交通事故の頻発する道路、自殺者の多い地点ほど人気(?)の心霊スポットになりやすい。さらに、事故や自殺者が多い理由を理解したうえで探索すると、恐怖は倍増する。
日本は怨霊信仰大国であり、1000年以上前から怨霊の存在を信じ、恐れてきた。憤死した者を祀り、神域に封印した神社、祠(ほこら)などがその証拠である。そして、私たちは今なお怨霊に翻弄され続けている。
今回は曽於(そお)郡他2市3郡の最恐心霊スポット12カ所(PART4)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.曽於郡
・横瀬古墳
・轟の滝
2.肝属郡
・勝尾城
・道隆寺跡
3.西之表市
・板敷鼻
・あっぽ〜らんど
4.熊毛郡
・馬立の岩屋
・旧種子島空港
5.奄美市
・有盛神社
・蒲生崎公園展望台
6.大島郡
・ヨヲキ洞窟遺跡
・旧陸軍弾薬庫跡
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横瀬古墳
『横瀬古墳』は、県内最大級の高さと大きさを誇る前方後円墳である。飛鳥時代築造と推察されているが、詳細は謎に包まれており、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓と考える研究者もいるようだ。
同古墳および周辺は知る人ぞ知る心霊スポットであり、明治時代以前から奇怪な事件が発生していた、と言い伝えられている。目撃された霊は、「鎧武者の大軍」「古墳の頂部に串刺し遺体があった」「生首が浮遊していた」など。
全長154m、最大高さ6mの巨大な墓に埋葬された者が怨霊になった、と考える者は少ない。理由は丁重に供養されているためである。もちろん、埋葬された者が何らかの事件に巻き込まれ憤死した可能性も否定できない。ただし、目撃された霊はいずれも室町時代後期もしくは戦国時代の混迷期を連想させるものばかりである。
同地の伝承に詳しい住民(老婆)からお話を伺ったところ、「この付近一帯は、戦死した敵兵や処刑された者の遺体をさらす場所だったという。また、生きたまま串刺しにされ、野生動物のエサになった賊もいた。生きたまま野生動物に喰われる者たちの悲鳴が四六時中響き渡り、住民たちもエンターテインメント感覚でそれを見学していた」と教えてもらった。
戦国時代、敵兵や犯罪者の遺体をさらす行為は至って普通であり、日本各地で行われていたため、特段驚くようなことでもない。そして、死後に悲惨な扱いを受けた者が怒り狂うことは、誰でも容易に想像できるはず。生きたまま野生動物のエサにされた賊は犯罪者である。しかし、死によって罪を償ったものの、その後も遺体をゴミのように扱われ、墓も作られず、適当に処理された結果、怨霊化を招いてしまったのだろう。
老婆曰わく、江戸時代に入ると、古墳周辺の田畑は謎の疫病にことごとく侵され、酷い飢饉が数十年続いたという。その間、多くの住民が餓死し、集落から人が消えた。さらに、生き残りをかけた食料の奪い合いが各地で発生。野犬やカラス、猫、虫、草まで食い尽くされたという。
その後も飢饉は収まらず、人間の肉を食べ飢えをしのぐ者まで現れた。藩主の島津家は、小さな集落で起きた事件を糾弾、生き残った住民たちを仏の道に背いた悪鬼と断罪し、斬首した。
現在、この事実を知る者はほとんどいない。同地周辺の住民はことごとく斬首され、集落の伝承は途絶えてしまったのだ。しかし、島津家の取り調べをかわし、生き延びた者も当然いたという。この者たちは藩主を呪い、最期には潜伏地で飢え死にしたと言い伝えられているが、真偽は不明とのこと。
いずれにしても、同地に心霊が多数出没することは事実、何かしらの事件があったと考えるべきだろう。なお、飢饉などによって人肉を喰らった事例は日本各地で報告されており、決して珍しいものではない。
<まとめ>
◎横瀬古墳は知る人ぞ知る心霊スポット。戦国時代を連想させる怨霊が何度も目撃されている。
◎死によって罪を償った者の遺体をぞんざいに扱えば、怨霊化を招く。
基本情報 | |
心霊スポット | 横瀬古墳 (よこせこふん) |
所在地 | 〒899-7304 鹿児島県曽於郡大崎町横瀬 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約1時間40分 【高速】鹿児島空港から約1時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】鹿児島中央駅から約2時間15分 【高速】鹿児島中央駅から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 鹿児島県観光サイト 公式ホームページ |
【鹿児島・横瀬古墳】形象埴輪、円筒埴輪を有する日本最南端の前方後円墳。大崎町の標高7mの水田中にある。全長128mで周濠が囲んでいる。後円部は削られ、竪穴式石室の天井石が露出。5世紀後半~6世紀初頭の滑石製品、須恵器が出土。 pic.twitter.com/7lnlECYssj
— 古墳商店 (@kofun_store) May 15, 2017
轟の滝
曽於郡一帯の田畑に潤いをもたらす「持留川」の上流に『轟(とどろき)の滝』はある。約10mほどの高さを有し、水が勢いよく流れ落ちる様は中々の迫力。しかし、周辺の手入れは全くと言っていいほど行われておらず、観光スポットとして注目を集めたことはない。
