タンザニア連合共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)

首都:ドドマ(Dodoma)

人口:58,552,845人(2021年推定)

面積:945,087㎢(日本の2.5倍)

気候:熱帯気候
・乾期は6月~10月。
・雨季は10月~12月と3月~6月。
・気温は1年を通して比較的安定している。涼しいエリアは高所のみ。
・夏季(11月~2月)の最低気温は25~26℃。最高気温は29~32℃。
・冬季(5月~8月)の最低気温は15~17℃。最高気温は20~22℃。

・ゲリラ豪雨に悩まされており、その都度洪水が発生する。
・内陸部の一部地域は深刻な干ばつに悩まされている。
・西部の国立公園エリアにはライオン、ヒョウ、ゾウ、バッファローなどが多数生息している。
・旅行に最適な時期は6月~9月。

経済:
・開発途上国
GDPは608億ドル(2019年推定)
・2019年の経済成長率は5.9%。
・アフリカ諸国の中では、比較的高い経済成長率を維持している。
・主要産業はサービス業と農業。
・人口の約4分の1が貧困ライン以下の生活を送っている。
・1986年に社会主義政策を見直し、民間部門とインフラへの投資を本格化させた。

・主要輸出パートナーはインド(21%)、中国(8%)、日本(5%)。
・主要輸入パートナーは中国(15%)、インド(13%)、アメリカ(10%)。
・労働人口の約50%が農業部門で働いている。
・主要農作物はトウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、バナナ、ピーナッツ、ゴマなど。

人種(民族):
・バントゥー族 99%(推定)
・その他 1%
・バントゥー族は130以上の部族で構成されている。

言語:
・ニジェール・コンゴ語
・ナイル・サハラ語
・スワヒリ語(公用語)
・英語(公用語)
・先住民族の言語は100種類以上ある。
・英語を話す市民は少ない。

宗教:
・キリスト教 61.4%(2010年推定)
・イスラム教 35.2%
・その他 2%
・無宗教 1.4%
・ザンジバルの島民はほぼイスラム教徒。

タンザニア連合共和国

政治(目次に戻る

大統領:サミア・スルフ・ハッサン(Samia Suluhu Hassan)
首相:カシム・マジャリワ(Kassim Majaliwa)

政治体制:共和制
・国家元首は大統領。
・イギリス連邦加盟国。
・一院制。議員定数は384人。任期は5年。
・第一党のタンザニア革命党(CCM)は極めて左寄り。
・市民は保守的な政党を好まない傾向にある。
・市民ファーストと社会民主主義を推進している。
・2021年3月に初の女性大統領が誕生した。

法律:タンザニア連合共和国の憲法
・基本的人権を保障しているが、人身売買、強制労働、拷問、差別、私刑などが各地で横行している。
・LGBTの権利を一切保障しておらず、同性愛は犯罪。
・裁判所、判事、弁護士の数が圧倒的に不足しており、特に少数民族は訴えを起こすことすらできない。
・治安部隊は政府に批判的な野党や関係者を恣意的に逮捕し、拷問する。
・政府機関は社会民主主義に敵対する勢力もしくは個人を暗殺する。

2015年11月5日/タンザニアの故ジョン・マグフリ大統領(AP通信/Khalfan Said)

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渡航情報:
外務省ホームページ
・渡航中止勧告発令中(2021年3月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年3月時点)

治安:悪い
・近年、テロ事件は発生していない。
・イスラム過激派組織や反政府勢力の活動は報告されていない。
・西部の一部の州で隣国モザンビークの武装勢力が活動しており、危険。
・最大の都市ダル・エス・サラームの武装強盗に注意。
・強盗、窃盗、置き引き、スリに注意。
・高級腕時計や貴金属類は身につけないこと。凶悪な武装強盗は腕ごと持っていく。
・流しのタクシーには乗車しない。
・銃器や手榴弾が市場に流通している。
・治安部隊の前で不審な行動を取らないこと。
・治安部隊の監視の行き届いていない地域には近づかないこと。(特に西部の国境付近)

