佐賀県には古墳や遺跡といった史跡、重要文化財などが数多く存在する。邪馬台国は同県にあった、と主張する歴史学者も多く、歴史とロマンに溢れた町と言っても過言ではないだろう。

しかし、合戦や一揆、その他さまざまなイベントの舞台になった歴史系の遺構には、必ずと言ってよいほど不穏な噂がつきまとうものだ。

同県はハッキリ言って人気観光地ではない。つまり、観光客をたくさん集めるために、昔からあれやこれやと良い噂を流し、県内各地の観光スポットをアピールしてきたのである。そして、良い噂を流す施設ほど、過去にひと悶着あった可能性が高い

今回は藤津(ふじつ)郡他5郡の最恐心霊スポット12カ所(PART1)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.藤津郡
   ・太良岳神社
   ・牛尾呂池
 2.杵島郡
   ・有明貯水池水上太陽光発電所
   ・ボタ山わんぱく公園
 3.西松浦郡
   ・泉山磁石場
   ・竜門ダム
 4.東松浦郡
   ・日ノ出松溜
   ・大字普恩寺北西部
 5.三養基郡
   ・坂本峠
   ・綾部城跡
 6.神崎郡
   ・蛤水道
   ・逆茂木

まとめ

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太良岳神社

藤津郡西部、「多良岳(たらだけ)」の麓に位置する『太良岳(たらだけ)神社』は、知る人ぞ知る観光スポットである。同社は山の安全を祈願するために建立されたと言い伝えられており、途中に設置された少し不気味な六地蔵菩薩と案内板に従い林道を進むと、迷うことなく目的地にたどり着けるはずだ。

社は、利便性の悪さをものともせず、思いのほか観光客の誘致に成功している。「昼間でも霊が出てくると噂になり、怖いもの見たさで人が集まるようになった」と同地周辺に住むN氏は語った。

同社に伝わる伝承をお聞きするべく、私はN氏から紹介されたH氏という元高校教師の自宅を訪ねた。H氏曰わく、「戦国時代、多良岳の麓には多良砦と呼ばれる龍造寺(りゅうぞうじ)氏の砦が存在した。この砦の名が史実に登場することは少ないが、伝承を受け継ぐ我々現地住人は皆知っている。龍造寺氏の誇る難攻不落の砦は、数えきれないほどたくさんの敵兵を打ち滅ぼしてきた」と述べた。

龍造寺氏は戦国時代に肥前国(ひぜんこく)で活躍し、九州北部を支配する大大名にのし上がった実力者である。当時、藤津郡には同氏の城や砦が各地に建設され、その中でも最大規模と噂された施設が多良砦だったという。

大規模な一揆や領土争いが始まると、龍造寺氏の本隊はこの砦に乗り込み、戦いを指揮した。理由は圧倒的な防御力を誇り、攻略はまず不可能と考えられていたためである。10を超える豪族が多良砦に攻撃を仕掛けたものの、本丸前の通路にたどり着けた者すらいなかったという。

本丸へのルートは峻険や山道と崖、そして龍造寺氏のしかけたトラップだらけだった。それらをかわすべく迂回しようにも、数十メートル規模の断崖絶壁に進路を阻まれ、先に進むことはできない。結果、敵兵たちは山の中に隠れた同氏の急襲を幾度となく受け、首を献上したのである。

太良岳神社の建立された地点では、捕縛した敵兵の処刑、討ち取った遺体の処理などが行われていた。処刑および遺体処理には、最も手間のかからない火刑を採用。直径10m、深さ5mほどの大きな穴の中に敵兵を生きたまま捨て置き、その上に遺体を叩き落とした。

後は火薬や燃えやすい松、松ぼっくりなどを投入。処理人数が多い場合は、その上から油をぶっかける。火をつけると天然の鍋の中で人が燃え、骨だけが誇る。多い時には一度に100名ほどを処理したといい、多良岳の麓の集落にまで男たちの叫び声がこだました。

江渡時代、龍造寺氏本家は紆余曲折を経て断絶。代わって肥前国を治めた「鍋島氏」は、多良砦を城とは考えず、一国一城令の対象から外し、万が一の待機場として継承させた。

1638年、天草地方で発生した「島原の乱」終結後、同砦は隠れキリシタンの潜伏場所として占拠された。鍋島氏は500以上の兵を失いつつも、何とか奪取に成功。キリシタンたちを穴の中で処理し、難攻不落と恐れられた砦の破却を決めた

その後、同地は怨霊が出没する危険地帯と噂されるようになり、太良岳神社が建立されたのである。同地で目撃される霊は、「両手に生首を持った鎧武者が立っていた」「林道に遺体が放置されていた」「神社から男と思われるおぞましい悲鳴が聞こえた」など。

