
◎大火は隠れキリシタンだけでなく周辺住人も燃やし尽くし、結果、同地は霊のホットスポットになった。
基本情報 | |
心霊スポット | 山鹿城跡 (やまがじょうあと) |
所在地 | 〒861-0501 熊本県山鹿市山鹿 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約55分 【高速】熊本空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
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関連サイト | 山鹿温泉観光協会 公式ホームページ |
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大堤池
有明海に面した玉名郡長州町(ながすまち)の中央付近に『大堤池(おおつつみいけ)』と呼ばれる農業用ため池がある。現在も周辺の田畑に水を供給する役目を担っており、農家にとって欠かすことのできない存在だという。
昨年、「大堤池に霊が出没し怖くて近づけないので、ぜひ除霊をお願いしたい」という問い合わせが私のもとに届いた。私は心霊スポットを勝手に調査することが趣味の変人であり、除霊能力は一切持ち合わせていない。しかし、「助けてください」とキレイな女性に懇願され、何とかしますと返事をしてしまった。
私は友人のシャーマンに救援要請を出し、現地調査のヘルプをお願いした。調査に先立ち、長洲町周辺の伝承に詳しい方を自治会関係者から紹介してもらった。
H氏という老婆曰わく、「長洲町の伝承は、1792年の島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)でほとんど洗い流されてしまった。現在、同地に伝わる現象は、普賢岳の噴火以前のものばかりである。噴火に伴う大津波は集落を消し飛ばし、その後降った灰は生存者たちを苦しめた」とのこと。
島原大変肥後迷惑を記す資料は現存しないと言われてきたが、老婆の自宅にしっかり残されていた。記されている情報の真偽は不明だが、大津波の脅威を知るには十分だった。そして、噴火およびそれに伴う山体崩壊の影響で大堤池が大変なことになった結果、霊のホットスポットになったのだろう、と私とシャーマンは推測した。
当時、島原では小規模噴火と地震が頻発していた。そして、巨大地震がトリガーとなって普賢岳の山体が崩壊、同時に噴火も発生し、火砕流と大量の土砂が有明海に流入。土砂の流入により高さ数十メートルの巨大津波が発生し、対岸の肥後国西岸を飲み込んだ。
津波と噴火により肥後国だけで5,000人以上が死亡した、と言われているが、その後の大飢饉で死亡した者の数は含まれていない。有明海の水が土地を侵し、さらに火山灰、天候不良、大雨などが重なり、その年は記録的な不作を記録。人々は飢えた。
津波は大堤池周辺まで到達した。結果、池は死体で溢れ、野生動物たちの餌場になった。その後、水は腐り、ひどい腐臭を放つようになったため、人々は同池周辺に近づかなくなった。
噴火から数か月後、記録的な不作の影響で人々は飢え、正気を失った。さらに、津波と火山灰の影響で湧水点も利用できず、飢えと水不足のダブルパンチは住人たちにとどめを刺した。
ある日、大堤池に食料がある、と噂になった。ガリガリにやせ細った人々は、津波の影響で腐りきった水をガブガブのみ、かろうじて原型をとどめる水死体を喰い漁った。餓死した者たちは骨と皮だけになっており、食べても美味しくなかったのだろう。
しかし、腐った水と水死体を食べたことで、今度はおぞましい疫病が大流行し、何とか生き永らえた人たちもバタバタと倒れた。
私とシャーマンは管理組合から許可をいただき、大堤池の麓に向かった。その後、シャーマンは祈祷を、私は池の端に建立された小さな慰霊碑とその周辺を半日がかりで清掃した。1週間後、依頼人から「霊を見なくなった」と情報をいただき、同案件は無事処理されたと思った。
祈祷を行った日の翌日、私は突然の高熱に見舞われ、救急車で病院に搬送。一時、危篤状態に陥り、危うく地獄に送られるところだった。なお、倒れた理由はドクターにも分からず、原因不明の高熱だろうと言われた。
<まとめ>
◎大堤池の伝承は真偽不明。ただし、霊が目撃されていたことと、私が呪われ、死にかけたことは事実である。
◎島原大変肥後迷惑の伝承資料は超貴重である。しかし、老婆から口外厳禁、と釘を刺されてしまった。
基本情報 | |
心霊スポット | 大堤池 (おおつつみいけ) |
所在地 | 〒869-0101 熊本県玉名郡長洲町大字宮野 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間15分 【高速】熊本空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 長洲町 公式ホームページ |
