2020年、観光・旅行・宿泊(ホテル)業界は試練の夏を迎えることになる。コロナウイルスの影響で観光客はまず間違いなく減少するだろう。当然、心霊スポットに足を運ぶ人も少なくなる、と思われる。

夏の暑さを乗り切るために必要なものは、旅行、観光、うなぎ、そうめん、アイス、肝試し、そして心霊スポットである。身の毛もよだつおぞましい伝承の伝わる地を散策すれば、全身から冷や汗が噴き出し、足はガクガク、歯はガチガチ、恐怖のあまり失禁することもあり得る。

今回は神埼市他4市の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。暑い夏にピッタリの素晴らしい恐怖体験を楽しみたい方は、ぜひ足を運んでいただきたい。

目次

 1.神埼市
   ・荒瀬の滝
   ・姉川城跡
   ・後鳥羽神社

 2.嬉野市
   ・子捨谷史跡
   ・牟田池
 3.小城市
   ・夢とロマンの丘公園
   ・不動の滝
 4.鹿島市
   ・中木庭ダム
   ・千年樫の木
   ・藤之瀬延命地蔵尊
 5.武雄市
   ・おつぼ山神籠石
   ・永野の風穴

まとめ

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荒瀬の滝

一級河川「城原川(じょうばるがわ)」の上流域に『荒瀬の滝』と呼ばれる高さ10mほどの小さな滝がある。この滝に関連するおぞましい伝承を知る者は非常に少ない。

神埼市脊振町(せふりまち)で生まれ育った御仁から情報提供いただき、貴重な伝承資料を見せてもらった。F氏曰わく、「江戸時代、荒瀬の滝は自殺の名所として知られていた。周辺住人は近づくことを恐れ、役人たちも辺境の地での捜索を無意味と判断し、滝周辺は荒れ果てていた。ある日、滝の近くの集落で暮らす男が疫病にかかり、大騒ぎになった」という。

疫病を患った男は、妻と二人で荒瀬の滝に通い、自殺者の遺体を供養していたと証言した。この話を聞いた役人は二人をほめたたえ、引き続き”掃除および供養”を継続するよう指示。しかし、集落の住人たちは疫病の蔓延を恐れ、感染した男の妻に「二度と滝に近づいてはならない」と命令した。

妻は諦めずに夫を看病したが、病状は改善せず、数日後に死亡。集落の住人たちは、疫病の蔓延防止のために遺体および夫婦の自宅を完全に焼き払った。さらに、遺骨は川へ遺棄し、仏に許しを請う、と決めてしまった。妻は当然これに反対したが、住人たちは彼女の意見を一切聞き入れず、「魔女」呼ばわりする始末だった。

数日後、ひとりの女性がある疑問を口にした。「なぜ、死んだ男の妻は疫病にかからなかったのか?」と住人たちに問うたところ、誰一人答えを出すことはできなかったという。

この質問をした女性は、死んだ男の妻を憎んでいた。F氏の伝承資料には、「死んだ男との結婚を望んでいたが、醜い容姿のせいで相手にされることすらなかった」と記されていた。

醜い容姿の女は、死んだ男の妻が荒瀬の滝で自殺者の遺体を解体、城原川に流し、呪いを拡散したと嘘の情報を流した。夫はその影響で死に、今やこの集落だけでなく、下流域の町にまで影響を及ぼしかねないと言いふらしたのである。

この話は集落から下流域の町に広まった。そして、城原川の水を利用してはならない、という御触れまで出てしまったのである。事態を重く見た役人たちは嘘の情報を信じ、死んだ男の妻を捕縛。呪いを拡散した罪で拷問刑に処した。

妻は集落近くの河原で百叩きの刑に処された。刑は三日三晩延々と続き、妻の身体は風船のように膨らみ、見るも無残な姿になったという。刑執行から五日目、疫病の起源とされた妻は全身をズタズタに引き裂かれた後、生きたまま焼き殺された。

その様子を見届けた醜い容姿の女は、復讐を果たしたことに満足し、真っ黒こげになった妻の遺体を激しく踏みつけ、唾を吐きかけた。

数週間後、疫病は感染拡大を続け、手の施しようのないレベルに達した。集落の住人たちは軒並み感染し、道端に遺体が散乱していた。しかし、死んだ男の妻をハメた醜い容姿の女だけはなぜか感染しなかった。

醜い容姿の女は、死んだ男の妻と同じく疫病の起源に認定。百叩きの刑に処された。この時、刑を執行した役人は、女が醜いことに驚愕し、嬉々として叩き伏せたという。しかし、この女は中々死ねなかった。刑は1週間以上続き、赤黒く腫れあがった身体から血と肉汁が噴き出し、役人たちは「日の本一醜い女」と名付けた。

荒瀬の滝周辺で目撃される霊は、「女性が河原の近くに立っていた」「女性が滝つぼから這い出てきた」など。なお、同滝で自殺した者の遺体が解体され、城原川に流されたという証拠は見つかっていない。

まとめ
荒瀬の滝周辺で目的される霊は、疫病で死んだ男の妻と噂されるようになった

伝承資料によると、疫病はハンセン病の可能性大

基本情報
心霊スポット荒瀬の滝
(あらせのたき)
所在地〒842-0203
佐賀県神埼市脊振町服巻
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約55分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約40分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト神埼市観光協会 公式ホームページ

姉川城跡

佐賀平野の平坦な地形を生かした「クリーク(溝)」は、佐賀県を代表する観光資源のひとつである。神埼市の繁華街にもそれが縦横無尽に築造されており、初めて見た方は城の堀を連想するはずだ。

ここで紹介する『姉川城跡』は、九州を代表する豪族、菊池氏によって築城されたと言い伝えられている。なお、近江(滋賀県)で発生した姉川の戦い(織田信長vs浅井長政)とは無関係である。

姉川城は佐賀平野のクリークを堀として利用した平城(ひらじろ)である。防御能力は山城より低そうに見えるが、この城の周りに築城された「野田城」「本告(もとおい)城」とトライアングル陣形を組み、敵兵を3城の中央に誘い込むことができれば、勝ちは確実と言われていた。

この城跡周辺では頻繁に霊が目撃され、「両手に生首を持った鎧武者に追いかけられた」「槍を持った騎馬隊が襲いかかってきた」など、人間に何かしらの敵意を向けるものが多いという。私は、九州の郷土史を研究する某大学教授のU氏と共に、ある老夫婦の自宅を訪ねた。

