今回は南九州市他4市2郡の最恐心霊スポット14カ所(PART2)を紹介する。なお、個人的な主観で選んでいることをご理解いただきたい。

怨みつらみを募らせていた者、謂(いわ)れのない罪を着せられ殺されたもしくは死んだ者などは、怨霊になる。悪意のない霊は人間に攻撃を仕掛けてこないが、悪霊は違う。間接的な攻撃(天災、疫病、飢饉など)はもちろん、呪われ死ぬこともある、と私は思っている。

日本人ははるか昔から怨霊を恐れており、令和の時代になった今も神社やお寺を参拝し、「今年も平穏無事でありますように」と祈る。しかし、今年は史上まれに見る酷い1年になることが上期終了前の段階でほぼ確定した。まさか、ここまで酷い1年になるとは誰も想像できなかったはず。これもひとえに怨霊たちのおかげ(?)である。

地球を襲うあらゆる厄災は、怨霊たちがもたらしていると私は信じている。根拠?そんなものはない。2020年終了まで約半年。怨霊になった者たちを成仏させなければ、コロナウイルス以上の大惨事が我々を襲うかもしれない。しかし、今さら慌てても手遅れなので、後は運を天に任せよう。

今回紹介する14カ所に足を運ぶ際は、心づもりと安全対策をお忘れなく。なお、怨霊に出会い呪われたら、運が悪かったと思って諦めなさい。自己責任、自己完結である。

目次

 1.南九州市
   ・清水磨崖仏
   ・知覧城跡
 2.薩摩川内市
   ・長野滝
   ・諏訪神社
 3.阿久根市
   ・黒神岩
   ・菅原神社
 4.出水市
   ・薩州島津家の墓
   ・境橋
 5.薩摩郡
   ・永野金山跡
   ・首塚
 6.出水郡
   ・長崎鼻灯台
   ・日本マンダリンセンター
 7.霧島市
   ・笠取峠
   ・西南戦争激戦地

まとめ

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清水磨崖仏

清水磨崖仏(きよみずまがいぶつ)』は、南九州市北部、”万之瀬川(まのせがわ)”右岸の崖に刻まれた仏教遺跡である。高さ約20m、幅約400mの範囲に仏像や五輪塔、その他仏教に関連する文字などが刻印されている。

同遺跡は知る人ず知る観光スポットであり、10mを超える五輪塔の彫刻を筆頭にその歴史的価値を認められ、「県指定文化財(史跡)」に登録された。そして、そこに集まった人々から「不思議な霊に遭遇した」という数多くの情報がもたらされ、今では同市を代表する心霊スポットのひとつになった。

仏教徒たちは、同遺跡への刻印を平安時代後期(1,000年頃)から始めたと考えられている。その後、鎌倉、室町、江戸、明治時代にも刻印は継続され、今の形になったという。仏教徒たちはなぜ崖に彫刻を施したのか。理由は諸説あるが、私は同地周辺で命を落とした人々の霊を慰めるために行った、と信じている。

同地周辺で酷い戦や殺人事件、事故が発生したという記録は残されていない。ただし、島津家の支配下にあった時代もしくはそれ以前においては、同地周辺の戦でたくさんの兵士や住人が殺されたことは想像に難くない。なお、霊の目撃情報は、「鎧武者が崖の前に立っていた」「複数名の男女が崖を見つめていた」など。

清水磨崖仏はお寺や仏像と同じ役目(機能)を果たしている。仏像の彫刻が最も分かりやすいはず、木や鉛で造られたもののように立派ではないが、仏教徒たちはそれを仏として崇め奉ったのである。すなわち、同地に集まる霊たちは仏の思(おぼ)し召しを受け、成仏したいと考えているのだと思う。

神社やお寺は、鳥居やしめ縄などを使って神域に結界を張り、霊や現世に害をもたらす怨霊の侵入および外部への脱出を防止している。しかし、同地には結界を構成するものが一切なく、仏の思し召しを受けたい霊が勝手に集まってくるのだろう。夜になるとどこからともなくお経を読み上げる声が聞こえてくるという目撃証言も、仏教徒の霊が同地に集まり行ったものと考えれば合点がいく。

仏像やそれに関連する彫刻には仏が宿っている。霊たちは安寧の地を求め、集まり、ここから別の世界に旅立つのかもしれない。怨みつらみを募らせ死んだ怨霊を成仏できるか否かは不明だが、仏の力が働いている以上、同地周辺で人間がそれらに攻撃される可能性は極めて低いと思う。

