今回は伊佐市他5市1郡の最恐心霊スポット14カ所(PART3)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

心霊スポットに足を運ぶ際の注意事項は以下の通りである。
①花、線香、お供え物をお忘れなく。
②夜間散策時は懐中電灯とダッシュできる靴必須。
③一人で危ない場所に立ち入らないこと。
④心霊スポットに行くことを家族や知人に伝えておく。
命の危険を感じたら、迷わず逃げること
⑥立ち入りは自己責任。死ぬ、もしくは呪われても文句は言わないこと。

心霊スポットで事故や事件に巻き込まれたことのある方は、怨霊たちの恐ろしさを十分過ぎるほど理解しているはず。怨みつらみを残して”憤死”し、怨霊になった者は、怖い。そして、我々はそれに対抗する手段を持っていない。遭遇した場合は、平身低頭、地面に頭を擦り付け、「南無阿弥陀仏」とお経を唱えることぐらいしかできないだろう。

目次

 1.伊佐市
   ・轟公園
   ・十曽池
 2.姶良市
   ・山田の凱旋門
   ・竜ケ城磨崖梵字
 3.姶良郡
   ・八幡大地獄
   ・幸田の棚田
 4.鹿屋市
   ・桜花の碑
   ・田崎掩体壕
 5.垂水市
   ・勝軍地蔵
   ・第六垂水丸慰霊碑
 6.曽於市
   ・宮ヶ原千人塚
   ・澤田神社
 7.志布志市
   ・神州不滅の碑
   ・志布志城跡

まとめ

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轟公園

伊佐市中央部、羽月川(はづきがわ)沿いに整備された『轟(とどろ)公園』は、市民の憩いの場であると同時に、知る人ぞ知る心霊スポットとしても注目を集めている。しかし、同公園に霊が出現する理由を知っている方は少ないようだ。

伊佐市の歴史に詳しい方とお会いした際、たまたま同公園の話になった。その方曰わく、「江戸時代以前、羽月川の河原は処刑場として利用されていた。そこで斬首された者の遺体は民衆に晒され、鳥のエサになった。遺体を川に捨てると水質の悪化につながるので、骨になるまで待ち、その後、河原の遺棄した」という。

河原を処刑場として利用することは、決して珍しくない。当時の人々にとっては常識であったと言ってもよいだろう。なお、河原で死ねばそのまま”三途の川”を渡り成仏できる、と一部の方は信じていたようだ。しかし、斬首され、肉や臓器を鳥に喰われ、ゴミのように骨を遺棄された死者が易々と成仏するわけない。

同公園で目撃された霊は、「川の近くに人間の頭が転がっていた」「串刺しにされた女性と子供を見た」など、かなり”おどろおどろしい”ものばかりである。また、1900年の初め頃には羽月川で水の事故が相次ぎ、付近に柵が設けられたこともあったという。

河原で処刑された者は、それなりの罪に問われ、斬首される結果を招いた。もしかすると、あらぬ罪を着せられた者もいたかもしれない。しかし、いかなる理由があろうと、死者は必ず供養されるべきだと思う。集団墓地に手厚く葬るだけでよいのだ。こうすることで、遺族や知人もお参りできるだろう。

先人の行っていた残虐行為(当時は普通だった)は、死者を愚弄し、怨霊の怒りを買った。そして、同地に住み着いた怨霊たちは、数百年経った今も生き続け、現世に姿を現し、我々を攻撃する。

同公園に死者を供養する墓所や慰霊碑、祠(ほこら)などはない。そして、古くから言い伝えられてきた伝承も風化し、河原で多くの者が斬首された、という事実は葬り去られてしまった