まとめ
太良岳神社は人気の心霊スポット。しかし、その噂の起源を知る者は少ない

多良砦周辺の合戦における推定戦死者は約4,000人。穴の中で生きたまま焼却された者たちは、怨みつらみを募らせ、怨霊になったと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット太良岳神社
(たらだけじんじゃ)
所在地〒849-1602
佐賀県藤津郡太良町大字多良
種別戦争
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間55分
【高速】佐賀駅から約1時間50分

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関連サイト太良町観光協会 公式ホームページ
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牛尾呂池

佐賀県と長崎県の県境に位置する藤津郡牛尾呂地区には、隠れキリシタンに関連する伝承が言い伝えられている。私は、その話を佐賀県出身の某人気作家Y氏にお聞きし、取材を行うことになった。Y氏は、戦国時代や江戸時代の伝承、伝説などをいくつも発表する稀代の歴史マニアであり、面白そうなネタを探すべく、私に協力を依頼してきたのだ。

ここで紹介する『牛尾呂池(うしおろいけ)』は、同地区の中央部に位置する小さな農業用ため池である。なお、周辺住人から「鎌倉時代に整備された」と伺ったものの、真偽は不明である。

私とY氏は、同地の伝承を受け継ぐU氏という人物の元を訪ね、身分を明かしたうえで隠れキリシタンに関連する話を聞かせてほしいとお願いしたい。すると、「私の名は公にしないこと」と念を押された。理由は聞かない方がよいと思い、確認していない。

U氏曰わく、「牛尾呂地区に潜伏した隠れキリシタンの大多数は生き残ったと言い伝えられている。ただし、一部の者を罠にかけ生き残った結果、同地区および牛尾呂池周辺は霊の巣窟になった。事件の舞台になった牛尾呂池では、死亡事故や飢饉を誘発した疫病などが発生し、今でも一部の住人は呪われた池と呼んでいる」とのこと。

隠れキリシタンに関連する悲劇が発生したのは1639年。島原の乱終結から1年、キリシタン狩りもようやく一区切りつき、九州北部が静けさを取り戻した頃だった。

牛尾呂地区のある集落に逃げ込んだキリシタンたちは、敬虔な仏教信者であると偽り、まじめに働いたうえで、しっかり税も納めていた。彼らには商才があり、繁華街で様々なものを売り、どんどん裕福になった

逃亡から1年後、商いで成功を収めた隠れキリシタンたちは、牛尾呂地区の空き地にキリスト教関連の施設、教会、慰霊碑などを建立したいと考えた。しかし、当時、キリスト教は禁教であり、それを推奨するものを造ることは一切禁止されていた。

大金を手に入れたキリシタンたちは、貧しい仲間の助言を無視、十字架をあしらい、一目でそれと分かる施設を造った。結果、もともと牛尾呂地区に住んでいた住人たちは、彼らの正体に気づいたという。

数か月後、住人たちの通報を受け、肥前国藩主、鍋島氏の家臣と兵士数十名が到着、調査を開始。しかし、兵士たちはキリスト教に関連する施設を無視し、集落一裕福と言われた商家を訪ねたという。

財を手にし、裕福な商家になったキリシタンは、家臣を買収していた。そして、「見て見ぬふりを押し通していただけば、代わりにキリシタン数十名を差し出す」と取引を持ち掛けた、と噂されている。

しかし、生け贄にされた者たちの大半はキリシタンではなく、もともと同地で暮らしていた住人だった可能性が高い、とU氏は言う。権力を手に入れた商家は、集落全体を乗っ取り、かつ、役人に通報した住人たちを処理したと言うのである。

処刑は速やかに執行され、牛尾呂池の麓で数十名が斬首ののち、焼却処理された。家臣と兵士数十名は商家から大量の米と賄賂を受け取り、帰った。そして、商家はその後も順調に商いを成長させ、真面目に税を納め続けた。

牛尾呂池周辺で目撃される霊は、「全身焼けただれた男が襲いかかってきた」「池の麓に生首が転がっていた」など。また、池に関連する水難事故がこれまでに少なくとも10件以上発生しているとのこと。

まとめ
牛尾呂地区および牛尾呂池の隠れキリシタン伝説は真偽不明

同池の南エリア(長崎県内)に教会や修道院などのキリスト教関連施設が5軒ほど残っている。しかし、この事件との関連を証明する証拠はない

基本情報
心霊スポット牛尾呂池
(うしおろいけ)
所在地〒849-1616
佐賀県藤津郡太良町大字大浦己
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間20分
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【一般道】佐賀駅から約1時間25分
【高速】佐賀駅から約1時間25分

