北キプロス・トルコ共和国/国旗

目次

 基本情報

 政治

 渡航情報

 マスメディア

 軍隊

 歴史
  ・キプロス内戦~独立まで
  ・独立~現在

 文化

 スポーツ

 その他

基本情報(目次に戻る

国名:北キプロス・トルコ共和国(Northern Cyprus)

首都:北ニコシア(North Nicosia)

人口:326,000人(2017年推定)

面積:3,355㎢(鳥取県とほぼ同じ)

気候:地中海性気候
・年間降水量は地域によって多少異なるが、おおむね500mm以下。
・首都北ニコシアの夏場の平均気温は最低が19~22℃、最高は34~37℃。
・首都北ニコシアの冬場の平均気温は最低が5~10℃、最高は16~22℃。
・5月~10月はとても暑く、内陸部は40℃に達することも珍しくない。
・観光に最適な時期は4月~5月と10月~11月。

経済:
・開発途上国
・GDPは42億ドル(2018年推定
・主要産業は観光業と農業。
・主要輸出パートナーはトルコ(55%)、アラブ連盟(30%)、EU(15%)
・主要輸入パートナーはトルコ(65%)、アラブ連盟(30%)、EU(5%)

・主要輸出品は乳製品、柑橘類、鶏肉、ラク(アルコール)、ジャガイモ。

・通貨はトルコリラ。(キプロスはユーロ)
・トルコの支援に大きく依存している。
・国際社会から認められていないにもかかわらず、経済成長率は比較的高水準を維持している。(2004年は15.4%)
・観光産業が経済成長を後押ししている。2013年の観光客数は約123万人だった。
・GDPは2002年から2007年の間に3倍以上に増加した。

人種
・トルコ人 99.2%(2006年国勢調査)
・ギリシャ人 0.2%
・イギリス人 0.2%
・マロナイト 0.1%
・その他 0.3%

言語:
・トルコ語(公用語)
・英語
・ギリシャ語
・その他

宗教:
・スンニ派イスラム教 99%(CIAワールドファクトブック推定)
・その他 1%

北キプロス・トルコ共和国

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大統領:エルシン・タタール(Ersin Tatar)
首相:ハムザ・エルサン・サナー(Hamza Ersan Saner)

政治体制:半大統領制
・国家元首は大統領、任期は5年。
・共和国議会の議員定数は50人、任期は5年。
・共和国議会の長は首相。
・2018年の議会選挙で保守派と中道右派が連立政権を樹立した。
・一部の専門家は北キプロス政府をトルコの傀儡政府と呼んでいる。
・キプロスを国家として認めていない。

法律:北キプロス・トルコ共和国の憲法
・基本的人権と司法の独立を保障している。
・同性愛を禁じる法律を2014年に廃止した。
・売春が蔓延しており、東ヨーロッパからの人身売買の主要ルートの1つと見なされている。

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渡航情報:
外務省ホームページ
コロナウイルス注意情報発令中(2021年7月時点)

治安:普通
・近年、自爆テロや大量殺人などの凶悪事件は発生していない。
・イスラムジハード組織や反政府組織の活動は報告されていない。
・北キプロスへの入国はキプロス経由で行う。
・北キプロスに日本大使館はない。
・キプロス政府は北キプロスの港や空港から入国することを禁じている。
・治安は比較的安定しているが、窃盗や盗難などには注意が必要。
・キャッシュカードやパスポートは極力持ち歩かず、安全な場所に保管したい。
・アルコールや女性関連のトラブルに注意。
・女性はデートレイプや違法薬物(主にエクスタシーなどのMDMA)犯罪に注
意。
・流しのタクシーには乗車しない。無許可タクシーの利用はトラブルのもと。

