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九州随一の観光地、沖縄県には、素晴らしい観光スポットが数えきれないほどある。一方、興味深い心霊スポットも非常に多く、沖縄だけに存在する特殊な遺構に憑りついた霊はここでしか体験できない。

日本最西南端に位置する島国は、本州とは全く異なる発展を遂げ、言葉だけでなく遺構も別世界のもののように思える(良い意味で)。

沖縄県は1972年まで閉鎖的(保守的)な島だったが、飛行機やフェリーのおかげで本州との距離は一気に縮まり、今では日本を代表する観光地に生まれ変わった。しかし、そこに巣くう霊は成仏しない限り変わらない。

今回は八重山郡他、3市3郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.八重山郡
   ・満田原森林公園
   ・前良橋
 2.石垣市
   ・フルスト原遺跡
   ・やらぶだけ
 3.宮古郡
   ・多良間空港
   ・三ツ瀬公園
 4.宮古島市
   ・比屋地御嶽
   ・池間湿原
 5.島尻郡
   ・与那覇グスク
   ・琉球霊園
 6.南城市
   ・玉城城跡
   ・糸数農村公園

まとめ

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満田原森林公園

与那国島」は日本最西端に位置する人口2,000人ほどの小さな島である。なお、天候が良ければ、西岸から台湾の都市部(直線距離:約110km)を視認できる。

ここで紹介する『満田原(まんたばる)森林公園』は、与那国島の中央部、その名の通り森林に囲まれた公園である。海岸から離れており、特徴的なアクティビティもないため、人の出入りは少ない。

同森林公園では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「林道に遺体が並べられていた」「森の奥から男性の悲鳴が聞こえた」など。

私は沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏の紹介で、与那国島の伝承資料を保管するE氏にお会いした。

T氏:
琉球王国の歴史は飢饉や台風などの自然災害と強く結びついている。島国であるがゆえに、他国からのサポートも期待できず、それらのもたらす被害は本土より深刻化しやすかった。そして、飢饉や自然災害に関連する悲惨な死はもみ消されることがほとんどだったため、知る者は少ない」

1771年、与那国島を含む琉球の島々に大津波が押し寄せた。なお、津波の発生原因は不明、恐らく地震によるものだと思われる。

与那国島に押せ寄せた高潮は沿岸部を飲み込み、内陸部に到達。100人以上が波に飲まれ、家屋は崩壊、あらゆるものが洗い流された。

家屋や家族を失った人々は内陸部の森林地帯などに避難し、波が引くのを待った。

大津波は島民、家屋、そして農作物に壊滅的な被害をもたらした。また、井戸に海水が混入し、使い物にならなくなった地域もあったという。

不幸は続く。大津波の影響で沿岸部に停泊していた船が軒並み流されてしまい、琉球王国に使者を送ることもできなくなったのである。

農作物と水を失った沿岸部の住民は内陸部の集落や村に押し寄せ、各地で騒ぎが発生した。

しかし、島内に駐留する役人の数は限られていたため、混乱を収めることはできず、食料と水の奪い合いが始まった

森林地帯に避難した住民たちは、野生動物、雑草、土などを食べて飢えをしのいだ。しかし、周辺に井戸はなく、雨水を利用しようにも雨が降らない。

住民たちは危機的な水不足に悩まされ、体力のない老人、赤子、幼児から命を落とした。

T氏の伝承資料によると、内陸部の森林地帯に集まった住民は200名前後。うち半数が餓死、生存者たちも死の危機に瀕したという。

避難から数週間後、沿岸部の復興は一向に進まず、食料の確保も難しい状態だったため、深刻な被害を受けた地域の長は、遺体を食べるよう住民に指示した。しかし、餓死者の遺体はほとんど腐り果てており、食べられるような状態ではなかった。

追いつめられた住民は、ある決断を下した。

数か月後、犠牲になった者たちを追悼する儀式が執り行われた。伝承資料によると、暴徒化した住民は死にかけている者たちを殺害、血で渇きを癒し、新鮮な肉と内臓で何とか生き延びることに成功したという。

以来、事件の舞台、満田原森林公園付近では霊が目撃されるようになった。なお、犠牲者を悼むために建立された慰霊碑はほぼ朽ち果てており、見るも無残な姿をさらしている。

まとめ
満田原森林公園付近は霊のホットスポット。そこで喰われた者の霊が出没すると噂されている

この事件は島のタブーと見なされ、関連する資料はほとんど残っていない

基本情報
心霊スポット満田原森林公園
(まんたばるしんりんこうえん)
所在地〒907-1801
沖縄県八重山郡与那国町字与那国
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
アクセス
那覇空港→石垣空港
→石垣港→目的地

※クリックでGoogle map起動
関連サイト与那国町 公式ホームページ

前良橋

イリオモテヤマネコで有名な八重山郡の「西表島」は、貴重な動植物だけでなく、心霊スポットの宝庫でもある。ただし、霊に関連する伝承はタブー視されることが多く、その実態を知る者は少ない。

西表島の東、前良川(まいらがわ)の河口に架橋された『前良橋』では、昼夜を問わず霊が出没すると噂になっている。

これまでに目撃された霊・情報は「車道の真ん中に赤子を抱いた女児が立っていた」「橋の欄干に生首が置かれていた」など。

八重山郡で生まれ育ち、貴重な伝承資料を保管するM氏曰わく、「西表島はマラリアの発生地(現在は根絶されている)だったため、ワクチンや治療法が確立するまでは定住困難な島だった。しかし、東部の海沿いでコミュニティを形成した小さな集落の住民たちは、鎌倉時代以前からそこに定住していたと言い伝えられている」

1772年、八重山郡の島々は干害とマラリアの同時攻撃を受け、壊滅的な被害を受けていた。

M氏の伝承資料によると、この年だけで約5,000人が死亡。西表島の被害は特に深刻だったという。

この頃、西表島では山間部からもたらされる水で稲作を行うべく、琉球王国主体の移民政策が推し進められていた。結果、マラリアの発生地に人が集まり、深刻な事態に至ったと考えられている。