最後に、付近の住人曰わく、崖にいたずらしようとした男女数名が、壁に吸い込まれ行方不明になったことがあるらしい。戦前の話なので真偽は不明。ただし、壁に複数の男女がうめいているような刻印が残されており、内部に吸い込まれた者たちの「断末魔の叫び」と言い伝えられているようだ。

まとめ
清水磨崖仏は、お寺や仏像と同じ役目を果たす仏教遺跡である

崖に吸い込まれ苦悶の表情を浮かべる男女は、同地でいたずらしようとし、今の姿になったと言い伝えられている

基本情報
心霊スポット清水磨崖仏
(きよみずまがいぶつ)
所在地〒897-0202
鹿児島県南九州市川辺町清水
種別事故
危険度(10段階)★☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 1
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト南九州市 公式ホームページ

知覧城跡

南九州市知覧町は、「知覧特攻平和会館」や江戸時代の風情を今に残す「知覧武家屋敷群/通り」などで知られる観光地である。ここで紹介する『知覧城跡』は、室町時代から同地を治めた”佐多氏”が築城した知覧城の跡地、心霊の出没するスポットして有名である。

知覧城は江戸時代初期に原因不明の火災で焼失、徳川幕府による”一国一城令”発布前に事実上破却された、と言い伝えられている。なお、城主の佐多氏は島津家ゆかりの一族であり、長男のみ”島津姓”を名乗ることが許されていたという。

火災で焼失して以降、同地にはほとんど人の手が加えられておらず、当時の貴重な遺構がそのまま残されている。しかし、戦や火災などで命を落とした者たちにしてみれば、”ただ放置された”も同然であり、結果、心霊の登場を招く結果になってしまった。

同地で目撃される霊は、「両手に首を持った鎧武者」「串刺しにされた胴体と頭」など。島津家と佐多家は、九州を代表する戦上手と呼ばれ、当時は当たり前だった敵勢力の斬首、串刺し、干殺しなどを数えきれないほど行っている。

城およびその周辺で戦が行われることは日常茶飯事と言ってもよい。つまり、そこで殺された者、処刑された者、串刺しや干殺しにされた者たちは、佐竹家によって憤死させられたのである。憤死した者たちの怨霊化を防ぐ、攻撃から身を守るためには、神社や祠などを周囲に建立し、死者を慰めるもしくは封印する以外に手はない。

知覧城跡近くに死者を祀る施設はない。殺された者たちは川に打ち捨てられたり、大きな穴にまとめて埋められたりしたのだろう。死者を供養せずゴミのように扱った結果、知覧城跡周辺は怨霊のホットスポットになった。

日中でも薄暗い雑木林に入ると、鎧武者に追いかけられたり、生首が林道に転がっていたりする。また、近くの住宅街でも霊の目撃情報が多数寄せられており、それらを抑えるために建立されたと”思われる”「知覧伊勢神宮」も力不足感は否めない。

私は思い切って夜間探索を実行したが、正直おすすめしない。雑木林内から漂う禍々しい気配に圧倒され、本丸までたどり着くことはおろか、エリアに入った瞬間、刀を持った鎧武者に遭遇し、命からがら引き返したことを鮮明に覚えている。

憤死した怨霊を黙らす(抑える)には、それ相応の供養が必要である。それを怠れば、怨霊の攻撃(呪い)に屈し、天災や疫病、一族の崩壊(取りつぶし)などを招くだろう。

まとめ
知覧城跡は国の史跡(1994年指定)兼怨霊のホットスポットである

鎧武者の霊や生首の目撃情報多数。訪れる際は、それ相応の覚悟が必要である

基本情報
心霊スポット知覧城跡
(ちらんじょうあと)
所在地〒897-0303
鹿児島県南九州市知覧町永里
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間5分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約45分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト南九州市 公式ホームページ

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長野滝

薩摩川内市の山中に形成された『長野滝(ながのたき)』は、2018年に公開されたNHK大河ドラマ「西郷どん」のロケ地として利用され、一躍有名観光スポットになったが、同地に残る怨霊伝説を知っている方は意外と少ない。

同滝は、手前約50m地点まで林道が続いており、車でも簡単に立ち入れるスポットであることから、今でも多くの観光客に支持されている。しかし、同市入来町に住む友人曰く、「江戸時代以前、滝周辺は斬首や死体の遺棄場所として知られ、血に染まった刀を滝つぼで洗う者が後を絶たなかった」という。

この話は古くから言い伝えられてきた伝承であり、真偽はもちろん不明である。しかし、河原や滝には水があり、処刑後の処理(手や刀などを洗う)に手間取らず、かつ、死体を遺棄すれば生物のエサになることは重々承知されていた。当時は至って普通のことであり、長野滝周辺で処刑や遺棄が行われていたとしても、特段驚くようなことではないだろう。