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有明貯水池水上太陽光発電所

ムツゴロウやワラスボの生息地として有名な有明海。日本最大の干潮差を誇り、様々な海の幸に恵まれた九州屈指の良海として知られている。その北部、白石平野の南に整備された『有明貯水池水上太陽光発電所』は、周辺一帯の電力を賄う再生可能エネルギー事業として注目を集めていた。

しかし、同地の伝承を知る一部の者は、「霊が施設に何らかの不具合をもたらすかもしれない」と警告していたそうだ。昨年末、私は佐賀県出身の某人気作家兼歴史マニアのY氏を連れ、あるご夫婦を訪ねた。

同発電所から数百メートルしか離れていないT氏の自宅周辺には、「令和元年台風17号」の被害跡が残されていた。T氏曰わく、「私は太陽光発電所の建設に反対していた。しかし、自然や景観への影響を懸念したわけではない。同地は古くから肥前藩の合戦場として利用され、発電所を造った人造池周辺は拷問兼処刑場だった。現在でも昼夜を問わず霊が出没すると噂になっており、そんな場所に重要な発電所を造ってよいのか心配だったのだ」という。

T氏の保管する伝承資料には当時の地図も添付されており、現在、「白石遊水地公園カヌー競技場」として使われている人造池周辺に拷問兼処刑場があったと書かれていた。また、昼夜を問わず霊が出没するという噂が広まり、発電所整備に懸念を表明する方も増えたという。

残念なことに、人造池周辺に死者を供養する墓や慰霊碑などは一切ない。T氏の資料によると、「肥前国で激しい領土争いが繰り広げられていた頃、有明海に人間の血肉を流すと、翌年は豊漁になると信じられていた」と記されていた。

海に血肉を流し込むと、プランクトンや虫が大量発生する。それを魚が食べ、成長し、豊漁につながると当時の人は考えた(のかもしれない)。この理論は半分正解である。まず、豊漁になることはまず間違いない。九州の海沿い地域で同じようなことが行われ、翌年大豊漁だった、と記された資料が山のように残っている。

しかし、倫理的な観点で考えると問題大ありである。当時、拷問もしくは処刑された罪人の遺体は、ゴミ以下の扱いを受けていた。尊厳を踏みにじられ、一切供養されることなくバラバラに切り刻まれ、海に遺棄された者が怨みを抱かない方がおかしい、と私は思う。

人造池周辺で解体された罪人たちの遺体は、撒き餌の如く、有明海にぶちまけられた。そして、豊漁に恵まれると、さらに罪人を処刑、解体したのである。かくして、数百名規模の罪人が同地で死んだ。

有明貯水池水上太陽光発電所周辺で目撃される霊は、「通路の横に遺体が転がっていた」「人造池から女性が這い出てきた」「水面が血の色に染まっていた」など。

同地の拷問兼処刑場は、江戸時代以降も使用された。ただし、江戸幕府の命により刑の執行ルールが厳格に定められ、遺体の解体は許可されていなかった。しかし、同地の住人および役人たちは、有明海の豊漁を願い、血肉の撒き餌を明治時代まで継続したという。

2019年7月、九州北部を襲った台風17号の強風にあおられ、同発電所の太陽光パネル約3,000枚のうち1,000枚ほどが破損。発電を停止し、現在も復旧の見通しは立っていない。

太陽光パネル内には有害物質も含まれており、人造池内で水に浸かった状態が長期間維持されると、それらが池から有明海に流れ込むと懸念されている。

まとめ
有明貯水池水上太陽光発電所は、拷問兼処刑場跡地に整備された

処刑後解体、撒き餌にされた罪人たちは、ゴミ以下の扱いに憤慨し怨霊化したと思われる

基本情報
心霊スポット有明貯水池水上太陽光発電所
(ありあけちょすいいけ
すいじょうたいようこうはつでんしょ)

所在地〒849-1221
佐賀県杵島郡白石町大字新拓
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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ボタ山わんぱく公園

ボタ山とは、炭鉱での石炭産出時に発生する捨て石(通称ボタ)を積み重ねて作った人造山(元ゴミ捨て場と呼ぶ方もいる)である。石炭が国の主力エネルギーだった1900年代初頭、規模に違いはあるものの、炭鉱のある町には高い確率でボタ山が造られた。

佐賀県杵島(きしま)郡の経済発展を支えた「杵島炭坑」は、1969年に閉山。その後、同地の巨大なボタ山は公園として整備され、『ボタ山わんぱく公園』に生まれ変わった。

同園は、まだボタ山だった時代から霊が出現すると噂になっていた。目撃された霊は、「女性が首のない赤子を抱いていた」「子供の叫び声が聞こえた」など。しかし、霊が出没する理由は後世に語り継がれず、伝承を知る者は数世帯のみになってしまったという。

