オマーン国の国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・1700年代
  ・1800年代
  ・1900年~第一次世界大戦
  ・第一次世界大戦~第二次世界大戦
  ・終戦から現在

 文化

 スポーツ

 その他

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国名:オマーン国(Oman

首都:マスカット(Muscat)

人口:3,494,116人(2020年推定)

面積:312,460㎢(日本の0.8倍)

気候:砂漠気候
・雨はほとんど降らない。
・夏場(6月~9月)の最高気温は50℃近くまで上昇することもなる。
・空気が乾燥しているため、体感気温はかなり低く感じる。
・夏場でも夜は涼しい。(特に内陸部)
・3月~8月の間に吹く風(シャマール)は砂嵐を引き起こすことがある。
・雨は冬場に集中する。近年、ゲリラ豪雨が増えている。
・冬の平均気温は20℃ほど。非常に過ごしやすい。
・内陸の砂漠エリアは雨が降らず、極度に乾燥している。

経済:
・開発途上国
・石油の輸出に依存している(政府の収入の75%を占めている)。
GDPは約763億ドル(2019年)
・2006年にアメリカと米オマーン自由貿易協定を締結。
・国内の石油関連施設の60%は国営、40%は民間(主に海外企業)。
・石油・天然ガス依存からの脱却を目指し、経済多様化政策を進めている。
・主要産業は農業。ただし、自給自足のために行われており、農業関連の仕事に従事している者は人口の5%ほど。
・漁業、製造業、鉱業、観光業の成長に力を入れている。
・新たな天然ガスプロジェクトが計画されており、数百億ドル規模の投資が見込まれている。
・一人当たりのGDPは過去50年の間、緩やかに成長し続けてきた。
・防衛費に多額の予算を投じている。
・個人所得と財産に税はかからない。

人種:部族(民族グループ)で構成されている
・アラブ部族
・バルチ部族
・南アジア部族
・アフリカ部族

言語:アラビア語(公用語)
・英語
・バルチ語
・ウルドゥー語
・インドの言語 

宗教:国境はイスラム教
・イスラム教(85.9%)※2010年推定
・キリスト教(6.5%)
・ヒンドゥー教(5.5%)
・仏教(0.8%)
・ユダヤ教(0.1%)
・その他(1%)
・無宗教(0.2%)
憲法で信教の自由を認めており、宗教に基づく差別を固く禁じている

オマーン国

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国王:ハイサム・ビン・ターリク・アル=サイード(Haitham bin Tariq al-Saide)
首相:ハイサム・ビン・ターリク・アル=サイード(Haitham bin Tariq al-Saide)

政治体制:絶対君主制
・議会は二院制。政党を作ることはできない。
・上院議員71人は国王が任命する。
・下院議員は一般投票で選出されるが、最終決定権は国王が持っており、投票結果が簡単に覆る。
・議員は国王に助言する権限を持っているが、決定権はない。
立法、行政、司法の最終権限は国王に委ねられている
・国王の言葉は法律と考えられている。
・法律は王室が作り、発効する。
・司法権の独立という概念は存在しないため、王室に抵抗する勢力は厳しい罪を科される。

法律:オマーンの憲法
・シャリーア法に基づく。
・国王の意思が100%反映される。
・市民の自由と個人の自由は保護されているが、女性の権利は他の中東諸国と同じく保護されていない
・同性愛は違法。
・拷問文化が残っており、厳しい刑を受ければまず助からない。
・犯罪者に科される代表的な刑は、公開銃殺、死ぬまで殴打、屈辱、石打ち、水責めなど。
・国王と政府への批判は禁止。
・外国人との結婚には政府の承認が必要。
・国家人権委員会は政府から独立しておらず、最終決定権は国王が持っている。
・人権を訴えるグループは不当に逮捕、拷問、監禁、懲役刑を受け、活動を厳しく制限されている。

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渡航情報:
外務省ホームページ
・注意勧告は出ていない。(2020年10月時点)
・感染症注意勧告が出ている(コロナウイルスなど)

治安:良い
・治安は比較的落ち着いており、外国人への応対も良い。
・ここ数年、テロは発生していない。
・狂犬病や風疹(はしか)などに注意。
イスラム教に関連する抗議運動が発生した際は注意
・他の中東諸国に比べると治安は非常に良い。
・近年、イスラム過激派組織の活動は確認されていないが、国内に潜伏している可能性も否定できない。