タンザニア連合共和国/先住民族の村

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は15社以上あると伝えられている。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は15局。
・民間ラジオ局は16局。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に批判的なジャーナリストは嫌がらせを受けることがある。
・主要メディア媒体はテレビ。内陸部はラジオ。
・インターネット普及率は低い。
・検閲はないと伝えられている。
・海外のケーブルテレビも視聴できる。

【国営メディア/設立年】
・タンザニア放送公社 1951年

【民間メディア】
・ワサフィTV
・スワヒリTV
・ダルエスサラームTV
・その他

タンザニア連合共和国/ザンジバル島のビーチ

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2021年軍事力ランキング:112位

・軍人数:111,500人(推定)
  即戦力 30,000人
  予備兵 80,000人
  準軍組織 1,500人

・陸軍と空軍を保有。

・国防予算:7億ドル(推定)

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1700年代

・1700年代、現在のタンザニア連合共和国と周辺国はポルトガルの植民地下に置かれていた。

・1710年代、オスマントルコ軍がザンジバル島と沿岸地域に初めて到達。ポルトガル軍から領土の支配権を奪取した。

・先住民族はポルトガル軍を打ち負かすオスマントルコ軍の活躍に触発され、北部の領土の一部を自力で奪取したと伝えられている。

・ポルトガルはヨーロッパでの戦争や紛争に気を取られ、タンザニアの防衛に戦力を投入できなかった。

・1750年代、オスマントルコがタンザニアの沿岸地域の支配を宣言し、インド洋奴隷貿易の拠点のひとつした。

・先住民族は北部地域の支配権を死守しようとしたが、オスマントルコ軍の攻撃に屈した。(オスマントルコ領タンザニア誕生)

タンザニア連合共和国/ゾウの親子

1800年代

・1800年代、オスマントルコは東アフリカの奴隷貿易を確立し、タンザニアの奴隷(先住民族)は主にアメリカやインドなどに輸出された。

・1840年、オスマントルコの自治政府はザンジバル島にタンザニアの新たな拠点を設置した。

・1848年、ドイツの宣教師が初めて東アフリカに上陸。当時、タンザニアの先住民族はこの宣教師を受け入れたと伝えられている。

・1857年、イギリスの探検家、リチャード・バートンとジョン・スピークがタンザニアに上陸。

・1866年、スコットランドの冒険家兼宣教師のデイビッド・リビングストーンがザンジバル島に上陸。先住民族に奴隷貿易に反対するよう呼びかけ、支持を集めた。

・1873年、リビングストーン死去。死因はマラリアだったと伝えられている。先住民族たちはリビングストーンの死を嘆き、手厚く葬った。

・1877年、ベルギー軍がザンジバル島に上陸。数日後、オスマントルコ軍に敗れ撤退した。

・1884年、ドイツ帝国がタンザニアの植民地下を開始。オスマントルコはこれに抵抗したが、ドイツ軍に打ち負かされた。

・1885年、ドイツがタンザニアの沿岸地域に自治政府を設置。オスマントルコは強く反発したが、ドイツの侵攻を抑えることはできなかった。

・1886年、イギリスとドイツが東アフリカの分割支配に同意。ザンジバル島は国家として管理されることになった

・1891年、ドイツ軍がタンザニアへの侵攻を開始。オスマントルコ自治政府軍を力でねじ伏せた。

・1897年、ドイツ軍がタンザニア全土への侵攻を開始。オスマントルコから支配権を奪取した。(ドイツ領タンザニア誕生)

1900年~第一次世界大戦

・1905年、マジ・マジ反乱勃発。(ドイツ自治政府軍vs先住民族反乱軍)

・先住民族はドイツ自治政府に輸出用の綿花を栽培するよう強制されたことに猛反発した。

・1907年、マジ・マジ反乱終結、ドイツ自治政府軍の圧勝。先住民族反乱軍は最新鋭の銃火器に粉砕された。

<マジ・マジ反乱>
・両軍参加者:約10万人。ドイツ軍は2,000人ほどだった。
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:約75,000人。ドイツ軍は15人ほどだった。
・民間人死亡者:20万~25万人(推定)
・民間人餓死者:10万~12万人(推定)

