佐賀県のイメージといえば「地味」「どこ?」「何もない」などである。九州の中でも特に存在感が薄く、北九州エリアを訪れる観光客の大半は福岡県、長崎県、温泉好きな方は大分県に流れてしまう。

しかし、歴史もしくは心霊スポットに興味のある方は、ぜひ佐賀の観光地に足を運んでほしい。沖縄や博多のように大混雑することはまずないので、ゆったり散策しつつ、「三密」も同時に回避できるはずだ。

また、知名度の低いエリアは、霊の穴場スポットになっていることが多々ある。過去の不穏な歴史や噂を意図的に上書きし、第三者の注目を集めないようにした結果、知る人ぞ知るスポットになるのである。なお、とてつもない霊が出没する可能性もあるため、注意しよう。

今回は伊万里市他4市の最恐心霊スポット12カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.伊万里市
   ・浦ノ崎変電所跡
   ・延命橋
 2.多久市
   ・鬼ノ鼻山憩いの森
   ・馬神トンネル
 3.鳥栖市
   ・勝尾城筑紫氏遺跡
   ・千歳川北岸仮停車場跡
 4.唐津市
   ・島津義弘陣跡
   ・恋人の聖地
   ・松島
 5.佐賀市
   ・巨石パーク
   ・洞鳴の滝
   ・乱斗山古墳群

まとめ

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浦ノ崎変電所跡

伊万里市山代町を通過する「松浦鉄道」の沿線沿いに『浦ノ崎(うらのさき)変電所跡』と呼ばれる廃墟がある。ここはその名の通り、発電所から送られてくる電力を調整する変電所として利用されていた。

第二次世界大戦が始まる直前に建設され、「浦野崎造船所」と呼ばれる施設に電力を送っていたようだが、詳細は割愛する。同変電所跡は心霊スポットとして注目を集め、肝試しなどに利用されているようだ。

同変電所跡で目撃された霊は、「槍を持った男が襲いかかってきた」「女性の叫び声が聞こえた」など。なぜ、電力会社の旧施設内に槍を持った男の霊が現れるのか。答えは同地で言い伝えられてきた伝承の中にあった。

伊万里市山城町で生まれ育った大地主のT氏にお話を伺うことができた。曰わく、「浦ノ崎変電所跡の北にあった港(浦野崎造船所建設地)は、1274年の元寇および、1592年文禄の役(朝鮮出兵)の際に関所が設けられ、戦いおよび作戦の起点になった。元寇では同地周辺で残党殲滅戦が繰り広げられ、文禄の役では、大陸から届けられたおびただしい数の遺体(死者の首や耳)が処理された」という。

T氏の伝承資料によると、元寇の際には肥前国北部エリアから逃亡を図ったモンゴル兵たち数十名を捕縛し、同変電所跡付近にあったとされる拷問兼処刑場で処理。遺体は海にばら撒いたという。

さらに、文禄の役では数千人分の遺体(首、耳、口周りなど)が同地で処理され、一部は遺棄、骨は変電所の敷地内で処理された。同変電所跡の近くに「千人耳塚の碑」が残されており、その周辺でも霊の目撃情報が相次いでいる。

同地は鎌倉時代以前から港町として発展し、対馬や肥前国と並ぶ貿易拠点として利用されてきた。さらに、港のすぐ南に広大なスペースがあったため、様々な施設が造られた。皆から敬遠されていた拷問兼処刑場についても、周辺に住居がないことから容易に整備できたという。

戦国時代末期、肥前国の未来の統治者「鍋島氏」は、豊臣軍本体が待機する「名護屋城(唐津市)」から指示を受け、大陸から持ち込まれる遺体の処理を命ぜられた。

大陸で戦う豊臣連合軍は、数万人の朝鮮兵を打ち滅ぼし、おびただしい数の首や耳、口を集めた。そして、秀吉に報告すべくそれらを船に乗せ移送、名護屋城周辺で検分を終えたのち、拷問兼処刑場に運んだのである。

持ち込まれた数千分のパーツは、肉と皮、骨に分けられ、前者は魚のエサになった。骨については先述の千人耳塚と呼ばれる地に埋められた。なお、パーツの肉を大量に投棄したことで、翌年の漁獲量は倍以上に膨れ上がり、漁業関係者と町は大いに盛り上がったという。

拷問兼処刑場で処刑された罪人やモンゴル人兵士、朝鮮から持ち込まれた遺体のパーツは、ぞんざいに扱われた挙句、解体され魚のエサになったのである。

400年後、同地に建設された浦ノ崎変電所は役目を終え、運用を停止。敷地内の千人耳塚の碑は雑木とつる草に飲み込まれ、どこにあるかも分からなくなった。

同発電所では、月初に慰霊碑(耳塚)を参拝、安全祈願祭を行ったのち、草刈りや周辺整備を行っていた。しかし、50年ほど前に運用を停止して以降、慰霊碑は放置され、霊が出没するようになったという。