吉次峠
日本史上最後の内戦、「西南戦争(西南の役)」は、熊本県内各地でも激しい戦いが繰り広げられてことで知られる。その中のひとつ、『吉次峠(きちじとうげ)』は、薩軍および官軍合わせて数百名の犠牲者を出し、心霊スポットとして恐れられるようになった。
しかし、同地が霊の出没スポットになった理由は、吉地峠の戦い以前に発生したある合戦が原因だと考えられている。玉名郡玉名町で生まれ育ち、ご両親から同地の伝承を受け継いだというT氏曰わく、「西南戦争で吉地峠が戦場に選ばれた理由は、ここが戦いやすい土地だからだ。ここは高台に位置し、敵の動きを察知しやすく、かつ、待ち伏せにも向いていた。はるか昔から合戦場として利用されてきたのも当然だろう」と述べた。
同地周辺には、吉地峠の戦いで犠牲になった戦死者を祀る墓地、慰霊碑、忠霊塔まで建立されている。建立者は施設によって異なるが、いずれも死者に哀悼の意を捧げ、その死を悼んだ。つまり、戦死者をしっかり供養し、怨霊になってほしくないと考えたのである。
吉地峠で目撃される霊は、「鎧武者が襲いかかってきた」「騎馬隊が槍を振り回しながら突進してきた」など、攻撃的かつ西南戦争以前の戦い(合戦)で亡くなった者をイメージさせる。
江戸時代以前に同地で戦死した者たちの多くが供養されることもなく、野生動物のエサとなり、ゴミのように扱われたとT氏の資料に記されている。戦国時代、肥後国の統一を目論む豪族たちは、激しい領土争い繰り広げ、その都度おびただしい数の死者を出してきた。
合戦が激しさを増した理由は、南薩摩から島津家が侵攻してきたためである。同地を治めていた阿蘇氏は、島津義弘率いる鉄砲部隊に何度も辛酸をなめさせられており、吉地峠での一戦で大勝負を仕掛ける覚悟だった。
島津軍1,500名と対峙した阿蘇氏は、敵兵を高台の狭いエリアに誘い込んだ。そして、敵軍の列が縦に伸びた瞬間を狙い、林の中に潜ませた別動隊でその横っ腹を突く作戦だった。しかし、義弘はこの作戦を読み切っており、同じく別動隊を敵軍の背後に移動させていた。
島津軍はわざと罠にかかるを素振りを見せ、阿蘇氏を油断させた。そして、別動隊(鉄砲隊)に指示を出し、背後から急襲させたのである。阿蘇氏は銃弾の雨にさらされ大混乱に陥った。林の中に潜んでいた仲間たちは、自分の危機を知り、応援に向かおうとした。
義弘はこのタイミングを見逃さず、林の中から飛び出してきた敵兵を追いかけ、背後から突いた。兵士たちは統制を失い、バラバラに行動し、粉砕されたのである。阿蘇氏滅亡のきっかけとなったこの戦いの戦死者は、島津軍30名に対し、阿蘇軍850名。目を覆いたくなるほどの凄まじい負けっぷりを見せつけられた周辺住人たちは、「今すぐ島津家への属従を誓うべし」と噂した。
島津軍は見せしめとして敵兵の首を全て切り取った。その後、林の樹で槍を作り、遺体を串刺しにしたのち、さらした。切り取った首も同じく串刺しにされ、周辺の街道脇に設置。通行人たちは生首が乱立する様子を見て震え上がった。
吉地峠に出没する霊は全て江戸時代以前の者である、と断定はできない。しかし、遺体をゴミのように扱われ、野生動物のエサにされた者たちと、墓や忠霊塔まで建立し供養された者たちを比べれば、どちらが怨霊になるかは一目瞭然である。
なお、島津家に粉砕された阿蘇氏の兵士の遺体は、数カ月間放置され、完全に朽ち果て、辺り一面人骨で覆い尽くされた。しかし、彼らの骨を埋葬する者はひとりもおらず、風化し、消え去ったと言い伝えられている。
<まとめ>
◎吉地峠ははるか昔から合戦場として利用され、その都度おびただしい数の死者を出してきた。
◎ゴミのように扱われた者たちは怨霊になり、しっかり供養された者たちは成仏する、と私は思う。
基本情報 | |
心霊スポット | 吉次峠 (きちじどうげ) |
所在地 | 〒869-0322 熊本県玉名郡玉東町原倉2334 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約50分 【高速】熊本空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 熊本県観光連盟 公式ホームページ |
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高瀬船着場跡
『高瀬船着場跡』は、江戸時代に交易の拠点として使用された船着き場の跡地である。一級河川「菊池川」の下流に位置し、米や作物などを移送する拠点になったと言い伝えられており、玉名市を代表する重要な史跡として大切に保存されている。
熊本県の歴史を研究するA氏(某大学教授)と一緒に同地を訪れた際、私は運よく(?)霊を目撃した。真夜中、近くのホテルから、同船着場に足を運んだところ、川べりに立っていた女性が菊池川に飛び込み姿を消したのである。
