福岡県内には魅力的な心霊スポットが数えきれないほどある。映画で話題になった「旧犬鳴トンネル」を筆頭に、興味深い施設や遺構が数多く残されており、探索し甲斐があると思う。
しかし、人気スポットほど、近隣住人とのトラブルに発展しやすい。夜間、住宅地周辺の心霊スポットでキャーキャー騒いではいけない。
また、車両の駐車位置にも注意してほしい。通行料の少ない林道であればよいが、住宅地のど真ん中に路駐するなどもってのほかである。
今回は田川郡他、3市3郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.田川郡
・金辺隧道
・英彦山
2.田川市
・千原ダム
・ロマンスヶ丘
3.嘉穂郡
・山ノ口溜池
・土居老松神社
4.嘉麻市
・熊ヶ畑ひまわり畑
・坂汐古墳群
5.飯塚市
・腰掛石
・久保白ダム湖
6.鞍手郡
・嘉麻川橋梁
・古月横穴
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金辺隧道
田川郡香春町(かわらまち)と北九州市との境界に『金辺(きべ)隧道』と呼ばれるトンネルがある。これは100年ほど前に開通し、北と南エリアを結ぶ山越えルートの移動時間短縮に大きく貢献したと言われている。
同トンネルは開通時から霊が出没すると噂になり、その現象は現在も続いているそうだ。これまでに目撃された霊は、「トンネルの入り口付近に遺体が転がっていた」「トンネル内から悲鳴が聞こえた」など。
同地で生まれ育ち、貴重な伝承資料を保管するO氏にお話を伺った。曰わく、「金辺隧道開通前まで生活道路として使われていた甘木街道沿いには小さな村が点在しており、その中のひとつ、粕前(かすまえ)集落で起きた事件以降、同地では霊が目撃されるようになった」という。
なお、同トンネルは封鎖されておらず、”一応”通行できる。ただし、内部の地面には段差やくぼみの影響で水が溜まっており、歩いて通行する気には到底ならない。
1757年秋、豊前国(福岡県)は記録的な大雨と台風の影響で、壊滅的なレベルの不作に見舞われていた。稲と農作物は雨水の底に沈み、福岡藩の石高は例年の20分の1以下にまで減少。結果、貧しい農村部の住人は、飢えた。
甘木街道沿いの集落は、城下町へと通じる林道の崩壊で危機的状況に陥っていた。
一部の男たちは、役所に助けを求めるべく、道なき道を進んだ。しかし、峻険な地形と崖が行く手を阻み、城下町にたどり着くことはできなかった。
数週間後、粕前集落の住人たちは雑草、土、昆虫などで飢えを満たしていた。命の水は集落近くの井戸が機能したおかげで失わずに済んだものの、壊滅的な食糧不足により、住人たちの空腹は限界を越えようとしていた。
住人たちは、食料の代わりになるものを探した。しかし、酷い飢えのせいでまともに歩くこともできず、体力はほぼ尽きかけていた。
集落を支えてきた若い男たちは、餓死した老人や子供の遺体を喰った。喰わねば死に、集落も消えると考えたためである。
何とか生き延びていた半死半生の女性たちは、男たちに最後の希望を見出した。彼女たちは、食料になることで集落を存続できると考えたのである。
男たちは指示に従い、女性の首を掻き切った。そして、新鮮な血・肉、内臓で腹を満たしたのである。
男たちは犠牲になった者をひとり残らず喰い尽くした。そして、集落を存続させるべく、力を振り絞った。
数日後、崩壊した林道を何とかかわし、男たちは隣村に到着した。しかし、そこも状況はほぼ変わらず、遺体が山積みになっていた。
男たちは村内で生存していた男女数名を斧とナタでバラバラに解体、ひとまず腹を満たした。
その後、男たちは何とか城下町に到達。山間部の集落とは比べ物にならない量の”食料”があることに感動した。
小倉藩は粕前集落の現状を聞き、数日以内に救援を送ると約束した。しかし、男たちの興味は既に別のものに移っていた。
男たちは城下町の住人を夜な夜な襲い、喰った。彼らは精神を病み、人肉以外受け付けない身体になっていた、のかもしれない。その後、男たちは捕縛、100名以上を喰い殺した罪で処刑された。
この事件以降、金辺隧道のすぐ近くにあったとされる粕前集落で霊が目撃されるようになり、通行人たちを震え上がらせたという。
<まとめ>
◎金辺隧道近くにあった粕前集落は、食人伝説の舞台のひとつである。
◎100名以上を喰い殺した男たちはひとり残らず処刑され、粕前集落および周辺の村は消滅した。
基本情報 | |
心霊スポット | 金辺隧道 (きべずいどう) |
所在地 | 〒822-1401 福岡県田川郡香春町大字採銅所 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間25分 【高速】福岡空港から約1時間5分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間30分 【高速】博多駅から約1時間5分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 香春町 公式ホームページ |
英彦山
福岡県と大分県の県境に位置する『英彦山(ひこさん)』は、日本二百名山および国の史跡に指定された名山であり、「霊山」とも呼ばれている。
この山は標高のわりに登りやすく、山頂付近に位置する「英彦山神宮(上宮)」までルートがきっちり整備されている。なお、同神宮の築造年は不明、改修年は1842年だという。
英彦山が霊山と呼ばれるようになった理由を知る者は少ない。私は、某国立大学の准教授と一緒に、あるご夫婦を訪ねた。
I氏は英彦山および同地の伝承資料を受け継いでいた。曰わく、「この山が霊山と呼ばれるようになったのは、1638年頃から。決して近づいてはならない、と小倉藩に指示されたためである。結果、山頂付近の英彦山神宮(上宮)には、神主すら近づけなくなった」という。
1638年、天草地方で発生した「島原の乱」が終結し、幕府と九州の各大名は隠れキリシタン狩りを本格化させていた。