神埼市神崎町周辺の伝承を代々受け継いできたM氏に、興味深い資料を見せていただいた。なお、姉川城の歴史を記した資料は一切見つかっておらず、同氏が保管する資料は非常に貴重なものである。

M氏曰わく、「戦国時代末期、姉川城城主の姉川氏は、野田城と本告城に詰めていた家臣の謀反によって滅んだと言い伝えられている。作戦の陣頭指揮を執った大名、龍造寺(りゅうぞうじ)氏は、姉川氏が自分たちの邪魔になると考え、その一族、友人、知人、そして謀反に賛同した野田城、本告城の家臣たちもことごとく打ち滅ぼした」とのこと。

作戦は非常に単純である。龍造寺氏は姉川氏(姉川城)との正面衝突を回避したいと考え、その家臣を調略で落とした。結果、姉川氏は孤立し、四方八方から一斉攻撃を受けることになった。

この作戦は人情味のかけらもない残虐非道なものだった。龍造寺氏は、一千名規模の大軍を真夜中に進軍させ、周辺集落に一斉夜討をかけた。住人たちは声を上げることもできずに捕縛。ひとまずその場に捨て置かれた。

その後、姉川城を完全に包囲し、寝返った姉川氏の家臣の案内で城内に潜入。兵士たちは武装する間もなく槍で突き殺され、藩主に自害するヒマすら与えなかったという。

藩主、その家族、家臣、そして集落の中に隠れ住む姉川氏の血縁者たちは生け捕りにされた。藩主は切腹を申し出たが、龍造寺氏は主張を却下。公開処刑に処すことを決めた。

姉川氏一族に科された「鋸(のこ)引きの刑」は、日本を代表する残虐刑のひとつである。罪人は逆さまに吊り上げられ、両足を広げた状態で固定。巨大なノコギリをもった二人が罪人の股にそれを当て、前後に引く。ノコギリは切れ味の悪い物をあえて選び、罪人に地獄の苦痛を与えたと言われている。

藩主を除く全員、乳飲み子もこの刑に処された。しかし、藩主だけは生かされたのである。龍造寺氏はかつて受けた屈辱を晴らすべく、藩主を30年以上幽閉。牢獄内に家族の遺骨を捨て置き、その死を一生忘れさせないようにしたという。

藩主は自害することを最期まで許されず、牢獄の中で怒りと怨みつらみを募らせ、1603年に死んだ。

まとめ
姉川城跡周辺はホットスポット。同地で憤死した姉川氏一族の霊が彷徨っている

鋸引きの霊は罪人に地獄の苦痛をもたらすため、採用されることはかなり少なかったという

基本情報
心霊スポット姉川城跡
(あねがわじょうあと)
所在地〒842-0014
佐賀県神埼市神埼町姉川1189
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約35分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約20分
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関連サイト文化遺産オンライン 公式ホームページ

後鳥羽神社

1221年、鎌倉幕府から政権を奪取すべく、「後鳥羽上皇(天皇)」は挙兵を決意した。「承久の乱」は日本史を代表する一大決戦のひとつ。敗れた朝廷は「武士」への属従を強制、政治からの完全撤退を余儀なくされ、日本の政治は大きな転換点を迎えた。

後鳥羽上皇は「武士によって裁かれた」史上初の天皇である。天皇家とは日本神話の主神、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の血を受け継ぐ者であり、逆らうことなどあり得ないと信じられてきた。しかし、幕府軍総大将の「北条氏」は、天皇を人間と同じように扱ったのである。

後鳥羽上皇は隠岐諸島(島根県)に流され、幕府への怨みつらみと政権奪取を願い続けたが、その願いは最期まで叶わず、憤死した。その上皇が秘密裏に足を運んだ地が佐賀県神埼市の山中に建立された『後鳥羽神社』周辺だと言い伝えられている。

なぜ、上皇はわざわざ肥前国の山奥に足を運んだのか。理由は同地にのみ伝えられる怨霊伝説が関連している、と九州の郷土史を研究する某大学教授のU氏は言った。曰わく、「同地は、天照大神が神武天皇(初代天皇)に力を授けた地と言い伝えられていた。後鳥羽上皇も当然この伝説を知っており、天照大神の力を借り、鎌倉幕府に復讐したいと考えた。しかし、その願いは最期まで聞き入れられず、上皇はひとり寂しく憤死した」という。

1811年、後鳥羽神社を舞台にした凄惨な事件が発生する。以来、同社は霊の住処になったと言われている。ある日、後鳥羽神社の南東部に位置する「鳥羽院下集落」の幼児数十名が姿を消した。集落は大騒ぎとなり、肥前藩の役人たちによる山狩りが実施された。

犯人は新鮮な幼児の肉を喰らう賊たちだった。彼らはよりにもよって後鳥羽神社の境内で幼児たちを解体し、その肉を喰らったのである。さらに、賊たちは本堂を木っ端みじんに破壊し、その木を薪代わりにして遺体を消し炭にした。神をも恐れぬ大胆不敵な犯行に、役人と集落住人は震え上がったという。

数日後、集落の住人たちは跡形もなく消え去った後鳥羽神社再建に向けて動き出した。木を伐り、皆で材料作りに励んだ。

数か月後、住人たちは後鳥羽上皇を祀る仮の本堂を完成させた。以来、上皇の命日の2月22日には必ず神事を催し、境内とその周辺の清掃は大切な習わしとして受け継がれている。

仮本堂完成の翌日、ひとりの男が神社の掃除と点検に訪れた。すると、境内中央付近に男女数十名の串刺し遺体が放置されていたのである。

男女数十名は賊と思われるものの、真偽不明。同地で受け継がれてきた伝承資料によると、「賊たちは肛門から杭(木)を打ち込まれ、口まで貫かれていた。しかし、なぜか血の跡は一滴もなく、野生動物や虫に喰われた気配すらない。ひとつ、遺体に共通していたことがある。賊たちはひとり残らず目、鼻、耳、唇、、歯、舌を全て失っていた」という。

