心霊スポットを探索する際、写真や映像はあまり残さない方がよい、と思う。私も数年前までは施設や遺構調査の都度、山ほど写真および映像記録を撮影、保存していた。しかし、記録を残すようになってから急に体調を崩し、聞いたこともない病気に感染。「完治→発症」を4度繰り返した。
その後、人生初の長期入院まで体験。退院した直後に心霊スポットの記録は全て廃棄、神社でお祓いをしてもらった。それらの処置は想像以上の効果を発揮し、不調が嘘のように消え去ったため、以降、現地での撮影は控え、メモをとるだけにしている。
今回は小林市他4市の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
目次
1.小林市
・野尻城井戸跡
・永久井野かくれ念仏洞
・ままこ橋
2.日南市
・山仮屋隧道
・猪八重渓谷
3.延岡市
・御手洗水神社
・巣ノ津屋洞窟遺跡
4.都城市
・祝吉御所跡
・六ヶ村城トンネル
5.宮崎市
・下原墓地
・景清廟
・津屋原沼
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野尻城井戸跡
『野尻城(のじりじょう)井戸跡』は、小林市野尻集落の外れに残る史跡である。伊東家が築城した野尻城の遺構として今も大切に保管されており、心霊が出没することで知られるようになった。
同井戸跡周辺で心霊が出没するようになった理由を知っている者は非常に少ない。江戸時代に発生した恐ろしい事件に関する伝承はタブー視され、集落住人の一部のみが後世に伝え続けているという。
戦国時代末期、野尻城は伊東家から島津家の手に渡り、江戸幕府の”一国一城”制導入後、破却された。しかし、本丸から離れていた井戸は、周辺住人の生活用水として利用を許可されることになった。
江戸時代中期、同井戸の水を利用した住人が原因不明の疫病に感染し、集落は大騒ぎになった。同地で生まれ育ち、500年以上前の貴重な資料を保管するA氏曰わく、「水に毒が含まれている、という証拠はなかった。しかし、大半の住人が井戸を疑い、閉鎖が決まった」という。
井戸水は貴重な生活用水であり、住人の生活に欠かせないものだった。そのため、閉鎖後もコッソリと水を汲みに来る者が後を絶たず、また、疫病の理由も分からずじまい。住人達は疑心暗鬼に陥り、「誰かが意図的に病を蔓延させている」と考える者が出てくるようになった。
井戸水の汲み出し現場を押さえるべく、住人達は自警団を結成、井戸の監視を強化した。ある日、女性と女児二人が汲み出し現場で捕縛された。三人は井戸水を生活用水に利用していたことを認めたものの、疫病には感染していなかった。
「住人たちは三人が疫病を意図的に拡散させている、と勝手に思い込み、百叩きの刑に処した。女児は1時間も経たぬうちに死亡、母親も厳しい拷問の末、血だるま状態で息絶えた。住人たちは三人の遺体を井戸に投げ込み、鉄格子と錠を取り付け、完全に封印した」とA氏は述べた。
数日後、感染状況は一段と悪化し、集落の半数が命を落とした。住人達は、井戸水を汲み上げる者がまだいる、と考え、監視を再開。案の定、鉄格子と錠が粉砕されていた。監視を再開した日の夜、住人たちは井戸の中から現れた女性に遭遇。女性は頬の肉が削げ落ち、眼球もなく、人間とは思えない姿だったという。
監視を行っていた住人15名のうち14名が行方不明となり、1名は井戸の近くで卒倒していたところを助けられた。運よく生き延びた1名は井戸から現れた女性の話を繰り返すも、友人や知人、役人たちは「夢でも見たのだろう」とまともに取り合わず、行方不明者も見つからずじまいだった。
井戸の鉄格子と錠には傷ひとつなかったが、生存者は真実を確かめるべく、それを開放、中をのぞきんだ。すると、底に水は一滴もなく、血みどろの女性が人間の腕を喰らっていたという。
野尻城井戸跡で目撃される霊は、「女性が井戸の隙間から這い出てきた」「女児が井戸をのぞきこんでいた」など。見学する際は、鉄格子の封に触らず、中から女性が這い出てきても対処できるように、距離をとった方が良い、と思う。
<まとめ>
◎野尻城井戸跡は疫病の感染源と疑われ、江戸時代中期に封印された。
◎疫病の原因は分からずじまい。しかし、井戸の封印後も疫病の感染は拡大する一方だった。
基本情報 | |
心霊スポット | 野尻城井戸跡 (のじりじょういどあと) |
所在地 | 〒886-0212 宮崎県小林市野尻町東麓 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約55分 【高速】宮崎空港から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 小林市 公式ホームページ |
野尻城井戸跡。野尻城は本城と新城の2城から成り立っており、井戸は新城第二郭のほぼ中央に位置する。 pic.twitter.com/Bsjf5shHvZ
— 鶴久丸 (@ryoma1115512) August 2, 2019
永久井野かくれ念仏洞
小林市の中央部、雑木林の奥に位置する『永久井野(ながくいの)かくれ念仏洞』は、浄土真宗信者が集まり教義を広めるべく日夜念仏を唱えた地と言われている。
戦国時代、南薩摩一帯を手中に収めた鬼島津こと「島津義弘」は、浄土真宗を禁教と定めた。浄土真宗は中国から日本各地に広まった儒教思想と同じく、「平等」を強く意識したものであり、豪族たちの封建主義とは相反する存在だったためである。
浄土真宗信者たちは厳しい弾圧を受けた。鬼島津は織田信長の”比叡山焼き討ち”に匹敵する勢いでこの宗派を排除、改宗せぬ者をことごとく処刑、さらし首にした。しかし、平等を重んじる信者たちは、厳しい弾圧を物ともせず、教義を広め続けた。
島津家の浄土真宗大弾圧を研究する某大学教授のY氏は、永久井野かくれ念仏洞および同地に伝わる伝承資料を関係者から入手したという。それによると、「江戸時代後期に行われた”天保の大弾圧”時、かくれ念仏洞は信者の潜伏場所となり、数百名が同地周辺で教義を広めようとした。しかし、薩摩藩の公式禁教令が堂々と破られたことに当時の家老集が激怒、殲滅戦に発展した」とのこと。
天保の大弾圧では、10万~20万人(諸説あり)の浄土真宗信者が弾圧されたと言われている。改宗に従わず、拷問の末に殺される者が後を絶たず、「島原の戦い」以来の宗教戦争が勃発する可能性もあった。しかし、薩摩藩の強烈な圧力に屈し、寺はことごとく破壊、勢力を削られた各宗派は敗北を認めざるを得なかった。
念仏洞周辺に潜伏した信者たちは、屈強な島津軍兵士に包囲されたのち捕縛、その後、拷問が始まった。百叩き、石打ちなどの刑によって信者の半数以上が息絶え、遺体は念仏堂内に捨て置かれた。改宗を誓った信者たちが死者の供養を申し出るも、兵士たちはこれを許さず、洞内は野生動物のエサ場になった。
