目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:スーダン共和国(Republic of Sudan)
首都:ハルツーム(Khartoum)
人口:45,561,556人(2021年推定)
面積:1,846,972㎢(日本の5倍)
気候:砂漠気候(南部は熱帯サバナ気候)
・雨季は10月~1月。
・乾期は2月~9月。
・気温は地域によって大きく異なる。
・北部の砂漠エリアの年間降雨量はほとんどの地域で100~150mm程度。
・北部は乾燥しており、昼夜の気温差が大きい。(夏の最低10~15℃、最高38~45℃)
・南部の年間降雨量は500~700mm。
・南部の気温は1年を通して安定している。(最低:15~23℃、最高:31~38℃)
・観光に最適な時期は12月と1月。
・日差しが強いため、夏場でも長袖長ズボンをおすすめする。半袖、ハーフパンツ、ミニスカートはやめた方がよい。
経済:
・開発途上国
・GDPは333億ドル(2019年推定)
・主要産業はサービス業と農業。
・人口の約50%が貧困ライン以下の極貧生活を送っている。
・労働者の約80%が農業産業(主に自給自足)で働いている。
・1999年から原油の輸出を開始した。
・2006年の経済成長率は10%以上。過去最高を更新した。
・主要輸出品は石油、石油製品、金、ゴマ、綿、砂糖など。
・石油の輸出に大きく依存している。(輸出収入の80~95%)
・主要輸出パートナーはUAE(56%)、エジプト(15%)、サウジアラビア(9%)。
・主要輸入パートナーはUAE(13%)、エジプト(11%)、インド(10%)。
・世界最大規模の対外債務(2017年時点で約570億ドル)に悩まされており、国際金融機関との関係は1990年代半ばに急速に悪化して以来、改善されていない。
・アメリカとの貿易は1997年以来停止している。(テロ支援国家指定は2020年末に解除)
人種(民族):
・アラブ人 70%(推定)
・フール人
・ベジャ人
・ヌバ人
・ヌビア人
言語:
・アラビア語(公用語)
・英語(公用語)
・ヌビア語
・ベジャ語
・その他の言語
宗教:
・イスラム教(主にスンニ派)97%(推定)
・先住民族の宗教 1.5%
・キリスト教 1.5%
スーダン共和国
政治(目次に戻る
最高評議会議長:アブドゥルファッターハ・アブドッラフマーン・ブルハーン(Abdel Fattah al-Burhan)
首相:アブダッラー・ハムドゥーク(Abdalla Hamdok)
政治体制:共和制
・1989年の軍事クーデターで国は8つの地域に分割された。
・2019年の軍事クーデターで民主政権は打倒され、暫定軍事評議会が発足した。
・議会は2019年の軍事クーデターで解散した。任期は6年だった。
・最高意思決定機関は軍人で構成される暫定立法評議会。
・暫定軍事評議会は2022年に解散し、民主的な選挙で大統領と議員を選出する予定。
法律:スーダン共和国の憲法(暫定運用)
・シャリーア(イスラム法)に基づいている。
・最高裁判所と特別革命裁判所を設置しているが、機能していない。
・事件や事故は示談もしくは決闘で解決する。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・渡航中止勧告発令中(2021年4月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2021年4月時点)
治安:悪い
・近年テロ事件は発生していない。
・ナイジェリアなどで活動するイスラム過激派組織「ボコ・ハラム」が国内に潜伏している可能性がある。
・イスラム国(IS)とつながりのあるジハード組織が活動している。
・2019年に暫定統治政府が設立して以来、治安は少しずつ改善している。
・エチオピアおよびリビアとの国境付近は危険地帯。
・各地で散発的な衝突や紛争が報告されている。
・流しのタクシーに乗車してはいけない。
・高級腕時計や貴金属類は身につけない方がよい。
・市場に銃や爆弾が大量に流通している。
・南部で主に活動している反政府組織との和平交渉は停滞中。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は少なくとも25社。
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局はない。
・カタールの衛星テレビ局、アルジャジーラの支局がある。
・民間ラジオ局は数十局あると伝えられている。
・報道と言論の自由を保障しておらず、政府に批判的な記事を書くことは禁じられている。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネット普及率は低い。