・1910年代、ドイツはタンザニアの奴隷を利用して東アフリカのイギリス領の鉄道を何度も攻撃した。

・1914年7月、第一次世界大戦勃発。

・1914年9月、沿岸の町タンガのドイツ自治政府軍がイギリス領土への侵攻を開始。

・1914年11月3日、イギリス自治政府軍がタンガに侵攻。(タンガの戦い)

・1914年11月5日、タンガの戦い終結、ドイツ自治政府軍が領土を死守した。

・1915年1月、イギリス自治政府軍がザンジバル諸島のマフィア島を占領。ドイツはこれに強く反発し戦闘に発展した。

・1916年1月、イギリス自治政府軍がタンガのドイツ自治政府軍に勝利。タンザニアの沿岸地域を奪取した。

・1918年11月、第一次世界大戦終結。

タンザニア連合共和国/セレンゲティ国立公園

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・1919年1月、イギリス人のホレスアーチャー・バイアットがイギリス領アフリカの知事に就任。

・1919年7月、ヴェルサイユ条約調印。タンザニアの支配権がドイツからイギリスに公式に移譲された。(イギリス領タンザニア誕生)

・1920年1月、タンザニアを含むアフリカのイギリス領は「タンガニーカ」に改名された。

・1920年9月、イギリスが執行評議会、最高裁判所、知事事務所をタンザニアに設置。

・1922年、バイアット知事が先住民族主導の政府クラブや公務員協会の設置を承認。

・1925年、ドナルド・キャメロンがタンガニーカの知事に就任。

・1928年、都市タボラとムワンザを結ぶ鉄道が完成。

・1929年、タンガニーカアフリカ協会設立。

・1930年、都市モントアルーシャを結ぶ第二鉄道が完成。

・イギリス議会はタンザニアの荒廃した大地を耕し、小麦を栽培するよう知事に促した。指示を受けた現地のイギリス人、先住民族労働者、他国から移送された戦争捕虜たちはアメリカからリースした農業機械を使って土地を耕し、小麦だけでなく様々な農作物栽培の礎を作った。

・1939年9月、第二次世界大戦勃発。

・タンガニーカの兵士約10万人が連合軍に加わり、欧州やアジアの戦闘に参加した。

・1945年9月、第二次世界大戦終結。タンザニアの先住民族の犠牲者数は分かっていない。

タンザニア連合共和国/先住民族の村

終戦~現在

・1954年、タンザニアの独立を目指す政党、タンガニーカアフリカ民族連合(TANU)設立。ジュリウス・ニエレレがリーダーに就任した。

・TANUはナショナリズムを前面に押し出し、国連と世界にタンガニーカの独立を訴えた。

・1961年12月9日、「タンザニア」がイギリスから独立。イギリス連邦に加盟し、ジュリウス・ニエレレが初代首相に就任した。

・1962年12月9日、憲法改正。国名を「タンザニア民主共和国」に変更し、ニエレレ首相が初代大統領に就任した。

・1964年1月12日、ザンジバル島で王朝に対する反乱が発生。ナショナリスト軍はザンジバル王朝を圧倒し、立憲君主制は崩壊した。(ザンジバル革命)

<ザンジバル革命>
・両軍戦闘員:2,000~3,000人(推定)
・両軍負傷者:約300人(推定)
・両軍死亡者:80~100人(推定)
・民間人死亡者:15,000~20,000人(推定)

・1964年1月12日、ナショナリスト軍がザンジバル人民共和国の設立を宣言。

・1964年4月26日、タンザニア民主共和国とザンジバル人民共和国が統合される。ニエレレ大統領はザンジバル政府の主権をある程度認めた。

・1964年10月29日、ニエレレ大統領がザンジバル人民共和国との合併を公式に宣言。国名を「タンザニア連合共和国」に改めた。

・1967年、ニエレレ大統領がアルーシャ宣言に署名。これには社会主義の原則と政府の役割が記されており、タンザニアは社会主義国家を目指し多くの企業や銀行を国有化した。