永久井野かくれ念仏洞およびその周辺で目撃された霊は、「洞内から念仏を唱える声が聞こえてきた」「遺体が山積みにされていた」など。いずれも天保の大弾圧を連想させるものばかりである。信教の自由を奪われた信者たちが怨霊になって現世を彷徨っているのかもしれない。
薩摩地方では「孔子」の教えを説く論語が愛読され、「西郷隆盛」や「大久保利通」も儒教思想に染まり、平等を実現させるべく明治維新を断行した。憤死した信者の怨霊は、西郷や大久保たちを介して封建主義(幕府や藩主)に復讐を果たした、と私は信じている。
第二次世界大戦末期、同地周辺の若者たちも戦争に駆り出されていた。集落には老人や女子供しかおらず、これを好機と見た十数名の火事場泥棒集団が民家を次々に襲った。この時、ある一家が永久井野かくれ念仏洞に足を運び、連日連夜寝る間も惜しんで仏に祈った。
数日後、火事場泥棒集団はアメリカ軍の小規模空爆に巻き込まれ、死亡した。目撃者の話によると、1発の爆弾が集団の中央に落下、十数名は四肢を吹き飛ばされながらも生き延びたが、助かる見込みは到底なかったという。
<まとめ>
◎永久井野かくれ念仏洞は、浄土真宗信者が教義を広めるために利用した、と言い伝えられている。
◎信教の自由を奪われ、拷問の末に憤死した信者は、軒並み怨霊になったと思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 永久井野かくれ念仏洞 (ながくいのかくれねんぶつどう) |
所在地 | 〒886-0006 宮崎県小林市北西方5271 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約1時間20分 【高速】宮崎空港から約1時間 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約1時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 小林市観光協会 公式ホームページ |
ままこ滝
一級河川「本庄川」の上流に建設された「綾南(あやみなみ)ダム」は、小野集落および同地に伝わる恐怖の伝承をダム湖の底に沈めた、と言われている。なお、この伝承を知る者は少なくなり、同地は「すきむらんど」と呼ばれる観光スポットとして人気を集めるようになった。
ここで紹介する『ままこ滝』は、同ダムの水源「小野湖」の西岸に形成される高さ20mほどの滝である。なお、ダム完成以前は高さ40m超の雄大な滝だったが、小野湖の誕生に伴い一帯は20mほど水没、現在の規模になった。
ままこ滝には一家心中の悲しい言い伝えがある。しかし、この伝承は室町時代から戦国時代にかけて繰り広げられた悪夢の歴史を上書きすべく、”意図的に”広められた噂であり、事実ではない。そして、綾南ダム建設に伴い同地を去った元住人たちだけが、本当の伝承を後世に伝えている。
幼少期(1953年)に同地を離れた老婆曰わく、「ダム湖の底に沈んだ小野集落の外れに、豪族の処刑場と拷問場があった。また、河原近くに数千人を祀ったと言われる首塚も整備され、幽霊の出没地とよく噂になっていたが、水の底に沈んでしまった。しかし、綾波ダム完成後も霊の目撃情報が相次ぎ、私を含む元小野地区の住人は、処刑された死者が首塚を沈められたことに怒っている、と考えるようになった」という。
河原が処刑場に使われていた、という話は珍しくない。乱世の世にあっては、常識と言ってよいほど当たり前の話である。老婆が受け継いだ資料には、豪族たちは敵兵や罪人を同地の河原で拷問、処刑し、遺体は家畜や野犬のエサにしたと記載されている。また、供養は一切行わず、肉片や骨、処理しきれなかった臓物はままこ滝の滝つぼに遺棄したという。
当時、敵兵(敵国)は自国の領土を脅かす悪鬼であり、殺すのは当然。敵国の領土で生活する者は、犬や猫、家畜であろうと敵、と考えられていた。結果、戦国時代に入ると南薩摩のあちこちで虐殺が日常的に行われ、治安は崩壊したのである。
ままこ滝は高さ40m超の巨大な滝だった。岩場がむき出しになり、落ちた者はまず助からない。そこに目を付けた一部の過激な輩は、敵兵および罪人を全裸にし、滝頂部からダイブさせた、飛び降りた者は、死ぬ。岩場に身体を打ち付けつつ落ち、ひどい者は臓物や脳漿(のうしょう)をぶちまけた。派手な死に様をさらした者ほど喝さいを浴びたといい、ダイブは住人のエンターテイメントになった。
同地および滝周辺で目撃される霊は、「滝の頂部にたたずむ男」「小野湖から十数名の男女が這い出てきた」など。拷問の末処刑された者は、怨みつらみを現世に残す。また、首塚に葬られた者も、墓がダム湖に沈んだことを憤り、水の底から姿を現すようになったのかもしれない。
綾南ダムの麓に整備された「すきむらんど」の大つり橋(水面からの高さ30.5m)は、心霊が集まるホットスポットと噂されている。また、「飛び降りる人を見た」という目撃情報が相次ぎ、警察の大規模捜索に発展したケースもあるようだ。しかし、遺体は上がらず、それらしい痕跡も見つからなかった。
<まとめ>
◎ままこ滝は恐怖の心霊スポット。同地にあったとされる拷問場と処刑場はダム湖の底に沈んだ。
◎数千人が眠る首塚をダム湖の底に沈めたことで、墓の主たちは怒ったのかもしれない。
基本情報 | |
心霊スポット | ままこ滝 (ままこだき) |
所在地 | 〒886-0112 宮崎県小林市須木下田 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約1時間25分 【高速】宮崎空港から約1時間15分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約1時間20分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 小林市 公式ホームページ |
ままこ滝 pic.twitter.com/iP6cukoyyi
— 猫チャリ (@Roll498) August 9, 2018
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山仮屋隧道
『山仮屋隧道(やまかりやとうげ)』は、宮崎市と日南市を結ぶ県道27号線の東側に位置する「旧飫肥(おび)街道」改良工事に伴い建設されたアーチ型トンネルである。
終戦後、県道27号線等が整備されたことで旧飫肥街道は廃止となり、明治時代の貴重な建設遺産として県の有形文化財に登録、現在に至る。このトンネルは日南市を代表する心霊スポットのひとつ、おどろおどろしい伝説と犠牲になった者の怨霊が出現すると噂されている。