まとめ
浦ノ崎変電所跡は霊のホットスポット

敷地内に建立された千人耳塚の碑を放置したことで、霊が出没するようになったと考えられてる

基本情報
心霊スポット浦ノ崎変電所跡
(うらのさきへんでんしょあと)
所在地〒849-4261
佐賀県伊万里市山代町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間25分
【高速】佐賀駅から約1時間15分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト伊万里市観光協会 公式ホームページ

延命橋

佐賀県西部、伊万里市内を流れる「伊万里川」には、幸せを呼ぶ三つの橋が架橋されている。三つの橋は、「相生橋(あいおいばし)」「幸橋(さいわいばし)」そして『延命橋(えんめいばし)』と名付けられた。

三つの橋を全て渡ると、「出会い、子宝、無病息災、長寿、永遠の幸せ」を同時に得られるそうだ。しかし、橋を渡っただけで永遠の幸せを得られるほど世の中甘くないのである。

この素晴らしい作り話が世に広まったのは、ごくごく最近のこと。つまり、それ以前は橋を渡っただけで幸せになれるなど誰も信じていなかったのである。

幸せを呼ぶ三つの橋および伊万里川の河原周辺では、頻繁に霊が目撃されている。なぜ永遠の幸せを得られる橋に霊が出没するのか。答えは、同河川周辺で発生した合戦およびある悲劇が関連していた。

佐賀県出身の歴史家兼ミュージシャンのK氏に連れられ、私は伊万里焼きの窯元を訪ねた。300年以上前の貴重な資料を保管するN氏曰わく、「戦国時代末期に伊万里川およびその周辺で発生した伊万里合戦は、数百名の死者を出す苛烈な戦いだった。龍造寺氏は敵対する豪族たちを薙ぎ払い、勝利を目の前と思われていた。しかし、合戦中に起きたある事故で戦局をひっくり返され、撤退を呼びなくされた」という。

勝利目前だった龍造寺氏は、敵兵を伊万里川の河原におびき寄せ、一網打尽にしようと考えた。これに対し敵豪族たちは兵を2隊に分割。1隊は河原での戦いに専念させ、残りは川上を大きく迂回、敵の背後を狙うつもりだった。

この日、伊万里川の中流および上流域では大雨が降っていたと推察される。龍造寺氏は作戦通り、河原で敵兵を迎え撃った。辺りは靄に包まれており、数メートル先を見通すことも難しかったが、敵兵の気配を察知し、河原および河川内で激しい戦いを繰り広げたのである。

この時、靄が出ていなければ合戦の結果は変わっていたかもしれない。龍造寺氏の背後を突くべき移動していた豪族たちは、伊万里川の異変に気付いた。川の水位が上昇し始めたため、兵士たちは河原の外を移動、高台から様子を伺った。

下流域で戦う兵士たちは、数メートル先も見通せない状況の中で懸命に戦い、勝利を目指していた。数分後、伊万里川と周辺の河原は濁流に飲み込まれ、数百から一千名規模の兵士が流されたという。

龍造寺氏は兵の半数近く、敵豪族たちも壊滅的な被害を受けた。その後、合戦は膠着状態に陥った。この時、川上から迂回してきた兵士たちは戦況および突入するタイミングを伺っていた。そして、龍造寺氏の背後に回り、急襲を仕掛けたのである。

龍造寺氏の隊は背後を突かれたことで統率を失い、伊万里川の河原に撤退を余儀なくされた。しかし、川の水はさらに上昇し、生き残った数百名の大半が濁流に飲み込まれた。

伊万里合戦を制した豪族たちは、伊万里湾に流れこんだおびただしい数の遺体を数カ月かけて回収。龍造寺氏の兵たちはひとり残らず首を切り取り、合戦の舞台になった下流域(延命橋周辺)にさらしたのち、野生動物のエサにした。

以来、伊万里川下流域周辺では頻繁に霊が目撃されるようになった、と言い伝えられている。現在、この伝承は幸せを呼ぶ三つの橋という作り話に覆い隠されている。しかし、作り話に霊を供養する力はなかったようだ。

まとめ
伊万里合戦の詳細を記す資料はほとんど出回っていない

都合のよい(明るく楽しい)作り話を広めても、霊を供養することはできない

基本情報
心霊スポット延命橋
(えんめいばし)
所在地〒848-0041
佐賀県伊万里市新天町475-12
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間10分
【高速】佐賀空港から約1時間10分

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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間5分
【高速】佐賀駅から約1時間

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関連サイト伊万里市 公式ホームページ

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鬼ノ鼻山憩いの森

鬼ノ鼻山(おにのはなやま)憩いの森』は、標高435mの「鬼ノ鼻山」中腹に整備された自然公園である。巨大な赤鬼のモニュメントが印象的で、周辺住民の憩いの場になっている。