英彦山周辺を治めていた小笠原氏は、根っからの仏教徒だったものの、キリスト教に一定の理解を示し、禁教令(1613年)が発布されて以降も、そこまで厳しい弾圧は行っていなかった。
しかし、幕府主導のキリシタン狩りが始まったことで、気の抜けた取り締まりは行えなくなった。なお、豊前国内には数百~数千名の隠れキリシタンが潜んでいると噂され、幕府は警戒を強めていた。
小笠原氏は、英彦山周辺に隠れキリシタンの隠れ里と思われる集落があることを知っていた。が、幕府の強硬なやり方に少しでも対抗したいと考え、この情報を伏せていた。
数日後、隠れ里近くの集落から隠れキリシタンに関連する通報が入り、幕府の担当官は怒り狂った。通報した住人は、「数カ月前に同じ情報を提供した。なぜ取り締まらないのか」と述べたのである。
小笠原氏はこの情報を意図的に握りつぶしていた。しかし、幕府に知られてしまった以上、対応する以外に手はない。藩主は「情報伝達体制に不備があった」と言い訳し、隠れキリシタンを一網打尽にすると幕府に告げた。
1週間後、小笠原軍と幕府軍は英彦山周辺の林道を封鎖、隠れ里に侵攻した。しかし、そこで生活していた者たちはひとり残らず姿を消し、キリスト教につながる証拠も発見できなかった。
これを見た幕府軍は小笠原氏に対し、「今すぐ逃げた者たちの行方を追い、結果を出さねばならぬ。失敗すれば、藩主、家臣およびその家族は切腹。領地も全て没収とする」と強烈な圧力をかけた。
小笠原氏は覚悟を決めた。実は、英彦山神宮の神主に隠れキリシタンを保護するよう依頼していたのである。しかし、それを押し通せば藩は解体。幕府に戦いを挑んでも勝てる可能性はゼロだった。
小笠原軍は英彦山一帯を捜索し、神宮の神主を捕縛。境内近くの倉庫内にいた隠れキリシタン計80名を捕縛した。
神主は小笠原氏からこれまでのいきさつを聞いたうえで、幕府軍に対し「キリシタンを一カ所に集め、一網打尽にした」と報告。神宮は存続を許された。
80名の隠れキリシタンは、英彦山の山頂でひとり残らず火刑に処された。幕府軍が火力を限界まで弱めるよう指示した結果、彼らはジワジワとあぶり殺され、その悲鳴は麓の集落までこだましたという。
その後、小笠原氏は英彦山を霊山と呼ぶようになり、山頂付近への立ち入りを固く禁じた。ただし、霊を供養する場合のみ、神主は立ち入りを許可された。
<まとめ>
◎英彦山は霊山と呼ばれている。しかし、その理由を知る者は少ない。
◎これまでに目撃された霊は、「人魂」「黒焦げになった遺体が放置されていた」など。
基本情報 | |
心霊スポット | 英彦山 (ひこさん) |
所在地 | 〒871-0701 福岡県田川郡添田町山国町槻木 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間40分 【高速】福岡空港から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間50分 【高速】博多駅から約1時間40分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 英彦山神宮 公式ホームページ |
英彦山 豊前坊~北岳#GRIII pic.twitter.com/bCcMIs6P0N
— mi(みー) (@mi84toki2) February 27, 2020
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千原ダム
田川市南部、標高232mの「大法山(たいほうさん)」の麓付近に知る人ぞ知る「幽霊ダム」がある。
ここで紹介する『千原ダム』は、一級河川「猪位金川(いいかねがわ)」の最上流域に建設され、流域一帯の治水と利水を担ってきた農業用ダムである。
同河川は河川長のわりに幅が狭く、大雨が降ると増水しやすいことで知られていたため、ダム建設は住人の念願だった。
千原ダムでは、建設工事中から霊が出没すると噂になっていた。これまでに目撃された霊は、「猪位金川から女性が這い出てきた」「裸の女性が立っていた」など。
霊が出没すると噂になったことで、同ダムを訪れる人は激減。同地に移り住んだ人の大半がその存在自体を認識しておらず、霊が出ることを知っている人は幽霊ダムと呼ぶようになった。
同地で生まれ育ち、猪位金川の伝承に詳しいM氏曰わく、「千原ダムが建設された地点には、宇名(うな)池という人目に付きにくい小さな池があった」と述べた。
1840年、猪位金川中流域の「棚荷(たなに)集落」に「リツ」という美しい娘が住んでいた。
リツの美しさは棚荷集落から遠く離れた城下町でも噂になり、裕福な商人たちが嫁もしくは女中にほしいと申し出るほどだった。
リツは城下町で一番裕福な商人と噂された「田野氏」の女中として働くことになった。数日後、田野氏の商家には美しい娘を一目見ようと、大勢の男性客が集まったという。
田野氏は15歳のリツに惚れ込み、夜な夜な身体を重ねた。田野氏には「マツ」という妻がいたものの、子供を産むことができず、関係は冷え切っていたようだ。
マツは夫とリツの関係に気づいていた。が、見て見ぬふりをした。下手に騒げば店の評判を傷つけ、さらに子供を産めない自分が追い出されるかもしれない、と考えたのである。
数か月後、リツは見事に妊娠した。そして、マツの最も恐れていたことが現実になった。
田野氏はマツに絶縁状を渡した。当時、女性に離婚を拒否する権利は一切なく、「三下り半」をつきつけられれば、従う他なかったのである。
渡された絶縁状には、「子を産める女と結婚する」と書かれていた。マツは全てを失い、路頭に放り出された。
半年後、出産を間近に控えていたリツは、複数名の男たちに捕縛され、猪位金川上流域の宇名池に移送された。
これと同じ時、田野氏の商家で火災が発生。炎は周辺の住居などを焼き尽くし、数十名の死傷者を出した。
なお、田野氏本人は全く別の場所にいたため無事だった。が、この後、「商家と一緒に焼け死んだ方がよかった」と思う事態に遭遇する。