西表島の東、海岸沿いに「艮(うしとら)集落」という小さな村があった。

ここの住民の祖先は、鎌倉時代以前に九州本土から海を渡り、生き延びた者たちと言い伝えられている。

一方、島の北部で稲作や開墾を行っていた移民たちは、干害とマラリアに苦しめられていた。

マラリアに罹った者はほぼ助からなかった。さらに、干害の影響で稲や農作物は育たず、食料が不足したことで栄養不足が慢性化。移民たちの免疫力は低下し、マラリアの死亡率を高めた。

ある日、艮集落の家主たちは、北部で田畑を耕す移民たちに秘伝の丸薬を分け与えた。これは、600年近く島に定住する中で確立された手作りの抗マラリア薬だった。

M氏の伝承資料によると、艮集落の住民たちはこの丸薬でマラリアを克服し、感染しにくい身体を手に入れたという。

移民政策の放棄(島からの撤退)を考えていた者たちは、この申し出を快く受け入れ、丸薬約100錠はわずか数時間で消費された。

翌日、提供された丸薬を飲んだ者はひとり残らず死亡し、移民たちはパニックに陥った。

そして、丸薬を飲まなかった者たちは「毒を盛られた」と決めつけ、武器を手に取ったのである。

艮集落の住民たちは、長年服用している手作りの丸薬を提供しただけだった。なお、それが移民の身体に害をおよぼした理由は分からない

怒れる暴徒たちは艮集落を襲撃。3人の家主を含む計20人を捕縛した。

暴徒たちは家主を除く17人の首を斧で叩き切り、バラバラにした挙句、前良川に遺棄。これを見た家主たちは、「恩を仇で返された」と怒り狂い、血の涙を流したという。

この日、艮集落は消滅した。そして、前良川の河口付近で頻繁に霊が目撃されるようになったのは、この事件以降だという。

その後、丸薬を飲まなかった移民たちもマラリアに屈し、島に渡った者の8割が死亡。その他は琉球王国本土に撤退した。

艮集落の悲劇を知った他の島民たちは、前良川の河口に近くに慰霊碑を建立し、彼らの死を悼んだ。

まとめ
前良川の河口近くにあった艮集落の住民たちは、暴徒たちを怨み、憤死した

前良橋の西、雑木林の奥に殺された住民を祀る慰霊碑が残されている

基本情報
心霊スポット前良橋
(まいらばし)
所在地〒907-1542
沖縄県八重山郡竹富町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
アクセス
那覇空港→石垣空港
→石垣港→白浜港
→目的地
※クリックでGoogle map起動
関連サイト竹富町観光協会 公式ホームページ

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フルスト原遺跡

フルスト原遺跡』は、石垣島の大浜地区で発見された遺跡である。

これは15世紀頃に琉球の覇権を争った豪族によって形成された城下町と言われており、国の史跡に指定されている。なお、当時の記録を記す書物は非常に少なく、分からないことの方が多い。

同遺跡およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。また、肝試し中の高校生が行方不明になった、という真偽不明の噂も流れており、知る人ぞ知る心霊スポットとして注目された時期もあったという。

これまでに目撃された霊は、「斧を持った男に追いかけられた」「串刺しにされた遺体が並べられていた」など。

沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏曰わく、「フルスト原遺跡はオヤケアカハチという豪族の首領が治めた地と言われているが、詳細は分かっていない。しかし、200年ほど前にそこで発生した事件は伝承資料にしっかり記されており、それ以降、霊が出没するようになった」という。

1825年、石垣島では数年前から薩摩藩を主体とする浄土真宗(一向宗)への弾圧が激化し、捕らえられた信者は過酷な拷問を受けていた。

当時、琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、「島津家」による厳しい宗教統制が敷かれていたのである。

しかし、一向宗たちは厳しい弾圧に何度も抵抗し、役人を打ち負かすことも珍しくなかった。

本土の一向宗たちの大半は武器を捨て教義に集中していた。一方、琉球の信者たちは戦いと教義を両方信仰し、いざという時は自分たちの手で寺を守ると考えていたのである。

島津家は一向宗の中途半端な教義(肉食妻帯)と団結した時の力を恐れ、抵抗する者は容赦なく殺した。こうして両者の戦いは激しさを増したのである。

大原地区、フルスト原遺跡の東に建立された浄土真宗の寺は、薩摩藩&琉球王国の連合軍と一戦交えるつもりで準備を進めていた。

一向宗たちは寺の西、丘陵の頂部に形成されたフルスト原遺跡の遺構を利用し、陣地を形成。火薬、弾薬、槍などを持ち込み、万一の事態に備えていた。

同じ頃、琉球王国は数週間前に捕らえた一向宗、計30名を斬首し、その首を次の目的地に移送した。

数日後、大原地区の寺は琉球王国の部隊約500名に包囲されていた。なお、寺の中には住職しかおらず、僧侶たちはフルスト原遺跡で来たるべき時に備えていた。

琉球王国の兵士は住職に改宗を命令。従えば命だけは助けると諭した。しかし、住職はこの申し出に応じず、境内で斬首された。さらに、身体はバラバラに切り刻まれ、フルスト原遺跡近くの林道に遺棄されたという。

同遺跡に陣取っていた一向宗たちは、仏に仕える住職が惨殺されたことに憤り、先制攻撃を決意する。

一方、琉球王国とは別のルートでフルスト原遺跡の背後(西エリア)に回った島津家の部隊約300名は、急襲攻撃のタイミングを伺っていた。

その後、島津家と琉球王国の部隊は、一向宗を数の力で圧倒。僧侶70人中20人をその場で斬り殺し、残りはひとり残らず捕縛した。

島津家の部隊を率いた隊長は、一向宗が最後まで投降指示に応じなかったと憤り、生存者に「串刺しの刑」を命じた。

数日後、処刑はフルスト原遺跡の中央部、樹木に覆われていない地点で執行され、僧侶50人の串刺し遺体と、衝突中に戦死した者の首が並べられた

以来、同遺跡および周辺では霊が出没すると噂になり、100年近く放置されることになったという。なお、敷地の端には、処刑された一向宗を悼む小さな不動明王像が安置されている。