オマーン国/首都マスカットのモスク

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・新聞、雑誌の発行には政府の許可が必要。
・国営テレビ局は1社。
・ラジオ局は数社、全て国営。
・インターネットは都市圏(首都マスカットなど)でのみ利用可能。
・インターネットの検閲は非常に厳しい。
報道の自由という概念は存在しない
・ジャーナリストになるためには、政府の許可を得なければならない。
・ジャーナリストの逮捕、監禁、拷問、失踪が問題になっている。
・国王と政府に否定的な記事や報道は禁止。
・名誉棄損は厳しく罰せられる。
・海外メディアの取材も検閲の対象。

【国営メディア/設立年】
・オマーンテレビ局 1974年

【民間メディア】
マジャンTVのみ

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2020年軍事力ランキング:75位

・軍人数:42,500人(推定)
  即戦力 42,500人
  予備兵 0人

・陸・海・空軍を保有

・国防予算:87億ドル

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1700年代

・18世紀以前、いくつかの国が現在のオマーンに該当する地域を攻撃、支配した。

・1500年代初頭から1650年までポルトガル王国の支配地だったが、オスマン帝国がこれを奪取、現在の首都マスカットとその周辺一帯を制圧した。

・1719年、サイフ・ビン・スルタン2世が「マスカット・オマーン」の統治者に指名された。

・1743年、ペルシャ帝国がマスカット・オマーンを占拠、スルタン2世は死去した。

・反乱軍がペルシア帝国の支配に激しく対抗、リーダーのアフマド・ビン・サイード・アル・ブサイディは、1749年にペルシア帝国を追放した。

・1749年、アル・ブサイディがマスカット・オマーンの新たな統治者(スルタン)に指名される。

・1783年、ブサイディ政権が2つに分裂。アル・ブサイディが死去。

・政権分裂後、「アフマド派」がマスカット・オマーンを事実上支配、海洋国家を目指す。

・一方、「カイス派」はアフマド派の支配を受け入れず、何度も反乱を起こした。

1800年代

・1806年、サイード・ビン・スルタン・アルサイードがマスカット・オマーンの統治者に指名される。

・1820年、アルサイード王がオマーン帝国の成立を宣言

・1832年、オマーン帝国は東アフリカ沿岸の奴隷・象牙・香辛料貿易の拠点だったザンジバルに首都を移転。全盛期を迎える。

・1856年、アルサイード王死去。後継者争いが始まる。

・1861年、激しい後継者争いの結果、オマーン帝国は「マスカット・オマーン地域」と「ザンジバル・オマーン地域」に分断される。(オマーン帝国崩壊)

・1868年、アッザーン・ビン・カイス・アルサイードがザンジバル・オマーン地域の統治者になったと宣言、国家統一を目指す。

・カイス・アルサイードは国家統一を目指し、内陸部族などに攻撃を仕掛けた。

・一方、マスカット・オマーン地域の統治者にはトゥルキ・ビン・サイードが指名される。

ビン・サイードはイギリスの支援を受け体制を強化、同じく国家統一を目指す

・1871年1月、イギリスの支援を受けたマスカット・オマーン地域軍がザンジバル・オマーン地域軍を打ち負かす。なお、両地域の戦いはその後もしばらく続く。

・マスカット・オマーンはイギリスといくつかの条約を締結、関係を構築する。

オマーン国/内陸部の広大な砂漠

1900年~第一次世界大戦

・マスカット・オマーン地域、ザンジバル・オマーン地域、いずれにも属さない反乱軍による争いが続く。

1908年、マスカット・オマーン地域とイギリスが友情の協定を締結

・内陸部で反乱軍の動きが活発化。

・1913年、イマーム・サリム・アルカルシが反乱を扇動、マスカット・オマーン地域軍との紛争に発展した。

・1919年、第一次世界大戦終戦。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

・マスカット・オマーン地域、ザンジバル・オマーン地域、反乱軍による争い、紛争は第一次世界大戦中も続いていた。

・1920年、イギリスの仲介を受け、マスカット・オマーン地域と反乱軍が和平に合意。(スィーブ条約)

・1923年1月10日、マスカット・オマーン地域は石油採掘の条件に関する合意に署名。これにより、マスカット・オマーン地域内の石油を採掘する場合は、インド高等裁判所の許可を得なければならなくなった。