田野氏は放火犯を名乗る集団に捕縛、リツと同じく、宇名池に移送された。
田野氏が宇名池に到着した時、臨月間近のリツは、全裸状態で逆さ吊りにされていた。そして、その横にはマツが笑顔で立っていたのである。
屈強な男のひとりがリツの股にノコギリを当て、脳天めがけて何度も刃を前後させた。
リツは断末魔の叫びを上げ、糞尿と生まれる直前の赤子を垂れ流し、死んだ。これを見た田野氏は衝撃のあまり失神。目覚めると、真っ二つに切り裂かれた赤子の頭と身体が目の前に転がっていたという。
マツは元夫への復讐を果たし、消えた。なお、脳天まで真っ二つに切り裂かれたリツの遺体は、棚荷集落近くの林道で発見された。
<まとめ>
◎千原ダムは知る人ぞ知る幽霊ダム。女性の霊が頻繁に出没する。
◎リツと生まれる直前だった赤子は真っ二つに切り裂かれ、怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 千原ダム (ちはらだむ) |
所在地 | 〒826-0045 福岡県田川市大字猪国 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間5分 【高速】福岡空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間10分 【高速】博多駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 田川広域観光協会 公式ホームページ |
ロマンスヶ丘
「縁起の悪い言い伝え」や悲惨な事件・事故は、できれば後世に伝えたくない。そういう時、どうすればいいか。「縁起の良い言い伝え」や楽しい噂・イメージを意図的に広めればよいのである。
田川市北部、見晴らしのよい丘の上に整備された『ロマンスヶ丘』は、その名の通り、素晴らしい景色がカップル、夫婦、家族などにロマンス💛を運んでくれると言い伝えられている。
しかし、ロマンス💛溢れる丘周辺では、なぜか霊の目撃情報が相次いでいた。これまでに目撃された霊は、「刀を持った男に追いかけられた」「広場に黒焦げの遺体が放置されていた」など。
なぜ、ロマンス💛溢れる丘に霊が出没するのか?理由は、そこで悲惨な事件が起きたからである。私は田川市出身の元大学教授、U氏に同地の伝承を伺った。
U氏曰わく、「江戸時代、同地一帯を治めていた小倉藩藩主、小笠原氏の部隊は、とてつもない集団と対峙することになり、多くの死者を出したと言い伝えられている。夏吉(なつよし)の戦いと呼ばれる合戦は、名もなき賊集団の圧勝に終わった」という。
1731年、九州一帯で稲を食い荒らすウンカが大量発生し、米や野菜などの農作物に壊滅的な被害をもたらした。
ウンカは豊前国でも大暴れし、稲の9割が枯れた。小倉藩藩主の小笠原氏は、税の免除や食料の配給、天候不良に強い野菜の栽培などを推奨した。しかし、藩の財政は日を追うごとに悪化し、藩主もイモをかじるほどだった。
ある日、小倉藩に不穏な噂がもたらされた。ある地域の集落近くに陣取った賊が、女性と引き換えに野菜を配っているというのだ。小笠原氏は村人の弱みにつけこんだ犯罪行為を非難し、役人数十名を送りこんだ。
数日後、送り込んだ役人、計20名がバラバラに切り刻まれた状態で発見された。第一発見者の村人によると、役人たちは見上げるほど大きな男に敗れ、その場で解体されてしまったという。
小笠原氏は家臣の柳(やない)氏に賊および大男の討伐を指示。藩兵500名が招集された。
その後、役人20名を切り刻んだ大男は、第一発見者の村人が生活する集落の北、小高い丘の上に潜んでいることが分かった。
さらに、女性と野菜の物々交換を要求する賊の頭領が大男と判明、柳氏と藩兵は目的地に乗り込んだ。
柳氏たちは雑木林を抜け、見晴らしのよい丘に到達、賊のものと思われる小屋を発見した。
部隊は辺り一面に敷き詰められた枯れ葉・枯れ枝・松ぼっくりなどを踏み分けつつ、小屋へと突き進んだ。が、そのエリアに入るべきではなかった。
最初に射抜かれたのは大将だった。雑木の上から放たれた弓が柳氏の顔面を直撃。一撃で命を奪ったのである。
その刹那、今度は数十本の火矢が部隊に向けて放たれた。しかし、それらはいずれも地面に突き刺さり、藩兵たちは胸をなでおろした。
数時間後、丘の麓付近で待機していた別動隊150名は、目的地周辺の雑木林が炎に飲み込まれる様子を見つめていた。
数日後、別動隊は焼け野原になった丘の頂上付近で300名超の焼死体を発見。遺体は見分けがつかないほど焼け焦げており、処理に1カ月以上かかったという。
なお、別動隊は賊集団も一緒に燃え尽きたと判断したが、大男らしき遺体は確認できず、事件は闇に葬られた。
<まとめ>
◎ロマンスヶ丘は「夏吉の戦い」の舞台。300名超の藩兵が焼死したと言い伝えられている。
◎焼死体は現地に埋葬し、墓を建立した。と、U氏の伝承資料には書かれていた。しかし、それらしい遺構はどこにも残っていない。
基本情報 | |
心霊スポット | ロマンスヶ丘 (ろまんすがおか) |
所在地 | 〒825-0004 福岡県田川市大字夏吉4688-1 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間15分 【高速】福岡空港から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間20分 【高速】博多駅から約1時間5分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 田川市 公式ホームページ |
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山ノ口溜池
『山ノ口溜池』は、嘉穂郡桂川町(かほぐんけいせんまち)の中西部に造られた農業用人造池である。
