昨年、大分県内の心霊スポットを調査している途中、猛烈な倦怠感と40度近い高熱に襲われ、生きた心地がしなかったことを覚えている。
結局、高熱の原因は分からずじまい。同県内の病院に入院し熱は下がったものの、倦怠感はとれなかった。
鹿児島県に戻り友人のシャーマンに相談、面談すると、「全身から人間の四肢(霊)が生えている。大丈夫か?」と指摘されたため、即除霊をお願いした。
今回は豊後高田市他3市2郡の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.豊後高田市
・光の水滴
・鍋山磨崖仏
2.中津市
・キリズシ隧道
・奈女子滝
3.速見郡
・経塚山
・赤松橋
4.東国東郡
・灯台公園
・大海溜池
5.国東市
・岐部城
・行入ダム
6.杵築市
・財前家宝塔
・御塔山古墳
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光の水滴
戦国時代、敬虔なキリスト教信者だった「大友宗麟(そうりん)」は豊後国(大分県)の大半を治め、キリシタン大名として同地にキリストの教義を広めた。
キリスト教に希望を見出した一部の住人たちは、神父や宣教師たちの言葉に耳を傾けた。その後、豊後国内のキリシタンは増加し続け、江戸時代初めには数万人規模にまで膨れ上がったという。
ここで紹介する『光の水滴』は、豊後高田市内を流れる二級河川「都甲川(とごうがわ)」中流の「並石(なめし)ダム」近くに造られたオブジェである。
同地周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「道端に生首が転がっていた」「ダム湖から女性が這い出てきた」など。
豊後高田市とキリシタンに関連する伝承を受け継いできたT氏にお会いすることができた。T氏曰わく、「400年ほど前、現在のダム池のできた地点には小さな集落があった。集落の住人たちは敬虔な仏教徒ととして知られ、キリスト教を邪教と決めつけていた。1613年、幕府が禁教令を発出、彼らは近くに住むキリシタンたちに攻撃を仕掛けた」という。
仏教徒で構成された「作田集落」は、隣接するキリシタンのコミュニティに憎悪を燃やしていた。彼らは30年程前に同地の一部エリアを占領、見る見るうちにキリスト教信者たちが集結し、200名以上の大集団に成長したのである。
作田集落の住人たちは、高田藩にキリシタンが潜伏していることを密告していた。しかし、他のエリアでもキリシタン狩りが一斉に始まっていた結果、役所は人手不足に陥り、取り締まり開始まで数カ月待ちの状態だったという。
住人たちは、一刻も早くキリシタンおよびコミュニティを排除したいと考え、血気盛んな浪人や百姓などを金で雇った。そして、自らも武器を手に取り、夜討を仕掛けたのである。
数に勝るキリシタンたちは必死に抵抗した。しかし、女子供、赤子などを人質にとった作田集落の住人たちは、何とか勝利を収めた。
その後、血に飢えた浪人は、神に慈悲を請う男たちをひとり残らず斬首。コミュニティの半数近くが死に、辺りは血の海になった。
その後、浪人たちは若い女を酷く辱め、「改宗を誓うのであれば、下女として生かす」とチャンスを与えた。しかし、彼女たちは誰一人その提案を受け入れなかった。
若い女、子供、赤子は、身体に重りをくくりつけられ、都甲川中流の池に沈められた。
浪人たちはコミュニティに火を放ち、全てを跡形もなく消し去った。その後、斬首された男たちの遺体も、女性たちと同じ地点に沈められたという。
以来、同地周辺では信教の自由を奪われ憤死したキリシタンたちの怨霊が出没する、と噂になった。さらに、都甲川では水の事故が相次ぎ、「キリシタンの霊に引きずり込まれたら最後、二度と浮上できない」と恐れられるようになった。
<まとめ>
◎光の水滴および並石ダム周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。
◎信教の自由を奪われ憤死したキリシタンたちは、怨みつらみに支配され、怨霊化した。
基本情報 | |
心霊スポット | 光の水滴 (ひかりのすいてき) |
所在地 | 〒879-0722 大分県豊後高田市一畑1587 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間20分 【高速】大分駅から約1時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 豊後高田市観光協会 公式ホームページ |
鍋山磨崖仏
豊後高田市の南部、田染荘(たしぶのしょう)と呼ばれる地域の山中に『鍋山磨崖仏(なべやままがいぶつ)』という貴重な宗教遺跡(国の史跡に指定)が残されている。
摩崖仏とは壁や岩山などに彫り込まれた仏像などを指し、九州各地に仏教、真言宗、浄土真宗信者などの造ったものが残されている。
私は大分県出身の某大学教授K氏に連れられ、田染荘で生まれ育ったU氏のご自宅を訪ねた。U氏は豊後国一帯で繰り広げられた宗教弾圧に関連する貴重な伝承資料を保管しており、その中に鍋山摩崖仏で発生した悲劇が記されていた。
「1836年、薩摩地方から豊後国に広まった宗教弾圧は、浄土真宗(一向宗)信者を叩き伏せた。彼らは妻を持ち、動物の肉を好んで食べていたことなどから嫌悪の対象となり、信者を集める一方、多くの敵も作っていたのである。薩摩の島津家が浄土真宗に対する厳しい弾圧を開始、豊後国の大名たちもその流れに乗った」U氏は述べた。
浄土真宗の信者たちは暴力的ではなかったものの、連帯感が強く、藩主たちは戦国時代以降途絶えていた「一向一揆」復活を秘かに恐れていた。
高田藩藩主、高田氏は浄土真宗への取り締まりを開始。信者たちの集まり施設を急襲し、施設、仏像、仏具などを全て焼き払い、信者たちに改宗を命じた。
取り締まりを行った兵士たちは、「改宗を受け入れた者は生かし、それ以外は全て死ぬ。また、改宗したフリと分かった者は、家族、親族、知人、友人、全てを失う」と強烈な圧力をかけた。
高田氏の放った部隊には様々な情報が集まった。そして取り締まり開始から数か月後、百数十名の浄土真宗信者が鍋山摩崖仏に潜伏、念仏を唱えていることが判明したのである。