また、薩摩川内市周辺に根深く残る”同和問題”の不気味な伝説も残されている。なお、同地が部落地区であるという事実はない。不当な扱いを受けた者が、怨みつらみを残し、滝つぼに身を投げ自殺した、という作り話のような伝説が一部地域で語り継がれているらしい。ただし、この話も真偽は不明である。

滝へと続く林道は薄暗く、楽しい観光地には到底見えない。たまたま大河ドラマのロケ地に選ばれたことで注目を浴びることになったが、それ以前は人の出入りの少ない場所だったと友人は言う。なお、目撃された霊は、「首のない遺体」「滝つぼから女性が這い出てきた」など。

洞窟内部に形成された滝つぼと滝本体は非常に美しく、観光スポットになったことで、入来町の住民も喜んでいるそうだ。しかし、ここまで述べた話を知っている方であれば、同地に近づこうとは到底思わないはず。また、滝の北700mほどの地点に「山神神社」という小さな祠(ほこら)が建立されているものの、手入れは全くと言ってよいほど行き届いておらず、何が祀られているかも分からない有様である。

長野滝周辺が処刑場だったという伝説は、首のない遺体の霊が目撃されていることから、悪い冗談ではないと私は思う。死体の遺棄についても同様。滝つぼから這い出てきた女性の霊は、身投げした者と考えるべきだろう。いずれにしても、同滝周辺が霊の出現スポットになっていることは確かである。

まとめ
長野滝は大河ドラマのロケ地である一方、危険な伝説の残る心霊スポットでもある

滝周辺が処刑場に使われていたケースは決して珍しくない

基本情報
心霊スポット長野滝
(ながのたき)
所在地〒895-1402
鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
鹿児島空港から車で約40分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約45分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト薩摩川内観光物産ガイド 公式ホームページ

諏訪神社

諏訪神社』は日本神話の神、「タケミナカタ」を御祭神とする神社である。日本全国に同じ名の社が25,000以上建立されているため、足を運んだことのある方も多いのではないだろうか。同社は薩摩川内市内にも複数存在し、その中の一カ所が危険な心霊スポットとして注目されるようになった。

タケミナカタの父「大国主(オオクニヌシ)」は、日本最強の怨霊と言われている。理由は、この日本神話に登場する神が、国内最大かつ最古の歴史を誇る「出雲大社」の御祭神として丁重に”封印”されているためだ。

大国主は、天皇家の祖である主神「天照大神」から現世の神としての地位を奪われ、冥界に追放。その後、現世で発生した天災、疫病、戦争などは、全て”大怨霊”になった大国主の呪いと恐れられ、天照大神を祀る「伊勢神宮」より巨大かつ荘厳な出雲大社が創建。怒れる大怨霊大国主を祀った(封印した)。

タケミナカタは父の国譲りに反対したことで知られる。すなわち、現世の主神、天照大神を怨みに怨んでいるのである。怒れる神を祀る神社に霊が出没するのは当然と言えば当然かもしれない。ただし、御祭神の祀られている本堂には結界が張られており、タケミナカタは外に出れないはず。

薩摩川内市東郷町の諏訪神社に出没する霊は、タケミナカタの怒りに呼応した怨霊と、同地横を流れる「樋渡川(ひわたしがわ)」が島津家の処刑場として使われていたため、と私は信じている。なお処刑場の話は付近住人から教えていただいた情報であり、恐らく間違いないと思う。

さらに、東郷町の諏訪神社の入り口に建立された”並列鳥居”が事態を悪化させた。なぜ、わざわざ入り口(鳥居)を二つ設ける必要があったのか。理由は定かではないが、これは無駄以外の何ものでもない。伊勢神宮、出雲神宮、明治神宮の鳥居はどれも単独で立っている。すなわち、並列にしなくとも結界を張ることはできるのだ。

私は並列鳥居を建立した他の神社でも、おどろおどろしい怨霊に遭遇している。根拠はないのだが、鳥居を二つ並べることで結界の力が弱まり、ひとつは神域(境内)への入り口、もう一つは外界への出口になってしまったのではないだろうか。

同神社で目撃された霊は、「首のない鎧武者」「宙を舞う生首」など。怒れるタケミナカタを祀り、並列鳥居という意味不明な入り口が設置された結果、近くの処刑場で斬首された者の霊が境内に紛れ込んだと考えるべきだろう。

最後に、同地周辺で生まれ育った友人曰く、「ここは、かつて女性を連れ込み輪姦するスポットと噂された。これは御祭神と町に対する冒とく、犯罪行為であり、絶対に許されない」と鼻息を荒くしながら説明してくれた。事実でないことを願うが、もし事実であれば、罪に問われるだけでなく、タケミナカタや霊の怒りを買うことになるだろう。

