サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦

  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

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国名:サハラ・アラブ民主共和国(Sahrawi Arab Democratic Republic)

自称首都:ラユーン(Laayoune)
臨時首都:ティファリティ(Tiffality)

人口:10万~40万人(2019年推定)

面積:266,000㎢(本州の1.2倍)

気候:砂漠気候
・年間降雨量は地域によって多少異なるが、おおむね0~50mm。
・沿岸地域は比較的過ごしやすく、内陸部は暑い。
・砂嵐が発生する。
・首都ラユーンの夏場の最低気温は17~22℃、最高は28~32℃。
・首都ラユーンの冬場の最低気温は13~15℃、最高は22~25℃。

・内陸の砂漠エリアはとても暑いが、夜になるとかなり冷えるため、体調管理に注意が必要。
・天気は1年を通して安定している。
・観光におすすめの時期は12月~2月。

経済:
・開発途上国
GDPは不明
・主要産業はサービスと農業。
・政府(サハラ人民解放軍/ポリサリオ戦線)は輸出と輸入に関与していない。
・国内の食料供給はモロッコ政府が輸入した商品に頼っていると伝えられている。
・貿易および経済活動はモロッコ政府の管理下に置かれている。
・主要農作物は果物と野菜。ラクダ、羊、山羊は遊牧民によって飼育されている。

・住民の大多数は貧困ライン以下の生活を送っている。

人種(民族):
・アラブ人
・ベルベル人
・その他

言語:
・アラビア語(公用語)
・スペイン語(公用語)
・ベルベル語
・フランス語

宗教:
・スンニ派イスラム教徒99.99%(CIAワールドファクトブック)
・その他0.01%

西サハラ

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最高司令官:ブラヒム・ガリ(Brahim Ghali)
大統領:ブラヒム・ガリ(Brahim Ghali)
首相:ムハンマド・ワリ・アケイク(Mohamed Wali Akeik)

政治体制:一党独裁体制
・国連非加盟国。
・アフリカ連合加盟国。
・最高司令官兼大統領はサハラ人民解放軍(ポリサリオ戦線)のブラヒム・ガリ。
・サハラ国民評議会(ポリサリオ戦線)の議員定数は53人。
・普通選挙は行っていない。
・政府および地方自治体はまともに機能していない。
・西サハラの石油資源がモロッコとの政治的緊張の源になっている。
・国連難民高等弁務官事務所や非政府組織(NGO)が難民キャンプで継続的に活動している。
・モロッコとの統一に向けた交渉が進展する見通しは立っていない。

法律:サハラ・アラブ民主共和国の憲法
・1976年に公布され、何度か改正されている。
・権力分立を規定している。
・イスラム教を国教に定めている。
・言論の自由と財産権を保障している。
・国内に裁判所はあると伝えられているが、公正な
裁判が行われているかどうかは不明。
・男性のプライバシーを侵害したり、名誉に反して行動をしたり、身体的または道徳的な暴力、または尊厳を攻撃することは禁じられている。
・女性の権利は保障されていない。
・死刑を禁止しているが、サハラ人民解放軍は処刑(主に銃殺)を多用している。
・国家奉仕は義務であり、市民はモロッコとの戦争を含む全ての行為に従う必要がある。

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/ブラヒム・ガリ最高司令官

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渡航情報:
外務省ホームページ
・退避勧告発令中(2021年5月時点)
コロナウイルス注意情報発令中(2021年5月時点)

治安:極めて危険
・世界で最も危険な地域のひとつ。
・イスラムジハード組織が活発に活動している。
・イスラム国(IS)関連組織が活発に活動している。
・砂の壁(モロッコ軍の防壁)周辺は極めて危険。
・モロッコ側(西)から入国することはできない。
・モーリタニア側(東)から入国することは可能と考えられているが、銃殺される可能性は否定できない。
・砂の壁の往来は極めて危険で、モロッコ軍もしくはイスラムジハード軍に射殺される可能性が高い。
・国境付近には地雷が埋められている。
・1991年以来、国連の監視下に置かれている。
・首都ラユーンの治安は他の危険地域に比べると安定しているが、強殺、殺人、強盗、誘拐、強姦などが多発しているため、注意が必要。

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・新聞社は数社活動していると信じられている。
・国営テレビ局は2社。
・民間テレビ局はない。
・国営ラジオ局は数局活動している。
・民間ラジオ局はないと伝えられているが、違法放送を行っている団体がいくつかある。
・報道と言論の自由を保障しているが、サハラ人民解放軍(ポリサリオ戦線)に否定的なジャーナリストと家族は極めて危険な状況に置かれると伝えられている。
・主要メディア媒体はラジオ。
・インターネットの普及率は低い。
・モロッコのテレビおよびラジオを受信できる。
・検閲はないと伝えられている。