昭和40年頃、同公園をたまり場にしていた不良少年少女数名が河原近くで樹や芝を焼いていたという。当時の様子を目撃した老婆曰わく、「それまで大騒ぎしていた若者たちの声が止み、静かになった。皆おかしいと思い様子を見に行くと、バイクや自転車だけが放置された状態だった。後日、警察が現場を確認し、男女数名が行方不明になっているので知っていることがあれば教えてほしいと言われた。しかし、男女数名は結局発見されず、失踪扱いとして処理されたらしい」とのこと。

まとめ
轟公園周辺の河原は、処刑場として利用されていた

斬首され、肉や臓器を鳥に喰われ、その後全く供養されなければ、死者はおのずと怨霊になる

基本情報
心霊スポット轟公園
(とどろこうえん)
所在地〒895-2511
鹿児島県伊佐市大口里
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約50分
【高速】鹿児島空港から約45分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間40分
【高速】鹿児島中央駅から約1時間15分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト鹿児島県 公式ホームページ
画像はイメージです

十曽池

十曽池(じっそいけ)』は、伊佐市大口に建設された十曽ダムを形成する人造池である。同ダムは治水目的で戦後すぐに整備され、周辺住人の生活を支えてきた。

この地には、十曽池およびダムが建設される以前から霊が出没すると噂されていたらしい。しかし、その原因になり得る事象は事故を書き残した資料は一切残されておらず、口頭でのみ伝承されてきたという。

同地周辺に住む老人からお話を伺ったところ、「この付近には、源氏との闘いに敗れ落ち延びた平家の隠れ家があったと言い伝えられている。女性数名と子供たちが同地に身を寄せ、つつましく生活していた。しかし、源氏の追っ手に発見され、ことごとく処刑された」という。

壇ノ浦の戦い」で壊滅した平家の残党や家臣、女子供が落ち延びたという伝説は、日本各地に伝わっている。ただし、「落ち人伝説」として記録されている地は意外に少ない。源氏の追撃を受け、人知れず命を落とした者がたくさんいたのだろう。いずれにしても、平家落ち人伝説は恐らく事実だと思う。

平家の生き残りと思われる女性たちが処刑されて以降、同地は様々な不幸に悩まされたという。河川の氾濫とそれに伴い収穫不良、飢饉が数年単位で発生し、飢え死にする者も後を絶たなかった。人々は異常現象が頻発する事態に恐怖し、その多くが村を離れた。

十曽池周辺で目撃された霊は、「子供の亡骸を抱える女性」「バラバラにされた女子供の遺体」など。どれも平家落ち人伝説を連想させるものばかりである。さらに、「池の中から這い出てきた女性に、友人が引きずり込まれた」という真偽不明の話も伝わっている。

同池で遺体が発見された、という記録はない。しかし、この話を事実と信じている方が以外に多く、ある御仁は、「50年ほど前、池近くの路上に持ち主不明の車が三台駐車されていた。警察は周辺を巡回し持ち主を探したが、何日経っても車は放置されたまま。小さな集落での出来事だったので、全国紙に掲載されることもなく、結局、ただの失踪事件として処理、数年後には忘れ去られてしまった」と教えてくれた。

残念ながら、落ち人伝説や失踪事件の真偽を記した資料は存在しない。しかし、一部住人の間で脈々と言い伝えられてきたこと、そして、目撃された霊の情報を整理すると、同地には何かしらの霊が住むついている、と考えるべきだろう。

まとめ
十曽池は、平家落ち人伝説の舞台のひとつと言い伝えられている

処刑された女子供たちの詳細は不明。また、他の事件や事象などついても、真偽を記した資料は一切残されていない

基本情報
心霊スポット十曽池
(じっそいけ)
所在地〒895-2631
鹿児島県伊佐市大口小木原
種別怨霊
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約1時間
【高速】鹿児島空港から約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間55分
【高速】鹿児島中央駅から約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト伊佐市 公式ホームページ

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山田の凱旋門

姶良市の郊外、山田地区と呼ばれる地域に建設された『山田の凱旋門』は、知る人ぞ知る観光スポットである。これは明治時代、同地区山田村から「日露戦争」に従軍した者たちの帰還を願い、村民有志が力を合わせて建設したという。