まとめ
東郷町の諏訪神社は、日本神話の神、タケミナカタを祀る心霊スポット

樋渡川が島津家の処刑場だったという証拠は残されていない。しかし、神社に出没する生首の霊などが、それを事実と物語っているように思える

基本情報
心霊スポット諏訪神社
(すわじんじゃ)
所在地〒895-1106
鹿児島県薩摩川内市東郷町斧渕6417-6
種別怨霊
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間10分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト諏訪神社の田の神

阿久根市目次に戻る

黒神岩

阿久根市中部、東シナ海から1kmほど離れた内地に『黒神岩(くろかみいわ)』はある。これは「阿久根市七不思議」のひとつに数えられる不思議な岩礁群で、地面から本体の一部が飛び出しており、ひとつ当たりの大きさは直径数メートル、重量数10トン、と推察されている。

黒神岩の表面および本体の一部には貝が付着している。同地周辺はもともと海だった可能性が高く、大陸移動や隆起などによって現在の土地形状が確立されたと考えられているようだ。なお、岩を囲うように「黒神岩緑地公園」が整備され、今では市民の憩いの場になっている。

同公園および黒神岩の周辺は知る人ぞ知る心霊スポットであるが、霊が現れるようになった経緯を知る者は意外と少ない。第二次世界大戦末期、鹿児島県には陸海軍基地およびそれに関連する施設が各地に配置されていた。それらを破壊したいアメリカ軍は猛烈な「空爆攻撃」を仕掛け、同市も焼け野原になったという。

黒神岩の周辺は運よく爆撃を免れた。その後、この岩には海の神様が宿っていると噂になり、大切に保存されたのである。しかし、一部の住民は黒神岩に関する恐ろしい伝説がはるか昔から言い伝えられていることを知っていた。

南北朝時代、同岩周辺には何もなく、現在の公園北を流れる「高松川」からの水によって、湿地帯が形成されていたという。この周辺一帯は盗賊(野武士、落ち武者など)の拠点だったらしく、付近を通過する行商人、武士、女子供を狙った悪逆非道な行為が幾度となく繰り返された。

盗賊たちは捕まえた者の身ぐるみを剥がし、容赦なく切り捨て、遺体は全て湿地帯に遺棄。それに群がるカラスや野犬を捕縛し、食料にしたという。さらに、飢饉が発生した際は、捕まえた者を食料とする”カニバリズム”まで横行、人肉を喰らう盗賊たちは悪鬼と恐れられた。

ある日、盗賊たちは忽然と姿を消し、湿地帯に静けさが戻った。人々は人道に背いた食人行為が神の怒りに触れたと噂したが、理由は結局分からずじまい。その後、同地周辺には田んぼと集落が形成され、かつての恐ろしい記憶は徐々に風化したという。

当時、黒神岩は田んぼから少し頭を出す程度の小さな岩礁に過ぎなかった。しかし、わずか数カ月で新しい岩が地面から隆起、その表面には苦悶の表情を浮かべる男たちの顔が刻印されていた。これを見た集落の人々は、悪逆の限りを尽くした盗賊たちの成れの果てと恐れ、岩の表面を砕き破壊したという。

真偽不明の言い伝えを証明することはできない。しかし今でも、「黒神岩周辺から複数の男のうめき声が聞こえた」「岩の表面から顔と手が這い出してきた」という心霊の目撃情報が多数寄せられている。

まとめ
黒髪岩は人道に背いた盗賊たちを飲み込み、巨大化したと言い伝えられている

同地周辺は有名な心霊スポット。しかし、霊が現れるようになった経緯を知る者は少ない

基本情報
心霊スポット黒神岩
(くろかわいわ)
所在地〒899-1625
鹿児島県阿久根市波留
種別事故
危険度(10段階)★★☆☆☆☆☆☆☆☆ 2
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間25分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間15分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト阿久根市観光サイト 公式ホームページ
画像はイメージです

菅原神社

菅原道真(すがわらのみちざね)」は、学問の神様としてあまりに有名である。福岡県太宰府市の「太宰府天満宮」を筆頭に、道真公を祀る神社は日本各地に建立されている。

道真公は日本を代表する「三大怨霊」のひとりである。その怨みつらみは「海より深く山より高い」と恐れられ、公の死後に起きた天災、飢饉、天皇の死などは、全て怨霊の呪いと噂された。そしてこれを恐れた天皇、公家、大名たちは”無実の罪を着せられ憤死した”道真公を神と崇め、太政大臣(現在の総理大臣)に任命、その怒りを抑えるべく、神社に祀った(封印した)のである。