同郡大町町(おおまちちょう)で生まれ育ったU氏曰わく、「江戸時代、ボタ山の造られた場所には、大きな集落があった。同地周辺では、杵島炭坑の前身にあたる小規模炭鉱の開発が進み、石炭の売買が活発になっていた。その後、掘削時に発生する捨て石の処理が問題となり、肥前藩は集積できる場所を探していた」とのこと。

捨て石の集積場所に選ばれたのが、現在のボタ山わんぱく公園一帯である。しかし、当時そこには数百人規模の集落が存在した。

当時、肥前藩は石炭の可能性を見抜き、九州だけでなく四国中国地方でも取引していた。米や農作物とは違い、腐らず、際限なくとれる黒い石こそが藩の新たな財源になると期待したのだろう。

捨て石処理置き場問題は、肥前藩のある家臣に一任された。「諫早(いさはや)氏」は炭鉱からの運搬等を考慮すると、候補地はひとつしかなく、数百人が暮らす集落の移転を決断する。しかし、突然移転しろと命令された住人たちは烈火のごとく怒り、交渉には一切応じない構えを見せた。

諫早氏は強制執行も辞さない構えだったが、藩主に無茶は厳禁と釘を刺されており、力づくで住人を排除することはできなかった。同氏は力づく作戦をあきらめ、調略に打って出た。

諫早氏は集落の有力者を買収し、さらに、石炭事業が成功した暁には、身内、親族、友人の雇用を優先すると約束した。当時、石炭事業は日本の花形産業になると期待されており、米や農作物とは比べ物にならない規模の現金が動いていた

有力者たちの買収に伴い、移転は数日もせぬうちに決定した。しかし、他の住人たちはこの決定に納得がいかず、「殺されても動かない」と息巻く者もいたという。

数日後、大方の住人が移転を決断、集落を去った。しかし、5世帯計17名が立ち退きを認めず、強固に反対した。なお、肥前藩は全員が移転を終えない限り補償料は支払わないと断言していた。

移転を決断した住人たちは、藩主にしつこく反対し続ける5世帯を非難した。数日後、恐ろしい事件が発生する。何者かが移転に反対していた17名全員を叩き切り、斬首したうえでその首を持ち去り、姿を消したのである。

U氏の資料によると、殺人事件の調査はほとんど行われず、そのまま闇に葬り去られた可能性が高いという。さらに、事件から僅か2日で集落を解体、捨て石置き場として整備し、使用を開始した記載されていた。

ボタ山わんぱく公園という明るく健全な名をつけた理由は、ボタ山にまつわる悲しい歴史を覆い隠すためだ、とU氏は指摘した。私もU氏の考える通りだと思う。なお、大量殺人に諫早氏(肥前藩)が関わった、という確かな証拠はない。

まとめ
杵島炭坑のボタ山整備に伴う大量殺人事件は、未解決のまま闇に葬り去られた可能性が高い

観光スポットに明るく健全(楽しい)名を付けることで、過去に発生した悲しい歴史を覆い隠すことができる

基本情報
心霊スポットボタ山わんぱく公園
(ぼたやまわんぱくこうえん)
所在地〒849-2101
佐賀県杵島郡大町町大字大町4656-1
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
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【一般道】佐賀空港から約40分
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【一般道】佐賀駅から約40分
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泉山磁石場

西松浦郡有田町は、日本を代表する磁器のひとつ、「有田焼」発祥の地である。同地を訪れた際のお土産におすすめしたい。なお、値段はピンキリである。

有田焼の材料となる陶石は、それに適した地層(地盤)を持つ土地から採掘される。ここで紹介する『泉山磁石場(いずみやまじせきば)』もそのひとつ。ただし、現在、同磁石場での採掘はほとんど行われておらず、その歴史的価値を認められ、国の史跡に指定された。

泉山磁石場は有田焼生誕の地と呼ばれ、1600年代初頭から採掘を開始したと言い伝えられている。一方、霊が出没することでも有名になり、それに関連する不穏な噂が流れるようになった。採掘場で起きた崩落事故などはいずれも霊との関連を指摘され、事故発生の都度、お祓いを行ったという。

有田町で生まれ育ち、同地の歴史を伝え聞くT氏曰わく、「江戸時代以前、泉山磁石場はただの荒れ果てた小さな丘だった。戦国時代に入ると、豪族の目を逃れ、勝手に住み着いた盗賊たちの寝床になり、近くを通ると賊に拉致されると噂された」という。

盗賊たちは領土争いに明け暮れる豪族たちを監視しつつ、好き勝手に生活していた。彼らは税を払う必要もなく、奪いたいものを奪い、邪魔をする者は皆殺し、という考えが常識だった。