入水自殺と思い、110番仕掛けたところ、またしても川べりに女性が現れ、今度は私の方に顔を向け、飛ぶような勢いで前進してきたことを鮮明に覚えている。私は回れ右をしたのち、半泣き状態で全力疾走。その直後、背後で女性と思われるおぞましい悲鳴が聞こえた。
翌日、A氏から高瀬船着場で起きた悲しい事件とその顛末を聞いた。曰わく、「江戸時代末期、船着場のすぐ北に米や作物の移送で富を得た高田氏という商人が住んでいた。立派なお屋敷には女中が何十人も務めており、町一番の美女と噂された10代の”きく”目当てで訪れる男性客も多かった」とのこと。
きくは皆から「お菊」と呼ばれ、高瀬船着場を訪れた商人たちから羨望のまなざしを向けられたという。しかし、お菊は菊池川のほとりで辱められ、その後自殺したと言い伝えられている。
町一番の美女と評判だったお菊には結婚を約束した”許嫁(いいなずけ)”がいたらしく、他の男性に興味を抱くことはなかった。しかし、商人のもとで一緒に働く一部の女性衆はそう思わず、「若い男を見境なくたぶらかし、金目のものを全て奪い取る女狐」と呼んでいた。
女性特有(?)の陰湿なイジメほど怖いものはない。女性衆は男たちからちやほやされるお菊を羨み、ひどい目に合わせたいと考えた。女性衆は腕っぷしに自信のある侍崩れの浪人数名に金を払い、お菊と彼女の許嫁を誘拐させた。
真夜中、誘拐された二人は高瀬船着場の端で対面した。女性衆は、浪人たちにお菊を辱めろと指示を出した。お菊は許嫁の目の前で衣服をむしり取られ、貞操を奪われた。その後、浪人たちは体力の許す限りお菊を犯し続けた。
数時間後、ボロボロにされたお菊は、とどめとして許嫁が切り殺される瞬間を見せつけられた。浪人たちは遺体を菊池川に捨て退散。女性衆は全裸で泣き続けるお菊をせせら笑い、その場を後にした。
翌日、貞操と許嫁を奪われたお菊は、菊池川に身を投げた。遺体は数日後に回収されたが、魚に食われ、「町一番の美女もどざえもんになれば醜くなる」と人々は噂し、笑いのネタにしたという。
「お菊の入水自殺」後、裕福だった高田氏は事業の失敗により全てを失った。当然女性衆も職を失い、解雇された。1か月後、お菊を罠にハメた女性衆と浪人たちは、目撃者の証言が決め手となり捕縛。浪人たちは斬首、女性衆たちは市中引きずり回しののち、斬首された。
私が目撃した霊は、お菊と考えてまず間違いないだろう。後日、私はお花とお供え物を準備し、明るい時間に同地へ足を運んだ。幸い、彼女の霊に会うことはなかった。
<まとめ>
◎お菊の入水自殺は、同地の周辺住人にのみ伝えられる伝承とのこと。
◎高瀬船着場跡は心霊スポットと噂になっているが、お菊のことを知る人は少ないようだ。
基本情報 | |
心霊スポット | 高瀬船着場跡 (たかせふなつきばあと) |
所在地 | 〒865-0024 熊本県玉名市永徳寺414-34 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間5分 【高速】熊本空港から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 玉名市 公式ホームページ |
今日はランチの後、急遽お出掛け。
— FULL2 (@full1207) May 31, 2020
高瀬船着場跡に行ってみた。昨年の大河「いだてん」の撮影が行われた所であり、大友宗麟がここから大砲を運んだ所でもある。
釣りに来てる人が結構いて、船着場の前は車が停まってて引きの写真が撮れず(^_^;) pic.twitter.com/eRJdGtaTrW
仁王ヶ滝
玉名市の北部、町道の終点に整備された駐車場から10分ほど林道を進むと、『仁王ヶ滝(にんのうがたき)』と呼ばれる小さな滝が見えてくる。ここには数十体の仏像、観音像、仁王像などが設置されており、霊的な雰囲気に包まれている。
仁王ヶ滝は有名観光スポットではない。よって、人の往来も少なく、穴場のスピリチュアルスポットして一部のコアなファンから人気を集めているようだ。しかし、同地で発生したおぞましい伝説を知る者は少ないようだ。知っていれば、不用意に足を運ぼうなどとは決して思わない。
まず、数十体の仏像、観音像、仁王像が設置されている時点でおかしいと思わなければならない。なお、最も印象的かつ迫力のある仁王像の設置時期および設置者は不明。しかし、数十体の仏像の設置理由は、同地の伝承にしっかり残されていた。
同市石貫(いしぬき)地区の伝承に詳しいU氏曰わく、「室町時代末期、仁王ヶ滝周辺は賊たちの盛り場だったと言われている。しかし、町があったわけではなく、捕縛した女子供を辱め、痛めつける場所として利用されていた。戦乱の世に治安もクソもなく、賊たちは大挙して集落を襲い、金目のものや食料、女子供を奪い、悠々自適な生活を送っていた」という。