部隊は摩崖仏およびその近くの集落を包囲。浄土真宗信者でないことを証明できた者は開放し、その他はひとり残らず捕縛した。
信者への拷問は公開で執り行われた。まず、女たちが「石抱き(石打ち)」に処された。これは、正座させた者の足の上に重さ数十キロの石板を乗せるというシンプルな拷問刑である。石板の枚数が増えると、当然苦痛は増す。なお、当初、改宗を成約した者は生かす予定だった。
しかし、高田藩は見せしめとして女たちをひとり残らず殺した。鍋山摩崖仏周辺では、連日連夜女性の泣き叫ぶ声が響き渡ったという。
妻や家族の死に様を見届けた男たちは、圧力に屈し改宗を誓約した。が、見せしめの対象に選ばれたのは女だけではなかった。
男たちは生きたまま逆さまにつるし上げられ、股から脳天をノコギリで真っ二つに切り裂かれた。
「鋸(のこ)引き」の刑に処された50名超の遺体および周囲に散らばった臓物は、鍋山摩崖仏の壁や床などに叩きつけられ、供養もされぬまま腐り果てた。
その後も浄土真宗に対する厳しい弾圧は続けられた。なお、鍋山摩崖仏は最も凄惨な粛正が行われたひとつと恐れられ、数十年もの間、完全に封鎖されてしまったという。
同地で目撃される霊は、「女性の悲鳴が聞こえた」「遺体が山積みにされていた」など。
<まとめ>
◎浄土真宗(一向宗)への強烈な弾圧、通称「天保の大弾圧」で犠牲になった信者の数は分かっていない。
◎鍋山摩崖仏で拷問死した者たちは供養もされぬまま腐り果て、怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 鍋山磨崖仏 (なべやままがいぶつ) |
所在地 | 〒879-0844 大分県豊後高田市田染上野 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間5分 【高速】大分駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
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鍋山磨崖仏⛰️ pic.twitter.com/lU9MZHk5z8
— ポンとり天男 (@sh2010tw) April 5, 2020
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キリズシ隧道
『キリズシ隧道』は、中津市東部の県道664号線と並行して走る旧街道に設けられたトンネルである。現在、利用する者はほとんどおらず、内部の一部では崩落につながりそうな亀裂も見られるため、長時間滞在することはおすすめしない。
同隧道内および周辺では昼夜を問わず、霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「刀を持った男が襲いかかってきた」「隧道内から悲鳴が聞こえた」など。
私は同地で生まれ育ち、江戸時代から続く伝承を受け継いできたというY氏に情報提供いただき、ご自宅にお邪魔した。Y氏の伝承資料には、200年ほど前に同地で発生した興味深い事件が記されていた。
Y氏曰わく、「キリズシ隧道が開通する約50年ほど前。同地の山間部一帯はある賊集団の支配下にあった。彼らは大名家の家臣、家族や関係者ばかりを狙い、標的になった者は絶対に助からないと言われていた。これに対し中津藩藩主、奥平氏は賊集団の殲滅を目指し、攻撃を繰り返したものの、戦うたびに死傷者が増える有様だった」という。
1815年、現在の旧街道近くに賊集団のアジトがあることを突き止めた奥平氏は、火縄銃部隊200名を含む大隊を編制。苦汁を飲まされてきた賊たちに鉄槌を打ち込むべく、進軍を開始した。
一方の賊集団は、奥平氏の内部に送り込んだスパイたちからもたらされた情報をもとにトラップを準備。標高300m地点にアジトを設置したうえで、敵の到着を待った。
奥平氏の家臣で大隊を指揮する松倉氏は、兵士たちに一方向から攻めるよう指示した。以前、隊を分散、挟み撃ちする挟撃作戦で賊たちと一戦交えたものの、完膚なきまでに叩きのめされてしまったため、今回は正攻法、正面突破を選んだのである。
しかし、松倉氏は部隊内に賊集団のスパイがいるとは夢にも思わなかった。スパイたちは一斉に行動を開始、ひとりは頭領に情報を伝え、別の者は様々な方法を駆使し、大隊を最も危険な地点に誘導した。
賊たちは、大隊の列が長く伸びきった地点で急襲を仕掛けた。まず、進行方向と退路を落石で塞ぎ、辺り一面にばら撒いておいた落ち場、火薬、そして大量の油に着火。煙で視界が悪くなったところを矢で狙い撃ちした。
大隊は何とか反撃に転じるも、高台側(風上)を完全に支配され、勝機はゼロに等しかった。さらに、「家臣団の中に裏切り者がいる」と誰かが叫び、大隊は統制を失った
外と内から切り崩された松倉氏は、大隊に散開を指示。兵士たちはバラバラに散らばり、逃げた。
賊たちは松倉氏とその家臣、付き人たちに狙いを定めていた。一方、数百名の足軽たちは無事雑木林から逃げおおせた。
松倉氏、家臣、付き人たちは、内部に潜むスパイの言葉を信じ、別の場所に誘導されていた。
現在のキリズシ隧道近くに案内された松倉氏たちは、またしても待ち伏せ攻撃を受け、壊滅。総大将のみ捕縛され、その他の者たちは、ひとり残らず切り捨てられた。
中津藩を代表して戦場に乗り込んだ松倉氏は、生き延びたいがために、奥平氏のありとあらゆる情報を白状した。これを聞いた賊の長は、松倉氏に処刑を宣告。「主をあっさり裏切る邪な心の持ち主に完璧な死を与える」と述べ、全身の皮を剥いだうえで、釜茹の刑に処した。
キリズシ隧道周辺の戦いで死亡した者の数は少なくとも数百名。なお、またしても賊集団との闘いに敗れた奥平氏は、復讐の機会を伺ったというが、実現したか否かは不明である。
<まとめ>
◎キリズシ隧道近くの戦いで死亡した者たちは、霊になり今も同地周辺を彷徨っているのかもしれない。
◎キリズシ隧道では、1870年の開通直後から霊の目撃情報が相次いでいた。
基本情報 | |
心霊スポット | キリズシ隧道 (きりずしずいどう) |
