目次
歴史
・1700年代
・1800年代
・1900年~第一次世界大戦
・第一次世界大戦~第二次世界大戦
・終戦から現在
基本情報(目次に戻る
国名:レバノン共和国(Republic of Lebanon)
首都:ベイルート(Beirut)
人口:6,100,075人(2020年推定)
面積:10,400㎢(北海道の0.12倍)
気候:地中海性気候
・夏場は暑く乾燥する。雨はほとんど降らない。
・冬場の気温は0℃以下に達することも珍しくない。
・大雪が降ることもある。
・南部海岸沿いエリアの気候は比較的穏やか。
・標高の高い地域の気候は穏やか。
・海岸沿いおよび低地の年間降水量は750~1,000mm。
・高地の年間降水量は1,200~1,500mm。
・レバノン内戦が生態系に深刻なダメージを与えた。
経済:
・開発途上国
・GDPに対する債務比率がとても高い。
・GDPは約525億ドル(2019年推定)
・2007年~2010年の間の経済成長率は平均9.1%。
・インフォーマル経済。
・主要産業はサービス。(GDPの約80%を占める)
・レバノン内戦(1975~1990年)が経済に深刻なダメージを与えた。
・慢性的な貿易赤字に悩まされている。
・上位1%が国民総所得の25%を得ている。
・下位50%で国民総所得の16%を分け合っている。
・世界で最も不平等な国のひとつ。
・富裕層と政府の癒着、汚職が常態化している。
・国の財政基盤は極めてもろく、ガタガタ。
・2019年以降の経済危機は政治危機に発展した。
・コロナウイルスと2020年8月4日のベイルート港爆発が経済危機をさらに加速させた。
人種:
・レバノン人 80%(2018年推定)
・シリア難民 15%
・パレスチナ難民 4.9%
・イラク難民 0.1%
言語:
・アラビア語(公用語)
・レバノンアラビア語
・フランス語
・英語
・国内のほとんどの学校でフランス語と英語の授業を導入。
宗教:
・スンニ派イスラム教 27.6%
・シーア派イスラム教 27.5%
・マロナイト派カトリック 27.7%
・ギリシャ正教 8%
・ギリシャカトリック 6%
・ドゥルーズ派イスラム教 5.2%
レバノン共和国
政治(目次に戻る
大統領:ミシェル・アウン(Michel Aoun)
首相:ハッサン・ディアブ(Hassan Diab)
政治体制:共和制
・腐敗している。
・国家元首は大統領。
・大統領は議会が選出する。
・首相は大統領と議会が選出する。
・議会選挙は4年に1回と憲法で定められているものの、破られることが多々ある。
・スンニ派が権力を堅持している。
・議会は飾り。大統領をコントロールする宗教指導者が国を統治する。
・単独過半数を獲得した政党は存在しない。
・一院制。
・イスラム過激派組織ヒズボラが大きな影響力を持っている。
・汚職や腐敗に立ち向かう者はテロ攻撃の対象になりかねない。
法律:レバノンの憲法
・裁判所は「破毀院(最高裁)、控訴、第一審」の3種類。
・司法の独立を憲法で保障している。
・権力者は司法の要請を却下できる。
渡航情報(目次に戻る
渡航情報:
・外務省ホームページ
・渡航中止勧告発令中(2020年12月時点)
・コロナウイルス注意情報発令中(2020年12月時点)
治安:悪い
・近年、国内でテロ攻撃は発生していない。
・政府の厳しい取り締まりが功を奏し、自爆テロなどはほとんど発生しなくなった。
・レバノン軍から不当な取り締まりや暴力を受ける可能性がある。
・シリアとの国境付近は取り締まりが厳しいため、不用意に近づかないこと。
・国内におけるイスラム国(IS)の掃討作戦は完了したと伝えられている。
・誘拐事件や薬物犯罪に巻き込まれる可能性あり。
・銃火器の制限が緩く、それらを使用した犯罪に巻き込まれる可能性あり。
・反政府組織の活動が報告されている地域あり。
・2020年8月4日に発生したベイルート港の爆発事故以来、首都周辺の治安は悪化している。
マスメディア(目次に戻る
・新聞社は約50社。
・国営テレビは2社。
・民間テレビ局は10社。
・ラジオ局は多数。
・検閲は厳しくない。
・中東で最もリベラルなメディアネットワークを確立したと言われている。
・報道と言論の自由を保障している。
・中東で最初にインターネットを導入した国のひとつ。
【国営メディア/設立年】
・National News Agency 1964年
・Al-Markazia(アラビア語限定) 1980年
【民間メディア】
・テレ・レバノン
・アルマヤディーン(運営:ヒズボラ)
軍隊(目次に戻る
2020年軍事力ランキング:118位
・軍人数:75,000人(推定)
即戦力 75,000人
予備兵 0人
・陸海空軍を保有
・国防予算:25億ドル
歴史(目次に戻る
1700年代
・1700年代、現在のレバノン共和国および周辺地域はオスマントルコの支配下に置かれていた。