手入れを行わない理由は、滝周辺に人が近づくことを防ぐためである。南北朝時代から戦国時代末期まで、持留川上流部は豪族の拷問兼処刑場として利用されてきた、と言い伝えられている。水がとめどなく流れていることで血の処理を行いやすく、また、人が立ち入りにくい地形であったため、拷問にも適していたのだろう。
川および河原で処刑された者の遺体は、魚のエサとなり、下流域の漁師たちに豊漁をもたらしたという。ただし、遺体をそのまま流すと水が侵され、飲み水として利用できなくなる。同地の歴史に詳しい某大学教授は、「遺体を砕き、川に散布することで、大量の微生物が発生した。また、それをエサにする魚の成長を促し、下流域に豊漁につながったのだろう。豪族は処刑した者たちを利用し、集落に利益をもたらした」という。
しかし、魚のエサにされた死人が怨霊化し、滝周辺は事故の頻発する危険スポットになった。記録によると、崖崩れ、疫病、野犬の大量発生、水害などが頻発、豪族たちは別の地に処刑場を作り直し、滝周辺に人が出入りすることはなくなった。
それから数百年後、江戸時代中期になると、轟の滝周辺で女性や子供の身投げ(自殺)が相次いだ。幼子と滝つぼに飛び込んだ女性が下流域まで流れ着き、大騒ぎになったこともあるという。その後も身投げは続き、同地は自殺の名所になってしまった。
ある日、同地の街道を通りかかった商人が、滝のある地点に連行される女性数十名を目撃。いずれも裸であり、賊の”慰みもの”にされたと言われている。数日後、持留川下流の河原に複数名と思われる女性のバラバラ遺体が流れ着いた。これを見た島津家は「鬼の仕業」と怒り、山狩りを行ったという。
これらの話は全て、同地に脈々と受け継がれる伝承であり、それを証明する資料は残されていない。ただし、滝および周辺で目撃される霊が、これを事実だと証明しているように思える。「裸の女性数名が滝つぼから這い出てきた」「女性が子供を抱いたまま滝つぼに飛び込んだ」などがその例である。
轟の滝周辺は大量の雑木と竹に覆われており、また足元も悪く、近づくのは大変危険である。ただし、滝の東側に整備された県道64号線から滝を視認できる。興味のある方は路肩に車をとめるとよいだろう。なお、霊は滝だけでなく県道64号線まで侵出しており、「女性が崖から這い上がってきた」という目撃情報が相次いでいる。
<まとめ>
◎轟の滝周辺は豪族の拷問兼処刑場として利用されていた。
◎女性もしくは女性と思われる霊の目撃情報多数。賊の慰みものになり、惨殺された女性たちかもしれない。
基本情報 | |
心霊スポット | 轟の滝 (とどろきのたき) |
所在地 | 〒899-7307 鹿児島県曽於郡大崎町持留 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約1時間20分 【高速】鹿児島空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】鹿児島中央駅から約2時間 【高速】鹿児島中央駅から約1時間20分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 鹿児島県観光サイト 公式ホームページ |
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勝尾城
肝属(きもつき)群中部、周囲を小高い丘と林に覆われた『勝尾城(かつおのじょう)』は、鎌倉時代に築城された城、と言い伝えられている。ただし、城本体、石垣、その他の遺構はほとんど残っておらず、正確な破却年も不明である。
城跡の南東部に、同地で命を落とした者を祀る墓と鎮魂碑が建立されている。この付近一帯は心霊の出没スポットと恐れられ、「槍を構えた鎧武者」「さらし首」「人魂」などの目撃情報が相次いでいる。
薩摩の豪族たちが激しい領土争いを繰り広げてきたことはご存じの通りである。侵攻によって、本拠地である城が攻め落とされれば、領土は敵国(藩)の手に落ちる。なお、勝尾城の存在を記した資料はほとんど残されておらず、戦いの記録を調べることはできないが、”幻の城”と呼ばれたこともあるほど有名で、同地の住民の一部はその伝説を脈々と受け継いできたという。
同地で生まれ育った御仁曰わく、「勝尾城は強固な守りで知られる難攻不落の城と恐れられた。本丸へのルートは人ひとりがやっと通れる程度。築城、改修、兵糧や資材の運搬に使われるルートは、鉄壁の防御態勢を敷き、アリ一匹通さない、と噂された。敵兵たちは狭い道を躍起になって進むが、待ち伏せやワナによってことごとく討ち取られ、戦の都度、屍の山ができた」とのこと。
既に述べた通り、勝尾城の破却年は不明。1615年の”一国一城令”以前に戦で焼け落ちたという意見が多く、私もその通りだと思っている。ただし、現地を散策しても、城の遺構はほとんど残されておらず、埋没もしくは撤去したか否かを判断することすらできない。
明治時代初期、同地も薩摩軍vs官軍による「西南戦争」の影響を受けた。生き延びた薩摩軍の残党と官軍の激しい戦いが繰り広げられ、両軍合わせて数百名が討死。勝尾城周辺では、戦塵が絶えず吹き荒れていたという。
城跡南東部の鎮魂碑は、同地で死亡した者を供養する目的で建立された。しかし、戦死し怨霊になった者たちを鎮めることはできなかった。私は夜間に同地を探索中、慰霊碑への通路上で霊に遭遇し、その場で平身低頭、地面に頭を擦り付け、お祈りしたことを鮮明に覚えている。
数千、数万人規模の戦死者および処刑者を出したエリアは、最高レベルの供養を必要とする。神社はもちろん、祠(ほこら)や慰霊碑、墓所などをポイントごとに配置し、死者に敬意を表さねばならない。ただし、それらで怨霊たちが納得し成仏する、という保証はない。