山仮屋隧道周辺に集落はない。が、江戸時代末期頃まで100人ほどの小さな”山科集落”が存在したという。同地の歴史に詳しい御仁曰わく、「1850年頃、山仮屋隧道が完成する以前の旧飫肥街道は”鬼の住処”と呼ばれていた。同地に現れた人斬りは、街道を通る老若男女、赤子や犬猫まで見境なく切り殺し、首だけを持ち帰った。飫肥藩による山狩りも行われたが、結局人斬りは捕まらなかった」という。
1851年、人斬りの犠牲者は100名を超え、さらに、飫肥藩の役人数名が四肢を切断、首を奪われる事件が発生した。怒り狂った飫肥藩主は、500名規模の隊を組み山狩りを慣行。森をことごとく焼き払った。しかし、人斬りおよびそれにつながる証拠はひとつも発見できず、1週間以上続いた山狩りは徒労に終わった。
数日後、ひとりの商人が旧飫肥街道を通らず山科集落にたどり着いた。彼は30軒ほどある民家を一軒ずつ訪問した。しかし、集落内には誰一人おらず、また争ったような形成も一切ない。料理の途中で姿を消したと思われる民家まであったという。
異様な光景に恐怖を覚えた商人は飫肥藩にこの事実を伝え、再び役人たちと山科集落へ向かった。住人たちは戻っていなかったが、商人は前回と違う点にすぐ気づいた。集落内に満ち満ちた腐臭は、鼻をねじ曲げるほど強烈だった。その後、腐臭をたどり旧飫肥街道へ向かった一行は、おびただしい数の遺体と、200以上のさらし首を発見する。
直ちに飫肥藩の大隊が編成され検分を開始。生首は人斬りに襲われ死亡した通行人などであることが分かった。しかし、山科集落の住人の遺体はひとつもなく、役人たちは首をひねった。
山狩りおよび周辺捜索は2週間以上に渡って続き、5,000人以上が動員された。しかし、事件の核心につながる情報や証拠は全く得られず、捜索および捜査は打ち切られた。
3年後、事件を目撃した商人は山科集落にお供え物をすべく足を運び、信じられない光景を目にする。30軒ほどある民家は3年前と全く変わらず、しかも住人が普通に生活していたのである。商人はある男性に話を聞き、3年前の出来事を知っているかと尋ねた。
男性はもちろん知っていると答え、商人を捕縛。住人の集まる広場に連行された。商人は巨大な包丁を持った屈強な男たちに解体され、住人の胃袋に収まったという。
この伝承は恐らく”まゆつば物”の噂であろう。しかし、真偽を確認する方法はない。また、人斬り伝説に関しては、御仁の保存する資料に明記されており、事実かもしれない。なお、同地で目撃される霊は、「さらし首」「山積みにされた遺体」など。
<まとめ>
◎山仮屋隧道近くには、山科集落と呼ばれる100名規模の小さな集落があった。
◎山科集落の住人が人斬りの犯人と思われる。しかし、真偽を確かめる術はない。
基本情報 | |
心霊スポット | 山仮屋隧道 (やまかりやとうげ) |
所在地 | 〒889-2403 宮崎県日南市北郷町北河内 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★☆☆☆☆ 6 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約40分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 日南市観光協会 公式ホームページ |
猪八重渓谷
日南市北部、猪八重(いのはえ)谷川の上流域に形成された『猪八重渓谷』は、知る人ぞ知る観光スポットとして人気を集める一方、心霊が出没することでも注目されている。
この渓谷には20数か所の滝や河原が点在しており、ホリデーシーズンになると涼を求める観光客などで賑わう。しかし、同地に受け継がれる禍々しい伝承を知る周辺の一部住人は、滝はおろか、同渓谷の入り口につながる県道429号線を通ることすらイヤがるという。
北郷町(きたごうちょう)で生まれ育ち、猪八重渓谷の伝承を代々受け継いできたF氏曰わく、「戦国時代から江戸時代中期、渓谷の途中に形成された鬼の千畳岩(せんじょういわ)は、処刑場(非公式)として利用されていた。同地の豪族(藩主)は、年貢を期限内に納めない者、罪人、敵兵などをこの処刑場で処理したと言い伝えられている」と述べた。
戦国時代の処刑および処刑場に非公式もへったくれもない。豪族などの支配者は、思うがままに処刑方法を定めていたのである。鬼の千畳岩では、刑の軽い者に対して斬首、重い者は水責めと決まっていた。斬首は一瞬で痛みから解放されるため、残酷ではあったが、比較的良心的な刑だった。
しかし、水責めはいつ死ぬかも分からぬ苦しみを延々と味わい続けるため、残酷と恐れられた。両手足を拘束された罪人は、腰ほどの深さの河川内に固定される。当然、身動きは一切取れず、横にもなれない。また、猿ぐつわを噛まされるため、舌を噛み切ることも許されなかった。さらに、腰から下は冷たい水にさらされ続け、数時間でふやけてしまう。
ふやけた皮膚は水の流れに耐え切れず、剥がれる。この刑の最も恐ろしいところは、なかなか死ねないことだった。陽にさらされ続けても、体内は水分で満たされ、枯れ死することもできない。また、痛みで眠ることもできず、1週間以上不眠状態でうめき続けた者もいたという。
カラスや野犬などに襲撃されれば、100%助からない。生きたまま肉を喰われ、いつ死ぬかも分からぬ状態で地獄の苦しみを味わい続けた罪人たちは、怒りと痛みの末、大怨霊になったと言い伝えられている。
同地で目撃される霊は、「山積みにされた水死体」「ブヨブヨに膨れ上がった男が襲いかかってきた」など。地獄の水責めを連想させるものが多く、渓谷周辺は今でも怨霊のたまり場になっているのかもしれない。
江戸時代に入り南九州は飫肥(おび)藩の支配下に置かれ、違法な処刑はご法度とされた。しかし、同地の水責めは非公式刑として1800年代まで継続され、数百名もの罪人が地獄の苦しみを受け憤死したという。
罪人は裁かれるべきである。しかし、常軌を逸した残酷すぎる刑は、怨霊化のリスクが伴うことも忘れてはならない。人間の尊厳を踏みにじられ、1週間以上苦しみ続けた者は、怨みつらみを極限まで募らせるのだ。
<まとめ>
◎猪八重渓谷の一部は、戦国時代から江戸時代中期まで処刑場として利用されていた。
◎水責めは斬首より数段厳しく過酷な刑だった。同地では数百名がこの刑に処され、怨霊になったと言われている。
基本情報 | |
心霊スポット | 猪八重渓谷 (いのはえけいこく) |
所在地 | 〒889-2403 宮崎県日南市北郷町猪八重 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約1時間 【高速】宮崎空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約1時間5分 【高速】宮崎駅から約55分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 日南市観光協会 公式ホームページ |
先程帰宅!