・検閲は厳しい。
【国営メディア/設立年】
・スーダン国立放送公社 1963年
【民間メディア】
・アルジャジーラ(カタール)
軍隊(目次に戻る
2021年軍事力ランキング:77位
・軍人数:210,000人(推定)
即戦力 105,000人
予備兵 85,000人
準軍組織 20,000人
・陸軍と空軍を保有。
・国防予算:40億ドル(推定)
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代、現在のスーダン共和国と周辺地域はイスラム王朝の領土だった。
・土地と宗教を支配したイスラム王朝の最大の脅威は、ヨーロッパから持ち込まれたキリスト教だった。
・1710年代、各地でキリスト教に改宗する王朝や部族が現れたため、スーダンの王朝はそれに対処する戦いを開始した。
・1720年代、キリスト教王朝に対するクーデターや紛争が各地で発生した。なお、スーダンはキリスト教の侵入を阻止し、イスラム化(アラブ化)を推し進めることに成功した。
・1750年代、キリスト教勢力は各地で猛威を振るい、多くの国の指導者がイスラム教からキリスト教に改宗した。
・1780年代、スーダンの王朝は国内のイスラム化をほぼ確立し、キリスト教や他の宗教の信者(改宗に応じない者)をひとり残らず処刑したと伝えられている。
1800年代
・1820年、オスマン帝国がスーダン北部を含む周辺地域を征服し、支配下に置いた。
・オスマン帝国は新しい市場と天然資源の開拓を目指し、各地の住民を奴隷として雇った。
・1840年代、イギリスの宣教師が現在のケニア、エチオピア、スーダンに進出し、キリスト教を広めようとした。
・1850年~1870年、オスマン帝国はスーダン北部(特に)のインフラを大幅に改善し、紅海沿岸には港湾都市を建設した。
・1881年、イスラム教の指導者ムハンマド・アフマドはスーダン西部と中央部の部族を統一するための戦いを開始し、オスマン帝国の自治政府軍と各地で戦闘を繰り広げた。
・1885年1月、ムハンマド・アフマドはオスマン帝国側についた王朝と部族を次々に滅ぼした。これにオスマン帝国の自治政府は激しく反発し、反乱軍に加担する民間人数万人を虐殺したと伝えられている。
・1885年6月、ムハンマド・アフマドの後継者、アブダッラー・ヒイブン・ムハンマドは支配地域を現在のエチオピアまで拡大した。
・1890年、オスマン帝国自治政府軍はアフリカ北部の一部地域を支配下したイギリスに支援を要請した。
・1898年、イギリス・エジプト連合軍はアブダッラー・ヒイブン・ムハンマド率いるイスラム勢力を打ち払い、スーダンを含む周辺地域の占領を宣言した。
・1899年、イギリス議会がスーダンを含む周辺地域の植民地化を公式に宣言した。(イギリス・エジプト領スーダン誕生)
・イギリスは現在のスーダンのほぼ全域を支配下に置いたが、北部と南部の一部の州はどこの国にも属さない土地として管理した。
1900年~第一次世界大戦
・スーダンは第一次世界大戦に関与していない。
・1900年代初頭、イギリスの植民地下に反対するイスラム勢力は各地で戦闘を継続したが、イギリス軍の近代的な武器に手も足も出なかった。
・1905年、イスラム教指導者、スルタン・ヤンビオは、北部コルドファン地域の奪還作戦を諦め、無法状態を終結すると宣言したが、イギリス自治政府の支配は決して認めなかった。
・1910年、イスラム教指導者らによる自治政府への抵抗とナショナリズムは激しさを増し、イギリスは独立した組合の組織を認めざるを得なくなった。
・1914年、スーダンを含む一部地域を支配していたオスマン帝国がアフリカから撤退したため、イギリス議会はエジプト王朝のフセイン・カーミルをスーダンの支配者にすると宣言した。
・スーダンのイスラム教指導者たちはエジプト王朝の支配を拒否し、各地で独立を求める暴動や紛争を展開した。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・スーダンは第二次世界大戦に関与していない。
・1920年代、イギリスはスーダン北部のインフラ強化と経済発展に注力し、南部の統治はオスマン帝国時代の流れを継承した。
・1922年、南部を事実上支配していたイスラム教勢力はキリスト教宣教師の受け入れを拒んだが、イギリス軍の圧力に屈した。
・イギリスは英語、ディンカ語、バリ語、ヌエル語、ラトゥコ語、シルック語、アザンデ語、パリ語を南部の公用語に指定した。一方、北部で公用語と認められた言葉は英語とアラビア語だけだった。
・1930年、イギリスは北部の支配を確立するために、ハトミー教団の長であるサイード・アリ・アル・ミルガニとアンサール教団の長、サイード・アブド・アル・ラーマン・アル・マーディと手を組んだ。戦後、アンサール教団は「ウンマ党」、ハトミー教団は「民主統一党」に名を改める。