まとめ
一向宗たちはフルスト原遺跡で信教の自由を奪われ憤死、怨霊になった

遺跡の端に同地で憤死した一向宗を祀る不動明王像が祀られている

基本情報
心霊スポットフルスト原遺跡
(ふるすとばるいせき)
所在地〒907-0001
沖縄県石垣市字大浜
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
アクセス
那覇空港→石垣空港
→目的地
※クリックでGoogle map起動
関連サイト石垣市観光交流協会 公式ホームページ
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フルスト原遺跡 (フルストばるいせき) フルスト原遺跡は、石垣島南部の大浜地区に位置する。宮良湾を望む標高約25m、丘陵東側の高さ約20mの丘陵上にあり、史跡としての指定面積は、12.3ha。周囲に珊瑚性石灰岩(琉球石灰岩)を野積みした石壁を巡らし、敷地内には15基の郭状の石塁遺構、古墓、御嶽跡などが確認されている。 敷地からは、中国製陶磁器や八重山焼の破片が出土している。 石塁遺構は、城(グスク)の特徴を備えているとも考えられるが、生活用品が多数出土する一方、武器が見当たらないことなどから、近年の研究では屋敷囲いの石垣としての性格が強いと考えられている。 古くからオヤケアカハチの居城跡であると言い伝えられてきた。オヤケアカハチは、15世紀に八重山列島に割拠した豪族のひとりで、大浜を本拠としたが、1500年にオヤケアカハチの乱を起こして琉球王国の尚真王に討伐され、以後、八重山列島は琉球王国の支配下に入った。 フルスト原遺跡をオヤケアカハチの居城とする史料はないが、オヤケアカハチが住んだとされる大浜地区には他に城跡が発見されておらず、琉球王国の歴史書である『球陽』においてオヤケアカハチが 「嶮岨を負い、大海に面して」陣を構えたとする描写がフルスト原遺跡に当てはまることから、その可能性は充分にあると考えられている。ただし、近年の発掘で遺跡の存続年代は14世紀から16世紀後半とみられており、この遺跡はオヤケアカハチが活動した15世紀後半以前から存在していたことが分かっている。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ #石垣島 #小浜島 #砂浜 #フルスト原遺跡 #沖縄 #綺麗 #西表島 #フルストばるいせき #快晴 #遺跡 #八重山病 #史跡 #natura #景色 #沖縄好き #八重山好き #八重山諸島 #竹富島 #sae #海辺 #荘厳 #beach #宮良川 #nofilter #instagood #photo #beautiful #niceview #写真 #絶景

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やらぶだけ

石垣島の西エリアに『やらぶだけ(屋良部岳)』と呼ばれる標高200mほどの低山がある。なお、山頂までの所要時間は10分ほど、ハイキング感覚で素晴らしい景色を楽しめるため、知る人ぞ知る観光スポットととして人気を集めているようだ。

やらぶだけの山頂、林道、そして登り口付近では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は「山頂の切り立った崖から幼児が飛び降りた」「人魂を見た」など。

石垣市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するT氏曰わく、「やぶきだけには山の神が住んでいると古くから言い伝えられており、安易に近づいてはならないと信じられてきた。しかし、ある者たちが山頂付近で暴挙をはたらき、その事件以降、”呪われた山”と呼ばれるようになった」という。

1765年、琉球王国の近海で大地震が発生、石垣島や宮古島などの住居が倒壊し、多くの死傷者を出した。

この頃、石垣島の西エリアでは奇怪な噂が流れていた。T氏の伝承資料によると、「集落の中に平家一族の末裔が紛れており、大地震や疫病はその者たちの呪いによってもたらされた」という。

なお、沖縄県には平家一族の末裔に関連する様々な遺構が残されている。ただし、そこで平家の末裔と名乗った者、噂された者たちが本物だったかどうかは誰にも分からない。

やらぶたけの麓に形成された「羽場(うば)集落」の住民たちは、過去に発生した疱瘡(ほうそう)やコロリ病(コレラ)などの疫病に感染しなかった

これらの疫病は十数年間隔で大流行し、その都度千人単位の死者を出した。しかし、羽場集落では全く感染者が出ず、他の集落の住民たちは不思議に思っていたという。

ある日、「疫病は平家一族の末裔の呪いによってもたらされた」という噂が流れ、羽場集落の実情を知っている者たちはにわかに色めき立った。

この噂の出自はT氏の伝承資料にも記されていない。また、平家一族の呪いが大地震や疫病を起こしたという証拠はどこにもない。

しかし、当時の人々はこの噂を信じた。そして、羽場集落がその標的となり、悲惨な事件が発生したのである。

石垣島では大地震直後に疱瘡が大流行し、島民の3割が死亡していた。

この大惨事は「平家の末裔がもたらしたもの」と決めつけられてしまう。そして暴徒化した一部の島民たちは、過去の疫病流行をたまたま回避した羽場集落に襲いかかったのである。

暴徒化した男たちは斧やナタで武装し、羽場集落を急襲、住民の一部を捕縛した。なお、半数以上はやらぶだけに退避し、難を逃れたという。

暴徒たちは計22名を集落内の広場で斬首、遺体はゴミのように打ち捨てられ、野生動物のエサになった。

やらぶだけに退避した生存者たちは山頂付近の崖近くで身を寄せ合っていた。しかし、暴徒たちに発見、捕縛されてしまう。

暴徒たちは捕縛した住民をひとりずつ切り立った崖から突き落とし、地面に叩きつけられる様子を観賞、大喜びしたという。その後、墜落死した幼児や赤子を含む計33名の遺体は崖の下に放置された、

それ以来、やらぶだけ周辺では根も葉もない噂のせいで殺された住民の霊が現れると噂になり、呪われた山と呼ばれるようになった。なお、疱瘡やコロリ病などの疫病は1765年以降も頻繁に流行し、数万人をあの世に送ったと言い伝えられている。

まとめ
やらぶだけの麓にあった羽場集落の住民たちは、平家一族の末裔と決めつけられた挙句、殺された

山頂の切り立った崖は当時のまま残されている

基本情報
心霊スポットやらぶだけ
(やらぶたけ)
所在地〒907-0452
沖縄県石垣市字崎枝
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
アクセス
那覇空港→石垣空港
→目的地
※クリックでGoogle map起動
関連サイト石垣市 公式ホームページ
画像はイメージです