U氏の伝承資料によると、室町時代末期から戦国時代末期まで、同地は賊の拠点として利用され、目を覆いたくなるような悪事が何度も繰り広げられていたようだ。そして、同地で犠牲になった者たちを供養するべく、数十体の仏像が設置されたとのこと。
同滝周辺は勾配が少なく、北部の山岳地帯からもたらされる湧水にも恵まれている。賊たちは、食料さえ持ち込めば十分生活できると考え、数十名規模の拠点を作り、豪族たちの領土争いにはわき目もくれず、周辺集落を襲った。
拉致された女子供たちは盗賊の慰みものにされ、中には無理やり子供を産まされた者もいたという。産婆も一緒に誘拐したと資料に記されており、本気で賊のコミュニティを作るつもりでいたのかもしれない。
賊たちは襲撃した集落の男たちを必ず生かし、半年から1年後に再度襲撃するという手法を好んだ。襲撃から立ち直り、作物や米の収穫時期を狙い、運が良ければ新しい女子供も捕縛できると考えたためである。
賊たちが活動を始めてから数年後、拉致されていた女性一名が脱出に成功し、他の集落に助けを求めた。通報を受け、肥後国を治めつつあった島津家が300名規模の大隊を編成、賊の討伐に動き出した。
しかし、賊たちは事前に危険を察知し、仁王ヶ滝から撤退、別の地に移ることを決めていた。拠点を奪われた賊たちは、見せしめに女子供、産婆、乳飲み子、計30名を処刑したうえで、遺体をバラバラに切り刻み、滝周辺にバラまいたという。
島津軍300名は惨殺された領民を供養したうえで、賊の追跡を開始。1週間後、捕縛に成功した。
鬼島津こと島津義弘は、地獄すら生ぬるく感じる極刑を賊たちにプレゼントした。賊たちは四肢の指を1本ずつ切り落とされた。もちろん出血多量で死ぬことは許されず、高温で熱した鉄を傷口に当てられ止血。その後、全身の皮をナタやノコギリで削ぎ落され、とどめに火であぶり殺したという。
この処刑は菊池川の河原で一般公開された。見学に訪れた数百名の聴衆たちは、かつてない盛り上がりを見せたという。なお、おぞましい拷問の末に焼死した盗賊たちの遺体は、骨になるまで干乾しされ、河原の近くにあった肥溜めに遺棄されたとのこと。
<まとめ>
◎賊に天誅を下したことは素晴らしい。しかし、拷問死した男たちが怨霊になることも想定すべきだろう。
◎仁王ヶ滝周辺では、女性と思われる霊の目撃情報が相次いでいる。
基本情報 | |
心霊スポット | 仁王ヶ滝 (にんのうがたき) |
所在地 | 〒865-0008 熊本県玉名市石貫 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間15分 【高速】熊本空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 玉名観光協会 公式ホームページ |
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賀庭寺古塔群
熊本県には、「平家落ち人伝説」関連の遺構があちこちに残されている。なお、伝承の中には資料が残されているものも多々あり、史実とは明らかに異なる内容が記されていると、恐竜の化石を見つけたような気分を味わえるだろう。
ここで紹介する『賀庭寺古塔群(がていじことうぐん)』も平家落ち人伝説を伝える遺構のひとつである。賀庭寺は平安時代末期に建立されたと言い伝えられており、平清盛の嫡男、「平重盛(たいらのしげもり)」を祀っている。なお、重盛は源氏との一大決戦、「壇ノ浦の戦い」前に病死した。
賀庭寺の周囲には100基以上の五輪塔(ごりんとう)などが建立され、熊本に落ち延びた平家の落ち人たちが同地に眠っていると噂されてきた。そして、いつしか霊が現れると恐れられるようになり、心霊スポット化したのである。
昨年、熊本県の歴史を研究するA氏(某大学教授)から荒尾市出身の歴史家Y氏を紹介され、お会いすることになった。その時、初めて賀庭寺および古塔群のお話を伺い、度肝を抜かれたことを覚えている。
Y氏曰わく、「同地に落ち延びた平家一族は、平資盛(すけもり)とその家臣数名と伝えられている。資盛は重盛の次男であり、嫡男の維盛(これもり)より優秀かつ聡明と言われ、次の当主と噂された男だった。しかし、史実では壇ノ浦の戦い後に自害したと”信じられている”ため、真偽は不明」とのこと。
資盛が落ち延びたか否かは誰にも分からない。ただし、賀庭寺周辺で目撃される霊とY氏の持つ伝承資料にはつながりがあり、何とも不安な気持ちにさせられてしまった。
鎌倉時代、肥後国に落ち延びた平家の残党は、身分を偽り、少人数で行動した。資盛とその家臣は、偶然見つけた賀庭寺に助けを求め、出家したいと申し出た。住職は了承し、資盛たちは頭を丸め仏門に帰依した。
