心霊のホットスポットを探す際は、まず、当該地周辺の成り立ちを郷土史でチェックしたい。図書館に行けば自由に閲覧できるはずだ。次は現地調査前の準備である。

調査前に散策するポイント、ルート等をしっかり決め、準備が整えば現地に乗り込む。が、もし可能であれば、当該地の自治会長さんに一声かけておきたい。私は現地調査より当該地周辺で生活する方から得られる情報を何より重視している。

自治会長さんもしくは当該地の”生き字引”と呼ばれる方に話を伺う際は、「心霊を調べてます」と言うのではなく、「同地の歴史に興味があり伺いました」と説明した方が喜ばれる。過去のイヤな歴史を喜んで話す人は少ない。なお、この時、お聞きした情報をホームページで公開したい、と忘れず伝えておこう。

今回は水俣市他2市3郡の最恐心霊スポット12カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

目次

 1.水俣市
   ・久木野川上流
   ・水俣城跡
 2.八代郡
   ・大野窟古墳
   ・火の国橋
 3.八代市
   ・油谷ダム
   ・樅木吊橋
 4.上益城郡
   ・辺田見公園
   ・目丸発電所
 5.下益城郡
   ・堅志田城跡
   ・八角トンネル跡
 6.宇城市
   ・八ツ枝池
   ・天翔台

まとめ

スポンサーリンク

水俣市目次に戻る

久木野川上流

水俣市東部、「大関山(おおぜきやま)」の麓から端を発する『久木野川(くぎのがわ)』上流域は、知る人ぞ知る心霊スポットである。しかし、そこに霊が出没する理由を知る者は少なく、同地域のコミュニティで古くから受け継がれてきた伝承はほとんど失われてしまったという。

久木野上流~中流域の間には、神社、寺、墓所、大小さまざまな慰霊碑などがあちこちに建立されている。水俣市大川地域で生まれ育ち、脈々と受け継がれる土地の伝承を知るU氏曰わく、「戦国時代末期まで、久木野川の最上流域には権田(ごんだ)集落と呼ばれる小さな村があった。ある日、同地を治めていた豪族が集落で暮らす美しい女性の噂を聞きつけ、妾(めかけ)として献上するよう命じた。しかし、女性は1週間後に嫁入りする身であり、この要求を拒否したいと考えた」という。

女性の父親は権力者の元に娘を嫁がせたいと考えた。また知人や友人たちも、豪族の要求を拒否すれば大変なことになると警告。婚約者に事情を説明した。しかし、女性は「命令に従う道義がない」と猛烈に反論、婚約者もそれに続いた。

二人の高圧的な態度に父親の友人が激怒。住人たちに指示を出し、婚約者を捕縛した。そして女性に、「もし要求を受け入れないのであれば、男を釜茹(かまゆ)での刑に処す」と脅した。女性は拒否することができず、豪族の妾(愛人)になる決断を下す。

女性が豪族の元に移送される前日、婚約者は集落を危機に陥れた罪で釜茹での刑に処された。翌日、遺体は久木野川上流域の河原にさらされ、それを見た豪族の兵士たちは大喜びしたという。その日の夜、女性は豪族に弄(もてあそ)ばれている中、元婚約者が釜茹での刑に処されたことを知らされた。

女性は毎晩豪族の”慰みもの”にされ、3か月後に懐妊した。子を授かったことが判明した翌日、女性は寝床に短刀を忍ばせ、意気揚々と現れた豪族の首を掻いた。

復讐を果たした女性は、権田集落付近の河原まで移送され、住人たちが見守る中、「内臓えぐりの刑」に処された。しかし、女性は生きたまま臓物をむしり取られる途中、自ら舌を噛み切り絶命。これを見た家臣団は怒り狂い、住人にその責任を負わせた。

権田集落で暮らしていた百数十名の住人たちは全員捕縛され、老人、女、子供は串刺し、男たちは火刑に処され、村は焼き払われた。そして、遺体は供養することもなく河原に打ち捨てられ、野生動物のエサにされたという。

江戸時代、権田集落を滅ぼした豪族は、肥後藩藩主の勢力に飲み込まれた。さらに、原因不明の疫病が蔓延し、家督を継いだ長男、家族、親族、知人はことごとく死に、その血はあっさり途絶えた。