当時、西松浦郡の治安は最悪だったらしい。藩主は定まらず、調略、裏切り、暗殺などが横行し、役人たちは周辺の住人に注意を向ける暇もなかったのだろう。盗賊団はこのスキを見逃さず、周辺集落を襲い、米や金になるありとあらゆるものを奪った。

集落住人の中には盗賊の非道な行いに反旗を翻し、反撃する者も少なからずいた。しかし、相手はプロの盗人兼殺し屋たちである。集落住人たちは稼ぎ頭の男たちを失い、疲弊した。

ある日、盗賊団はある集落を襲撃した。結果、女子供20名以上が拉致され、その他の男、老人たちはひとり残らず討ち取られた。

盗賊団は拠点にしていた丘の山頂付近に女子供を連れ込み、無理やり乱暴した。「抵抗したら命はない」と脅され、皆黙った辱めを受けたのである。衣服を全てむしり取られた挙句、凌辱された女性は、悲しみのあまり自分で喉を掻き、自害したという。

豊臣秀吉が九州平定、全国制覇を成し遂げ、肥前国の治安もようやく安定し始めた頃、ある集落から盗賊団に対する苦情申し立ての通報が寄せられた。

藩主はこの時初めて、百数十名の女子供が拉致され、ひとりも生きて帰ってこないことを知った。その後、盗賊団を討滅すべく500名規模の大隊が組織され、拠点と噂された泉山に侵攻したが、時すでに遅しだった。

丘の上に到着した大隊は、そこに打ち捨てられたおびただしい数の人骨を発見。いずれもほぼ腐りきっており、ハエやウジ虫が肉を喰い尽くしていた。あまりの悪臭に大半の兵士が嘔吐し、遺体の処理に1カ月以上かかったという。

同地で目撃される霊は、「血みどろの女性に追いかけられた」「女性の悲鳴が聞こえた」など。なお、T氏の資料によると、逃亡した盗賊団は発見出来ずじまいだったとのこと。

まとめ
泉山磁石場は国の史跡。非常に重要な文化遺産である
同地に出没する霊は、盗賊団に捕縛され、酷い扱いを受けたのちに憤死した女子供だと思われる

基本情報
心霊スポット泉山磁石場
(いずみやまじせきば)
所在地〒844-0001
佐賀県西松浦郡有田町泉山1-33
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
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竜門ダム

佐賀県西部、黒髪山に端を発する二級河川「広瀬川」の上流に建設された『竜門ダム』周辺では、夜な夜な霊が出没すると噂になり、肝試しスポットとして有名になった。

同ダム周辺には、神社や寺院が計5つ、誰のものかも分からない慰霊碑や墓が乱造されている。しかし、その理由を知る者は非常に少なく、伝承を伝える世帯は片手で数える程度になってしまったという。

私は佐賀県出身の某人気作家兼歴史マニアのY氏と共に、あるご夫婦の自宅を訪ねた。お二人は竜門ダム建設当時の説明資料と、伝承資料を使って同ダムが霊の住処になった理由を分かりやすく説明してくれた。

「当時、竜門ダムの建設予定地に集落はなかったため、計画は行政の工程通りに進んだ。しかし、一部の住人は広瀬川の上流部がダム湖の底に沈むことを恐れた。しかし数年後、同地に古くから伝わる平家落ち人伝説の舞台はダム池の底に沈み、そこにあった百数十名分の墓は消え去った

同ダムは広瀬川の最上流域に位置し、周辺に民家はほとんどない。源氏との戦いに敗れた平家の落ち人たちは、人気がなく水の供給に事欠かない同地の自然環境にチャンスを見出したのかもしれない。

落ち延びた平家の中には平重盛の三男、「平清経」も含まれていたと言われているが、真偽不明である。ただし、同地にコミュニティが形成されたこと、そこで起きた忌まわしい事件は、老夫婦の伝承資料だけでなく、有田町自治体史の中にもそれを匂わせる文章が記されている

1677年、広瀬川中流域の住人たちは、上流域のコミュニティを羨(うらや)んでいた。そこに住む男たちは商才に富み、大きな事業を次々と成功させ、肥前藩からも一目置かれていたのである。税を滞納する者はひとりとしておらず、米や農作物の栽培も順調。天候の良し悪しに左右されず、数百年に渡って成果を上げ続けたと言い伝えらえていた。

コミュニティは勢力を拡大し、住人たちは肥前国の中心街でも商いを始め、街は潤った。一方、中流域および下流域の者たちは不作や謎の疫病に苦しめられ、餓死者を出す始末だった。

ある日、上流域の隆盛を妬んだ数名がコミュニティの様子を伺うべく、コッソリ同地に足を運んだ。すると、男たち十数名が広瀬川の河原近くで何かを掘っていた。それが何かをうかがい知ることはできなかったが、広瀬川の水は酷く濁り、異様な匂いを放っていたという。