この伝承は後鳥羽上皇を神格化するために流された噂と信じられてきた。しかし、「境内に串刺しになった男女が並べられていた」「本堂から幼児の泣き声が聞こえた」「この世の者とは思えない悲鳴が聞こえた」など、今でも霊の目撃情報が相次いでおり、伝承は噂ではないのかもしれない、と考えさせられてしまう。

まとめ
後鳥羽上皇が肥前国に足を運んだか否かは誰にも分からない

後鳥羽神社は霊のホットスポット。上皇を怒らせた賊と犠牲になった幼児たちが霊になったのかもしれない

基本情報
心霊スポット後鳥羽神社
(ごとばじんじゃ)
所在地〒842-0202
佐賀県神埼市脊振町鹿路
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約55分
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【一般道】佐賀駅から約35分
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関連サイト神埼市観光協会 公式ホームページ
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佐賀県神崎町 後鳥羽神社 鳥羽院地区にある後鳥羽上皇の伝説を伝える神社だよ。 深い山奥にあるよ。 承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が、隠岐の島から流れて、隠れ住んだと言われてる場所だよ。地区の名前にもある通り、墓もある。 本人ではないかも知れないけれど、都の人間が流れてきたのは確かだと思うよ。文化の広がりの一つの例だ。 美しい苔に覆われた神社だよ。 小夏さんは、ネイチャーしていたせいか大興奮だったよ。 #佐賀県観光#佐賀をさがそう #神崎町観光#後鳥羽神社#苔が美しい神社#伝説を伝える#小夏さん#旅犬#保護犬から

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子捨谷史跡

子捨谷(こすてだに)史跡』は、嬉野市西部、二級河川「塩田川」の麓に位置する歴史遺産である。その名の通り、同地は「子供を捨てた谷」だったと言い伝えられている。

1638年に集結した「島原の乱」は、肥前国(佐賀県)にも甚大な影響を与えた。幕府連合軍に立ち向かい敗走したキリシタンや農民たちが肥前国や肥後国(熊本県)、薩摩などに逃げ込み、姿を隠したためである。

隠れキリシタンに関連する伝承は、九州各地で今も大切に受け継がれている。しかし、あまりに惨く悲惨な記憶はいつの間にか風化し、忘れ去られてしまうケースも多い。嬉野市上不動地区で生まれ育ったW氏曰わく、「子捨谷史跡は隠れキリシタンが役人から逃亡する際、足手まといだった赤子を投げ捨てた、と言い伝えられてきた。しかし、それは大きな間違いである。女性たちはお腹を痛めて生んだ大切な命を谷に投げ捨てなどしなかった」という。

島原の乱が発生する以前から、キリシタンに対する厳しい迫害は始まっていた。しかし、1638年以降、取り締まりは激しさを増し、捕らえられた者たちは改宗を受ける間もなく、処刑された。

上不動地区およびその周辺に潜んでいたキリシタンたちは、追っ手の追撃をうまくかわし、住民の中に溶け込んでいた。ある日、赤子を生んだばかりの女性がロザリオを隠し持っている、と噂になった。住民たちが事実確認したところ、女性は隠れキリシタンであることをあっさり認めた。

集落の住民たちは女性とその家族、その他数十名の隠れキリシタンを匿うことに決めた。命の危険を冒してまで匿うと決めた理由は、7人の赤子を守るためだった。しかし、ロザリオを持った女性が匿われている、という情報はあっさり漏れてしまい、役人たちに伝わった。

数日後、肥前国藩主の命により、500名規模の大隊が出動。上不動地区を取り囲み、隠れキリシタンに投降を指示した。しかし、7人の赤子を含むキリシタン数十名は、住民たちの指示に従い、別の避難場所へ移動を開始していた。

60歳代で構成された老人たち数十名は、大隊に向けて石を投げつけ、胸の前で十字を切り逃亡。これを見た侍大将は大隊を束ねる家臣に、「キリストの証を確認した」と報告したことで、狩りが始まった。

オトリになった老人たちは、逃亡中のキリシタン、そして赤子のために時間を限界まで稼ぐつもりだった。集落に火を放ち、大隊の進路を妨害。投石や落とし穴などを駆使して、数時間持ちこたえという。

屈強な兵士たちを限界まで引きつけた老人たちは、最期を覚悟し、逃げ場のない谷近くに集結した。この様子を確認した兵士たちは、違和感を感じつつも攻撃態勢を継続。足軽部隊による一切射撃を行った

老人たちは弾丸の雨を真っ正面から受け、ひとり残らず谷底に叩き落とされた。これを見届けた家臣は、谷底に落ちた男女の遺体をのぞき見、掃討戦終結を宣言した。

同地に”初めて”慰霊碑が建立されたのは1650年。小さな石碑だったものの、隠れキリシタンのために命を懸けた老人たちの勇気は、上不動地区周辺だけの秘密として語り継がれた。なお、慰霊碑は役人たちの追撃を逃れたキリシタンたちが建立したと言い伝えられている。

子捨谷史跡で目撃された霊は、「赤子を抱いた老婆」「人魂」「どこからともなく赤子の泣き声が聞こえてきた」など。

まとめ
子捨谷史跡の伝承は、上不動地区でのみ言い伝えられている

住民たちに助けられた隠れキリシタン数十名は、信仰する宗教を偽り、生き延びた

基本情報
心霊スポット子捨谷史跡
(こすてだにしせき)
所在地〒843-0305
佐賀県嬉野市嬉野町大字不動山
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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【一般道】佐賀空港から約1時間15分
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牟田池

嬉野市南部、長崎県との県境に面する『牟田池(むたいけ)』は周辺の田畑に水を供給する農業用ため池である。同市の繁華街からかなり離れているため、人の姿はまばら。観光地ではなく、周辺住民の散策スポットと言った方がよいかもしれない。

牟田池は佐賀県南部地方を代表する心霊スポットのひとつである。霊を見たという目撃情報が相次ぎ、子供が引きずり込まれ、そのまま行方不明になったという噂が流れたこともあるらしい。

嬉野市嬉野町出身のK氏は、東京で活動する歴史家兼ミュージシャンである。初めてお会いした時は新手の詐欺師化かと思ったが、某民放番組に出演したこともある経歴の持ち主で、九州の歴史に精通していることから仲良くなった。