鬼ノ鼻山は山頂付近まで道路が続いており、多久市やその周辺を一望できることから、公園内の展望台は夜景目当てのカップルで混雑するようになった。しかし、数十年前の開園以来、霊の目撃情報が相次いで寄せられており、日に日に訪れる人は減少。今では、近づき難い不穏な空気に包まれているという。

目撃された霊は、「女性が園内をうろついていた」「生首が道端に転がっていた」など。

以前、小城(おぎ)市小城町でお世話になったI氏という老婆から提供いただいた資料と共に、私は多久市在住のあるご夫婦を訪ねた。

U氏が先祖代々受け継いできた伝承資料の中に記されたある賊の名は、I氏の資料とバッチリ合致した。

跖(せき)」と名乗った賊集団は、委託殺人、盗み、暗殺、戦争など、ありとあらゆる悪事に手を染めたと言い伝えられているが、その存在は謎に包まれている。なお、肥前国だけでなく肥後、薩摩、日向にも大きなコミュニティを持っていたようだ。しかし、少なくとも私は、肥前国(佐賀)以外でその関連資料を見つけることはできなかった

U氏曰わく、「鬼ノ鼻山には、同地の統治者も手出しできない無法地帯と呼ばれる場所があった。そこを治めていた賊たちは、金、米、作物、女、ありとあらゆるものを力づくで奪った。税も納めず好き勝手ばかりする賊たちを打ち滅ぼすべく、統治者たちは何度も兵を挙げた。が、結果はいずれも惨憺たるものだった」という。

1633年、肥前国藩主の鍋島氏(龍造寺氏)は、鬼ノ鼻山周辺および麓の集落で暴れまわる跖を打ち滅ぼすべく、大隊を送り込んだ。

敵が拠点を置く山の中腹には10本以上のルートがあるため、まずそれをすべて防ぎ、隊は賊たちを囲い込むように進軍した。

しかし、跖は執拗な待ち伏せ攻撃、トラップ、火薬を使った爆発と火計を使い分け、鍋島軍を圧倒。500名規模の大隊は死に物狂いで目的地に到達、拠点と思われる施設に突入するも、もぬけの殻だった。

跖は、施設に大隊が飛び込むところを確認、再び火計を仕掛けた。この攻撃で鍋島軍は壊滅。山から立ちのぼる煙が麓の集落でも確認されたという。

数日後、鍋島軍の増援による再攻撃が行われた。しかし、敵の姿はなく、討ち取られた兵士の遺体があちこちに転がっているだけだった。遺体はいずれも両目、鼻、耳、舌を切り取られ、その額に跖の象徴とされる「卍(まんじ)」マークが刻まれていた。

鍋島軍が捜索を断念してから数か月後、跖と思われる賊が再び周辺集落で悪事を働くようにあり、住人たちは収穫した米や作物を失い、女子供は誘拐された

その後、跖がどうなったかについては不明。U氏の資料にも記されていなかった。なお、同地の名の由来は、鬼のように怖い何者かがそこに住み着き、人々を襲ったことから「鬼ノ山」と名付けられ、それがいつしか鬼ノ鼻山に変わったとのこと。

まとめ
鬼ノ鼻山憩いの森に出没する霊は、跖の事件に関連する死者と思われる

街灯がほとんどないため、夜に立ち入る際は懐中電灯をお忘れなく

基本情報
心霊スポット鬼ノ鼻山憩いの森
(おにのはなやまいこいのもり)
所在地〒846-0031
佐賀県多久市多久町1887-55
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約55分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約50分
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関連サイト多久市 公式ホームページ

馬神トンネル

武雄市北方町と多久町の町境を通過する『馬神(まがみ)トンネル』は、1997年に開通した長さ400m超のトンネル(県道24号線)である。このすぐ南側に馬神隧道(旧町道)が残されており、現在は周辺地権者のみが通行している。

馬神隧道をしばらく進むと、封鎖された「旧馬神トンネル」の入り口が見えてくる。なお、トラロープで区画されているため、中に入ることはおすすめしない。

1997年に開通した馬神トンネルと旧トンネルは、有名な心霊スポットである。1989年に発生した「北方事件」および佐賀女性7人連続殺人事件が関連していると噂され、人気の肝試しスポットになったようだ。なお、両事件はいずれも未解決である。

同市北方町にはある興味深い伝承が残されており、犠牲になった集落の住人たちが怨霊化し同地周辺およびトンネルに姿を現すのではないか、と私は思った。

北方事件および連続殺人事件については、旧馬神トンネルが死体遺棄現場のひとつになったと言われている。しかし、「杵島郡(きしまぐん)北方町大峠」の遺棄現場と勘違いされた可能性が高く、同トンネルが事件の舞台になった可能性は低いと思う。