・1928年、レッドライン契約締結。ロイヤルダッチシェル、エクソンモービルを含む4つの主要企業がアラビア半島一帯の石油採掘権を独占した

・1929年、アラビア半島一帯の石油を支配した4社がイラク石油会社(IPC)を設立。

・1932年2月10日、サイード・ビン・タイムールがマスカット・オマーン地域の統治者に就任。

・イギリスの支援を受けたタイムール王の治世は、封建的かつ孤立主義的と特徴づけられた。

・1937年、タイムール王はIPCと石油の採掘に関する契約に合意。これにより、マスカット・オマーン地域は石油の採掘権を失った。

・1945年、第二次世界大戦終戦。

終戦~現在

・1951年、イギリスがマスカット・オマーンを国家として認める。

・1954年、マスカット・オマーンの領土内で石油(採掘点)が発見される。

・1954年10月10日、石油をめぐるマスカット・オマーンと反乱軍の戦い、ジュベルアフダル戦争(オマーン戦争)が勃発する。

・マスカット・オマーンはイギリス軍の支援を受け、戦争を有利に進める。

・1959年1月30日、ジュベルアフダル戦争終結。マスカット・オマーンの勝利。

・1964年、マスカット・オマーンのドファールで新たな石油採掘点が発見される。

・石油発見後、1963年に始まったドファールの反乱が激化する。ドファールの独立を求める反乱軍、ドファール解放人民戦線(PFLO)は、マスカット・オマーンとその支援国(イギリス、イラン、ヨルダンなど)に激しく抵抗した。

・1970年、マスカット・オマーンで無血クーデターが発生サイード・ビン・タイムール王の息子、カブース・ビン・サイードはドファールの反乱で無用な血が流れることを恐れ、父を追放した。

・1970年8月9日、「オマーン国」成立。奴隷制を廃止した。

・1971年10月7日、国連に加盟。

・1976年3月11日、ドファールの反乱終結。オマーン国はイギリスやイランなどの援助を受け、PFLOとの戦いに勝利した。

・1981年、湾岸協力会議(GCC)設立。創設時の加盟国はオマーン国、UAE、サウジアラビア、カタール、クウェート、バーレーン。

・1996年11月6日、憲法制定。

・湾岸戦争(1990~1991年)後もイラクとの外交関係を維持する。

・イラク戦争(2003~2011年)ではアメリカ軍を支援。

・アフガニスタン紛争(2001~現在)でもアメリカ軍を支援。

・2011年、アラブの春に触発された抗議者たちが民主化を求める抗議活動を起こす。

・2011年2月20日、国王および政府が最低賃金の引き上げに同意

・その後も抗議活動は続き、人々は政治改革、汚職の撲滅などを求めた。

・2020年1月10日、カブース・ビン・サイード王死去。

・2020年1月11日、ハイサム・ビン・ターリク・アル=サイードが国王に就任。

文化(目次に戻る

・男性が好んで着る服は、ディッシュダシャと呼ばれる足首まで隠れる民族衣装。色は白が一般的。

・女性の民族衣装は足首まで隠れる鮮やかな布のドレスと髪飾り。ただし、公共の場では黒のドレスとヒジャーブを着用する

・オマーン料理は非常にシンプル。香辛料を多用するが辛くない。

・主食は米。スープ、サラダ、カレーを好む。

・昼食はしっかり食べ、夕食を少なめにする文化が定着している。(夕食をしっかり食べても違法ではない)

・民族音楽はリズムに重点を置いている。

・音楽は誕生、割礼、結婚、葬儀などのイベントで必ず使用される。

・音楽への参加(演奏など)は老若男女を問わず許可されている。

・国内の映画市場は小さい。また、他のメディアと同じく検閲の対象。

・1970年以降、女性の教育を受ける権利が大きく拡充された。

オマーン国/カラフルな民族衣装を着た女性

スポーツ(目次に戻る

・人気スポーツはサッカー。

・伝統的なスポーツはダウレース、競馬、鷹狩り、ラクダレース、闘牛など。

・国王はスポーツ文化の発展を目指し、学校などへの支援に力を入れている。

・政府主催のスポーツ大会が各地で開催されており、優秀は選手は海外でプレーする機会を得ている。

・夏季オリンピックでのメダル獲得実績はなし。

・冬季オリンピックへの出場実績なし。

その他(目次に戻る

・オマーン国は過去の内戦や分断の苦い経験から、「争いを嫌う国」になった。

イラクとの外交関係を維持しつつ、アメリカとの付き合いも大切にしている

・2011年の抗議活動勃発時、オマーン国を「平和ボケした国」と思っていた国際監視団は、激しい抗議が数カ月続いたことに驚いた。

オマーン国/首都マスカット、お土産物店で販売されているカラフルな器
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