同溜池およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「池に遺体が浮いていた」「悲鳴が聞こえた」など。
桂川町で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を受け継いだA氏曰わく、「かつて、山ノ口溜池の麓に井原(いばる)集落と呼ばれる小さな村があり、そこで発生した事件以降、同地周辺は霊の巣窟になったと言い伝えられている」という。
同地周辺は平家落ち人伝説の舞台のひとつであり、それに関連する遺構が数多く残されていた。しかし、集落の数と人口が減ったことで伝承を知る者は少なくなり、墓や慰霊碑などは雑草に覆い尽くされ、その存在を知る者は少なくなった。
1828年、山ノ口溜池の麓にあった井原集落は、商いで財を成し、同地で一番裕福な村と呼ばれていた。住人たちを取りまとめた村長の「楠岡(くすおか)氏」を筆頭に、多くの商人が財を成し、集落を大きくしたのである。
さらに、農家は米だけでなくサツマイモなどの比較的収穫しやすい作物の栽培に力を入れたことで、不作に強い食糧自給システムが形成された。結果、集落全体に新鮮な作物が行き渡り、住人の生活を豊かにしたという。
A氏の伝承資料によると、井原集落の住人たちはひとり残らず税を期日内に収め、役所からの信頼も特に厚かったそうだ。
これに対し、他の周辺集落は数百年前から続く米作りと古い慣習にこだわり、不作と不況にあえいでいた。また、村内に優秀な商人はおらず、稲が実らないと住人の生活は一気に苦しくなった。
他の集落は井原集落の成功をうらやみ、妬むようになった。
この年、同地は記録的な干ばつに見舞われた。米の収穫量は例年の9割以下に落ち込み、飲み水を確保することすら難しかったという。
しかし、井原集落はサツマイモ栽培と住人たちの力で造った水源用人造池がうまく機能し、米以外の農作物は例年以上の収穫量を記録した。
他の集落は深刻な食糧不足に直面。一方、井原集落は米の貯えだけでなく、サツマイモなどが山のように実り、食料に困ることは一切なかった。
他の集落の住人たちは、井原集落に食料を恵んでほしいとお願いした。この要望は聞き入れられ、商人たちはサツマイモと米を飢えた者たちに分け与えたという。
数日後、他の集落の若い男たちが井原集落を襲撃した。彼らは食料を分け与えられたことでプライドを酷く傷つけられ、恩を仇で返そうとしたのである。
しかし、井原集落の屈強な男たちはこれを軽々と制圧し、ひとり残らず処刑した。
井原集落の住人たちは平家一族の末裔だった、と言い伝えられている。そして、恩を仇で返そうとした他の集落の愚行に怒り、ひとり残らず切り殺したのである。
井原集落は他の集落を滅ぼし、農作業に適した土地へ転居。なお、数百名分の遺体は、旧井原集落近くの山ノ口溜池に遺棄、以来、同地では頻繁に霊が目撃されるようになった。
<まとめ>
◎山ノ口溜池周辺は、平家落ち人伝説の舞台のひとつである。
◎井原集落は、恩を仇で返した他の集落の愚行に怒り、数百名を殺害。遺体を山ノ口溜池に遺棄した。
基本情報 | |
心霊スポット | 山ノ口溜池 (やまのくちためいけ) |
所在地 | 〒820-0602 福岡県嘉穂郡桂川町大字九郎丸 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 【高速】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間 【高速】博多駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 福岡県 公式ホームページ |
土居老松神社
福岡県の中心部に位置する嘉穂郡(かほぐん)には、隠れキリシタンが多数潜伏していたと言い伝えられている。なお、同地を治めた福岡藩藩主の「黒田氏」は、あの有名な「黒田如水(官兵衛)」などで知られる超エリート一族である。
黒田如水は豊臣秀吉や徳川家康に匹敵する実力の持ち主として知られ、天下人の最有力候補と噂されるほどの男であり、生粋のキリシタン大名だった。彼は、藩内のキリシタンを手厚く保護したのである。
しかし、如水は死に、江戸時代の福岡藩初代藩主になった「黒田長政」は徳川家康派閥に属し、キリスト教を捨てた。結果、同地のキリシタンは厳しい弾圧を受けることになる。
ここで紹介する『土居老松(どいおいまつ)神社』は、同郡桂川町(けいせんまち)の住宅地にポツンと建つ小さな神社である。
同地の伝承を受け継ぐE氏にお話を伺った。曰わく、「土井老松神社は、隠れキリシタン殉教の地のひとつ、と言い伝えられている。その死に様は目を覆いたくなるほど惨たらしく、キリスト教を邪教と信じる者たちですら恐怖を覚えるほどだった」という。
1638年、黒田氏は「島原の乱」で武功を挙げ、領内に潜伏する隠れキリシタンの取り締まりを激化させていた。
黒田長政の嫡男、「忠之(ただゆき)」は、数年に発生した「お家騒動」で失った信用と信頼を取り戻すべく、幕府の指示に徹底的に従った、と言われている。
忠之は幕府の禁教令(1613年)に従い、隠れキリシタンたちを追い詰め、可能な限り残酷な方法で処刑した。キリスト教を厳しく取り締まっているとアピールし、失った信用と信頼を取り戻したいと考えたのである。
幕府は厳しくキリシタンを弾圧する黒田氏の働きに感服し、その戦法を他藩の藩主にも伝えたほどだった。
調略に秀でていた黒田氏は、領内の集落の有力者たちに、「隠れキリシタンの有益な情報を提供すれば、税を一部免除する」と約束。集落の住人をコントロールした。
結果、有益な情報が数多く寄せられ、隠れキリシタン狩りを加速させたのである。
土井老松神社の北、人口百数十名の「谷苗(たになえ)集落」にはキリシタン約50名が身を潜めていた。
谷苗集落の長はそのことを理解したうえで、隠していた。しかし、他の集落の住人に暴露され、隠れキリシタンたちは窮地に追いつめられた。
黒田氏は同集落の隠れキリシタン捕縛作戦を開始するも、50名はうまく姿を隠した。