権田集落の悲劇は同地で脈々と受け継がれ、霊の出没が噂されるようになった。そして、憤死した女性や住人たちを供養する寺や墓所、慰霊碑などが各地に建立されたという。久木野川上流周辺で目撃される霊は、「血だらけの女性が河原に立っていた」「河原の近くでこの世のものとは思えない女性の叫び声を聞いた」など。

まとめ
久木野川最上流域には、権田集落と呼ばれる小さな村があった

女性は婚約所を無残に殺され、豪族の慰みものになったのち、憤死。怨霊化したと言い伝えられてる

基本情報
心霊スポット久木野川上流
(くぎのがわじょうりゅう)
所在地〒867-0283
熊本県水俣市大川
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間50分
【高速】熊本空港から約1時間40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間40分
【高速】熊本駅から約1時間45分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト水俣市 公式ホームページ
画像はイメージです

水俣城跡

水俣城跡』は、水俣市繁華街、水俣川の北に位置する人気観光スポットである。平安時代末期に築城され、群雄割拠の時代を生き抜いた「水俣城」の石垣などが今もキレイに残されており、同敷地内の「城山公園」は市民の憩いの場になっている。

水俣市出身で、同地の伝承資料を受け継いだ歴史家のJ氏は、「水俣城は、歴代城主の中で最も悲惨な死を遂げた犬童(いんどう)氏の怨みつらみによって怨霊の巣窟と化し、その後、霊の目撃情報が相次いでいる。犬童氏の凄まじい死に様は同地のタブーとなり、その怨霊を封印すべく、周辺に寺や墓所、社(やしろ)などがいくつも建立された。しかし、霊の目撃情報が収まることはなく、現在に至る」と述べた。

犬童氏は島津家の侵攻に屈し、水俣城を明け渡し隠居した、と言い伝えられている。しかし、これは犬童氏の怨霊伝説を隠すために広められた噂であり、事実と異なる。戦国時代、九州征服を狙う島津家は、肥後国の相良氏を一刻も早く屈服させたいと考えていた。

犬童氏は相良氏の家臣として活躍した武将兼軍師のひとり。しかし、当時の藩主は力の強い者に組する臆病な性格と噂され、裏で鬼島津こと「島津義弘」とつながっていてが、犬童氏の家臣団は忠義に厚い者ばかりで構成されており、相良氏への裏切り行為を受け入れる者はひとりもいなかった。

相良氏と島津家の合戦が迫る中、犬童氏は予定通り水俣城の無償譲渡および島津義弘への属従を決定。しかし、家臣団はこの事実を事前に相良氏へ密告、裏切り者の犬童氏を捕縛するよう命が下っていた。

裏切り者を捕縛した家臣団は、島津家の大軍に対し籠城戦を展開、ひとり残らず討死する覚悟だった。しかし、相良氏は圧倒的な勢力を誇る敵軍に降伏、家臣団の切腹および同地の明け渡しが決まった。

忠義に厚い家臣団たちは、島津義弘に対し、「ひとり残らず死を受け入れる。ただし、切腹する前に、裏切り者の犬童、裏切りに加担した家族、家臣数名を地獄に叩き落したい」と懇願。義弘はこれを受け入れ、公開処刑の開催を決める。

犬童本人を除く家族、家臣数名は、全身の皮を剥がされ、「内臓えぐりの刑」を受けた。生きたまま臓物を掻き出された者たちは、傷口に熱した鉄の板を無理やり押し当てられ、止血ののち、磔(はりつけ)にされた。その後、男女十数名は1時間以上苦しみ悶え、絶命したという。

犬童は家族と家臣たちが拷問死する途中、何度も命乞いし、自分だけは助けてほしいと懇願した。これを見た島津義弘は、犬童を捕縛した状態で棺に封印。その中に家族の垂れ流した糞尿を入れ、放置した。

棺は半日ごとに開放された。犬童の身体にたかるウジ虫は、その肉を喰らい続けた。義弘は犬童の口に無理やり水と食料を押し込み、生かした。その後、「虫喰いの刑」は5日間継続。拷問最終日、見学者たちが見守る中、棺の中に数百匹の飢えたネズミを投入、犬童は全身を食い尽くされ、死んだという。

この時、見学者たちはこの世のものとは思えない悲鳴を聞き、「鬼島津の拷問処刑を超える地獄は存在しない」と震え上がった。それから数十年後、水俣城は破却され、霊の目撃情報が相次ぐようになった。