コミュニティに潜入した数名は、広瀬川の水を意図的に汚し、中流域および下流域の住人に不利益を被らせていると考え、役人に通報した。しかし、肥前藩は上流域の者たちが藩の財政を支えるべく、物を売り、税を納めていることに感謝していたため、調査は不問とされた。

これに憤慨した中流域および下流域の住人たちは、コミュニティを問い詰めべく、鍬や斧、ナタなどを持って急襲を仕掛けた。

しかし、上流域の住人たちは、素人集団の急襲を軽々と跳ね返し、百数十名の男女を一人残さず捕縛。その後、各集落を見回り、残った者たちもひっ捕らえてしまった。

数日後、コミュニティの住人たちは普段通りに商いを再開。さらに、空き家だらけになった中流域および下流域集落の再開発許可を藩に提案し、受け入れられた。同地を治めた家臣は、空き家になった者たちの行方を一応探したものの、その大半が滞納者で、酷い疫病に侵されている者もいたため、形式的な捜索は1日程度で終了した。

優秀な男たちがコミュニティを拡張したことで、藩の税収はさらに増し、百数十名が行方不明になった事件は1年も経たぬうちに忘れ去られた。そして、上流域のコミュニティは閉鎖され、住人たちは利便性に優れた中流域に移り住んだという。

竜門ダム周辺で目撃される霊は、「ダム池から人間が這い出てきた」「道端に遺体が転がっていた」など。

まとめ
広瀬川上流域にコミュニティが存在したこと、そして、中流域と下流域の住人が消えたことは事実らしい

消えた住人たちは、ダム池の底に沈んだ墓の下で眠っている、かもしれない

基本情報
心霊スポット竜門ダム
(りゅうもんだむ)
所在地〒849-4151
佐賀県西松浦郡有田町広瀬山甲2285
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
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【一般道】佐賀空港から約1時間20分
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【高速】佐賀駅から約1時間5分

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日ノ出松溜

日ノ出松溜(ひのでまつため)』は、東松浦半島の中央部に位置する小さな農業用ため池である。その名の由来は、希望や明るい兆しの象徴、「日ノ出」を同地で「待つ(松)」からつけられたという。

良いイメージの名を付ける理由は、再三述べてきた通りである。過去に不幸な出来事や事件が発生したことで定着した悪いイメージを覆い隠すためには、良い噂やイメージを拡散すればよい。しかし、過去の悪いイメージを覆い隠しても、霊は納得しないのである。

東松浦半島の歴史を研究する某大学教授のI氏曰わく、「1771年、唐津藩で発生した虹の松原一揆は、武力衝突なく終結したと記録されているが、実は東松浦半島中央部で一揆衆による小さなトラブルが発生し、結果、死刑に処された者たちがいた。1773年、日ノ出松溜は農業用ため池として整備され、周辺集落に水を供給すべく運用を開始した」という。

虹の松原一揆とは、唐津藩の増税に反対した農民たちが起こした一揆未遂事件である。農民たちは、東松浦半島北部、唐津湾に面した防風林一帯を占拠した。この防風林は江戸幕府の直轄領(天領)であったため、もし農民たちに占拠された事実を江戸に知られれば、唐津藩も処分は免れなかっただろう。

農民たちは天領を占拠し、唐津藩にプレッシャーをかけた。結果、同藩は江戸幕府からの処分を恐れ、増税を撤回せざるを得なかったのである。しかし、この事件は唐津藩のスパイが計画したものと、I氏の持つ伝承資料には記されていた。

この資料は玄海町に住むある御仁から譲り受けたものだという。なお、その事実を公表しないことが譲渡の条件だった、とI氏は述べた。唐津藩はなぜスパイを送り込み、農民たちを一揆に駆り立てたのか。その結果、天領を一時的に占拠され、増税を撤回せざるを得なかったのである。

I氏の資料によると、唐津藩は増税より領地の取り調べ(役人の調査、検分など)を強化したいと考えていた。しかし、いきなり取り調べを強化すると発表すれば、領民から反発を受けることは必須である。

農民の中に送り込まれたスパイは、意図的に増税の噂を流した。そして、農民たちに一揆を起こし、「今すぐ藩にプレッシャーをかけよう」と進言したのである。顛末は既に述べた通りだ。

唐津藩は”本来必要ない”増税策を撤回、「面目をつぶされた」とアピールした。そして、税率を引き上げない代わりに取り調べを強化したのである。

では、なぜ取り調べを強化したかったのか。理由は日ノ出松溜の整備事業が関連していた。同地に農業用ため池を造る案は農民にも支持されていた。しかし、土地の所有者たちが駄々をこね、土地や水の使用量を徴収したいと言い出したのである。