これに対し、情報を提供した他の集落の住人たちは自警団を結成。谷苗集落から消えた約50名の追跡を開始した。
数日後、自警団は土井老松神社内の小屋の中に潜んでいた隠れキリシタンを捕縛。黒田氏に報告し、税の一部免除および金一封を受け取った。
捕縛された隠れキリシタンと住職は、土井老松神社の境内で、「皮剥ぎ火刑」に処された。
全身の皮を削ぎ落された男女は、木の柱にくくりつけられたうえでジワジワ焼かれ、憤死した。
境内は隠れキリシタンの血と肉、そして、黒焦げの遺体で埋めつくされ、地獄の様相を呈していた。
この処刑以来、土井老松神社では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「黒焦げの遺体が山積みにされていた」「男女の悲鳴が聞こえた」など。
<まとめ>
◎土井老松神社は、隠れキリシタン殉教の地のひとつである。
◎隠れキリシンタたちは、全身の皮を削ぎ落されたうえでジワジワ焼かれ、憤死。怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 土居老松神社 (どいおいまつじんじゃ) |
所在地 | 〒820-0606 福岡県嘉穂郡桂川町大字土居601 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約55分 【高速】福岡空港から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間 【高速】博多駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 桂川町 公式ホームページ |
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熊ヶ畑ひまわり畑
嘉麻市熊ヶ畑(かましくまがはた)の田園地帯に残されている「上山田線(かみやまだせん)」の遺構は、知る人ぞ知る観光スポットとして人気を集めているようだ。
私は某国立大学で准教授を務めるY氏に連れられ、ある老夫婦を訪ねた。同地の伝承資料を受け継ぐS氏は、上山田線の鉄道遺構およびその周辺一帯の『熊ヶ畑ひまわり畑』に霊が出没する理由を知っているという。
S氏曰わく、「明治時代、熊ヶ畑で奇怪な殺人事件が発生した。しかし、当時九州は混乱期の真っただ中にあったため、田舎町で発生した殺人事件の捜査は後回しにされ、闇に葬られてしまった」という。
1877年春、鹿児島県や熊本県などを舞台にした日本最後の内戦、「西南戦争」が勃発。それに伴い、福岡県内の役人(元藩兵)たちも明治政府連合軍に加わっていた。
戦争の混乱は九州全域に広がり、役人たちは薩摩藩士との戦いに集中せざるを得なくなった。結果、他の犯罪を取り締まる者は激減。好き放題する犯罪者たちが各地に現れた。
同年夏、熊ヶ畑で女性を標的にした連続殺人事件が発生した。被害者はいずれも女性で、年齢層は10代~60代と幅広かった。
殺害された女性たちは、いずれも全裸で発見され、「乳房」と「女性器」がえぐり取られていた。さらに犯人は、被害者の両目をくりぬき、耳と鼻を削ぎ落とし、それらを口内に押し込んでいたという。
熊ヶ畑周辺の住人たちは、役所に事件の調査を依頼した。しかし、元藩兵の8割近くが西南戦争に駆り出されており、繁華街の治安維持で手一杯の状態だった。
周辺住人たちは自警団を結成、地域の見回りを強化した。
数週間後、15人目の被害者はまだ8歳の少女だった。犯人は少女を酷く辱め、全身が青アザだらけになるまで酷く痛めつけていた。
8歳の少女がなぶり殺しにされたことで、住人たちの怒りは頂点に達した。男たちはナタやノコギリなどで武装、女性たちを集落内の一カ所に集め、アリ一匹通さない覚悟で守りを固めた。
しかし、この厳戒態勢はあっさり破られた。犯人は、集落の男たちが一カ所に集まったスキを見計らい、食糧庫や住居に火を放ったのである。
男たちは炎を消し止めるべく川や井戸から水をかき集め、女たちも消火活動に参加。そして消火活動終了後、赤子を含む女児計5名が行方不明になった。
数日後、失踪した少女と赤子の遺体が発見された。それらはいずれもバラバラに切り刻まれ、口内には女性器、目、鼻、そして耳が詰め込まれていたという。
女児5名の遺体が発見された直後、「犯人を目撃した」という情報が寄せられた。
情報提供者は「村長の息子が犯人」と証言。家宅捜索を行った結果、凶器と思われる短刀数本が発見された。
村長の息子は容疑を否認した。が、住人たちの怒りは限界を超えており、「息子およびその家族に全責任を負わせる」ことが決まった。
住人たちは村長家族をひとり残らず捕縛、斬首し、遺体は河川に遺棄した。
公開処刑から数日後。集落の女性計5名の全裸遺体と、先日河川に遺棄した村長家族の首なし遺体が発見された。なお、女性たちは前回までと同じ手口で殺害されていたという。
その後、村長家族の腐りきった頭部は、現在の熊ヶ畑ひまわり畑近くで発見された。
<まとめ>
◎熊ヶ畑ひまわり畑が整備された地点は、奇怪な連続殺人事件の舞台と言い伝えられている。
◎これまでに目撃された霊は、「女性の悲鳴が聞こえた」「廃線路の上に生首が並べられていた」など。
基本情報 | |
心霊スポット | 熊ヶ畑ひまわり畑 (くまがはたひまわりばたけ) |
所在地 | 〒821-0013 福岡県嘉麻市熊ケ畑1403 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
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関連サイト | 嘉麻市観光ポータル |
地元(と言っても、家から20kmほどありましたが💦)のひまわり畑と廃線を見に行ってきました。
— ケロロ将軍 (@Keroro_Syogun) July 28, 2019
しかし、肝心のひまわりが何と開花前!!