水俣城跡周辺で目撃される霊は、「串刺しにされた者たちが並べられていた」「顔のない男が悲鳴を上げながら襲いかかってきた」など。自業自得とはいえ、地獄の拷問で憤死した犬童たちは軒並み怨霊になったのかもしれない。

まとめ
水俣城跡周辺は霊のホットスポット。地獄の拷問の末に憤死した犬童たちが怨霊となり、彷徨っているのかもしれない

自分だけは助かりたいという邪な考えが不幸を招き、同地は怨霊の巣窟と化した

基本情報
心霊スポット水俣城跡
(みなまたじょうあと)
所在地〒867-0012
熊本県水俣市古城1-6-89
種別怨霊戦争事故
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】熊本空港から約2時間40分
【高速】熊本空港から約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約2時間25分
【高速】熊本駅から約1時間25分

※クリックでGoogle map起動
関連サイトみなまた観光情報 でかくっか水俣

八代郡目次に戻る

大野窟古墳

火の国熊本には、古墳時代や弥生時代頃のものと推定される古墳が数多く残されている。ここで紹介する『大野窟(おおのいわや)古墳』もそのひとつ。国内最大規模の石室を有し、「火の国の王」や「邪馬台国の女王、卑弥呼」の墓と噂になったが、内部調査は未実施のままである。そして、2016年に発生した熊本地震の影響で内部が一部崩壊、現在は封鎖されている。

大野窟古墳は「国の史跡」に指定されるほどの遺構である一方、霊が出没することでも噂になっていた。2016年以降、内部に立ち入ることはできなくなったが、霊の目撃情報は続いているようだ。

八代郡氷川町(ひかわちょう)で生まれ育った老婆曰わく、「江戸時代末期、大野窟古墳は子供たちの遊び場になっていた。この時、石室内の遺構は既に盗掘され尽くしており、誰でも好き勝手に出入りできる状態だったという。ある日、古墳の内部で遊んでいた子供十数名が行方不明になり、集落は大騒ぎになった」とのこと。

老婆の保管する伝承資料には、1854年4月10日、大野窟古墳の内部で遊んでいた子供十数名が姿を消したと記されている。事件発生から3日後、男児と女児数名の遺体が古墳の中腹付近で発見。さらにその翌日、残りの児童もバラバラに切り刻まれ、同じ地点で発見された。

殺人罪で捕縛された容疑者は、古墳近くで農業を営む男(40歳)だった。しかし、男は一貫して容疑を否認、無罪を主張し続けた。当時、事件現場の検分等はほとんど行われていないと思われる。男は、噂と第三者からの情報提供に基づき捕縛されたのかもしれない。

男は厳しい拷問に屈し、罪を自供。しかし、死刑執行当日まで、再び容疑を否認し続けた。斬首は速やかに執行され、古墳の周辺住人たちは胸をなでおろした。

死刑執行の翌日、古墳近くを通りかかった女性5名が何者かに叩き切られ、その場で首を切り取られた。さらに2日後、集落の4家族、計19人がなで斬りにされた。被害者たちの表情は苦悶のあまりひどくねじ曲がっており、眼球が飛び出している者もいたという。

大量虐殺事件発生に伴い、役人たちは集落周辺の山狩り、不審者捜索を開始。しかし、犯人につながる証拠は何一つ見つからず、殺された女性、計5名分の首も発見できなかった。

集落襲撃事件から2週間後、大野窟古墳中腹で犠牲になった子供たちを供養する慰霊祭が開催。集落の住人20名程が参加した。慰霊祭開始から数分後、住人のひとりが手洗い(トイレ)を行うべく式を離れ、中腹から林の中に入った。

手洗いを終えた住人が古墳中腹に戻ると、慰霊祭出席者全員が首を切られ、死亡していた。この世の地獄に遭遇した生存者は集落に駆け戻り、友人たちを集め古墳中腹に戻った。

惨殺された住人および2週間前に殺された女性5名の首は、後日、大野窟古墳入り口付近で見つかった。いずれも酷い死に様で、口は捻じれ、目を見開き、発見者たちは恐怖のあまりその場から動くことができなくなったという。

私に情報提供してくれた老婆は、「大野窟古墳を国の史跡に指定しても、大量殺人事件が発生した事実は消えない。古墳中腹に建立された迫観音堂も、怨霊を抑えることはできなかった」と述べた。