<まとめ>
◎勝尾城は戦争激戦地。本丸に続く通路跡を掘り返すと、そこら中から人骨が出る、と噂されている。
◎戦死者や処刑者であろうと、敬意を表し手厚く葬ることが大切。怠れば怨霊化を招く。
基本情報 | |
心霊スポット | 勝尾城 (かつのおじょう) |
所在地 | 〒893-2401 鹿児島県肝属郡錦江町田代麓 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約2時間10分 【高速】鹿児島空港から約1時間45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】鹿児島中央駅から約2時間15分 【高速】鹿児島中央駅から約2時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 錦江町 公式ホームページ |
道隆寺跡
明示時代以前の日本は、怨霊、日本神話の神(天照大神)、釈迦(仏教)、キリストなど信仰し、各宗教ごとにそれらを祀る施設を建立した。怨霊と日本神話の神であれば神社や祠(ほこら)、釈迦は寺院、キリストは教会がそれにあたる。
ここで紹介する『道隆寺(どうりゅうじ)跡』は、その名の通り寺院の跡地である。鎌倉時代に開山し、室町、南北朝、戦国時代の混乱期を潜り抜け、江戸時代に入り最盛期を迎えた。しかし明治時代、天皇(神)こそが絶対、という考えが日本中に広まり、偽りの神を信仰する仏教および施設は悪と見なされた。
天皇=神、という考えの再燃は、明治維新の中心人物、西郷と大久保が引き起こしたと言っても過言ではない。「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」によって仏教施設は蹂躙され、抵抗した仏教徒は全てを失い、虐げられ、ゴミのように打ち捨てられた。
道隆寺でも、本堂、墓所、金剛力士像、ありとあらゆるものが徹底的に破壊された。さらに、抵抗した一部の仏教徒たちは、非武装にも関わらず叩き殺されたという。しかし、釈迦に教えを乞う者たちは、騒乱が収まることだけを祈り、怨霊になることを拒んだ。
仏教に帰依した者を手にかけることは禁忌である。これはキリスト教も同様、あのヒトラーですら、「たとえユダヤ人であろうと、神父だけは絶対に殺すな」と厳命を下している。それらを手にかけることは神に喧嘩を売るも同然、日本人が敬愛する”怨霊教(おんりょうきょう)”であれば、死者の逆鱗に触れ、呪い殺されてもおかしくない愚行である。
残念なことに、道隆寺跡は心霊の出没スポットになってしまった。ただし、本堂や墓を蹂躙された仏教徒が怨霊化したか否かは誰にも分からない。なお、目撃された霊は、「慰霊碑の前で坊主がお経を唱えていた」「坊主の遺体が山積みにされていた」「首を斬られた金剛力士像が襲い掛かってきた」など。
現在、同跡地には新しい慰霊碑が立ち、墓所も当時に近い形をイメージし復元されている。しかし、廃仏毀釈さえなければ、恐らく道隆寺は今も現存していたはず。明治維新は日本の未来を変える一大転換点になったが、一部の誤った考えによって、失われたものがあることも忘れてはならない。
最後に、同跡地の墓所周辺は素晴らしい紅葉スポットでもある。ただし、心霊たちは昼夜を問わず紅葉狩りに訪れた観光客や周辺住民の前に姿を現すという。足を運ぶ際は、必ず慰霊碑にお花や線香を供えてほしい。
<まとめ>
◎道隆寺は、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって破壊され尽くした。
◎仏教徒たちは非武装を貫き、釈迦(仏)から受けた教えを最期まで守り抜いた。
基本情報 | |
心霊スポット | 道隆寺跡 (どうりゅうじあと) |
所在地 | 〒893-1207 鹿児島県肝属郡肝付町新富 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約1時間50分 【高速】鹿児島空港から約1時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】鹿児島中央駅から約2時間20分 【高速】鹿児島中央駅から約1時間45分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 肝付町観光協会 公式ホームページ |
西之表市(目次に戻る
板敷鼻
種子島は戦国時代に革命を起こした「火縄銃(鉄砲)」伝来の地である。これにいち早く目をつけたのが織田信長であり、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」を大量の火縄銃で制し、天下に覇を唱えた。
西之表市北部、湾沿いに形成された『板敷鼻(いたじきばな)』は、知る人ぞ知る穴場観光スポットとして人気を集める一方、おどろおどろしい伝説の残る心霊スポットでもある。目撃された霊は、「海から首のない鎧武者が現れた」「幼子を抱いた女性が海に身を投げた」など。
江戸時代以前、種子島では苛烈な領土および覇権争いが繰り広げられていた。その中心にあったのが種子島氏、肥後氏、島津氏、名越氏などの豪族である。
当時の戦いを記した書物は少なく、戦いの記憶は風化しつつあり、同地に現れる心霊は、自殺や水難事故に関連するものと思われてきた。しかし、一部の住民たちは、古くから言い伝えられてきた伝承と心霊が関係していることを理解している。