それにしても、段々畑に植えられた20万本のひまわりは見ごたえ十分っぽいので、来週リベンジしようかな😊#嘉麻市#熊ヶ畑ひまわり畑 pic.twitter.com/r9zstwDSra
坂汐古墳群
嘉麻市下山田地区の雑木林の中に『坂汐(さかしお)古墳群』と呼ばれる横穴式古墳がある。
これは古墳時代後期に築造されたものと考えられているが、大規模な発掘調査が行われていないため、全容は明らかにされていない。
同古墳群は知る人ぞ知る超マニアックなスポットだった。しかし、霊を目撃したという噂が広まり、今では福岡県を代表する心霊スポットのひとつになった。
これまでに目撃された霊は、「子供と思われる遺体が散乱していた」「古墳内から人間が這い出ていた」など。不気味な目撃情報が相次いでいる理由は、同地で繰り広げられた凄惨な事件と関係していた。
下山田地区で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継ぐH氏曰わく、「坂汐古墳群近くにあった集落は、1835年の飢饉で消滅したと言い伝えられている。住人の大半は餓死、そして、生き残った者たちは罪に問われ、ひとり残らず処刑された」という。
1835年、2年ほど前から始まった天候不良により、九州地方の稲と農作物は壊滅的な被害を受けていた。
筑前国(福岡県)嘉麻郡の米の収穫量は1833年から減少し始め、1835年の石高は例年の20分の1以下にまで減少。貧しい農村地域の住人たちは、飢えていた。
下山田地区、「佐々集落」の住人たちは、ありとあらゆるものを食料にした。犬や猫はもちろん、昆虫、雑草、土など、口に入るものは何でも食べたという。
しかし、身の回りのものだけで空腹を満たすことはできなかった。さらに、原因不明の疫病が蔓延し、住人たちは空腹と病魔に蝕まれたのである。
その後、住人の半数以上が餓死もしくは病死。生存者たちも生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。
ガリガリにやせ細った男女は、亡くなった両親や子供の腐った血肉と内臓で腹を満たした。H氏の伝承資料によると、遺体を喰らう男女の姿は「地獄に巣くう餓鬼を思い起こさせた」という。
生存者たちは腐った血肉と内臓で腹を満たしても死なず、遺体をひとつ残らず処理した。そして、新たな食料を求めたのである。
佐々集落の南にあった村でも、住人の半数近くが餓死していた。生存者たちはそこに乗り込み、餓死寸前の住人を殺した。理由は、新鮮な人肉の方が美味かったため、と思われる。
生存者たちは、殺した者と既に死亡していた者たちのおかげで数週間食料に困らなかった。そして、全てを喰い尽くし後は、また別の村に移動したのである。
数か月後、役人たちによる飢饉の進行状況調査が実施された。
役人たちは、下山田地区の住人と連絡がとれないことに困惑し、各集落および村を訪ねた。すると、そこにはいずれも人骨だけが山のように積み重なり、生存者の姿は確認できなかった。
生存者たちは役人たちを遠くから監視し、攻撃の機会を伺っていた。そして、集団で一気に取り囲み、ナタやノコギリなどで切り殺したという。
その後、黒田氏の藩兵部隊数百名により調査の結果、佐々集落の生存者たちはひとり残らず捕縛。周辺集落の住人および役人10名を喰い尽くした罪により、斬首された。
<まとめ>
◎坂汐古墳群近くの集落では、大規模な殺人および喰人事件が発生した。
◎佐々集落の生存者たちは、周辺の住人を100人以上殺し、その血肉と内臓で腹を満たした。
基本情報 | |
心霊スポット | 坂汐古墳群 (さかしおこふんぐん) |
所在地 | 〒821-0011 福岡県嘉麻市下山田1432-2 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
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腰掛石
飯塚市内住(ないじゅう)、県道60号線(飯塚大野城線)と県道435号線が接続する地点近くに『腰掛石』と呼ばれる遺構がある。
これは、初代女性天皇こと「神功(じんぐう)皇后」が腰かけたとされる石である。なお、同皇后は実在した人物と言われているが、その存在を証明できる確かな資料および方法は、現時点では地球上に存在しない。
県道60号線沿いにポツンと鎮座する腰掛石およびその周辺では、霊の目撃情報が相次いでいる。霊の存在に気づいた運転手がハンドル操作を誤り、重大事故につながったケースもあるという。
これまでに目撃された霊は、「血だらけの男が道路の真ん中に立っていた」「道端に遺体が放置されていた」など。
同地で生まれ育ち、貴重な伝承を受け継いだK氏という御仁にお話を伺った。K氏曰わく、「250年ほど前に発生した事件以降、腰掛石とその周辺では霊が目撃されるようなった、と言い伝えられている。なお、事件の首謀者たちは人間とは思えない”何もの”かによって殺害され、事件は闇に葬られた」という。
1757年、筑前国は台風や豪雨被害に何度も見舞われ、農作物に甚大な被害を受けていた。
住居は崩壊し、田畑は水浸しになり、各地で餓死者が出たことで、同国内の集落は無政府状態に陥っていた。
内住地区、「内枝(うちえだ)集落」の住人たちは、限られた食料と農作物を分け合い、ひとりの餓死者も出すことなく耐え忍んでいた。
ある日、集落内の食料庫が何者かに襲われ、残りわずかだった野菜を奪われてしまった。
住人たちは餓死を覚悟した。しかし、村長の提案で野生動物の狩りを行った結果、猪、猿、タヌキ、イタチなどの捕縛に成功し、苦しいながらも何とか生き永らえることができた。
食料庫襲撃事件から数日後、今度は集落の外れにある神功皇后の貴重な遺構が何者かに破壊された。これは、戦場へ向かう同皇后が同地で休んだことを祈念し建立された記念碑であり、村の守り神と言い伝えられてきたものだった。
住人たちは粉々に打ち砕かれた記念碑の欠片をひとつ残らず回収。集落内の神社や社に備えたうえで、記念碑のあった場所に手作りの碑と花を供えた。
食料庫と神功皇后の記念碑を破壊したのは、罰当たりな盗賊集団だった。彼らは食料を奪い、面白半分で住居や貴重な遺構を破壊。邪魔する者は容赦なく排除する危険人物の集まりだった。
内枝集落は、またしても盗賊集団に狙われた。今度は若い女と子供数名が誘拐され、それを阻止すべく立ちはだかった住人が切り殺されてしまったのである。
村長たちは、女子供のために戦った住人の死を嘆き悲しんだ。
数日後、誘拐された女子供が血相を変えて集落に飛び込んできた。彼女たちは口を揃えて「天罰が下った」と連呼した。
村長たちは女子供の証言を確認すべく、神功皇后の腰掛石に向かった。