まとめ
大野窟古墳の伝承は真偽不明。ただし、老婆の保管する資料には、事件発生日や犠牲者の名前まで事細かに記載されている

古墳中腹の迫観音堂は死者を供養するために建立。なお、死刑に処された農民は、容疑者ではなかったのかもしれない

基本情報
心霊スポット大野窟古墳
(おおのいわやこふん)
所在地〒869-4802
熊本県八代郡氷川町高塚1486
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間
【高速】熊本空港から約40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約50分
【高速】熊本駅から約50分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト熊本県観光連盟 公式ホームページ

火の国橋

八代郡氷川町の南東部、「氷川」中流域に形成された「立神峡(たてがみきょう)」は、風光明媚な渓谷の景色が魅力の観光スポットである。しかし、人気を博す一方、霊の目撃情報が数多く寄せられており、「暗くなったら近づくべからず」と今でも噂されている。

立神峡の北と南エリアを結ぶ『火の国橋』でも霊の目撃情報が相次いでいる。目撃された霊は、「橋の中央部に血だらけの男性が倒れていた」「槍を持った僧侶と思われる男が襲いかかってきた」など。なお、この橋は平成5年架橋。平成から令和時代の間、同地で事件や事故が発生したことはない。

氷川町出身の歴史学教授T氏にお話を伺ったところ、火の国橋の北東部に設置された「五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)」が霊の出現に関係している、と伝承資料を使って説明してくれた。曰わく、「五百羅漢像は浄土真宗信者が厳しい宗教弾圧を受けている最中に設置した、と言い伝えられている。1833年、南薩摩地方で発生した天保の大弾圧により、1,000名以上の浄土真宗信者が同地に逃げ込み、来たるべき時を待った」という。

熊本藩と薩摩藩の連合軍は、山の麓に逃げ込んだ信者たちを追い詰めた。この時逃げ込んだ信者たちは、改宗命令を無視したうえで逃亡を図っており、藩主は「捕縛次第、最後の拷問を行い、それでも改宗しなければ、地獄の苦痛を味合わせたうえで、好きなように殺すがよい」と指示を出していた。

信者たちは武器を持っておらず、抵抗するつもりも毛頭なかった。しかし、連合軍の兵士たちは銃と大砲を駆使し、五百羅漢像周辺に向け一斉攻撃を開始した。これにより、周辺の木々は木っ端みじんに打ち砕かれ、銃弾や大砲の爆風に巻き込まれた信者たちの遺体が四方八方に飛び散ったという。

連合軍は信者の約7割、700名以上を撃ち滅ぼし、300名以上の残党を捕縛。その後、速やかに処刑が執行され、ひとり残らず首を掻き切られた。さらに、兵士たちは信者の頭をゴミのように扱った。ひどい者は、数名分の頭を1本の棒で串刺しにし、「浄土真宗団子」と名付けた上で河原にさらし大歓声を浴びた。

1,000名以上が信教の自由を奪われ、さらに、遺体をゴミのように扱われた結果、同地は霊のホットスポットになった。事件から約110年後、同地で火事場強盗を繰り返していた犯罪者集団によって、五百羅漢像の一部が破壊された。その後、犯人グループは山に火を放ち逃走するも、強風の影響で延焼が一気に進み、10名全員が煙と炎に飲み込まれた。

火は恐ろしい勢いで延焼した。しかし、なぜか周辺集落の手前で強風はピタリとやみ、住人たちが被害を受けることは全くなかった。なお、T氏の資料によると、周辺住人および役人たちは「運よく助かった」と勝手に解釈し、ボロボロになった五百羅漢像の一部を撤去、破壊したうえで氷川にバラまいたという。

立神峡周辺で霊が目撃されるようになったのは終戦以降である。その後、平成5年に火の国橋が架橋されると、橋上でも目撃情報が相次いだ。

皆殺しにされた1,000名以上の浄土真宗信者が成仏したか否かは誰にも分からない。ただし、五百羅漢像の一部を破壊、遺棄したことで霊が出没するようになったのであれば、恐らく、信者たちの一部が大切な像を壊されたことに腹を立て、現世に姿を現した、と私は思う。

まとめ
火の国橋および五百羅漢像周辺で霊が目撃されるようになったのは、終戦以降

信教の自由を奪われた信者たちは、今も同地周辺を霊になって彷徨っている、のかもしれない

基本情報
心霊スポット火の国橋
(ひのくにばし)
所在地〒869-4603
熊本県八代郡氷川町立神974
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間10分
【高速】熊本空港から約45分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約55分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト氷川町 公式ホームページ

