チュニジア共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:チュニジア共和国(Republic of Tunisia)

首都:チュニス(Tunis)

人口:11,721,177人(2021年推定)

面積:163,610㎢(北海道の2倍)

気候:地中海性気候と砂漠気候
・南部の砂漠地帯はとても暑い。
・北部の地中海沿いは比較的過ごしやすい。
・港湾都市である首都チュニスの夏場の平均気温は最低が19~23℃、最高は31~35℃。
・首都チュニスの冬場の平均気温は最低が8~13℃、最高は16~22℃。
・年間降水量は地域によって異なるが、500mm以上降る地域は少ない。

・南西部の砂漠の町トズルの夏場の平均気温は最低が24~27℃、最高は37~40℃。
・トズルの冬場の平均気温は最低が7~12℃、最高は17~23℃。
・砂漠地帯の年間降水量はおおむね100mm以下。
・観光に最適な時期は4月~5月と10月。北部で海水浴を楽しみたい人は6月~9月。

経済:
・開発途上国
GDPは395億ドル(2020年推定)
・主要産業はサービス業と製造業。
・主要輸出パートナーはフランス(29%)、イタリア(17%)、ドイツ(13%)
・主要輸入パートナーはフランス(17%)、イタリア(16%)、ドイツ(8%)

・主要輸出品は衣料品、農産物全般、機械製品、リン酸塩、炭化水素など。

・2011年のアラブの春以来、GDP成長率は低迷している。
・慢性的な高失業率に悩まされている。(2017年:15.5%)
・新しい消費習慣が浸透したことで、プラスチック廃棄物の量が爆発的に増加した。
・2015年3月の博物館襲撃テロ事件以来、観光産業は低迷しており、コロナウイルスの感染拡大が追い打ちをかけた。
・主要な輸出農作物は小麦、トマト(世界生産量16位)、オリーブ(世界生産量7
位)、大麦、スイカ、玉ねぎ、ジャガイモなど。

人種(民族)
・アラブベルベル人 98%(CIAワールドファクトブック推定)
・ヨーロッパ人 1%
・その他 1%

言語:
・アラビア語(公用語)(CIAワールドファクトブック推定)
・チュニジアアラビア語
・ベルベル語
・フランス語

宗教:
・イスラム教(主にスンニ派)99%(CIAワールドファクトブック推定)
・その他 1%

チュニジア共和国

政治(目次に戻る

大統領:カイス・サイード(Kais Saied)
首相:空席

政治体制:共和制
・国家元首は大統領、任期は5年、1回再選可能。
・人民議会の議員定数は217人、任期は5年。
・1956年から2011年までは事実上の一党独裁体制国家だった。
・2014年に初めて民主的な選挙を行った。
・2011年の革命以前は二院制だったが、一院制に変更された。
・議会における女性議員の割合はアラブ諸国の中でトップ。
・アラブ世界で唯一の民主主義国家と見なされている。

法律:チュニジア共和国の憲法
・フランスの大陸法制度に基づいている。
・基本的人権と司法の独立を保障している。
・一夫多妻制を法律で禁じているアラブで唯一の国。
・女性の権利に関して最も進歩的なアラブ国家と見なされている。
・アラブ諸国として初めて女性に対する家庭内暴力を非合法化した。
・2017年にイスラム教徒の女性と非イスラム教徒の男性との結婚を禁止する法律を廃止した。
・LGBTQの権利はほとんど認められておらず、国内で活動する公式団体はない。(2019年時点)

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渡航情報:
外務省ホームページ
・渡航中止勧告発令中(2021年7月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年7月時点)