所在地 | 〒879-0225 大分県中津市三光上深水3144 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約1時間20分 【高速】大分空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間30分 【高速】大分駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 中津市 公式ホームページ |
奈女子滝
中津市を代表する観光地のひとつ、「耶馬渓(やばけい)」エリアの東側に「奈女川(なめかわ)」と呼ばれる小さな川がある。
この川の中流域に『奈女子滝(なめこたき)』と呼ばれる高さ5mほどの滝があり、その周辺には、「子供を産めない」もしくは「容姿の良くない」女たちが身を寄せる集落があった、と言い伝えられている。
江戸時代の女性差別を象徴する集落の伝承は、同地のタブーとして扱われてきた。江戸時代の男尊女卑はそれほど酷く、そして惨いものだったのである。
私は九州の某大学で歴史学教授を務めるK氏と共に、耶馬渓町在住のM氏宅を訪ねた。M氏は、同地で言い伝えられてきた奈女子滝の伝承が忘れ去られることを恐れていたという。
「江戸時代中期、同地周辺の集落は、保守的な考えを持つ男たちが支配し、女性は男に付き従い、子供を産み育てるだけの存在と考えられていた。結果、子供を産めない女は不良品のレッテルを貼られ、特定のエリアで男に関わらず麦や草を食って生きろ、と指示された。一方、容姿の良い女は、遊郭に送り込まれ、金を稼ぐ道具として重宝された」とM氏は語った。
当時、女性は生活を守るために食べる量を控え、ほとんどの者が栄養不足気味だった。そのため、身体の弱い者は病気がちになり、妊娠できなくなったのである。
女性たちは夫の稼ぎが少ないからこそ、食べる量を控えた。しかし、外界とのつながりの少ない保守的な集落で育った男たちは、自分たちの実力不足を認めず、「欠陥だらけの女に子供は作れない」と考えた。
夫は妻に三下り半を突きつけ、離縁。集落の長は、奈女子滝近くの集落で欠陥品たちに仕事を与えた。
子供を産めない女たちは、麦や作物作りのために働き続けた。さらに、もの好きな男たちが夜な夜な集落を訪れ、女たちに夜の相手を強要したという。
一方、容姿の良い女たちも酷く苦労した。集落の長は町の遊郭に出向き、女を売却。男たちに身体を売らせ、利益は全て吸い上げてしまった。女たちは毎日不特定多数の男たちに辱められ、消耗した。
奈女子滝の集落で暮らす女たちは、長くそこにいるほどやせ細り、女性らしさは失われていった。M氏の伝承資料には、「5年生き延びることはまれ、ほとんどの女が精神を病み自殺するか、病で死んだ」と記されていた。
ある日、遊郭で働かされていた女が集落にやってきた。「タエ」は奴隷以下の扱いを受けていた知り合いたちの姿に怒り、「男たちをひとり残らず殺したい」と申し出た。
集落に送り込まれた女たちは、自分の将来を諦めていた。しかし、タエは「死なばもろとも」の勢いで男たちと刺し違えると宣言、他の女もこれに続いた。
女たちは竹やりを手作りし、短刀や包丁など、武器になるものは全て利用した。
決死戦当日、女たちは2班に分かれ行動を開始した。1班は集落の長を、別班は役人たちの襲撃に備え、暗闇の中で身を潜めていた。
タエたちは長の館に潜入、布団に包まる男たちの首をひとり残らず掻き切った。なお、妻や子供たちには一切手を出さず退散したという。
女たちは30名以上を殺害。その後、駆け付けた役人たちと乱戦になり、捕縛されそうになった者は迷うことなく自ら首を掻き切り、死んだ。そして、作戦を主導したタエは、刀と槍で全身をめった刺しにされ、壮絶な最期を遂げた。
この事件ののち、奈女子滝の集落は廃村。生き残った男たちは「女性を怒らしてはいけない」と考え、不当な差別や扱いを改めたという。
同地で目撃される霊は、「河原に女性の遺体が転がっていた」「短刀を持った女性に追いかけられた」など。
<まとめ>
◎奈女子滝の集落に送り込まれた女性たちは、不当な差別を受け続け、怨みつらみを募らせていた。
◎決死戦に挑んだ女性たちは丁重に供養された。なお、彼女たちの墓所が滝周辺にも残されている。
基本情報 | |
心霊スポット | 奈女子滝 (なめこたき) |
所在地 | 〒871-0422 大分県中津市耶馬溪町大字深耶馬 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約1時間25分 【高速】大分空港から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間30分 【高速】大分駅から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 中津耶馬渓観光協会 公式ホームページ |
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経塚山
『経塚山(きょうづかやま)』は、ミヤマキリシマの群生地としてハイカーなどから人気を集める登山スポットである。
ミヤマキリシマはツツジの一種、九州の高地に自生し、5月~6月中頃に見頃を迎える。なお、高地であっても木々の生い茂る森林では育たず、日当たりのよい山肌むき出しのエリアを好む。
経塚山には、経典を埋葬した「経塚」があったことから、その名がつけられたそうだ。なお、経塚本体は現存しておらず、本当にあったか否かは不明である。
同地の周辺一帯では霊の目撃情報が相次いでおり、中高生の肝試しスポットとして人気を集めたこともあったという。なお、これまでに目撃された霊は、「槍を持った鎧武者が襲いかかってきた」「登山道に生首が転がっていた」など。
速見郡日出町(ひじまち)で生まれ育ち、経塚山の清掃活動に携わってきたK氏曰わく、「戦国時代、経塚山の山頂付近にはある豪族の隠れ砦があり、豊後国の大半を支配した大友氏と激しい戦を何度も繰り広げたと言い伝えられている。しかし、最終的には大友氏の攻撃に屈し、豪族は滅亡した」とのこと。
1577年、同地の一部を治めていた水野氏は、豊後国で最大の勢力を誇った大友氏と敵対。圧倒的な兵力差をものともせず戦い続けていた。
水野氏は領民を大切に扱う「名君主」と呼ばれる一方、近隣他国からは僅か二千名ほどの戦力で数万の大友軍に立ち向かう「愚か者」と嘲笑されていた。