武雄市在住で元大学教授のY氏は、現在歴史家として活動している。曰わく、「江戸時代末期、同地の山奥に武窯集落という小さなコミュニティがあった。しかし、そこの住人たちは他の周辺集落とつながりを持たず、完全に孤立していた。人々は武窯集落を奇人の集まりと呼び、差別するようになった」という。

武窯集落の住人たちは、誰とも意思疎通をとらず、謎に包まれた存在だった。食料はどうしているのか、税金は、周辺集落の人々は「近づいてはいけない」「穢多(えた)や非人が暮らしている」とあらぬ噂を流した。

ある日、武富集落の男が周辺集落に姿を現し、人々は騒然とした。男は何も言わずに一帯を散策、どこかへ消えたという。人々は男の不気味な挙動を恐れ、役人に相談。しかし、「村を散策しただけで取り締まりはできない」と説き、訴えを却下した。

数日後、武窯集落から一番近い人口80名ほどの村で火事が発生。山への延焼を防ぐべく、消火活動が行われた。しかし、村の調査および捜索は1日も経たずに終了、遺体が一体もなかったのである。

村で生活していた人々はどこにいったのか。翌日、別の集落の女性が武窯集落を訪ねると、敷地内で男たちが何かをさばいていた。様子を伺うと、辺り一面血の海地獄になっていることを理解し、吐き気を覚えた。

数分後、火事で焼失した村の老人数名がナタを持った男の前に進み出た。男はナタを勢いよく振り下ろし、老人たちの頭を真っ二つに叩き割った。その様子を目撃した女性は自分の集落に戻ろうとしたが、背後から近づいてきた別の男に捕縛されてしまった

武窯集落の男たちは、火事で焼失した村の女性および、スパイとして送り込まれたもう一人の女性を殺さず、慰みものにした。そして、身体が壊れるまで子供を産ませ、最後には解体、調理したという。

同集落の男たちは、犬、猫、その他野生動物などを食料にしていたと言い伝えられている。なお、ある日を境に男たちは姿を消し、「どこか別の場所に移り住んだ」と噂されるようになった。

まとめ
馬神トンネルと旧馬神トンネルは、昭和に発生した殺人事件の舞台ではない(と思う)

武窯集落の男たちがどこに消えたかは誰にも分からない

基本情報
心霊スポット馬神トンネル
(まがみとんねる)
所在地〒849-2204
佐賀県武雄市北方町大字大崎
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約50分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約40分
【高速】佐賀駅から約40分

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勝尾城筑紫氏遺跡

戦国時代、現在の鳥栖市周辺を治めた「筑紫(つくし)氏」は、肥前国一体で繰り広げられた領土争いの中心人物のひとりである。ただし、他を圧倒する戦力は有していなかったため、結局同エリア外への進出はならず、薩摩の覇者、島津家に飲み込まれた。

ここで紹介する『勝尾城筑紫氏遺跡』は、国の史跡に指定された貴重な歴史遺産である。敷地面積は230ヘクタール(東京ドーム50個分)、その中に400年以上前の貴重な遺構が残されていたため、十数年前まで遺跡調査が行われ、様々な出土品が発見されたという。

地域住民の方曰わく、同遺跡周辺は霊の住処になっていると古くから噂され、夜になると槍や弓を持った兵士が襲いかかってくるらしい。戦国時代の城および周辺エリアでは、合戦や処刑など日常茶飯事。一度に数百から一千人以上が命を落とすことも珍しくなく、霊が出るのは当然だと思う。

私は、同地の伝承に詳しいご夫婦を訪ねた。F氏曰わく、「勝尾城の広大な敷地の一角で行われた拷問処刑は、肥前国でも屈指の過激さを誇っていたらしい。資料によると、股裂き、皮剥ぎ、鋸引き、虫食いなど、罪人たちは地獄の苦しみの末に、もがき苦しみながら死んだ」という。

股裂きの刑は非常にポピュラーな処刑方法である。鋸引きはエグイ、島津家も重罪を犯した者にこの刑を科していた。皮剥ぎはその名の通りである。そして、対象者(罪人)に最も大きな苦痛と屈辱を与える刑が虫食いである。

この刑は藩主、家老、合戦の戦局に大きな影響を与える侍大将クラスのリーダーなどに適用された。罪人は正座状態で身動きできないように固縛され、頭が出るサイズの箱に押し込まれる。その後、全身に糞尿や腐った食物などをタップリ塗り付ければ完成である。

正座状態で身体をガッチリ固定されているため、眠ることはできない。しばらくすると、密閉された箱の中にウジ虫が湧く。ウジ虫は罪人の肉をゆっくり食べることで成長し卵を産みつける。この間、罪人は腐った食料と水を無理やり食べさせられ、酷い下痢に苦しめられる。箱の中は自分の下痢と尿、そしてウジ虫で満たされるのだ。