八代市目次に戻る

油谷ダム

球磨川水系油谷(あぶらたに)川の上流域に建設された『油谷ダム』は、九州電力㈱所管の水力発電用ダムである。建設費14億円弱の小規模ダムだが、同地域および八代市の一部エリアに電力を供給する重要な役目を担っている。

油谷ダム周辺では、建設工事が始まる以前から霊の目撃情報が相次いでいた。これまでに目撃された主な霊は、「ダム湖のほとりに女性が立っていた」「フェンスの中から女性の叫び声が聞こえた」など。

同ダムの北、鮎帰(あゆがえり)地区で生まれ育ったS氏に、400年以上前から伝わる貴重な伝承資料を見せてもらった。曰わく、「油谷ダム用の人造池があった地点には、3世帯ほどが生活する小規模集落があった。江戸時代、熊本藩の特定地域で原因不明の疫病が流行、八代の繁華街エリアでも患者が急増し、病気に罹った者は助からないという噂が流れた」という。

江戸時代もしくはそれ以前に大流行した疫病も、今となっては治療法が確立しており、何ら恐れる必要はない。しかし、当時の人々は「ハンセン病」や「結核」などを怨霊の祟(たた)りと考え、罹患したものは絶対に助からないと信じ、患者を犯罪者のように扱った。

当時、油谷川の上流域は、疫病に感染した者を捨てる「処理場」兼、自殺スポットになっていたようだ。S氏の資料によると、「疫病に祟られ死んだ者を焼き、煙を出してはならない。煙を吸い込めば、呪われ、疫病に感染するだろう。遺体は油谷川上流域に形成された空き地に巨大な穴を掘り、遺棄すること」と書かれていた。

同地には連日10体を超える遺体が運び込まれ、油谷川の河原近くにあった空き地で供養された。ある日、ひとりの農民が空き地のすぐ近くで集落を発見、足を運んだ。すると、集落の中央に直径2メートル以上の巨大な鍋が設置され、何かがグツグツ煮込まれていたという。

集落一帯は、この世のものとは思えない臭気に包まれていた。巨大な鍋の中で何が煮込まれているのか。農民は中身が気になり、覗き込んだ。中には真黒な液体、紫色に変色した肉、そして人間のものと思われる骨、頭蓋骨などで埋め尽くされており、鼻が捻じ曲がるほどの悪臭を放っていた。

中から漂う悪臭を吸い込んだ瞬間、農民は猛烈な吐き気に襲われ、その場に倒れこんだ。数分後、正気を取り戻した農民は、大柄な男に捕縛、尋問されていた。そして、集落に侵入した者がひとりだけと分かると、大柄な男はナタを振り下ろし、農民を解体、鍋に放り込んでしまったという。

この時、ひとりの女性がその様子を林の中からコッソリ伺っており、ありのままの事実を役人に伝えた。しかし、あまりに常軌を逸した話であり、誰も信じようとはしなかった。女性は困り果てた末、家族知人に声をかけ、もう一度あの集落に足を運んだ

その後の話は資料にも書かれておらず、集落で危険な”何か”が行われていたか否かは分からずじまいである。なお、疫病を調査していた当時の役人の証言が残されている。役人は、「油谷川の水を飲んだ住人の多くが疫病にかかった。川に住む魚などの生き物が大量に死滅した時点で気づくべきだった・・・」と述べたらしい。

まとめ
油谷ダム周辺で目撃される霊の正体は不明。集落が本当にあったか否かも分からない

世にも恐ろしい伝承のおかげで、疫病の危険性を後世に残すことができた、のかもしれない

基本情報
心霊スポット油谷ダム
(あぶらたにだむ)
所在地〒869-6104
熊本県八代市坂本町鮎帰
種別不明
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間45分
【高速】熊本空港から約1時間10分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間30分
【高速】熊本駅から約1時間20分

※クリックでGoogle map起動
関連サイト九州電力 公式ホームページ

樅木吊橋

樅木吊橋(もみぎつりばし)』は、一級河川「川辺川」の上流に架橋された二本のつり橋の総称である。周辺住人から「親子吊橋」と呼ばれ、今では同地を代表する人気観光スポットになった。