経塚山の隠し砦に陣取った藩主、家臣一団および兵士たちは、15,000の大友軍に包囲されていた。これにはさすがの領民も、「水野氏は終わり」「大友氏の時代が来た」と考え、山の麓から戦いの様子をジッと伺っていた。
大友氏は周辺集落の住人に対し、「抵抗しなければ一切手は出さない。同地は間もなく大友のものになる」と宣言。進軍を開始した。
領民たちは大友軍の完勝を予想。しかし、経塚山の隠し砦は、崖と防御柵で固められた難攻不落の城と呼ばれ、水野軍はその名に恥じぬ圧倒的な戦いっぷりを見せた。
大友軍は圧倒的な兵力差を活かせば簡単に正面突破できる、と確信していた。しかし、水野軍は投石、トラップ、弓などによる遠距離攻撃でこれを難なく撃退。防御力の高さと地の利を生かした戦いは圧巻だった。
大友軍は数週間休みなく攻撃を仕掛けたものの、結果はいずれも大惨敗。都度、数十名の兵を失い、隠し砦の正門にたどり着くことすらできなかった。
水野軍圧勝の噂は周辺集落の住人たちに希望を与えた。皆で「名君主は死なず」と叫び、「大友軍など敵ではない」とバカ騒ぎする者まで現れたという。
1か月後、水野氏は隠し砦から麓の周辺集落を眺め、愕然とした。大友軍は住居に火を放ち、あちこちから煙が上がっていたのである。
間もなく、大友軍の使者が隠し砦に姿を現し、「降伏すれば領民の命だけは助ける」と開場を命じた。
水野氏は家族、家臣団、兵士および領民の命を助けてくれるのであれば、自分の首を差し出すと返答。隠し砦は開城した。
その後、大友氏は約束を破り、家族および家臣団も合わせて処刑すると宣告。水野氏は自分の甘さを呪い、血の涙を流したという。
大友氏は藩主、家族、家臣団を皮剥ぎの刑に処し、領民の前にさらした。以来、取り壊された隠し砦周辺で霊を見たという目撃情報が相次ぐようになり、現在に至る。
<まとめ>
◎経塚山の隠し砦周辺で繰り広げられた合戦の影響で、同地は霊の住み着くエリアになった。
◎水野氏は全身の皮を切り取られ、串刺し状態で数日間放置。血の涙を流しながら憤死したという。
基本情報 | |
心霊スポット | 経塚山 (きょうづかやま) |
所在地 | 〒879-1507 大分県速見郡日出町大字豊岡 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約50分 【高速】大分空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約50分 【高速】大分駅から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | ひじ町ツーリズム協会 公式ホームページ |
日出町経塚山(標高610m)
— CELICA (@apricotke) May 12, 2018
ミヤマキリシマの見頃は
過ぎてるけれど所々綺麗📸#日出 #経塚山 #ミヤマキリシマ#宙玉 #空撮 pic.twitter.com/GKzqLloGUJ
赤松橋
速見郡の北部、二級河川「八坂川(やさかがわ)」に架橋された『赤松橋』は、日出(ひじ)町を代表する歴史遺産のひとつである。
1897年架橋、以来、周辺住人の生活を支えてきた。また、春になると河原に桜と菜の花が咲き乱れ、「日出町一の花見スポット」と呼ばれるようになったという。
赤松橋および八坂川の河原周辺では霊の目撃情報が相次いでいた。目撃された霊は、「川から女性が這い出てきた」「橋の上に赤子を抱いた女性が立っていた」など。
昨年、友人のシャーマンが同地で除霊を行うことになり、同行させてもらった。現場は赤松橋から300m程離れた住宅。3カ月前に転居してきたE氏曰わく「住み始めた頃から肩こりが酷くなり、覚えのない女性の夢を見るようになった。ある日の晩、3歳の娘に”お父さんの後ろにいるお姉ちゃんは誰?”と聞かれ、危うく失禁しかけた」という。
私はシャーマンの除霊作業を放置、自治会関係者にご協力いただき、T氏ご夫妻を訪ねた。T氏曰わく、「江戸時代、八坂川の河原には”藤原処刑場”という日出藩の拷問兼処刑場があったと言い伝えられている。これは、鎌倉時代頃から600年以上利用されてきた歴史のある施設で、周辺住人たちはこぞって処刑を見学した」とのこと。
河原と処刑場は切っても切れない関係にある。理由は、処刑した者の血や臓物を簡単に処理することができるためだ。また、串刺しや斬首した遺体をその場にさらすことで、領民や他国の豪族たちに「舐めた真似をすればタダでは済まない」というプレッシャーをかけることも兼ねていたのだろう。
処刑場があった地点とその周辺は、霊の住処になっていると考えてまず間違いない。なお、藤原処刑場の正確は整備年は不明。江戸時代から明治時代の初め頃まで存在したことは確かであり、少なくとも250年以上は処刑場として利用されてきたようだ。
1814年、中武氏という武士に嫁いだ17歳の「フキ」は、町一番の容姿と噂されていた。
フキは幼い頃から中武氏の長男と相思相愛だった。残念なことに、中武氏は下級武士の家柄だったが、彼女は一切気にする素振りを見せず、愛する男のもとに嫁いだのである。
1815年、同地で商家を営む船井氏は、人々に金を貸し付け、高額な利息を巻き上げていた。中武氏もこの男に金を借りており、利息の支払いに苦労していたという。
フキは夫が金の工面に苦労していることを知り、嫁入り道具として持ち込んだ大切な家財を全て売却した。しかし、借金の返済には至らず、生活は日を追うごとに苦しくなった。
ある日、船井氏はフキの美しい容姿に注目し、「夫と離縁し、我が家の下女になれば借金は帳消しにする」と提案。夫はこの要求を受け入れてしまった。
フキは長男と別れ、船井氏の下女として働くことになった。船井氏は若く活きのいい18歳の身体を連日連夜弄び、女中の見ている前で辱めることもあった。
数か月後、フキは船井邸から逃亡。中武氏の自宅に逃げ込み長男を強奪した。しかし、追っ手に捕まり、捕縛された。
フキは主殺しおよび誘拐の罪で有罪判決を受け、藤原処刑場で火刑に処された。その後、黒焦げになった遺体は三日三晩河原にさらされたという。
<まとめ>
◎シャーマンの除霊は無事成功。女性と思われる霊は無事成仏した、らしい。
◎長男と別れさせられ、さらに酷い辱めを受けたフキは、主を殺し火刑に処された。