腰掛石の周りには、長さ10m超の大木数本が地面に深々と突き突き刺さっていた。村長たちは、その頂部で串刺し状態になっていた男たちの死に様に仰天し、腰が抜けてしまったという。
男たちには顔がなかった。そして、抜け落ちた顔は大木の幹に張り付き、人間のものとは思えないほど酷く歪んでいた。
<まとめ>
◎盗賊集団を殺した者、長さ10m超の大木を地面に突き刺した方法、そして男たちから顔を奪った方法は不明。
◎内枝集落の住人たちは盗賊たちの死に様について、”神功皇后の天罰が下った”と噂した。
基本情報 | |
心霊スポット | 腰掛石 (こしかけいし) |
所在地 | 〒820-0713 福岡県飯塚市内住 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
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久保白ダム湖
『久保白(くぼしろ)ダム湖』は、遠賀川水系久保川の上流域に造られたアースダム湖である。池の形状をそのまま利用し、治水および利水機能を備えている。
なお、複雑な池の形状は、数千~数万年かけて形成されたと言われており、本体の湖の周りに小さな池が点在している。
同ダム湖周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「湖に遺体が浮いていた」「池から人間が這い出てきた」など。
私は某国立大学で准教授を務めるY氏に連れられ、同ダム湖の伝承を知る老夫婦にお会いした。K氏曰わく、「久保白池(ダム)は、江戸時代から水や食料を供給する水源として重宝されていた。しかし、湖本体から少し離れた池で悲惨な事件が発生し、以来、霊が出没すると噂されるようになった」という。
1757年に筑前国(福岡県)が台風および豪雨の被害を受けたことは、先述の「腰掛石」の中で紹介した通りである。その影響は同国全土に広がり、久保白池周辺でも深刻な飢饉が発生した。
筑前国を治めていた黒田氏は、領内全域の税の徴収を一時的に見送るなど、人々の生活再建と集落の存続に力を入れた。
しかし、飢饉の範囲および状況は想像以上に酷く、役人たちも実態を把握できずにいた。そんな中、遺体を喰らう者たちが各地で猛威を振るっている、という噂が流れた。
久保白池の麓に位置する「三池集落」は、近くの小さな池で釣れる魚を主食にしていたため、飢えとは無縁の生活を送っていた。
同集落の村長は、際限なく釣れる魚を他の集落に分け与え、「久保白池の魚が命を救う」と吹聴した。
結果、久保白池には多くの釣り客が集まり、飢えに苦しむ人々を助けたという。しかし、情報が広範囲に拡散されたことで、危険な輩たちに同池の存在を知られてしまった。
ある日の午後、久保白池の見回りを行っていた住人たちは異変に気付いた。連日大繁盛だった釣り客たちがひとり残らず消え、釣り竿などの道具だけが残されていたのである。
翌日、住人たちは再度久保白池周辺の見回りを行い、敷地内に打ち捨てられた数十名分の遺体を発見した。それらはいずれも内臓をむしりとられており、皮膚(肉)の一部が大きく欠損していた。
遺体を発見した住人たちは、背後から迫る気配に気づいた。が、時すでに遅しだった。
住人たちはナタやノコギリなどで武装した20名超の集団に囲まれ、ひとり残らず解体された。
この時、三池集落の村長は久保白池周辺で発生した異変に気付き、住人たちに避難を呼びかけた。
住人たちは、集落の外れに位置する小さな池の麓で身を潜めた。しばらくすると、遠くから男たちの雄叫びが聞こえてきた。
その後、三池集落の住人たちは遺体を喰らう集団に捕縛され、生きたまま内臓をむしりとられた。唯一生き残った女性は茂みの中からその様子を伺い、「この世のものとは思えない、酷い有様だった」と証言したという。
K氏の伝承資料によると、三池集落の住人たちは久保白池の西に位置する小さな池で遺体となって発見されたらしい。なお、住人たちを喰らった者たちがどうなったかは不明である。
事件後、久保白池の西にある小さな池は「喰人湖」と呼ばれるようになった。
<まとめ>
◎久保白(池)湖ダムの麓にあった三池集落は、遺体を喰らう者たちの襲撃を受け、消滅した。
◎喰人湖の西側には、三池集落の住人を祀る慰霊碑が残されている。
基本情報 | |
心霊スポット | 久保白ダム湖 (くぼしろだむこ) |
所在地 | 〒820-0078 福岡県飯塚市久保白 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約55分 【高速】博多駅から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
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嘉麻川橋梁
鞍手郡と直方(のおがた)市の境界に位置する一級河川「遠賀川(おんががわ)」沿いには、古戦場跡の遺構が数多く残されている。
ここで紹介する『嘉麻川(かまがわ)橋梁』は、遠賀川を通過する「平成筑豊鉄道伊田線」の橋梁兼、歴史遺構である。建設されたのは明治時代。炭鉱移送用の線路が敷設され、明治日本の産業革命に大きく貢献したと伝えられている。
嘉麻川橋梁のある遠賀川の河川広場では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊は、「刀を持った鎧武者に追いかけられた」「広場に生首が並べられていた」など。
鞍手郡小竹町(こたけまち)の歴史を研究する歴史家のF氏にお話を伺った。曰わく、「筑豊地方を縦断する遠賀川は、戦国大名が最も欲しがったもののひとつだった。河川本体および流域を抑えれば、物資と人の移送が格段に早くなる。戦国大名たちは、遠賀川を巡る激しい戦いを繰り広げた」という。
1585年、豊後国(大分県)と筑前国の一部を治めていた「大友氏」は、南九州の大名、「島津家」との闘いで酷く疲弊していた。
島津家当主、鬼島津こと「島津義弘」は、念願の九州平定を目指し、大友氏に猛攻撃を仕掛けていたのである。
両家の戦いは筑前国内で主に行われ、遠賀川沿いの戦いは特に激しかったと言い伝えられている。島津家は筑豊地方に初めて侵攻した際、真っ先に遠賀川沿いの集落および領土を狙った。しかし、大友氏は敵の動きを読み、これに対処している。
遠賀川の航行権を失えば、他国との交易や移送に大きな影響を与えてしまう。大友氏は島津家の攻撃に耐え、それを渡さなかった。
しかし、以前大友氏によって打ち滅ぼされた「秋月(あきづき)氏」が、中国110万石を治める大大名「毛利氏」の加護により復活。秋月氏は島津家と手を組み、筑前国に侵攻したのである。
