沿ドニエストル共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:沿ドニエストル共和国(Transnistria)

首都:チラスポリ(Tiraspol)

人口:469,000人(2018年推定)

面積:4,163㎢(徳島県とほぼ同じ)

気候:大陸性気候
・夏は暖かく、冬は雪が降り、とても寒い。
・気温は北部と南部で大きく異なる。
・雨季は6月~7月。ただし、降水量は決して多くない。
・中央部の夏場の平均気温は最低が12~17℃、最高は22~28℃。
・中央部の冬場の平均気温は最低がマイナス4~0℃、最高は0~8℃。
・年間降水量は地域によって多少異なるが、おおむね300~600mm。
・観光に最適な時期は5月~9月。

経済:
・開発途上国
GDPは8億ドル(2007年推定)
・主要産業は製造業。
・主要輸出パートナーはCIS(50%)、EU(20%)
・主要輸入パートナーはCIS(60%)、EU(20%)
・主要輸出品は鉄鋼、繊維類、石油、ウォッカ、ブランデーなど。

・重工業(鉄鋼生産)、電力、繊維生産がGDPの約80%を占めている。
・慢性的な貿易赤字に悩まされている。
・政府は収入の60%をモルドバ製鉄所(ロシアのエネルギー会社が所有)から得ている。
・電力業界はロシアの企業が独占している。

人種:
・ロシア人 29.1%(2015年国勢調査)
・モルドバ人 28.6%
・ウクライナ人 22.9%
・ブルガリア人 2.4%
・ガガウズ人 1.1%
・ベラルーシ人 0.5%
・トランスニストリア人 0.2%
・その他 1.4%
・不明 14%

言語:
・ロシア語(公用語)
・モルドバ語(公用語)
・ウクライナ語(公用語)
・ルーマニア語
・その他

宗教:
・東方正教会 91%(CIAワールドファクトブック推定)
・ローマカトリック 4%
・その他

沿ドニエストル共和国(トランスニストリア)

政治(目次に戻る

大統領:ワジム・クラスノセリスキー(Vadim Krasnoselsky)
首相:アレクサンドル・マルティノフ(Aleksandr Martynov)

政治体制:半大統領制、共和制
・国連非加盟国。
・独立を認めている国は国連に認められていない3地域(アブハジア共和国、南オセチア共和国、ナゴルノ・カラバフ共和国)のみ。
・国連に認められていない3地域と友好関係を結んでいる。
・国家元首は大統領、任期は5年、1回再選可能
・一院制、議員定数は33人、任期は5年。
・欧州安全保障協力機構(OSCE)はドニエストルの民主主義と選挙に疑問を呈しており、監視自体を拒否している。
・1992年の自称独立以来、中央集権化された政治システムを維持している。
・ロシアの支配下に置かれている。しかし、ロシア政府はドニエストルの独立を公式には認めていない。

法律:ドニエストル共和国の憲法
・基本的人権を保障しているが、政府に反抗的な市民は治安維持部隊に叩きのめされる。
・信教の自由を保障しているが、一部の宗教(エホバの証人など)の信者は弾圧に直面している。
・治安維持ゲリラ軍と警察は恣意(しい)的逮捕および拷問を多用し、独立系メディアや野党議員に嫌がらせをし、結社と信教の自由を打ち負かし、ルーマニア語を話す市民を警棒で叩きのめすクセがある。
・司法の独立を保障しているが、判事は最高評議会に都合のよい判決を下すクセがある。
・住民のあらゆる権利を保障しているが、政府はティギナのドラガリナ墓地(第二次世界大戦で死亡した兵士兼ルーマニア人の墓地)を破壊し、十字架を焼き払い、ブルドーザーで整地し、ごみ処理施設にした。
同性愛は違法。治安維持ゲリラ軍は同性愛者とレズビアンへの暴力と差別を推進している。

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渡航情報:
外務省ホームページ
・注意情報発令中(2021年5月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年5月時点)

治安:悪い
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・イスラムジハード組織や反政府勢力の活動は報告されていない。
・ロシア系分離ゲリラ軍の支配下に置かれている。
・1992年の和平協定締結以来、治安は比較的安定していると伝えられている。
・治安維持ゲリラ軍の取り締まりは極めて厳しく、ギャングやテロリストの活動は抑え込まれている。
・治安維持ゲリラ軍は不審な民間人を厳しく叩きのめすと伝えられている。
・流しのタクシーには乗車しないこと。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・夜間は出歩かない。特に歓楽街エリアはロシアとつながりのある組織が牛耳っており、危険。
・入国する際は、必ずモルドバ共和国を経由すること。沿ドニエストルは公式にはモルドバ共和国の領土であり、ウクライナ側(東側)から入国すると、出国する際トラブルになる可能性が高い。