治安:かなり悪い
・2015年3月以来、各地でテロ攻撃が相次いでいる。
・一部地域では反政府武装勢力やイスラムジハード組織が活発に活動している。
・アルジェリアおよびリビアとの国境付近は国軍とジハード軍の戦闘地域になっている。
・アルカイダおよびイスラム国とつながりのある組織が複数潜伏しており、いつどこでテロ攻撃が発生するか分からない。
・国軍は西部山岳地帯などでのジハード軍掃討作戦を継続している
・首都チュニスの治安は比較的安定しているが、油断は禁物。2015年3月の博物館襲撃事件では日本人3人を含む少なくとも22人が殺害された。
・銃火器が市場に大量に流通しており、誰が武装しているか分からない。
・流しのタクシーには乗車しない。無許可のタクシーは危険。
・武装強盗に遭遇した時は抵抗せず、要求されたものを全て渡す。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない。
・パスポートやキャッシュカードなどの貴重品は極力持ち歩かず、安全な場所に保管する。

チュニジア共和国/首都チュニス

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は少なくとも9社。うち3社は日刊紙。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は少なくとも3局。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は少なくとも2局。
・報道と言論の自由を保障している。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は60~65%。
・検閲はない。
・名誉毀損は厳しい取り締まりに直面するが、懲役刑に処されることはない。宗教の冒とくと虚偽の情報の発信も同様。

【国営メディア/設立年】
・Elhiwar 1966年

【民間メディア】
・ハンニバルTV
・ネスマTV
・El Hiwar El Tounsi

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2021年軍事力ランキング:73位

・軍人数:48,000人(推定)
  即戦力 36,000人
  予備兵 0人
  準軍組織 12,000人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:8億ドル(推定)

チュニジア共和国/ジャスミン革命

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1700年代

・1700年代:チュニジア王国はオスマン帝国の支配下に置かれていた。

・1705年:フセイン王朝がチュニジア王国の支配を確立した。

・1784年~1785年:ペストが流行し、少なくとも数千人が死亡したと伝えられている。

・1796年~1797年:ペストが再拡大。

1800年代

・1818年~1820年:ペストが流行。少なくとも数千人が死亡した。

・1820年代:チュニジア王国の統治者たちは、オスマン帝国の首都における政治的および社会的改革への継続的な取り組みを強制されていることに不満を覚え、その後王朝は、制度と経済の近代化改革を実行しようとした。

・1830年:フランスはチュニジア王国の隣国アルジェリアを占領した。

・1841年:奴隷貿易を廃止。

・1846年:奴隷制を廃止。

・チュニジア王国は主権を維持するための作戦の一環として、クリミア戦争(1854年~1856年)に兵士4,000を派遣し、オスマン帝国、フランス、イギリスとの関係強化を図った。

・1861年:アラブ世界で最初の憲法を制定した

・1869年:チュニジア王国は破産したと宣言し、国際金融委員会の支配下に置かれた。

・1881年:チュニジア王国のアルジェリア侵攻を受け、フランス軍は約36,000人の軍隊をチュニジアに送り、王朝にバルドー条約に同意するよう強制した。

・1881年:フランス軍が首都チュニスを占領。その後まもなく、フランスはチュニジア王国の経済と外交を支配した。フランスはチュニジアへの入植を積極的に奨励し、フランス人入植者の数は1906年の34,000人から1945年には144,000人に増加した。

・1883年:フランスはチュニジアを保護領下に置くと公式に宣言した。

・1888年:国内初の週刊誌アルハディラ創刊。

チュニジア共和国/ラクダ

1900年~第一次世界大戦

・チュニジア王国は第一次世界大戦に関与していない。

・1912年:地下に追いやられたナショナリスト活動家たちは、王朝の政策を厳しく非難した。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1934年:ハビーブ・ブルギーバが独立派の新憲政党を設立。

・1939年9月:第二次世界大戦勃発。

・1942年11月:ナチスドイツがチュニジア王国および周辺地域に侵攻。アルジェリアの連合軍と衝突した。(チュニジア戦線)

・1943年5月:連合軍はチュニジア王国および周辺地域で活動するナチスとファシストイタリアを追い出した。

<チュニジア戦線>
両軍参加者:80万~100万人(推定)
両軍負傷者:35万~45万人(推定)
両軍死亡者:10万~15万人(推定)