阿久根市波留に建立された『菅原神社』は、大怨霊道真公を祀る神社であり、「数多の怨霊が住み着く場所」と言い伝えられている。なお、道真公の墓所でもある太宰府天満宮から同地は、直線距離で約200km離れている。

同神社に現れる霊たちは、道真公の怒りによって憤死した者たちと”考えられていた”。戦国時代末期、この付近一帯は荒れに荒れ、人がまともに住めるような状況ではなかったという。しかし、江戸時代に入り、九州一帯を治めた島津家のおかげで治安は徐々に回復、集落が形成された。

それから約300年後、同神社の歴史は後世に語り継がれず、残念なことに手入れも行き届いていなかった、と近くに住む老婆が教えてくれた。しかし、ある出来事が事態を一変させたという。第二次世界大戦末期、同神社に避難した数十名が忽然と姿を消し、行方不明になったのである。

理由は分からずじまいだった。空爆で死亡したと考えられたが、同神社は大規模な被害を免れたらしい。住人たちは「神隠し」「神社を放置したため、道真公の怒りに触れた」と噂し、今では鳥居、石段、境内、本堂ともピカピカの状態を維持している。

この情報を教えてくれた老婆は、終戦直後に同神社を参拝し、境内に遺棄されたバラバラ遺体(人数は不明)と地面に突き刺さった生首を目撃したという。老婆はその場で卒倒し、住人に助けられ何とか難を逃れたそうだが、遺体は発見されなかった。

大怨霊道真が神社に避難した数十名の住人を手にかけたか否かはもちろん不明である。ただし、同神社が”いわく付き”の施設であることは間違いない。私は空襲で死亡した者たちの霊が道真公の元に集まったと信じたい。大怨霊になったとはいえ、学問の神様として愛される伝説の偉人が、何の怨みもない一般人を手にかけるとは到底考えられないためだ。

しかし、真偽を確認する手立てはない。なお、最近目撃された霊は「バラバラの遺体」「宙を舞う人魂」「地を這うように移動する人間とおぼしき物体」など。

まとめ
阿久根市の菅原神社は、知る人ぞ知る恐怖の心霊スポット

大怨霊道真が神隠しを行った、と証明する手立てはない。しかし、同地が”いわく付き”であることは間違いないと思う

基本情報
心霊スポット菅原神社
(すがわらじんじゃ)
所在地〒899-1625
鹿児島県阿久根市波留
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間25分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間15分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト鹿児島県神社庁 公式ホームページ
画像はイメージです

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薩州島津家の墓

島津家の分家として誕生した「薩州家(さっしゅうけ)」は、室町時代に薩摩国北西部(現鹿児島県出水市付近)一帯を支配したとされる。しかし、度重なる戦や相続争いなどによって徐々に力を失い、「伊作(いざく)家」との闘いに敗れてしまう。

伊作家への従属以降も”お家(家系)”が取り壊されることはなかった。その後、戦国時代の覇者「豊臣秀吉」の九州平定(征伐)の際は真っ先に降伏した。しかし、「文禄・慶長の役(朝鮮侵略)」において、秀吉の怒りを買い改易(領主や身分などを奪うこと)、薩州家は断絶した。

ここで紹介する『薩州島津家の墓』は、約200年続いた薩州家歴代当主を祀った墓所であり、恐怖の心霊スポットと恐れられている。目撃された霊は「刀を構えた鎧武者」「首のない馬に乗る騎兵」など。同地に霊が出没する理由は非常に分かりやすい。太閤秀吉に断絶させられ、怨みを抱いていたためだ。

薩州家を含む島津家の怨みは、秀吉と江戸幕府の創始者であり、領土の一部を没収した「徳川家康」に向けられた。この怨みは脈々と受けつがれ、明治維新として大爆発、江戸幕府は滅亡し、見事復讐を果たした。しかし、薩州島津家の墓はその後放置されてしまい、これに怒った怨霊たちが同地に不幸を招いたという。

明治時代以降に同地を襲った水害、凶作、天災は怨霊になった薩州家当主が招いたと恐れられ、墓所は丁重に供養された。しかし時代は移り変わり、再び墓所は荒れた。そして戦後、同地周辺で奇怪な現象が幾度となく確認されるようになった。

近所の住人曰わく、「墓所をたまり場にしていた高校生の自宅が焼け、死者が出た。また、バイクに乗った高校生が田んぼの溝に落ちたものの、遺体はどこかに流された発見されなかった」とのこと。その後、墓所周辺で「焼け焦げた人間」「水死体になりブクブクに膨れ上がった男子」の霊が目撃され、住人達は震え上がった。