— パァ〜! (@softcream158) June 28, 2018
猪八重渓谷素晴らしい👏 pic.twitter.com/iuUhUH69FC
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御手洗水神社
延岡市愛宕山(あたごやま)展望所近くに位置する『御手洗水(みたらいすい)神社』は、「天孫降臨伝説」で有名な「ニニギノミコト」と水神様を祀る由緒正しき神社である。
本堂へと続く参道には数十基の木製鳥居が立ち並んでおり、それを見た観光客は「ご利益がありそう」「鳥居のバーゲンセール」と大喜びし、写真をSNSに投稿。結果、同地の知名度は上昇した。しかし、日本神話にまつわる伝承は過去に起きた事件や事故を覆い隠す虚構に過ぎない。
御手洗水神社および同地に関連する貴重な資料を保管しているE氏曰わく、「室町時代末期から戦国時代、愛宕山の麓一帯は戦場として利用された。また、1637年に勃発した島原の乱では、天草地方から逃れたキリシタンが同社で匿われたと言い伝えられている」とのこと。
愛宕山の麓で繰り広げられた合戦は、千人にも満たない小規模なものばかりだった。しかし、合戦の都度、数百名規模の死者を出し、同社の参道が遺体で埋め尽くされることも珍しくなかった。その中でも戦国時代に発生した伊東家と島津家の小競り合いは凄惨を極め、数百体の首なし遺体が干乾しにされ、愛宕山は腐臭に覆いつくされたという。
数十年後、島原の乱で官軍に立ち向かったキリシタン数百名が偶然同地にたどり着いた。御手洗水神社の神主は彼らを哀れに思い、匿った。しかし、この情報が周辺住人から藩主にもたらされると、禁教の信者を手助けした反逆罪の適用が決まり、神主は窮地に立たされた。
藩主たちは幕府軍と協力し同社を急襲、男女数百名と神主を捕縛した。まず初めに、罪人を匿った罪で神主が拷問を受けることになった。神主は木の棒で百叩きにされ、全身の骨をコナゴナに打ち砕かれたのち、死んだ。
その後、キリシタンもことごとく処刑された。まず老人と女子供が火刑に処された。愛宕山の麓では男女の悲鳴が響き渡り、地獄の様相を呈していたという。一揆に加担したと疑われた男たちは、焼け焦げた女子供の肉や臓物、糞尿を無理やり口に押し込まれ、さらに、生きたまま全身の皮を剥がされた。
執行人たちは、半死半生の男たちに同胞の肉を無理やり喰わせ、生かした。しかし、限界を超える極度のストレスに耐えかねた男たちは、キリスト教の教義に反し、自死を選んだ。
これを見た執行官たちは、罪人たちがキリスト教に背いたと判断し、大いに喜んだという。その後、遺体は軒並み斬首され、幕府に逆らった罪により御手洗水神社参道にさらされた。
同地で目撃される霊は、「生首を持った鎧武者」「串刺し状態でさらされる遺体」など。なお、同地周辺に戦国時代以前の戦死者と信教の自由を奪われ憤死したキリシタン関連の墓や慰霊碑は一切建立されていない。
死者に敬意を表し、何らかの形で供養していれば、同地が怨霊の住処になることはなかったかもしれない。御手洗水神社に足を運ぶ際は、花や線香などを用意し、怨霊たちを供養してあげるとよいだろう。
<まとめ>
◎御手洗水神社周辺および参道は、怨霊の住処として恐れられている。
◎過酷な拷問や処刑によって死んだ者を放置してはならない。墓や慰霊碑などを建立し、死者に敬意を表すべきだ。
基本情報 | |
心霊スポット | 御手洗水神社 (みたらいすいじんじゃ) |
所在地 | 〒882-0871 宮崎県延岡市愛宕山 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約2時間25分 【高速】宮崎空港から約1時間35分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約2時間15分 【高速】宮崎駅から約1時間30分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 延岡観光協会 公式ホームページ |
巣ノ津屋洞窟遺跡
『巣ノ津屋(すのつや)洞窟遺跡』は、九州最後の秘境、「神(かみ)さん山」の麓に位置する洞窟である。二つの巨石(高さ20m超)が絶妙なバランスで支え合っており、その隙間が洞窟を形成していることから、神の力によってもたらされた岩屋(洞窟)と呼ばれるようになった。
同地は知る人ぞ知るパワースポットとして人気を集めるようになった。結果、素晴らしい噂の裏に隠された悲惨な出来事と、同地で憤死したと思われる者たちの記憶は薄れ、その事実を知る者は少なくなった。しかし、既に何度も述べた通り、記憶を上書きしても、怨霊は消えない。
神さん山の麓の一部を所有するY氏は、興味深い資料を私に見せてくれた。曰わく、「神さん山には、壇ノ浦の戦いに敗れ落ち延びた平家一族が住み着いたと言い伝えられている。鎌倉、室町時代を生き延びた平家の末裔たちは、巣ノ津屋洞窟や麓に建立した神社などで源氏一族への復讐を祈念し続けた」という。
源頼朝に敗れた平家一族の残党が九州に落ち延びたという伝承は、各地で伝えられている。Y氏の資料には、男女十数名が神さん山に入り、小さな集落を形成したと書かれている。鎌倉時代から室町時代、同地は人を寄せ付けぬ秘境であったため、日向国の住人が近づくことはほとんどなかったそうだ。
1610年、同地を治めた飫肥藩は、神さん山で生活する住人の噂を聞き、怒り狂った。もしそれが事実であれば、住人たちは年貢も治めず、勝手に飫肥藩の領土で生活していたことになる。調査は大規模かつ慎重に実行された。噂によると、数百名規模の巨大集落には、神社や寺院まで建立されていると言われていたのだ。