基本情報 | |
心霊スポット | 赤松橋 (あかまつばし) |
所在地 | 〒879-1502 大分県速見郡日出町大字藤原7540 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約35分 【高速】大分空港から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | ツーリズムおおいた 公式ホームページ |
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灯台公園
現在の日本に保守的(排外主義)な地域、町、村はほとんど存在しない。理由は、廃藩置県による藩境(関所)の撤廃、車の普及、高度経済成長を経て、日本が世界トップクラスの経済大国になったためである。
つまり、明治時代以前の日本は超保守的な国だったのである。藩の境には関所があり、行き来するだけで手間がかかる。当然、現代のように町と町でイベントや交流を図る機会もなかった。
ここで紹介する『灯台公園』は、大分県の最北部、「姫島」の東端に位置する公共施設である。同地周辺では霊の目撃情報が相次いでおり、「女性の悲鳴が聞こえた」「血だらけの男に追いかけられた」という何とも恐ろしい噂が広まっている。
姫島の伝承に詳しい某大学教授のK氏曰わく、「江戸時代、姫島の住人たちは、他のエリアからの立ち入りを一切拒む超排外主義者たちで構成されていた。理由は、島外から入ってくる者がもともと少なく、知人や友人以外信用できないという思想が染みついていたため、と思われる。なお、豊後国の領内ではあったが、監視の目は行き届いておらず、ほぼ無法地帯だった」という。
現在の姫島は、ひとりでも多くの観光客を受け入れるべく、島ぐるみで町の魅力を日本中にアピールしている。しかし、200年ほど前までは島外からの受け入れを拒否し、独立国家のような体制になっていたようだ。
島内の治安維持活動は島民の協力で成り立っていた。つまり、藩の権限も結局は形だけであり、犯罪者の捕縛や刑の執行も内々で行われていたという。
超排外主義的な考えに支配された島民の一部は、島外から訪れる商人、転入を希望する人々に狙いを定め、治安維持活動という名目で攻撃や嫌がらせを繰り返し、島から排除していた。
1834年、九州全土に広まった飢饉は豊後国でも深刻な被害をもたらした。稲は8割以上が枯れ、その他の作物、野菜も壊滅的な被害を受けた。
人々が飢え、次々と死んでいく中、姫島の漁は最盛期を迎えていた。さらに、降雨量は平年並み、雨季が終わると気持ちの良い快晴が続き、サツマイモなどの作物も例年以上のできだったという。
姫島を治めていた杵築(きつき)藩は、本土の治安維持や復興活動に忙殺され、人口の少ない姫島にかまっている余裕はなかった。
島民たちは本土および九州一帯で発生した大飢饉のことを知っていたものの、手助けできることはないと決めつけ、いつもと変わらぬ平和な生活を送っていた。
ある日、姫島に2隻の小船が上陸し、やせ細った男女十数名が島民に食料を分けて欲しいと訴えた。これを受け、島を事実上治めていた庄屋は、許可なく小舟で乗り入れた不審者たちの捕縛を指示した。
不審者たちを問いただすと、本土の住人たちの間で「姫島に行けば助かる」という噂が広まっている、と白状した。
庄屋とその他の島民たちは、やせ細った男女十数名を島の東端に移送したのち、ひとり残らず切り殺した。
後日、庄屋は皮と骨になった男女の遺体は本土に運び、「姫島でも餓死者が出ている。食料に余裕があれば、島に持ち帰りたい」と役人に報告した。
庄屋の申し出は受理され、杵築藩からサツマイモや麦などが与えられた。
命がけで姫島に渡った男女十数名のことを本土で知る者は、「どこかで飢え死にした」と思い込み、探そうとすらしなかったという。
<まとめ>
◎灯台公園に出没する霊は、姫島に助けを求めて上陸した者たちかもしれない。
◎超排外主義は島民の間で古くから受け継がれ、島の者以外は信用できない、という思想を生み出した。
基本情報 | |
心霊スポット | 灯台公園 (とうだいこうえん) |
所在地 | 〒872-1501 大分県東国東郡姫島村稲積 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
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大海溜池
東国東郡(ひがしくにさきぐん)姫島の東部に位置する『大海溜池(おおみためいけ)』は、農業用水用の人造ため池である。なお、釣りは禁止。施設見学は自由だが、ため池以外何もないため、人の姿を見ることはほとんどない。
姫島が超保守的(排外主義)な地域だったことは、先述の「灯台公園」で既に述べた。
同溜池は知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集め、「池に死体が浮いていた」「水浴びしていた友人が消えた」「島の警察に連絡したが、無視された」という噂で話題になったことがある。なお、友人が消えた、警察に無視されたという噂はデマだと思う。
姫島の伝承に詳しい某大学教授のK氏に再度お話を伺った。「江戸時代、姫島にはキリスト教の里があり、敬虔なキリシタンたちの隠れ家になっている、と豊後国中で噂になった。しかし、これは真っ赤なウソであり、島民間の権力争いに伴うデタラメだった、と考えられている」とK氏は述べた。
姫島は、杵築(きつき)藩と深い関りを持つ庄屋によって治められていた。しかし、庄屋を含む一部の有力者と仲間だけが権力と利益を独占していたことに不満を持っていた者も多く、あちこちで小競り合いが発生していた。
1645年、庄屋の独裁体制に反旗を翻した松本氏とその仲間たちは、腕利きの浪人数名と共に屋敷を襲撃。庄屋の金、米、作物を強奪した。
さらに松本氏は、島の権限の移行を庄屋に求め、「拒否すれば殺す」と脅した。これに対し庄屋は、「杵築藩に権限の移行を認めてもらうためには、本人がその旨を藩主もしくは家老に説明しなければならない」と言いくるめ、本土の杵築城に向かった。
数週間後、姫島に戻った庄屋は、権限移行を認める藩主の文を松本氏に手渡した。これを見た松本氏は、庄屋を小さな住居に押しやり、島のすべてを手中に収めたと喜んだ。