K氏に連れられ、牟田池の近くに住むある老夫婦を訪ねた。お二人は同地に伝わるおぞましい伝承を説明してくれた。曰わく、「戦国時代中期、牟田池の水は腐りきってしまい、周辺住人に害をおよぼした。水が腐った理由は、豪族たちが池の近くに処刑兼遺体処理場を造ったためである。罪人を殺し、血や肉を池に遺棄し続けた結果、貴重な水は腐さり、使いものにならなくなった」という。

肥前国の情勢がまだ不安定だった頃、同地では戦や小競り合いが絶えず、道端に遺体が転がっていても、気にする者はほとんどいなかった。しかし、放置した遺体はいずれ腐り、疫病などの蔓延につながる可能性もある。周辺住人たちは、誰かも分からぬ遺体を埋葬し、手厚く供養した

ある日、同地を治めた豪族が牟田池および池の南西部を流れる「千綿川(ちわたがわ)」で処刑を行うと御触れを出した。当時、公開処刑は貴重なエンターテイメントだっため、皆、大喜びで見学した。

罪人たちは主に隣国の兵士たちだった。多い日には1日20人以上、大規模な合戦が終わると、河原と池の周囲に恐ろしい数の生首がさらされた。豪族たちは斬首もしくは火刑を好み、住人たちを大いに盛り上げてくれた。しかし、遺体の処理方法に内心異議を唱える者もいたという。

豪族たちは遺体を牟田池に遺棄した。池の水が川のように流れていれば良かったのだが、田畑に繋がる小さな水路と、水を引き込む小河川以外なかったため、遺体が溜まってくると、酷い匂いを放つようになった

遺体処理を始めてから約2年後。池は遺体で埋め尽くされ、惨憺たる様相を呈していた。毒の沼と見間違えるほど水は紫色に濁り、人間が触ってよいかどうかも分からない。何より、遺体から放たれる腐乱臭はめまいを覚えるほど酷く、池の近くで深呼吸すると気を失う、という噂まで流れていた。

腐乱臭は周辺集落まで届き、住人たちを困らせていた。ある日、集落の見回りを行っていた者が、おぞましいうめき声と共に進む集団を発見した。集団は北に向かって進み、10分ほどで見えなくなったという。

翌日、集落全体を覆っていた腐乱臭が消え、住人たちは大喜びした。理由を確認すべく、男たちは牟田池に移動、遺体の様子を確認した。すると、そこにあったはずの遺体および、紫色に濁った水がキレイさっぱり消えていた。

後日、同地を治めた豪族の屋敷が原因不明の火災で焼け落ち、中から一千体以上の焼死体が発見された。なお、当時、豪族と家臣を除く兵士たちの大半が別の屋敷に詰めていたり、田畑を耕していたため、無事だった。

まとめ
牟田池の遺体と水が消えた理由は不明である

死者が蘇り復讐したという伝説は信じがたい。しかし、伝承として言い伝えられている以上、何かしらの事件があったのかもしれない

基本情報
心霊スポット牟田池
(むたいけ)
所在地〒〒843-0304
佐賀県嬉野市嬉野町大字岩屋川内丙
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間20分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間20分
【高速】佐賀駅から約1時間5分

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夢とロマンの丘公園

過去のおぞましい出来事や事件を隠すためには、よい噂やイメージを意図的に流し、定着させればよい。そうすることで、戦国時代の処刑場跡地にテーマパークができたり、合戦場跡地が今流行りのコンパクトシティになったりするのである。

しかし、そこで憤死した者たちにしてみれば、テーマパークもへったくれもない。怨みつらみを残し、怨霊になっていればなおさらだ。小城市三日月町の山中に整備された『夢とロマンの丘公園』も、よいイメージで過去の悪夢を覆い隠した施設のひとつである。

同園の名を聞いた瞬間、イヤな予感がした。夢、ロマンという希望溢れる単語を二つも名前に組み込んだ理由は分からない。恐らく、県もしくは市の整備担当者が周辺住人や関係者に公募もしくは相談してうえで決まった、と推察できる。

佐賀県出身、歴史家兼ミュージシャンとして活動するK氏の紹介で、私は小城(おぎ)市役所元職員E氏の自宅を訪ねた。E氏は小城市のある伝承について話してくれた。

「夢とロマンの丘公園の東側の丘および雑木林は、平家一族の隠れ里だったと言われている。そして、その周辺に建立された神社や寺、慰霊碑などは、同地に逃げこみ、壮絶な最期を遂げたある平家一族を供養するためのもの、と言い伝えられている」

「壇ノ浦の戦い(1185年)」に敗れた平家一族の残党は、壇ノ浦(山口県)から九州各地に逃亡した。しかし、その大半が途中で討取られたり、捕縛された。

佐賀県に逃げ込んだ赤子を含む男女数名は、源頼朝に加担する豪族たちの目を潜り抜けた。そして、偶然同地周辺に落ち延び、見晴らしのよい丘と目隠しになる雑木林周辺で隠居生活することになった。

1612年、平家一族の末裔は大きなコミュニティを形成し、穏やかに生活していた。ただし、住人の大半は、自分たちが平家一族の血縁者であることを理解していなかった。壇ノ浦の戦いを生き延びた数名は、平家の血を絶やさぬと誓い、この事実は直系のみに伝承される秘密となった。

ある日、「同コミュニティ内に潜む平家一族の生き残りが、討幕の準備を進めている」という噂が流れた。平家の秘密を知る直系たちは焦り、根も葉もない噂に憤慨した。しかし、「自分たちは関係ない」と大慌てすれば墓穴を掘ることになる。

直系の者たちは、コミュニティ内で最も成功し富を得た一族に狙いをつけた。そして、「彼らこそが平家一族の末裔。源氏の子孫、徳川家康の首を狙う危険人物たちである。彼らは地方都市に仲間を集め、その時を狙っている」という噂を拡散した。

この噂は肥前国藩主の耳に届き、家臣たちを酷く狼狽させた。平家一族の生存を徳川幕府に知られたら大変である。疑り深い家康は、「奴ら(肥前藩)は平家を匿い、朝廷と手を組んだのち、反逆する」と読み、国の領土を没収する可能性もあった。最悪、謀反を画策した罪で「お家取りつぶし」もあり得る、と家臣たちは考えた。