しかし、人気を集める一方、不穏な噂も広まっていた。「橋から女性が飛び降りた」「鎧武者が橋の真ん中に立っていた」「槍を持った侍に追いかけられた」など、同地では霊の目撃情報が相次いでいたのだ。

熊本県の歴史と伝承を研究する某大学教授のA氏曰わく、「川辺川の上流域、現在の泉町樅木エリアの山間部には、壇ノ浦の戦いで敗れ南薩摩に落ち延びた平家一族の隠れ里があったと言い伝えられている。男女合わせて数十名が同地に集落を形成し、人の目を気にしながら生活していた」という。

平家落ち人伝説に関連する遺構は九州各県に点在している。樅木吊橋周辺エリアもそのひとつであり、源氏との戦いに敗れ落ち延びた男女が山口県(壇ノ浦)から逃れたきたのかもしれない。

A氏は20年以上同地の平家落ち人伝説を調査しており、周辺住人などから興味深い資料や話をいくつも伺っていた。同地が霊の出没スポットになった理由は、約400年前、江戸時代初期に発生した殲滅戦が関連しているという。

1607年、肥後国の大部分を治めた「加藤清正」のもとに、山奥で平家の残党が生き永らえている、という情報がもたらされた。江戸幕府の創始者、徳川家康は源氏の遠い子孫として知られ、平家に対し、当然良い感情を持っていない。

清正は太閤秀吉子飼いの大大名だったが、関ヶ原合戦で家康(東軍)に組し、多くの豊臣家家臣を死地に追いやっていた。そして、その活躍を認められ、家康から52万石を授かったのである。清正は家康に頭が上がらず、かつ、恐れていた。

もし、平家の残党が肥後国で平穏無事に暮らしていると家康に知られれば、「源氏一族に敵対した賊軍を匿った罪」に問われかねない、と清正は考えたようだ。なお、この事実を知る者は非常に少なく、だからこそ、集落は400年以上存続できたのだろう。

清正は1,000人規模の大隊を率いて集落近くまで秘密裏に侵攻。付近のルートおよび関所を完全封鎖したうえで、家臣に対し、「集落をこの世から消し去る、そこで暮らす者は老若男女問わず、全て捕縛せよ」と指示を出した。

集落の住人たちは武器をひとつも持っていなかった。また、明け方の暗い時間に襲撃をかけたことで、反撃するヒマもなかったようである。住人約200名を捕縛した清正は、集落の長に平家一族の生き残りであるか否かを尋ね、それが事実と分かると、人々を半分に分け、農家に押しこんだ

兵士たちは農家の入口を封鎖。その後、窓から油を流し込み、火を放った。200名の悲鳴は山中に響き渡り、その様子を見守った一人の兵士が、「この世の地獄を見ているようだ」と記録に残している。

200名の遺体は、集落中央部の穴に遺棄、埋め戻された。こうして清正は、家康から疑われることなく、肥後国藩主の座を維持することができたのである。

この平家残党殲滅戦は同地だけの秘密とされ、外部に漏れることはなかった。そして、霊が目撃されるようになったのは、1607年以降だという。1632年、加藤家はあらぬ罪を着せられたことで徳川家の怒りを買い、断絶した。同地の人々は、これを焼き殺された平家一族の呪いと信じ、後世に語り続けた。

まとめ
樅木吊橋周辺は、平家落ち人伝説の舞台のひとつ、と言い伝えられている

山奥の集落で静かに暮らしていた200名の住人たちは、焼き殺され、怨霊になった

基本情報
心霊スポット樅木吊橋
(もみぎつりばし)
所在地〒869-4512
熊本県八代市泉町樅木
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間40分
【高速】熊本空港から約1時間40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間45分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト八代市 公式ホームページ

上益城郡目次に戻る

辺田見公園

上益城(かみましきぐん)郡御船町(みふねまち)周辺は、肥後国(熊本県)の南北を結ぶ交通の要所と呼ばれ、数多の合戦が繰り広げられてきた。

ここで紹介する『辺田見(へたみ)公園』は、御船町の田畑に水を供給する「御船川」の河原に整備された河川公園である。観光スポットではないものの、市民の憩いの場として重宝されているようだ。

同公園は知る人ぞ知る心霊スポットとして人気を集めている。夏休みになると、周辺の中高生が肝試しでを楽しむべく、大挙して押し寄せるという。しかし、同地の伝承を知っている一部の者は、公園はおろか、周辺に近づくことすら躊躇する。