・1945年9月:第二次世界大戦終結。

チュニジア共和国/女性たち

終戦~現在

・1956年3月20日:チュニジア王国がフランスから独立。タハール・ベンアマルが首相に就任した。

・1956年4月11日:ハビーブ・ブルギーバが大統領に就任。ブルギーバ大統領は31年間国を支配し、国の安定と経済発展をもたらす思慮深いプログラムを実行し、イスラム原理主義を厳しく取り締まり、他のアラブ諸国にはない女性の権利を確立した。

・1957年:君主制を廃止。チュニジアは共和国になった。政府は効率的で公平な国家運営と厳密に構造化された仕組みづくりを目指したが、民主的なスタイルの政治は浸透しなかった。

・1961年7月:チュニジア政府は、フランス軍はビゼルトに基地を残さなければならないと主張し、その後ビゼルトのフランス海軍基地を封鎖した。

・1961年7月19日:ビゼルト危機勃発。(チュニジアvsフランス)

・1961年7月23日:ビゼルト危機終結。チュニジア軍を粉砕したフランスは1963年にビゼルトと海軍基地をチュニジアに譲渡した。

<ビゼルト危機>
両軍参加者:80,000人(推定)
両軍負傷者:1,500~2,000人(推定)
チュニジア軍死亡者:630人(推定)

・1970年代:チュニジアの経済は比較的順調に成長した。油田が発見され、観光産業は発展し、都市部と地方の人口はほぼ同じになった。しかし、農業問題と高失業率はヨーロッパへの移住の増加につながった。

・1981年:独立以来初となる複数政党による議会選挙。ブルギーバ大統領の与党が大勝した。

・1983年:国際通貨基金(IMF)は政府にパンとセモリナの価格を引き上げるよう強制し、暴動が発生した。

・1985年:イスラエル当局が首都チュニスのパレスチナ解放機構(PLO)本部を襲撃、少なくとも60人を殺害した。この襲撃は、キプロスでイスラエル人観光客3人がPLOに殺害された事件の報復だった。

・1987年11月:無血クーデター発生。ザイン・エル・アビディン・ベン・アリはブルギーバ大統領は統治者にふさわしくないと宣言し、政権を奪取した。

・1988年:ベン・アリ大統領はイスラムのアイデンティティを再確立するための新しい取り組みを開始すると宣言した。その後、イスラム教徒の活動家が刑務所から釈放された。

・1989年:大統領選挙。現職のベン・アリ大統領が勝利した。イスラム体制を確立したベン・アリ大統領はその後、政党を禁止し、反体制派活動家8,000人(推定)を投獄した。

・1999年:初の複数政党による大統領選挙。ベン・アリ大統領が3期目を勝ち取った。

・2002年4月:ジェルバ島のリゾート地にあるシナゴーグで爆弾テロが発生。19人(うち11人はドイツ人観光客)が死亡した。事件後、アルカイダが犯行声明を発表した。

・2002年5月:大統領の再選制限を撤廃するかどうかを決める国民投票が行われ、ベン・アリ大統領は4期目への道を切り開いた。

・2002年9月:労働者党の指導者、ハマ・ハマミが健康上の理由により刑務所から解放された。ハマミは違法な組織に所属し、反乱を企てていた。

・2004年10月:大統領選挙。現職のベン・アリ大統領が有効票の約94%を獲得し、4期目を勝ち取った。政府はイスラム野党の活動を拒否し続け、反対派を抑圧するために軍および警察を動員して国を統治した。

・2005年11月:チュニジアはグローバル情報社会に関する国連会議を主催した。この際政府は、警察がジャーナリストや他国の代表者に嫌がらせをしたという主張を却下した。

・2006年10月:政府は一部のイスラム教徒の女性が着用しているスカーフに反対するキャンペーンを開始した。

・2006年10月:政府はカタールに本拠を置くアルジャジーラTVの報道を偏見と厳しく非難し、カタールの大使館を閉鎖すると主張した。これに対しアルジャジーラは、反体制派のモンセフ・マルズーキのインタビューを放送したうえで、チュニジア政府に抵抗した。