板敷鼻近くに住む老婆曰わく、「種子島は逃げ場のない孤島、領土や覇権争いに敗れた豪族、それに関連する者は、ことごとく打ち滅ぼされた。戦のたびに数百人が死亡し、周辺集落は酷い血の匂いに悩まされていたという。ただし、首を切り落とした後の遺体処理は海のおかげで苦労しなかった」と述べた。
当時、敵兵および処刑者の遺体処理は、「埋める」「川に遺棄する」「野生動物のエサにする」の3つが一般的であった。しかし、種子島の豪族たちは、「海に遺棄する」「重石をつけ海の底に沈める」などの方法をとることができた。
板敷鼻では、死亡した敵兵を潮風にさらし、鳥のエサにした。死者が多い時も、重石をくくりつけ、海の底に沈めればよい。あとは、海の生物が跡形もなく処理してくれる。また、死者を遺棄することで近海のプランクトンが増殖し、豊漁も期待できる。戦を制した豪族たちは、遺体を有効活用し、島に利益をもたらした。
しかし、海に遺棄された者、海の底に沈みプランクトンや魚のエサになった者たちは、怨みつらみを募らせ怨霊化した。江戸時代に入り、戦がなくなった頃から怨霊たちは頻繁に姿を現すようになったという。老婆は、「当時、集落周辺で失踪事件が相次いだ。ある日、妻と幼い子供の行方を捜していた夫は、板敷鼻の先端に立つ二人を発見した」
「夫は妻と幼子に声をかけたが反応はなく、二人の顔を確認した。妻と幼子は目をくりぬかれ、鼻を削がれ、そして舌まで抜かれていたという。その直後、海中からおびただしい数の鎧武者が現れ、二人は海に引きずりこまれた」
<まとめ>
◎板敷鼻は、海に遺棄された死人たちが集結する怨霊スポット。
◎間違っても先端付近には立たないこと。滑りやすく、潮の引きもかなり強いため、危険である。
基本情報 | |
心霊スポット | 板敷鼻 (いたじきばな) |
所在地 | 〒891-3101 鹿児島県西之表市西之表3886 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約5時間1分 【高速】鹿児島空港から約4時間55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約4時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 種子島西之表市旅館組合 公式ホームページ |
あっぽ〜らんど
西之表市北部に位置する「西京(さいきょう)ダム」は、同地域の干害対策を目的として建設された。しかし、種子島の年間雨量は3,000mmを超えることも珍しくなく、有史以来、水不足に陥ったことは一度もないそうだ。
ここで紹介する『あっぽ〜らんど』は、西京ダムの麓に整備されたレジャー施設である。話をダムに戻そう。なぜ、水に全く困っていない種子島の北部に巨大なダムが建設されたのか。その理由は、同地に伝わる怨霊伝説が深く関わっているという。
北部エリアで農家を営む御仁にお話を伺ったところ、「西京ダム建設地近くには、処刑場と屠殺場があったと言い伝えられている。室町時代以前、一部の豪族は世にも恐ろしい拷問で敵兵を始末し、遺体は猪や豚、タヌキなどのエサにしたという。この風習は数百年に渡って続き、酷い罪を犯し処刑を言い渡された者は、処刑場で速やかに処理された」とのこと
敵兵に残酷な拷問を加え、遺体をさらすことで他藩の戦意を削ぐやり方は、常識中の常識である。ただし、それらの行為によって死者が怨霊化することも忘れてはならない。同地では細切れにした遺体を家畜のエサに混ぜ食べさせていたという。
さらに残酷な処刑も存在した。身内の肉や臓器を無理やり処刑者に喰わせ、その後斬首するという方法は、非人道的、悪魔の所業と恐れられ、一部の危険な思想を持つ豪族だけが取り入れたと伝えられている。
江戸時代、処刑場と屠殺場は閉鎖され、人の立ち入りを厳格に禁じた。しかし、一部の危険な思想を持つ者、賊などがそこに集まり、夜な夜な恐ろしい儀式を執り行ったという。そして、非人道的な扱いを受け憤死した怨霊は、同地をさまよい、作物や動植物に害をおよぼした。
季節外れの大雨や天災、原因不明の疫病が北部エリアだけでなく種子島全土を数年周期で襲った。しかし、その原因を理解できる者はほとんどおらず、同エリアに住む者も怨霊の仕業とは口が裂けても言えなかった。その事実が広まれば、集落の者たちが責められ、差別される恐れもあったからである。
現代、処刑場と屠殺場跡地は西京ダムの底に沈んだが、怨霊たちには全く関係なかった。ダム建設後に整備されたあっぽ~らんどは、心霊スポットして周辺住民に恐れられた。
目的された霊は、「野生動物の大軍がうろついていた」「人骨が山積みになっていた」など。ダムの東側に建設された町道でも、霊の出没情報が後を絶たないという。なお、西京ダムを建設する際、処刑場と屠殺場の存在を知っている一部の者が計画を強力に後押ししたと噂されているが、真偽は定かではない。
<まとめ>
◎あっぽ~らんどは、知る人ぞ知る怨霊スポット。
◎憤死した者および、人間の過失によって処理された家畜は怨霊化する。
基本情報 | |
心霊スポット | あっぽ〜らんど (あっぽ〜らんど) |
所在地 | 〒891-3101 鹿児島県西之表市西之表1898-1 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約5時間10分 【高速】鹿児島空港から約5時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約4時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 西之表市 公式ホームページ |