御船町で生まれ育ち、ご両親から伝承資料を受け継いだ老婆曰わく、「室町時代末期から戦国時代、辺田見公園周辺のくぼ地エリアは合戦場として利用されていた。交通の要所を狙う豪族たちは、御船川の南北にそれぞれ陣取り、戦った」という。

御船町を賭けた戦いは、1550年~1600年の間に20回以上行われ、その都度おびただしい数の死者を出した。その中で最も激しく、かつ悲惨な結果を間抜いた合戦が、1559年の「御船氏vs甲斐(かい)氏」の一戦である。

戦国時代、御船町を治めていたのは御船氏と呼ばれる豪族だった。しかし、1559年の合戦で甲斐氏との戦いに敗れ、滅んでしまった。老婆の資料によると、この戦いで命を落とした兵士の数は、御船氏1,500名以上、甲斐氏約500名、計2,000名以上に達したという。

2日間に渡る死闘の結果、御船川はおびただしい数の死体で溢れかえり、水が真っ赤に染まった。総大将が討ち取られたことで、御船氏の兵士たちはひとり残らず甲斐氏に投降した。同地の支配者になった甲斐氏は、見せしめとして遺体の首を全て切り取り、御船川の河原(辺田見公園)にさらした。

同地の住人数百名は、かつての主と家臣団、兵士たちが首をさらされ、ゴミのように扱われていることに憤慨。甲斐氏に対し、一揆を仕掛けた。しかし、数万石を手中に収めた甲斐氏はこれを一掃。主に逆らった反逆者たちをひとり残らず叩き切った

その後、甲斐氏は一気に加担した者の家族もひとり残らず処刑し、集落に火を放った。結果、同地の住人の約8割が死に絶え、米の収穫量も激減した。

辺田見公園周辺で目撃された霊は、「両手に生首を持った鎧武者」「人魂」「御船川沿いに生首が転がっていた」など。20回以上合戦が繰り広げられた結果、同地で命を落とした者は数千人規模にまで膨れ上がっている。戦いに敗れ河原にさらされた者や、一揆の末に家族皆殺しの憂き目を見た者たちが同地周辺を彷徨っているのかもしれない。

甲斐氏最大の失敗は、百姓を殺し、交通の要所と呼ばれた同地を荒れ地にしたことだ。その後、御船町の支配者は、島津家→豊臣家→小西家→加藤家→細川家の順で変わることになる。なお、甲斐氏は戦国時代の波にのまれ、あっという間に滅亡した。

まとめ
辺田見公園周辺の戦死者総数は数千人規模。霊が出て当然だと思う

御船川は死体の山で埋め尽くされ、御船氏の兵士たちは、皆、首を切り取られた

基本情報
心霊スポット辺田見公園
(へたみこうえん)
所在地〒861-3206
熊本県上益城郡御船町大字辺田見
種別戦争
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】熊本空港から約30分
【高速】熊本空港から約30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約40分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト御船町 公式ホームページ
画像はイメージです

目丸発電所

上益城郡山都町(やまとちょう)目丸地区は、平家の落ち人と隠れキリシタンが一緒に潜伏した、と言い伝えられている。しかし、舞台となった山奥の秘境の集落は跡形もなく消え、今ではJNC(株)の『目丸発電所』だけがポツンと建っている。

同発電所は九州山地に端を発する「内大臣川(ないだいじんがわ)」の中流域に建設された。この川の由来は、壇ノ浦の戦い前に死んだ「平清盛」の嫡男、内大臣「平重盛(たいらのしげもり)」からとられたものである。

重盛が落ち延びたか否かは誰にも分からない。しかし、同地では平家にまつわる伝承が古くから言い伝えられており、内大臣川沿いに集落を形成した、と記す資料が残されている

私は、熊本県の歴史と伝承を研究する某大学教授のA氏と一緒に、目丸地区で生まれ育った老婆を訪ね、お話を伺った。曰わく、「目丸発電所の建設地周辺に形成された平家の子孫の集落は、隠れキリシタンを匿った罪に問われた。数百名の住人は最期までキリシタンを見捨てることなくかばい、細川家の脅しにも屈しなかった」とのこと。

南薩摩地方には、「島原の乱」で敗れた隠れキリシタンたちが落ち延びたとされる地、遺構が数多く残されている。同地もそのひとつであり、約50名のキリシタンは偶然平家の子孫が形成した集落にたどり着いたのである。