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多良間空港

石垣島と宮古島の中間地点に位置する「多良間島(たらまじま)」は、人口1,000人ほどが生活する小さな島である。

ここで紹介する『多良間空港』は同島の西端に建設された地方空港で、宮古島との直行便のみが運行されている。なお、かなり小規模な空港だが、毎年一定の利用者(主に観光客)を確保できており、今後も継続運用されることはまず間違いないという。

同空港周辺では頻繁に霊が目撃されており、「滑走路内に遺体が遺棄されていた」「ナタを持った男に追いかけられた」などの情報が寄せられているという。

なお、民間人は滑走路内に立ち入れない。情報提供者によると、フェンスの外から霊の姿を確認できるらしい。

私は沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏に連れられ、多良間島に上陸。同地の貴重な伝承資料を保管する老夫婦にお話を伺った。

T夫妻:
「多良間空港の建設地付近には隠れキリシタンの集落があったと言い伝えられている。しかし、琉球王国を支配した薩摩藩の厳しい弾圧などが影響し、キリシタンたちはひとり残らず処刑された」

琉球王国にキリスト教が伝わったのは江戸時代前期と言われているが、正確な時期は不明。それ以前に伝わっていた可能性もある。しかし、禁教令(1613年)の影響でキリスト教関連の資料は軒並み処理されてしまい、当時の記録はほとんど残っていない。

1785年、琉球王国では台風や害虫の影響で農作物が育たず、大飢饉に見舞われていた。

多良間島の農作物も壊滅的な被害を受けた。さらに、この年は近海での漁も不調に終わり、食料を確保できない住民から餓死したという。

島の西岸、隠れキリシタンたちで構成された「蟹田(かにた)村」は、近海で釣った魚、サトウキビ、樹皮などで何とか飢えをしのぎ、琉球王国もしくは薩摩藩からの救援を待っていた。

1785年の秋、多良間島北部の餓死者は200人を超え、生存者たちはその肉を喰い何とか命をつないでいた。一方、蟹田村の住民たちは全員で協力して食料を確保し、餓死する者はひとりもいなかったという。

ある日、蟹田村に驚愕の知らせが届いた。

T夫妻の伝承資料によると、北部の港に救援物資を乗せた薩摩藩の大型船が上陸、米や野菜などを住人に提供したという。

しかし、蟹田村にこの知らせが届いた時、薩摩藩の救援物資は北部集落の住人に食い尽くされていた。

蟹田村の村長たちは北部集落に猛抗議した。しかし、抗議を受けた者たちは、「蟹田村はひとりの餓死者も出していない」「食料を隠し持っているのに関わず、救援物資まで欲しがっている」と逆ギレした。

逆ギレした北部集落の暴徒たちは村長を暴行。隠し持っていたロザリオ(十字架)に気づき、隠れキリシタンが島内にいることを初めて知ったという。

暴徒たちは村長を捕縛、その他はナタや斧で叩き切った。

その後、暴徒たちは捕縛した村長を連れ蟹田村に移動。住民たちに「隠れキリシタンであることを認めれば、村長を解放する」と提案した。

住民たちはこの提案を信じ、隠れキリシタンであることを告白。しかし、暴徒たちはこの提案を無視、告白した住民もひとり残らず捕縛した。

暴徒たちは村長を解放することなく、住民の前で全身の皮を削ぎ落とし、串刺しの刑に処した

その後、蟹田村の住民計59名は村長と全く同じ方法で処刑された。なお、幼児や赤子のそれは見るに耐えなかったという。

事件後、「蟹田村の跡地に近づくと、憤死した住民たちに呪い殺される」という噂が流れ、100年以上空き地として放置されることになった。

まとめ
多良間空港は隠れキリシタンの集落跡地に建設された

空港周辺に現れる霊は、憤死した蟹田村の住民たちかもしれない

基本情報
心霊スポット多良間空港
(たらまくうこう)
所在地〒906-0602
沖縄県宮古郡多良間村字仲筋2361-7
種別怨霊戦争事故
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
アクセス
那覇空港→宮古空港
→多良間港→目的地
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関連サイト多良間 公式ホームページ

三ツ瀬公園

多良間島の東、海岸沿いに形成された『三ツ瀬公園』は知る人ぞ知る心霊スポットとして注目されている。

なお、施設内に遊具やトイレはなく、遊泳禁止エリアに指定されているため、海水浴はおすすめしない。

同園周辺では霊を目撃したという情報が相次いで寄せられ、「夜に近づくと海に引きずり込まれる」「海から男が這い出てきた」などの噂が流れたこともあったという。

沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏曰わく、「多良間島の東海岸沿いには琉球王国の処刑場があったと言い伝えられている。現在の三ツ瀬公園近くに集められた罪人たちは、地獄の拷問を受け、限界まで苦しんだ挙句、処刑された」という。

江戸時代、琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれ、古来から伝わる慣習やルールが見直されることも珍しくなかった。

薩摩藩藩主の島津氏は、琉球王国の治安を安定させるために、隠れキリシタンと浄土真宗(一向宗)の取り締まり強化と、罪人の処刑(死刑)方法を変更した

琉球王国の死刑方法は、最もオーソドックスは斬首と火刑しかなかった。さらに、それらが執行されることはほとんどなく、大半の罪人に流罪が適用されたという。

この頃、国内の治安はひどく乱れ、殺人や強盗、強姦などが各地で多発していた。

島津氏は死刑方法を変更すると同時に、強盗と殺人は一律死罪、窃盗についても被害額によっては死罪。2回同じ罪を犯した者も死罪に処すとルールを変更した。

その後、多良間島の東海岸沿いに公開処刑場がオープンし、本土から離れた島で罪を犯した者の一部がここで処刑された。

島津氏が取り入れた刑は、「鋸(のこ)引きの刑」「串刺しの刑」「石打ちの刑」など、多岐に渡った。

S氏が保管する資料によると、島民から最も支持された刑は石打ち、最も恐れられた刑は鋸引きだったという。

石打ちは住民も参加できるシンプルな処刑法である。

住民たちは木の柱にくくりつけられた罪人に思い切り石を投げつける。極悪人にとどめを刺した者は人気者になったという。

鋸引きは苛烈だった。

執行人は、逆さまに吊り上げた罪人の股に切れ味の悪いノコギリを上げ、脳天めがけてゴリゴリと切り進める。罪人の悲鳴は周辺一帯にとどろき、地獄のような死に様を見た住民たちは、「罪を犯してはいけない」と心に誓ったのである。