征夷大将軍に任命された「源頼朝」は、九州各地に分散逃亡した平家の残党を殲滅すべく、九州の豪族たちに支援を求めた。大半の豪族たちは、皇族をコントロールし、荘園制度などの悪法を日本中に広めた平家一族の殲滅を願っていたため、頼朝の依頼を快く受け、追跡隊を組織した。
数週間後、賀庭寺に身元不明の男数名が潜伏していると噂になった。同地を治めていた豪族は、100名規模の隊を引き連れ、同寺院を完全に包囲した。
住職は隊に対し、先日、男数名が出家したと報告。これを聞くと兵たちは大喜びし、今すぐ罪人を引き渡せと要求した。しかし、一度出家した者は兵士でも農民でも商人でもなく、仏にのみ使える僧侶になる。住職は申し出を拒否し、「いかなる理由があろうと、出家した者を殺めてはならない」と指摘した。
この発言を聞いた家臣のひとりが、「賊軍に味方する者は、反逆罪と判断し、即処刑もあり得る」と住職を脅した。しかし、住職は顔色一つ変えず、同じことを繰り返すのみ。怒り心頭の家臣は、賀庭寺本体を焼き払うよう命じた。
火を放とうとした直後、寺院の奥から資盛とその家臣が姿を現し、「いかなる理由があろうと、寺に火を放ってはならない。私たちの命を預ける代わりに、寺院には傷ひとつつけてくれるな」と嘆願し、連行された。
九州各地に分散逃亡した平家の残党の大半が捕縛、もしくはその場で処刑された。なお、出家した資盛たちが処刑されたか否かは資料に記されておらず、賀庭寺のその後についても不明である。
賀庭寺古塔群で目撃された霊は、「坊主頭の僧侶」「五輪塔周辺におびただしい数の坊主の生首が転がっていた」など。
<まとめ>
◎賀庭寺は火刑を免れた。しかし、住職や資盛たちがその後どうなかったかは不明である。
◎坊主の生首が転がっていた、という霊の目撃情報が多く寄せられている。豪族たちは仏門に帰依した者たちを容赦なく殺したのかもしれない。
基本情報 | |
心霊スポット | 賀庭寺古塔群 (がていじことうぐん) |
所在地 | 〒864-0165 熊本県荒尾市樺堂辺田 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間15分 【高速】熊本空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
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関連サイト | 荒尾市観光協会 公式ホームページ |
岩本橋
令和2年7月豪雨で氾濫した二級河川「関川」の中流部に『岩本橋』と呼ばれる史跡(重要文化財)がある。この橋は江戸時代末期に架橋されたと言い伝えられており、今でも歩行者に限り通行可能。毎年多くの観光客が足を運ぶ荒尾市の人気観光スポットになった。
古き良き時代を思い起こさせる岩本橋では、夜になると霊が出没し関川に引きずり込まれる、という伝承が残っている。ただし、同地に転居してきた者たちはこの伝承を知らず、今ではほとんど風化してしまったようだ。
荒尾市上井手(かみいで)地区で生まれ育ったT氏曰わく、「岩本橋のすぐ近くに住んでいたある一家を襲った悲惨な事件以降、関川の河原および橋周辺でたびたび霊が目撃されている。霊は人間を関川に引きずり込み、あの世へ連行すると恐れられた。一昔前までは、水難事故が発生する度、お祓いが行われていた」という。
1860年、岩本橋の近くに山羽(やまは)氏という商人が住んでいた。夫妻は5人の子供に恵まれ、商いも順調、町一番の裕福な家庭と言われ、羨望のまなざしを向けられていた。
ある日、山羽氏の長男が関川の河原で釣りをしていたところ、女性が男たちから追いかけ回されていた。長男はこの女性を河原近くの茂みに誘導し、男たちから逃れる手助けをした。
女性は”りん”と名乗り、周辺集落で物を売っていた際、突然男たちに因縁をつけられ、ひどい目にあわされそうだったので走って逃げたと長男に説明した。長男はりんの整った顔と白い肌に魅せられた。
長男は「おりん」を自宅の物置に匿い、食事と寝床を提供。両親にはそのうち事情を説明すればよいと考えていた。数日後、山羽氏宅から高級茶碗や花器数十点が消え、大騒ぎになった。
長男はおりんが犯人かもしれないと考え、物置に向かった。しかし、おりんは身に覚えがないと主張、長男もこれを信じ、通報を受けた役人たちの捜査にできる限り協力した。
翌日、外出先から自宅に戻った長男は、おりんが役人に連行されるところを目撃した。両親に話を聞くと、物置の中にいた不審者を偶然発見し、役所に通報したという。
おりんは長男に助けてもらったことを漏らさず、住居に不法侵入し雨風をしのいでいたと証言。しかし、高級茶碗等の盗難については身に覚えがないと容疑を否認した。役人たちは盗人猛々しいとおりんを叱責、厳しい取り調べが続いた。
おりんは最後まで盗難を認めず、それに関連する証拠も出なかった。その後、彼女は戸籍を奪われ「非人」として生きることになった。