・オスマンレバノンを統治したシハブ王朝(ドゥルーズ派イスラム教)は、国内の敵対勢力をシリアやイエメンに追放した。
・シハブ王朝はレバノン山およびその周辺地域を1830年頃まで支配したと伝えられている。
・内戦や小規模な争いが各地で続き、キリスト教徒数千人がドゥルーズ派イスラム教徒に殺害された。
1800年代
・オスマントルコの衰退が始まり、ヨーロッパの勢力が中東地域に進出し始める。
・ヨーロッパの勢力はオスマンレバノン王朝に対し、領土をマロナイト派キリスト教とドゥルーズ派イスラム教に分割するよう迫った。
・イギリスはドゥルーズ派イスラム教を支援した。一方、フランスはマロナイト派キリスト教を支援した。
・1830年初頭、オスマントルコがレバノン山および周辺地域の統治権をオスマンレバノンから奪取。
・オスマントルコ、レバノン山の領土の分割を指示。
・1860年5月23日、レバノン山の内戦勃発。(ドゥルーズ派イスラム教vsマロナイト派キリスト教)
・1860年7月11日、レバノン山の内戦終結、ドゥルーズ派の勝利。20,000~25,000人のマロナイト派キリスト教の兵士および民間人が殺害された。
・1860年7月、フランスのナポレオン3世の大隊(約7,000人)がレバノン山の分割を支援。
・1861年、オスマントルコの改革により、レバノン山の支配権がマロナイト派キリスト教に移管される。ドゥルーズ派イスラム教徒は400年以上守り続けた土地を奪われた。
・1866年、オスマンレバノン初の大学、ベイルートアメリカン大学設立。
・1800年代、領土をめぐる民族間の争いは過熱し、数万人が殺害もしくは土地を追われた。
1900年~第一次世界大戦
・1900年代初頭、都市ベイルートでオスマントルコの支配に抗議する様々な抗議活動が発生した。
・1914年7月28日、第一次世界大戦勃発。
・1915~1918年、レバノン山の大飢饉で20~30万人が餓死(推定)したと伝えられている。
・第一次世界大戦勃発後、オスマントルコの貿易は閉鎖され、レバノン山および周辺地域の生活を直撃した。当時、この地域の食料はシリアなどからの輸入品に依存していた。
・レバノン山および周辺地域の市民の50%が大飢饉で餓死したと伝えられている。なお、一部の専門家はレバノン全土の人口が半減したと報告している。
・1918年11月11日、第一次世界大戦終結。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・サイクス・ピコ協定に基づき、現在のシリアとレバノンはフランスの統治下に置かれた。(イラクはイギリス領)
・1920年、セーヴル条約締結。オスマントルコの解体が最終決定する。
・1922年、サンレモ会議終了に伴い、サイクス・ピコ条約発効。
・シリアとレバノンの国境が大きく書き換えられる。これにより、シリアは広大なベッカー高原を失い、レバノンは領土を拡大した。
・領土の拡大に伴い、レバノンの人口は大幅に増加した。
・1926年5月23日、レバノン憲法制定。
・レバノン憲法で宗教間の力のバランスを定めた。議会の議席の割合は、「キリスト教6ーイスラム教5」と定められた。
・憲法により、「議席の割合は人口比率の増減に左右されず、修正もされない」と定められた。
・1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。
・1941年4月4日、エミール・エッデ大統領辞任。
・1941年4月8日、ナチスフランスのヴィシー政権、レバノンにナチスドイツへの輸出を許可する。
・イギリス政府は脆弱なヴィシー政権を介してナチスドイツがレバノンに侵攻すると警戒し、軍隊を送り込んだ。
・1941年11月、ナチスフランスのシャルル・ド・ゴール将軍が内外からの圧力に屈し、レバノンの独立を認める。
・1943年11月、選挙で選ばれたレバノン議会議員がナチスフランスに拘束される。
・1943年11月22日、ナチスフランスは内外の圧力に再び屈し、レバノン議会議員を釈放する。
・1943年11月22日、「レバノン共和国」が独立宣言。
・1945年9月2日、第二次世界大戦終結。
終戦~現在
・1946年、フランス軍完全撤退。
・1948年、アラブ・イスラエル戦争(第一次中東戦争)の影響でパレスチナ難民10万人以上(推定)がレバノン国内に避難する。
・戦後、港湾都市ベイルートに国際商取引所や金融機関などが多数建設され、急速に発展する。
・1958年、ファード・シハーブ元将軍による新政府樹立。議会選挙は行われなかった。
・1960年代、首都ベイルートの開発が進み、レバノンの経済成長率はピークに達した。
・中東のオイルマネーが外資系企業を通して首都ベイルートに流れ込み、爆発的な経済成長を遂げた。
・1967年、第三次中東戦争終結後、新たなパレスチナ難民がレバノン国内に避難した。
・1968年、パレスチナの過激派組織がイスラエルへの攻撃を開始する。