【国営メディア/設立年】
・サハラプレスサービス 1999年
・RASD TV 2009年

【民間メディア】
・ー

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2021年軍事力ランキング:ー位

・軍人数:50,000人(推定)
  即戦力 7,000人
  予備兵 13,000人
  準軍組織 30,000人

・サハラ人民解放軍(ポリサリオ戦線)を保有。
・ティンダフ収容所の難民(男女)は18歳で軍事訓練を受けるため、準軍組織の正確な数は不明。

・国防予算:不明(推定)

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/ポリサリオ戦線の戦闘員

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1700年代

・1700年代、現在のサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)は主にベルベル族の支配下に置かれていたが、他の民族グループも一定の支配権を持っていたと伝えられている。

・ベルベル族はサハラの主要なオアシス集落を支配し、サハラ奴隷貿易で重要な役割を果たした。言い伝えによると、ベルベル族は物資やラクダを提供しながら、自分たちの土地を通る商人などに重税を課していたという。

・西サハラの大部分を支配したベルベルアラブ人は現在、サハラウィー族と呼ばれている。

1800年代

・1800年代、ヨーロッパの強国がアフリカでの影響力を強め、フランスはチュニジアとイギリスが支配していたエジプトを力づくで奪い取った。一方、イタリアは現在のエリトリアの一部を占領し、ドイツはトーゴ、カメルーン、南西アフリカを保護領にすると宣言した。

1884年、ベルリン会議に参加した14ヵ国は、アフリカの領土の分割に合意した。これにより、西サハラはスペインの植民地になることが決まった。

・1886年、モロッコのハッサン1世は西サハラの領土を守るためにスペイン軍と戦ったが、打ちのめされた。

・1898年、スペインの経済は米西戦争の影響で著しく悪化し、王国はスペイン領サハラをオーストリア・ハンガリー帝国に売却しようとした。

・スペインは米西戦争の損失の補填を望み、オーストリア・ハンガリー帝国の一部の大臣は海軍を拡大するために新たな植民地を手に入れたいと考えていた。しかし、ハンガリーの貴族院は西サハラの購入を拒否した。当時、オーストリア・ハンガリー帝国は、オーストリアとハンガリーが財政および外交政策の問題を共同で管理する二重君主制として運営されており、オーストリア人はハンガリーの貴族院の購入却下を覆すことができなかった。

1900年~第一次世界大戦

・サハラ・アラブ民主共和国は第一次世界大戦に関与していない。

・1910年代、サハラウィー族はアフリカ北西部で影響を拡大していたフランス軍に対する反乱を各地で展開した。

・1912年、モロッコがスペインとフランスの保護領になった。

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/難民キャンプ

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・サハラ・アラブ民主共和国は第二次世界大戦に関与していない。

・1934年、西スペインとフランスの合同軍はサハラウィー族のゲリラ部隊を打倒し、20年以上続いたゲリラ戦はようやく沈静化した。その後、西サハラはスペインの州に組み込まれ、「スペイン領サハラ」と呼ばれるようになった。

・1940年代初頭、サハラウィー族を含むゲリラ軍は第二次世界大戦の混乱に乗じてスペイン自治政府に攻撃をしかけたが、領土を奪取することはできなかった。

終戦~現在

・1957年~1958年、イフニー戦争(スペイン・フランス連合vsモロッコ解放軍)の混乱は西サハラに拡大し、民族主義者たちはスペインからの独立を求め各地で武装蜂起した。

・1960年代、立憲君主制の打倒を呼びかけるナショナリズムが出現し、完全なる独立と社会主義を主張するサハラウィー族のゲリラ部隊が初めて西サハラに定住した。

・1967年、サハラウィー族とその他のイスラム原理主義組織で構成されるサギア・エル・ハムラとワディ・エル・ダハブの解放運動(حركةتحرير)がスペイン軍に対する攻撃を開始した。

・1970年6月16日、サハラウィー族のゲリラ勢力とサギア・エル・ハムラとワディ・エル・ダハブの解放運動はスペイン自治政府への攻撃を本格化させた。

・1970年6月17日、スペイン軍は独立を求めるサハラウィー族の暴動に参加した民間人数千人を厳しく取り締まり、市民11人を射殺し、数百人を逮捕した。

・1972年、スペインは西サハラの広大な領土の支配権を保持することができず、サハラウィー族のゲリラ部隊を野放しにした。

1973年、ポリサリオ戦線結成。民族主義者たちはサハラウィー族の唯一の代表を名乗り、地位を確立した。

・1973年~1974年、スペインはフランシスコ・フランコ総督の健康状態が悪化した影響で混乱に陥り、政府はサハラ紛争から抜け出す方法を模索した。

1975年6月、モロッコのハッサン王がハーグの国際司法裁判所にポリサリオ戦線との領土問題を提起した。判事は一部の部族はモロッコの統治者に忠誠を誓ったと認定したが、住民たちは自己決定を通じて主権問題を解決することを許可されていると判決を下した。これを受け、スペインは領土問題の是非を問う国民投票の準備を開始した。