事故の記録を調べてみたが、いずれも40年以上前のことであり、確認することはできなかった。さらに、事故自体をタブー視する方が多かったらしく、結果、その事実はほとんど継承されず風化してしまったようだ。

残念なことに、事故死した高校生と思われる霊は現在も出現する。薩州家の呪いによって”がんじがらめ”にされたのか、それとも、現世に悔いを残し成仏できずにいるのか。

墓所の手入れと供養を怠ってはいけない。憤死した者の墓であればなおさらである。彼らの怨みつらみを放置せず、神社や祠を建立できればベスト。それが無理であれば、町ぐるみで墓所を手入れし、綺麗に保つことが大切だと思う。

まとめ
薩州家は太閤秀吉の怒りに触れ、断絶。その怨みは明治維新として大爆発した

怨みつらみを残して死んだ者の墓所を放置してはいけない。記憶を継承し、大切に供養することが大切だ

基本情報
心霊スポット薩州島津家の墓
(さっしゅうしまづけのはか)
所在地〒899-0215
鹿児島県出水市武本2893
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★☆☆☆☆ 6
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間10分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間35分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト出水ナビ 公式ホームページ

境橋

境橋(さかいばし)』は、鹿児島県出水市坂町(さかいちょう)と熊本県水俣市との”県境”を流れる「境川」に架橋された石橋である。架橋年は1883年、明治政府発令の”廃藩置県”により藩制度が廃止、地域間の人の往来を容易にすべく、架橋に至った。

明治時代以前、藩をまたぐ移動は所定の手続きを踏まねばならず、それらを無視する「脱藩」は死刑に処されることがほとんどだった。藩境(県境)に橋を設置すれば移動が容易になり、脱藩につながる。つまり、藩境に橋を架橋することは危険な行為だったのだ。しかし、橋がなくても脱藩は幾度となく繰り返され、巡回に叩き切られる、という事件が後を絶たなかったという。

さらに、境川は隣国肥後藩との境目、敵国の侵入者を”さらす”場所にピッタリだった。水と河原があれば、その場で斬首してもすぐ血を洗い流すことができる。結果、同地周辺では競うように公開処刑が行われた。これは、当時の日本では当たり前のことであり、誰もが斬首の瞬間をエンターテイメントとして楽しんだ。

同地の歴史に詳しい方から伺ったところ、串刺し、さらし首は日常茶飯事、10人以上を切り捨てると、川の水が真っ赤に染まり、拍手喝采だったという。また、遺体は川に打ち捨てられるか、その場に穴を掘り埋められるかの二択。そして、いずれの場合も供養されることはなかった

当時、処刑された犯罪者であれば、その遺体はゴミのように捨てるべし、という風潮があり、怨霊を生み出す元凶になった。死をもって罪を償い、さらに魂の抜けた遺体まで辱めを受ければ、死人も黙ってはいない。

境橋周辺で目撃された現象は、「河原に並ぶ生首」「山積みになった白骨遺体」など。近くに神社や祠(ほこら)を建立し、処刑された者に哀悼の意を表せば、怨霊化はある程度防げたかもしれない。しかし、周辺に整備されたのは、道路、鉄橋、住宅や田畑だけだ。

同地が処刑場だったという記録は忘れ去られた。しかし、境橋が架橋されて以降も怨霊は同地に住み着き、いくつもの不幸を招いたという。付近住人の方曰わく、「境川で遊ぶことは禁忌とされた。死人に足をつかまれ引きずり込まれる、突然水位が上昇し溺死する、川が赤く染まり水面から首のない者たちが現れるなど、奇怪な事件が相次ぎ、同地周辺に住む者は少なくなった」とのこと。

住人から聞いた話は、いずれもまゆつば物の伝説だと思う。しかし、同地が処刑場であったこと、遺体を打ち捨て供養すらしなかったこと、周辺に死者を供養する神社や祠などがないことを勘案すると、何かしらの不幸に見舞われるのは当然かもしれない。

まとめ
出水市と水俣市の県境に位置する境橋周辺は、処刑場だった

処刑された者の遺体を打ち捨てれば、怨霊化を招く。いかなる理由があろうと、死者は供養されるべき

基本情報
心霊スポット境橋
(さかいばし)
所在地〒899-0122
鹿児島県出水市境町
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★☆☆☆☆☆ 5
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間30分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間55分
※クリックでGoogle map起動
関連サイト出水市観光ポータルサイト

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永野金山跡

江戸時代、薩摩藩島津家は約70万石の大大名として九州に君臨した。天下分け目の「関ヶ原合戦」において、その底知れぬ力を徳川家康に見せつけ、九州の主として認められたのである。