北キプロス・トルコ共和国/港

マスメディア(目次に戻る

・新聞社は14社。(日刊紙は8社)
・国営テレビ局は1社。
・民間テレビ局は数局。
・国営ラジオ局は1社。
・民間ラジオ局は1局。
・報道と言論の自由を保障しているが、政府に否定的なジャーナリストは嫌がらせに直面する可能性がある。
・主要メディア媒体はテレビ。
・インターネットの普及率は70~80%。
・トルコのテレビとラジオを受信できる。
・検閲はない。
・2015年に施行したプライバシー法は報道と情報の共有を制限することができる。

【国営メディア/設立年】
・バイラック・ラジオ・アンド・テレビジョン・コーポレーション 1963年

【民間メディア】
・ー

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2021年軍事力ランキング:ー位

・軍人数:0人(推定)
  即戦力 0人
  予備兵 0人
  準軍組織 9,000人

トルコ軍人数:895,000人(推定)
  即戦力 355,000
  予備兵 380,000人
  準軍組織 160,000人

・軍隊を保有していない。
・防衛はトルコ軍に依存しているが、特別コマンドー部隊と呼ばれる強力な特殊部隊が国境警備と国内の治安を維持している。

・国防予算:2億ドル(推定)

北キプロス・トルコ共和国/ムスタファ・アクンジュ前大統領とトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領

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キプロス内戦~軍事クーデターまで

・1950年代初頭:ギリシャ系の民族主義グループであるキプロス闘争民族組織(EOKA)が結成された。EOKAの目的はイギリス軍を島から追い出し、キプロスをギリシャと統合することだった。

・1952年7月:EOKAの秘密交渉はギリシャの首都アテネでマカリオス3世大司教の下で開催され、交渉の末、革命評議会が結成された。

・1954年:キプロスへの武器の密輸が始まる。元ギリシャ軍の将校、ゲオルギオス・グリバスは11月9日に密かに島に上陸し、イギリス軍に対する攻撃の準備を進めた。

・1955年6月21日:EOKAが1人目のギリシャ系トルコ人を殺害。EOKAはその後、ギリシャ系キプロス人の左翼活動家も殺害した。

・1957年1月:EOKAは首都ニコシアでトルコ系キプロス人による暴動を引き起こし、イギリス軍の注意をそらせたうえで、トルコ系の警察官の殺害を開始した。暴動により、少なくともギリシャ系キプロス人1人が死亡し、ギリシャ系の指導者たちは「トルコの侵略行為」と非難した。

・1958年6月7日:キプロスのトルコ大使館の入り口で爆弾が爆発。爆発後、怒りに燃えるトルコ系キプロス人は現地周辺のギリシャ系キプロス人の財産を略奪し尽くした。

・1958年6月12日:8人のギリシャ系キプロス人(民間人)が首都ニコシアにあるトルコの報道機関事務所を爆破した。

・1959年:トルコ海軍は武器を満載した戦艦をキプロスに派遣した。

・1959年:イギリスはキプロス共和国を創設することで紛争を解決すると決意し、その後、関係者はチューリッヒ協定に署名した。この協定により大統領はギリシャ系キプロス人、副大統領は同等の拒否権を持つトルコ系キプロス人の代表者から選ばれることなった。また、公務員の比率はギリシャ系70%、トルコ系30%、最高裁判所の裁判官はギリシャ系50%、トルコ系50%で構成されることになった。

・1960年8月15日:キプロス共和国が独立を宣言。

・新憲法はギリシャ系キプロス人に不満をもたらした。ギリシャ系は歴史的、人口統計学的、貢献的な理由から新憲法は非常に不公平だと主張した。当時、人口の80%はギリシャ系で、国の税収の約94%を支払っていた。一方、トルコ系は税収の6%を支払い、公務員の30%および、国家安全保障関連の仕事の40%を獲得した。