・2006年12月:主要野党の進歩民主党(PDP)がチュニジア初の女性リーダーであるメイ・エルジェリビを党首に指名した。

・2007年1月:イスラム過激派と治安部隊が首都チュニスで衝突、少なくとも12人が死亡した。政府はアルジェリアの過激派組織が攻撃に関与したと主張した。

・2008年:チュニジアは報道の自由ランキングで173ヵ国中143位にランクされた。

・2009年7月:警察当局は、合同軍事演習中に米国軍人の殺害を計画したとされるチュニジア軍将校2人を含む9人を起訴した。

・2010年12月17日:26歳の露天商であるモハメド・ブアジジは市当局に商品を没収され、屈辱を受けたことに抗議し焼身自殺した。国民はこの事件に憤慨し、爆発的な抗議活動に発展した。(ジャスミン革命)

・2011年1月14日:ベン・アリ大統領は政府を解散し、非常事態を宣言したうえで、リビアの保護下に置かれているマルタに逃亡した。

・2011年1月26日:チュニジア政府は逃亡者ベン・アリに対する国際逮捕状を発行し、彼が国外で不動産やその他の資産を違法に取得したと主張した。

・2011年2月:モハメッド・ガンノウチ首相が抗議者の要求を受け入れ、辞任。

・2011年2月17日:逃亡者ベン・アリが脳卒中を患い入院。

・2011年2月19日:推定4万人の抗議者が旧体制と関係のない新しい暫定政府と、議会制への移行を要求した。

・2011年5月:暫定政府が夜間外出禁止令を発動。

・2011年6月20日:チュニジアの裁判所は逃亡者ベン・アリとその妻に懲役35年の実刑判決を言い渡した。

・2011年10月:総選挙。アン=ナハダ運動(ナフダ運動)が勝利したが、過半数は獲得できなかった。

・2011年12月:人権活動家のモンセフ・マルズーキが大統領に選出され、ナフダ運動の指導者ハンマーディー・ジバーリが首相に就任した。

2012年3月:ナフダ運動は国家の世俗的な性質を維持しつつ、シャリーア(イスラム法)の影響を排除した新憲法を起草すると宣言した。

・2012年5月:何百人ものサラフィ・イスラム過激派が治安部隊と衝突した。シャリーア(イスラム法)の導入を要求するサラフィはアルコールを販売する店舗を破壊し、ジャンドゥーバの警察署を占領した。

・2012年6月:政府は美術展に対するイスラム教徒の暴動を受け、8つの地域に夜間外出禁止令を課した。

・2012年8月:首都チュニスで女性の権利を削減しようとする政府の憲法草案に数千人が抗議。この憲法草案は「女性は男性を補完する者」と表現したが、1956年施行の憲法は「女性は男性と完全に平等である」と認めていた。

・2013年2月:野党の反イスラム主義指導者が殺害された。事件後、ナフダ党のジバーリ首相は辞任したが、殺害に関与したという主張は却下し、暴力的な抗議が議員の死につながったと述べた。

・2013年5月:首都チュニス郊外のエタダメンでアンサルアルシャリア会議の警察当局とサラフィ・イスラム過激派が衝突。少なくとも1人が死亡した。警察当局は、政府が治安上の理由でアンサルアルシャリア会議の開催を禁止していたケルアン市でも抗議者と衝突した。

・2013年7月:野党の政治家モハメド・ブラフミが暗殺されたことを受け、大規模なデモとゼネストが発生。抗議者たちは政府の解散を要求した。

・2013年12月:半年に及ぶ論争の末、ナフダ運動と反対派勢力はメヘディ・ジョマを暫定政府の首相に任命することに合意した。

・2014年:マルズーキ大統領は、国民の和解を促進するチュニジアの真実と尊厳委員会を設立した。

・2014年1月:議会が新しい憲法案を可決。

・2014年2月:政府は野党政治家のチョクリ・ベレイドの暗殺に関わった容疑者を対テロ作戦で殺害したと発表した。

・2014年3月:マルズーキ大統領は、2011年に発出した非常事態宣言を解除した。

・2014年10月:議会選挙。世俗主義者、労働組合員、リベラル派、そしてベン・アリ時代の一部の支持者で構成されるチュニジアの呼び声(政党)が過半数を獲得し、イスラム教のナフダ運動に勝利した。