これらの刑に処された罪人は、地獄の苦しみを受け、憤死。怨霊になった。なお、同処刑場が閉鎖される直前、砂浜を見た役人たちはそこに打ち捨てられたおびただしい数の人骨を見て絶句したという。

同処刑場は江戸時代前期から幕末まで稼働し、延べ3,000人を処理したと言い伝えられている。

まとめ
三ツ瀬公園近くの海岸沿いには、琉球王国の処刑場があった

同処刑場で処理された罪人は述べ3,000人。地獄の拷問を受け憤死した者は、怨霊になった

基本情報
心霊スポット三ツ瀬公園
(みつせこうえん)
所在地〒906-0601
沖縄県宮古郡多良間村字塩川
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
アクセス
那覇空港→宮古空港
→多良間港→目的地
※クリックでGoogle map起動
関連サイト多良間村 公式ホームページ

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比屋地御嶽

沖縄県を代表する観光地のひとつ、「宮古島」には興味深い心霊スポットが数多く存在する。

ここで紹介する『比屋地御嶽(ひゃんうたき)』は、宮古島の西、伊良部島の南エリアに建立された御嶽(うたき)である。

なお、宮古島と伊良部島は全長約4.5kmの「伊良部大橋」でつながっている。また、御嶽とは琉球神道の施設であり、神社や寺と同じ機能を有していると理解すればよい。

比屋地御嶽の境内(鳥居も建立されている)および本堂周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに目撃された霊・情報は、「境内に遺体が放置されていた」「男の悲鳴が聞こえた」など。

宮古島で生まれ育ち、現在は福岡県で歴史家として活動するI氏にお話を伺った。曰わく、「琉球王国時代、比屋地御嶽の境内で卑劣な罪を犯した者たちがいた。なお、この事件はタブー視され、語り継ぐ者はほとんどいなくなった」という。

御嶽は神社と同じく神様(祭神)を祀っている。つまり、鳥居の内側は神様の領域(住まい)であり、そこで不貞な行為をはたらけば、罰せられるのだ。なお、「賽銭を盗む、境内で唾を吐く、立ち小便、野糞をする」などの行為も不貞に分類されると理解しておこう。

1802年、琉球王国では飢饉と疫病が同時に発生し、数千人が死亡。宮古島と伊良部島でも同様の事態に見舞われ、島民数百人が犠牲になったという。

同じ頃、伊良部島の南エリアでは窃盗や強盗事件が相次ぎ、周辺集落は閑散としていた。

ある日、「椛島(かばしま)村」と呼ばれる小さな集落に窃盗集団が押し入り、住民数名が斬り殺され、貴重な食料を奪い尽くされてしまったという。

家族や友人を失った生存者たちは、遺体を比屋地御嶽横の墓地に埋葬し、その死を悼んだ。

事件から数日後、椛島村にまたしても災難が降りかかる。先日と同じ窃盗集団が現れ、今度は女児5名を連れ去ってしまったのである。

連れ去られた女児たちは比屋地御嶽の境内で発見された。いずれも服は着ておらず、ひどく辱められた挙句、首を切り落とされていたという。

奈落の底に突き落とされた住民たちは、御嶽の祭神に窃盗団への復讐を強く願った

数週間後、比屋地御嶽の境内で窃盗集団と思われる男たちの遺体が発見された。第一発見者は参拝に訪れた椛島村の村長だった。

男たちの死に様はすさまじく、村長は恐怖のあまり糞尿を垂れ流し失神、数時間気を失っていたという。

男たちの首は180度反転し、四肢は切断ではなくねじ切られていた。さらに、眼球は左右逆を向き、口は耳元付近まで裂け、人間とはおもえない顔になっていたという。

以来、比屋地御嶽では霊の目撃情報が相次いでいる。なお、椛島村の住民たちは、復讐のお礼として毎週欠かさずお供え物を奉納し、そこに現れる霊は、境内に封印された愚か者たちと信じた。

まとめ
比屋地御嶽に出没する霊は、境内で非道な罪を犯した窃盗集団と言い伝えられている

窃盗集団の遺体は比屋地御嶽の本堂裏に埋葬され、境内に閉じ込める封印が施されているという

基本情報
心霊スポット比屋地御嶽
(ひゃんうたき)
所在地〒906-0502
沖縄県宮古島市伊良部池間添
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
アクセス
那覇空港→宮古空港
→目的地
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関連サイト宮古島市 公式ホームページ

池間湿原

宮古島の北、池間島(いめまじま)の中央部に形成された『池間湿原』は、どことなく不穏な気配を感じさせる観光スポットである。なお、以前は海とつながっていたが、整備工事により水路を遮断。淡水化に成功し、動植物の楽園になった

池間湿原周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「観光客が沼に引きずり込まれた」「沼から女性が這い出てきた」など。

宮古島で生まれ育ち、現在は福岡県で歴史家として活動するI氏は、先述の「比屋地御嶽(ひゃんうたき)」だけでなく、同地の伝承にも詳しかった。

I氏:
「池間湿原の水には栄養分がタップリ含まれている、と言われている。理由は、そこに数百人分の遺体を意図的に遺棄し、プランクトンを大量発生させたためである」

池間湿原の底には数百人分の人骨が沈んでいると言い伝えられている。ただし、これを確認した者はおらず、I氏の伝承資料に記されていることが100%正しいという確証もないという。