・1963年12月:トルコ系議員の影響で議会が機能不全に陥ったことを受け、マカリオス大統領は13の憲法改正を提案した。

・マカリオス大統領はトルコ系に多くの権利を与えすぎたと主張し、憲法を改正することでギリシャ系の権利を強化するアクリタス計画を発表した。これを受け、ギリシャ系の議員や国民は憲法改正の必要性を国際社会に訴え、計画が受け入れられなかった場合、数日以内にトルコ系を打倒すると宣言した。その後、憲法改正案はトルコ系議員によって拒否され、トルコ議員団は政府を去ったが、彼らが抗議して去ったのか、それとも軍によって強制退去させられたのかについては明らかにされていない。

・1963年12月21日:ギリシャ系の警察官が事件に関与したとされるトルコ系の民間人2人を殺害。トルコ系の怒りは頂点に達した。

・1963年12月22日:武装したギリシャ系の警察官を含む人々は首都ニコシアの通りを練り歩き、トルコ系を無差別に攻撃した。一方、トルコ系はギリシャ系の警察官を襲撃し、激しく抵抗した。

・1963年12月23日:マカリオス大統領とトルコ系キプロス人の指導者は停戦に合意した。しかし、首都ニコシアとラルナカでは戦闘が続き、激化した。トルコ系はモスクから機関銃を乱射し、これに反発したギリシャ系はオモルフィタの市民を虐殺した。ギリシャ系は都市部に侵攻し、女性と子供を含むトルコ系を無差別に殺害した。その後、ギリシャ系はモスクや礼拝堂などのイスラム教施設を破壊し、冒涜した。

・1963年12月24日:トルコ、ギリシャ、イギリス政府は共同声明で、双方に落ち着くよう促した。

・1963年から1964年の紛争でトルコ系キプロス人364人、ギリシャ系キプロス人174人が殺害された。また、104の村で生活していたトルコ系約25,000人が自宅を放棄した。

・紛争勃発後、トルコは再びキプロスの分割を提唱し、トルコ系キプロス民兵の支配下にある地域での激しい戦闘および憲法改正の失敗は、トルコの侵略を正当化した。

・1964年7月:アメリカのディーン・ラスク国務長官が作成した計画に基づき、ギリシャとトルコの和平交渉が始まった。この時トルコはソビエトの圧力(侵攻)に直面しており、アメリカの支援を失いたくなかった。

・1965年:マカリオス大統領は共和国の構造を一方的に変更し、首都ニコシアはグリーンラインによって分割され、軍が配備された。これにより、トルコ系の移動と物資へのアクセスは大きく制限されることになった。

・1967年:ギリシャ系とトルコ系の戦闘が再燃。アメリカ主導の交渉は完全に行き詰まっていた。

・1967年以降、ギリシャ系とトルコ系の緊張は和らいだ。マカリオス大統領は達成可能な解決策を支持したうえで、統一ギリシャ構想を事実上放棄したが、多くのギリシャ系キプロス人はギリシャとの統一を強く支持した。

・1974年7月15日:軍事クーデター発生。軍はマカリオス大統領を追放し、ギリシャ統一主義者のナショナリストであるニコス・サンプソンが大統領に就任した。クーデターはギリシャ軍のリーダーであるディミトリオス・イオアニディスによって命じられ、将校たちキプロス国家防衛隊を率いて首都ニコシアの大統領宮殿を占領したうえで、建物を焼き尽くした。

・1974年7月16日:イギリスは軍事クーデターから逃れたマカリオス元大統領を保護した。

・1974年7月19日:マカリオス元大統領はニューヨークの国連安全保障理事会会合のスピーチで、「キプロスはギリシャに侵略された」と述べた。

・1974年7月20日未明:トルコ軍はキレニアの主要な港町の西約8kmの北海岸線に位置するペンテミリ(ファイブマイルビーチ)に侵攻した。

・タンサー将軍率いるカクマック特殊ストライクフォース上陸部隊は、イキズ少佐の第6水陸両用歩兵連隊の1個大隊、カラオグラノグル大佐の第50歩兵連隊、および第39師団戦車の1個中隊で構成されていた。(兵士数約3,000人、12基のM47戦車、20基のM113装甲兵員輸送車、および12基の105mm榴弾砲など)