記録によると、この刑は原則男子にのみ適用される決まりだったが、敵豪族の親族の中で特に評判の悪い者に対しては、女性でも対象になり得たらしい。唯一、この刑を受けたある豪族の妻は、自分の暮らしを豊かにすることしか考えておらず、家臣、兵士、領民を奴隷のように扱った悪女だった。

約2週間、箱の中で全身を喰い尽くされた悪女と夫は、半死半生状態で磔にされ、生きたまま河原にさらされた。筑紫氏は悪女の夫が治めた土地の領民たちに対し、「好きなだけ石を投げつけよ」と指示した。

皆、最初は戸惑っていたが、厳しすぎる税の取り立てや不当な取り締まり、差別を助長する酷い政治を思い出し、こぞって投石した。

二人は腐った全身の肉を石で打たれた。夫は猿ぐつわを噛まされていたため、最期まで一言も発することができず、血と涙と糞尿にまみれて死んだ。それを見届けた悪女は、今わの際に猿ぐつわを噛み切り、「ひとり残らず呪い殺してやる」と叫び、舌を噛み切った。

勝尾城筑紫氏遺跡で目撃される霊は、「槍を持った兵士が襲いかかってきた」「血だらけの女性が立っていた」など。

まとめ
勝尾城筑紫氏遺跡は鳥栖市を代表する歴史遺産のひとつ。霊のホットスポットしても有名である

全身を打たれた悪女は、怨みつらみを募らせ憤死。怨霊化し、同地周辺を彷徨っているかもしれない

基本情報
心霊スポット勝尾城筑紫氏遺跡
(かつおじょうちくししいせき)
所在地〒841-0086
佐賀県鳥栖市牛原町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間5分
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【一般道】佐賀駅から約55分
【高速】佐賀駅から約50分

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関連サイト鳥栖市 公式ホームページ

千歳川北岸仮停車場跡

九州鉄道」は、九州で初となる鉄道を敷設、運営した民間企業(20世紀初頭に国有化)である。

鳥栖市南部、福岡県久留米市との県境に『千歳川北岸(ちとせがわきたぎし)仮停車場跡』と呼ばれる同鉄道発祥の地がある。JR鹿児島本線と九州新幹線の高架下に100年以上前の遺構がしっかりと残されており、今でも鉄道ファンを中心にたくさんの観光客が足を運ぶという。

しかし、九州を代表する鉄道遺産のひとつは、なぜか霊が出没すると話題になっていた。鳥栖市出身の某大学教授のU氏曰わく、「江戸時代、停車場跡地のすぐ南を流れる筑後川の河原には、上流で遺棄されたゴミや遺体がよく流れ着いた。貧しい人々はそれを回収、使えそうなものは売り、遺体は下流域めがけて押し流した」という。

本来、遺体が流れ着いた場合は、役所に届け出たうえで死因を調査しなければならない。しかし、同地の役人たちは「身内から捜索依頼が出ない限り、調査は行わない」というスタンスを貫いていたようである。つまり、調査するだけ時間の無駄、と考えていたのだ。

1666年、役人たちの怠慢が恐ろしい悲劇を招くことになった。ある日、ひとりの男がいつものように筑後川の河原を探索していると、水辺に浮かぶ4体の遺体を発見した。男は大急ぎで遺体を回収。身ぐるみをはがそうとした時、異変に気付いた。

どざえもんになった男女の皮膚は、紫色に変色していた。さらに、川魚や虫に食われたような跡が全くなかったのである。男はパンパンに膨れ上がった男女の服をむしり取ろうとした。すると、遺体の腹が爆発、内臓が飛び散り、この世のものとは思えない腐乱臭を放った。

男は気分が悪くなり、撤退。しかし、河原から離れて数分後、男は道端に倒れこみ、動かなくなった。

翌日、同地の周辺住民たちは、筑後川の河原付近におびただしい数のカラスが飛来している様子を目撃した。しかし、数分経つとカラスの声は止み、静かになった

住民たちは数百羽のカラス、野犬、タヌキなどの野生動物が河原で死んでいる様子を見て震え上がった。その中心に人間と思われる遺体があり、酷い腐乱臭を放っている。さらに、少し離れて地点で、住民たちのよく知る男が倒れ、息絶えていた

その日の午後、役人たちの調査(検分)が行われている最中に上流域から20体以上の遺体が流れ着いた。住民と役人は、力を合わせて遺体を陸地まで移動させた。

パンパンに膨れ上がった20体以上の遺体の腹が爆発したのは夕方頃だった。この時、検分中だった役人と一部の住民たちが飛び散った内臓と腐った血液を浴び、数分も経たなうちに死んだ

運よくそれから逃れた者は、集落に戻り、応援を求めようと思った。すると、またしても上流域からおびただしい数の遺骸が流れてきたのである。河原と水面は紫色に変色したどざえもんに覆い尽くされ、地獄の様相を呈していた