・1968年7月、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)がイスラエルの民間機をハイジャック。
・1968年12月、PFLPがイスラエルの民間機を撃墜。死者多数。
・1968年12月、イスラエル軍がベイルートの国際空港に侵攻。アラブ航空会社の所有する航空機を10機以上爆破した。
・パレスチナ難民とイスラエルの問題でレバノンはふたつに分断された。最大派閥のイスラム教徒はパレスチナ難民を支持。一方、マロナイト派キリスト教徒はイスラエルを支持した。
・1969年11月2日、カイロ協定締結。これにより、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプ(約30万人)はレバノン政府の管轄から除外され、パレスチナ武力闘争司令部(パレスチナ解放機構:PLO)の管理下に置かれた。
・カイロ協定は、レバノン国内のパレスチナ難民に「武力闘争をもってパレスチナ革命に参加する」権利を与えた。
・パレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長、レバノン国内にパレスチナ国家を設立したと宣言。
・カイロ協定に反対するマロナイト派キリスト教徒は民兵組織を設立した。
・1970年初頭、PLOはイスラエルを攻撃し、イスラエル軍はレバノン南部のキャンプおよび軍事施設を爆撃した。
・1975年4月13日、レバノン内戦勃発。(レバノン軍vsシリア軍vsPLO関連の国民運動軍vsイスラエル関連の自由連合軍)
<レバノン内戦>
・死亡者:10万~16万人(推定)
・負傷者:10万~20万人(推定)
・処刑もしくは虐殺された者:数万人(推定)
・国内外避難民:100万人以上(推定)
・他国への移住者:25万人(推定)
・1987年6月1日、挙国一致内閣のラシード・カラーミー首相(スンニ派)が暗殺される。
・1988年、首都ベイルートでシーア派イスラム民兵と過激派ジハード組織ヒズボラ(シーア派)が激しく対立する。
・1990年10月13日、レバノン内戦終結。PLOはレバノンから追放された。
・内戦終結後のターイフ合意で、レバノン国内におけるイスラム教徒の権限が大幅に強化された。また、議会の定数はキリスト教徒とイスラム教徒に均等に分配された。
・1991年3月、議会、戦時犯罪を赦免する「恩赦法」を可決。
・1991年5月、ヒズボラを除く全民兵組織が解体された。なお、ヒズボラは現在も兵器類の所有を許可されている。
・1990年代、活動を続ける一部の過激派組織が国内でテロ攻撃(主に自動車爆弾)を繰り返し、数百人が死亡した。
・2000年5月、イスラエル軍、国連安保理決議によりレバノン南部から完全撤退。
・2004年9月、国連安保理決議、レバノン国内からの外国軍の完全撤退を強制。(米仏合同署名)しかし、シリア軍は撤退を拒否した。
・2004年10月20日、ラフィーク・ハリリ首相(スンニ派)、辞任。
・2004年10月21日、オマール・カラミが首相に就任。
・2005年1月、国連安保理決議、レバノン政府に対し、治安維持部隊を配備したうえで、領土と主権を効果的に保持するよう指示。
・2005年2月14日、ラフィーク・ハリリ前首相、爆弾テロ攻撃で暗殺される。(シリアの犯行)
・2006年7月12日、レバノン戦争勃発。(ヒズボラvsイスラエル軍)
・2006年8月14日、レバノン戦争終結、膠着状態のまま停戦した。
・2006年~2008年、シーア派の野党グループはスンニ派主導の政治体制を見直すよう要求した。
・2011年3月、シリア内戦勃発。レバノン国内にも深刻な被害をもたらした。
・2020年3月、コロナウイルス上陸。
・2020年3月、レバノンの国営中央銀行、900億ドルのソブリン債務をデフォルトし、レバノンポンドの価値を暴落させた。(2020金融危機)
・2020年6月25日、国際通貨基金(IMF)、国営中央銀行の損失を490億ドルと試算。
・2020年8月4日、ベイルート港の大爆発で200人以上が死亡、数千人が負傷、30万人(推定)が住居を失い、ホームレスになった。
文化(目次に戻る
・フランス(文化)の影響を強く受けている。
・文化の自由と権利を保障している。
・数百年前から伝えられてきた民謡が人気。
・欧米の文化を積極的に取り入れている。
・これまでに少なくとも500本以上の映画を制作した。
・イスラム教とキリスト教の祝日を国民の祝日に設定している。
スポーツ(目次に戻る
・一番人気はサッカー。
・人気スポーツはバスケットボール、ボディビル、レスリング、モータースポーツ、ラグビーなど。
・オリンピックの獲得メダル数は4個。
・冬季オリンピックにも参加している。(欠場は1994年と1998年のみ)
・地中海沿岸はウォータースポーツの人気スポット。(ダイビング、ウィンドサーフィンなど)
その他(目次に戻る
・レバノン内戦とその後の混乱は、首都ベイルートを除くインフラに壊滅的な被害を与えた。