藩主は唐津藩の利水事業としてため池計画を推し進めてきた。しかし、一部の地権者だけが儲けを独占すれば、何らかのトラブルにつながると考えた。

唐津藩は、日ノ出松溜整備事業に反対する地権者(計3家族)を、恐喝および虹の松原一揆加担の罪で捕縛。関係者全員に死刑を言い渡した。

農民たちは、この事件に不信感を抱かなかった。理由は、地権者に関連する不利な情報が街中で噂になっていたためである。噂を流したのは、唐津藩のスパイだった。

身の覚えのない罪を突然着せられて地権者たちは、最後まで頑なに関与を否定した。しかし、悪い噂が街中に広まっていたため、周辺住人たちは誰一人彼らを擁護しなかった。斬首は速やかに執行され、遺体は日ノ出松溜整備予定地の地中深くに埋められた

まとめ
地権者たちは身に覚えのない罪を着せられ、憤死した

日ノ出松溜で目撃される霊は、「ため池から人が這い出てきた」「首のない遺体が転がっていた」など

基本情報
心霊スポット日ノ出松溜
(ひのでまつため)
所在地〒847-1403
佐賀県東松浦郡玄海町大字有浦上
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
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【一般道】佐賀空港から約1時間40分
【高速】佐賀空港から約1時間35分
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【一般道】佐賀駅から約1時間30分
【高速】佐賀駅から約1時間15分

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大字普恩寺北西部

九州電力㈱「玄海原子力発電所」の南西部に位置する『大字普恩寺(おおじふおんじ)北西部』エリアは、風力発電用の巨大風車が乱造された不思議スポットである。人は住んでおらず、住宅や農業関連と思われる施設はいずれも廃墟と化しており、得体のしれない雰囲気に包まれている。

同地は知る人ぞ知る心霊スポットとして恐れられ、夜には近づかない方がよいと噂されている。これまでに目撃された霊は、「首のない兵士が襲いかかってきた」「おびただしい数の生首が転がっていた」など。

私は大字普恩寺北西部から玄海町の南東部、原発から離れた地域に移住したあるご夫婦を訪ねた。H氏曰わく、「鎌倉時代、大字普恩寺周辺は日本史上最大の侵略戦争、元寇(げんこう)の舞台になった。そして、それから約300年後に発生した豊臣秀吉の朝鮮侵略の際には、遺体処理場として利用された。同地には数百から数千人規模のモンゴル人および、数万分の朝鮮人の首、耳、鼻が埋まっていると言い伝えられている」という。

H氏が受け継いだ伝承資料には、元寇(1274年)の記録もしっかり記されていた。なお、肥前国(佐賀県)の北西部が戦場になったこと、そして、大字普恩寺周辺に陣を張った数百名規模の大隊が皆殺しにされたことは史実でも明らかである。

さらに、文禄の役(1592年)の際には、朝鮮半島から持ち帰った首、耳、鼻がなぜか大字普恩寺周辺に遺棄されたという。なお、首の移送には手間ヒマがかかるため、戦争開始から数カ月後には、耳と鼻だけが「朝鮮→対馬→肥後国(名護屋城)」のルートで移送、家臣団のもとに届けられた。

同地が元寇で合戦場になった理由は、モンゴル帝国の侵攻ルートエリアに含まれていたためである。兵士たちは全力を尽くしたが、モンゴル人の勢いに押され、壊滅した。しかし、敵兵を一人でも多く叩き切るという大切な使命を果たし、同地には数千名分の遺体が積み上げられた

文禄の役時に発生した遺体遺棄事件は、肥前国に持ち込まれた首、耳、鼻の処理に困った何者かが行った、と記されていた。なお、秀吉は本拠地(名護屋城)周辺に首塚や耳塚を造ってはならない(縁起が悪いから)と指示し、それに従った肥前国藩主、鍋島氏が住人の少ない大字普恩寺周辺を選んだ、と私は思っている。

いずれにしても、同地では元寇の合戦で数千名が死に、朝鮮から持ち込まれた恐ろしい量の首、耳、鼻が遺棄され、結果、ただならぬ雰囲気を醸し出す土地になってしまったのである。

また、同地には戦死者を祀る神社、寺、遺棄された朝鮮人の身体の一部を埋めた首塚、耳塚などは一切存在しない。なお、建立しなかった正確な理由は不明。恐らく、小さな集落の中に立派な神社や慰霊碑を造っても意味はないと考えたのだろう。

江戸時代、同地では数百年前から霊の出没に悩まされてきた。領民たちは、藩主やその家臣たちに神社や慰霊碑の建立を迫ったという。しかし、過去に同地で死んだもしくは遺棄された者の数は数万人規模、あまりに多すぎた。神主は慣習に従い、供養するのではなく、放置すべきと提案した。