数千名の兵士たちは、麓を完全に封鎖しゆっくりと山頂に向かって行軍。噂通り集落は実在し、数百名の男女が生活していた。しかし、その中の半数以上が病に苦しみ、人とは思えぬ姿(奇形)だったという。兵を率いた飫肥藩家臣は、集落の長と思われる男を捕縛、聴取した。
長と思われる男は聴取に屈し、事実を洗いざらい話した。壇ノ浦の戦いののち、同地に流れ着いたこと。平家一族の末裔であること。親族による近親交配を繰り返した結果、身体の弱い者や生まれながらにして病を患っている者ばかりになってしまったこと。話を聞いた家臣は震え上がり、集落民をまとめて捕縛した。
徳川家康は源氏一族の末裔(らしい)であり、平家に対してよい感情を持っていない。平家一族の末裔が日向国の山奥で生き延びていたことを知れば、間違いなく激怒するだろう。最悪、幕府への謀反を疑われ、領土の没収もあり得る。
飫肥藩主は平家の残党を秘密裏に処理した。なお、具体的な処理方法(追放、処刑など)はY氏の資料にも明記されておらず不明。しかし、巣ノ津屋洞窟遺跡およびその周辺で霊が幾度となく目撃されていることから、殺された可能性が高い、と私は思う。
目撃された霊は、「おびただしい数のさらし首」「四肢を切断された男女が這い出てきた」など。平家の生き残りか否かを判断することはできないが、同地でただならぬ”何か”があったことは確かであろう。
<まとめ>
◎巣ノ津屋洞窟遺跡は縄文時代以前に形成された、と考えられている。
◎平家落ち人伝説関連と思われる霊が複数目撃されている。怨霊の住処になっている可能性あり。
基本情報 | |
心霊スポット | 巣ノ津屋洞窟遺跡 (すのつやどうくついせき) |
所在地 | 〒889-0101 宮崎県延岡市北川町川内名10386 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約3時間10分 【高速】宮崎空港から約2時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約3時間 【高速】宮崎駅から約2時間10分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 延岡観光協会 公式ホームページ |
九州の巨石信仰で言えばこんなトコかなー宮崎神様山、巣ノ津屋洞窟遺跡
— 路輪一人⚡️⋈ (@hitori_san) January 17, 2017
佐田京石 pic.twitter.com/WNa4KFTpAh
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祝吉御所跡
九州最強の豪族と恐れられた島津家の始祖は、平安時代の氏族のひとつ、「惟宗氏(これむねうじ)」と言い伝えられている。なお、島津という名は、日本史上屈指の悪政制度、「荘園」の一部からとったものであり、それによってもたらされた怨霊伝説は、今なお生き続けている。
荘園とは皇室および公家にのみ認められた土地を指す。荘園と認められた土地は、未来永劫税を免除され、そのツケはその他大勢の庶民に押し付けられた。
荘園が増えると、農民の土地は減る。すなわち、天皇家にもたらされる年貢が減るのである。減った年貢を補填するためには、農民から取り立てる量を増やすしかない。しかし、農民は土地を奪われ、自分たちの食料確保もままならない。しかし、天皇家は年貢の取り立てを増やした。これに反旗を翻したのが源氏の頭領、源頼朝である。
ここで紹介する『祝吉御所跡(いわよしごしょあと)』は、島津荘園と呼ばれ、先に述べた惟宗氏が島津の性を授かった地に建立された記念碑である。つまり、同地こそが島津家誕生の地なのだ。そして、素晴らしい伝承を後世に伝える同地は、怨霊のホットスポットと恐れられている。これまでに目撃された主な霊は、「切り刻まれた遺体の山」「首を切り取られた鎧武者が襲いかかってきた」など。
同地を離れ薩摩に渡った島津家は、圧倒的な勢いで九州平定を目指した。それに伴う合戦が各地で繰り広げられ、鬼の強さを見せつけた島津家は敵兵を容赦なく切り裂き、敵一族を根絶やしにしつつ北上。織田信長もまっ青の豪快な殺戮っぷりは、関係諸国を震え上がらせた。
鬼島津こと「島津義弘」は、島津家誕生の地で生活していた惟宗氏の末裔を跡形もなく消し去った。理由は兵糧の提供を断られたためである。この時、南薩摩一帯は島津家の勢力下にあり、その命令に逆らう豪族は皆無だった。しかし、惟宗氏の末裔は朝廷との血のつながりを誇りに思っており、いち田舎侍の申し出を受ける気は毛頭なかった。
島津家の歴史を研究する歴史家のT氏曰わく、「惟宗氏の末裔は島津家とのつながりを認識していた。しかし、島津家の勢いは自家をはるかに上回っており、これに嫉妬した長は兵糧の提供を拒み、伝令役の切り殺した。義弘公は怒り狂い、数百名の軍勢で末裔の自宅を包囲、破壊したのち、長を捕縛した」とのこと。
礼儀を欠いた無礼な行いに対し与えられた刑は、古代エジプトなどにも伝わる「虫地獄の刑(スカフィズム)」だった。捕縛された惟宗氏末裔の長は、仰向け状態で全身を固縛され、全身の穴すべてにムカデやカミキリムシ、ゴキブリ、アリなどの虫を押し込まれた。
さらに、島津家兵士の糞尿を全身に塗りたくられ、それにたかるハエやウジ虫が長の体内に侵入。生きたままゆっくり身体を喰われ続けたという。この処刑は、密閉された木箱の中で2週間以上かけて行われた。なお、地獄の苦しみに悶える長には毎日水や食料が投与され、簡単に死ぬことは許されなかった。
地獄すら生ぬるく感じる虫地獄の刑に処された惟宗氏末裔の長は、22日間生きたと言い伝えられている。そして、この処刑以降、同地は怨霊の出現する地として恐れられるようになった。しかし、伝承を知る者は少なくなり、島津家出生の地として慰霊碑が建立され、現在に至る。
<まとめ>