沿ドニエストル共和国/首都チラスポリの大通り

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は14社活動していると伝えられている。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は3局。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は4局。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に批判的なメディアとジャーナリストは嫌がらせに直面する。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は高い。
・独立系の新聞や雑誌も発行されているが、部数は少なく、広告を出すことは許可されていない。
・検閲は極めて厳しい。

【国営メディア/設立年】
・TV PMR 1992年

【民間メディア】
・TSV
MultiTV他

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2021年軍事力ランキング:ー位

・軍人数:26,000人(推定)
  即戦力 6,000人
  予備兵 20,000人
  準軍組織 0人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:1億ドル(推定)

沿ドニエストル共和国/軍のパレード

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1700年代

・1700年代、沿ドニエストルとモルドバ共和国を含む周辺地域はオスマン帝国、ロシア、その他のヨーロッパの強国の勢力争いに巻き込まれていた。

・1775年、ロシアは沿ドニエストルに入植したルーマニア人を利用してさらに多くの住民を移住させようと考えたが、人口はなかなか増加しなかった。

・1792年、沿ドニエストルの南部はロシアに、北部はオスマン帝国の支配下に置かれた。当時、この地域の人口はまばらで、ロシアはウクライナ、ルーマニア、ポーランド、ロシア、ドイツ人を含む支配権の市民に大規模な移住を奨励した。

・1793年、ポーランドが西部の一部地域を併合した。

1800年代

・1812年、ブカレスト条約により、プルート川とドニエストル川の西岸に位置するモルドバ東部およびベッサラビアはロシアの支配下に置かれ、オスマン帝国は現在のモルドバ西部の主権を認められた。

・1878年、オスマン帝国はモルドバ西部を含むルーマニアの独立を認めた。

・1893年、当時の記録によると、沿ドニエストルで生活するルーマニア人は約53万人まで増加したと伝えられているが、実際は100万人を超えていた可能性があるという。

沿ドニエストル共和国/ドニエストル川

1900年~第一次世界大戦

・1914年7月、第一次世界大戦勃発。

・戦争中、沿ドニエストル川の一部のルーマニア人組織はベッサラビア国民運動に参加し、大ルーマニア王国を再構築するようルーマニア王朝に求めた。しかし、政府は大規模な軍事介入を必要としていたため、要求を無視した。

・1918年、ロシア革命に続いてベッサラビアが独立を宣言。ベッサラビア議会の代表者たちはルーマニア王国との連合結成を求めた。

・1918年11月、第一次世界大戦終結。

・終戦直後、ウクライナの共産主義勢力は、ドニエストル川の左岸にウクライナ人民共和国を設立すると宣言した。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・共産主義を奨励する沿ドニエストルの地政学的概念は、ベッサラビアの軍事指導者グリゴリー・コトフスキー、ロシア革命、親ソビエト派との様々な協議を経て確立した。

・1920年、パリ条約が締結され、ベッサラビアとルーマニアの連合形成は公式に承認されたが、ソビエトは認めなかった。

・1924年、ソビエトはドニエストル川の東にモルドバ自治ソビエト社会主義共和国(モルドバSSR)を設立すると宣言した。

・1927年、モルドバのチラストリで数万人規模の暴動が発生。農民や工場労働者たちはソビエトの統治と共産主義に反対し、ロシア軍と対峙した。記録によると、ロシア軍は暴動を鎮圧するために重火器を使用し、約4,000人を殺害したという。

・1920年代~1930年代、モルドバSSRで生活していたルーマニア人数千人がルーマニアに逃亡し、ソビエトの支配下に置かれた住民のために特別基金を設立した。当時の記録によると、逃亡したルーマニア人難民の数は20,000人以上にのぼった可能性があるという。

・1930年代後半、沿ドニエストルの住民はスターリン主義の奨励に伴う完全なるソビエト化を恐れ、多くが国外に脱出した。その中でも特にひどい扱いを受けたポーランド人グループなどは、ソビエトの支配と共産主義勢力の圧力にさらされた。

・1939年9月、第二次世界大戦勃発。

・1940年8月、ソビエトはベッサラビアを併合したうえでモルドバSSRに組み込み、モルダヴィアソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)を形成した。