門の先には長い石段が続き、頂上から同地区を一望できる。そして頂部には祠(ほこら)が建立され、立派な慰霊碑、墓所も整備されている。そこに祀られている者は、日本最後の内戦「西南戦争」、日露戦争、日清戦争、第二次世界大戦で亡くなった山田地区の住民たちである。

同地区出身の老婆曰わく、「建設当時は凱旋門ではなく鳥居を設置すべき、という意見が大勢を占めていた。しかし、鳥居だと祠(神域)のあるエリアに結界が張られてしまい、異国で命を落とした住民の霊が墓所にたどり着けない、という意見が出た。その意見が採用され、凱旋門の設置に至った。もちろん、結界を張る”しめ縄”も取り付けられることはなかった」とのこと。

凱旋門および祠の周辺は心霊の出没スポットである。しかし、「墓所の前にたたずんでいた」「慰霊碑の前に立っていた男性が姿を消した」など、悪意を感じさせる霊は全くと言っていいほど目撃されていない。私は、老婆の話をお聞きし、感銘を受けた。そして、同地が心霊スポットになるのも当然と理解している。

山田村から出兵した男性たちは、戦地で命を落とした。そして、霊になった彼らは、自分たちが祀られている祠や立派な慰霊碑、墓所に戻ってきた、と私は信じている。さらに、村人たちの粋な計らいにより、結界を張る鳥居としめ縄は設置されず、結果、霊はエリア内を自由に行き来できたのである。

凱旋門、石段、祠のあるエリアは綺麗に掃除され、ゴミどころか落ち葉すら落ちていない。同地区の住民たちが掃除を欠かさない理由は、「死者に敬意を表している」からである。生まれ故郷に戻ってきた霊たちは、綺麗に整備、掃除された自分の墓を見てどう思うだろうか。

お盆(8月13日~8月15日)」はご先祖様をお墓や自宅に招き入れる日であり、古代インドから伝わったとされる。同地区の人々は、凱旋門および祠周辺に結界を張らず、ご先祖様の霊がいつでも戻ってこれるようにしたのだ。

最後に老婆は、「立派な神社や祠でなくとも、死者を弔うことはできる。亡くなった者たちに敬意を表し、墓所や慰霊費を綺麗に保って(大切にして)あげればよい。私は何百回も霊を見たが、彼らは皆満足そうにしていた」と述べた。

まとめ
山田の凱旋門は、祠(ほこら)への入り口に設置されたモニュメント

死者に敬意を表し、墓所や慰霊碑を大切にすることが何より大切である

基本情報
心霊スポット山田の凱旋門
(やまだのがいせんもん)
所在地〒899-5543
鹿児島県姶良市下名1179
種別戦争
危険度(10段階)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 0
①アクセス
鹿児島空港から約20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約45分
【高速】鹿児島空港から約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト姶良市観光協会 公式ホームページ

竜ケ城磨崖梵字

竜ケ城磨崖梵字(りゅうがじょうまがいぼんじ)』は、同地に築城された「竜ケ城」の一部。外郭を形成した「岸壁に刻まれた梵字群」の総称である。なお、梵字は古代インド発祥の文字記号であり、日本に伝来したのは平安時代以前と言われている。

竜ケ城および同梵字群は、姶良市を代表する心霊スポットのひとつである。ただし、夜間の立ち入りはかなり危険なのでおすすめしない。林道を10分ほど歩く必要があり、下手をすると遭難しかねない。また、霊は軒並み明るい時間に目撃されているため、夜にこだわる必要もないだろう。

目撃された霊は「槍を持った鎧武者」「斬首された遺体」「助けを求めてくる女性」など。いずれも現代ではなく、槍と刀で領土を奪い合った時代を連想させるものばかりだ。竜ケ城の城主、蒲生氏は、平安時代末期から戦国時代まで約400年続いたものの、島津家との闘いに敗れ、城はことごとく破却されたという。なお、竜ケ城の正確な破却年は分かっていない。