・1943年、イギリスは北部の自治政権設立準備を開始し、ハルツーム州、コルドファン州、ダルフール州、東部地域、北部地域、青ナイルの6つの州の独立統治を協議する北スーダン諮問委員会を設立した。
終戦~現在
・1946年、イギリス政府は北部の自治政権設立の方針を見直し、北部と南部をひとつの政府に統合することに決めた。
・1947年、南スーダンを事実上支配していた統治者たちは、北部との統一政府樹立に強く反発した。
・1948年、イギリス政府によって任命された北部の13人の代表者が南部地域を含む統一スーダンを統治することになった。
・1953年、イギリス議会は統一スーダンに新しい政府機関の役職を約800人配置した。なお、役職者の99%以上は北部の代表者が占め、南部に与えられた職は4つだけだった。
・南部の政治構造は北部のように組織化されていなかったため、南部の政治団体や政党は近代国家を確立したさまざまな会議や会談に参加できなかった。その結果、多くの南部人は北部の政府当局の自治を認めなかった。
・1955年8月、第一次スーダン内戦勃発。(イギリス領スーダンvs南部の反逆者、盗賊、分離主義勢力)
・1956年1月1日、「統一スーダン共和国」が独立を宣言。イスマーイール・アル・アザリが初代首相に就任したが、南部の反逆者たちはこれを認めず、民間人の虐殺を開始した。
・アル・アザリ首相は連邦制度を導入すると南部の市民に約束していたが、反逆者の宣戦布告を受け、約束を却下した。
・1958年、軍事クーデター発生。イブラヒム・アブード少将は無血クーデターでアル・アザリ首相と議会を打倒した。その後、アブード少将は統一スーダンを文民政府に返還するという約束を無視し、軍事政権を確立した。
・1964年10月、軍事政権に反対する全国規模の暴動とストライキが発生し、アブード少将は軍事政権を解散した。これに伴い、ウンマ党と全国連合党が文民政府を設立すると宣言し、ムハンマド・アフマド・マジューブが暫定首相に就任した。しかし、南部の反逆者たちは文民政府を認めず、各地で民間人の大虐殺を継続した。
・1965年4月、議会選挙。マジューブ暫定政権は有効票の大多数を獲得したと宣言したが、南部の反逆者たちはこの主張を却下し、戦闘を継続した。
・1966年~1969年、マジューブ首相は議会を設置できず、憲法も南部勢力に却下され、派閥主義、経済の停滞、民族間の差別問題に悩まされ続けた。
・1969年5月25日、軍事クーデター発生。ジャーファル・ムハンマド・ニメイリー大佐はマジューブ首相を追放し、暫定議会を廃止し、全ての政党を非合法化した。
・1969年5月26日、統一スーダン共和国は廃止され、北スーダンと南スーダンに分裂した。
・1971年7月19日、軍事クーデター発生。スーダン共産党はニメイリー大佐を追放し、「統一スーダン人民共和国」の設立を宣言した。
・1971年7月22日、軍事クーデター発生。反共産主義者はスーダン共産党を打倒し、統一スーダン人民共和国は廃止され、ニメイリー大佐率いる軍事政権は権力奪取に成功した。
・1972年3月、第一次スーダン内戦終結。アディスアベバ協定により、南部スーダン自治区が設立された。
<第一次スーダン内戦>
・両軍参加者:60,000~85,000人(推定)
・両軍負傷者:不明
・両軍死亡者:不明
・民間人死亡者:50万~150万人(推定)
・スーダンは武器の供給をさまざまな国に依存していた。独立以来、スーダンの兵士はイギリス軍の教育を受け、兵器を供給されていたが、1967年の第三次中東戦後、両国の関係は破綻した。なお、この時、アメリカと西ドイツとの武器供給契約も断ち切られた。
・1970年代、西側諸国は北スーダン(スーダン共和国)との武器取引を再開し、アメリカは1976年頃から兵器を軍事政権に提供し始めた。
・1970年代後半、アメリカのロナルド・レーガン大統領は北スーダンとの関係を強化し、軍事援助プログラムに数億ドルを投資した。
・1983年6月、第二次スーダン内戦勃発。(北スーダン連合軍vs南スーダン人民防衛連合軍)
・1983年~1984年、西部で深刻な干ばつが発生し数百万人が飢餓に直面したと伝えられているが、軍事政権はメディアの取材を許可せず、犠牲者の数は明らかにされていない。
・1985年3月、生活必需品の価格が大幅に引き上げられた結果、全国各地で大規模な抗議活動が発生した。
・1985年4月、8つの組合は「軍事政権が廃止されない限りゼネストを続ける」と宣言し、北スーダンの経済は麻痺した。これを受け、ニメイリー大佐はエジプトに逃亡した。