おりんは遊郭(ゆうかく)に売り飛ばされることが決まった。しかし、その身柄を奴隷商人に預けた時、長男がおりんを強奪。二人は姿を消した。
事件発生後、山羽氏は苦しい立場に追いやられた。役人たちは高級茶碗および花器の窃盗を山羽氏の自作自演と疑い、自宅を捜索。床下に隠された数十点の高級食器を発見した。
山羽氏とその家族は身分を剥奪された。家主は藩主を欺いた罪で斬首、妻はむち打ちの刑ののち追放、子供たちは遊郭などに売り払われ、奴隷以下の扱いを受けることになった。
数日後、長男とおりんは岩本橋の橋脚付近で遺体となって発見された。二人は喉を掻き、死んだとされる。そして、町一番と噂された山羽氏と家族がバラバラになった直後から、橋付近で霊の目撃情報が相次ぐようになったという。
<まとめ>
◎山羽氏の長男とおりんは首を掻き自害したと言われているが、真偽不明。他殺の可能性あり。
◎岩本橋周辺に現れる霊は、山羽氏を襲った悲劇と関連している、と言い伝えられてきた。
基本情報 | |
心霊スポット | 岩本橋 (いわもとばし) |
所在地 | 〒864-0013 熊本県荒尾市上井手182-2 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間20分 【高速】熊本空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 熊本県観光連盟 公式ホームページ |
先日、荒尾市で行われた 「鯉のぼりまつり」に行ってきたモン!熊本県重要文化財にも指定されている岩本橋の周りでたくさんの鯉のぼりが泳いどったモン☆ pic.twitter.com/RrkIRZOkkk
— くまモン【公式】 (@55_kumamon) May 5, 2017
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池辺寺跡
熊本市の繁華街から車で約15分、百塚(ひゃくづか)地区と呼ばれる集落には世にも恐ろしい伝承が言い伝えられている。なお、集落の外れにある国指定史跡『池辺寺跡(ちへんじあと)』がその舞台の中心であることは、意外と知られていない。
池辺寺跡には「神秘の龍伝説」と呼ばれる大変縁起の良い伝承が残されている。池辺寺は、味生池(あじうのいけ)と呼ばれる二匹の龍が住む池の横に建立され、どんな厄災も振り払い、住人たちに安寧を与えたという。
味生池に龍が住んでいたか否かは誰にも分からない。しかし、同地に伝えられる”本当の”伝承を聞く限り、この大げさかつ素晴らしい伝承が誰かによって意図的に広められたことはほぼ間違いないと、私は思う。
熊本市に住む私の友人A氏(某大学教授)曰わく、「百塚という地名に込められた意味を知らない人があまりに多い。戦国時代、池辺寺および味生池は、肥後国の牢獄兼拷問場として利用され、おびただしい量の血が流された」とのこと。
この時代、池辺寺跡周辺は、菊池→島津→小西→加藤→細川の順で藩主がコロコロ変わった。しかし、藩主が変わっても同地の利用方法は一切変わらず、牢獄兼拷問場、通称「百塚獄門」は罪人たちの血を吸い尽くすと恐れられた。
歴代藩主の中で最も苛烈な刑を好んだのが菊池氏と島津家だった。ただし、島津家は菊池氏の慣例をそのまま採用しただけ、という意見もある。味生池で最も残酷と恐れられた拷問が「水責め」であった。しかし、水を多量に飲ませたり、窒息させるような刑ではない。
罪人(敵兵や盗人など)は、味生池に吊るされた鉄の牢屋に収監。水の高さは腰骨の位置に調整され、座ることは許されず、水の中でずっと立った状態を維持しなければいけなかった。罪人たちは生暖かい水の中で昼夜を過ごす。寝ることもできず、数日後には腰から下の皮膚がボロボロ剥がれ落ち、激痛に襲われる。
この刑の最も恐ろしい点は、睡眠をとれないことにある。人間は三日三晩寝ずにいると、精神に異常をきたし、頭がおかしくなる。ある者は「殺してくれ」と叫び、自ら溺死しようとする者もいた。しかし、藩主はそれを許さず、自害を図った者を捕縛、身体を固定し猿ぐつわを噛ませたうえで、再び牢獄の中に戻した。
百塚地獄から聞こえる罪人たちの悲鳴や泣き声が止むことは決してなかった。そして、いよいよ死期が迫った時、監視者たちは牢獄から罪人を引きずり出し、最期に地面を踏ませてあげたという。しかし、これは最期の最期に待ち構える地獄行きの儀式を盛り上げる余興に過ぎなかった。
罪人の身体は水責めの影響でブヨブヨに膨れ上がっている。藩主は「水を吸い、だらしなく膨らんだ状態で地獄に送り込めば、閻魔様の怒りを買う」と考え、罪人たちを火刑に処し、身体から一切の水分を抜き取ってあげたという。
あぶり殺された罪人の遺体は、池辺寺跡の外れに掘られた直径10mほどの穴に遺棄、野生動物に喰い尽くされた。A氏の資料によると、数百人が水責めからの火刑で処理され、遺体を遺棄した穴にはおびただしい数の人骨が積み重なっていたという。