古くから伝えられてきた伝承によると、竜ケ城および蒲生氏の本拠地「蒲生城」周辺では戦が絶えず、その都度数百から数千の死者が同地を埋め尽くしたという。この時代、敵国の兵士の遺体は首を切り取り、殿様にその数を報告するのが当たり前だった。

首を切り落とされた遺体は、まとめて穴に埋められる(捨て置かれる)か、動物や虫のエサにする。これも至って普通の行為だったが、死者を供養せず、無下に扱えば、当然怨霊化を招く。蒲生氏は住民の生活を第一に考える良い藩主だったと言い伝えられているが、度重なる飢饉や飢餓、自然災害などに悩まされ、他国に侵略する余力はほとんどなかったという。

なお、竜ケ城磨崖梵字への刻印が始まった時期は不明である。ただし、蒲生一族も刻印に関わったことはまず間違いと思う。仮に私が城主であれば、度重なる飢饉や天災から住民の生活を守ってほしいと仏教の神に祈りを捧げたくなる

同梵字群周辺に現れる怨霊は”おどろおどろしい”ものばかり。また、伝承を教えてくれた御仁によると、「戦後間もない頃、竜ケ城跡周辺には家族や自宅を失った者たちがたむろし、生きるために山の動植物を食い荒らしたという。しかし、ある日を境に彼らは全員姿を消した。不審に思った住民のひとりが現地を確認すると、梵字群周辺で数百人分の白骨遺体を発見した」

「後日、その住民は知り合いを連れ再度現地を確認したそうだが、遺体は跡形もなく焼失し、衣服だけが残されていたという。そこにたむろしていた者たちは結局見つからず、目撃した白骨遺体も見間違えである、と結論づけられ、この話はなかったことにされた」という。

まとめ
竜ケ城磨崖梵字と竜ケ城周辺は怨霊の出没スポット。夜間の立ち入りは危険である

戦後の混乱期に発生した数百人規模の失踪事件は、詳細不明のまま忘れ去られてしまった

基本情報
心霊スポット竜ケ城磨崖梵字
(りゅうがじょうまがいぼんじ)
所在地〒899-5304
鹿児島県姶良市蒲生町下久徳63-22
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約25分
【高速】鹿児島空港から約25分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約40分
【高速】鹿児島中央駅から約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト姶良市観光協会 公式ホームページ
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八幡大地獄

姶良郡湧水町(ゆうすいちょう)の山中にある「栗野岳(くりのだけ)温泉」は、霧島連山中腹、「霧島温泉郷」のひとつに含まれる温泉である。「西郷隆盛」が湯治場として利用したことで知られ、知る人ぞ知るマニアックな観光スポットとして人気を集めることになった。

同温泉を楽しめる唯一の旅館、「南洲館」の裏に『八幡(はちまん)大地獄』という源泉噴出スポットがある。ここは昔から心霊の出没するスポットとして知られているが、その理由を知っている方は非常に少ない。周辺住民の方でも、江戸時代から続く伝承を忘れていることが多いという。

ご先祖様の代(江戸時代)から湧水町に居を構える老人にお話を伺ったところ、「八幡大地獄周辺は、盗賊や藩を追われた野武士が住み着き、近づく者の持ち物を奪い、殺したと言い伝えられている。なお、島津家もただ手をこまねいていたわけではないが、盗賊たちは地の利を活かし周到に犯罪を重ねたらしい」と教えていただいた。

ある日、同地周辺で数名の女性が姿を消し、後日、源泉噴出口近くで発見された。いずれも肛門から太い柱を打ち込まれ、口まで貫通。約100度の蒸気にさらされ、見るも無残な姿になっていたという。人間の行いとは思えない所業に藩主の島津家は激怒し、山狩りが行われた。