藩主の命を受け、500名の大隊はコミュニティを完全にロックダウンし、平家の末裔と噂された一族を捕縛。その他の住人たちの前で火刑に処した。そして、「平家に関連する噂がもう一度流れた時は、集落ごと消し去る」と住人たちを脅迫。くだらぬ話をするのではなく、田畑を耕し、税を納めよ、と説いた。

処刑された一族が平家の血を引いていたかは不明。なお、直系の者たちは生き延び、その血と伝承を後世に伝えたという。夢とロマンの丘公園で目撃される霊は、「串刺しにされた男女の遺体」「園内に黒焦げの遺体が放置されていた」など。

まとめ
夢とロマンの丘公園周辺は、平家落ち人伝説の舞台

E氏は平家一族の末裔(直系ではない)らしい。家系図を見せてもらったので、まず間違いないだろう、

基本情報
心霊スポット夢とロマンの丘公園
(ゆめとろまんのおかこうえん)
所在地〒845-0023
佐賀県小城市三日月町織島1
種別事故
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約40分
【高速】佐賀空港から約40分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約25分
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不動の滝

天山」は佐賀県を代表する山のひとつである。標高1,000mを超えるものの、登山道入り口駐車場から見晴らしのよい山頂まで30分程度しかかからず、家族連れや体力に自信のない方でもハイキング気分で登山を楽しめるだろう。

ここで紹介する『不動の滝』は、天山の麓に形成された高さ7mほどの滝である。知名度は決して高くないが、登山シーズンになると、涼を求める登山客などでそれなりに賑わうという。

不動の滝およびその周辺では、度々霊が目撃されている。「滝つぼの近くに女の子が立っていた」「滝つぼから女性が這い出てきた」「先行していたはずの男女が消えた」などの噂が流れたことで、同地は人気の肝試しスポットになった。

小城町岩倉地区で生まれ育った老婆曰わく、「不動の滝の南エリアは、肥前国藩主、龍造寺氏に仇成す賊の砦だったと言い伝えられている。この賊集団は、龍造寺氏によって滅ぼされた豪族の元兵士たちで構成されており、腕は確かだった。彼らは周辺集落や繁華街エリアまで出向き、殺し、盗み、放火など、ありとあらゆる犯罪に手を染め、肥前国史上最悪の賊集団と呼ばれるようになった」という。

この賊集団は「跖(せき)」と名乗り、肥前国だけでなく肥後、薩摩、日向にも大きなコミュニティを持っていたと言われているが、史実にはほとんど登場しない。以前、薩摩と肥後国の伝承を調べていた時、初めて跖に関連する資料を発見し、九州一帯で活動していたとされる族集団の手がかりをつかむことができた。

彼らを一言で表現すると、「何でもアリ」である。守るもののない連中は本当に恐ろしい。委託殺人、盗み、放火、暗殺、処刑など、金になることは何でもやる。さらに、コミュニティの結束力も強いらしく、組織の秘密を最優先にしていた結果、その活動を記した資料はほとんど存在せず、幻の集団になってしまった。なお、彼らが壊滅もしくは摘発されたか否かは不明である。

不動の滝の南エリアに陣取った跖の一味は、龍造寺氏を挑発していた、と推察される。「周辺集落や繁華街での犯行は自分たちが行ったものだ」と誇示し、殺した者の身体に組織の紋章「卍(まんじ)」を刻んでいたのである。

1685年、龍造寺氏と家臣たちは、跖の壊滅を政策の本丸に掲げた。以来、取り締まりのさらなる強化と、町に役人や兵士を配置。そして、好き放題を続けてきた賊集団に対し、ひとり残らず処刑すると宣言した。

しかし、跖は挑発が成功したと喜び、罪を重ねた。1年後、不動の滝周辺にコミュニティが形成されていることを知った龍造寺氏は、一千名規模の大隊を組織。殲滅戦を開始した。

この戦いは跖の狙い通りに進んだ。賊たちは周辺集落の女子供、乳飲み子だけを誘拐、滝の近くでまとめて捕縛し、その身体に火薬袋をくくりつけ、周辺に火薬をまき散らした。

龍造寺氏がコミュニティに侵攻した時、跖の大半は既に姿を消し、数名のみで一千名超の大隊と対峙した。この時、賊たちに戦う気はなかったと思われる。

大隊は女子供の盾で身を守る賊数名に襲い掛かった。その直後、賊たちは迷うことなく火薬袋に火を放ち、目のくらむような大爆発が辺りを包み込んだ。

この伝承は、爆発の様子を少し離れた場所から目撃した兵士によって伝えられたという。跖の狙い通り、龍造寺氏は百名以上の兵士を失い、捕虜にされていた女子供、そして乳飲み子の救出に失敗したのである。

まとめ
不動の滝周辺で起きた惨事は、九州一帯で暗躍した跖(せき)の犯行と言い伝えられている

跖の策略によって爆死した女子供、乳飲み子、そして龍造寺氏の兵士たちが霊となり、同地周辺を彷徨っているのかもしれない

基本情報
心霊スポット不動の滝
(ふどうのたき)
所在地〒845-0003
佐賀県小城市小城町岩蔵5634
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約50分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約40分
【高速】佐賀駅から約35分

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中木庭ダム

鹿島市の南部、「中川」および「木庭川(こばがわ)」の治水および利水を目的として建設された『中木庭(なかこば)ダム』は、佐賀県最大規模の多目的ダムである。敷地内に公園、アジサイ園、飲食店、展望台などが併設され、周辺住民だけでなく、観光客からも一定の指示を集めているようだ。

中木庭ダム周辺では、工事が完了する2007年以前から霊の目撃情報が相次いでいた。しかし、「霊が目撃されるから」という理由で工事が中断されることはなかった。

これまでに目撃された霊は、「通路に生首が転がっていた」「子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえた」など。

先述の「不動の滝」で紹介した「跖(せき)」という賊集団は、中木庭ダムが建設された中川の中流域にもアジトを持っていたと言い伝えられている。小城(おぎ)市小城町岩倉地区で生まれ育った老婆の親戚にあたる鹿島市在住のY氏からお話を伺った。

「江戸時代初頭、中川の中流域に賊集団のアジトが形成された。彼らは裕福や商家などを狙い、金、米、酒、その他の食料、あらゆるものを奪った。一方、商家の主やその家族には手を出さず、組織につながる証拠を役人に伝えたり渡したりすれば、大切なものを全て奪うと脅した」