ここで紹介する『永野(ながの)金山跡』は、薩摩郡さつま町の山中で発見された「永野金山(長野金山ともいう)」の跡地である。1640年頃に発見され、閉山までの間に28.4トン(1兆3,000億円相当)もの金を採掘した。なお、所有者はもちろん薩摩藩である。

記録によると、同金山に集まった作業員は20,000人~25,000人以上、町は空前のゴールドラッシュに沸いた。しかし、採掘許可を出した江戸幕府は、わずか1年でこれを停止する。理由は薩摩藩の強大化を恐れたことと、西日本を中心に甚大な被害を出した「寛永の大飢饉」が影響したためである。

紆余曲折の後、採掘は再開され、薩摩藩は大いに潤った。しかし、”一山当てたい”と安易に考える作業員の増加などが影響し、事故や不正も頻発したという。落盤事故、作業員間の小競り合い、金の奪い合いなどによって、永野金山はギスギスした雰囲気に包まれてしまった。

現在、同金山入り口は完全に閉鎖され、施設の一部を一般開放、観光スポットになった。しかし、同地の住民は、そこが心霊スポットだと知っているため、積極的に近づく者は少ないという。目撃された現象は、「金山内部から恐ろしい数の人間が出てきた」「斧を持った男性が周辺をうろついている」など。

記録は残されていないが、同金山で落盤事故があったことはまず間違いないと思う。現代の掘削工法(シールドやケーシングなど)は作業員の安全を最優先に考えているが、当時は鍬(くわ)などを使った”手掘り”が主流である。穴の周囲をしっかり固めても、地震や大雨で地盤が緩めば高い確率で崩壊するはずだ。

明治時代に入ると、海外から取り入れた技術などによって、掘削事故は大幅に減少したという。周辺で目撃される霊は、それ以前に何らかの理由で命を落とした者たちかもしれない。

付近に住む老婆からお話を伺ったところ、「昭和50年代になると、跡地は不良少年たちのたまり場になり、入り口のフェンスは破壊され、絶好の遊び場になった。ある日、金山周辺で少女二人が姿を消し大騒ぎになったが、結局発見されずじまいだった」という。

既に述べた通り、同金山内部への入り口はフェンスでしっかり閉鎖され、立ち入れない。しかし、そこから出てくる霊の目撃情報は絶えず、さらに、制服姿の少女を見た、という話も出ているそうだ。

まとめ
永野金山跡は、薩摩藩の歴史を後世に伝える貴重な史跡である

霊の目撃情報多数。掘削事故や少女行方不明事件が関連しているかもしれない

基本情報
心霊スポット永野金山跡
(ながのきんざんあと)
所在地〒895-2203
鹿児島県薩摩郡さつま町永野
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
鹿児島空港から車で約25分
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②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間15分
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関連サイトさつま町 公式ホームページ

首塚

薩摩郡さつま町鶴田にある『首塚』は、正真正銘、紛うことなき怨霊スポットである。「周辺一帯に生首が転がっていた」「生首を両手に持った鎧武者に追いかけられた」など、おどろおどろしい目撃情報が多数寄せられており、むやみやたらに近づいてはいけない、と恐れられるようになった。

首塚とは、戦における戦利品として集めた首や、「首実検(討ち取った者を特定する)」で集まったそれを埋葬供養した地である。なお、斬首刑に処された者の首が埋葬されることもある。”共同墓地”と考えていただければよいが、首しか埋葬されていないこともある、と覚えておこう。

さつま町鶴田の首塚周辺では、「鶴田合戦(1401年)」と呼ばれる数千人規模の軍勢による戦が繰り広げられた。この戦いで命を落とした者は、数百から一千人ほどと言い伝えられており、敗れた国主および兵士は死んだ仲間たちを捨て、同地を去った。

戦に勝利した者たちは、敵国(藩)の兵士の首を切り落とし、ことごとくさらし首にした。当時の詳細な情報を記した書物は残されていないが、伝承によると、数百体の首なし遺体を大きな穴に打ち捨て、動物や虫のエサにした。さらに、同地を囲うように流れる「前川」の川岸を串刺し場とし、骨だけになった時点で川に打ち捨てたという。

同地の首塚には、高さ1.5mほどの供養塔が建立されている。これは、戦後に僧侶たちが建てたものと考えられているが、詳細は不明である。残念なことに、この供養塔だけで霊を抑えることはできなかった。殺された数百人は首を切り取られ、遺体をぞんざいに扱われ、怒れる怨霊になったのである。