結果、同地は心霊スポットとして恐れられ、人の寄り付かぬ土地になったのである。

まとめ
大字普恩寺北西部は心霊のホットスポット。元寇と文禄の役に関連する死者たちが眠っている

この伝承を知る者は非常に少ない。興味のある方は大字普恩寺周辺を散策してみよう

基本情報
心霊スポット大字普恩寺北西部
(おおじふおんじほくせいぶ)
所在地〒847-1431
佐賀県東松浦郡玄海町大字普恩寺
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間55分
【高速】佐賀空港から約1時間50分
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②アクセス
【一般道】佐賀駅から約1時間45分
【高速】佐賀駅から約1時間30分

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坂本峠

国道385号線」は、福岡市博多区と佐賀県を結ぶ一般基幹道路、市街地エリアに近づくほど通行量が多くなる。一方、山間部区間は道が狭く、台風や大雨等による土砂崩れの影響を受けやすいことで知られる。

ここで紹介する『坂本峠』は、佐賀県三養基(みやき)郡北部、脊振山(せふりさん)の麓を通過する国道385号線一部区間の総称である。離合しにくいポイントが多いため、通行する際は注意しよう。

同エリア周辺では、運用開始当時から霊が出ると噂になり、「後部座席に血だらけの女性が乗り込んできた」「両手に生首を持った男が立っていた」などの目撃情報が多数寄せられている。

三養基郡みやき町で生まれ育ったA氏曰わく、「江戸時代末期、脊振山の麓にはツキノヤグマの巣があり、しばしば人を襲ったと言い伝えられていた。ある日、事件の急増に対処すべく、肥前藩主催の大規模な山狩りが行われ、数百頭のツキノワグマが殺処理された」という。

ツキノヤグマは臆病な性格で、人間のテリトリーにはほとんど近づかない。人喰い熊の噂に違和感を覚えた役人は、情報の出所を調査、ある集落から話が伝わったことを突き止めた。

1805年、脊振山の麓に松原集落」と呼ばれる小さな村があった。人喰い熊情報の真偽を確認すべく、役人は村の代表者と面談し話を伺った。その後、人が襲われたというエリアに案内してもらうも、それらしい痕跡を発見することはできなかった。

数日後、今度は別の役人が松原集落を訪れた。先日調査に訪れた男が自宅に戻らず騒ぎになっていることを伝えると、代表者は「彼はその日の昼過ぎに村を離れた。繁華街までは一本道なので、道に迷うことは考えられない」と答えた。

さらに数日後、今度は10名の兵士と役人が同集落に足を運んだ。1週間で役人ふたりが行方不明になり、事態を重く見た家臣が重武装した兵士を送りこんだのである。代表者は捜索への協力を約束し、集落の男たちに声をかけ、脊振山の主要ルートに役人一行を案内した

昼、役人と兵士たちは林道で人間と思われる遺体を発見。肉と臓物は食い荒らされており、行方不明になった役人か否かは分からなかった。この時、役人たちは遺体に気を取られていた。

遺体を発見した林道の上部、切り立った崖の上に松原集落の別動隊が待機していた。男たちは地上に向けてこぶし大サイズの石を大量に投下。この急襲攻撃で役人と兵士9名が死亡、ひとりが生きたまま捕縛された。

住人たちは遺体を担ぎ、松原集落に移動。その後、遺体を切り刻み、肉と臓物を鍋に入れ、煮込んだ。唯一生き残った男は、人間が喰い尽くされる様子を見せつけられたうえで、最後に解体された。

喰人は大飢饉が発生した際にしばしば目撃されていたものの、カニバリズム(人喰い文化)の伝わる集落やエリアは存在しないと信じられていた。しかし、松原集落ではそれがあった、と考えられている。

この伝承はA氏の持つ資料にハッキリと明記されているものの、真偽は不明である。面談後、私はA氏に連れられ、坂本峠の途中にある狭い林道に案内された。

そこには数十体の仏像と墓、慰霊碑が設置されていた。なお、周囲は雑草と雑木に覆われ、墓はコケだらけで文字を読み取ることはできなかった。

九州のツキノワグマは50年以上前の目撃情報を最後に姿を消し、2012年に絶滅認定された。2006年、坂本峠の西側に東脊振(ひがしせふり)トンネル区間が新設、運用を開始し、旧道を通る車は少なくなった。

まとめ
坂本峠の近くに存在した(と思われる)松原集落がその後どうなったかは不明

カニバリズム関連の心霊スポットは、九州各地に存在する

基本情報
心霊スポット坂本峠
(さかもととうげ)
所在地〒849-0101
佐賀県三養基郡みやき町
種別事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】佐賀空港から約1時間
【高速】佐賀空港から約1時間
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