1825年、琉球王国では2年連続で飢饉が発生。約2,000人が餓死した。

池間島の作物も壊滅的な被害を受けた。しかし、漁は好調だったため、餓死する者はほとんどいなかったという。

漁師たちは主に池間湿原の水路とその出口(河口)付近で釣りや漁を行っていた。理由はその付近に魚が集まってくるためである。

I氏の伝承資料によると、池間島では1823年の小規模な飢饉で数十名が死亡。翌年も百数十名が死亡し、島民たちは食糧不足を解消すべく、遺体の一部を池間湿原に遺棄したという。

湿原に内臓や肉の一部を遺棄することで、プランクトンが大量に発生する。また、湿原と海は水路でつながっているため、水が一カ所に滞留し腐る恐れもない。

遺棄から数か月後、島民たちの狙い通り漁獲量は急激に増加し、食糧不足は解消された。

しかし、一部の遺族が遺体の解体に反対し、「役所に通報する」と警告。島民たちは島ぐるみの犯罪行為が露見すると案じ、反対派を粛正したという。

薩摩藩も処刑した罪人の人肉を「撒き餌」代わりに利用したことがある。なお、小さな池などに遺体を遺棄すると、水が腐り、動植物に致命的なダメージを与えるだけでなく、疫病の発生につながる可能性もある。

池間湿原に遺棄された遺体の数は述べ800。当初は内臓と肉の一部のみを撒き餌にしていたが、解体の手間と「丸ごと遺棄した方が処理に手間取らない」という結論に至ったという。

なお、この手法は飢饉が発生した場合にのみ採用するとルール化された。しかし、これに反対した一部の漁師が、埋葬済みの遺体を掘り返したうえで湿原に遺棄、島を二分する騒ぎになった。

その後、「人肉撒き餌漁」は火葬が普及する頃まで続けられたと言われている。しかし、沖縄県に火葬が定着したのは戦後であり、恐らくこれは間違いであろう。I氏の伝承資料には、「1900年代初頭に池間湿原への遺体遺棄は禁じられた」と記されていた。

まとめ
池間湿原には数百人分の人骨が沈んでおり、供養されずに遺棄された者の霊が出没する

人肉撒き餌漁は薩摩藩も採用した遺体処理法。ただし、遺棄方法を間違えると水の腐敗を招く

基本情報
心霊スポット池間湿原
(いけましつげん)
所在地〒906-0421
沖縄県宮古島市平良池間
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
アクセス
那覇空港→宮古空港
→目的地
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関連サイト沖縄観光情報WEBサイト

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与那覇グスク

グスク」とは、沖縄県や奄美群島の一部に残されているグスク時代(11世紀~16世紀頃)の「遺跡」を意味する。

ここで紹介する『与那覇(よなは)グスク』は、沖縄本島の南エリア、島尻郡で発見されたグスクである。ただし、その周辺には住宅や送電鉄塔などが建設されており、当時の痕跡はほとんど残っていない。

雑木と雑草に覆われた同グスクおよびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。

これまでに確認された霊・情報は、「雑木林の奥から悲鳴が聞こえた」「造成地の近くに焼死体が並べられていた」など。

私は宮古島で生まれ育ち、現在は福岡県で歴史家として活動するI氏の紹介で、島尻郡の貴重な伝承資料を保管するA氏にお会いした。

A氏:
「琉球王国時代、与那覇グスク(当時はただの雑地と思われていた)周辺である事件が発生し、以来そこに近づく者は呪われる、という噂が流れた。なお、この事件は薩摩藩によってもみ消され、同地のタブーと呼ばれるようになった」

1704年冬、琉球王国本土で降雪が確認され、最高気温は15度以下にまで低下。島民たちは危険な”何か”を察知し、食料の貯蔵を開始した。

1705年春、気候は改善し、作物は例年通りの収穫量を記録。漁も堅調だったため、島民たちは胸をなでおろした。

しかし、穏やかな日々は謎の集団によって破壊された。本島南部、雑木に覆われた丘の頂部付近に陣取った50名ほどの男女が、周辺集約や商家への攻撃を開始したのである。

集団は裕福な商家や琉球王国の関係者を次々に殺害。報告を受けた薩摩藩(島津氏)は、300人超の大隊を南薩摩から送り込み、琉球王国と連合軍を結成した。

一方、集団は攻撃を激化させ、わずか1カ月で300人以上を殺害。遺体はいずれもバラバラに解体され、ゴミのように打ち捨てられたという。

数日後、連合軍は集団に占拠された雑木林を包囲、侵攻作戦を開始した。

戦闘開始から数時間後、周辺に響き渡っていた怒号が突如止み、雑木林から火の手が上がった

炎は周辺一帯を完全に飲み込んだ。なお、住民たちは戦闘に巻き込まれない場所まで退避していたため、死者は出なかったという。

鎮火後。焼け跡から連合軍の兵士約600人の焼死体が発見された。一方、集団と思われる男女の遺体はひとつも発見されず、琉球王国と薩摩藩の関係者を震え上がらせた。

島津氏はこの大敗を「薩摩藩の恥」と考え、口外した者は処刑すると御触れを出した。こうして600人の死は闇に葬られたのである。

I氏の伝承資料によると、集団は事件発生から約3年後に復活したという。なお、この集団は「薩摩藩と琉球王国の精鋭メンバーで構成されている」と噂になったが、関係者はこれを否定。

その後、集団は最後まで捕まることなく琉球王国から逃亡、九州本土に進出したと言い伝えられている。

まとめ
薩摩藩と琉球王国の兵士、約600人が与那覇グスクで焼死した

連合軍を粉砕した集団は3年後に復活、再び活動を活発化させたという

基本情報
心霊スポット与那覇グスク
(よなはぐすく)
所在地〒901-1103
沖縄県島尻郡南風原町字与那覇196-3
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】那覇空港から約25分
【高速】那覇空港から約20分

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②アクセス
【一般道】那覇港から約25分
【高速】那覇港から約20分

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関連サイト南風原町観光協会 公式ホームページ

琉球霊園

琉球霊園』は日本最南端の鉄道「ゆいレール 首里駅」の東に位置する個人管理型の屋外公園墓地である。

同霊園は霊のホットスポットと呼ばれ、「かなり攻撃」なタイプの霊が出没すると噂になっている。これまでに確認された霊・情報は、「憑りつかれ、体調を崩した」「槍を持った男が霊園の外まで追いかけてきた」など。