千歳川北岸仮停車場跡南の河原に流れ着いた遺体は、上流域の集落で発生した疫病が関連していると噂された。しかし、どこの誰が死んだかは結局分からずじまい。どざえもんの内臓と血しぶきを浴びた者たちはひとり残らず死んだと言い伝えられている。

まとめ
千歳川北岸仮停車場跡は霊のホットスポット。ただし、鉄道と霊は関係ないと思われる

疫病の正体は不明。恐らく、水死体が流れ着いた時は丁重に供養しなさい、という伝承に尾ひれが付き、奇怪な疫病伝説が広まったのだと思う

基本情報
心霊スポット千歳川北岸仮停車場跡
(ちとせがわきたぎしかりていしゃじょうあと)
所在地〒841-0063
佐賀県鳥栖市下野町
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約45分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約40分
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関連サイト鳥栖観光コンベンション協会 公式ホームページ
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島津義弘陣跡

泗川(しせん)の戦い」は、九州最大の大大名に上り詰め、日本屈指の武闘派集団と恐れられた「島津家」の名を日本中に知らしめた伝説の大合戦である。

豊臣秀吉率いる連合軍の朝鮮出兵に参戦した「島津義弘」は、全滅必須の絶望的な戦いに挑み、朝鮮軍を蹴散らした。島津軍7,000人に対し、朝鮮軍は80,000人(諸説あり)と言われており、この戦いによって島津義弘の武勇は日本だけでなく大陸中に響き渡ったのである。

ここで紹介する『島津義弘陣跡』は、唐津市鎮西町(ちんぜいちょう)の北部に現存する遺構である。唐津市には豊臣連合軍の拠点、「名護屋城」が築城され、その周辺に日本各地の有力大名が陣を張った。

島津家の陣跡では霊の目撃情報が相次いでいる。しかし、他の有名大名(徳川家康、前田利家、伊達政宗など)の陣跡でそのような噂が流れたことはない。なぜか。島津家の陣近くに朝鮮人の遺体処理場が造られたためである。

大陸での戦いで獲得した首、耳などの一部は日本に移送、秀吉から褒美を得るための証拠として献上された。その後、献上に伴う儀式や手続きを終えると、遺体は無用の長物になる。大名たちはこの処理に苦心した。自分の領土であれば、専用の塚に埋めてしまえば良いのだが、ここは九州である。

また、自陣に遺体を埋葬するのは縁起が悪いと考えられていた。この時、大名の問い合わせを受け遺体の処理に頭を悩ませて石田三成は、島津義弘に相談した。すると義弘は、「自陣の近くの浜辺に遺棄せよ」と提案したという。

島津家は泗川の戦いで歴史的な勝利をおさめ、30,000~50,000ほどの朝鮮兵の耳を日本に持ち帰っていた。この数は他の有力大名を合わせても敵わないと噂され、「勝利は素晴らしいことだが、討ち取った者の耳を全て持ち帰るなど聞いたことがない。島津は狂っている」と、皆、義弘を恐れた。

義弘はうず高く積まれた耳の山に満足し、これに他の大名の首級が少し追加されたところで大した影響はないと考え、石田三成の悩みを解消したのである。

島津家の兵士たちは、自陣近くの浜辺に巨大な穴を掘った。他の大名たちはそこに遺体を遺棄、この時、島津家が集めた耳の山を見た者たちは、義弘を最強の武将と認め、「九州でトラブルに巻き込まれた時は、島津を頼ればよい」と誰もが認識したという。

遺体は一体残らず火葬され、灰および骨は海にばら撒かれた。さらに、島津家が獲得した耳の約半分は「軟骨鍋」の食材として利用し、兵士たちの腹を満たしたという。

島津家の豪傑たちは、霊をつゆほども恐れていなかったのだろう。首や耳を切り取られた朝鮮人には何もできない、と考えたのかもしれない。しかし、同地が霊の住処になったことで、現地住民たちはかなり苦労したようだ

朝鮮人数万人の遺体が処理され、同地は霊のホットスポットになった。なお、「肥前国(佐賀県)の海に近づくと、霊に引きずり二度と浮上できない」という伝承は、今も脈々と受け継がれている。

まとめ
島津義弘陣跡近くで数万人分の首と耳が処理された

島津家は霊を恐れなかったが、周辺住民たちは違った。彼らは度々霊に悩まされ、「島津とは二度と関わりたくない」と噂した

基本情報
心霊スポット島津義弘陣跡
(しまづよしひろじんあと)
所在地〒847-0404
佐賀県唐津市鎮西町波戸
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間55分
【高速】佐賀空港から約1時間50分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間45分
【高速】佐賀駅から約1時間30分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト唐津観光協会 公式ホームページ