・1941年、ナチスドイツ率いる枢軸国軍がベッサラビアに侵攻し、ドニエストル川を越えてさらに前進した。この時ルーマニアは、モルダヴィアSSR(沿ドニエストル)のオデッサ市を含むドニエストル川とサザンバグ川の間の地域全体の支配権を確立した。

・1941年~1944年、ルーマニアは同盟国ナチスドイツのソビエト侵攻を受け、モルダヴィアSSRの支配権を奪取した。この占領期間中、15万から25万人のユダヤ人(主にウクライナ人とルーマニア人)が沿ドニエストルの強制収容所に収容された。収容されたユダヤ人の大多数は処刑または死亡したと伝えられている。

・1941年12月、沿ドニエストル・ルーマニア自治政府はオデッサ大学の6つの学部(医学、工科、法律、科学、言語、農業工学)を再開させた。

・沿ドニエストル・ルーマニア自治政府は、ルーマニア王国の支配を確立するためのプロセスを開始した。自治政府はソビエトによって閉鎖を命じられた全ての教会を再開し、地域内に小学校を約2,200校、中学校65校、工業高校29校、高等学校23校を開校した。一部地域には美術館、図書館、映画館、劇場も建設された。

・1945年9月、第二次世界大戦終結。

沿ドニエストル共和国/首都チラスポリ

終戦~現在

・1980年代後半、ソビエトのゴルバチョフ改革をきっかけにモルダヴィアソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)でナショナリズムが復活した。

・1990年9月2日、モルダヴィアSSRの主権の宣言に合わせて沿ドニエストルは独立を宣言したが、モルダヴィアSSR政府は独立を却下した。

・1990年11月2日、トランスニストリア戦争勃発。(モルダヴィアSSR・ルーマニア連合vs沿ドニエストル・ロシア連合)

・1991年8月25日、「モルドバ共和国」ソビエトから独立の宣言し、独立国家共同体(CIS)に加盟。

・1991年8月29日、独ドニエストルの指導者イゴール・スミルノフと他の3人の議員がウクライナの首都キエフで到着し、ウクライナの指導者レオニード・クラフチュクと会談。その後、スミルノフと議員はモルドバ警察に逮捕され、刑務所に収監された。これにドニエストルは猛反発し、逮捕が撤回されるまで、モスクワ-チシナウ鉄道を封鎖すると発表した。

・1992年3月、モルドバ政府は沿ドニエストルで戦闘が急増したことを受け、非常事態を宣言した。当時、モルドバ共和国に独自の軍隊はなく、紛争の激化に対応して、1992年初頭に軍隊を創設する試みが始まったばかりだった。

・1992年4月5日、ロシアのアレクサンドル・ルツコイ副大統領は、チラスポリに集まった住民約5,000人に向けた演説で、沿ドニエストルの独立を保証しなければモルドバを併合する可能性もあると警告した。

・1992年7月21日、トランスニストリア戦争終結。モルドバは停戦協定に合意し、沿ドニエストル・ロシア連合の勝利が確定した。

・ロシア軍は圧倒的な力でモルドバの即席軍を打ち負かしたため、モルドバ政府が勝利するチャンスはほとんどなく、モルドバの住民は戦争の速やかな終結を願っていた。

<トランスニストリア戦争>
・両軍参加者:55,000~60,000人(推定)
・両軍負傷者:1,800~2,500人(推定)
・両軍死亡者:600~1,300人(推定)

・1992年7月21日、「沿ドニエストル共和国【沿ドニエストル・モルドバ共和国/プリドネストロビアンモルダビア共和国(PMR)】」が独立を宣言。しかし、国際社会は独立を却下した。

・1992年8月、沿ドニエストルはロシアの平和維持軍によって管理されている安全地帯内で停戦協定に反して軍隊を配備し、武器を製造および販売し続けた。

ロシア軍の完全撤退協定は1994年に署名されたが、一部はモルドバと沿ドニエストルで活動を継続しており、膨大な弾薬と装備が沿ドニエストル政府に提供された。ロシア軍旧第14軍の兵器庫には、銃49,476丁、大砲805門、装甲車4,000両、その他の軍事装備655ユニットが保管されており、強固な連隊を少なくとも4つは構成できると考えられている。

・1997年、沿ドニエストル政府とモルドバ政府が交渉を再開。

・1997年5月8日、ロシア、ウクライナ、欧州協力開発機構(OSCE)の仲介を受け、モルドバのペトル・ルチンスキー大統領と沿ドニエストルのイゴール・スミルノフ大統領がモスクワで「プリマコフ覚書(モスクワ覚書)」に署名。