しかしそれから数日後、容疑者と思われていた盗賊や野党が、死亡した女性たちと全く同じ姿で発見された。30人以上が串刺しにされ、第一発見者は”地獄絵図”と涙ながらに語ったと言う。犯人は結局分からずじまいだった。

周辺住民は、悪魔の所業を怨霊の仕業と噂し、「八幡大地獄は人の近づく地にあらず」と恐れ、同地を離れた。その後、時間の経過とともに事件や噂は風化し、江戸時代末期になると、知る人ぞ知る温泉スポットとして人気を集めるようになった。

同地で目撃された霊は、「四肢を失った女性が這いながら移動していた」「噴出口近くに串刺しの遺体がさらされていた」など。なお、猟奇的な殺人事件を記録する資料は一切残されていないため、真偽を証明することはできない。しかし、何かしらの事情によって、悪い噂が流れてしまったと考えるべきだと思う。

最後に、八幡大地獄の散策は明るい時間に行うこと。定められたルートを外れ、源泉噴出口や熱湯に近づくと命に係わる。また、惨殺された女性たちの怨霊が現れることを想定し、お花や線香なども持参するとよいだろう。

まとめ
八幡大地獄は、栗野岳温泉「南洲館」の裏手にある心霊スポット

同地で発生したと言われる猟奇殺人の真偽は不明。ただし、目撃された霊は、それを連想させるものばかりである

基本情報
心霊スポット八幡大地獄
(はちまんだいじごく)
所在地〒899-6201
鹿児島県姶良郡湧水町木場6357
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約40分
【高速】鹿児島空港から約35分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間30
【高速】鹿児島中央駅から約1時間
※クリックでGoogle map起動
関連サイト湧水町 公式ホームページ

幸田の棚田

湧水町(ゆうすいちょう)幸田地区の山奥に形成された『幸田(こうだ)の棚田』は、日本の棚田百選にも選ばれた古き良き時代の原風景を楽しめる観光スポットである。ただし、同エリア周辺は心霊の出没スポットと恐れられているので、立ち入る際は心づもりと準備をお忘れなく。

幸田の棚田は、城造りに欠かせない”石工”や村民が力を合わせて造った言われているが、正確な整備時期は不明。ただし、棚田を造るに至った経緯と、それに伴う怨霊の伝承は古くから言い伝えられてきた。

同地区のはずれに住む老婆は言った。「平安時代末期から戦国時代。同地は山奥に位置していたため、戦の生き残りや脱藩した者の隠れ家になっていたという。しかし、身を寄せる者は数百人を超え、その存在を島津藩に知られてしまった。結果、藩による現地調査が行われることになった」

藩の目の届かぬ場所で田を耕したり、何かしらの商いで収入を得ることは違法、財産を奪われ、厳しく処罰される。それを恐れた者たちは、島津家の兵士たちを迎え撃ち、退路を断った。島津家の兵士はつわもの揃いと恐れられていたが、身を寄せる者たちも元武士などで構成されており、また、地の利を活かした奇襲攻撃を放つことで、相手の不意を衝くことができた。

この衝突で島津家の家臣と200名程が皆殺しにされた。これに怒った島津軍は大戦力を投入し、エリアの掃討作戦を開始する。しかし、同地に到達するも、身を寄せていた者たちの姿はどこにもなかった。不審に思った兵士たちが周辺を捜索すると、数百人分の遺体を発見。いずれも四肢を切断され、山積みにされていた。しかし、首から上はことごとく持ち去られていたという。

幸田の棚田周辺で目撃された霊は、「道端に人間の首(頭)が転がっていた」「刀を持った鎧武者が切りかかってきた」など。いずれも古くから伝わる伝承に関連しているものと思われる。なお、老婆の話を証明する資料は一切ない。