恋人の聖地

唐津市北部、玄界灘に面する「波戸(はど)岬」は、いつしか「ハート💛岬」と呼ばれるようになり、今では『恋人の聖地』として人気を集め、恋愛を成就させたいカップルや夫婦の聖地になった。

先に述べた「島津義弘陣跡」と恋人の聖地は、直線距離で1kmも離れていない。朝鮮人数万人分の首と耳が処理された同陣跡は霊のホットスポットとして恐れられる一方、目と鼻の先にある恋人の聖地は「ラブ💛スポット」「訪れたカップルは必ず結ばれる💛」と信じられている。

同地が恋人の聖地と呼ばれ始めたのは、数十年前からである。なぜ、同地にそのような名がつき、ラブ💛ラブ💛な噂が流れるようになったのか。理由は単純明快、一目瞭然、旗幟鮮明(きしせんめい)である。

某大学で九州の歴史を研究するT氏曰わく、「1638年、島原の乱の敗戦で行き場を失った数百名のキリシタンが波戸岬周辺にたどり着いた。死期を悟った一部の者は玄界灘に身を投げたが、キリスト教は自殺を固く禁じている。敬虔深い者はそこに身を隠し、嵐が過ぎ去るのを待った」という。

肥前国藩主、鍋島氏(龍造寺氏)の家臣は、各地に散らばったキリシタンを追い詰めた。当初、鍋島氏は、「改宗に従う者は生かす」という方針だったが、仏教信者を名乗りロザリオを身につける隠れキリシタンたちの噂が日本中に広まり、「キリスト教を日本から排除するためには、殺す以外手はない」と幕府が方針を改めたため、その場で切り捨てるもしくは処刑せざるを得なくなった。

波戸岬周辺に数百名規模のキリシタンが潜伏している、という情報がもたらされ、鍋島氏の家臣は1,000名超の大隊を率いて出陣した。

大隊は退路を塞ぎつつゆっくり北上、さらに周辺住民の力も借りた。キリスト教を邪教と信じる住民たちは、キリシタンのフリをして逃亡者たちに接触し、食料や水を与え油断させた。

夜、1,000名超の大隊は気配を消して波戸岬に接近、急襲を仕掛けた。キリシタンたちは一網打尽にされ、ひとり残らず捕縛。海に身を投げようとした者もいたが、迅速かつ強力な急襲攻撃に屈した。

数日後、公開処刑は玄界灘に面した崖の上で行われた。執行人たちは、崖の縁にキリシタンを座らせ、背後から首を切り落とした。離れ離れになった首と身体は玄界灘に飲み込まれた。

最期に祈りを捧げたい」と懇願する者は、舌を切り落とし、串刺し火刑に処した。当然、祈ることは一切許されず、焼死体は崖の下に蹴落とされた。

信仰の自由を奪われたキリシタンたちは、最期の祈りを捧げることすら許されず、ゴミのように切り捨てられ、海の藻屑になった。女子供、赤子も同じ運命をたどり、若い女子の中には、聴衆の面前で服をむしり取られ、酷い辱めを受けた者もいたという。

大虐殺終了後に崖下の様子を伺った周辺住民たちは、波に揺られ岩場に打ち付けられるキリシタンの遺体を見た。

恋人の聖地こと波戸岬では、頻繁に霊が目撃されている。「女性の悲鳴が聞こえた」「男性と女性が崖から身を投げた」「夜になると赤ちゃんの泣き声が聞こえる」など、いずれもキリシタンに関連しそうなものばかりである。

まとめ
キリシタン数百名が壮絶な最期を遂げた波戸岬は、ラブ💛スポットになった

良い噂ばかり流す施設やエリアには、必ず裏(おぞましい伝承や伝説)がある

基本情報
心霊スポット恋人の聖地
(こいびとのせいち)
所在地〒847-0404
佐賀県唐津市鎮西町波戸1628
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間55分
【高速】佐賀空港から約1時間50分

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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間45分
【高速】佐賀駅から約1時間35分

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関連サイト唐津市 公式ホームページ
画像はイメージです

松島

唐津市の北部、「呼子港(よぶここう)」からフェリーで20分ほど玄界灘を北進すると、『松島』が見えてくる。なお、松尾芭蕉の有名な一句、「松島や ああ松島や 松島や」の松島(宮城県)ではないのであしからず。

松島は「キリシタンの島」と呼ばれ、島民のほとんどが敬虔なキリスト教信者だという。約200年前、キリシタンたちは厳しい弾圧と取り締まりをくぐり抜け、松島に移住し生活を始めたと言い伝えられている。