・1974年7月20日午前5時頃:キプロスの高速魚雷艇T-1とT-3がキレニア港から出動し、沿岸地域に接近するトルコ海軍艦隊と交戦した。T-1は対空砲火に見舞われて沈没し、その数分後、T-3は船と航空機の複合射撃により爆破され、1人を除くすべての乗組員は海の藻屑になった。

・1974年7月20日午前6時頃:トルコ空挺部隊は首都ニコシアのすぐ近く落下傘部隊を投下した。投下された推定120人の兵士のうち93人が戦死または死傷し、1人が捕縛され、残りは逃亡した。

・1974年7月20日午前7時30分頃:トルコの23の中戦車大隊などは北部グニエリ(飛び地)への攻撃を開始した。その後、キプロス軍は撤退し、2回目の協調攻撃を行うよう本部に増援を求めた。

・1974年7月20日午後17時頃:ハンドリノス少佐の指揮するキプロスの戦車揚陸艦がパフォスに到着し、トルコ系キプロス人が占領した飛び地への砲撃を開始した。

・1974年7月20日午後6時頃:安全保障理事会決議353が満場一致で採択された。停戦は7月22日の午後4時に発効することになった。

・1974年7月20日午後10時頃:パフォスのトルコ系キプロス民兵が降伏。

・1974年7月20日午後11時頃:キプロスの山岳部隊はアギルタと首都ニコシアの飛び地のすぐ北に侵攻した。

・1974年7月21日:沿岸地域での戦闘は収束し、トルコ軍は増援部隊に出動を命じた。

1974年7月21日午前6時30分:休戦協定発効。この時、首都ニコシアのレドラパレスホテルには観光客386人が閉じ困られていた。

1974年7月21日午前11時頃:休戦協定は破られ、レドラパレスホテルを含む施設で戦闘が勃発した。

・1974年7月21日の夕方:ギリシャ政府はキプロス政府を支援するために、歩兵大隊、コマンド大隊、中戦車大隊の派遣を決めた。

・1974年7月22日午後3時頃:トルコ空軍はニコシア空港に対する空襲作戦を開始した。

1974年7月22日午後4時頃:国連安全保障理事会の停戦協定が発効。

・1974年7月22日午後5時15分頃:トルコ空軍は首都ニコシアの爆撃を継続。停戦協定は破綻した。

1974年7月22日午後6時15分頃:ディコモ(村)周辺で地上戦が始まる。

1974年7月23日:トルコ軍はキプロスの領土(主に北部)の7%を支配し、首都ニコシアの北にある大きなトルコ系キプロス人の飛び地と連結させることに成功した。

1974年7月25日:トルコのビュレント・エジェヴィット首相は声明で、トルコ軍兵士57人が死亡し、184人が負傷し、242人が行方不明になったと発表した。トルコ系キプロス人(民間人)の損失は不明。ギリシャ軍は7月20日から22日の間に兵士215人を失い、223人が行方不明になった。負傷者数は不明。

・1974年8月1日:トルコ第28師団はペンテダクティロス山脈西部のギリシャ系キプロス部隊を打倒し、そこから南に向かって侵攻した。

・1974年8月3日:西部戦線のカラヴァスに防御線が設置された。この防御線はキプロス軍の第1中隊ELDYK、ギリシャ系キプロス民兵第316、第321、第256歩兵大隊、およびその他の民兵組織によって構成された。