・1975年10月30日、西サハラ戦争勃発。(モロッコ・モーリタニア連合軍vsポリサリオ・アルジェリア・リビア・北朝鮮連合軍)

・1975年10月31日、モロッコは西サハラに軍隊を派遣し、ポリサリオ戦線への攻撃を開始した。この時、スペインとモロッコ間の公の外交は続いており、モロッコ政府は領土の主権を回復するようスペインと国際社会に圧力をかけていた。

・1975年11月6日、モロッコのハッサン王は推定35万人の非武装のモロッコ人による「緑の行進」を推奨した。モロッコ人たちは南部タルファヤ市に集結し、ハッサン2世の合図で西サハラに入ったため、スペインはモロッコの要求に応じて本格的な二国間交渉を開始した。

・1975年11月14日、スペインは西サハラの管理をモロッコと隣国モーリタニアに移管するマドリッド協定に署名し、西サハラを放棄した。モロッコはサハラウィー族に相談することなく協定を締結したため、ポリサリオ戦線は激しく反発し、領土を奪い取ると宣言した。

・1976年2月26日、スペインはラーユーヌで開かれた式典でモロッコとモーリタニアに西サハラの行政権を譲渡した。

・1976年2月27日、アルジェリアとリビアの支援を受けるポリサリオ戦線はスペイン軍の撤退を見届け、アルジェリアに拠点を置く亡命政府とともに「サハラ・アラブ民主共和国(SADR)」の設立を宣言した。

・1976年2月28日、モロッコ政府はSADRの宣言を却下し、ポリサリオ戦線を打倒すると宣言した。

1979年、モーリタニアはポリサリオ戦線との和平協定に署名し、西サハラの領土の一部をポリサリオ戦線に明け渡したうえで、サハラウィー族に対するこれまでの主張を全て放棄すると約束した。

・1980年、モロッコ軍はモーリタニアが放棄した領土を併合し、ポリサリオ戦線に統一交渉を開始するよう強く要求したうえで、戦争で継続した。

・西サハラ戦争は砂の壁(モロッコの壁)の建設に伴い、膠着状態に陥った。その後も散発的な戦闘が各地で続いたが、モロッコは壁に沿って構築した大規模な軍隊配備の経済的コストに直面した。モロッコの財政状況はサウジアラビア、フランス、アメリカからの援助である程度回復したが、戦争を継続することは難しくなった。

・1984年、アフリカ統一機構(OAU)に加盟。モロッコはこれに強く反発し、OAUから脱退した。

1991年9月、西サハラ戦争終結。国連の仲介を受け、ポリサリオ戦線とモロッコは停戦に合意し、停戦を監督する国連平和維持ミッションが設立された。なお、統一の是非を問う国民投票は1992年1月に予定されていたが、住民の大多数が公正な選挙にアクセスできないと判断され、中止(延期)が決まった。

西サハラ戦争
・両軍参加者:45万~50万人(推定)
・両軍負傷者:数万人
・両軍死亡者:数千~数万人
・民間人死亡者:数千~数万人
・40,000~80,000人(推定)のサハラウィー人が国外に追放された。
モロッコは領土の75%、ポリサリオ戦線は25%を支配した。

2001年、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がモロッコの主権下におけるポリサリオ自治政権の設立を提案した。しかし、ポリサリオ戦線とアルジェリアはこの提案を却下し、誤った併合を試みる動きには武力で対抗すると宣言した。

・2003年、国連はSADRを最大5年間の移行期間を経てモロッコの半自治州にしたうえで、移行期間後、独立、半自治、もしくはモロッコとの統一を問う国民投票を行うと提案した。ポリサリオ戦線はこの提案を承認したが、モロッコ政府は領土の主権は決して放棄しないと主張し、提案は却下された。

・2006年10月、モロッコはポリサリオ戦線とSADRを支持する国連の人権記録を却下し、国際社会にテロリストに圧力をかけるよう要求した。

・2006年12月、モロッコの諮問委員会は、SADRの自治州入りを認めると政府に提案したが、ポリサリオ戦線はこの提案を却下し、「一方的な要求を押しつけるようであれば、独裁立憲君主制国家を粉々に破壊する」と警告した。