池辺寺跡周辺で目撃される霊は、「人魂」「串刺しにされた人間が助けを求めていた」「黒焦げの遺体が山積みにされていた」など。
<まとめ>
◎池辺寺跡の牢獄兼拷問場、通量「百塚獄門」は、霊のホットスポットである。
◎同地周辺に造られたとされる百塚(墓場)の正確な位置は分かっていない。
基本情報 | |
心霊スポット | 池辺寺跡 (ちへんじあと) |
所在地 | 〒860-0048 熊本県熊本市西区池上町3079 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約15分 ※クリックでGoogle map起動 |
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一の坂
西南戦争を代表する激戦のひとつ、「田原坂の戦い」が繰り広げられた『一の坂』「二の坂」「三の坂」周辺は、観光地兼心霊スポットとして人気を集め、夏になると肝試しを楽しむ中高生の姿も見られる。
なお、同地に出没する霊は、西南戦争で命を落とした者たちではない、と私は確信している。友人のシャーマンが熊本市北区の某施設で祈祷を行うと聞き、取材もかねて同行した。その際、西南戦争関連の遺構を見学し、一の坂周辺で目撃される攻撃的な霊は、この戦争の死者とは関係ないと確信したのである。
一の坂で目撃された霊は、「生首を持った鎧武者が襲いかかってきた」「槍を持った騎馬兵に進路を阻まれた」「顔のない女性と思われる霊の集団に追いかけられた」など。人間に対して攻撃的かつ、何らかの怨みを持つと思われる霊ばかりである。
同地に建立された西南戦争関連の墓、慰霊碑、忠霊塔は、非常に立派かつ、しっかり手入れされている。さらに、命を落とした薩軍および官軍兵、合わせて数百名の名が慰霊碑などに刻まれており、「死者に敬意を払い、供養する」という強い意志を感じることができる。
西南戦争の死者がひとり残らず成仏したか否かは誰にも分からない。しかし、少なくとも、一の坂周辺に建立されたこれらの慰霊碑は、死者に敬意を表し、今でも大切に守られている。もし、西南戦争の死者が同地に現れ、この現状を見たらどう思うだろうか。私なら立派な慰霊碑と、今でも周辺住人や行政が常に清掃を怠らず、施設を大切に守っていることを理解し、満足する。
しかし、一の坂周辺には攻撃的な怨霊と思える霊が出没する。なぜなのか。その答えは同地に古くから伝わる伝承に隠されていた。私は祈祷中のシャーマンを放置し、同地の伝承に詳しいM氏という老夫婦宅を訪ねた。
M氏曰わく、「田原坂は戦争に向かない地形と思われていた。坂が多く、見通しのよい土地も少ないため、大軍同士のぶつかり合いには不向きだったためである。しかし、見通しが悪いおかげで、待ち伏せ攻撃の成功率は非常に高かった。また、道が細く、隊が長く伸びてしまうため、敵兵を誘い込むことができれば、勝利は確実と一部の豪族は主張した」とのこと。
戦国時代、一の坂を含む田原坂周辺は、当時肥後国の一部を支配していた菊池氏が好んで使用した合戦場だった。そして菊池氏を打ち滅ぼした島津家も、同地の地の利に驚き、攻撃を仕掛けてくる豪族などの掃討戦で利用したという。
田原坂周辺の攻めにくく、守りやすい地形の罠にかかった敵軍は、一方的にたたき伏せられ、首を献上した。西南戦争においても、同地に陣を敷いた薩軍数百名を数千人規模の官軍が攻めあぐね、手痛い敗北を何度も喫している。
M氏の資料によると、菊池氏および島津家が数十年かけて打ちのめした敵兵の数は1万を軽く超えるという。島津家に至っては、わずか1日で500を超える敵兵の首を回収し、火縄銃、弓、槍を合わせた待ち伏せ攻撃は対処不可能、「田原坂を通過する者は必ず死ぬ」と恐れられた。
江渡時代、一の坂を通過すると、待ち伏せ中の霊と遭遇し、首を掻き切られるという噂が流れ、明治時代になってもその伝承は語り継がれた。結果、西郷隆盛率いる薩軍の重要拠点として利用されることになったのだろう、とM氏は述べた。
<まとめ>
◎一の坂は霊のホットスポット。霊に首を掻き切られる可能性もある(?)ため、注意が必要。
◎西南戦争関連の遺構は非常に充実している。が、それ以前に同地で死んだ者を供養した痕跡はない。
基本情報 | |
心霊スポット | 一の坂 (いちのさか) |
所在地 | 〒861-0163 熊本県熊本市北区植木町豊岡1435 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約55分 【高速】熊本空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 熊本県観光連盟 公式ホームページ |
一の坂、二の坂、三の坂
— 奈良漬 (@qQcvWJZyzjcSnKl) June 22, 2020
田原坂〜
当時は熊本市内に抜けるルートはこの坂しか無く、激しい攻防の要になったとか