Y氏の資料には「跖が首謀者である」とハッキリ記されていた。しかし、彼らはなぜ商家とその家族に手を出さなかったのか。理由は、商家たちが失ったものを取り戻すべく、再び儲けを出し始めた時に再襲撃するためだった。

跖は裕福な商家だけでなく、田畑を耕す農民にも手を出さなかった。彼らを殺せば、米の収穫量が減り、藩の財政に深刻な影響を与える。結果、市場に出回る金と米の流通減を招き、町の活気が失われてしまうと考えたのだろう。

人を生かしつつ、町の利益を吸い尽くそうとする跖の作戦は見事である。1688年、肥前国藩主の龍造寺(りゅうぞうじ)氏は、憎き賊集団のアジトを捕捉。一千名以上の大隊を編成し、中川中流域を目指した。

跖は河川流域の住民に避難命令を出し、丘の上で身を潜めるよう指示。その場に隊員を配置し、「住人がひとりでも不審な動きを見せたら、迷わず全員叩き切れ」と命じた。

中流域に到着した龍造寺氏の家臣と兵士団は、跖のものと思われる遺留品を発見した。そこには、「女子供たちを助けたいなら、上流域には向かわず、今すぐ退去しろ」と書かれていた。

家臣たちは周辺集落の女子供が拉致されていることを知っていた。しかし、跖を捕まえるための犠牲と考え、運が良ければ助け出す程度に考えていたようである。遺留品を回収した大隊は、迷うことなく上流域に向かった。

跖は巨大な水がめ(ダム)を中川上流域に造っていた。水がめ築造にかけた歳月は推定10年。平均深さ5m超、円周長数kmというとてつもない規模だった。

捕縛された女子供が水がめの排水点付近に集められた。彼女たちの身体には巨大な火薬袋が巻き付けられており、爆発すれば粉々に消し飛ぶ。龍造寺氏の家臣および大隊は、抵抗を受けることなく上流域付近に到達した。

跖は、大隊の目の前で女子供に銃弾を浴びせた。その瞬間火薬が炸裂、大爆発を引き起こし、水がめの排水点に風穴を開けた

龍造寺氏の大隊はダム池から放出された水に押し流され、900名以上が溺死した。なお、中川流域の住民たちは高台に避難していたため、自宅を流された者はいたものの、ひとりの死者も出さなかった。

跖の水がめ事件」は同地でのみ代々受け継がれている。なお、龍造寺氏は追撃部隊に出動を命じるも、賊集団を捕縛することはできなかった。

まとめ
中木庭ダム周辺で発生した跖の水がめ攻撃により、龍造寺氏の大隊は壊滅した

同地に出没する霊は、爆死した女子供と思われる

基本情報
心霊スポット中木庭ダム
(なかこばだむ)
所在地〒849-1314
佐賀県鹿島市大字山浦
種別戦争
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間
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【一般道】佐賀駅から約1時間
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千年樫の木

佐賀県と長崎県の県境に位置する「経ヶ岳(きょうがたけ)」は標高1,075mの活火山である。登山初心者でも比較的挑戦しやすいことから、毎年多くの登山客を迎え入れているという。

ここで紹介する『千年樫(せんねんかし)の木』は、経ヶ岳登山道入り口から1時間30分ほどの地点にある不思議なスポットである。推定樹齢1,000年の赤樫(あかがし)の老樹は、幹が空洞になっており、その中に小さな碑が設置されている。

千年樫の木の北西にある「馬の背」、南東の「平谷越(ひらたにごえ」は、3つ合わせて「経ヶ岳隠れキリシタン墓所」と呼ばれている。しかし、約400年前の伝承は、大字山浦地区のごく限られた集落でのみ受け継がれてきたため、その事実を知る者は少ない。

同地区で生まれ育ったT氏曰わく、「島原の乱が発生する10年程前。江戸幕府の命を受け、肥前国でもキリシタン狩りが本格化した。隠れキリシタンと呼ばれた信者たちは、安住の地を探し求め、さまよい歩いた。その中の数十名が経ヶ岳の麓、馬の背にたどり着き、集落を形成することになった」という。

隠れキリシタンたちは、緑に囲まれた経ヶ岳の麓であれば集落を造ってもバレないと考えた。当時、経ヶ岳は霊峰と呼ばれ、人が立ち入ることはほとんどなかったためである。林道もほとんど整備されておらず、隠れる場所としては最適だったのである。

しかし、経ヶ岳へ向かう集団を目撃した者が肥前藩に通報。キリシタン狩りを行っていた家臣のひとり、「内原氏」率いる大隊に山狩りの命が下った。

キリシタンたちは集落建設を諦め逃亡。隠れる場所は経ヶ岳の山頂以外なかった。赤子を含む男女数十名は、馬の背を離れ大きな赤樫を通過した。しかし、内原氏の部隊は猛烈な勢いで進行し、キリシタンたちを追い詰めた。

槍と銃を持った兵士数十名は、赤樫の根元付近に放置された赤子三名を発見、保護した。その後、兵士たちは経ヶ岳の山頂手前で集団を発見。抵抗する男たちを突き殺し、女子供は捕縛した。

内原氏は生き残った女子供に改宗を迫った。またその証拠として、キリスト教の象徴、十字架のロザリオを自らの手で破壊するここと、キリストの絵に唾を吐き、踏みつけろと命じた。

女子供たちは迷わずこの命令を受け入れた。しかしこの時、キリシタンたちは江戸幕府が想定した通りの動きを見せた。「改宗を受け入れる理由は、逃げおおせるための狂言」でしかないと幕府は考えたのである。

内原氏は女子供を赤樫の根元に移送。リーダー格の女性三名に、キリスト教で禁じられている自殺(自害)を強要した。女性たちはこれを受け入れ、自ら首を掻き切ったという。

同胞の死を見届けた元キリシタンたちは、亡骸を土葬したいと申し出た。この申し出を聞いた内原氏は、キリシタンたちに改宗の意思はないと判断。赤子を含む生き残りに火刑を命じた。

千年樫の木およびその周辺で目撃される霊は、「赤樫の根元に遺体が転がっていた」「赤ん坊の泣き声と女性のおぞましい悲鳴が聞こえた」など。殺されたキリシタンの遺体は赤樫の根元に放置された。その後、遺体の腐敗が赤樫に悪い影響を与えたと言い伝えられている。