熊毛郡(目次に戻る
馬立の岩屋
『馬立(またて)の岩屋』は、熊毛郡中種子町東部の海岸線沿いに形成された洞穴である。気の遠くなるような長い時間をかけて現在の形になったと考えられており、様々な伝説が言い伝えられてきたという。
その名の由来は、種ケ島藩藩主が同地で行方不明になり、洞窟の前で”馬”が不安そうに”立”っていたことから、「馬立」の岩屋(洞窟の意)と呼ばれるようになった。なお、この藩主は海に転落したものと考えられていたが、遺体は結局発見されず、捜索は打ち切られた。
同地は有名な心霊スポットであり、「馬に乗った侍」「海から男女が這い出てきた」などといった目撃情報が相次いでいる。種子島で生まれ育ち、第二次世界大戦も経験したご老人曰わく、「藩主行方不明事件以前から、同地には不穏な噂が流れていた。当時、浜辺は姦通(かんつう)の場として利用されていた、と噂されており、家族を持つ男女が危険な交わりを求め集まった」という。
姦通は今でいう不倫である。明治時代以前、日本はお家同士で結婚を決めることが常識、大恋愛からの結婚など夢のまた夢だった。しかし、たとえ家庭を持ったとしても、想いを寄せる最愛の人が別にいたとしたら、姦通に至るのは普通のことだと思う。
今でこそ不倫は文化(?)などと言われているが、当時は禁忌(法で決まっていたわけではない)とされていた。姦通がバレれば酷い仕打ちを受けることも珍しくなく、下手をすればその場で討ち取られることもあったという。
馬立の岩屋周辺は、結ばれぬ男女が愛し合う場所になった。そして、お互いの将来を悲観し、心中する者も現れる。ご老人の保管する資料には、男女の全裸遺体が浜辺に流れ着いた、という事案が20回以上発生したと記されていた。なお、事案の発生調査期間は5年、20回以上はあまりに多すぎると思う。
姦通および心中の噂は瞬く間に広まり、夜な夜な見学に訪れる不届き者まで現れる始末だった。しかし、心中した霊が現れると噂になり、同地で男女の営みを楽しむ者は激減した。
現在、馬立の岩屋は観光スポットになり、洞窟内への立ち入るも可能である。ただし、大雨などの影響で崩落しかけている個所もあるため、注意願いたい。そして、夜間の立ち入りは控えた方がよい、と思った。以前、懐中電灯を持って内部に突入すると、行為に耽(ふけ)る男女の声が聞こえてきたため、思わず逃げ出してしまった。なお、もの好きなカップルか否かはのぞき見に失敗(?)したため、分からずじまいである。
<まとめ>
◎馬立の岩屋周辺は、結ばれぬ男女が秘かに愛し合う姦通スポットだった。
◎洞窟内は自由に散策可能。ただし、崩落しそうな地点もあるので、無茶はしないこと。
基本情報 | |
心霊スポット | 馬立の岩屋 (またてのいわや) |
所在地 | 〒891-3603 鹿児島県熊毛郡中種子町増田 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約5時間30分 【高速】鹿児島空港から約5時間25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約4時間55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 中種子町 公式ホームページ |
旧種子島空港
種ケ島への空の玄関口「種子島空港(通称コスモポート)」から10kmほど南に進むと、『旧種子島空港』が見えてくる。ここは、2006年にコスモポートが運用を開始するまで活躍した旧空港跡地である。ただし、ターミナルビル等は解体されずそのまま残されている。
跡地内は公有地であり、第三者の立ち入りは当然禁止。しかし、なぜか出入り口のフェンス高さが30cmほどしかなく、幼稚園児でも簡単に入場できる状態が10年以上続いているという。そして、旧種ケ島空港は心霊が出没する廃墟として人気を集め、今では肝試し大会の定番スポットになってしまった。
まず、同空港に立ち入りたい方は、自己責任自己関係を徹底してほしい。ただし、町役場に相談し、敷地の写真を撮らせてほしいとお願いすれば、普通にOKしてくれる可能性もある。周辺住民に不審者と間違われて通報、不法侵入罪で逮捕、という流れだけは絶対に避けてほしい。
同空港で目撃される霊は、「両手に生首を持った鎧武者」「女性と思われる串刺し遺体」など、意外とおどろおどろしいものが多い。同地の歴史に詳しい元大学教授にお話を伺うと、「室町時代から戦国時代末期、このエリア一帯は戦場としてよく利用されていた。詳細を記した資料は残されていないが、相当数の死者が出てことは間違いないだろう」と教えていただいた。
広大な敷地は大軍を動かしやすく、力vs力の正面衝突、決戦にピッタリである。また、戦死者を連想させる霊が多数目撃されていることも、この話が事実であると物語っている。そして、戦と言えば首実検。敵兵の首を切り取り、それを証拠に武士たちは報酬を得ていたため、現地が地獄のような状況になっていたことは想像に難くない。
敷地内にコッソリ(?)立ち入った方は、まず、滑走路をチェックしてほしい。私は真夜中に潜入し、広大な滑走路を散策してみた。案の定、周囲は不穏な空気に包まれており、1kmほど離れた地点に立つ鎧武者の姿も視確認できた。
旧ターミナルビルは資材置き場倉庫として利用されているため、外から眺めるだけにしよう。敷地内に街灯はなく、住宅街の明かりもほとんど届かない。万一、怨霊に遭遇したら、躊躇なく徹底すること。