この時、集落の住人たちが「平家一族の生き残り」と名乗ったか否かは分からない。老婆の保管する伝承資料によると、住人たちはキリシタンを迷うことなく匿い、集落に続く林道の足跡や彼らにつながる証拠までしっかり処理したという。

当時、肥後国を治めていた細川家は、キリシタンの残党を狩りとるべく、四方八方に刺客を放っていた。数日後、目丸地区の山間部で数十名の集団を見たという情報が寄せられた。細川家家臣、宇土(うと)氏は1,000名規模の大隊を編成、山狩りを開始する。

山間部の奥に形成された集落はあっという間に発見、包囲された。この時、宇都氏の使いは集落の長に対し、「キリシタンを捕らえているのであれば、その首を持ってくること。これに応えれば、20年間、税を免除する」と告げた。

集落の長はキリシタンを匿っていると認めた。しかし、彼らの命を保障しない限り、要求には応じないと反論。協議は物別れに終わった。この対応に宇都氏は激怒、軍を集落まで押し出し、完全に取り囲んだ。

この時、キリシタンたちは集落からさらに南、九州山地の麓に向かって進んでいたという。しかし、平家の子孫たちは最期までそのことを白状せず、結果、ひとり残らず処刑された

平家の子孫たちが時間を稼いだおかげで、キリシタンたちは無事落ち延びた。その後、彼らは仏教信者であると偽り、生活したという。なお、目丸発電所から2kmほど南の山中にひっそりとたたずむ「内大臣小松(平)重盛神社」は、落ち延びた隠れキリシタンたちが建立したと言い伝えられている

目丸発電所周辺で目撃された霊は、「槍を持った男が襲いかかってきた」「道端に生首が並べられていた」など。

まとめ
目丸発電所周辺は、平家落ち人伝説の舞台のひとつ

隠れキリシタンは、命の恩人たちを偲び、内大臣小松(平)重盛神社を建立した、と言い伝えられている

基本情報
心霊スポット目丸発電所
(めまるはつでんしょ)
所在地〒861-3672
熊本県上益城郡山都町目丸
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】熊本空港から約1時間20分
【高速】熊本空港から約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】熊本駅から約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
関連サイトJNC㈱ 公式ホームページ

下益城郡目次に戻る

堅志田城跡

堅志田(かたしだ)城跡』は、下益城(しもましき)郡美里町の山中、標高約200m地点に位置する史跡である。肥後国の豪族、阿蘇氏が築城したとされるが、詳細は分かっていない。

堅志田城跡地は心霊の出没スポットと噂されていた。さらに、2016年の熊本地震で遺構の一部が破損し、行政の手入れが行き届かなくなったことで荒地と化し、霊の目撃情報が増加しているようだ。

同地に古くから伝わる伝承を知っている老婆は、堅志田城と肥後国全土を巻き込んだ一揆が霊を呼び寄せる原因になったと述べた。曰わく、「堅志田城は島津家に攻め落とされたと伝えられているが、違う。あの城は内紛で滅んだ。そして、その内紛騒動は数年後の一揆に波及した」という。

阿蘇氏の治めた土地を耕す農民たちは、過酷な税の取り立てと不作の影響で半死半生状態に陥っていた。餓死する者が後を絶たず、国は疲弊していた。現状に危機感を抱いた家臣数名は、税の徴収をやめ、農民のために尽力すべしと藩主に説いた。しかし、領民は駒であり藩主に死ぬまで尽くすもの、と信じていた封建主義の家臣と衝突、内紛が発生した。

島津家が堅志田城を落とすべく進軍したのは事実らしい。しかし、攻撃を仕掛ける前に戦いは終わっていた。農民を助けたい家臣団は藩主および一部の家臣をたたき切り、その首を島津義弘に献上。ありのままの事実を伝え、農民を守るために力を貸してほしいと説いた。

義弘は阿蘇氏家臣団を生かしたうえで、同地を制圧する。そして、税の取り立て等については、家臣団に一任。本軍は九州を平定すべく北上を開始したのである。ボロボロだった農民たちは、米や麦を与えられ、さらに数年間税を免除されたという。

それから数年後、豊臣秀吉が日本を統一し、肥後国は島津家から「佐々成正(さっさなりまさ)」の手に渡った。佐々氏は田畑の開墾と税の徴収が国を豊かにすると確信し、肥後国全土を検地にかけ、再配分すること