◎虫地獄の刑は戦国史上ベスト5に入る地獄の処刑方法である。しかし、その実態を記録した資料は少ない。
◎惟宗氏末裔の長は、地獄すら生ぬるい苦痛の果てに憤死。怨霊になったと思われる。
基本情報 | |
心霊スポット | 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと) |
所在地 | 〒885-0013 宮崎県都城市群元町 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約1時間5分 【高速】宮崎空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約1時間10分 【高速】宮崎駅から約50分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 都城市 公式ホームページ |
島津家発祥之地(祝吉御所跡)[都城市]。島津氏の祖・惟宗忠久の館があったと伝わる。忠久は源頼朝の重用され、島津荘の下司職・地頭に任命された。この地名を取って「島津」と称したのが島津家の起こりとされる。 pic.twitter.com/lskLfvdpTI
— 鶴久丸 (@ryoma1115512) October 23, 2019
六ヶ村城トンネル
都城市の南部、安久町(やすひさちょう)の山中に建設された『六ヶ村城(ろっかんじょう)トンネル』は、室町時代末期に築城された「六ヶ村城跡」付近を通過するトンネルである。
このトンネルは2003年に開通し、同地域の北エリアと南エリアを結ぶ新ルートとして重宝されている。しかし、開通直後から霊が出没すると噂になり、様々な目撃情報が寄せられるようになった。「車道脇に生首が置かれていた」「馬に乗った鎧武者が追いかけてきた」「車道のど真ん中に血だらけの女性と女児が立っていた」など、かなり見応え(?)のある霊が目撃されているようだ。
六ヶ村城は島津家に従属した「北郷(ほんごう)一族」が築城した山城である。正確な築城、破却年は不明。同地で言い伝えられてきた伝承とそれに関連する資料を提供してくれたM氏曰わく、「六ヶ村城を攻略すべく攻撃を仕掛けた豪族たちは、堅牢な山城に跳ね返され続け、多くの戦死者を出した。その後、北郷氏は有力豪族と和睦、島津家に従属し、生き延びた」という。
戦国時代を戦い抜いた六ヶ村城は、一国一城令(1616年)後に破却されたと考えられている。しかし、本丸は外からほとんど見えず、城主は解体の手間を省くべく、一部を勝手に残置したと資料に記載されている。これは江戸幕府の命令に反するものであり、下手をすれば謀反の疑いをかけられかねない危険行為だった。
六ヶ村城の一部は山の中に放置され、人の寄り付かぬ地となった。しかし、解体されぬまま残された本丸の一部およびその他の施設を賊が占拠、犯罪拠点として利用したという。
拠点を手に入れた賊たちは、周辺集落に狙いを定めた。同地は雑木林に囲まれ、周囲からその存在を見とがめられることもない。住人たちは、元藩主の城が残っているとは知らず、その周辺に族がたむろしていることにも当然気づかなかった。
急襲攻撃は用意周到かつ残酷だった。賊たちは民家を1軒ずつ集団攻撃でつぶした。男は寝首を掻き切られ、女子供は拘束、拠点に連行された。
男の遺体は食料になった。四肢をバラバラにし、脳と臓物は佃煮にされたと資料にハッキリ書かれている。人肉は賊の大好物であり、いつでも好きな時に入手できる、と考えられていたようだ。
女子供の将来は不幸に満ち満ちていた。賊の慰みものになり、子を産めない者は容赦なく殺された。こうして賊たちは勢力を拡大し、周辺集落をゆっくりに飲み込んだのである。
1655年、賊たちの蛮行を知った薩摩藩(島津家)は、殲滅部隊1,000人を招集。残置された六ヶ村城を取り囲み、攻撃を仕掛けた。しかし、城の守りは固く、なかなか防御を突き崩せない。1か月後、ようやく賊たちの反撃が収まり、島津軍は進軍を開始した。
門を突き破り城中に入った兵士たちは、そこで繰り広げられていた凄惨な事態を目にする。島津軍が賊たちの食料搬入経路を完全に断ち切った結果、城内は飢えと渇きに支配されていた。男たちは女子供を殺し、肉で飢えを、血で渇きを癒していたのだ。
島津家は賊をひとり残らず討ち取り、六ヶ村城も完全に破却した。なお、その後の調査で数百名の女子供が食料にされていたことが判明。同地周辺は賊に喰われた女子供と、室町時代後期から戦国時代に戦死した者が出没する「魔境」と恐れられるようになった。
<まとめ>
◎六ヶ村城トンネルでは、開通直後から霊の目撃情報が相次いで寄せられている。
◎六ヶ村城跡地を巡る殲滅戦は、島津家の歴史から抹消されている。理由は一国一城令を破ったため、と考えられている。
基本情報 | |
心霊スポット | 六ヶ村城トンネル (ろっかんじょうとんねる) |
所在地 | 〒885-0044 宮崎県都城市安久町 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★☆☆☆☆☆☆ 4 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約1時間10分 【高速】宮崎空港から約45分 ※クリックでGoogle map起動 |
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下原墓地
『下原(しもはら)墓地』は、宮崎県の基幹駅、「宮崎駅」から北に5分ほど進むと見えてくる市営墓地兼心霊スポットである。「墓地である以上、霊の1体や2体出てきてもおかしくない」と最初は思っていたが、不穏な噂を聞き、今回どうしても調査したくなった。