・2007年4月10日、ポリサリオ戦線は国連安全保障理事会の会合で柔軟な平和計画を提案すると主張し、モロッコもこれを受け入れた。

・2007年8月11日、ポリサリオ戦線とモロッコは国連安保理が後援する会談で領土の在り方を議論したが、大きな成果を上げることはできなかった。

・2007年12月、モロッコはポリサリオ戦線が臨時首都のティファリティで軍事会議を開催しようとしていると主張し、国連に会議の開催を阻止するよう要請した。この時ポリサリオ戦線は、戦争の再開に向けた準備をするための提案を話し合う予定だったと伝えられている。

・2008年12月10日、ポリサリオ戦線はモロッコとの戦争を再開する提案を軍評議会に提案した。

・2008年12月12日、モロッコは国連に対し、ポリサリオ戦線のムハンマド・アブデルアズィーズ最高指導者に戦争の再開を阻止するよう要請した。

・2008年12月21日、ポリサリオ戦線は国連主導の交渉が失敗した場合、モロッコに宣戦布告する可能性があると主張した。

・2010年11月、モロッコの治安部隊は西サハラの難民キャンプに入り、ヘリコプターと放水砲を使ってサハラウィー人を強制退去させた。ポリサリオ戦線はこれに強く反発し、モロッコの治安部隊は非武装の民間人を殺害したと主張したが、モロッコはこの申し出を却下した。

・2016年5月31日、ポリサリオ戦線を率いてきたムハンマド・アブデルアズィーズ最高指導者が死去した。

・2016年7月12日、ブラヒム・ガリが最高指導者に就任。

・2020年11月13日、モロッコは西サハラの非武装地帯への軍事作戦を開始し、ゲルゲラット国境検問所近くの抗議者を一掃し、地域へのモロッコ人の往来を回復させた。これにポリサリオ戦線は強く反発し、モロッコの軍事作戦は1991年の停戦協定に違反していると非難したうえで国連に介入を促した。

・2021年1月23日、ポリサリオ戦線の戦闘員が、ゲルゲラット国境検問所のモロッコ警備隊にロケット弾を発射。死者は出なかったと伝えられているが、詳細は不明。

・2021年2月9日、ポリサリオ戦線はモロッコ南部ウアルクジズ地域で発生した攻撃に対処する最中、モロッコ軍の兵士3人を殺害したと発表した。

・2021年3月1日、国連はモロッコとサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の紛争に懸念を表明し、砂の壁周辺で散発的な戦闘が続いていると述べた。

・2021年4月8日、ポリサリオ戦線のアダー・アル・ベンディール戦線長がモロッコ軍のドローン攻撃を受け死亡した。SADRの国防省はベンディール戦線長の死を認めたうえで、AFP通信に情報を開示した。

・南アフリカやアルジェリアなどはポリサリオ戦線を支持し、モロッコは停戦協定に違反したと非難したうえで、国連に散発的な戦闘を終結させる新たな西サハラ特使を任命するよう要請した。

・アルジェリアは西サハラの難民に食糧60トンと医療物資を提供した。

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/難民キャンプの子供

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・イスラム教徒とモロッコの影響を強く受けている。

・1976年にモロッコからの独立を宣言したが、モロッコ政府と国際社会はこれを認めていない。

・現地の文化はほとんど文書化されておらず、謎に包まれている。

・男性は太っている女性を魅力的と信じている。

・主食は小麦と米。主菜はラクダ肉、山羊肉、羊肉、野菜全般、牛乳。

・伝統的なお茶「サハラウィー」は単なる飲み物ではなく、友達や家族と時間を共有する概念と考えられており、「1杯目は生命のように苦く、2杯目は愛のように甘く、3杯目は死のように柔らかい」ということわざがある。

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/女性たち

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・人気スポーツはサッカー、釣り、陸上競技。

・オリンピックに出場したことはない。

・サッカー代表チームはVIVAワールドカップに出場したことがある。なお、FIFAはVIVAワールドカップに関与していない。

・サッカー代表チームのホームスタジアムであるアイウンスタジアムはモロッコ政府の管理下に置かれている。

・国民の大多数はスポーツより日々の生活を重要視している。

その他(目次に戻る

世界で最も危険な国のひとつ

・政府と地方自治体はほとんど機能しておらず、経済活動はほぼモロッコ政府の管理下に置かれている。

・砂の壁周辺での戦闘は現在も続いており、国連は新たな戦争への発展に懸念を表明している。

サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)/首都ラユーン

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