・1974年8月6日:トルコ軍がカラヴァス防衛線への攻撃を開始。午後、地域のすべてのギリシャ系キプロス軍はヴァシリア・ヴァヴィラ防衛線に撤退した。

・1974年8月14日:トルコ軍は2つの歩兵師団と支援部隊の力で強化され、大規模攻撃(コードネームアッティラ2)を開始した。この攻撃は3日間続き、キプロス国家防衛隊とELDYKの防衛線は崩壊し、ファマグスタ、モルフォ、首都ニコシアの北部地区の町はトルコ軍に占領された。

・1974年8月15日:ギリシャ系キプロス軍は新しく設置したトロードス防衛線に撤退した。

・1974年8月16日:トルコ軍は北部の陣地からゆっくりと南下し、ギリシャ系キプロス軍を後退させた。

・1974年8月16日午後6時:国連安全保障理事会が停戦を発効。

・1974年8月17日:ギリシャ軍とトルコ軍の最高司令部は、安保理の停戦が発効したにもかかわらず、部隊に前進を命じた。

1974年12月25日;キプロスを訪れた国連事務総長はトルコ系とギリシャ系に二国間協議を開始するよう要求した。

・1975年4月28日:クルト・ヴァルトハイム国連事務総長主導の協議が始まり、双方は1974年の紛争に関連するさまざまな人道問題について話し合った。しかし、領土や中央政府の問題など、双方の主張をまとめることはできず、協議は1976年2月に破綻した。

・1977年1月:国連は首都ニコシアでマカリオス元大統領とデンクタシュ(北キプロスの初代大統領)の協議を開催することに成功した。

・1977年2月12日:マカリオス元大統領とデンクタシュは、和解に向けた4点の合意文書に署名した。

・1977年8月:マカリオス元大統領死去。後任には外務大臣のスピロス・キプリアノウが選ばれた。

・1979年:アメリカはキプロス問題の恒久的な解決策としてABC計画を提案したが、キプロスのキプリアノウ大統領は提案を拒否し、その後、トルコも却下した。

・1979年5月:国連のヴァルトハイム事務総長はキプロスを訪問し、双方から新たな10点の提案を引き出した。これにはキプロスの非軍事化規定と、不安定な活動や行動を控えることへのコミットメントが含まれていた。

・1983年5月:国連はキプロスからすべてのトルコ占領軍の撤退を求める決議を可決した。これにトルコ系キプロス人は激怒し、報復として独立を宣言すると脅迫した。

・1983年8月:ペレス・デ・クエラー国連事務総長は、以前に提案された方針に沿った二院制議会の設立、および中央幹部の代表比率(ギリシャ系60%:トルコ系40%)を再検討するよう双方に促した。結果、キプリアノウ大統領とデンクタシュは提案を受け入れ、トルコ系キプロス人は占領した領土の8〜13%を放棄した。

・1983年11月15日:トルコ系キプロス人はトルコ国内の政情不安を利用し、「北キプロス・トルコ共和国」の独立を一方的に宣言した。

北キプロス・トルコ共和国/首都北ニコシア

独立~現在

・1983年11月:安全保障理事会は決議第541号(賛成13ー反対1:パキスタンのみ反対)を可決し、北キプロスを国家として受けいれず、和解に到達するまでの努力を無駄にしたと非難した。

・1984年9月:交渉再開。3回目の交渉後、双方は2地域の2コミュニティをキプロスに返還することで合意し、すべての外国軍はキプロスから撤退した。

・1988年8月:国連はジュネーブで協議を行うようキプロスと北キプロスに呼びかけ、両国の指導者(ヴァシリウ大統領とデンクタシュ大統領)は1977年と1979年のハイレベル交渉に戻ることに合意した。しかし、キプロスが欧州共同体(EC)への加盟を申請する意向を発表し、交渉は破綻した。

1990年2月:キプロスと北キプロスはNYの国連本部で会談したが、この交渉は短命だった。

・1990年7月4日:キプロスは正式にECへの加盟を申請した。1987年に加盟を申請したトルコは憤慨し、北キプロスのデンクタシュ大統領は、キプロスはトルコと同時にECに参加できないと主張し、国連とのすべての会談を中止した。