1か月後、杵築藩の大隊200名が姫島に上陸し、村は大騒ぎになった。松本氏は慌てふためき、軟禁していた庄屋に助けを求めた。
庄屋は、「島の東側に隠れキリシタンが潜伏していると噂になっていた」と説明。さらに、杵築藩は姫島の地理に疏いため、皆で道案内すれば感謝されるだろう、と助言した。
一方、杵築藩の大隊は、「姫島の権限を不当に奪った松本氏他その仲間数十名は隠れキリシタンである」という庄屋の主張を信じ切っていた。
何も知らない松本氏は、仲間たちと一緒に大隊200名の先を歩いた。そして、庄屋に言われた通り島東部の雑木林へ大隊を導いた。
雑木林の奥に潜んでいた庄屋の仲間数名は、勢いよく弓を引き、大隊めがけて矢を放った。
5本の矢が先頭を歩く足軽に直撃した瞬間、雑木林の奥に潜んでいた男たちは、「キリストの教義を守れ!」と腹の底から声を出し、その場から逃亡した。
大隊の長は、先を行く松本氏たちが攻撃をしかけてきたと確信し、ひとり残らず捕縛せよと指示を出した。
捕縛された松本氏たちは、キリスト教との関りを全否定した。しかし、関係者の屋敷を捜索すると、名前入りのロザリオや聖書の写しと思われる資料などが発見され、退路は断たれた。
庄屋は大隊に礼を述べ、松本氏他隠れキリシタンの処罰は杵築藩に任せると申し出た。
後日、松本氏たちは大海溜池の近くでひとり残らず串刺し火刑に処され、遺体は数日間さらされたのち、海に遺棄された。
<まとめ>
◎大海溜池周辺で発生した隠れキリシタン関連の事件は、姫島のタブーと言われている。
◎庄屋は権力を独占していたが、利益は島民で分け合っており、松本氏よりもはるかに信頼されていた。
基本情報 | |
心霊スポット | 大海溜池 (おおみためいけ) |
所在地 | 〒872-1501 大分県東国東郡姫島村東大海 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
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岐部城
豊後国で生まれた「ペドロ・カスイ岐部」は、日本人として初めて聖地エルサレムにたどり着き、ローマで司祭に認められたキリスト教の伝道師である。
カスイ岐部は、大友水軍の将、岐部家で生を受けた。その後、江戸徳川幕府が発布した禁教令(1613年)に対し、キリストの教義と信仰の力で対抗したものの、火刑に処され壮絶な最期を遂げた。
ここで紹介する『岐部城』は、先に述べた大友水軍の将、岐部氏の居城。正確な築城年と破却年は分かっておらず、謎に包まれた城と呼ばれている。
国東(くにさき)市国見町で生まれ育ち、同地の伝承資料を受け継いだF氏にお話を伺うことができた。曰わく、「岐部氏は石垣原の戦い(1599年)で衰退したものの、徳川幕府によって大名としての地位を安堵され、杵築(きつき)藩の一家臣になった。それから13年後、岐部氏はキリスト教を信仰するキリシタン大名として最後の戦いに臨んだ」という。
石垣原の戦いは、徳川家康の首を狙う「黒田如水(官兵衛)」による九州統一戦のひとつである。岐部氏は大友氏に仕え、敗走した。
岐部氏は一国一城令に従い、岐部城を破却。杵築藩の家臣になった。この時、杵築藩藩主の松平氏は、「キリスト教への信仰を捨てれば、もっと出世できる」と伝えたものの、岐部氏はこの申し出を受けなかったという。
1613年、徳川幕府の発布した禁教令により、豊後国内でもキリスト教への厳しい弾圧が始まった。松平氏はキリシタンへの特別な感情は持っていなかったが、幕府の指示とあれば従うほかない、と腹を決めていた。
松平氏は岐部氏他、キリスト教を信仰する家臣に対し、「表向きは仏教徒であることを装い、幕府の目を逃れよ。ただし、厳しく弾圧を行ったと偽装するために、一部のキリシタンの首を差し出せ」と命じた。
岐部氏を除く家臣は、一族の存続とキリスト教を守るために、キリシタン数十名の首を差し出した。しかし、岐部氏はこれに応じず、「杵築藩の力を集結して、キリシタンを匿うべき」と主張した。
松平氏と家臣団はこの意見に猛反発した。成功すればひとりの命も失わずに済むが、藩ぐるみで隠し立てしたことを幕府に知られれば、間違いなく切腹、最悪お家取り壊しもあり得る。
岐部氏は自分の意見を伝え、領地に戻った。そして、部下たちに合戦の準備および、領内のキリシタンたちに御触れを出せと指示した。
松平氏と家臣団は、岐部氏およびその領内に潜伏するキリシタンを捕縛もしくは殺害したうえで、豊後国内の弾圧は全て完了したと報告するつもりだった。
数日後、杵築藩の大軍勢、約5,000人が岐部氏の屋敷を包囲した。松平氏は文を書き、「今すぐ首を差し出せば、隠れキリシタンたちは見逃す」と提案した。
松平氏は提案を受け入れた岐部氏の屋敷を急襲し、家族、家臣をひとり残らず捕縛。さらに、逃亡した隠れキリシタンの追跡を指示した。
岐部氏、家族および家臣は、仏教への改宗を強要。しかし、誰一人受け入れず、厳しい拷問の末に全員処刑された。
岐部城跡周辺で目撃される霊は、「生首が転がっていた」「女性の泣き叫ぶ声が聞こえた」など。なお、岐部氏の屋敷があったと言い伝えられている地点には、ペドロ・カスイ岐部の関連遺構が建設されている。
<まとめ>
◎岐部城は、キリシタン大名として最期まで信仰を貫き通した岐部氏の居城。
◎岐部氏の領内から脱出した隠れキリシタンたちは、島原地方に逃亡したと言い伝えられている。
基本情報 | |
心霊スポット | 岐部城 (きべじょう) |
所在地 | 〒872-1614 大分県国東市国見町岐部 |
種別 | 戦争 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
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行入ダム
国東市中部、両子山(ふたごさん)の麓に位置する『行入(ぎょうにゅう)ダム』は、二級河川「横手川」の中流域に建設された治水ダムである。
同ダムおよび周辺に整備された公園では、霊の目撃情報が相次いで寄せられている。目撃された霊は、「道端に人骨が転がっていた」「血だらけの男に追いかけられた」など。