まとめ
千年樫の木およびその周辺は、隠れキリシタンの墓所と言い伝えられている

信仰の自由を奪われ、赤子もろとも殺処理されたキリシタンたちは、怨みつらみを募らせ怨霊になった、と考えられている

基本情報
心霊スポット千年樫の木
(せんねんかしのき)
所在地〒849-1314
佐賀県鹿島市大字山浦
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
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藤之瀬延命地蔵尊

藤之瀬延命地蔵尊』は、鹿島市古枝地区に建立された小さな寺である。そのすぐ近くにある湧水点からは、「延命水」と呼ばれる湧水が際限なく湧き出している。

江戸時代、お地蔵さまを運んでいた一人の住職が同地でひと休みした。しばらくするとお地蔵さまが住職に対し、「同地に寺を建立せよ。さすればどんな病気もたちどころに治す不思議な湧水を授けよう」と告げられた。住職はお地蔵さまのお告げに従い、藤之瀬延命地蔵尊を建立、延命水の力で長生きしたという。

延命水に癌、高血圧、心臓廟などを治す効果があるか否かは誰にも分からない。お地蔵さまがお告げを与えた可能性も否定できないが、恐らく、不吉な伝承を覆い隠すために作られた噂話だろう。

佐賀県出身、歴史家兼ミュージシャンとして活動するK氏に案内され、私は延命水(無料、汲み放題)を有難くいただいた。冷たくてとっても美味しい。その日、鹿島市の最高気温は34℃を記録し、頭がクラクラするほど暑かったと記憶している。しかし、延命水は夏の暑さを物ともしない冷たさだった。

藤之瀬延命地蔵尊周辺では霊の目撃情報が相次いでいた。目撃された霊は、「鎧武者が槍を持ってうろついていた」「遺体が山のように積み上げられていた」など、お寺と冷たい湧水とは関係なさそうなものばかりである。

よい伝承には必ず裏がある。私たちは同地の歴史に詳しいあるご夫婦を訪ねた。M氏は500年以上前から受け継がれてきた資料を見せてくれた。曰わく、「戦国時代、延命水と呼ばれた貴重な湧水を巡る争いが頻発し、同地の領民は疲弊していた。当時、肥前国は深刻な水不足に悩まされていた。領土を奪い合っていた豪族たちは、米や作物に必要不可欠な水源の確保を最優先事項とし、清らかな水をもたらす湧水点を奪い合った」という。

豪族たちの領土争いは苛烈を極め、その都度、戦に駆り出された領民たちが百人単位で死んだ。湧水はそれほど貴重であり、皆、何が何でも確保したいと考えたのだろう。その中でも、同地蔵尊近くの湧水点は水量が多く、雨が数カ月降らなかった際も、全く枯れることなく冷たい水を集落にもたらした。

1540年、同地の支配者は、米や作物の不作が続いているにも関わらず税を引き上げた。さらに、湧水を汲む者から費用を徴収し始めたのである。結果、豪族は徴収した米と作物で贅沢に暮らし、領民は飢えた。

不作は続き、雨は降らず、キレイな水も飲めない。領民たちは飢え、餓死者まで出す有様だった。1541年、豪族は税をさらに引き上げと宣言した。

領民数百名は豪族に対する一揆を敢行。しかし、豪族の兵士たちは米をしっかり食い、力をみなぎらせていた。一揆は半日も経たぬ間に集結。領民の半分が切り殺され、残りも酷い拷問を受けた。

ボロ雑巾にされた領民たちは、米や田畑の作付けを命じられたものの、そんな体力は残っていなかった。数か月後、領民たちはひとり残らず餓死した。そして、不思議なことに集落の消滅と同じタイミングで湧水点が枯れてしまったのである。

豪族は大急ぎで祈祷を行ったものの、水は止まったままだった。集落消滅から数か月後、龍造寺氏の侵攻を受け、同地を支配していた豪族は打ち滅ぼされた。

龍造寺氏は集落で起きた悲劇を知り、湧水点近くに寺を建立。餓死した者たちを丁重に供養し、田畑を耕したい者に土地と水を無料で提供した。

数日後、周辺一帯で久しぶりに雨が降り、湧水点からも再び湧水が出るようになったという。

まとめ
藤之瀬延命地蔵尊の延命水は冷たくて美味しい

龍造寺氏が同地を治めて以来、深刻な水不足は発生しなかったという

基本情報
心霊スポット藤之瀬延命地蔵尊
(ふじのせえんめいじぞうそん)
所在地〒849-1321
佐賀県鹿島市古枝
種別戦争
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間5分
【高速】佐賀駅から約1時間5分

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おつぼ山神籠石

武雄市東部、繁華街から少し離れた雑木林の中に『おつぼ山神籠石(こうごういし)』と名付けられた史跡がある。これは古墳時代に造られた山城の跡と考えられており、列石や水門などを含めてそう呼ばれるようになった。

この山城は「白村江の戦い(663年)」に戦いに敗れ、朝鮮半島からの敵軍(唐と新羅)の侵攻を恐れた天智天皇(中大兄皇子)が建立を指示したと考えられている。なお、これを事実と証明できる資料は残されておらず、九州各地に現存する他の神籠石との関連調査は、現在も続いている。

おつぼ山周辺では、霊の目撃情報が相次いで寄せられており、「雑木林の中から悲鳴が聞こえた」「列石の上に遺体が並べられていた」など、昼夜を問わず不穏な雰囲気に包まれているという。

武雄市橘町の商工会議所で働いていた元職員のA氏にお話を伺うことができた。「江戸時代、おつぼ山神籠石のすぐ北に野盗の砦があったと言い伝えられている。なお、野党の正体は伝承資料にも記されていない。彼らは肥前国藩主、家臣、その他の役人のみを標的とし、奪った金品は周辺集落の住民に配布していた

神籠石の近くに住み着いた野盗たちは、襲撃した肥前藩の役人をひとり残らず叩き切り、首を目立つ場所にさらしたうえで撤退。奪った金品や米などは周辺住民に分け与え、いつしか「義賊」と呼ばれるようになった。

しかし、肥前国藩主、龍造寺氏の政治は悪政とは程遠いものであり、殺される筋合いなど全くない。それでも、野盗の荒っぽいやり方と奪った物を住民たちに分け与える手法は、貧しい者たちの心をつかんだ