・2002年7月、ロシア、OSCE、ウクライナの調停者は、連邦制度の下でモルドバを統一するという計画を承認した。

・2002年12月、欧州安全保障協力機構(OSCE)は、沿ドニエストルからのロシア兵器の撤退期限を2003年末まで延長することに合意。しかし、ロシアは和平協定が締結されるまで地域に留まると主張した。

・2003年2月、アメリカとEUは沿ドニエストルの指導者に対してビザ制限を課した。

・2003年11月、モルドバはロシアの影響力に懸念を表明する大規模な抗議活動を受け、ロシアが提案した沿ドニエストルとの和平に合意するという約束を撤回した。

・2003年11月中旬、ロシアは今後20年間、モルドバおよび沿ドニエストルの領土内にロシアの軍事基地を設置すると宣言した。

・2004年7月、沿ドニエストルはキリル文字ではなくラテン文字を使用した地域内の学校を閉鎖し物議を醸す。モルドバ政府はこれに激しく反発し経済制裁を科したうえで、和平交渉から撤退した。

・2005年5月、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領は、交渉による和解と自由選挙を通じて沿ドニエストルとモルドバの分離を解決するという7つの計画を提案した。計画が承認されても沿ドニエストルはモルドバの自治区のままだが、アメリカ、EU、沿ドニエストルは計画の実行に向けた交渉を再開すると述べた。

・2005年7月、沿ドニエストルとウクライナは国境に5つの新しい税関を開設した。

・2006年1月、ロシアのガスプロム社はモルドバ政府に原油と天然ガスの価格を約2倍に引き上げると圧力をかけ、モルドバ政府が支払いを拒否したため、供給を停止した。その後、両社は協議を再開し、一時的な妥協点に到達した。

・2006年3月、沿ドニエストルの指導部は、ウクライナから輸入される商品にモルドバの税関スタンプを付けるという新しい規則に激しく憤慨する。モルドバ政府はアメリカ、EU、OSCEに裏打ちされた規則であり、密輸を防止するために大きな効果を発揮すると主張した。

・2006年4月、ロシアがモルドバワインの輸入の一時停止を発表。これにモルドバ政府は猛反発し、「ロシアは沿ドニエストルの独立を認めさせるために圧力をかけている」と国際社会に支援を求めた。

・2006年9月、モルドバからの独立の是非を問う国民投票。有権者はモルドバからの独立と最終的にはロシアの一部になるという政府の計画を圧倒的に支持した。

・2008年4月、沿ドニエストルの指導者イゴール・スミルノフとロシアのウラジーミル・プーチン大統領が7年ぶりに会談。2001年に決裂したモルドバとの和平交渉の再開に向けた協議を行った。

・2009年7月、モルドバ総選挙。共産勢力は保守派に過半数を明け渡した。

・2011年4月、ロシアはモルドバ共和国内に沿ドニエストルの自治区を創設することに賛成したが、解決しなければならないことは山ほどあると主張した。

・2011年12月、大統領選挙。腐敗防止運動家のエフゲニー・シェフチュクが親ロシアの候補者に勝利。シェフチェク大統領は独立を確立したうえで、モルドバ政府との「友好関係」を構築すると宣言した。

・2014年6月、モルドバがEUとの連合協定に署名。その後、ロシアに対する農産物輸入に制限を課した。

・2014年11月、モルドバの国立銀行は、銀行システムから10億ドル(GDPの約12.5%)が横領されたと発表し、大きな政治および信用危機を引き起こした。

文化(目次に戻る

・ロシアとモルドバ共和国の影響を強く受けている。

・モルドバ共和国の文化とほぼ同じだが、政府に批判的な文書や表現は厳しい取り締まりに直面する。

・世界で最も魅力のない地域のひとつ。

・国内の情報が外部に発信されることはほとんどない。

・主食は米と小麦。主菜は肉全般とウォッカ。

沿ドニエストル共和国/市民

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはレスリング、サッカー、ボクシング、ラグビーなど。

・国際大会に出場したことはない。

・オリンピックに出場したことはない。

・市民クラブレベルのスポーツ団体が各地で活動している。

・自称政府は西側諸国の人気スポーツを推奨しておらず、反抗的なスポーツ選手は取り締まりの対象になる。

その他(目次に戻る

独立を認めている国は国連に認められていない3地域(アブハジア共和国、南オセチア共和国、ナゴルノ・カラバフ共和国)のみ

・自称政府はロシアの支配下に置かれている。

沿ドニエストル共和国/首都チラスポリ
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