私は大分県出身、某大学教授のK氏と共に、同地の伝承に詳しい老夫婦のご自宅を訪ねた。T氏曰わく、「江戸時代末期、横手川の中流域で発生した二つの集落の争いは、同地のタブーと呼ばれ、後世に伝える者は少なくなった。そして、集落跡地に行入ダムが完成、伝承はほぼ途絶えてしまったが、私は後世に語り継ぐべきだと考えている」と述べた。
1835年、豊後国に甚大な被害をもたらした大飢饉により、国東郡の総人口の3割ほどが餓死した。横手川流域の集落も甚大な被害を受け、道端には遺体が山積みにされ、人肉を口にする者も珍しくなかったという。
横手川の中流域に位置する松山集落は、村民の3分の1が飢えもしくは疫病で死に、酷く荒廃していた。一方、同集落から1kmほど離れたところにある梅野集落では、横手川の水を上手く活用し、サツマイモの栽培に成功。米はなかったものの、餓死者が出ることはなかった。
松山集落の長は、梅野集落に助けを求め、乾燥させたサツマイモ(干し芋)を分けてもらった。飢餓状態にあった村民たちは何とか飢えをしのぐことができたものの、腹が完璧に満たされることはなかった。
数日後、松山集落の男たちは、梅野集落の連中がサツマイモを大量に隠し持っていると考え、急襲計画を立案。いずれ飢え死にすると分かっていたため、無茶をためらう者はひとりもいなかった。
夜、男たちはクワ、ナタ、ノコギリで武装し、梅野集落を急襲。村長とその家族、倉庫と思われる施設の管理者をひとり残らず捕縛した。
関係者を全員捕縛し終えると、男たちは倉庫に保管されていた干し芋を貪るように食い、満足した。陽が昇ると、梅野集落の村民たちが異変に気付き集まってきた。
男たちは武器を掲げ、「抵抗すれば村長と家族を殺す」と脅した。しかし、梅野集落の村民たちは脅しにひるまず襲撃者たちをあっさり撃退、軽々と捕縛した。
サツマイモを奪われた梅野集落の村民たちは露ほども焦らず、笑っていた。捕縛された男たちは命乞いをしたが、その場で脳天をたたき割られ、死んだ。
梅野集落の村民たちは、殺した男たちをバラバラに解体し、骨を除くすべてのパーツを調理、喰い尽くした。そして腹が満たされると、松山集落に向かった。
松山集落は飢えに苦しめられており、まともに動ける男女はほとんどおらず、梅野集落の村民たちは、軽々と制圧した。そして、村民をひとり残らず捕縛したうえで、「役立たずを送り込んできたのはお前らか」と指摘、解体作業を始めた。
その日を以て松山集落は消滅。解体された男女数十名は、跡形もなく喰い尽くされた。
大飢饉が収束すると、梅野集落は横手川下流域に移転。そこにもともとあった集落の住人たちはひとり残らず餓死したと噂され、廃村寸前の状態だった。
T氏の伝承資料によると、梅野集落は杵築(きつき)藩の取り調べを受け、殺人および人喰いを自供。ひとり残らず斬首され、遺体は川魚のエサにされたという。
<まとめ>
◎行入ダムおよびその周辺は霊のホットスポット。集落間の争いで解体された者たちが怨霊化したのかもしれない。
◎天保の大飢饉は、九州でも甚大な被害をもたらした。
基本情報 | |
心霊スポット | 行入ダム (ぎょうにゅうだむ) |
所在地 | 〒873-0524 大分県国東市国東町横手 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
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関連サイト | 大分県 公式ホームページ |
行入ダムの鯉のぼり🎏 pic.twitter.com/K8ebvnCivK
— Maki (@dkm0321) April 30, 2017
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財前家宝塔
国東半島の中央部、杵築市の北端に『財前家宝塔(ほうとう)』と呼ばれる遺構がある。これは、鎌倉時代頃から同地で活躍した豪族「財前家」の墓所であり、歴史的価値の高さが認められ国の重要文化財兼史跡に登録されている。
同地およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。が、墓地である以上、霊の1体や2体出るのは当たり前(?)だと思う。私は、大分県出身の某大学教授、K氏に連れられ現場調査を実施。墓に関連する興味深い話を伺うべく、情報提供者のご自宅へ向かった。
U氏の伝承資料をチェックすると、杵築(きつき)市史には残されてない合戦の詳細が書かれていた。U氏曰わく、「1732年、日本を襲ったウンカ(イネの害虫)の大群による大飢饉は、杵築藩の領民の3割を殺し、藩の財政は圧迫された。翌年春、豪族財前家の土地の西側にある賊集団が住み着き、町を二分する合戦を引き起こした。なお、領民の半数は杵築藩ではなく、賊集団を支持した」という。
財前家の墓所の西、標高300mにも満たない山の一角に陣取った賊集団は、周辺集落の住人たちにサツマイモとその苗を配り回った。イモは数カ月かけても食べ尽くせないほどの量で、昨年の米不足から立ち直れない住人たちの命を救った。
賊たちは、乾燥サツマイモが保存食に適していることや作付け方法まで住人たちに伝授。結果、彼らは周辺集落の住人に信頼された。
1733年秋、杵築藩の家臣や関係者が何者かに襲撃され、数十名が切り殺された。犠牲者たちの額には、いずれも「卍(まんじ)」模様が刻み込まれており、四肢は1本残らず切り落とされていた。
杵築藩藩主、松平氏は容疑者を財前家の墓所西に陣取った賊集団と特定。一千名超の大隊を組織し、賊殲滅戦に打って出た。
賊集団からサツマイモを分けてもらった住人たちは、杵築藩に嫌悪感を示した。松平氏は、深刻な飢饉に陥った昨年も税の取り立てを止めず、結果、餓死者が増えたと指摘されていたのである。
周辺集落の住人の半数が賊集団に味方することを決心、藩の体制を変える覚悟で決死戦に臨んだ。
杵築藩の大隊は、山の麓に陣取る住人たちを発見。その数は百名にも満たず、武器は竹やりやクワだった。大隊は正面からこれを粉砕した。しかし、銃器と刀は一切使わず、素手で住人たちをねじ伏せ、命まではとらなかった。
大隊は整備された林道を進み、賊集団のアジトに急襲を仕掛けた。が、そこには誰もおらず、落ち葉や枯れ枝などが散在しているだけだった。