ある日、同地周辺を見回っていた肥前藩の役人数名が夜盗に叩き切られ、増援に入った10名もひとり残らず殺されるという大量殺人事件が発生した。龍造寺氏は家臣の小田氏らに対し、「野盗を打ち滅ぼし、首を持ち帰れ」と指示。一千名以上の大隊を編成し、山狩りを開始した。

数日後、ひとりの農民が大隊に有益な情報をもたらした。周辺集落の住民に金や米を与えていた義賊と呼ばれる者たちは、おつぼ山に陣取り、役人たちの命を狙っていることが分かったのである。

大隊を率いる小田氏は、周辺集落の安全を確保したうえで、おつぼ山を完全に取り囲んだ。銃と弓を構える足軽部隊を先頭に、大隊は敵の陣地をゆっくり進み、見晴らしの良いエリアに到達した。

しかし、そこに人の気配はなく、誰かが生活していたような痕跡もない。その後、列石や水門跡、遺構の北エリアも徹底的に調査されたが、それらしい証拠は出てこなかった。

異変に気付いたのは雑木林を調査していた兵士だった。煙が立ち込め、数メートル先も見通せぬ状態になっていたのである。

おつぼ山の外輪から放たれた”のろし”と思われる煙は、周辺一帯を包み込んだ。一部炎の上がるエリアもあったというが、山自体は全く焼けず、何者かが組織的に煙を起こし、敵兵の虚を突いたのかもしれない。

野盗は姿を消し、煙に巻かれた龍造寺氏の兵士数十名が死亡。小田氏は作戦失敗の責任をとり、腹を切ったという。

おつぼ山神籠石周辺で目撃される霊と野党の関連は不明。ただし、役人数十名を見境なく殺し、一切姿も見せず兵士たちを煙に巻いた実力は普通ではない、と思う。

まとめ
おつぼ山神籠石は、古墳時代に築城された山城の跡と考えられている

霊が出没する理由は不明。江戸時代に起きた野盗関連の事件が原因かもしれない

基本情報
心霊スポットおつぼ山神籠石
(おつぼやまこうごういし)
所在地〒843-0013
佐賀県武雄市橘町
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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【高速】佐賀駅から約45分

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永野の風穴

永野の風穴』は、武雄市のミステリースポットのひとつと呼ばれている。理由は、築造者、築造年、築造理由などが分からないためである。なお、周辺の立派な石垣や石段などから、肥前国に関連する有力者が造ったことはまず間違いない、と考えられていた。

永野の風穴には不気味な伝承が残されていた。しかし、それを知っていた一部の周辺住民は”事件”をタブーと考え、進んで後世に伝えようとは考えなかったようだ。私がお話を伺ったS氏というご老人も、誰かれ構わず話すことは好ましくないと言っていた。

江戸時代、肥前国藩主は同地に屋敷(砦の機能も備えていた)を建設した。一国一城令が発布される以前は、巨大な山城があったものの、石垣などを残して全て破却、本丸跡地に造られた屋敷は無駄を一切省いた質素なものだったという。

屋敷から少し離れた地点に設けられた冷暗所は、冬に確保した氷を保存したり、遺体の仮安置場などに利用されていた。この冷暗所が永野の風穴である。

屋敷で働く下女中のひとり「サト」は、冷暗所の前で藩主に伝える若い武士と逢引していた。二人は結婚を約束する仲になっていた。ある夏の日、サトの美貌に嫉妬する下女中の「キク」は、サトと若い武士が冷暗所に入るところを偶然目撃した。

コッソリ後をつけると、二人は冷暗所の中で身体を絡め愛し合っていた。キクは大急ぎで屋敷に戻り、ありのままの事実を上女中(責任者)に伝えた。

サトは下女中の身でありながら武士を唆(そそのか)した罪に問われた。この時、若い武士はサトをかばおうとしたが、家老に「くだらぬ下女にかまっている暇があるなら、精進せよ」と釘を刺され、下手に動けば自分の身も危うい状況だった。

サトは髪を1本残らず剃り落とされたうえで、身分を剥奪、奴隷(奴)として扱われることが決まり、ある裕福な商家に引き取られた。

商家はサトに下の世話を強要し、連日連夜酷く辱めた。当時、まだ15歳だったサトは、妊娠と流産を繰り返し身も心もボロボロにされてしまった。

刑の執行から2年後、サトは商家の首を掻き、屋敷を脱走。この時、サトは赤子を身ごもっていたが、自由の利かない身体で何とか目的地を目指した。

サトは結婚を約束した武士に匿ってもらうつもりだった。その後、藩主の屋敷に通じる裏道を何とか突破し、冷暗所付近まで到達。しばらく様子を伺うことにした。

冷暗所から姿を現したのは、結婚を約束した武士と上女中、そしてサトの不貞を通報したキクだった。武士は満足げに二人の肩を抱き、両手でそれぞれの胸を揉みしだいていた。

サトは短刀を抜き、背後からキクと上女中を突いた。二人は血しぶきを上げて悶絶し、その場に倒れた。武士は変わり果てたサトの姿に恐怖し、逃走。屋敷は大騒ぎになった。

サトは冷暗所の中で腹を縦に裂き切り、中から赤子を取り出したところで力尽きた。

赤子は大声を上げて泣いていたところを無事保護された。この一件により、武士は切腹。藩主から「冷暗所に立ち入った者は、いかなる理由があろうと死罪」というお達しが出たため、冷暗所は閉鎖された。

まとめ
永野の風穴周辺で目撃された霊は、「赤子を抱く女性」「赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた」など

サトの伝承は同地の禁忌とされ、後世に伝える人はほとんどいなくなってしまった

基本情報
心霊スポット永野の風穴
(ながののかざあな)
所在地〒843-0151
佐賀県武雄市若木町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】佐賀駅から約55分
【高速】佐賀駅から約50分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト武雄市観光協会 公式ホームページ

まとめ

今回は神埼市他4市の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

2020年7月も残すところあとわずか。いよいよ夏本番である。佐賀県の心霊スポットに興味を持たれた方は、ぜひ、観光と肝試しを同時に楽しんでいただきたい。なお、現地の最新情報(開園の有無など)チェックをお忘れなく。最後までお読みいただきありがとうございました。

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