最後に、旧種ケ島空港にまつわる伝説を紹介しよう。女性と思われる串刺し遺体の霊は、大正時代に発生した事件に関連すると言い伝えられている。1923年、女性と思われる遺体が同地で発見された。遺体は四肢と首を切断、バラバラにされ、パーツ(骨)が地面に転がっていたという。
遺体は完全に白骨化しており、誰であるかも分からず、死因も特定できなかった。目撃情報を集めたが捜査は難航。容疑者不明のまま時効に至った。
この話には続きがある。当時の検視官は、発見された遺体が複数名の骨で構成されていると指摘。さらに骨の形状などを調査した結果、死後300年以上経っていると考えたのである。しかし、遺体を屋外に300年も放置すれば、動植物や昆虫のエサになり、跡形も残らず消えてしまうはず。奇怪過ぎる事件は怨霊の仕業と噂され、タブー視されるようになった。
<まとめ>
◎旧種ケ島空港は廃墟と化した心霊スポット。立ち入る際は、町役場に許可を得た方がよい。
◎戦場跡地は、戦に敗れ憤死した怨霊たちのうごめく危険スポットである。
基本情報 | |
心霊スポット | 旧種子島空港 (きゅうたねがしまくうこう) |
所在地 | 〒891-3604 鹿児島県熊毛郡中種子町野間 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約5時間20分 【高速】鹿児島空港から約5時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約4時間40分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 鹿児島県 公式ホームページ |
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有盛神社
日本三大怨霊として有名な「平将門(たいらのまさかど)」は、壇ノ浦の戦いで宿敵源氏に敗れ打ち滅ぼされた「平家一族」のご先祖様である。
日本統一の夢を絶たれ滅亡した平家の残党は、日本各地に分散逃亡したと言われており、それに関連する遺構が数多く残されている。奄美市名瀬にある『有盛(ありもり)神社』もそのひとつ。同神社は平家の末裔「平有盛」を祀るべく建立された、と言い伝えられている。
有森神社は泣く子も黙る恐怖の心霊スポットと恐れられている。なお、奄美市には有盛だけでなく、「平行盛(ゆきもり)」「平貴盛(たかもり)」も一緒に落ち延び、二人を祀る神社も建立された。しかし、3社の中で霊が現れるのは有森神社のみだという。
先祖代々奄美市出身というA氏にお話を伺ったところ、「平家落ち人伝説はあくまで伝説、空想上の話と考えられてきた。しかし、有盛神社および周辺で奇怪な事件が相次ぎ、さらに平家に関連すると思われる霊の目撃情報が相次いだ。結果、有盛は奄美に落ち延びたと信じられるようになり、墓や慰霊碑が次々に建立された」とのこと。
平家が奄美市に落ち延びたという証拠は一切ない。(古い書物にそれを匂わせる記述もあるが、正しいと言う証拠はない)しかし、なぜはるか遠くの壇ノ浦(山口県下関市)で滅亡した平家を思われる霊が同市に出没するのか。また、目撃された霊の多くが平家の家紋「揚羽蝶(あげはちょう)」を掲げ、襲いかかってきたと言い伝えられており、さらに死者まで出ているというから恐ろしい。
A氏の一族が代々受け継いできた伝承によると、江戸時代、有盛神社の境内で50人以上の村民が惨殺、遺体の首はことごとく切り取られ、身体だけが打ち捨てられていた。役人が検分すると、遺体には抵抗した後が一切なかったという。さらに、地面にあるはずの足跡すら残されていなかった。
その後、大規模な山狩りなどを行うも、犯人につながる証拠は見つからず、事件は未解決のまま忘れ去られてしまった。数年後、参拝客が有盛神社の境内(地面)に突き刺さった50人超の生首を発見。遺体の額に刻まれた”揚羽蝶の家紋”を見た村民と役人たちは恐怖に震え上がり、検分や調査も行わず、仏に祈り、平家の怒りを抑えるべく、墓所や慰霊碑などを建立し続けたという。
いずれも眉唾物の伝説で真偽は不明。しかし、今でも「平家の”のぼり”を持った侍」などの霊が相次いで目撃されているため、落ち人伝説はただの言い伝えではないと、私は思う。
なお、平行盛を祀ったと言われる「行盛神社」および平貴盛の「大屯(おおちょん)神社」で霊を目撃したという証言はなく、奇怪な事件が発生したこともない、とA氏は言った。なぜ平家の霊は有盛神社にのみ姿を現すのだろうか。
<まとめ>
◎有盛神社は、平家落ち人伝説の舞台のひとつ。
◎平家落ち人伝説の真偽を確認する術はない。しかし、平家の怨みつらみは今も生きており、それが霊となって現世に姿を現すのだろう。
基本情報 | |
心霊スポット | 有盛神社 (ありもりじんじゃ) |
所在地 | 〒894-0068 鹿児島県奄美市名瀬浦上町 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約14時間5分 【高速】鹿児島空港から約14時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約13時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 奄美市 公式ホームページ |
蒲生崎公園展望台
『蒲生崎(がもうざき)公園展望台』は、先に述べた”有盛神社”と同じく平家落ち人伝説の舞台のひとつである。小高い丘の上に整備され、素晴らしい景色を眺めることができることから、観光客にも人気を集めているようだ。