賊集団の本体は既に同地を離れ、後処理を5名の男女に任せていた。
5名は大隊が罠の中に飛び込んだところを見計らい、地面にまき散らしておいた落ち葉、枯れ枝、松の葉、火薬、そして油に火を放った。
5名は命が尽きるまで火矢を放ち続け、山は炎に包まれた。一千名超の大隊は統制を失い、一斉に山を駆け下りようとした。しかし、林道の幅は4mほどしかない。斜面で押し合いへし合いした結果、急峻な斜面でドミノ倒しが発生し、数百名が圧死。さらに、煙に撒かれた百数十名が焼死した。
財前家宝塔とその周辺で目撃される霊は、「刀を持った鎧武者に追いかけられた」「道端に遺体が転がっていた」など。
<まとめ>
◎財前家宝塔近くに現れた賊集団の正体は不明。
◎賊集団がその後どうなったは不明。なお、戦いの中で死亡したと言われる男女5名の遺体は発見されなかった。
基本情報 | |
心霊スポット | 財前家宝塔 (ざいぜんけほうとう) |
所在地 | 〒879-0904 大分県杵築市大田小野 |
種別 | 事故 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約30分 ※クリックでGoogle map起動 |
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御塔山古墳
『御塔山(おとうやま)古墳』は、国東半島の最南端に位置する円墳である。古墳時代に築造されたと考えられているものの詳細は謎に包まれており、歴史的価値の高さを認められ、国の史跡に登録された。
私は友人のシャーマンと同古墳を調査中に体調を崩した。酷い倦怠感、40度を超える高熱、食欲不振のおかげで2週間入院し、体重が10kgも落ちた。
さらに、熱は下がったものの倦怠感と食欲不振は改善せず、一度鹿児島に戻り除霊を受けることになった。シャーマンに原因を調べてもらった結果、「全身から人間の四肢(霊)が生えている」と指摘された。
私は日頃の行いを悔い改め、誰のかも分からない四肢を除去してもらった。その後、数週間で適正体重に戻ったため、御塔山古墳調査を再開した。
悪霊に憑りつかれる前、杵築市狩宿(かりしゅく)地区で生まれ育ったU氏から同地の伝承は既に伺っていた。U氏曰わく、「御塔山古墳近くの集落に逃げ込んだ隠れキリシタン数十名は、幕府軍の追っ手をかわすことに失敗し、捕縛。目を覆いたくなるような拷問刑に処され、遺体は別府湾に遺棄された」とのこと。
1638年、幕府連合軍は天草地方で勃発した「島原の乱」を制し、九州中に散らばった残党および、隠れキリシタン狩りを激化させていた。
幕府は豊後国にキリスト教が浸透していること、大名家にキリシタンがいることを理解していたため、強烈は圧力をかけた。「大名家は即改宗、これに従わねば藩主とその家族は斬首。お家取りつぶしとする」という御触れが届き、大名たちは幕府の命令に従い、隠れキリシタン狩りを行うと表明した。
しかし、幕府は豊後国に限り、幕府直轄軍で狩りを行うと告げた。これは恐らく、元キリシタン大名たちが形式的な狩りをする、と読んでいたためである。
幕府直轄軍と杵築藩連合軍は、国東半島南端にキリシタンたちが集まっているという情報を得た。
現地に到着した連合軍は、雑木林の奥から立ちのぼる煙を発見。周辺集落に聞き込みを行った結果、1カ月ほど前から男女の集団が円墳近くの林に出入りしていることを突き止めた。
連合軍は雑木林を囲い込むように陣を展開。逃げ場を失ったキリシタンたちは、抵抗することなく降伏、捕縛された。
杵築藩の家臣や武将たちは、捕縛したキリシタンに対し、「ロザリオを捨て、改宗すると嘘をつけば、生き延びることができる」とアドバイスした。
男女数十名は未来永劫キリスト教には関わらないと宣言し、連合軍の前でロザリオを叩き折った。しかし、幕府軍の参謀は、杵築藩の近くに忍びを配置し、キリシタンたちに対して行われたよからぬアドバイスを盗み聞きしていた。
幕府軍の参謀は杵築藩に対し、「目の前にいる男女をひとり残らず拷問処刑に処せば、よからぬアドバイスはなかったことにする」と告げた。
杵築藩の家臣と武将たちは、捕縛した男女を限界まで痛めつけた。その後、血の涙を流しながら皮剥ぎ火刑に処し、幕府軍の指示通り、遺体を切り刻んだのち、別府湾に遺棄した。
幕府軍の参謀は大変満足し、元キリシタン大名たちの過ちを水に流した。
以来、男女数十名の処刑地となった御塔山古墳周辺では霊が出没するようになり、私にも憑りついたのだと思われる。
<まとめ>
◎御塔山古墳は悪霊のホットスポット。立ち入る際は除霊グッズを準備した方がよい。
◎同地で拷問死したキリシタン数十名は、怨みつらみを募らせ怨霊化した。
基本情報 | |
心霊スポット | 御塔山古墳 (おとうやまこふん) |
所在地 | 〒873-0031 大分県杵築市大字狩宿1717 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】大分空港から約15分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】大分駅から約1時間10分 【高速】大分駅から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 杵築市 公式ホームページ |
【御塔山古墳】大分県杵築市狩宿
— じろんざ (@SarasvatiSayori) February 9, 2019
5世紀前半の円墳です。
墳丘は直径約80m、3段築成で南側に造出。
墳頂部に壊れた石塔。これが名前の由来かな。普通の五輪塔じゃないけど、国東塔にしては反花がない。
葺石も残っており,何となく段築や周溝がわかります。
囲形埴輪とか出たそうです。#古墳 pic.twitter.com/j1Ib5sCr1x
まとめ
今回は豊後高田市他3市2郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
心霊スポットを散策する際は、遺書、除霊グッズ、お花、線香などを忘れず携行し、万が一の時に備えてほしい。できる限りの対策をとり、悪霊から身を守ろう。最後までお読みいただきありがとうございました。