・2014年12月:大統領選挙。チュニジアの呼び声のベジ・カイド・エッセブシが決選投票でモンセフ・マルズーキ大統領を破り、大統領に就任した。

・2015年3月:イスラム国(ISIS)グループが首都チュニスのバルド博物館で発生した武装集団による攻撃の責任を主張。日本人3人を含む外国人観光客22人が殺害された。

・2015年6月:ISISグループのテロリストがスースのビーチリゾート地で観光客など38人を殺害。政府は過激派のモスクを閉鎖すると発表した。

・2015年10月:チュニジア国民対話カルテットがチュニジアの民主主義への移行を支援したとして、ノーベル平和賞を受賞。この団体は労働組合、産業連盟、人権連盟、弁護士組織などで構成されている。

・2017年5月:前政権の汚職で告発されたビジネスマンや公務員に恩赦を与える経済和解法案の可決に反対する抗議デモが開催された。

・2017年6月:貧しい内陸地域の雇用創出と開発を要求するデモの主催者は、石油パイプラインのバルブを閉鎖した。

・2019年7月:ベジ・カイド・エッセブシ大統領死去。

・2019年9月19日:逃亡者ベン・アリがサウジアラビアのジェッダにある病院で死亡した。

・2019年10月:大統領選挙。腐敗防止政策を公約に掲げた無所属のカイス・サイードが勝利した。

・2020年9月:財政改革を公約に掲げる新政府が発足。ヒシェム・メチチ内務大臣が首相に就任した。

・2021年7月25日:政府のコロナ対策と経済の低迷に抗議するデモが発生し、サイード大統領はメチチ首相を解任した。

文化(目次に戻る

・チュニジアの文化は非常に多様で、3000年以上の歴史と様々な民族の伝統が複雑に混ざり合っている。

・イスラム教とフランスの影響を強く受けている。

・古くから伝わる先住民族および移民の文化はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。

・国花は16世紀にアンダルシア人が持ち込んだジャスミン。

・人口の約99%がスンニ派イスラム教徒。

・バルド国立博物館は地中海地域最大の博物館のひとつであり、数千年前の貴重なコレクションが多数展示されている。

・1966年からアフリカ大陸とアラブ世界で最も古い映画祭であるカルタゴ映画祭を主催している。

・夏には大規模なフェスティバルをいくつか開催する。7月のカルタゴ国際フェスティバル、7月下旬から8月上旬に行われるマール国際芸術祭、ハマメット国際フェスティバルなど。

・首都チュニスのメディナ(旧市街)はユネスコ世界遺産に登録されている。

・女性の服は男性よりもはるかに多様で、若い女性の大多数はヨーロッパスタイルを好む。

・ヒジャーブ(女性イスラム教徒が着用する身体を覆うベール)はあまり普及していない。

・チュニジア料理は地中海料理、先住民族料理、そして移民の料理を組み合わせたものと見なされている。また、他の北アフリカ料理とは異なり、かなり辛い。

・主食は米と小麦。主菜は地元で採れる魚介類、羊肉、鶏肉、トマト、その他の野菜、香辛料、ニンニク、オリーブオイル。

チュニジア共和国/市場

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー、ハンドボール、水泳、バスケットボール、テニス、ラグビー。

・学校はスポーツを強く奨励しており、地元のスポーツクラブは地方自治体から多くの財政的支援を受けている。

・アフリカを代表するハンドボール強国のひとつ。アフリカカップを10度制している。

・オリンピックでのメダル獲得数は15個。(金:5個、銀:3個、銅:7個)

・冬季オリンピックに出場したことはない。

【有名スポーツ選手】

・ウサマ・メルーリ(Oussama Mellouli)競泳選手。2012年ロンドン五輪で2冠を達成。

・アハメド・ハフナウイ(Ahmed_Hafnaoui)競泳選手。東京2020五輪男子400m自由形で金。アフリカ勢がこの種目を制したのは初。

その他(目次に戻る

・女性の権利を認めるイスラム国家。

・経済は2011年のアラブの春以来、低迷している。

チュニジア共和国/子供たち
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