日本全土が荒れに荒れた室町時代と戦国時代、数百人規模が死亡する事案は日常茶飯事だった。また、島津家は他藩および他国から血に飢えた猛獣と恐れられ、太閤秀吉の指示した朝鮮出兵においては、一度の戦で5万人以上の首を切り落とし、それを見た者は敵味方を問わず、「島津恐るべし」と震え上がった。

幸田の棚田は、同地で惨殺された島津兵200人と、謎の死を遂げた数百人を祀る目的で整備された、と言い伝えられている。しかし、死者を祀る神社や祠(ほこら)、慰霊碑などは建立されず、怨霊を抑えることに失敗したようだ。

まとめ
幸田の棚田は、古く良き日本の原風景が広がる観光スポット。心霊の目撃情報多数

同地に古くから伝わる伝説は真偽不明。ただし目撃された霊は、いずれも伝説に関連すると思われるものばかり

基本情報
心霊スポット幸田の棚田
(こうだのたなだ)
所在地〒899-6205
鹿児島県姶良郡湧水町幸田2094
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★☆☆☆☆☆☆ 4
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約35分
【高速】鹿児島空港から約30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間25分
【高速】
鹿児島中央駅から約1時間
※クリックでGoogle map起動
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桜花の碑

特攻攻撃のみを目的として開発された「桜花(おうか)」、通称「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」は、大日本帝国軍史上最低最悪の”大バカ兵器”として嘲笑されている。なお、大日本帝国軍と桜花が大バカであることには大賛成だが、”洗脳”によって搭乗を強要された兵士たちは、バカではなく犠牲者である。

なぜ桜花は大バカ兵器なのか。理由は以下の通りである。
①桜花は重力とロケットエンジンの推進力で空中から敵母艦に特攻する。すなわち、搭乗する者は必ず死ななければならない。連合国軍は、兵士の命を物のように扱う大日本帝国軍をあざけり、嘲笑した
②桜花の重量は2トン以上、それを上空に運ぶ戦闘機はまともに飛行できず、途中ことごとく撃墜された。

ここで紹介する『桜花の碑』は、大バカ兵器”桜花”の搭乗訓練などが行われた「野里国民学校跡地」に建立、心霊スポットとして恐れられている。目撃された霊は、「軍服を着た若い男性」「男たちが慰霊碑に銃を突き付けていた」など。

なぜ同碑は心霊スポットになってしまったのか。理由は単純明快、大日本帝国軍に洗脳され、戦地で命を落とした兵士たちへの敬意と供養が足りないためである。鹿屋市内には、第二次世界大戦で戦死した兵士を祀る慰霊碑があちこちに建立されている。しかし、敬意と供養が足りないと死者は判断し、現世に怨霊となって姿を現すのである。

洗脳され桜花に搭乗した者、それに関連する任務で命を落とした者は千人を優に超えると言われている。大日本帝国軍が開発した大バカ兵器のせいで、それだけの命が失われたのだ。洗脳された兵士たちは、最期まで国に尽くした。そして死に、気づく。「我々は勝機ゼロの戦いに駆り出され、”無駄死にさせられた”」と。

大バカ兵器桜花の発進地だった「鹿屋基地」周辺でも心霊の目撃情報が相次いでいる。兵士たちは、命を落とした後に”無駄死にだった”と気づき、現世に姿を現す。そして、自分たちが最期の時間を過ごした鹿屋市の施設跡に集結するのである。

桜花の碑周辺には、有志による別の慰霊碑も建立されている。これらは、戦死者に敬意を表し供養するためのものだが、現在も心霊の目撃情報は一向に止まない。死者は納得していないのだ。我々は慰霊碑を建立し、満足するが、洗脳によって”無駄死にさせられた”者たちの怒りが収まると思ったら大間違いである。

どうすれば怨霊になった兵士たちを成仏させることができるのか。方法はひとつ、彼らが納得するまで敬意を表し、供養し続けるしかない。そして、彼らがいつ納得し成仏するかは、誰にも分からない。