宮崎市のある一帯には「穢多(えた)族」が暮らしていた、と言い伝えられている。なお、ケガレ仕事をこなす屠殺や皮加工者がこれに該当し、「えた・ひにんは人にあらず」という考えが確立したのは江戸時代からである。そして、この考えが現代に受け継がれ、同和問題に発展した。
数十年前、下原墓地は穢多族の地に造られたケガレた墓、という噂が流れたそうだ。同地の歴史に詳しい某大学教授のT氏は、「人にあらぬ者が霊となり、人間に悪さをする、という根拠のない噂が流れた。心霊スポットとして噂されるのは構わない。しかし、根拠もなく同地と穢多族を結びつけるべきではない。差別を助長するような発言は控えるべきだ」と述べた。
青葉町に屠殺場や皮加工場があったか否かは知らないし、調べる気にもならない。私はケガレ思想を一切信じず、えた・ひにんと呼ばれ不当な扱いを受けた人々が暮らす地への不当な差別に断固反対する。
下原墓地で霊が出没した、という噂は恐らく事実だろう。しかし、それと同和問題を結びつける意味が分からない。墓に霊が出るのは当然である。それぐらいで驚くなと言いたい。また、同地には穢多族が住んでいた、という証拠を示す資料は一切ないのだ。
屠殺や皮加工をケガレた仕事と考える愚か者は、肉や皮製品を利用しないのだろうか。「屠殺はえた・ひにんによる悪魔の行為」「同和地域の人に近づくとケガレる」と思いつつ豚バラ肉を買っている人は、今すぐ考えを改め、大いに反省してほしい。
T氏が代々受け継いできた資料を隅々までチェックしたものの、同地に屠殺場や皮加工場があったとは記されていなかった。「穢多族が霊になり人間に復讐する」という訳の分からない噂は、ケガレ思想に憑りつかれた愚か者によるプロパガンダだろう。
心霊調査を行っていると、差別を助長する根も葉もない噂をよく耳にする。その中で最も悪質なものが同和問題だと思う。人喰いが横行した地域に対し、「あの地区には人食い族が住んでいた」という差別が発生したことはない。また、織田信長生誕の地、名古屋近郊の住人に対し、「名古屋の住人は比叡山焼き討ちで僧侶の首をはねた悪魔」と差別する人はいないだろう。いたら怖いし、そういう考えを持っている人は今すぐ入院すべきだ。
下原墓地で目撃された霊は、「人魂」「鎧武者」「親子と思われる母子」など。ごく普通(?)の標準的な霊であり、悪意を感じるものはない。しかし、どこからともなく現れた穢多族の噂が独り歩きし、尾びれをつけ、同和問題に結びつけられたようである。
<まとめ>
◎差別は愚かな行為である。同和地区に対する偏見や差別を持っている方は、今すぐ考えを改めなさい。
◎下原墓地の霊はごく普通の標準タイプ。肝試しにちょうど良いレベルであろう。
基本情報 | |
心霊スポット | 下原墓地 (しもはらぼち) |
所在地 | 〒880-0842 宮崎県宮崎市青葉町 |
種別 | 不明 |
危険度(10段階) | ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約20分 【高速】宮崎空港から約20分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約5分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宮崎市 公式ホームページ |
景清廟
「藤原景清(ふじわらのかげきよ)」こと平景清は、「壇ノ浦の戦い」で源氏に敗れ落ち延びたとされる平家一族の中で、特に有名な人物のひとりである。
ここで紹介する『景清廟(かげきよびょう)』は、同地に落ち延びたと言い伝えられている平景清を祀った社である。なお、この落ち人伝説の真偽は不明であり、証明できる資料は残っていないものの、それを暗示する伝承が古くから伝えられているようだ。
宮崎県内で活動する歴史家のI氏曰わく、「南薩摩には平家落ち人伝説に関連する遺構が数多く残されており、景清廟もそのひとつである。なお、景清の情報を記した資料は残されていないが、平家一族が同地に落ち延びたことはほぼ間違いないと思う。資料および同地に古くから伝われる伝承がその証拠だと私は確信している」と述べた。
平家の残党が壇ノ浦(山口県)から日向国(宮崎県)までたどり着いたという伝承やそれに関連する遺構は、恐らく本物だと思う。平家落ち人関連の伝承は、どれもおどろおどろしいものばかりである。自分の生まれ育った地に大量虐殺や処刑場などの伝承が残っていれば、「よい噂で上書きしたい」と誰もが考えるはず。しかし、同地の住人はそれをしなかった。
宮崎市下北方町周辺で語り継がれている景清以外の平家落ち人伝説を知る方は少ない。I氏の資料によると、同地に落ち延びた女子供を含む十数名の平家一族は、豪族たちにことごとく捕縛。荒れ地の一角に連行され、一般公開ののち、拷問死したと記されていた。
平家一族の残党は身動きできぬように固縛され、石打ちの刑に処された。見物客たちは天皇家と共に暴虐の限りを尽くした平家一族に冷たく、石打ちと聞いた時には大歓声が上がったという。
見物客は石を手に取り、身動きの取れない男女、子供に投げつけた。資料には数百個の石が同時に延々と投げつけられ、10分も経たぬうちに子供、老人、女性が息絶え、男だけが生き残ったと記されている。
男たちは合戦に加勢した罪を問われ、3日間日乾しにされたのち、斬首されることが決まった。しかし、当時は8月だったこともあり、男5人の命は処刑日まで持たず、いずれも枯れ死したという。
平家の残党を皆殺しにしたことで、町は大いに盛り上がり、遺体は骨になるまで放置、海に遺棄することが決まった。しかしその直後、日向国を狙う豪族との合戦が始まり、同地を治めていた豪族は敗北、滅亡した。
領土の主が変わり、平家一族の遺体は骨にならぬまま海に遺棄された。住人たちは新しい国主に従わねばならず、平家一族が鳥や野犬のエサになるシーンを見逃した。