ちなみに夜来ると、何か出るという噂です…(=_=) pic.twitter.com/dJwOz42dvk
ナルシストの丘
先述の「一の坂」に書いた通り、私は友人のシャーマンと熊本市の某施設を訪ねた。なお、シャーマンの祈祷見学は少しメンドクサかったので回避した。
私は祈祷を終えたシャーマンと合流し、ある場所に足を運んだ。そこには大変興味深く、かつ、忘れ去られつつあるという伝承が残されており、霊が出没すると噂になっていたのだ。
ここで紹介する『ナルシストの丘』は、選ばれしナルシストだけが足を運べる丘、ではない。同地(展望台)から見える景色、特に夕日は大変美しく、自分に酔いしれる男女が集まった結果、そう呼ばれるようになったらしい。しかし、同地に伝わる恐ろしい伝承を知っている方は、「夕日に照らされる私、最高にクール」とか、「男:結婚しよう。女:Y太、愛してるわ」などといったナルシストごっこは決してしない、という。
1638年、天草地方で発生した日本史上最大の一揆こと「島原の乱」は、江戸幕府連合軍の大勝で幕を閉じた。粉砕された天草四郎軍のキリシタンと農民たちは、九州の各地に分散逃亡し、熊本市周辺にも数百名が落ち延びたと言われている。当時、ナルシストの丘は、周囲の海と丘を一望できる観測地として重宝され、肥後国藩主、細川氏の家臣が陣を敷き、逃亡者の行方を血眼になって探していた。
肥後国に逃れたキリシタンの一部は生き延びたと言い伝えられているが、大半は逃亡中に捕縛、その場で斬首されるか、身の毛もよだつ拷問を受けることになった。しかし、同地周辺で捕縛されたキリシタンたちは、丘の上の陣地まで移送されたのち、改宗を迫られ、生きるチャンスを与えられた。
改宗を迫られたキリシタンたちは、ひとりとしてその申し出を受けず、死を望んだ。細川氏の兵士たちは、嬉々として彼らの処刑執行を志願したという。キリスト教はそれだけ忌嫌われていたのである。
細川氏の家臣は、肥後国のどこかにキリシタンが潜伏していると考え、逃亡者たちの公開処刑を決めた。そして、周辺の町と集落に公開処刑の御触れを出し、彼らの仲間を誘い出そうとしたのである。
キリシタンたちは、手作りの十字架に男女を問わず全裸状態で磔(はりつけ)にされた。見晴らしのよい丘の上におびただしい数の十字架が並び、見学者たちはその様子を自由に見学できたと言われている。
処刑方法は至ってシンプルだった。ただし、声を出すことは一切許可されず、猿ぐつわのせいで神に祈りを捧げることすらできなかった。まず、女子供の十字架に火が放たれ、男たちは家族が燃え尽きる様子を見届けたという。
ナルシストの丘から炎と煙が上がると、隠れキリシタンを捜索していた兵士たちの指揮は一気に上がり、逃亡者たちは次々に捕縛された。
処刑方法は家臣の気分次第、日替わりで変わった。最も屈辱的だった刑が、「十字架で百叩きにする」というものだった。捕縛されたキリシタンたちは、命を懸けて信仰した十字架に打ちのめされ、死んだ。
さらに、リーダー格と思われる男たちは、家族の拷問シーンを延々と見せつけられ、禁忌とされる自殺を強要された。男たちは泣きながら腹を切った。しかし、兵士たちは介錯を行わず、腹を切りもだえ苦しむ男に唾を吐きかけ、死に様を観賞したと言われている。
見世物にされ憤死したキリシタンたちは、成仏できず怨霊化したと噂され、以降、同地は「キリシタンの丘」と呼ばれるようになった。
<まとめ>
◎ナルシストの丘は、かつてキリシタンの丘と呼ばれていた。
◎信仰の自由を奪われ、惨たらしく殺されたキリシタンたちは、怨みつらみを募らせ、怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | ナルシストの丘 (なるしすとのおか) |
所在地 | 〒861-5343 熊本県熊本市西区河内町野出 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】熊本空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】熊本駅から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 熊本市観光ガイド |
まとめ
今回は山鹿市他3市1郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
令和2年7月豪雨で被災した方々に改めてお悔やみ申し上げます。私も助力ながら、募金と支援活動に参加させていただきました。
心霊スポット散策時は、お花、線香、お供え物などを準備してほしい。さらに、時間と心に余裕を持つことも大切だ。リラックスした状態を維持し、万一霊に遭遇しても慌てず、挨拶するぐらいの余裕を持ちたいものである。最後までお読みいただきありがとうございました。