同展望台およびその手前の「蒲生神社」は、知る人ぞ知る心霊スポットである。目撃された霊は、「平家の”のぼり”を掲げた侍」「生首を両手に持った鎧武者」など。なお、同神社の創建年は不明、平家のために働いたといわれる「蒲生氏」を祀るべく建立されたと言い伝えられている。
有盛神社に関連する情報を提供してくれたA氏に、蒲生氏の伝説をお聞きしたところ、「丘の頂部付近に源氏勢力の渡島を監視する基地が設営された。その監視体制は蒲生氏が確立したと言われており、同氏の名にちなんだ施設名がつけられた。しかし、監視の網を潜り抜けた源氏の追っ手によって、同地域は戦場になった」という。
壇ノ浦の戦い(1185年)から数年後、現在の奄美市笠利町(ちょうふきん)で平家残党群vs源氏の戦いが繰り広げられた。戦いは三日三晩続き、平家残党群と奄美の豪族により挟撃が功を奏し、源氏軍は粉砕、見事勝利を収めたという。
奄美の豪族たちは勝利を盛大に祝った。しかし、一部の保守派から「官軍数百名を打ち滅ぼした結果、我々は朝敵に成り下がってしまった。鎌倉幕府が本気を出せば、村民もろとも我々は皆殺しにされるだろう。これ以上危険を冒すことはできない」と諭され、喜んでいた者たちは恐ろしい現実を突きつけられた。
奄美の豪族たちは、平家およびそれに協力する一部の者を抹殺することにした。相手は数十名、女子供がいたこともあり、攻撃は1時間も経たぬうちに終わったという。平家一族の残党を皆殺しにした豪族たちは、その首を鎌倉幕府に差し出すべく、九州本土に渡った。
蒲生埼公園展望台および同神社は、平家の落ち人数十名が打ち滅ぼされた地である。落ち人たちは、奄美の豪族と村民を協力者と信じたが、その願いは打ち砕かれた。しかも、一部の者を除く遺体は、ことごとく海に投げ捨てられたという。
奄美出身の蒲生氏は、最期まで平家の味方をすると言い張ったが、同士や家族の懇願を受け、考えを改めざるを得なかった。そして、その功績を認められ、蒲生神社は建立されたのである。しかし、裏切られ憤死した落ち人たちは、怨みつらみを募らせ、怨霊になった。
同展望台および神社への立ち入りは夜間をおすすめする。恐怖が倍増するだけでなく、憤死した平家の霊に会える確立も格段に向上するはずだ。この時、お花やお線香、お供え物を準備しておくとさらによい。
<まとめ>
◎蒲生崎公園展望台は、平家落ち人伝説終焉の地と言い伝えられている。
◎奄美の豪族と村民を信じた落ち人たちは、最後に裏切られ憤死、怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 蒲生崎公園展望台 (がもうざきこうえんてんぼうだい) |
所在地 | 〒894-0626 鹿児島県奄美市笠利町大字屋仁 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約14時間55分 【高速】鹿児島空港から約14時間50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約14時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 鹿児島県観光サイト 公式ホームページ |
夕日で水平線が赤く染まる世界!
— 島生活 (@fQyCzBQuhEAUwke) August 6, 2018
蒲生崎観光公園の展望台にて#奄美大島 #夕日 #夕焼け pic.twitter.com/0LPatdvwMM
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ヨヲキ洞窟遺跡
徳之島南西部、伊仙町集落の外れにある『ヨヲキ洞窟遺跡』は、縄文時代から弥生時代頃に形成された洞窟である。1985年に発掘調査が行われ、貴重な土器などの遺構が発見された。
ヨヲキ洞窟遺跡には恐ろしい伝説が残されている。しかし、その事実を知る者は少なく、先祖代々同地域に住む者たちの中でのみ共有されたという。私は知人のコネでこの話をお聞きすることができた。住民の老婆曰わく、「遺跡は1984年に発見され大騒ぎになったが、一部の住民は大昔からその存在を知っていた」
「江戸時代から明治時代にかけて、あの薄暗く汚い洞窟は、賊や夜盗の寝床になっていた。この事実を知った藩主は、一度洞窟の調査を行ったというが、あまりの汚さと人の姿を確認できなかったため、半日も経たぬうちに島を離れてしまった。これに気を良くした賊たちは、村民を襲うようになった」という。
ヨヲキ洞窟遺跡の総延長は260m超、道が幾重にも分かれ、役人は賊たちを発見することができなかったのだろう。その後、同地域の住民は賊の襲撃に悩まされた。行方知れずになった者は数知れず、洞窟周辺は人を寄せ付けぬ気配に包まれた。
ある日、年端もいかぬ少女が賊に拉致、拷問のすえ斬首される、という酷い事件が発生した。住民たちは怒り、他の地域からの応援を引き連れ洞窟を襲撃、賊たちに総攻撃を仕掛けた。しかし、どこを探しても人の姿はなく、気配すらしなかったという。
後日、役人が現地の再調査を実施。住民たちも同行し洞窟に足を踏み入れた瞬間、大半の者が凄まじい死臭を嗅ぎ、嘔吐した。数メートル進むと、バラバラにされた数十人分の遺体が一カ所に集積され、恐ろしい数のネズミがそれを喰らっていた。
当時の住民たちは、洞窟がご先祖様の住処だったことを認識していた。賊たちは残虐行為の報いを受け、ご先祖様の霊に切り刻まれた、と皆信じた。役人たちもあまりの惨さに調査する気力を失い、遺体だけ処理し逃げるように本土へ帰ったという。