墓地と霊は「コインの表と裏」、切っても切れない関係にある。しかし、攻撃的なタイプ、「怨霊」と思われるものたちは全く別物と考えるべきだと私は思う。

島尻郡南風原町(はえばるちょう)で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管するU氏曰わく、「琉球霊園の建設地近くで発生した事件を知る者は少ない。そこで憤死した一向宗たちは、死後も人間以下の扱いを受け、怨霊になったと言い伝えられている」という。

1835年、琉球王国は浄土真宗(一向宗)への取り締まりを強化した。なお、この大規模弾圧は数年に渡って続き、琉球国内だけで1,000人以上が処刑されたという。

一向宗への弾圧を決めたのは琉球王国の統治者、薩摩藩だった。島津氏は彼らの団結力と危険性、肉食妻帯という緩い教義を憎み、寺と信者への攻撃を開始したのである。

一方、琉球王国の一向宗たちは教義を学びつつ、武装することも忘れていなかった。「石山合戦」のような事態を想定し、ありとあらゆる武器を集めていたのである。

しかし、武器を持てる男たちは100人程度。武装した薩摩藩の大隊に攻められればひとたまりもなかった。

1835年秋、薩摩藩と琉球王国の連合軍は浄土真宗の寺を次々に破壊し、信者を拘束。改宗に応じぬ者はその場で斬首された。

同じ頃、丘の頂部付近に位置する「宝願寺(ほうがんじ)」には150名の志願兵が集まり、来たるべき時を待っていた。なお、その他の信者には「改宗する(した)と虚偽申告し、浄土真宗の教えを後世に伝えよ」という指示が出されていたという。

数日後、連合軍は宝願寺への攻撃を開始。武装した一向宗たちは勇敢に戦ったが、数の力に屈し敗北。80人以上が斬死し、生存者はひとり残らず捕縛された。

その後、捕縛された一向宗たちは、焼け落ちた宝願寺跡で壮絶な最期を遂げた。U氏の伝承資料によると、彼らは反逆罪に問われ、「皮剥ぎ火刑」に処されたという。

一向宗たちは生きたまま全身の皮と肉を削ぎ落とされ、弱火でジワジワ焼かれた。彼らの悲鳴は数キロ先の集落まで響き渡り、島民たちを震え上がらせたのである。

中途半端に焼け焦げた遺体は、宝願寺跡に数カ月間さらされた。そして、残った骨は近くの空きスペースにまとめて遺棄され、一向宗たちは一切供養されることなく怨霊になった

琉球霊園の外れ、「那覇空港自動車道」の高架下に宝願寺跡の供養碑と思われる小さな遺構が残されており、その周辺に壮絶な最期を遂げた一向宗の遺骨が眠っている。

まとめ
一向宗たちは焼け落ちた宝願寺跡で壮絶な最期を遂げ、怨霊になった

那覇空港自動車道の高架下に、宝願寺跡の供養碑と思われる遺構が残っている

基本情報
心霊スポット琉球霊園
(りゅうきゅうれいえん)
所在地〒901-1105
沖縄県島尻郡南風原町字新川692
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】那覇空港から約25分
【高速】那覇空港から約25分

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②アクセス
【一般道】那覇港から約25分
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関連サイト琉球霊園 公式ホームページ
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玉城城跡

太平洋戦争、沖縄戦の激戦地のひとつとして知られる南城(なんじょう)市に『玉城城(たまぐすくじょう)跡』と呼ばれる遺跡がある。

これは600年ほど前に築城された「グスク(城)」の跡と言われており、重要な歴史遺産であることが認められ、国の史跡に指定された。なお、築城主、正確な築城年・破却年は不明。

玉城城跡およびその周辺では霊の目撃情報が相次いでいる。これまでに確認された霊・情報は、「赤子を抱いた女性が立っていた」「散策ルートに生首が並べられていた」など。

私は沖縄県で生まれ育ち、琉球王国の歴史を研究する大学教授兼歴史家のS氏に連れられ、南城市の伝承資料を保管するY氏にお会いした。

Y氏:
玉城城跡周辺で発生したコロリ病(コレラ)の大流行とそれに関連する事件は同地のタブーと言われており、知っている者はほとんどいない。なお、当時、琉球王国を支配していた薩摩藩はその事件を闇に葬るべく、厳しい箝口令(かんこうれい)を敷いた」

1835年、沖縄本島の南エリアでコロリ病と思われる疫病が蔓延。8,000人以上が感染し、致死率は5割を超えたという。

同じ頃、玉城城跡近くに形成された人口100人ほどの「ウナチ集落」は、外部とのつながりを断つことで何とか疫病の侵入を防いでいた。

Y氏の伝承資料によると、南エリアでの感染拡大から数週間後、ウナチ集落の代表者たちは周辺の村や繁華街の感染状況をチェックしたうえで、「外部とのつながりを断てば疫病は防げる」「もう少し考えて行動すべき」といった主旨の助言を行ったという。

これに対し、疫病を患った者の家族は「上から目線」の発言に憤慨。代表者たちを捕縛し、罹患した者の吐しゃ物や糞尿を浴びせた。

その後、解放された代表者たちは何とか集落に戻ったものの、案の定体調を崩したのである。

ウチナ集落に入り込んだ疫病は猛威を振るい、60人以上が死亡。最初に感染した代表者たちの一部は何とか病を乗り切ったが、他の住民に激しく責められた

それから数週間後、代表者たちの「上から目線」に憤慨した者、計30名がウナチ村を襲撃、逃げ惑う女子供を辱め、男たちはひとり残らず斬首したという。

襲撃を逃れた女性・幼児・そして赤子は、玉城城跡の雑木林に逃げ込んだ。しかし、襲撃者たちに発見されてしまい、赤子は生き埋め、女性と幼児は何度も犯され、死亡した

南エリアでは疫病に関連するデマや噂の影響で殺人や強姦事件が多発し、琉球王国と薩摩藩は事件に関与した者たちは厳しく処罰した。

さらに、この情報を外部(他の地域、島外)に漏らせば「家族・知人・友人ともども処刑する」という厳しい箝口令を敷いた。

結果、コロリ病と思われる疫病の情報とそれに関連する事件は闇に葬られたのである。

その後、強姦大量殺人事件の舞台になった玉城城跡は閉鎖、終戦後にようやく一般開放された。なお、百数十年経った今でも、事件の被害者と思われる女性たちの霊が頻繁に出没するため、夜間に立ち入る際は注意したい。