周辺住人にお話を伺うと、「首塚周辺は呪われており、家を建てることは自殺行為に等しい。また周辺を田畑として使用しているが、霊の出没が後を絶たず、後継者たちは皆逃げてしまう」と頭を抱えていた。

第二次世界大戦末期、同地もアメリカ軍による空爆の被害を受けたが、首塚および前川周辺は被害を免れ、今も当時の姿をそのまま残している。住人の老婆曰わく、「首塚の周りに落ちた10発以上の爆弾はひとつも爆発せず、地面に突き刺さっていた。日本軍は不発弾だと言ったが、住人たちは皆、首塚の怨霊たちが自分の首を守るためにやったと信じていた」とのこと。

首塚は日本各地にある。規模は、立派なものからそうでないものまで様々だ。ひとつハッキリしていることは、数百、数千の魂を弔う以上、それに見合ったものを建立し、憤死したであろう者たちに敬意を表さねばならない。中途半端な供養で斬首された者たちが納得すると思ったら大間違いである。

まとめ
さつま町鶴田の首塚は、霊の目撃情報が後を絶たない恐怖の怨霊スポットである

斬首され遺体をぞんざいに扱われた死者たちは、怒れる怨霊になった

基本情報
心霊スポット首塚
(くびづか)
所在地〒895-2101
鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田
種別怨霊
危険度(10段階)★★★★★★★☆☆☆ 7
①アクセス
鹿児島空港から車で約40分
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鹿児島中央駅から車で約1時間15分
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関連サイトさつま町 公式ホームページ
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長崎鼻灯台

薩摩半島北西部「長島」に設置された『長崎鼻(ながさきばな)灯台』は、東シナ海に沈む美しい夕日が人気のデートスポットである。確かに同地から一望できる海と夕日は大変美しい。しかし、400年ほど前に起きた大事件と、そこに住み着く霊のこともしっかり理解したうえで、足を運んでいただきたいと思う。

長島には隠れキリシタンの一部が潜伏していた、という事実を知っている方は意外に少ないそうだ。私も長島町に住む友人から教えてもらうまで全く知らなかった。2万人以上のキリシタンが憤死した「島原天草の乱(1637年)」とそれに関連する掃討戦は、長島の北に位置する南島原市や天草市(いずれも長崎県)周辺で勃発した。

生き永らえたキリシタンたちは九州各地に分散、逃亡した。長島に身を隠した者の詳細な数は分かっていないが、数十から数百人がキリシタンであることを隠し、生活したと言い伝えられている。しかし、幕府軍の追っ手に捕まり、処刑された者も少なくなかった。

長崎鼻灯台周辺に民家はない。友人が祖父から聞いた話によると、「灯台奥の崖は、多くのキリシタンが身を投げ、命を絶った場所である。また、幕府軍に捕まった者たちはそこで処刑され、海に遺棄された。この話が脈々と受け継がれた結果、周辺に民家は建てる者は現れなかった。ただし、新しい生命を生み出す田畑は良いとされ、収穫物をお供えする習わしもあったらしいが、それを知る者は皆亡くなってしまった」という。

同灯台付近は霊の出現スポットであり、数多くの目撃情報が寄せられている。「男女数名が崖から飛び降りた」「灯台周辺に遺体が打ち捨てられていた」など、迫害されたキリシタンを連想させる霊が昼夜を問わず現れるようだ。

同灯台は、航海の安全を守る施設(目印)として1897年に設置された。また同時に、海の安全を祈念する、という想いも込められている。しかし、神社や祠(ほこら)のように、特定の対象を供養するというものではなく、結果、同地で命を絶った者たちが出没するようになったのだろう。

「景色が良いからデートにピッタリ」「ラブラブ💛スポット」などの明るく楽しい情報が流れる理由は、そこに隠された事件や悲劇を隠すため、と理解した方がよい。私も以前は「水に流せば全てOK」と勝手に思っていたが、罪を着せられ処刑された者や、信仰の自由を奪われ憤死した者たちは絶対に納得しない。

まとめ
長崎鼻灯台奥の崖は、隠れキリシタンが命を絶った場所である

同地で起きた悲劇は忘れ去られつつある。記憶を伝承し、かつ、隠れキリシタンを供養することが大切だ

基本情報
心霊スポット長崎鼻灯台
(ながさきばなとうだい)
所在地〒899-1304
鹿児島県出水郡長島町城川内
種別事故
危険度(10段階)★★★☆☆☆☆☆☆☆ 3
①アクセス
鹿児島空港から車で約1時間45分
※クリックでGoogle map起動
②アクセス
鹿児島中央駅から車で約1時間45分
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関連サイト長島町 公式ホームページ

日本マンダリンセンター

出水郡長島町は”温州みかん”発祥の地とされ、同