1985年の発掘調査以降、ヨヲキ洞窟遺跡で心霊を見たという目撃情報が増えており、「血だるまになった少女」「人骨が山のように積まれていた」など、伝説を連想させるものが多い。
「発掘調査という名目で他人の住まいをひっくり返す行為はやめた方がいい。洞窟内には先人の墓もあったと聞く。自分の墓を掘り返されて嬉しいと思う者はいないはず。1985年の調査でご先祖様の霊が怒り、再び現世に姿を現したのだろう」と老婆は言った。
<まとめ>
◎ヨヲキ洞窟遺跡の伝説を知る者は少ない。なお、立ち入る際はハブに注意。
◎霊の目撃場所は洞窟入り口周辺。ご先祖様の住まい(墓)に入る際は、お花、線香、お供え物をお忘れなく。
基本情報 | |
心霊スポット | ヨヲキ洞窟遺跡 (よをきどうくついせき) |
所在地 | 〒891-8201 鹿児島県大島郡伊仙町伊仙 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約18時間5分 【高速】鹿児島空港から約18時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約17時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 徳之島観光連盟 公式ホームページ |
旧陸軍弾薬庫跡
奄美大島には、戦争の歴史を後世に伝える素晴らしい遺構がたくさん残っている。その中でも保存状態のよい『旧陸軍弾薬庫跡』は、重要文化財に指定されてもおかしくないと思う。しかし、同弾薬庫跡は心霊の出没スポットと噂されるようになり、素晴らしい施設であるにも関わらず、知名度はかなり低い。
目撃された霊は、「軍服を着た男性」「荷物を運ぶ兵隊の列」など。この施設はその名の通り、大日本帝国陸軍の弾薬を保管していた倉庫である。ただし、米兵は鹿児島県に上陸しておらず、空襲も対象地域は繁華街ばかり、同弾薬庫を狙ったのであれば、爆弾の名残が残されているはず。しかし、それらしい跡はない。
なぜ死者の出なかった施設に心霊が現れるのか。理由は、同地域周辺に戦死者を供養する神社や祠(ほこら)、慰霊碑がひとつもないためだ。既に述べた通り、奄美大島は空襲の対象として猛烈な攻撃を受けたが、地上戦が展開されることはなかった。旧陸軍弾薬庫跡周辺も同様である。
しかし、同弾薬庫から戦地に向かった者は数知れない。荷を運ぶ途中に爆撃を受け死亡した者がいてもおかしくないだろう。死者は何らかの理由があって、同地に戻り姿を現すのだ。そして、弾薬庫跡もしくはその周辺に戦死者を祀る慰霊碑を建立していれば、心霊スポットになることはなかった、と私は思う。
同弾薬庫跡は綺麗に整備され、今でも何かしらの施設として利用できるほど保存状態もよい。さらに、周辺に慰霊碑や神社もなく、霊を招き入れ放題の環境にある。ここに集まる霊たちは、自分が死んだと気づいておらず、「アメリカとの戦争は今も続いている」「勝負はこれからだ」と信じ、武器や荷を運ぶつもりで集まっているのかもしれない。
私は思い切って真夜中に施設を探索、軍議中と思われる霊の一団に遭遇した。腰が抜けるほど驚き、危うく失禁仕掛けたが、回れ右でその場を去り、背後から「遅か。会議は始まっちょるんだぞ。きさんの名は?」と声をかけられたが、無視した。
戦死者に敬意を表し、供養する慰霊碑や神社はいくつあってもよい。しかし、”ない”のはダメだ。全く被害を受けなかった地域でも、そこの出身者が戦地で命を落とし、霊になって戻ってくる可能性もある。そして、思い入れのある場所に戦死者を祀る慰霊碑や神社があれば、霊も安心し成仏する、と私は信じている。
旧陸軍弾薬庫跡は、奄美大島の戦争の歴史を後世に伝える素晴らしい戦争遺構である。心霊の出没スポットと噂され、放置されるのはあまりに惜しい。足を運ぶ際は、供養3点グッズ(お花、線香、お供え物)を準備し、辺りをうろつく霊に敬意を称したうえで探索してほしい。もしかすると、供養グッズの効果で成仏を促すことができるかもしれない。
<まとめ>
◎旧陸軍弾薬庫跡の保存状態は大変よい。戦時中の様子をそのまま残す素晴らしい戦争遺構である。
◎足を運ぶ際は供養3点グッズをお忘れなく。死者に敬意を表し、成仏を促してほしい。
基本情報 | |
心霊スポット | 旧陸軍弾薬庫跡 (きゅうりくぐんだんやくこあと) |
所在地 | 〒894-1531 鹿児島県大島郡瀬戸内町大字手安540 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1 |
①アクセス | 【一般道】鹿児島空港から約15時間 【高速】鹿児島空港から約14時間55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 鹿児島中央駅から約14時間20分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 奄美せとうち観光協会 公式ホームページ |
まとめ
今回は曽於(そお)郡他2市3郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
私が収集した情報は、提供者から許可を得たうえで公開している。なお、もっと恐ろしい伝承の伝わる地域もあるのだが、公にすると大変な騒ぎになるという理由で、公開は控えて欲しいとクギを刺されている。
最後に、心霊や怨霊の出没するスポットを探索する際は、必要な対策をしっかり講じたうえで、死者への敬意と供養を忘れないでほしい。また、公有地や私有地に入る際は、必ず許可を得ること。最後までお読みいただきありがとうございました。