<アルーシャ宣言の要点(抜粋)>
1.すべての人間は平等であること。
2.すべての市民は尊厳と尊敬の権利を有す。
3.すべての市民は不可欠な存在であり、地方、地域、国レベルで政府に平等に参加する権利を与えられる。
4.すべての市民はありとあらゆる権利を認められる。
5.すべての市民は法律に従って自分の生命と財産の保護を社会から受ける権利を与えられる。
6.すべての市民は労働の正当な見返りを受け取る権利を与えられる。
7.すべての市民は国のすべての天然資源を所有し、経済的正義を確保し、国家は主要な生産手段をすべての市民のために効果的に管理しなければならない。

企業の国有化によって体系的な腐敗と汚職の基盤が築かれ、政治家は巨額の賄賂で私腹を肥やした。一方、経済は右肩下がりで縮小し、市民の生活も急速に悪化した。

・1977年4月25日、憲法改正。

・1978年10月9日、ソビエトの支援を受けるウガンダ軍がタンザニアへの侵攻を開始。

・1978年10月9日、ウガンダ・タンザニア戦争勃発。

・1979年4月11日、タンザニア軍がウガンダの主要都市を占領。イディ・アミン独裁政権を打倒した。

・1979年6月3日、ウガンダ・タンザニア戦争終結。タンザニアの勝利。

<ウガンダ・タンザニア戦争>
・両軍戦闘員:約20万人(推定)
・両軍負傷者:10,000~20,000人(推定)
・両軍死亡者:5,000~7,500人(推定)
・民間人死亡者:15,00~20,00人(推定)

・1985年10月、アリ・ハッサン・ムウィニが新大統領に就任。ニエレレは与党のリーダーに就任した。

・1990年、ザンジバルの野党連合が独立に向けた国民投票を政府に要求。野党党首は社会主義のイデオロギーがタンザニアとザンジバルの経済を破綻させたと主張したが、政府はこれを無視した。

・1995年、大統領選挙。ムウィニ大統領の後任、ベンジャミン・マカパが野党候補に大差をつけ大統領に就任した。ザンジバルの市民は選挙結果に異議を申し立てたが、政府はこれを却下し、反抗的な抗議者35人を殺害した。

・1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームの米国大使館がほぼ同時に爆破され、200人以上が死亡した。首謀者はアルカイダのオサマ・ビン・ラディンとエジプトのジハードテロ組織など。

・2004年12月、スマトラ沖地震の津波が沿岸エリアに到達し、11人が死亡した。

・2005年12月、大統領選挙。与党のジャカヤ・キクウェテが圧勝した。

・2008年5月、ザンジバル島で大規模な停電が発生。完全復旧まで3カ月以上かかった。

・2015年12月、大統領選挙。与党のジョン・マグフリが第5代大統領に就任。

・2020年10月、大統領選挙。マグフリ大統領が再選を果たす。

・2021年3月17日、マグフリ大統領死去。政府は心不全で亡くなったと発表したが、野党関係者はコロナウイルスで死亡したと主張している。

・2021年3月19日、サミア・スルフ・ハッサン副大統領が初の女性大統領に就任

文化(目次に戻る

・少数民族の文化はほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。

・西側の文化を積極的に取り入れている。

・料理は先住民族グループによって大きく異なり、タンザニア料理というカテゴリーでまとめることは困難。

・主食は米。主菜はトウモロコシ、肉、魚全般、キャッサバ、ホウレンソウ、バナナなど。

・最大の都市ダル・エル・サラームではインド料理が人気。

タンザニア連合共和国/子供たち

スポーツ(目次に戻る

・一番人気はサッカー。

・その他の人気スポーツはラグビー、クリケット、ラグビー、バスケットボール、陸上競技、ネットボールなど。

・オリンピックでのメダル獲得数は2個。(銀:2個)

・冬季オリンピックに出場したことはない。

・スポーツ人口は年々増加しており、今後の成長に期待。

その他(目次に戻る

2021年3月19日に初の女性大統領が誕生した

・現政権は汚職の撲滅、市民ファースト、社会民主主義を推進している。

2021年3月19日/タンザニア、ダル・エス・サラーム、サミア・スルフ・ハッサン大統領(AP通信)
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