・1985年4月6日、アブド・アッラフマン・シワル・アド・ダハブ中尉率いる軍将校グループが、エジプトに避難したニメイリー大佐を打倒し、北スーダン暫定軍事評議会(TMC)を創設した。
・1986年、ウンマ党、民主統一党、民族イスラム戦線は連立政権を組み、サディク・アルマハディが首相に就任した。しかし、アルマハディ首相は北スーダンをまとめることに失敗し、約1年後に解任され、議会は解散した。
・1989年、北スーダンと南スーダンは戦争の終結に向けた協議を開始した。
・1989年8月、軍事クーデター発生。オマル・アルバシールは北スーダンの統一と軍事政権の樹立を宣言し、首相兼大統領に就任した。
・1990年~2000年、第二次スーダン内戦は400万人以上の南部人を追放し、一部はジュバなどの南部の都市に逃げ込んだと伝えられている。また多くの市民はエチオピア、ケニア、ウガンダ、エジプト、その他の近隣諸国に逃げ込み、支援を求めた。しかし、隣国に逃亡した市民は仕事に就くことを許可されず、爆発的な栄養失調と飢餓を引き起こした。南部への投資の欠如は、教育、医療サービス、インフラ、雇用、経済に致命的なダメージを与え、専門家は一連の内戦で死亡したと信じられている数百万人を「失われた世代」と呼んだ。
・2003年、スーダン解放軍(SLM)と正義と平等運動の新たな反乱(JEM)が北スーダン軍への攻撃を強化し、一連の戦闘に巻き込まれた民間人数万~数十万人が死亡した。
・2003年2月、ダルフール紛争勃発。(北スーダンvsスーダン革命戦線vs国連平和維持軍)
・2004年4月、北スーダンと一部の反政府勢力が人道的停戦協定に合意。しかし、戦闘は一向に収まらず、アフリカ連合(AU)主体の連合軍が現地に派遣された。
・2005年1月、第二次スーダン内戦終結。両軍は包括的和平合意と東部スーダン和平協定に署名した。平和条約の条件は次の通り。
1.南スーダンは6年間自治権を維持し、その後、独立に向けた国民投票を行う。
2.独立国民投票が否定的な結果に終わった場合、北スーダンと南スーダンは統一される。
3.石油の輸出収入は南北で均等に分配する。
4.南が独立するまでの間、仕事の割合も均等に分割する。
5.イスラム法は北スーダン限定。南の憲法は新しく選出された議会が決定する。
<第二次スーダン内戦>
・両軍参加者:数十万人
・両軍負傷者:不明
・両軍死亡者:不明
・民間人死亡者:100万~250万人(推定)
・2006年8月、国連安全保障理事会は決議1706を全会一致で可決し、ダルフールに平和維持軍17,300人を派遣することが決まった。しかし、北スーダンはこれに強く反対し、国連主体の平和維持軍の派遣は取り消された。
・2009年、国際刑事裁判所はアルバシール大統領の逮捕状を発行したが、北スーダンはこれを却下した。
・2010年2月、ダルフール紛争を終結させる停戦協定発効。
・2011年7月9日、南スーダン共和国が独立を宣言。スーダン共和国のアルバシール大統領は独立を承認したが、北と南の間で争われていた領土問題の影響で戦闘が再燃し、ダルフール紛争の和平協定は破綻した。
・2018年12月、アルバシール大統領の政策に反対する抗議活動が全国各地で発生した。
・2019年4月、爆発的な抗議活動に直面したアルバシール政権は転覆し、アルバシール大統領は逮捕された。
・2019年7月、暫定政府設立。
・2019年8月、暫定憲法施行。アブドゥルファッターハ・アブドッラフマーン・ブルハーンが最高評議会議長に就任した。
・2019年8月21日、アブダッラー・ハムドゥークが首相に就任した。
・2020年後半、エチオピアのティグライで大規模な紛争が発生し、スーダン共和国に数万人のエチオピア人が避難した。
<ダルフール紛争>
・参加者:数十万人
・負傷者:不明
・死亡者:不明(国連軍は235人死亡)
・民間人死亡者:30万人(推定)
・民間人避難民:285万~300万人(推定)
文化(目次に戻る
・アラブとアフリカの文化が入り混じっている。
・先住民族グループは500以上と伝えられているが、ほとんど文書化されておらず、分からないことが多い。
・軍事政権時代に多くの文化人が追放された。
・男性は先住民族の服か西洋の服を着用している。
・女性はシャリーアに抵触しないロングドレスを着用。ズボンを履くことは禁じられており、違反した者はむち打ちの刑に直面する。
スポーツ(目次に戻る
・人気スポーツは陸上競技とサッカー。
・サッカー代表チームは、1970年のアフリカネイションズカップで優勝した。
・国内サッカーリーグは高い人気を誇っている。
・オリンピックでの獲得メダル数は1個(銀:1個)
・2008年の北京五輪でイスマイル・アハメド・イスマイルがスーダン史上初のメダルを獲得した。
・冬季オリンピックに出場したことはない。
その他(目次に戻る
・ダルフール紛争が終結する見通しは立っていない。