遠賀川沿いで繰り広げられた合戦は熾烈を極めた。そして1586年、大友氏は島津・秋月連合軍に激しく攻め立てられ、遠賀川一帯の領土および航行権を奪われてしまった。
この戦いで大友氏は1,000名近い兵士を失い、遠賀川および河川敷きは彼らの血で真っ赤に染まったという。
大友氏は島津・秋月連合軍に兵士の弔いをさせてほしいと願い出た。しかし、連合軍はそれを無視。首を切り取ったうえで1カ月以上さらし、骨はひとつ残らず遠賀川に遺棄した。
この非道な行いを見た領民の一部が連合軍に決死戦を挑んだものの、軽々と打ち破られた。大友氏は、500名超の”元”領民が叩き伏せられる様子を黙って見届けることしかできなかった。
1587年、大友氏は天下人「豊臣秀吉」への属従を決断。藩主の「大友宗麟(そうりん)」は、筑前国の一部および豊後国を差し出す代わりに、島津・秋月連合軍を叩きのめしたいと豊臣家に懇願した。
秀吉はこの願いを聞き入れ、20万超の大連合軍を率いて九州に侵攻。島津・秋月連合軍はこれに対峙したものの、アリが巨人に敵うはずもなく、遠賀川沿いで繰り広げられた戦いでは、両軍合わせて約2,000名が戦死。遠賀川は再び真っ赤に染まった。
大友氏は筑前国を失ったものの、豊後国だけは安堵され、島津・秋月連合軍に一矢報いたのである。
遠賀川沿いで戦死した兵士の数は、少なく見積もって約5,000人。記録に残っていない合戦や乱闘などを含めると、10,000~15,000人という説もある。
嘉麻川橋梁が建設された地点は、大友氏vs島津・秋月連合軍による合戦の中心地であり、約1,000名の首と遺体がさらされたと言い伝えられている。
<まとめ>
◎遠賀川沿いの古戦場跡地では、霊の目撃情報が相次いでいる。
◎嘉麻川橋梁近くで約1,000名の兵士が首を切り取られ、さらされた。
基本情報 | |
心霊スポット | 嘉麻川橋梁 (かまがわきょうりょう) |
所在地 | 〒820-1102 福岡県鞍手郡小竹町大字赤地 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間5分 【高速】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間15分 【高速】博多駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 小竹町 公式ホームページ |
古月横穴
鞍手郡鞍手町(くらてまち)の北、住宅街の外れに位置する雑木林の中に『古月(ふるつき)横穴』という古墳がある。
これは古墳時代後期に築造されたものと考えられており、約100年ほど前に地権者が雑木林の伐採を行っていた際、偶然発見したものだという。
同横穴(古墳)周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊は、「横穴から血だらけの男が這い出てきた」「悲鳴が聞こえた」など。
同地で生まれ育ち、貴重な伝承資料を受け継ぐH氏曰わく、「古月横穴の東側を流れる一級河川”西川”の河川敷きには、筑前国を代表する拷問処刑場があった。当時、処刑は領民の貴重なエンターテイメントであり、”西川処刑場”のそれは特に凄まじかったと言い伝えられている」とのこと。
戦国時代、筑前国の大部分を支配していた大友氏は、南九州の島津家や肥前国(佐賀県)の龍造寺氏と激しい領土争いを繰り広げていた。
北九州地方の覇権争いは混迷を極め、キリシタン大名として九州中にその名を知られた「大友宗麟(そうりん)」もいよいよ危ない、という噂が流れた。
領民を不安がらせる悪い噂は大友氏の耳にも届き、宗麟は焦った。他国との領土争いは確かに厳しかったが、滅亡など考えたこともなかったのである。
大友氏は龍造寺氏と島津家との合戦で連敗を喫し、苦しい状況にあることは間違いなかった。しかし、相手も甚大な被害を受けており、戦死者および捕虜の数では、大友氏が圧倒的に良い戦績を残していた。
宗麟は九州一帯に恐怖を拡散させるべく、敵国の捕虜たちに過酷な拷問処刑を科すと決めた。
一級河川”西川”沿いに整備された「西川拷問処刑場」では、世にも恐ろしい拷問処刑が執行された。
戦争(合戦)捕虜たちは、全裸状態で固縛され、全身の皮膚を削ぎ取られた。「皮剥ぎの刑」は至ってシンプルな処刑法だが、短刀などの刃物を使わず人力で剥ぎ取った藩は少なかったという。理由は手間がかかるからだ。
大友氏は「皮剥ぎ専用の治具」を開発した。これにより、皮膚だけを軽々と剥ぎ取ることができるようになったのである。
一般的な皮剥ぎの刑は、短刀やナタで対象者の皮膚を削ぎ落としていた。しかし、血管に傷をつけてしまうことが多く、受刑者の9割以上が失血死したと言われている。
これに対し、大友氏が開発した治具を使うと、皮膚だけを軽々と削ぎ取ることができるため、受刑者が失血死することはほとんどなかった。
皮膚だけを剥ぎ取られた捕虜は、全身に塩を塗りたくられた。H氏の資料によると、この痛みに耐えた者はひとりもおらず、屈強な男でも糞尿をまき散らしたという。
その後、捕虜たちはその状態で放置され、見物客たちの嘲笑を浴び、地獄の苦痛に数日さらされた後、憤死した。
大友氏は、皮剥ぎの刑に処した捕虜の遺体を西川拷問処刑場の西、雑木林近くで解体し、野生動物のエサもしくは漁業の撒き餌に使ったと言い伝えられている。
全身の皮を削ぎ取られ、地獄の苦痛の末に憤死した捕虜たちは怨霊化し、西川や雑木林の中にあった古月横穴周辺を彷徨っているのかもしれない。
<まとめ>
◎古月横穴の東に位置する”西川”の河川敷には、「西川拷問処刑場」があった。
◎地獄の苦痛の末に憤死した捕虜たちは怨霊化し、同地周辺を彷徨っているのかもしれない。
基本情報 | |
心霊スポット | 古月横穴 (ふるつきよこあな) |
所在地 | 〒807-1306 福岡県鞍手郡鞍手町大字古門 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】福岡空港から約1時間5分 【高速】福岡空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】博多駅から約1時間15分 【高速】博多駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 福岡県観光連盟 公式ホームページ |
まとめ
今回は田川郡他、3市3郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
冒頭に記載した通り、心霊スポットを探索する際は周辺住人に迷惑をかけないようにしてほしい。奇声を上げたり、キャーキャー騒いではいけない、と肝に銘じておこう。最後までお読みいただきありがとうございました。