まとめ
薩摩藩は玉城城跡で発生した事件を闇に葬った。しかし、事件の記憶を隠蔽しても、霊は消えない

玉城城跡近くの雑木林には、殺された女性たちを祀る供養碑が残っている

基本情報
心霊スポット玉城城跡
(たまぐすくじょうあと)
所在地〒901-1400
沖縄県南城市玉城444
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】那覇空港から約35分
【高速】那覇空港から約30分

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②アクセス
【一般道】那覇港から約35分
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関連サイト南城市観光ポータルサイト
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玉城城 沖縄開闢(かいびゃく)の神アマミキョ(阿摩美久)が築いたと伝わるグスクです。 自然石をくり抜いた城門と岩盤を活かした城壁が見どころです。 城跡駐車スペースを利用、岩盤を活かした城壁を見ながら階段を上がると自然石をくり抜いた一ノ郭城門、琉球七御嶽(うたき)のひとつとされる「天つぎあまつぎの御嶽」があります。<2019年12月12日> ①一ノ郭城門(外側) ②一ノ郭城門(内側) ③登城路階段 ④城壁(岩盤と石垣) ⑤天つぎあまつぎの御嶽 ⑥石垣 ⑦城門の向こうはゴルフ場です ⑧沖縄らしい登城路 ⑨城址碑@駐車スペース<26.144741,127.781752> #玉城城 #玉城城跡 #日本の城 #グスク #沖縄県 #城 #城巡り #japanesecastle #tamagusuku #okinawaprefecture #shotoniphone

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糸数農村公園

南城市の南、「船越グスク(城)」の東に『糸数(いとかず)農村公園』という小さな公園がある。

同園では昼夜を問わず、霊の目撃情報が相次いでいるという。これまでに確認された霊・情報は、「斧を持った男に追いかけられた」「生首を持った男が立っていた」など。

南城市で生まれ育ち、同地の貴重な伝承資料を保管する老夫婦にお話を伺った。曰わく、「同地で飢饉が頻発した頃、薩摩藩の浄土真宗(一向宗)弾圧に乗じた殺人事件が頻発し、糸数地区でも恐ろしい事件が発生した」という。

1827年、琉球王国では4年連続となる飢饉が発生、本島だけで2,000人以上が餓死した。

南エリアの被害は特にひどく、糸数農村公園(当時はただの空き地だった)のある糸数地区も不作、不漁に悩まされ、住民たちはひどく飢えていた。

住民たちは食料を全く確保できない現実と飢えの影響で、理性を失いかけていたと思われる。そんな中、ある奇怪な噂が流れ、周辺集落は大混乱に陥ったという。

老夫婦の伝承資料によると、「飢饉は一向宗の呪いによるもの」「信者たちは今も呪いをかけ続けており、島民をどこかで嘲笑っている」という出自不明の噂がどこからともなく流れ、それを信じた一部の住民が暴徒化したという。

やり場のない怒りに支配された一部の住民たちは、「一向宗の呪い」を信じ、暴挙に出た。

暴徒たちは一向宗と「思われる」僧侶、関係者、お寺を手当たり次第に襲撃したのである。さらに、噂とは一切関係ない米屋や商店を襲い食料を奪取、邪魔する者はひとり残らず殺した。

何とか理性を保っていたその他の住民たちは、暴徒の自分勝手な振る舞いに憤慨し武器を取った。こうして、「呪いを信じる者」と「信じない者」の紛争が始まったのである。

呪いを信じない者たちは暴徒の寝首をかき、数十名を殺害した。

これに対し暴徒たちは、役所に「一向宗と思われる者たちが領民を見境なく殺害している」と通用。報告を受けた薩摩藩は激怒し、糸数地区に部隊を送り込んだ。

薩摩藩の部隊は暴徒の証言を信用し、呪いを信じない者たちに襲いかかった。こうして呪いを信じない者、暴徒の寝首をかいた者たちは捕縛されたのである。

呪いを信じない者たちは、浄土真宗信者ではないと主張した。しかし、薩摩藩の部隊はこの主張を却下、「仏教徒にあるまじき肉食妻帯を許し、己の犯した罪を最後まで認めない外道に生きる価値なし」と断罪し、死刑を宣告した。

数日後、呪いを信じない者たちは糸数地区の空き地に移送され、「皮剥ぎの刑」もしくは「火あぶりの刑」に処された。

暴徒たちは、同じ集落や町で暮らした者たちが処刑される様を見て大笑いしたという。

一方、出自不明の噂と呪いを信じなかった者たちは、暴徒の卑劣な罠にかかり、屈辱と恥辱に塗れ、憤死。その死に様はすさまじく、泣き声と悲鳴が山の向こうまで響き渡ったという。

まとめ
糸数農村公園内には、同地で処刑された者たちを祀る小さな慰霊碑が残されている

呪いを信じない者たちは、一向宗と決めつけられた挙句、憤死、怨霊になった

基本情報
心霊スポット糸数農村公園
(いとかずのうそんこうえん)
所在地〒901-0606
沖縄県南城市玉城字糸数
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】那覇空港から約30分
【高速】那覇空港から約30分

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②アクセス
【一般道】那覇港から約30分
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関連サイト南城市観光協会 公式ホームページ
画像はイメージです

まとめ

今回は八重山郡他、3市3郡の最恐心霊スポット12カ所を紹介した。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

沖縄県の心霊スポットを探索する際は、必要最低限の装備(地図、懐中電灯、非常食など)、除霊グッズ、ハブ対策グッズ(ポイズンリムーバー)などを必ず準備しよう。また、県外から足を運ぶ方は、コロナウイルス感染予防対策の徹底もお忘れなく。最後までお読みいただきありがとうございました。

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