・1990年9月:ECがキプロスの加盟に向けた協議を開始。

・1996年12月:欧州人権裁判所(ECHR)は、「トルコはキプロスの占領国である」と宣言し、賠償金を支払うよう命じた。トルコはこの判決を却下し、EUとの関係はさらに悪化した。

・1997年初頭:キプロスがロシア製のS-300対空ミサイルシステムを購入すると発表し、状況はさらに悪化した。(キプロスミサイル危機)

・2002年11月11日:国連のコフィ・アナン事務総長は両国に新たな提案を提示し、双方が提出した修正案に基づいて新たな和平協定案(アナン計画)を作成した。

・2003年2月:アナン事務総長は2度目のキプロス訪問で改訂を加えたアナン計画ver.3を提示した。アナン事務総長は協定を受け入れるかどうかを決める国民投票を行うよう両国に提案し、キプロスはしぶしぶ受け入れたが、北キプロスは拒否し、交渉は破綻した。

・2003年4月16日:キプロスはギリシャの首都アテネで開催された式典でEU加盟条約に正式に署名した。

・2004年4月24日:アナン計画の是非を問うキプロス国民投票が行われ、計画は否決された。

<キプロスの国民投票>
トルコ系:賛成50,500票(64.9%)ー反対14,700票(35.09%)
ギリシャ系:賛成99,976票(24.17%)ー反対313,704票(75.83%)
合計:賛成150,500票(31.42%)ー反対328,500票(68.58%)

・2004年5月1日:キプロスは正式にEUに加盟した。

・2004年6月:北キプロスはキプロス政府の反対にもかかわらず、1979年からオブザーバーを務めてきたイスラム協力機構に「トルコ系キプロス国家」に指定された。

・2012年10月:北キプロスはトルコ系キプロス国家という国名で経済協力機構(ECO)のオブザーバーになった。

2015年5月12日:キプロスのニコス・アナスタシアデス大統領と北キプロスのムスタファ・アクンチュ大統領が初めて会談し、和平交渉を再開した。

・2017年7月7日:和平交渉は決裂した。

・2019年2月5日:ギリシャとトルコはキプロス紛争を含む協議を通じて、両国の緊張を和らげたいと述べた。しかし、キプロスの排他的経済水域内におけるトルコの石油および天然ガス探査をめぐる論争により、交渉が再開する見通しは立っていない。

・2020年:キプロス統一交渉が進展する兆しは見えず、キプロスのニコス・ローランディス元大臣はキプロス紛争への政治的解決はほとんど不可能と述べた。

・2020年:北キプロス大統領選挙。親トルコのエルシン・タタール首相が大統領に就任した。

北キプロス・トルコ共和国/親子

文化(目次に戻る

・トルコとイスラム教の影響を強く受けている。

・ギリシャ系キプロス人の文化を支持する者も少なからずいる。

・国民の99%以上を占めるトルコ系キプロス人は西洋とトルコの文化を支持している。

・毎年各地でダンスフェスティバルを開催している。

・主食は米と小麦。主菜は豚肉以外の肉全般、乳製品、トウモロコシ、ジャガイモ、地元で獲れる魚など。

北キプロス・トルコ共和国/市場

スポーツ(目次に戻る

・国家として認められていないため、主要な国際スポーツ団体(IOC、FIFAなど)に加盟することは許可されていない。

・人気スポーツはテコンドー、空手、合気道、サッカー、バスケットボール、バドミントンなど。

・アマチュアスポーツリーグを複数運営している。

・国内のスポーツ施設は充実している。

・オリンピックを含む主要国際大会に出場したことはない。

その他(目次に戻る

北キプロスの独立を承認している国はトルコだけ

・入国する際は、必ずキプロス経由で正規の手順を踏むこと。

北キプロス・トルコ共和国/首都北ニコシアの夜景
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