遺体を海に遺棄してから1週間後、同地を治めた新国主およびその家族、家臣、関係者の間で原因不明の疫病が流行した。感染者は顔がただれ、目がつぶれ、鼻と耳の軟骨が溶け落ち、人とは思えぬ姿に変身した。そして、疫病は全く完治せず、感染者は3日持たぬうちに、死んだ。
それから数百年後、同地を治めた飫肥藩(おびはん)藩主は、平家の怨霊を恐れ、景清廟を建立。平景清が同地を訪れたという証拠はなかったが、平家一族を代表する有名人を崇め奉れば、怨霊も納得すると考えたのだろう。しかし、慰霊碑や社は建立したものの、怨霊の鎮圧には失敗したようだ。
<まとめ>
◎景清廟は拷問死した平家一族を祀るために建立された。
◎拷問死した平家一族は、うらみつらみを募らせ怨霊になった。
基本情報 | |
心霊スポット | 景清廟 (かげきよびょう) |
所在地 | 〒880-0035 宮崎県宮崎市下北方町 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★☆☆☆☆☆ 5 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約25分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宮崎市観光協会 公式ホームページ |
津屋原沼
宮崎県の空の玄関口、宮崎空港のすぐ北に位置する『津屋原沼(つやばるぬま)』の東岸に整備された「タンポリ公園」は、日向国の処刑場兼拷問場跡地に整備されたと言い伝えられている。しかし、その事実を知る者は非常に少なく、伝承はほとんど途絶えてしまったようだ。
宮崎市で生まれ育った大地主のE氏が保有する資料によると、津屋原沼はもともと「夷渦耶沼(いかやぬま)」と呼ばれ、漁場として利用されていたという。室町時代末期、日向国を嵐が襲い、この沼につながる「八重川(やえがわ)」と大淀川が大規模氾濫を起こした。
一帯の集落や町は濁流に飲み込まれ、下流域でくぼ地を形成していた津屋原沼に1,000以上の水死体が流れ込んだ。E氏曰わく、「沼の遺体回収には1カ月以上かかり、同地一帯は腐臭に覆いつくされた。しかし、沼や河川の底に沈んだ遺体の肉片がプランクトンの大量発生につながり、翌年は史上まれに見る豊漁だった。これに目を付けた豪族たちは、沼の近くに処刑場を造り、処理した罪人や敵兵を魚のエサにしようと考えた」という。
処刑場は血を処理しやすい河原、滝、海の近くに造られることが多かった。そして、水死体のタンパク質を魚のエサにしようと考えた豪族は、全国各地に存在した。敵兵や罪人の集団処刑が当たり前だった時代、遺体を効率よく処理し、かつ、自然の恵みに変える川や沼への遺棄は、至って普通のことだったのだ。
その後、同地では幾度となく公開処刑が実施された。遺体はバラバラに処理され、魚のエサに最適と考えられた臓物と脳漿(のうしょう)は、漁業を行う際の撒餌(まきえ)に利用されたという。
遺体を撒き始めてから30年後、またしても嵐が日向国を直撃。河川の氾濫および大洪水が発生した。津屋原沼には30数年前と同じく、1,000体以上の水死体が集まり、地獄の様相を呈した。しかし、遺体が魚のエサになることを知っていた豪族は、これの回収を許さず、猛反発する遺族や関係者の一部を捕縛、火あぶりの刑に処した。
豪族は力で住人をねじ伏せ、漁業関係者に豊漁を約束した。しかし、水死体があまりにも多すぎたため、腐臭は周囲数キロメートルの範囲に広がり、さらに、プランクトンも遺体を処理しきれず、水の腐敗を招いた。
さらに、原因不明の疫病が蔓延し、周辺住人、魚、カラス、犬、猫、虫、ありとあらゆる生物が死に、豊漁どころか同地の漁業施設は壊滅してしまった。豪族たちは大急ぎで遺体の回収を指示するも、時すでに遅しである。
不幸はまだ続く。遺体の回収を始めた直後から、雨がほとんど降らなくなり、これに伴い八重川の水量も著しく減少。水が循環されなくなったことで、沼の腐敗状況はさらに悪化した。
日向国を苦しめた嵐は鳴りを潜め、雨も全く降らず、田畑は枯れ、津屋原沼の水は腐りに腐り、ヘドロ化した。飢饉と不漁に襲われた同地周辺では、毎年数百人が餓死し続けたという。
事態を重く見た豪族は、私財を全て死者の供養(神社や慰霊碑の建立など)に投じた。藩主は自分の過ちを認め、出家。その地位を受け継いだ長男は、住人たちと一緒に汗水を流して働き、八重川の改修や痛んだ土地の改良に取り組んだという。
津屋原沼で目撃される霊は、「沼から人間が這い出てきた」「串刺し遺体が並べられていた」など。
<まとめ>
◎いかなる理由があろうと、死者を愚弄してはいけない。
◎津屋原沼関連の伝承はE氏の資料に記されているものの、真偽は不明である。
基本情報 | |
心霊スポット | 津屋原沼 (つやばるぬま) |
所在地 | 〒880-0912 宮崎県宮崎市大字赤江 |
種別 | 怨霊 |
危険度(10段階) | ★★★★★★★☆☆☆ 7 |
①アクセス | 【一般道】宮崎空港から約15分 ※クリックでGoogle map起動 |
②アクセス | 【一般道】宮崎駅から約15分 ※クリックでGoogle map起動 |
関連サイト | 宮崎市観光協会 公式ホームページ |
まとめ
今回は小林市他4市の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。
不穏な伝承や言い伝えを意図的に上書きする行為は、今や常識になってしまった。しかし、何度も述べた通り、記録を上書きしても憤死した者の怨みつらみは消えない。
大量虐殺や処刑、拷問が行われていた、という事実を隠したいのは当然だと思う。しかし、死者を正しく供養できていなければ、怨霊の怒りに触れ、悲惨な事態を招くかもしれない。最後までお読みいただきありがとうございました。