まとめ
桜花の碑は、大日本帝国軍が開発した大バカ兵器”桜花”
で無駄死にさせられた兵士たちを祀る慰霊碑
無駄死にさせられた兵士たちが怨霊になるのは至極当然。我々は、彼らが納得するまで敬意を表し、供養し続けねばならない

基本情報
心霊スポット桜花の碑
(おうかのひ)
所在地〒893-0055
鹿児島県鹿屋市野里町
種別戦争
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約1時間40分
【高速】鹿児島空港から約1時間25分
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②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間50分
【高速】鹿児島空港から約1時間45分
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田崎掩体壕

海上自衛隊 鹿屋航空基地」の南エリアにポツンとたたずむ『田崎掩体壕(たさきえんたいごう)』は、第二次世界大戦時に使用された鹿屋基地の資材貯蔵庫である。

同貯蔵庫は、先に述べた”桜花の碑”と同じく、心霊が出没することで知られる。目撃された霊は、「軍服を着た軍人」「両手に生首を持った鎧武者」「串刺しにされたおびただしい数の遺体」など。第二次世界大戦と、江戸時代以前の混乱期に起きた戦や事件が関連している、噂されている。

鹿屋市の歴史に詳しい元教師からお話を伺ったところ、「戦国時代以前、掩体壕周辺は戦場(いくさば)として利用されることが多々あり、その都度多くの戦死者を出したという。さらに、領土の不安定な情勢を利用した賊が同地に蔓延り、通行人をことごとく捕らえ、殺したと言い伝えられている」と教えていただいた。

鹿屋航空基地一帯が戦場として利用されたことには納得がいく。数千、数万人規模の軍勢が正面衝突できるほど広く、また、林エリアは待ち伏せや急襲を仕掛けるのにピッタリである。なお、真偽を証明する資料はないが、同地で心霊が目撃されていることは事実。元教師の言う通り、何かしらの合戦、争い、殺し合いが同地で繰り広げられたのだろう。

さらに第二次世界大戦においては、鹿屋基地から千人以上が出撃し、命を落とした。彼らの霊が基地周辺に戻り、結果、戦国時代以前の霊と同時に出現する事態を招いてしまったのだろう。元教師はさらに信じがたい事実を教えてくれた。

「終戦の翌年、掩体壕周辺で奇怪な失踪事件が相次いだ。消えた者はいずれも男性ばかり。共通点はなく、行政はただの失踪としてまともに取り合わなかったらしい。しかしある者は、消えた男性たちがいずれも大日本帝国軍を肯定し、負けた原因は根性なしの兵士にある、と死者を愚弄する発言ばかりしていたことに気づいていた」

計20名が失踪事件で姿を消したものの、戦後の混乱期にあり、捜査らしい捜査はほとんど行われなかったようだ。それから数か月後、掩体壕周辺で人骨と思われる骨が複数発見されるも、事件性はないと判断され、うやむやになってしまったという。

田崎掩体壕は外観および内部とも、自由に見学できる。ただし、内部に立ち入ることはおすすめしない。地面にはおびただしい数の虫がうごめいており、元教師曰わく、「内部には失踪した男性20名が埋められており、それをエサにすることで、虫が大量発生した、と噂されている」とのこと。立ち入ると、不気味かつ身体の表面がべたつくイヤな感覚を味わうことになるだろう。

まとめ
田崎掩体壕は、第二次世界大戦時における鹿屋基地の資材貯蔵庫だった

失踪事件の真偽は不明。遺体は掩体壕内部に埋められている、と噂されている

基本情報
心霊スポット田崎掩体壕
(たさきえんたいごう)
所在地〒893-0037
鹿児島県鹿屋市田崎町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約1時間45分
【高速】鹿児島空港から約1時間20分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
【一般道】鹿児島中央駅から約1時間55分
【高速】鹿児島中央駅から約1時間35分
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勝軍地蔵

勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)』は、垂水市高城(たかじょう)集落に建立された仏像群である。室町時代中期に同地を治めた「肥後氏」が建立したと言い伝えられており、県の文化財にも指定されている。

鎌倉時代、同地周辺は、”壇ノ浦の戦い”で源氏に敗れ滅んだ平家一族の末裔、肥後氏が250年ほど支配し、その間、戦が絶えなかったという。室町時代、肥後氏を滅ぼしたのは、「源頼朝」とつながりのある「伊地知(いぢち)氏」だった。

薩摩で繰り広げられた源氏と平家(氏)の戦いは、壇ノ浦の戦いと同じ結末を迎えた。同地で受け継がれる伝承に詳しい老婆は、「戦が発生すると、その都度数百人規模の死者が出た。敵兵の首や耳は切り取られ、身体は付近に串刺し、野生動物のエサになったという。周辺住民は腐臭の立ち込めるこのエリアに近づかなかった」と述べた。

平家一族の怨みは深く、そしておぞましい。日本三大怨霊のひとり、「平将門(たいらのまさかど)」を筆頭に、同一族関連の遺構や墓所は軒並み怨霊が出現する、と恐れられている。垂水市の勝軍地蔵も同様、肥後氏は宿敵源氏とつながりのある伊地知氏に粉砕され憤死、怨霊になったのだ。

戦国時代に入ると、同地周辺の争いはさらに激しさを増す。伊地知氏、島津氏などの豪族による”血で血を洗う”戦いが際限なく繰り返され、人が死んだ。死者の扱いは既に述べた通りである。同地はカラスや猪、野犬などが群がる「野生動物のエサ場」と化した。

勝軍地蔵および高城集落一帯は、現在も戦場だった頃の名残を残している。さらに、供養もされず野生動物のエサになった兵士たちの怨霊がうごめいており、雑木林に近づくと、得体のしれない何かに監視されているような感覚を覚える。

老婆は、「室町時代から戦国時代にかけて、この地で戦死し首を切り取られた者は、1万人を優に超える。しかし、彼らの霊を供養したのは高城集落の者だけ。死んだ者たちが怒り狂うのも当然である。彼らには慰霊碑どころか墓すらない。藩主は兵士を使い捨ての駒と考えた。結果、最期は怨霊になった彼らの怨みつらみによって滅びた」と述べた。

怨霊の怨みつらみを放置すると、取り返しのつかない事態を招く。高城集落周辺で起きた事案は、当時の日本の常識だった。累計すると、全国で百万、一千万単位の兵士がひどい扱いを受け憤死したのである。日本の国土は怨霊化した兵士たちの怨みつらみを買い続け、それが第二次世界大戦で爆発、日本は滅びた、と私は信じている。

まとめ
勝軍地蔵は、鹿児島県を代表する怨霊スポットのひとつ

供養もされず、野生動物のエサになった兵士たちが怨霊化するのは至極当然のことである

基本情報
心霊スポット勝軍地蔵
(しょうぐんじぞう)
所在地〒891-2113
鹿児島県垂水市高城
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
【一般道】鹿児島空港から約1時間20分
【高速】鹿児島空港から約1時間10分
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②アクセス
鹿児島中央駅から約1時間30分
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関連サイト垂水市観光協会 公式ホームページ
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第六垂水丸慰霊碑

旧垂水港近くに建立された『第六垂水丸(たるみずまる)慰霊碑』は、1944年2月に発生した第六垂水丸沈没事故の死者を悼む慰霊碑である。

残念なことに、同慰霊碑および港周辺は心霊の出没スポットとして注目されるようになり、不届き者のいたずら行為(立ち小便、落書き、ゴミの投棄など)が相次いでいたという。近年、市の人口が大幅に減少したことで、いたずらする者は少なくなったが、今でも心霊の目撃情報が後を絶たず、周辺住民を悩ませている。

第六垂水丸沈没事故に関連する記録はほとんど残されていない。