私は佐賀県出身の歴史家兼ミュージシャンのK氏に連れられ、初めて松島を散策した。「あの島には霊が住み着いている」という噂を聞き、ぜひ探索したいとお願いしたのだ。

松島に上陸する前、私たちは唐津市在住のH氏という御仁にお話を伺った。曰わく、「松島は、現在の島民の子孫たちが移住するまでずっと無人島だった。理由は、怨霊の巣くう島と恐れられていたためである。1638年、島原の乱は幕府軍の勝利で幕を閉じ、戦場から生き永らえたキリシタンの一部は、役人の目の届かない松島に渡った」という。

松島に渡ったキリシタンたちは、島内にコミュニティを形成、田畑を開墾し、皆で手を取り合いながら生活した。なお、九州本土(波戸岬)からは直線距離で5km近く離れているため、誰かに見られる心配もまずない。コミュニティは順調に発展した。

1653年、小さな手漕ぎ船に乗った男女が玄界灘を北進。荒波にもまれながらも、何とか松島への上陸を果たした。男女は着替えすら持たず、身につけていた衣服もボロボロだったという。島民たちは警戒し、コミュニティを守るために武器をとった。

男女は島民に捕縛されたが、ロザリオと聖書の切れ端を持ち、「私たちは敬虔なキリスト教信者である」と訴えたため、開放し島に渡った理由を問い質した。

九州各地では、目を覆いたくなるほど酷く厳しいキリシタン狩りが行われていた。幕府は、その教義を日本から消し去りたいと考え、結果、おびただしい数の信者が信仰の自由を奪われ、死んだという。

松島に渡った男女はコミュニティに加わることを許可された。

数日後の晩、鍋島氏の家臣、松田氏率いる船団が本土を出航し、松島に向かっていた。

男女は松島の地形、コミュニティの規模、人数、武器の有無などをチェックしていた。そして、浜辺で船団の到着を待ち、300名超の兵士たちを招き入れたのである。

松田氏の放った刺客(男女)は掃討戦に必要な情報をもたらした。兵士たちは静かに侵攻し、コミュニティを包囲。火矢と火縄銃による一斉攻撃を開始した。

急襲を受け、コミュニティは壊滅、武器を持った男女は容赦なく撃ち殺され、ひとり残らず倒れた。抵抗を諦めた男女数十名は最期を覚悟し、キリストに祈りを捧げようとした。しかし、「教義を捨てねば子供と赤子から殺す」と脅され、従わざるを得なかった。

死亡したキリシタンたちは、串刺しののち、さらされた。生け捕りにされた者たちも同様である。なお、生存者の一部は「改宗するので、家族だけは助けてほしい」と涙ながらに訴えた。しかし、仏教徒のフリをするキリシタンが日本全国で確認されており、幕府および鍋島氏は「原則処刑」を指示していた。

松島で目撃される霊は、「串刺し遺体が海岸沿いにさらされていた」「道端に生首が転がっていた」など。

まとめ
松島に形成された隠れキリシタンのコミュニティは、鍋島氏の襲撃を受け、1653年頃に滅んだ

松島の東部、雑木林の奥深くにキリシタンの墓および供養碑が建立されている

基本情報
心霊スポット松島
(まつしま)
所在地〒847-0406
佐賀県唐津市鎮西町松島
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約2時間30分
【高速】佐賀空港から約2時間25分

※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約2時間20分
【高速】佐賀駅から約2時間5分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト唐津市 公式ホームページ

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巨石パーク

佐賀市の中央部、「金敷城山(かなしきじょうやま)」の麓に『巨石パーク』と呼ばれるテーマパークがある。ここは、スピリチュアル系パワースポットとして知られ、不思議な力にあやかりたい人々から支持されている。

同パーク内には、大昔に形成されたと思われる巨大な石が点在している。大きいもので高さ10m超、「コズミックパワーを感じる」「宇宙人が運んだに違いない」などといった噂が流れ、いつしかパワースポットと呼ばれるようになったという。

宇宙人は恐らく存在する。しかし、広大過ぎる宇宙の中で、宇宙人が地球を見つけ出し、小さな島国(日本)の小さなエリア(佐賀県)の小さな一角(佐賀市の山中)を訪れる可能性は極めて低い、と私は思う。

巨石パークがパワースポットと呼ばれるようになった理由は、先に述べた「恋人の聖地(唐津市)」と全く同じである。同地に伝えられるおぞましい伝承を知る一部の者は、それを意図的に上書きし、人々の記憶から消し去りたいと考えた。しかし、記憶や記録を意図的に上書きしても、霊は消えないし成仏することもない。

佐賀市大和町で生まれ育った老婆曰わく、「戦国時代、金敷城山の麓には龍造寺(りゅうぞうじ)氏の処刑場があったと言い伝えられている。今でこそ周辺一帯はキレイに整備されているが、当時は山の麓から川上峡まで緑は一切なく、罪人を切り刻む禿山と恐れられていた」とのこと。

老婆(M氏)の保管する伝承資料によると、金敷城山の樹木は住民たちによって切り尽くされ、また、合戦による火災の影